2007/07/04

神の怒り

サムエル記下 第24章

 かつてイスラエルに起こった3年間の飢饉は、サウルの家系にある7人の若者が悲惨にも犠牲になることによりなんとか収まった。しかし、その本当の原因、すなわち神がなぜ、過去のサウルの罪を思い出されたのかという真の原因究明は、成される由もなかった。そういう訳で、その後国は、ダビデの統治下で急速に乱れて行ったと思われる。ダビデは、戦いにおいてはイスラエルの指導者であったが、平和な世においては、成すことをしらないお人好しであったのだろう。そのようにして、イスラエル社会の罪は、神の前に積み上げられていき、いつしか天にまで達しそうになっていた。
 そしてついに神の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。神は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われたと記されているが、神は人を誘惑されるような方ではないので、ダビデを誘惑したのはサタンである。しかし、サタンも神の許しの中で動いているのであり、神はそれを止めることをされなかったということだろう。実際、イスラエルの王には、神からの油注ぎがあり、それがすべての悪の誘惑から王を守っているのだが、神の前にイスラエル社会の乱れが頂点に達していたことにより、神がダビデからご自身の油注ぎを取り去っておられたのだと思う。
 ダビデは、直属の軍の司令官ヨアブに、「ダンからベエル・シェバに及ぶイスラエルの全部族の間を巡って民の数を調べよ。民の数が知りたい」と命じた。ダビデは、イスラエルを実質的には、治めていないに等しかったので、自分の統治を実感できるものが欲しかったのか、あるいは、これから心機一転して国を立て直すために、政策立案のための基礎資料が必要だったのかもしれない。しかしそれは、神の国イスラエルを人の力で治めようとする試みであり、まさにサタンの誘惑の目指したところであったのだ。しかしダビデの心は、かつて神のみにより頼んでいたころの麗しい感触を覚えており、自分が指示したことの間違えをその感触で察したので、それはダビデの心に呵責となった。ダビデは神に言った。「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。」ダビデが朝起きると、神の言葉がダビデの預言者であり先見者であるガドに臨んでいた。
 ガドは、ダビデに神からの3つの罰を提示した。7年間の飢饉、3ヶ月の逃亡生活、そして3日間の疫病の流行であった。最初の2つはダビデがすでに経験したものであり、彼はそれはもう御免であった。そしてダビデは、3日間の疫病を選択した。以前の彼であったなら、多分3ヶ月の逃亡生活を選んでいたことだろう。しかし、それにはダビデは歳をとりすぎていたし、彼の目下の目標は、国を立て直すことであり、自分が逃亡するのは良くないように思われたのだろう。しかし、上でも述べたが、それはサタンの思う壺でもあったのである。ダビデが選択した罰は、7万人という多数の犠牲者を出す結果になった。そしてこれがダビデの統治の総決算だったのである。
 しかし、そういうことはあっても、ダビデは神に愛される人であり、永遠の名王であることには変わりはない。彼ほど一途な心で神に従い通した者はなく、彼ほど神の力と主権の麗しさを提示した王もいない。彼は、神から自分に与えられた範囲の賜物を余すところなく用いて、神の愛を生き抜いた。彼の生涯は、聖書に記録されて燦然と輝き、現代を生きる信仰者にも励ましと実践的な教訓を与えてくれる。ダビデこそ、主イエス・キリストの父と呼ばれるにふさわしい人なのである。

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2007/07/03

勇士たち

サムエル記下 第23章

 ダビデが語った最後の言葉には、彼の次の世代への期待が込められていた。彼は、自分ではそれを成し得なかったが、彼の子がそれを実現する希望を与えられていた。それは、神から与えられる知恵によってイスラエルを治めることである。ダビデがこの希望を持ち得たのは、彼が、その詩作において神から与えられた麗しい言葉を持っていたからであり、また、戦いに出て行く正にそのときに、彼に注がれる、神からの油注ぎの感触を知っていたからであった。
 旧約聖書の記事は、みな象徴的な意味を与えられている。創世記は、私たちの個人的な起源と原罪について、出エジプト記は、そこからの脱出を、ヨシュア記は、神の国への突入について、そしてサムエル記は、神の国における戦いについてそれぞれ書かれていると思う。ダビデは、戦いの生涯を生きた。それは、この地上の神の国を生きる私たちに、その指針と具体的な励ましを与えるためである。
 私たちの人生には、多くの困難がある。男であれは、社会には常に7人の敵がいる。その中の一人は、あなたにとってサウルのような存在かもしれない。彼がいる限り、あなたに出世の道はない。しかしあなたは、組織の中で彼を敬わなければならない。そのとき、もしあなたが信じるなら、それはそのままサムエル記の状況なのであり、あなたが信仰者ならあなたは、ダビデその人なのである。あなたの属している組織は、神によって設定されたものであり、あなたが服している権威の最上部には、神がおられるからである。そして、あなたがそこで、もしダビデその人となろうと欲し、ダビデの戦いを戦おうと欲するなら、そのようなあなたに天からダビデの油注ぎが注がれることになる。あなたの服していたサウルは、いつしか戦いに倒れ、あなたの光が暁のように輝き昇り、あなたは、聖書に「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と書かれているように、まことの勝利者となる。
 サムエル記が書かれたのは、そのためである。だからあなたの武器は、この聖書の中にある。三勇士とその頭たち、すなわちヨアブ、アビシャイ、そして、ヨヤダの子ベナヤである。

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戦いの生涯

サムエル記下 第22章

 ダビデの生涯は、一言で言うと戦いの連続であった。彼は、戦いの為に生まれた。彼が戦いに出て行くと神の力が降り、彼の前に敵は倒れた。神は、彼が出て行く所、どこにおいても彼に勝利を与えられた。神は、ダビデにより、この地に裁きを行われた。
 しかし、平和が訪れると彼の心には、迷いが生じた。彼には、国を治める知恵は、与えられていなかった。神は、一人に多くの賜物を与えることはなさらない。彼が持っていたのは、敵に戦いを挑み、勝利し、戦利品を奪い取る力であった。これは、神の国の力であり、そのように天国は、攻められており、激しく襲う者たちがそれを奪い取っているのである。
 私たちが、自分の人生において勝利者となり、義の栄冠を勝ち取りたいと思うなら、私たちは、ダビデのようになろうと意志する必要がある。しかし、もし私たちが戦いをやめるなら、そこに迷いがやってくる。ダビデを誘惑した悪の力が私たちを捕らえ始める。だから私たちは、戦いをやめてはならない。私たちの生涯の全行程を、戦いにより走り抜けなければならない。
 しかし、ダビデにもやすらぎの時はあった。彼は竪琴を奏で、歌をうたった。また、神を賛美する詩を書いた。それらは、精神における戦いであり、彼はそこにおいても勝利を得ていたのである。彼は、その勝利の中に安らぐことができた。というのは、その勝利は、彼が自分の力で勝ち取るものではなく、神が彼に勝利をもたらされたからである。敵が彼を取り囲み、自分の武力を誇り、彼の神を侮るときにも、彼は神に向かって叫び、助けを求め、献身を言い表した。そのとき、神の元から平安と力が出て、彼を取り囲む要塞を打ち砕いた。
 今日の私たちの生活にも、様々な敵がおり、戦いがある。しかし、その只中にあって、私たちは安らぎを得ることができる。私たちがダビデのように神に頼り、神に叫び、神を賛美するならば、神の元から安らぎと力が私たちの元に降ってくる。
 それは、ダビデの子イエス・キリストの恵みが、常に私たちとともにあるからである。

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2007/07/02

衰え

サムエル記下 第21章

 反逆者シェバが制圧され、指令官の対抗馬アマサが暗殺されて、イスラエルはなんとか元の平安を取り戻した。しかしダビデの統治における根本的な問題は、何も解決していなかった。そして、新たな問題が表面化してきた。それは、ギブオン人の人権に関するものである。彼らはずるく、再びイスラエルをあざむき、この復興期のどさくさに乗じて、自分たちの人権の確立をもくろんだのかもしれない。
 神は、そのようになおざりにされている統治に対して、怒りを発せられたのだろう。神は、以前のサウルの罪を思い出された。そのようにして、イスラエルに三年続きの飢饉が到来した。
 ダビデが神に託宣を求めると、神は答えられた。「ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。」ダビデは、ギブオン人に言った。「あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の斯業を祝福してもらえるだろうか。」これは、ギブオン人の思う壷であった。ダビデは、彼らと交渉し、サウルの家系にある7人を彼らに差し出すことで同意を得た。
 私は、どうしてもこのダビデが行ったことの意味が分からない。それしか道がなかったとは、どうしても思えない。返ってダビデには、彼らの訴えを退けることが求められていたのではないかと思う。彼らは、イスラエル人ではなく、目には目をというイスラエルの律法がすべて彼らに適用されるわけではないだろうから。しかしそれでは、ギブオン人との過去の契約はどうなるのかと言うと、それは、実は神との契約であるから、動物の犠牲を捧げることにより、神の赦しを求めることは可能だったと思う。しかしダビデは、ギブオン人の訴え通り、7人の子供を彼らに差し出し、殺させてしまった。それは公然と行われた悲惨なできごとであった。ダビデが行わせたこのことは、この後にもイスラエル人とギブオン人の間に、良くない感情を残したことだろう。それは、ダビデが権力で国を治めることを怠ったためである。しかし神は、このことによっても、彼らの願いを聞き入れ、飢饉を差し止められたが、神のダビデに対する不満は、その後も積み重ねられて行ったのだと思う。
 その後、ペリシテ人が再びイスラエルと戦ったとき、ダビデは家臣を率いて出陣したが、力の衰えを感じていたダビデは、危うくペリシテ人の前に倒れるところであった。しかし、勇士アビシャイが彼を救った。それから後、家来たちは、ダビデに戦場へ出ないように誓わせた。

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2007/06/30

権威に従うこと

サムエル記下 第20章

 そして、ついに反逆者が出た。シェバというベニヤミン人ビクリの息子で、ならず者であった。彼が角笛を吹いて、「我々にはダビデと分け合うものはない。エッサイの子と共にする斯業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。」と呼ばわると、イスラエルの人々は皆ダビデを離れ、シェバに従った。
 ダビデは、イスラエルの人々に媚びへつらって、ヨアブの代わりに任命した軍の指令官アマサに、ユダの人々を動員することを命じた。しかしそれは無理であった。彼は、その能力もなく、ユダの人々と懇意でもなかったのだから。そこでダビデは、今度は勇士アビシャイに命じて、ツィバを追跡させた。彼は、もはや熟練した指令官ヨアブに顔向けできなかったのだ。それでもヨアブは、アビシャイについて出陣し、途中でアマサに出会い、彼を殺した。
 ヨアブは、つねにダビデの権威に従っていた。彼は、いつも忠実な指揮官であった。しかし、彼の心は、いつもダビデに対抗していた。彼は、ダビデの心の迷いをいつも敏感に感じ取り、そのリスクを評価し、自分の信じるところを行い、栄光を主に油注がれた王ダビデに帰した。彼こそ、イスラエルで最も優秀な指揮官であった。ヨアブは、人が人の権威に従うということの意味を教えてくれる。神は人の社会に権威の階層を設定される。現代社会は、多くの権威の階層の下に成り立っている。家族、学校、会社、自治体、国、それらは、必ずしも一貫しておらず、入り混じった複雑な階層関係になっている。その権威の階層の中で、自分の上の権威に従うとは、ヨアブのように従い、自分の信じる通りに行動し、それら二つのことがまさにヨアブのように調和しているべきことである。自分の上にいる人も人間であり、ダビデのように不完全な者であるからである。しかし神に従うという一点にかけては、ヨアブはダビデのようではなかった。ダビデに近かったのは、むしろアビシャイであった。だからダビデは、ヨアブよりもむしろアビシャイに命令したのである。そして、人は現代を生きるときに、ヨアブのように上の権威に従い、ダビデのように神に従うことを求められているのである。
 シェバは、ベト・マアカのアベルという街に逃げ込み、ヨアブはその街を包囲した。その街に、一人の知恵のある女がいて、ヨアブと話し、賢く振舞って街を破滅から救った。彼女は、ヨアブの権威に従い、ヨアブの権威を受けて自分の権威として行使し、知恵を用いてすべての民のもとに行き、ビクリの子シェバの首を切り落とさせ、ヨアブに向けてそれを投げ落とした。ヨアブは角笛を吹き鳴らし、兵はこの町からそれぞれの天幕に散って行った。ヨアブは、エルサレムの王のもとへ戻った。
 ヨアブこそイスラエル全軍の司令官。ヨヤダの子ベナヤはクレタ人とペレティ人の監督官。アドラムは労役の監督官。アヒルドの子ヨシャファトは補佐官。シェワは書記官。ツァドクとアビアタルは祭司。ヤイル人イラもダビデの祭司である。

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アブサロムの幻

サムエル記下 第19章

 息子アブサロムを失ったダビデの悲しみは大きかった。彼にとって、この勝利は何の喜びでもなく、ただただ悲しみであった。彼の心を理解してくれる者はいなかった。彼は、今度もまた自分の流した血の報いを受けたのであった。ダビデは考えただろう、もう殺し合いは御免だと。彼は、息子アブサロムが行ったことをなぜか憎めなかった。アブサロムは戦いに関しては力がなかったが、人を動かす力を持っていた。それは、彼の人柄であり、その魅力によって多くの人が彼に着き従っていたのであった。ダビデは、自分にもそのような能力があれば、多くの血を流さずに済むのではないかと思った。
 イスラエルの人々がダビデの帰還を望んでいるとの声がダビデ王の家に伝わると王は、祭司ツァドクとアビアタルのもとに人を遣わして講和を求めた。彼は、息子アブサロムのようなやり方で、ユダのすべての人々の心を動かして一人の人の心のようにした。
 ダビデがヨルダン川にさしかかったとき、かつての親しい顔ぶれが、彼を助けようとしてそこに来ていた。そこに、かつてダビデがアブサロムを避けて逃げるとき彼を呪ったゲラの子シムイも来て平伏して赦しを求めた。勇士アビシャイは、言った、「シムイが死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです。」
 その通り、シムイは死ななければならなかった。もし彼がこの後も生きていることができるなら、王はもはやイスラエルを治めることはできない。それが主が油注がれた王の宿命なのである。アブサロムのような治め方は、幻想であり、この時代ではあり得ないことなのである。しかし、このときダビデは、このアブサロムの幻想にとらわれてしまっていたのである。
 しかし、それはこの時代だけの問題なのだろうか。人はそのように考える。すなわち、力で治めるということは、このサムエル記のような野蛮な時代特有のものであり、現代においては、もっと理想的な解決方法、統治方法があると。しかし本当にそうであろうか。現実にそのようなものがこの世界のどこに見いだされるだろうか。むしろ、それは現代においても、やはり依然として幻想であり続けているのではないか。そして、それを知らずに幻想を追い求めている、「名目だけの正しい人」が、実は世界を悲惨な状態にしているのではないだろうか。そのような人には、主イエス・キリストが万軍の主であることも、報いを持って天から下って来られることも理解できないのであろう。シムイを糾弾するツェルヤの子たちの声にも関わらず、ダビデは、シムイを裁くことをしなかった。
 王がギルガルへ進んだとき、イスラエルの人々が王のもとに来て言った。「なぜ我々の兄弟のユダの人々があなたを奪い取り、王とご家族が直属の兵と共にヨルダン川を渡るのを助けたのですか。」ユダの人々はイスラエルの人々に応えた。「王は私たちの近親だからだ。なぜこの事で腹を立てるのだ。我々が王の食物を食べ、贈り物をもらっているとでも言うのか。」イスラエルとユダは、ダビデ王の前でこのようにぶつかり合った。それはダビデがもはや以前のように、力で国を治めようとしなかったからだ。

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2007/06/29

急使

サムエル記下 第18章

 ダビデとその子アブサロムは、ついに対戦の日を迎えた。ダビデは、これを避けるために逃亡していたのだった。しかしいざその状況になると、戦術に長けたダビデは、手際よく百人、千人に兵士の軍団を組織し、その長を任命し、それらを3人の勇士、ヨアブ、アビシャイ、イタイに委ねた。ダビデの熟練した統率に対して、イスラエル軍は、何の戦略も与えられず、森の中で迷い、ほとんど戦わずに二万人が倒れた。アブサロムは、密林の中を長期間動き回ることを予想し、自分はらばに乗っていたが、それでは、兵士たちの困難な状況が分からなかっただろう。その上彼は、らばが樫の大木のからみあった下を通るときに、頭をひっかけて宙吊りになってしまい、らばはそのまま行ってしまった。それを見たダビデ軍の兵士がアブサロムを手にかけることを恐れてヨアブに報告すると、ヨアブは出て行って自らアブサロムを殺した。
 急使が二人、ダビデに向けて送られることになった。それは、共に勝利の知らせを携えていた。ツァドクの子アヒマアツは、以前からダビデの特使であり、ものごとの成り行きを順序立てて、意味を分析、整理して伝える能力を持っていた。彼は、自分に与えられていた使命に従い、この勝利の状況を、その意味も含めて、いち早く的確にダビデに伝えに行くことをヨアブに嘆願し、受け入れられた。彼は、これまでのように、走りながら自分の伝えるべきことの意味を分析、整理していた。そしてダビデの前に出たとき、「王に平和!」とまず報告全体の主題を述べ、続いて「あなたの神、主はほめたたえられますように。主は主君、王に手を上げる者どもを引き渡してくださいました。」と言った。それは、勝利は最初から神の御手にあり、ただその神の御心により、勝利がもたらされたという、ダビデに対する最高の賛辞であった。しかしこの、彼の考え抜いた報告は、ダビデの最初の質問によって、ないがしろにされてしまった。「若者アブサロムは無事か。」アヒマアツは、その答えを持っていたが、その意味が彼の中で整理されていなかったので、答えられなかった。
 もう一人の急使が到着して報告を始めた。彼は何も準備していなかったが、自分の見たままをダビデに語った。「主君、あなたに逆らって立つ者は、ことごとくあの若者のようになりますように。」

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2007/06/28

確信

サムエル記下 第17章

 アヒトフェルは、その優れた頭脳で、疲れて力を失っているダビデの一行を急襲することを提案した。彼の提案は、アブサロムにもイスラエルの長老全員の目にも正しいものと映った。
 しかし、神に選ばれた王が部下に意見を求めるときは、提案を求めているのではない。ダビデはいつも、すでに自分の考えを持っていた。神が最高の戦略を常に彼に授けられたからである。そこでダビデが部下の意見を求める時は、彼と同じ志を持つ者を探すときなのである。ダビデは、そのような者しか自分の近くを共に歩ませることはなかった。
 しかし、アブサロムはフシャイを呼び寄せ、彼にも意見を述べさせた。そこでフシャイは、アヒトフェルの提案に対抗して、ダビデをかばうための提案をした。それは、巧みに恐怖を織りまぜて着色されていた。評価する力のない者に対しては、後出しの提案の方が良く見えるものだ。そのようにして、アヒトフェルの優れた提案が捨てられて、フシャイの提案が採用されてしまった。神がアブサロムに裁きを定められていたからであった。
 神から智恵を授けられた者には、一つの確信がある。それは、彼の提案は常に正しいという確信である。そこで、それが捨てられることは、必然的に災いを意味する。アヒトフェルは、このときアブサロムと自分に迫っている災いを感じ取っていた。彼は、自分の家に帰り、首を吊って死んだ。
 ダビデの一行がマナナイムに着いたころ、アブサロムと彼に従うイスラエルの兵は皆、共にヨルダンを渡った。アブサロムは、イスラエル中から急いで兵を集めて軍隊を結成したので、すべてが即席であり、軍の司令官さえいなかった。つわものであるヨアブやアビシャイは、ダビデについていたからである。彼らは、ダビデのスピリットを受け継いでいた。アブサロムは、とりあえず家系等を考慮しながら、イトラというイスラエル人の子アマサを軍の司令官に任命した。一方、ダビデとその兵士たちは、マナナイムに到着して一息つき、そこでダビデを慕う者たちから、食料や資材の供給を受けて、力を取り戻し始めていた。

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2007/06/27

嘆願

サムエル記下 第16章

 アブサロムは、父ダビデに反逆する陰謀のために、ダビデの顧問であったギロ人アヒトフェルを自分の見方に付けていた。アヒトフェルは、神から聡明な心と知恵を与えられた人であり、彼の言葉は、ダビデにとっても神託のようなものであった。アブサロムは、その美貌とやさしい言葉で、巧みにイスラエルの人々の心を盗みとり、賢人アヒトフェルを得、今や多くの兵士をも抱えていた。そこで、ダビデが逃げるのは、ある意味で当を得たことであった。アブサロムは、この陰謀により、楽々と王座を手に入れてしまった。すなわち、ダビデは王座を易々と自分の子アブサロムに譲ってしまったのだった。ダビデと彼に従う者たちは、頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら登って行った。ダビデがバフリムというところにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子で名をシムイという男が呪いながら出てきて、ダビデの一行に石を投げつけた。ダビデは、それを止めさせようとしなかった。
 ダビデの心にあったのは、ただ一つ、息子アブサロムが自分に反逆したことへの驚きと嘆きであった。それが、ダビデからすべての闘志を奪っていた。このことに比べたら、自分の王座が奪われたことなど、彼にとっては小さなことであった。ダビデは勇士であり、どのような強敵にも勇敢にためらうことなく立ち向かって行った。そのようなとき、彼には一点の迷いもなかった。しかし、息子アブサロムのことに関しては、ダビデの心は悩み、当惑し、苦しんだ。そして、反逆者アブサロムに対して、怒ることも、罰を与えることさえもできなかった。このダビデの心は、天の父の罪びとに対する心である。人類の歴史始まって以来の罪深い世紀とも言える現代にあって、天の父がなぜ御怒りを現されないかは、このダビデの心を思うとき初めて理解できる。
 ああしかし、神は侮られるようなお方ではない。現代において、罪人に思うままに振舞わせておられる神は、また思うままに裁かれるお方である。その恐ろしい裁きの日は、必ずやって来るのであり、悪を行っていた者で、それを逃れられる者はいない。ダビデも神に選ばれた王であるかぎり、また侮られるような者ではなかった。もともとダビデには、身を守るものや、財産など、なにも必要ではなかったのだ。彼には、神から注がれた油があった。それが状況を一瞬のうちに変えてしまう力を持っていた。どのように不利な状況にあろうとも、彼の口が祈りに動くとき、そこに神の力が働き、その力は新しい、それまでになかったものを創造し始めるのである。その祈りは、どのようなものだろうか。怒涛のような雄叫びであろうか。いや、それは今日の神を信じる者の嘆願と同じ祈りなのである。彼ダビデは、神に祈った、「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と。

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反逆

サムエル記下 第15章

 アブサロムは、父ダビデの前に出ることを許された後、戦車と馬ならびに五十人の護衛兵を整え、王への反逆を企てた。なぜ彼の心は、このように急に変わってしまったのだろう。やっと念願の父の前に出られたと言うのに。しかしこのことは、アブサロムの心の奥にあったことが明るみに出ただけなのだ。彼が父ダビデの前に出たいと思っていたことの真の意味がこれで明らかになった。それは、最初から反逆への願望だったのだ。その隠れた願望は、その前にある人並みな願望がかなったときに、初めて自覚され、外へと現れ出でるのである。
 これは、ちょうどルシファーが神に反逆したのと同じである。イスラエルの中に、アブサロムほど美しさにおいて秀でている者はいなかった。彼の美しさは、父ダビデより勝っていた。しかし彼は父ダビデから出てきた者であった。しかし彼の心は、自分の作られた美しさにより高慢になり、自分を産んでくれた父に反逆し、父の栄光を横取りしようと思うに至ったのである。
 ダビデは、王宮を後にして出発し、彼を慕う人々もその後に従って行った。レビ人も神の箱を担いで従って来ていたが、ダビデはレビ人に神の箱と共にをエルサレムに帰るよう指示して言った。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。」彼は外国人のイタイがダビデと共に亡命したいと願うのを聞き入れ、着いて来ることを許した。
 しかし、ルシファーの反逆の構図から見れば、逃げているのは、実はアブサロムの方であり、ダビデではないのだ。例え神の箱がアブサロムと共にあったとしても、問題は、神がどちらの側におられるかということなのである。
 ダビデは、アヒトフェルがアブサロムの陰謀に加わったという知らせを聞き、重臣フシャイをアブサロムの元へ送り、彼にスパイ活動を依頼した。王宮には、すでに祭司ツァドクとその息子アヒマアツ、アビアタルがいて、ダビデのための情報収集に従事していた。

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