2007/11/09

回復の予知

ヨブ記 第42章

 ヨブは、神との格闘に破れた。神は、ヨブに勝ちを譲ることはされなかった。ヨブは、神に申し上げた、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」。ヨブは、あるいは神の方が折れてくださり、自分の受けた故のない苦しみに免じて、自分に勝ちを譲ってくれるかもしれないというかすかな希望を持っていたのだと思う。というのは、何と言っても、今回、神から自分にもたらされた苦難は、故のないものであり、神の側に非があることは明らかであったから。もし神が、自分の叫びに応えてさえくれれば、これまでの自分と神との関係からして、ヨブには神に思い直していただくことができるのではないかと思えたのだろう。
 しかし神は、ヨブに対して、一貫して自分は創造者であるという、一種よそよそしい態度で対応されたのであった。これは、ヨブにとっては落胆するに十分値することだったに違いない。しかし、ヨブは落胆しなかった。彼はまずもって、神が自分の叫びに応えて下さったことに感謝と感動を覚えたのだった。しかしそれでも、ヨブの状況は何も変わっていないということも動かぬ事実であった。神は、その持ち前の凄みを効かせてヨブを叱りつけられただけであった。しかしヨブは、その叱責の中に慰めと希望をさえ受け取ることができた。これはすでに、ヨブと神との個人的な関係の中で起こっていることであり、そこには私たちの入り込む余地はない。ヨブがこれらのことの結果、いかにして絶望せずにいられたのかということは、まったくの謎とも言えよう。
 しかし結果は、ヨブの心が信仰を持って、いや信仰以上のなにものかを持って予知したかのごとくに、神はヨブの財産を元の倍に、そう、天国にいる彼の息子、娘たちを含めれば、すべてを2倍にされたのであった。そしてそればかりか、神はそのことにより、ヨブの傷ついた心をも完全に癒されたのである。これについては、別の記事で書いたので、そちらを参照されたい。
 それにしても、ヨブ記は、何と感動的なできごとの記録だろうか。これはまったく、本当に起こったこととしか思えない。事実なくして、この物語は記述し得ないだろう。それは、作り出すには、あまりにも非現実的であり、非現実的であるためには、あまりにも赤裸々なのである。

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2007/11/07

神の衣

ヨブ記 第41章

 神の威光は、この世界の中に燦然と輝いている。それらを見るときにわたしたちは神の力と栄光に向けて自らの思いを馳せるのであるが、それは、神ご自身も意図しておられたことなのである。神は、ご自身が創造された中でも最高傑作を誇らしげにヨブに示された。それらは神から創造され、気ままにこの世界を闊歩し、彼らを圧倒するものは存在しない。これらの恐ろしい生き物に神は、ご自身の無限のご性質の中から、特にその大いなる御力を具現化させられた。そして一方、山里の小道に人知れず咲く野の花の可憐な姿には、ご自身の栄華を余すところなく装わせられたのである。
 神は、ヨブにご自身の創造されたこれらの恐ろしい生き物を差し向けられる。神は、ご自身で戦わずに、代わりにご自身が創造されたこれらの動物をけしかけられるのである。それはたぶん、ご自身で戦うと勝つことができないか、あるいはそもそも神は戦うことがお出来にならないのである。神ご自身は、憐れみに富み、災いを思い返される愛なるお方であるからでもあり、またご自身、不動なお方だからである。
 つまり、神はこれらのものを衣として纏われる。それらのものは、古びるが神ご自身は、決して変わることも古びることもない。そして、私たちが見るところ、営むところ、戦略を練り、考え、行動し、時には戦い、取引をしたりするところのすべては、この神の纏っておられる衣なのである。

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勝敗の基準

ヨブ記 第40章

 神は、嵐の中からさらにヨブに答えて仰せられた。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい。」ヨブは、初めて神の呼びかけに答えて声を上げた。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。
 ヨブが神に抗議したのは、何のためだったのか。それは強いて言えば、神に負けるためであった。しかし、「負ける」ということは、「勝負した結果」であり、従ってそれはヨブが神と勝負したことの証しである。しかし、いったいこの世界の内で誰が神と勝負したことがあるだろうか。否、そこまで到達した人は、非常に少ない。ヨブは、ヤコブと共に、そこに到達した数少ない一人である。しかし、ヨブが神に勝つためには、この場合に神が提示されている条件によれば、彼が神と同じ威光を身に纏う必要があるのである。なぜなら、人が神と勝負する場合、その勝ち負けの基準は、あらかじめどこにあるわけでもなく、それは神が決めるのだからである。神は、かつてヤコブと戦われたとき、この基準を非常に低く設定された。神は、多くの天使たちをヤコブの味方につけることにより、彼を勝たせられたのであった。しかし今、ヨブと勝負する神は、その勝敗の基準を逆に非常に高く設定されたのである。そしてヨブに言われた、「男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするためにわたしを有罪とさえするのか」と。
 神は、この勝負でヨブに負けるわけにはいかなかったのである。そしてそれは、神ご自身のためでもあり、またヨブのためでもあったのである。

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内在者

ヨブ記 第39章

 多くの人は、神について、すべてを超越したお方であるような印象をもっているのではないだろうか。そう、天地を創造されたときに、一度だけこの世界に介入され、その御腕でプッシュされた。すると世界が動き出し、その後は永遠に至るまで、すべてが自動的に動いており、神ご自身は、もはやこの世界と直接の関わりを持ってはおられないというようなイメージである。
 しかし、神がここでヨブに語っておられる姿は、そのような概念とは、なんと異なったものだろう。神は、岩場の山羊や雌鹿が子を産む場所を知っておられるだけでなく、その月日を心待ちに数え、彼らの産みの苦しみを見守られる。野ろばや野牛に自由を与え、駝鳥の気ままな振る舞いを楽しまれ、戦いのために馬を創造し、鷹にさえ分別を与えられる。
 この超越者にしてしかも内在者である神こそ聖書が啓示している神ではないだろうか。かつての信仰の偉人が言ったように、神はすべてを造られた後に、そこから去って行かれたのではなく、ご自身、その内に留まられたのである。そして、時至って、自ら人となって天から降られ、30余年の生涯を生き、病を負われ、苦しみを体験した後、我らの罪を十字架上で購われたのであった。

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神というお方

ヨブ記 第38章

 エリフがなおも話し続けていると、外を吹く風の音が次第に大きくなり、やがて嵐となった。このただならぬ様相に、そこにいた皆は話をやめて沈黙した。すると、その嵐の中から神の声が響き渡った。
 神はヨブに、容赦のない叱責の言葉を浴びせられた。しかし、何ということだろう。それは、裁きの言葉ではなく、父がその愛する子に向けて語る叱責の言葉であった。しかし、義にして全能なる神を糾弾したヨブが、神から同意やなだめの言葉を受けることはあり得ない。例えあったとしても、そのようなものからは、ヨブの心も決して安らぎを得ることはできない。神の前にダダをこねている子供であるヨブにとって、この神の叱責の言葉こそが唯一の慰めであり、真実の励ましでもあったのである。
 神は、天地創造においてご自身が行われたすぐれた御業を挙げつらわれた。また、現在においても継続されている、全宇宙に及ぶ自然の営みを動かされるご自身の神秘の御業を列挙された。そしてヨブに向かって、「わたしはこれらのことを行ってきたが、あなたはいったい何をしてきたのか」と叱責さたのであった。しかし、これはいったいどうしたことなのだろう。それは、どう見ても神にはふさわしからぬことではないか。神がそのようにヨブと本気で議論、いや格闘しておられるとは。神は、ヨブをからかっておられるのか、あるいはみそっかすにしておられるのか。それとも諭しておられるのか。わたしは、それらのいずれでもないと思う。むしろ神は、ヨブとまさに本気で議論しておられるのである。
 しかしいったい、そのようなことがあり得るのだろうか。つまり、この全宇宙を創造されたお方が、実は議論や格闘においては、病気で死にかけている一人の人と力においては大差なく、大いなる決意と用心を持ってあたらなければ、負けてしまうようなこともあり得るのだということが。また、知恵と力において、並ぶもののないお方が、他方憐れみにおいては、いとも易々と相手の駆け引きに乗り、思う壺にはまって、下すべき裁きをまんまと思いとどまらせられてしまうというようなことがあるものだろうか。私は、そういうこともあり得ると思う。この世界には、どんなことでもあるのである。そして、そのように聖書を先入観なく読むときに、神は実はそのようなお方であり、妬む神にして、親の罪を子に報い、3、4代に及ぼす一方で、赦すに早く、災いを思い返される、愛すべきお方であり、実はあどけない子供が心に描く神の姿に限りなく近いのかもしれないということに思い至るのである。

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2007/11/05

信仰の感動

ヨブ記 第37章

 エリフは、自分の信じる神について感動をもって語り続けた。まことに、神を崇め、ただ神にのみ栄光を帰す者、神だけを求め、愛し、その御旨の実現のみを求めるものの信仰を、神は清い感動をもって支えられる。エリフの確信は、彼に与えられていたこの聖なる信仰の感動だったのである。この領域は、聖なるもの、天的なことがらへの入り口であり、このような体験を経て、人は神を個人的に知り始めるのである。
 ああしかし、この領域は同時に無我の領域でもある。神の前に立つ我は、純粋な個人であると共に、もはや社会的な個人性からは離脱した状態に足を踏み入れているのである。つまり神の前においては、大会社の社長も子会社の一社員も変わるところは何もないのであり、ここでは個人的な社会状況は、すべて脱ぎ捨てられている。そこで、天を仰いで信仰の感動を語るエリフも、膿にまみれて横たわるヨブも、神の前にあっては、何も変わるところはなかったのであり、それゆえエリフの心には、もはやヨブへの哀れみの気持ちが入る余地はなかったのである。信仰とはそのようなものであり、そのような意味で信仰は狂気である。しかし、この狂気に立てないものは、神との特別な個人的関係にまで進み行くことはできない。そして、このエリフの霊的な感動がヨブの信仰の感動を呼び起こすならば、ヨブはエリフの語る一見冷酷な言葉によってさえ、大いなる慰めを受けたに違いない。
 しかし、ヨブが求めていたのは、そのようなものを越えていた。それは、神との一対一の関係であり、ヤコブが戦った神との格闘であり、アブラハムが薪を背負った我が子イサクの問いかけに対して語った言葉であり、ダビデが詩編の中で神に発した叫びでもあったのだ。そこには、エリフが語る真理さえ、入る余地はなかったのだ。

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2007/11/04

善悪の彼岸

ヨブ記 第36章

 エリフは、さらに彼の確信を語り続ける。それは、彼が人生を生きる中で、苦悩と共に体得した知識であった。彼は、若いが苦労を積んできており、人生についても人並み以上の洞察を得ていたのであった。
 彼の確信は、こうである。人生には、なぜ苦難があるのか。それは、神が人に正しい道を教えるためである。神は力強く、完全な知識を持っておられ、この世界に義が全うされることを望んでおられる。しかし人には、生まれつき正しく生きるための知識がなく、大いなる迷いの中に生きている。しかしこの世界には、神が定められた大法則がある。それは、神に従って正しく生きる人は、呪いから解放されて幸福な人生を歩めるが、神に背を向ける人には、神から苦難が与えられるということである。それゆえ人は、神の備えられた苦難によって成長する。従って苦難こそ神を知る知識の源であり、苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役にたたない。エリフは、自分の人生を真剣に生きる中で、神に対する知識を捜し求めた。そして、自分の得てきた知識のすべてを動員して、人は神の前にどのような存在であり、従ってどのように生きるべきであるかということを語った。
 何人も人生を生きつつ、自分の力で神を探し求める限り、このエリフの認識以上に先に進むことはできない。人は、人間がどのように不完全な存在であり、それに対して神は、どのように力強く、知恵があり、優れた存在であるかを推測することができる。そして、その結果として、人の知恵は所詮愚かであり、人にとってはただ神にひたすら従うこと意外に道はなく、それが人に与えられた最高の知恵であり、また神との最高の関係であると結論するに至る。エリフは、そのようにこの世界における人の立場から神へのあり得べき最高の接近の可能性を語ったのであった。しかし、ヨブはこのエリフの提示した神との関係を明らかに超えて、さらに先へ進んで行こうとしていた。そこでエリフには、このヨブの試みこそが罪であり、人間にはあり得べからざることに見えたのであった。
 ああしかし、本当にそうだろうか。歴代の信仰の先輩たちも、エリフの言うように、神との関係を、ただただ神への従順の中で生きまた死んで行ったのであろうか。アブラハムはどうだっただろうか。彼は、ときには神にすべてを任せることができずに、他国の王への恐怖心から、自分の妻サラを妹だと言ったりしたのではなかったか。しかし神は、そのようなアブラハムを天幕の外に連れ出して、「夜空を仰いで、星を数えることができるなら数えて見よ。あなたの子孫は、この星々のようになる」と言われたのではなかったか。またイサクは、そしてヤコブはどうであったろうか。ダビデはどうだったろうか。彼らはみな、神に完全に従順な者ではなかった。しかし、神は彼らを祝福し、彼らを通して大いなる御業を行われた。ここに何かがある。エリフに不足している何かがあるのである。それは、何だろうか。それはたぶん、善悪の判断をも超えた彼岸にあるものであり、それが、ヨブ記のテーマなのだと思う。

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2007/11/02

神の関心事

ヨブ記 第35章

 エリフの議論の根底にあるのは、神は人間から遠く離れた存在であり、人と神との間には、どうしようもなく深い断絶があるという観念である。そして彼は言う、「あなたが過ちを犯したとしても、神にとってどれほどのことだろうか。繰り返し背いたとしても、神にとってそれが何であろう。あなたが正しくあっても、それで神に何かを与えることになり、神があなたの手から何かを受け取ることになるだろうか。あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に、あなたが正しくても、それは人の子にかかわるだけなのだ」と。
 しかし本当にそうであろうか。神は、人間になどあまり関心はなく、この世とは、離れたところにいらして、この世界の汚れたことなどとは関係のない、もっと重要で崇高なことを遂行していらっしゃるのであろうか。信仰者もときおりそんな風に勘違いすることがある。そして、それが神の前に、さも自分を卑下することであり、また敬虔なことでもあるように思えることがあるようだ。しかし、断じてそのようなことはない。神はむしろ、この世界のこと、それも人間に関することにもっとも関心がおありなのだ。
 というか、神の全関心は、実はこの世界、それも人のことなのである。神は、この全宇宙を人のために創造し、助け手を与え、歴史を導き、イスラエルを選び、約束の地を与え、ご自身の愛する一人子をこの世に遣わし、罪の中にいる人の身代わりとして、十字架に掛けて購いをなされたのだから。

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情状酌量の余地

ヨブ記 第34章

 エリフはさらに、ヨブが神の前に正しく振る舞っていないと指摘する。それは、神が正しい裁きを行っておられないとのヨブの主張に対するものである。この世界の善悪の基準は本来、神を中心にして判断されるべきものであるというのがエリフの主張である。パウロもローマ人の手紙の中で、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と言っている。
 しかしもしすべてにおいてそうであるなら、人は自分のために人生から何を期待できようか。「もし神の裁きに人が納得できないのなら、人が神に喜ばれようとしても、何の益もない」とヨブは言っているとエリフは糾弾する。しかし、ヨブはそのようなことを言っているのではない。彼は、神は正しいお方であり、行われる裁きもすべて正しいとして、それ故に神が自分に正しい裁きをして下さるはずだと言っているのである。むろん神は真実なお方であり、その裁きはすべて正しいとされる。しかしそれは、神の最終的な裁きのことであって、個々の状況における裁きにおいては、情状酌量の余地が残されているとヨブは期待するのである。
 主イエスも、悪い裁判官に正しい裁きを願う寡婦や、隣の家の主人に急な来客をもてなすためのパンをねだる人を例えに引いて、このことを教えられたのではなかったのか。いや、そもそもイエス・キリストご自身が、一度は罪人として十字架で神の裁きを受けられてから、最終的に復活と召天により、神から義と認められたのではなかったのか。

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神の主権と哀れみ

ヨブ記 第33章

 エリフは、神に対するヨブの姿勢が間違っていると指摘する。「神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない」とエリフは言う。つまり、人間に伝えられていない情報が神の側にたくさんあり、従って人間は、ものごとの事情を何も知らないに等しい。そのような人間が、どうして神と争うことができようか。それゆえ、むしろ人間はみな神の前に、御心を知らない罪人であり、生まれつき神に裁かれるしかない存在である。しかし、憐れみ深い神は、そのように無知な人間に対して、それとはなしに、警告を発して、ひどい罪を犯さないように助けて下さっている。また、神の裁きに遭って、滅びの途上にある人にさえも、神は回復の機会を与え、彼を立ち直らせてくださることもある。しかし、これらのことは、すべて人の自由になることではなく、ただただ哀れみ深い神の主権の中にあることなのである。
 しかるにヨブは、自分が神についてなにがしかの知識を持っているかのように、確信を持って自分の義を主張する。そのようなことが、全能の神の御前に正しいはずがない。だからこのような災いがヨブを襲って離れないのであり、ヨブに今求められていることは、そのような固執を捨てて、神の御前にへりくだり、「わたしは罪を犯し、正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった」と告白するならば、あるいは神は、その主権によりヨブを哀れみ、彼を回復させてくださるかも知れないとエリフは言うのである。

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