2008/01/25

見えるものは見えないものから

解析概論(1.11)連続関数の性質

 連続な関数の性質として、ここに挙げられているものには、まず多少有名な中間値の定理がある。これは、連続な関数すなわち連続な写像によれば、連続なものは連続なものに移されるということであり、曲線の途中点は、この写像により移された曲線のやはり途中点に移されることを言うのである。しかし、元の曲線における最大値と最小値は、移される先の曲線においては、必ずしも最大値、最小値に対応していないかもしれない。というのは、写像により曲線が回転や変形してしまうかもしれないから。しかし、それでも連続ということは言えるので、移った先の曲線には、最大点と最小点が存在することだけは言えるのである。それから最後に、数列の場合と同様に、移った先の曲線上のどんなに短い区間にも元の曲線の対応する区間が見つけられるということであり、しかも長さにおいては、移された先の曲線上において縮められたところや引き延ばされた部分があるであろうが、例えばどこかを1cm切り取ると、どこを切るかによって、それに対応する元の曲線上の長さは様々に変わるであろうが、それでもこれ以上には長くはないと言える限界があるのであり、この性質を連続の一様性という。これらが連続関数の性質である。
 聖書には、見えるものは見えないものから出来たと書かれている。この見えないものとは、天にある雛形のことである。そして、私たちはまだその雛形を見たことがない。それが私たちの住むこの世界の物事とどの程度共通する部分があるものなのか、私たちがこの地上を去って天の住まいに行くとき、そこで安らぎを見いだせるものなのだろうか。しかし、このことに関しては、私たちは希望を持つことができる。それは天の雛形は、神の御旨の連続関数によりこの世界に焦点を結んでいるのであり、この世界は天の雛形に良く似ているはずだからである。イエス様も、私の父の家には住まいがたくさんあると言われた。それは、私たちを当惑させるような住まいではなく、安らぎを与える住まいなのである。私たちが神を讃美するとき、神はご栄光を受けられるし、私たちがこの世界で神に従って福音を宣べ伝えたことにより誰かが主イエスを信じたなら、天に大きな喜びが湧き起こる。私たちが毎週、教会で神を礼拝するとき、天においても無数の聖徒たちが時を同じくして、神を礼拝をしているのである。私たちが住むこの世界と天は、かくつながっているのである。

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御旨の連続性

解析概論(1.10)連続関数

 連続関数とは、独立変数xが連続的に変化するとき、それに対応して従属変数y=f(x)もまた連続的に、すなわち値の変化に断絶がなく、なめらかに変化するような関数のことである。
 さて、関数はこの世界の諸現象を記述するものである。それは、原因に対して結果を対応させるものであり、この世界のすべての物は他の物を原因とする結果なのである。しからばそのとき、関数が連続であるとはどういうことか。それは、結果としての現象の観測からその原因を推定、検証し、そのようなことにより、次なる良い結果を得るための対策を取ることができる可能性が確保されていることである。もちろん関数自体が確定できれば、たとえそれが不連続であろうとも、結果は予測可能である。しかし式が与えられていなくとも連続性が保証されていれば、結果は突拍子のないものとはならないのである。
 しかし問題は、この世界の現象には、時として突然不連続な結果が起こることである。いままでの人生の順調が今後もしばらくは続くと思っていた矢先に、それを覆すようなことが起こってくる。運命の定式を知ることを許されていない私たちにとって、そのような危機への遭遇は、時には死活問題ともなり得るのである。そして、現代を生きる私たちがそれらに対処し得る完全な方法は存在しないかのように思われる。このような現実は、私たちの人格にダメージを与え、その存在意義、すなわち人生の目的を見失わせるに十分かもしれない。
 しかし、ここに一つの完全な連続関数が存在する。それは、神の御心を私たちの人生に投影するものである。この関数の作り主は、決して私たちを裏切ることがなく、私たちを落胆させることもなく、気まぐれでもない。私たちは、この方に対して確信を持つことができる。私たちの人生にこの方のご計画が実現し、神の栄光が表されるのを私たちは期待しつつ待つことができるのであり、その実現に私たち自身も参与できるのである。

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2008/01/23

回転の陰

解析概論(1.9)連続的変数に関する極限

 この世界は、理論的には連続なものに思えるのだが、私たちにとっては必ずしもそうでない部分も多々ある。例えば、昼と夜は、現象としては連続しているのだが、私たちは眠らなければならないため、朝が昨日の不連続な延長として意識される。これはある意味では救いでもある。この断絶による若干の忘却から力を得ている部分もあるように思えるからである。
 さて聖書は、これらのことを「回転の陰」(ヤコブ1:17)と言い表している。この世界の物の動きは、すべて質量という不動性の原初における個体間の差(創造のご計画)から生じてくるのであり、神の摂理である。それらは、本来連続的なものではあるが、回転の陰により、私たちはそれらを不連続なものと受け取らざるを得ない。そしてその影響を受けて、私たちの意識も不連続なものとなる。
 関数は、数列の定義域である自然数を実数にまで拡張したものである。そこで私たちは、関数という連続なものを分析するときは、数列を使うのが考えやすい。まず自然数の範囲で考察、検証を行い、その結果をもって連続的な写像としての関数に理論を拡張するのである。
 このことは、「小さなことに忠実な者は、大きなことにも対処できる」とキリストが言われた言葉に対応する。私たちは、私たちの肉体的、精神的、環境的な制限の中で生活し、神に従っている。しかし、その与えられた制限の中で、聖霊の導きにより神に従うことにより、その奉仕は信仰の業となり、神の御旨に完全にかなったものになり得るのである。

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2008/01/22

関数

解析概論(1.8)

 関数とは、ある値xに応じて他の値yが一意に決定されるような仕組みである。このとき、yはxの関数であると言う。これまでに出てきたことを例にとると、有利数aは、二つの整数b、cの演算の結果であったから、有利数は、2つの整数の関数である。また、数列は自然数を独立変数とする関数であり、誕生という出来事を通して不連続的に現出する存在とそれが誘発する現象の綜合である。しかし、誕生の準備は、人の場合には、誕生の前10ヶ月に渡って遂行されていたのであり、その連続性は関数本来の性質に帰属する。つまり、数列の漸化式からその一般項を求めることは、数列から関数へ、つまり不連続から連続へのアプローチであり、不連続に見える現象の背後で起こっていることの探求なのである。
 このように関数は、数列のように次世代を表す漸化式を持たず、つねに一般形で表される。というのは、関数の特徴は、その連続性にあるからである。これにより、この世界における現象を詳細に分析する可能性が生まれる。この世界の諸現象はそれぞれ、ある異なる出来事に端を発する結果として解釈することができる。つまりこの世界の緒現象は、また他のある現象を誘発する原因でもあるのである。そして、この世界は、見えるものの他に見えないものからも成り立っているのであり、見えるものは見えないものから出てきたと聖書に書かれている。関数について勉強することは、この世界の因果関係とその連続性に着目し、その背後にある神の御業の遂行に関わることなのである。

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2008/01/18

集積点

解析概論(1.7)

 集積点とは、その周りに、ある集合の点が無数に群れをなしているような点のことであり、有界な無限集合には、そのような集積点が必ず存在するというのがWeierstrassの定理である。そのような意味で、イエス・キリストは教会の集積点である。それと共に、彼はまた人類の集積点でもある。しかし、教会が主イエスの御体であるという意味で、ノンクリスチャンはキリストに属しておらず、キリストもノンクリスチャンに属してはおられない。しかし上の集積点の定義によると、それでもキリストは、ノンクリスチャンの集積点なのである。つまり、定義上集積点自体は、その周りに群れている点の集合に必ずしも属していなくて良いのであり、属している場合には、その集合を閉集合と呼ぶのである。
 そしてもう一つ、有名なHeine-Borelの被覆定理というものがある。それは、有界な集合は、必ず有限個の円で覆うことができるというものである。もちろん有界な集合であるから、一つの円ですっぽりと覆うことはできる。しかし、ここで問題にしているのは、対象の集合が恐ろしく複雑なもので、それを覆うために無限個の円が想定できそうな場合である。しかしその場合でも、この定理によれば、それら無限個の円のうちから有限個を選んで集合全体を覆うことができるのである。
 この地球という有限な世界の上で、歴史を通じて無数の人が生活してきた。そして、それらの人生一つ一つが十分な重さをもっている。それらを覆う、すなわち幸福にするには、無数の円すなわち人生設計が必要に思えるかも知れない。事実そのように人々は、自分だけのかけがえのない人生を追い求めている。しかし、人が幸福になるためには、実は多くのものは必要ではないのだ。神に創造されたあなた自身がすでにかけがえのない存在なのである。そして神が求めておられるのは、そのようなあなたの野心的な人生ではなく、実にあなた自身なのである。だから、あなたは人生に多くを求める必要はない。あなた自身を神に捧げることにより、あなたの人生を神のすばらしい恵みが覆うようになる。それは、驚くべきことに、あなたの掌に乗るほどコンパクトなものである。あなたにだけ、特別にその名前をお教えしよう。その名前は、「聖書」である。

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収束の条件Cauchyの判定法

解析概論(1.6)

 解析学では、現象を分析するときに数列を用いる。前述のように数列は、世代を表すから、この世界を世代すなわち歴史の結果と見ていることになる。そのようにこの世界の事物や現象は、広大な歴史が織りなす産物なのであり、それを説明するには、史観的なアプローチが求められるのである。
 ここで説明されているCauchyの定理は、前述の「有界な単調数列が収束し、極限値を持つ」という定理の前提条件をさらに緩め、収束するためのぎりぎりの条件を提示するものである。それは、「有界」という、「自己とこの世界の関係」による定義ではなく、むしろ「自己自身のみによる判定」を可能とするものである。すなわち、今日の自己と明日の自己、今週の自分と来週の自分、あるいは今年の私と来年の私の間の違いつまり差が単調に小さくなって行くなら、その数列は収束し、極限値を持つのである。
 しかし、この世界と自己との関係を見ていないことから、それは、必ずしも一点に収束するとは限らない。一生、つまりこの場合は永遠にある幅の範囲をを揺れ動き続けるということもあり得るのである。その場合、その揺れ動く上限を数列の上極限、下限を下極限と呼ぶ。そして、これら二つの極限が一致するときがその数列の収束するときであるとするのであり、これは前のものよりさらに一般的で美しい定義である。
 人の人生がこの世界と接点を持たなくなったとき、彼がいかに地道に努力を重ねたとしてもその人生が一つの結論に到達するとは限らない。つまり彼は、一生の間すなわち永遠に迷い続けるかも知れない。しかし、ここに一人の完全な人がいて、彼がその人に出会い、その人に自分の人生をゆだねるなら、二人の人生は互いに接近し、彼の人生は、ついに一つの意味のある点に到達することができるのである。

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2008/01/16

区間縮小法

解析概論(1.5)

 区間縮小法とは、二つの数列を両端として、無限に縮小して行く閉区間を想定すると、それは最後には、つまり無限の後には、実数上の1点となるという定理である。そのようにして、揺れながら、迷いながらも一つの到達点が、確かに確定できるというのである。そしてこの定理は、これまでこのテキストに説明されてきた他の3つの定理(「実数における切断の様相」、「有界な集合における上限、下限の存在」、「有界な単調数列が収束すること」)と同等のものであり、これら4つのうちの任意の1つから他の3つを導くことができるという。いずれにしても、今私は実数の神秘とその探求法について学んでいるのである。
 さて、実数とは何だろうか。それは、すでに述べたように、二つの自然数{つまり我と汝)の有限あるいは無限の演算(それは、世代という歴史的な概念も含む)つまり相互作用により生み出される結果である。そして、この区間縮小法とは、そのような無限の可能性が私たちの人生という有限な区間に投影されており、私たちがその自分に与えられた人生を神に従って一途に生きるなら、その生涯の中で、私は必ず一つの到達点、これこそ自分の人生の、つまり生まれてきた目的であると言えるものへ到達することができるということではないだろうか。

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2008/01/14

数列の極限

解析概論(1.4)

 数列は、世代を表す。最初に初代の数式があり、その第二世代、第三世代と経過して行く様を研究するのが数列の理論である。そして、この世代を数学では、nという単純な変数で表す。数列は、この世代変数nのみの関数であるゆえに、そこで表現され得る関数も、いかにも世代的なものとなる。その代表的なものはn乗という関数である。これは、初代の数字に世代を追うごとにある数が掛けられて行くものであり、したがって、そのある世代における計算結果は、(初代の数)×(ある数のn乗)ということになる。さらに複雑にしようと思えば、世代毎に掛ける数字にもnを含めて、(1ーn)や(1ー1/n)のようにすることもできる。
 複雑な数列も漸化式を使うことにより、単純に表すことができる。逆に、漸化式で単純に表すことができても、一般項は非常に複雑で、とても数式では表しえないことがある。これは、自然の摂理を見るようだ。単純な要因が、多くの世代に渡って繰りし働くことにより、非常に複雑なものになり、一つの細胞が何度も融合、分裂を繰り返すことにより、美しくも非常に複雑な体系が現されてくる。それは、まるでパイの皮を何度も折り曲げては伸ばし、さらに折り曲げるようなものだ。その結果、生み出されるフラクタルな形状は、この世界の特徴を備えている。
 この世界には、二つの複雑性がある。一つは、数と数の四則演算により生み出される複雑性であり、これは以前書いたように、無限の世界を有限の世界に投影する。そしてもう一つは、今取り扱っているところの世代という繰り返し演算が生み出す複雑性であり、これはフラクタルのような自己相似的な複雑性を創造する。
 神は、最初に人を男と女に創造し、「神が合わせられたものを人は離してはならない」と言われた。そして、アダムはエバとの間に、自分に似た子孫カインとアベルを生んだのであり、これら兄弟の間に最初の殺人事件が勃発する。聖書の提示する世代の数列は、二つの極限を持つ。一つは、振動しながら堕落し、影のような人生を歩む道。そしてもう一つは、揺れ動きながらも神に従い、まばゆい光の中を歩む道である。


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2008/01/12

数の集合・上限・下限

解析概論(1.3)

 上限とは、ある集合Aにおける上方の限界である一つの数aのことである。これは、集合Aそのものに属することもあるし、また属さないこともある。とにかく、Aはこの数aよりも大きくはなく、この数より小さくなったらAの内部に入ってしまうような数aのことなのである。そして、このような数が、自然数にも、整数にも、有理数にも、それらすべてを包含した概念であるところの実数にも想定されるのである。
 このようなことを考える目的は、有限の世界に無限の世界を投影するためである。例えば、自然数は0より大きく、無限に増加して行けるので、下方に対しては閉じており、1がその下限であるが、上方に対しては開いており、上限は存在しない。同様に整数は、上方にも下方にも開いており、上限も下限も存在しない。これらは、共に無限なる集合であるが、自然数は、整数の半分しかないかというとそうではない。なぜなら、0から始めて、0、1、ー1、2、ー2、3という具合にジグザグに訪問して行けば、すべての整数に自然数の背番号を付けることができる。つまり、整数の下方に限界を設けても、その集合の要素の個数は、変わらないのだ。それでは、上下両方に限界を設けて、その中に無限の要素を閉じこめることが可能だろうか。実は、これが有理数という概念であり、それは任意の二つの整数の商により生み出されるものであるゆえに、整数と同じ個数、すなわち無限個存在するに違いない。つまり、0と1の間には、無限個の有理数が存在するのである。
 神様は、生活の場という有限な世界の中に無限の世界、すなわち天国を投影されたのである。それは、ご自身の似姿としての人と人という二つの無限なるものの間の関係が織りなす無限の可能性なのであり、そこに信仰により天国が現存するのである。主イエスの「天国は、あなたがたのただなかにある」との言葉の通りに。

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数の連続性

解析概論(1.2)

 前述のように、この世界は整数のように離散的なものに見えるのだが、数学ではあえて連続性というものを定義する。聖書に、「愛は絶えることがない」と書いてあることを思い出すが、物質の運動や歴史のような時間的なものも、連続なものに思える。連続性を定義するには、「切断」という概念を使う。すなわち直線を、ある点を境に左右に分けたとき、整数ならば、例えば5の次は、6であり、5の前は4なので、5の両側には隙間がある。しかし、整数に少数を含めたものすなわち有理数となると、5の両側には限りなくびっしりと点がひしめき合っており、5に限りなく近い点が存在する。しかし、ルート2のような循環しない無限小数は、有理数ではないので、このルート2を境に、有理数に触れずに直線をスパッと非連続的に切断することができる。有利数は、一見連続的に存在しているようであるが、実は隙間だらけなのである。
 このように、数学において連続性を考えるということは、整数のような離散的なものを使って連続的なものを考察することなのである。すなわち、有限的なものの積み重ねとして無限を推論するのである。
 これは、聖書信仰に通じるところがある。すなわち、有限な人間に対して、無限な神がおられる。そして神は、人に永遠を思う心を与えられたから、神の御心をある程度理解することを許されている。しかし、人は神の御心の詳細を知ることはできない。いつも自分の前に示された道を一歩一歩歩いて行くことにより、これまで歩んで来た道から将来のことを推論し、神の守りと導きを信じて進むのである。

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