2007/08/07

偽りを言う霊

列王記上 第22章

 三年間、アラムとイスラエルの間に戦いがなかった。しかし、たとえ平和の中にいても、人の心は常に戦っているものである。神が人を造られたとき、人の心に戦う性質を与えられ、「地を従わせよ」と言われたから。しかし、平和の中の戦いほど醜いものはない。それは、偽りの戦いなのだ。
 このときも、現代と同様に、世には不正が満ち、王に取り入るものが手厚い待遇を受けていたのだろう。王の元には、400人の預言者がいて、いずれも王に都合の良い託宣を述べ、それによって王は国を治めていたのであった。
 しかし、イスラエルのような広い領土と民の心を治め続けるには、戦いにより、結束を高めることがときに必要だったのである。そこで、そのころ姻戚関係を結んでいたユダの王ヨシャパテが訪ねてきたのをきっかけに、アハブ王は、自分の苦手な戦いを企画し、ヨシャパテに支援を要請した。ヨシャパテは快く承諾したが、彼は神に忠実な勇者であったので、まず主の言葉を求めるよう助言した。アハブは、自分の元にいた400人に預言させたが、ヨシャパテは彼らの堕落を見抜いて、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と言った。アハブは、自分に組みしようとしない預言者ミカヤの名を挙げ、ヨシャパテの指示により不承不承に彼を連れて来させた。ミカヤは真実に主の御心のみを求める預言者であったので、アハブに主から与えられた敗北の預言を告げた。
 神は、かくこの世界を裁かれる。すなわち、偽る者の心には偽りの霊を送り、正しい者の心には正しい霊を送られる。彼らが共に預言するとき、正しい者は、正しい霊が語る言葉を聞き、偽る者は、偽りの霊が語る言葉を聞き入れるのである。
 アハブ王は、かつてエリヤが預言したように、戦いに倒れ、彼の血を犬たちがなめ、その血を洗った水で遊女たちが身を洗った。

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2007/08/05

アハブの敵

列王記上 第21章

 アハブ王は、自分の宮殿のそばに菜園を作りたかったが、そこはぶどう畑となっており、それを所有していたのは、イズレエル人ナボトであった。そこで、アハブはナボトにそのぶどう畑を譲ってくれるように頼んだが、ナボトは聞き入れなかった。そのことでアハブは機嫌を損ね、王宮に戻っても食事さえ取れなかった。それを不審に思ったイゼベルが彼から事情を聞き、アハブの名前で命令を出し、ナボトに対して策略を巡らして、彼を殺してしまった。アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。
 このアハブ王のようなタイプの人が現代にもいるように思う。自分からは人殺しをしないが、間接的に無慈悲な行いをする。ちょうどアハブがイゼベルによってナボトを殺したように。アハブの心にも、ナボトへの殺意はなかった。しかし、イゼベルがいとも簡単にナボトを殺してしまっても、彼には何の驚きもなく、次の日にいそいそとナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。実にそのように無感覚な状態に、人は成ることができるであり、現代に生きる私たちも、仕事や私生活における忙しさのあまり、他の人に対して無慈悲な行いをさせられる結果になっていないかどうか良く反省する必要があるだろう。
 アハブ王のような無感覚で間接的に無慈悲な人にとっては、彼が接するすべての人は、人格を持たない存在であるかのようである。彼の前には、どのような人も脅威ではなく、敵でもないのだ。しかし、そんなアハブ王に「わたしの敵よ、わたしを見つけたのか」と本気で身構えさせた者がいた。それが神の人エリヤであった。完全に神の側に立つゆえに、この世をさえ憎む者、ただそのような人だけがアハブ王のような無感覚な人に、神を自覚させることができる。神を愛するゆえに、この世をさえ憎む人、そのような姿勢をどこにおいても、常に持ち続けられる人だけが、無感覚になった現代人の心に神を呼び覚ますことが可能なのである。
 エリヤの叱責に、アハブの渇いて無感覚になっていた心から、何かがほとばしり出たのであった。アハブは、エリヤの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。そのとき主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いをくださない。その子の時代になってから、彼の家に災いをくだす。」神は、現代の無感覚な人々に、福音を伝える器を捜し求めておられるのだと思う。エリヤのように、彼らの心の殻を打ち破り、彼らに自分の罪を認めさせ、神の前に粗布をまとわせることのできる器をである。

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小さな試練

列王記上 第20章

 イスラエルの王アハブほど、神の前に悪とされることに身をゆだねた者はいなかった。彼はその妻イゼベルに唆されたのであった。そして彼は、妻に対してだけでなく、すべてにおいてそのようであった。彼は、神とこの世を比べて、この世を選んだのであり、それは初代のイスラエル王ヤロブアムの犯した罪であり、偶像崇拝である。彼アハブは、罪深い者すべてを代表している。罪深い者とはどのような者か、それは、アハブのように神の前にいい加減で、この世に対してはっきりした行動をせず、自分に対しても神の前にはっきりした態度をとらない者である。そして、彼アハブには、そのことのどこが悪いのか分からなかったのであった。このアハブ王が犯し続けた罪、それは実は、私たちの中にもある「いい加減な信仰」なのである。私たちは、このことを聖書から自分のこととして読み取り、戦慄のうちに神の前に悔い改める必要があるのではないだろうか。
 神は、そのように熱くもなく冷たくもないアハブ王の元に、アラムの王ベン・ハダドから使者を遣わされ、彼を脅迫させられた。アハブ王は、その脅迫の真の意味を理解しなかった。彼は、すべてを自分に対するものと理解した。しかし彼は、イスラエルの王なのであり、彼の王権もイスラエルの民も国土も財産も、彼のものではなかったのである。しかし、アラムの王からの使者が再び来て、彼の家臣の財産まで奪うつもりであることを告げたとき、アハブは初めて不安になり、家臣たちに相談し、その意見を入れて、アラム王からの使者に拒否の応答をした。そのような対応を見て私たちが彼を「ちょっとばかりお人よしな王」くらいにしか思わないとしたら、それはすでに私たちの感覚、倫理観が神の前に曇らされてしまっているのである。ああ、今日でも、自分に与えられた財産や地位、妻、子供たちを自分の物のように思い、その環境の中で、まだ大丈夫と安穏と振舞っている信仰者がいるならば、彼は、このイスラエルの王アハブと同じなのである。
 アラムの王が大群を率いてアハブに宣戦布告したとき、見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『この大群のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」しかしアハブには、それは神の預言者の言葉ではなく、友だちの気の効いた忠告くらいにしか思われず、「誰を用いてそうなさるのか」と聞き返した。預言者は、これはアラムが神の民イスラエルに対して戦いを挑んでいるのであり、全イスラエルの戦いであることを告げると、彼はさらに「誰が戦いを始めるのか」と聞き返した。これはまさに、今日の生ぬるい信仰者、自分が主イエスの軍隊に属していることを忘れている信仰者の姿である。
 神は、イスラエルの前に海の砂のような多数のアラム軍を二度に渡って打ち破られた。しかしそれでもアハブ王は、そのことの真の意味を理解しなかった。先にアハブのところに遣わされた預言者が仲間の一人に、主の言葉に従って「わたしを打て」と命じたが、その仲間の預言者もアハブ王のような生ぬるい信仰を持っていて、神の言葉に聞き従わなかったので、獅子に出会い、殺されてしまった。彼はもう一人の預言者に「わたしを打て」と言ったところこの隣人は彼を打って傷を負わせた。このようなやり取りを私たちはなにか狂信者たちの喧嘩であるかのように受け取ってしまうかもしれない。しかし、ここで聖書が言っているのは、私たちに熱いか冷たいかであって欲しいということ。そして、もし私たちがアハブのように生温い信仰を持っているなら、万軍の主イエスは、私たちをその口から吐き出されるだろうということなのである。そして、神は主イエス・キリストの購いに免じて、このときのアハブに対するように、生温い私たちを時に寛大に扱われるが、また様々なことを通して、私たちを奮起させるために、私たちの心を乱されるような出来事をも起こされるのである。
 イスラエルの王は、預言者の言葉に機嫌を損ね、腹をたてて王宮に向かい、サマリアに帰って行った。

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2007/07/28

油注ぎ

列王記上 第19章

 バアルの預言者との対決を終えて、郷里のティシュベに戻ったエリヤは、疲れ果てていた。彼は全速力で走るアハブの車の前を、カルメル山頂からイズレエルの境まで、何十キロもの道のりを、神の霊に振り回されて走って来たのだから。エリヤにその力を出させたのは聖霊の炎であったが、それによりエリヤ自身も己の身を焦がすことになったのである。そのように彼は、対決における勝利と待ちわびた降雨の到来に有頂天になり、不用意に神の霊に身を委ねてしまったのであった。
 このときエリヤは、以前のような神との関係を見失っていた。彼の上にあった神からの油注ぎは無くなっていた。それは、彼がアハブとの関係で、預言者の勤めを怠ったからである。彼は、バアルの預言者との対決に気をとられ過ぎていた。彼はアハブ王に、「上って行って飲み食いしなさい」と言ったが、その言葉は預言ではなく、この3年間の飢饉の意味をないがしろにしたものだった。それは、モーセが荒野で、岩から水を出したときに、持っている杖で3度岩を叩いたことと同じである。この一事により、エリヤはかつてのモーセのように、後継者に神の務めを譲ることになる。
 アハブがエリヤの行ったことをイゼベルに告げると、エリヤは彼女の脅迫を恐れて逃げた。彼は、ユダのべエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、自分は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。しかしついに彼は力尽き、一本のエニシダの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」。彼は、すべてをなくし、自暴自棄になっていた。しかし神は、御使いによりエリヤに食物と飲み物を与えられ、彼はそれに力づけられて、40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに到達し、夜を過ごすために、そこにあった洞穴に入った。見よ、そのとき初めて彼に、「エリヤよ、ここで何をしているのか」という主の言葉が聞こえた。エリヤは今、神の前から迷いだした一匹の羊となっていた。「迷える羊」、それは罪を犯したアダムの姿であり、あのときも神はアダムに「あなたはどこにいるのか」と声をかけられた。それは、裁きの宣告であると共に、創造主から被造物への受容の声色でもある。
 迷い出たエリヤの旅は、神を再び探し求める旅であった。それは耐え難いものだったが、ついに彼はそれをやり遂げた。神の元から迷い出てしまった人は、神の元に自分の努力や修練で戻ろうとすべきではない。もしあえてそうするなら、それは40日40夜にも及ぶ荒野の旅となるかもしれない。しかし神は、いつも彼に声を掛けられているのだ、「エリヤよ、ここで何をしているのか」と。彼が自分に固執せず、神に心を開くなら、それが聞こえただろう。
 そのとき彼は初めて悟った、神は嵐の中にも、地震の中にも、また火の中にも、つまり本当は、どのような試練の中にもおられないということを。そして、神は実に、あなたの心の奥底におられるのであり、あなたが神にお会いするのは、静かな祈りの中においてであるということを。そのとき神はエリヤに何を語られたのか。おお、それは、エリヤがずっとずっと待ち望んでいたものであった。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。」これこそ、これこそ、彼が預言者として待ち望んでいたもの、神のうるわしい命令であった。神は彼に、成すべきことを授け、将来起こるべきことを告げた。また、その命令の中で、エリヤの後継者エリシャを示した。彼は、モーセに対するヨシュアであり、エリヤの成し遂げられなかったことを行うために新しく神が立てた器であった。

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2007/07/25

対決

列王記上 第18章

 3年後に神は、エリヤを再びアハブ王のところに遣わされた。サマリアは、ひどい飢饉に見舞われていた。アハブは、自分の前に姿を現したエリヤに危害を加えることはできなかった。エリヤがこの飢饉の原因であると同時に、解決の鍵をも握っていることを知っていたからである。神は、人の思いや権力を越えた力で預言者を守られる。このときエリヤを守っていた神の力は、3年間の干ばつを引き起こした、実にアハブ王の預かり知らない宇宙的な力だったのである。エリヤはアハブに、450人のバアルの預言者、400人のアシュラの預言者と共に、イスラエルの全会衆をカルメル山に集めるように依頼した。
 カルメル山頂でエリヤは、集まったすべてのイスラエル人に近づいて言った、「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」世の人々は、自分のしていることが分かっていない。自分が異教の神を熱心に礼拝してはいないからと言って、彼が偶像崇拝をしていないことにはならない、ということが分かっていないのだ。エリヤはそのとき、人は主に従うか偶像の神に従うかのどちからしかないのだということを指摘したのであり、そのように預言者は、人々と神の間に立ち、決断を迫るのである。
 エリヤとバアルの預言者の対決が始まった。預言者は、この対決のために生きていると言っても過言ではない。彼の生涯は、この対決に勝利するためにある。そしてその為に彼は、他のすべてを犠牲にする。かく預言者の生涯は、神の前に浪費され、捧げられているのであり、それゆえ彼は、対決において勝利するのである。
 エリヤは言った、「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は450人もいる。」しかし、彼の勝利の鍵は、実はイスラエルの全会衆なのである。つまり、彼の救済の対象こそが、また彼の味方なのである。それは、彼らを創造されたのは神であり、預言者は、その対決者との間で、奪い合いの対決をしているのではなく、捕虜になっている味方を救済するのであり、彼らは救済されると速やかに戦列に復帰し得るのである。エリヤは、カルメル山頂での彼らとの対決に勝利し、改心した民衆と共に偽預言者850人あまりを捕らえ、キション川に連れて行って殺した。
 いまあなたが、教会で伝道を担っているなら。あるいは、例えそうでなくても、神から心に伝道への重荷が与えられているなら。あなたが伝道に出て行くとき、そこに協力者が殆どいなくても、嘆いたり落胆したりするには及ばない。なぜなら、あなたの協力者は、あなたの伝道しようとしている、まさにその人であり、あなたの伝道を通じて、神がその人を即座に霊の強者に変えられるのをあなたは見るであろうから。
 神がエリヤに告げておられたように、いまや3年間の干ばつは終わり、大雨がやって来ようとしていた。しかしエリヤは、神の前に熱心に祈っていた。彼に与えられていた神の言葉と確信にも関わらず、彼は、自分の祈りによらなければ、何事も起こらないことを知っていたのである。そして彼が祈り始めてしばらくしてから、大雨がやって来た。それが来るのは確実であったが、それを来たらせたのは、エリヤの祈りであった。神は、かく預言者と共に働かれるのである。

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2007/07/24

預言者

列王記上 第17章

 イスラエルに偶像崇拝が蔓延し、歴代の王が自ら異教の神々の神殿を建て、その前にひれ伏すに及び、神はご自身のために預言者を立て、お遣わしになった。このころと同様、現代社会にも偶像が蔓延している。列王記は、預言者の書である。神は、これを読むあなたが、現代の預言者となるためにこれを書かれたのである。
 ティシュベ人エリヤは、アハブ王のところへ行って言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
 彼は、らくだの毛衣を着、腰には皮の帯を締めていた。その風変わりな出で立ちと、死をも覚悟した形相に、さすがのアハブ王も少したじろいだことだろう。エリヤがそのようにして、アハブ王の前を無事に出ていくと、彼に再び神の言葉が臨み、彼を郷里ケリト川のほとりへと退かせた。エリヤはたぶん、その川のほとりで、かつて神から預言者としての訓練を受けたのだろう。それは、人里から離れて、一人静思の中で神に向かう毎日だっただろう。しかし、今度はかなり様子が違っていた。彼の周りの自然は生気を失い、口にできる何物もなく、不気味なカラスが彼にパンと肉を運んできた。しかしやがて川の水は枯れ、生きていく最後の望みもなくなった。預言者は、死に至るまで神に従う人である。エリヤはそのとき、自分の郷里で人知られずに滅びうせようとしていた。
 あなたはいま、信仰者として神の訓練を受けているだろうか。そしてそれは、うるわしい静思の時を通じてであろうか。もしそうなら、神はまだあなたを遣わされてはいない。しかし、やがてあなたの周りの状況が一変し、それらが牙を剥いてあなたに襲いかかってくるときが来る。そのときあなたは、神があなたを遣わされたことを知るのである。
 そのとき神は、再びエリヤに声をかけられた。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」預言者は、一人神の前に立つ人であると共に、また人々の直中で生きる者でもある。神は、イスラエルの僻地サレプタに助けが必要なやもめ一人を見いだし、そこへエリヤを遣わされたのだった。
 預言者は、その語る神の言葉により状況を変える力を持つ。それは、彼が神の御心を行うためであり、また彼と共にいる者が、神の栄光を見るためでもある。エリヤが語った言葉は、そこの状況を一変してしまった。しかし、それを知っているのは、そのやもめとエリヤだけであった。
 ああ、あなたがもしこの現代社会の直中にあって、主の預言者として遣わされたいと願うなら、あなたは逆に、すべての望みをすて去らなければならない。あなたはまず、エリヤのように人里はなれたところに退き、そこで無一物のようにならなければならない。その後に、神はあなたを一人の夢も望みもない人のところへ遣わされる。それがすべての始まりである。もしあなたが信じるなら、たとえそのようなところでも、神の大いなる栄光があなたの手によって現される。なぜなら、もしあなたが預言者なら、あなたがいるところに神も一緒におられるからである。

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2007/07/19

王制の乱れ

列王記上 第16章

 バシャは、ヤロブアムの家系の者をイスラエルから一掃したが、自ら第二のヤロブアムとなり、イスラエルに罪を犯させ続けた。そこで彼の家系もまた、ヤロブアムと同様に、その子エラの代で消え去ることになった。そして、このヤロブアム後の36年間に、実に5人の王が入れ替わり立ち代わりイスラエルを治めることになる。
 このような国家の状態は、その安定性から見て最低と言えよう。聖書は、その原因をヤロブアムが始めた偶像崇拝に置いている。偶像礼拝とは、神でないもの、被造物を拝むことであり、被造物同士で結託することである。本人たちは、自分が間違っていることを心のどこかで理解している。パウロがローマ人への手紙の中で言っているように、彼らには弁解の余地がないのである。そしてそれこそが、彼らにとって罠となる。そのような倒錯した頭脳の考えることは、神の支配する世界においては、永く存続することはできないからである。
 そして彼らはまた、彼らの行いの故に、神の呪いの元にある。アハブ王の治世に、ベテルの人ヒエルはエリコを再建したが、かつて主がヌンの子ヨシュアを通してお告げになった御言葉のとおり、その基礎を据えたときに長子アビラムを失い、扉を取り付けたときに末子セグブを失った。
 この世界には、悪いことがまかり通り、罪のない人がゆえなく苦しめられ、災難が無差別に人を遅い、この世の人の言葉では、神も仏もないように見えるかもしれない。しかしそのような観点は、この偶像礼拝との因果関係を見逃しているのかもしれない。聖書はそのようには教えていないし、返って、神は罪のない人を罪人と共に滅ぼされるようなお方ではないと教えているのだから。

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2007/07/18

ヤロブアム王家の消滅

列王記上 第15章

 レハブアムの次に王位についたアビヤは、父祖ダビデの心のようには、主と一つではなかったが、ユダに一つの信仰覚醒をもたらした。彼は、ヤロブアムの率いる全イスラエル軍80万との戦いにおいて、自分は40万の兵士と共に主に叫んでその超自然的な介入を経て、圧倒的な勝利を得たのであった。その神の御業を体験した次世代の王アサは、父祖ダビデのように主の目にかなう正しいことを行い、ユダの町々から偶像をすべて取り除いた。また、彼の母がアシュラ像を造ったので、彼女を太后の位から退けた。アサの心は、その生涯を通じて主と一つであった。
 信仰にとって、実際の体験は非常に重要である。信仰者は、心にこの体験を持っている。聖書のみ言葉は、信じる者に道を示すが、その示された道に従い行くことを得させるのは、信仰者自身の神体験なのである。ヤロブアムには、この神体験がなかった。彼が最初に預言者アヒヤに出会ったとき、アヒヤは実に、着ていた真新しい外套、これは預言者の命とも言えるものだが、それを引き裂くという強烈な掲示を行った。しかしヤロブアムの心は、そのことによっても神を見ることがなかったのである。ヤロブアムは、この戦いで大打撃を受け、その後立ち直ることなく、自分のナダブに王位を譲ることになる。
 ナダブは、二年間イスラエルを治めたが、イサカルの家のアヒヤの子バシャの謀反により王位を剥奪されてしまう。バシャは、ナダブを含むレハベアム一族を根絶やしにし、アヒヤの預言が実現したのだった。

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2007/07/17

偶像崇拝

列王記上 第14章

 その後、ヤロブアムの幼い息子が病気になった。彼は、自分の妻を変装させて、シロにいる預言者アヒヤの元に遣わした。彼は、その病気が主から来たことを知っていた。しかもそれが、神の裁きであることも感じていた。しかし、幼子の癒しを主に願おうとは思わなかった。これは、神に背を向けている人すべてに共通する心境だろう。それは、キルケゴールによれば、悪魔の心境でもある。つまり、自分は間違っており、しかも神より弱い存在であることを知っていながら、翻って自分の考えを変えることができないのであり、そのような悶々とした意識の中で、悔い改めるどころか、ますます傲慢になって行ってしまうのである。
 主は、ヤロブアムの妻が来ることを事前にアヒヤに告げ、彼に裁きの預言を授けられた。ここに神の心中を伺うことができる。神は、ご自身が選ばれた器に対して、直接裁きを告げるに忍びなかったのだろう。主イエスもイスカリオテのユダに対して、同じようにして、嘆きつつ裁きを告げられた。神がアヒヤによってヤロブアムの妻に告げられた通り、その幼子は、その日に死んだ。しかしそれは、預言された時、すなわちヤロブアムの妻が町に入ったときではなく、家の敷居を跨いだときであった。ここにも神のためらいが感じられる。神はヤロブアムが悔い改めれば彼を赦し、幼子の命を救おうとされておられたのだと思う。それが神の選ばれた者への哀れみなのだ。しかしまた一方で、ヤロブアムは悔い改めることができなかった。彼の心は、神よりもこの世を愛し、意図的な偶像崇拝に染まっていた。彼が偶像の神を自ら信じていたというのではない。彼はそれを、民を治める手段として自ら推進した。そして、それゆえにもう、引き返すことができなくなってしまったのであった。そしてそれは再び、彼が偶像崇拝を始めたことによるのである。
 一方、レハベアムの母は、アンモン人だったので、その子レハベアムは、異教の慣習をユダに持ち込んでしまった。。ユダの人々は、アシュラ像を作り、あらゆる高い丘の上と、茂った木の下に、聖なる高台を築いた。そこで主は、エジプトの王シシャクをエルサレムに攻め上らせて、神殿と宮殿の宝物を奪い去らせられた。そのようにして、ソロモンによって築かれた統一国家と神殿における信仰は、いまやイスラエル民族の全体において、完全に崩れ去ってしまったのであった。しかしイスラエルの中に、神の灯火が消えてしまったのではなかった。神はかつて、預言者アヒヤに言われた、「わたしの名を置くためにわたしが選んだ都エルサレムで、わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする」と。神はこのときも、またこの後もずっと、ソロモンが建てた神殿に留まられ、そこで民の不信仰、偶像礼拝に耐えられたのであった。そしてこの神の忍耐は、実に350年以上も後のバビロン捕囚まで続くのである。

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2007/07/16

神の人

列王記上 第13章

 ヤロブアムが偶像崇拝を行っていたべテルに一人の老預言者が住んでいた。彼はヤロブアムの行いが正しくないことを知っていた。そして、神が彼を用いて、この悪政からイスラエルを救い、もう一度イスラエルが立ち直ることを待ち望んでいた。あるとき、彼の息子が来て、ユダからべテルに神の人がやって来て、預言を語り、しるしを行い、ヤロブアムの手をなえさせたあととりなしの祈りにより元通りにしたこと等を伝えた。彼は、神が自分ではない別の者、しかもユダに住んでいる預言者を用いられたことについて疑問を感じた。そして、ろばに鞍を置き、そのユダから来た預言者を探して、彼をだまし、自分の家に連れてきて食事をさせた。彼は、ユダから来た預言者が本物かどうか、神が本当に自分を用いずに彼を用いたのかどうか、どうしても知りたかったのだろう。ユダから来た預言者は、主から、この地で飲み食いしてはいけないと硬く命じられていた。彼がまだ食事をしているときに、老預言者に主の言葉が臨んで言った、「主はこういわれる。あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓にはいれられない。」果たしてその預言者は、老預言者の言ったとおり、帰り道で獅子に襲われて命を落としてしまった。老預言者は、自分の語った預言が成就したことにより、彼の預言が本当だったことを悟った。そして、彼のなきがらを自分の町に持ち帰り、彼を弔い、葬った。そして自分の息子たちに言った、「わたしが死んだら、あの神の人を葬った墓にわたしを葬り、あの人の骨のそばにわたしの骨を納めてくれ。あの人が、主の言葉に従ってべテルにある祭壇とサマリアの町々にあるすべての聖なる高台の神殿に向かって呼びかけた言葉は、必ず成就するからだ。」
 彼の預言は、それから250年以上後になって、その語られた通り、ユダに生まれたヨシヤという王により実現することになった。しかしこの出来事の後も、ヤロブアムは悪の道を離れて立ち返ることがなかったので、主によってその家は、彼の息子の代で絶えてしまうことになった。

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