2008/01/30

略奪者の運命

イザヤ書 第17章

 これは、やがて起こること、しかも近い将来に起こることについての託宣である。エフライムすなわちイスラエル王国は、ダマスコすなわちアラムと共にその繁栄していたころの面影を失い、瓦礫の山となる。その日には、イスラエル民族は、異邦人に踏みにじられ、その力は衰え果てる。それは、彼らが彼らの神を捨てて偶像の神につき従ったからである。神の裁きは、常に公正であり、神はご自身の民の罪をさえ大目に見ることはされないのだ。そのように天地の作り主なる神が正しい裁きをされることが世界の歴史を通じて明らかになる。そのようにして、偶像の神とそれらを信じる民は、真の神の前に永くは存続できないことが明らかとなる。そのようにして、永い年月を経た日に、すべての人々は彼らの偶像を離れ、造り主なる神のみを礼拝するようになるとイザヤは預言するのである。
 しかし神ご自身は、不信仰に対する一貫した態度を貫かれ、彼ら偶像の民を糾弾されてやまない。ご自身の聖なる民イスラエルに荒廃をもたらした民に裁きをもって報いられる。神は、ヤコブすなわちイスラエルに、私は決してあなたを捨てないと約束されたからである。
 それゆえ神は、イスラエルを略奪しようとする民に報復される。ご自身の聖なる民イスラエルによって報復されるのである。ちょうどエステル記に記されているように、イスラエルを強奪しようとする者は、そのように突然に破滅が襲い、夜の明ける前に彼らは消え失せる。これが常に彼らの受ける分、彼らの運命なのである。

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2008/01/29

裁きと哀れみ

イザヤ書 第16章

 神は、モアブに対して裁きを行われる。それは、彼らが神の前に高慢になり、神の民イスラエルに対しても高慢に振る舞い、助けを求めてきた彼らに哀れみを掛けることをしなかったからである。それゆえ、彼ら自身もまた哀れみを受けることがないのである。神は、ご自身に従う民をそのように取り扱われる。神は、ご自分の民を瞳を守るように守られるのである。
 神は、今日でもご自身の民、すなわちイエス・キリストを信じる人々をちょうどそのように守られる。そして、あなたに立ち向かう者に対して、モアブにしたのと同じ仕打ちをされるのである。あなたに向けられたどのような武器も役に立たなくなり、あなたは敵の前で勝利者となり、あなたの神を高らかに誉め歌う。
 ああしかし、神はイザヤを通じて言われる、「わがはらわたはモアブのために、わが胸はキル・ヘレスのために竪琴のように嘆く」と。神は、ご自身が裁かれた民モアブのために嘆かれる。モアブもご自身が愛を持って創造された民であるゆえに。神は今日でも、ご自身が裁かれた民のために嘆いておられる。あなたを苦しめる民の武器を壊し、彼らを無きものにしておかれながら、神は彼らのために嘆いておられるのである。
 神はご自身の内に、この大いなる矛盾を抱えておられる。もちろん神はその気になれば、いつでもそれを解消することがお出来になるだろう。しかし神は、その矛盾を世界のためにあえて抱えられたのである。それは、この世界を回復する大いなる御業を、定められたときに実行されるためであり、その日のことをイザヤを通して預言された。それは、さながらネヘミヤによる城壁と街の復興のようであり、人類の栄光が回復される日である。
 「そのとき、ダビデの幕屋に王座が慈しみをもって立てられ、その上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。」その日には、神の抱えておられた矛盾が解消され、神ご自身も安らぎを得られる。しかし、その為にはまた、かつて無い大きな代償が必要となる。そして、神ご自身がその代償を払われる決心をされたのであり、神はこのイザヤ書のあちこちでそれに言及しておられるのである。

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2007/10/05

油断という敵

イザヤ書 第15章

 ここには、モアブへの神の裁きが綴られている。モアブは、かつてイスラエルが約束の地を目前にしたときに、彼らの領土を通過することを許さなかったばかりか、モアブの王バラクは、預言者バラムを招いて、イスラエルを呪わせようとした。しかしバラムがイスラエルを呪わずに祝福したので、バラクは今度は、モアブの女たちをそそのかして、イスラエル人を偶像崇拝に誘ったのだった。この誘惑により、イスラエルの内の二万四千人が倒れた。
 モアブは、誘惑を表している。それは、様々な形をとって襲ってくる。それはまず、人生の進路を阻む困難として、次に生活を蝕む呪いとして、最後に成功を目前にした誘惑として働きかけてくる。それらに打ち勝つには、不断の信仰が必要となる。
 エズラ記には、イスラエル民族が捕囚の地から故郷への帰還を許されて、そこへ戻って来て、エルサレムの城壁を立て直したことが記されてある。周りには常に敵がいて、彼らの都市の復興を邪魔しようと狙っていた。少しでも気を抜けば、敵が襲ってきて彼らの生活を破壊してしまう危険にさらされていた。これは、信仰の戦いに似ている。それと戦って勝利を収めるのは、並大抵のことではない。しかし、そのようにして城壁を再建し終わった彼らを待っていたのは、もっと手ごわい油断という敵であった。それは、彼らの内側にいて、常に働きかけ、夜も眠ることはなく、彼らをいつしか信仰から離してしまうのである。かつてイスラエルは、モアブとの戦いの中で、この油断という敵に負けてしまった。武力や呪いの力よりも、弱い女の誘惑が彼らを敗北へ陥れたのであった。
 しかし、モアブに象徴されるこの人生の敵にも、やがて神の裁きが望む。それが臨むとき、この敵はあっけなく滅び去る。もともと彼らは、手ごわい敵ではない。私たちがイエス・キリストへの信仰により武装するとき、敵のどのように巧みな戦略も、役に立たなくなるのである。

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2007/10/04

サタンへの裁き

イザヤ書 第14章

 歴代誌下の結末は、神が捕囚の民イスラエルを省みられ、その異境の地からもとの故郷へ連れ帰られることである。イザヤは、預言して言う、「まことに、主はヤコブを憐れみ、再びイスラエルを選び、彼らの土地に置いてくださる」。神がイスラエルを回復してくださるのは、「再度の選び」によると彼は言うのである。選びである以上、それは誰の功績でもあり得ない。神の主権によるのである。
 アブラハムを選び、その信仰ゆえに子孫の繁栄を約束された神は、彼への約束通り、400年後に彼らをエジプトから導き出し、乳と蜜の流れる約束の地を与えられた。しかし彼らはそこで近隣諸国と同じ様な王を求め、異境の神々に仕えたので、その国は分裂して互いに争うようになり、ついにアッシリアとバビロンにより征服され、民族の切り株しか残らないような状態になってしまった。そしてこのすべてが無くなって元のもくあみになってしまった様なところから、神の選びがまた始まるのである。神はなぜ今またイスラエル民族を選ばれたのだろうか。
 それは、イザヤによれば、神の怒りがバビロンに向けられたからである。イスラエル民族の罪は、一言で言えば姦姻の罪である。それは、偶像崇拝であり、むさぼりであり、弱さの罪である。しかし、バビロンの罪は、これとはまったく違う。それは、神を冒涜する罪であり、強さの罪なのだ。イスラエルは、異境の神に仕えた。しかしバビロンは、自分自身が神になろうとしたのである。神は、そのような罪を徹底して裁かれ、容赦されることはない。それは、天地創造から変わっていない。神は、アダムを誘惑して彼の祝福を奪い取ろうとしたサタンを裁かれた。そのような罪には情状酌量の余地はない。それはまた、バベルの塔の時にも現れ、またネロ、ヒトラーのように、人類の歴史の中に時おり悪魔的な野望として顕現し来たった罪である。
 この人類の歴史における影の支配者、この世界に死をもたらした者を、神はかつて天からこの地上へ投げ落とされた。それ以来、この地上は、悪魔の支配に服して今日に至っている。キルケゴールが言ったように、ほとんどの人は、この影の支配者サタンに目を眩まされて、機械のように人生の時間をする減らされながら、ただあの祝福のことだけは決して思い起こさせられることがないという状態にある。しかし、神はこのサタンに対して裁きを行われるとイザヤは預言する。そしてそれは、今から約二千年前に行われた。神は、イエスを十字架に架け、三日目に死人の中から甦らせ、罪に勝利されたのである。
 この地上において、クリスチャンは、サタンの力から開放された人々であり、彼らは信仰により罪に打ち勝つことができる。主イエスにあるクリスチャンは、サタンに対して、高らかに勝利を宣言することができる。そしてそのようにして、サタンの呪縛から解かれ、幻影から目を覚まされた者は言うのである、「これがかつて、地を騒がせ、国々を揺るがせ、世界を荒れ野とし、その町々を破壊し、捕われ人を解き放たず、故郷に帰らせなかった者か」と。

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2007/10/02

聖別と裁き

イザヤ書 第13章

 ここには、前章とは打って変わって、裁きの言葉が書き連ねられている。「わたしは、自ら聖別した者らに命じ、わたしの勇士、勝ち誇る兵士らを招いて、わたしの怒りを行わせる。」この「聖別」という意味は、「聖なる民」という意味ではなく、神を知らない野蛮な民を神の聖なる目的のために用いられるという意味である。
 神は、その聖なる目的のために、遙かな昔からバビロンを備えておられた。信仰の父アブラハムの故郷ウルもこのバビロンのそばもしくはその中にあった。そしてイスラエル民族は、アブラハムを父と呼ぶゆえに彼と同じセムの子孫に属し、ノアによって呪われたハムの子孫であるカナンの地に来てそこに住んでいたハムの子孫を追い出してそこに増え広がった。これらのことは、歴代誌上に書いてある通りである。神は、これら多くの民族のなかから、イスラエル民族を選び、特別な恵みを与え、この民族を通してご栄光を現そうとされたのであり、それは、信仰の父アブラハムのゆえであるが、アブラハムの生まれる前から、すなわち、ノアの子孫として種々の民族が形作られるときにすでに選びによって決められていたのであった。
 このイザヤの時代に、イスラエル民族は、南北に分裂し、両国とも不安定な状態であり、ときには神に忠実な王も起こったが、それも永くは続かず、結局まずエフライムがアッシリアに征服され、その約170年後にはユダもバビロンに征服されてしまうことになる。神は、このイスラエル民族への裁きの執行に、彼らと同じセムの子孫を聖別して用いられたのであり、それは、ノアの語ったセムへの祝福とハムへの呪い、そしてヤフェトへの哀れみの言葉の結果でもあるのである。

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二つの感謝の歌

イザヤ書 第12章

 列王記下は、バビロン捕囚へと突き進むイスラエルの悲惨な歴史である。しかしここに記されているのは、二つの小さな感謝の歌である。
 「その日には、あなたは言うであろう」。「あなた」とは、イスラエルのことであり、彼らの背信が招いた罰から神により救い出されたことへの感謝である。神は、怒って彼らを御前から投げ捨てられたが、しばらくの時の後、彼らを赦し、哀れみ、災いから救い出し、再び慰めを与えられた。それは、彼らの行いの結果ではなく、ただ神の哀れみによるのである。
 もうひとつの歌、「その日には、あなたたちは言うであろう」。「あなたたち」とは、異邦の国々のことであり、イスラエルの背信により、救いが全世界に及ぶようになることを言っている。その日には神は、選民イスラエルだけの神ではなく、全世界の神と成られる。それは、エルサレムで崇められる聖なる方が、同時に「あなたがたのただ中にいます大いなる方」となること、すなわち、イエス・キリストという一人の人として生まれ、彼の名によってすべての人の心に聖霊が与えられることにより実現するのだ。これ以上の感謝すべきことがあるだろうか。

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平和の王

イザヤ書 第11章

 イスラエルは、ソロモン王のときに非常に栄え、その栄華は、遠い諸国にまで伝わるほどであった。神はダビデの従順ゆえに、ソロモンに大いなる知恵と権威、財産を賜り、彼によりイスラエルに栄光を現された。それは、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊であり、イスラエルに神の知恵による公平な裁きが顕現したのだった。
 しかし、栄華を極めたソロモンが後になって異境の女たちを愛して妻にし、彼女たちの崇める神々を重んじ、それらのために聖なる高台を築くようなことになろうとは。神は、ソロモンの父ダビデのゆえに彼に災いを下すことはされなかったが、彼の背信ゆえにイスラエル王国は、ユダとエフライムに分裂し、神の都を持たないエフライムをまとめるために、ヤルブアムが偶像を作り、一般人から祭司を起用するような甚だしい罪へと発展して行ったのだった。イスラエル王国は、一つでなければ成り立たない。神を礼拝する都は、一つだからである。
 それゆえ、ソロモンがいかに賢くても、またいかに富んでおり、その栄華が果てしないものであっても、エッサイの株はダビデなのであり、その系図を通じて平和の王と言われるイエス・キリストがお生まれになるのである。「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」と主なる神は言われる。これは、ソロモンのような単独の卓越した賢者ではなく、ダビデのような庶民的で、民と共に跳ね踊る王、多くの勇士に取り囲まれる王、神にのみ栄光を帰す王なのである。

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2007/09/29

待たされること

イザヤ書 第10章

 神は、ご自分に従わず、この世のむなしい権力に望みをかけるユダの王アハズに対して、まさに彼が頼みとしていたアッシリアを敵として臨ませられた。しかしそれと同時に、イザヤを通してユダに呼びかけられる、「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように彼らがあなたを鞭で打ち、杖を振り上げても。やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る」と。
 神がアッシリアによりユダを懲らしめられるのは、彼らを滅ぼされるのが目的ではなく、彼らが自分たちの背信の結果として招き寄せた災いにより悔い改めて、彼らの主なる神のもとへ戻ることを期待しておられるのである。そして、彼らがそのように神の前にへりくだるとき、神の怒りは徐々におさまり、ついにその怒りは、彼ら神の民の敵に向けられるようになると言われる。
 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」とパウロは言っている。
 ダビデは、かつてサウルの元で功績を上げ、忠実に仕えたにもかかわらず、サウルから追われる身となった。そして、何度かサウルを打ち負かす機会もあったが、彼をイスラエルの王として敬い、手を掛けることを恐れた。ダビデが恐れていたのは、サウルではなく神だったのである。彼は、王になるにふさわしい功績を上げ、ふさわしいリーダシップを持っていたが、長い間待たねばならなかった。神は愛する者を、ときには長い間待たされることがある。また、愛するものを試練に遭わせられる。このサムエル記下に書かれていることは、神がいまイザヤを通して、「アッシリアを恐れるな」と呼びかけられていることなのである。それは、それを体験する者が、それによりさらに深く神の御心を知ることを許され、神のために多く働くことができるようになるためである。
 神は、イスラエルを待たせられる。それは、イスラエルの罪によるのだが、それだけではない。神は、時を定め、「その日」というときに、彼らに救い主を遣わされる。そのことを天地創造以前、いにしえの昔から決めておられたのである。

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2007/09/27

威光、尊厳、栄誉

イザヤ書 第9章

 もうお気づきかもしれないが、イザヤ書全66章は、旧新約聖書全66巻に対応しているという考えを私も支持している。広大なイザヤ書を読むときに、ただ漠然と最初から読んでいたのでは、その広大な宇宙を漂う放浪者となってしまう。イザヤに預言を与えられた神は、これだけの大系を脈絡もなく流れ出るままに任せられたのではないだろう。イエス・キリストの後の世代に向けてイザヤに預言を語らせられた神は、この預言の書を読み解く背景として、人類の歴史すなわち旧新訳聖書を想定されたのだと思う。つまり、イザヤ書を理解するためには、旧新訳聖書からの達観が必要であり、また旧新訳聖書を理解するためにも、イザヤ書に啓示された知識が必要なのである。そして、これはまさに4福音書記者やパウロ等が新訳聖書において行っていることなのである。
 そのように、イザヤ書第8章の最後には、ルツ記の最後にダビデの系図が記されてあることを思い出させるように、この大いなる恵みの表れについての言及がある。それはシンプルなものであるが、そこからは、万軍の主の壮大なご計画と御想いの賢さ、哀れみの深さが燦然と輝き出でている。続くサムエル記一は、本章にあたり、ここには、イスラエルの民が神からはなれ、この世的な力や権威に望みを置き始め、その結果、長老や尊敬される者、預言者たちも空しい存在となり果ててしまったことが述べられている。
 しかし神は、そのような邪な考えによって民が願い求めたイスラエルの王を通しても、ご自身の威光と尊厳、栄誉、愛と哀れみを力強く啓示されたのだった。それゆえキリストはダビデの子と言われ、旧約聖書を読む現代人の私たちがそこから、あふれるほどに燦然と輝く万軍の主の栄光を心に写され、死に至るまでの献身の決意と、神の御心に叶う者、すなわち、キリストの御姿に日々変えられて行くことができるという確信を持つことを許されるのである。

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預言の封印

イザヤ書 第8章

 神はイザヤに言われた、「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・ハズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。イザヤは、自分のしたことを公にするために、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカルヤに証人になってもらった。
 その後、イザヤが二人目の子をもうけると、神はイザヤに言われた、「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・ハズという名を付けなさい。この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる」。それは丁度、イザヤの一人目の子シェアル・ヤシュブが災いを退け、幸いを選ぶことを知ろうとする年頃のことでもあった。
 それから神はイザヤに、アッシリアの来襲を予告された。このイスラエルの地に、その遥か未来にメシアの支配する時がやってくる。彼は、イザヤの預言通りにこの地に生まれ、この地を支配する。この地とこの民は、インマヌエルなるイエス・キリストのものである。そして、彼は永遠に支配する。しかし、その前にまずこの地は、その罪のゆえに、他民族に踏みにじられねばならない。しかしそれは、彼らを完全に滅ぼすことはなく、また限りなく続くのでもない。イスラエルを守る者は、常にインマヌエルなるお方と共にあり、眠ることもまどろむこともないからである。
 しかし、そのように神によって特別に守られていることをイスラエルは知らない。彼らの実体は、神を知らぬ異邦の民たちと同じである。彼らは、神に従う道から迷い出て、神を知る知識は空しくなり、その心は頑なになった。もはやこのままでは、どのような教えも教訓も、彼らには無意味である。イザヤは、一度は公にしようとして語った預言の言葉を、自ら封じることを決意した。
 しかし彼は、神が彼に与えられた預言の言葉によって、神に対する望みを強く持ち続けた。彼は、ルツが姑ナオミにどこまでも従ったように、彼がどのような境遇に置かれようとも、神の言葉に望みをおき、どこまでも神につき従ったのであり、そのようにして、イザヤの預言は、イエス・キリスト以後の人に向けて、語り続けられたのであった。

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