2010/01/22

巨大化

 現代社会の一つの特徴として、その構造の巨大化と相互の吸収作用をあげることができるのではないだろうか。企業が生き残るために次々と他の企業を買収、吸収し巨大化していく。吸収される側の企業にも、もはやそれに応じる以外に選択の余地がなくなっている場合も多い。私の関係する情報分野においては、Linux等の巨大なオープンソースコミュニティーが存在する。また、Google、Yahoo、IBM、Microsoft、Oracleというような巨大なIT企業が他の追随を許さずにさらなる巨大化を推し進める。その力の前には、すでに日本の情報企業も太刀打ちできない。ネットビジネスやクラウドコンピューティングのビジネスにおいても、すでに勢力の構図ができあがっており、それを打ち破ることはほとんど不可能に見られる。
 このような社会経済における巨大化の構造は、人間の意識にも当然反映してきている。それは、人間存在の根底を揺り動し、一人一人の存在感を喪失させ、もはや自分はなにか巨大な組織の一員、単なる一個の歯車としてしか生きられないという思いを抱かせるに十分である。実際問題としても、それ以外にもはや現代人の生きる道はないように見える。人間的な目から見るとそれ以外に道は残されていないのである。というのは、上記のような社会経済構造に対応して、人と人との関係や学問、芸術に至るまでが高度に階層化、細分化してしまっているからである。さらに特徴的なこととして、下の層に属する者がその上の層に進出するようなことは、様々な事情から非常に困難な仕組みになってきているのである。それにより、下の階層に生まれついたもの、不幸な経緯で突如として下層に落ち込んでしまったものは、もう二度と上の階層に復帰することは不可能なような社会になっているのである。というのは、ごく少数の上位の者が無数の下位の階層の者たちから利益を搾取するという、古来の社会原理がこの高度に発展した科学経済の現代社会においても依然として成り立っているばかりか、これまでにないほどに強固なものとして構築されてきているからである。その背後には、アダムを誘惑してその祝福をだまし取った悪魔の存在が見える。悪魔は、1/3の天使を従えて神に反逆し、神の王国に敵対し、これを自分の支配下に治めようと企てており、世の人々を物欲により誘導して、この世界を自分の王国に変えようとしているのである。
 これらの動きに抵抗し、それを打ち破るためにはどうすればよいのだろうか。しかし実際は、現代のクリスチャンもこのように巨大化していく組織に自ら所属しながら、なすすべもなくその経済原理や組織のポリシー、人間関係等々に圧倒されながら奔走するのみで、それらを変革することはおろか、抵抗することさえできないというのが実状のように見えるのである。その原因は、私が見るところでは、キリスト教会の中に聖霊の火が消えてしまっていることである。本来は神に造られた尊い存在、神の子、キリストの戦士であるところの一人一人のクリスチャンが教会から十分に力を受けることができなくなっているのであり、それこそが悪魔の目的なのである。
 上記のような現代社会の根本的な構造にキリストの軍隊は、どのように立ち向かったら良いのだろうか。それは私にはやはり、伝統的な方法によると思われる。つまり祈りによる戦い以外にはないと思う。それも聖霊の助けによる祈りの戦いである。
 私たちが聖霊に依り頼み祈るとき、世界の巨大組織、複雑なシステムの隅々まで把握しておられる神から、私たちに知識が与えられる。かつてダニエルがネブカデネザル王から難問を突きつけられたとき、夜の幻の内にその秘密が与えられた。ちょうどそのように、超自然的に神の領域から解決の方法が来るのである。それは、様々な方法で来るのであり、一見するとそれが神から来たように見えないこともあるかもしれない。しかし祈りは世に勝利する。なぜなら、巨大化していく組織は、まさにそのことにより、もはや自らを完全に把握できなくなっているからである。その好例が、アメリカにおける経済崩壊であり、日本における大手企業の倒産である。そのように、巨大組織は一見頑強に見えるが、それ自身を維持しているのは、実はその運営者でもそこに所属する人でももはやない。それは、実に悪の勢力、エペソ人への手紙に「空中の権力を持つもの」と言われている存在なのである。それは、貪欲であると共にまた気まぐれであり、あるとき唐突にその支配していた組織を手放すこともあるのである。しかしある種の崩壊は、その巨大組織を支配している影の存在と神の軍勢の間の戦いによって生起すると私は信じている。巨大組織を隅々まで把握しているのは、もはや神の方であり、いまや神の軍勢にこそ勝機があるからである。これは、旧約聖書においてもいくつも事例を見ることができる。
 だから私たちは、巨大なグロテスクな組織に取り囲まれているとしても、何も恐れることはない。その中において、ダニエルのような預言者たることが可能なのである。聖霊の助けによる祈りによって。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/10

聖書掲示板を立ち上げた

Virchurch 聖書掲示板というサイトを立ち上げた。たぶん、訪れた方は、「なんだ、こんなもの」、なんて思うかもしれない。でも、たとえば、Twitterが出てきたとき、同じように思った人はいないだろうか。それから、有名なCraigslistなんかも、きっとそうだったのではないだろうか。というわけで、このサイトの中には、掲示板が実に、1257個もあるのだ。これは、きっと新しいことだと思う。どうしてそんなにたくさんの掲示板を統合したのかと言えば、聖書66巻の各書の各章それぞれに一つの掲示板を割り当てたからなのです。実に、無味乾燥ではありませんか。でも、このたぶん誰もやらなかったことが、なにか大きな可能性を持っているように思えてしょうがない。たとえば、ある書の、まだ誰も取り上げたことのなかった章について、自分は勉強して意見を書いてみよう、なんて衝動に駆られる人がいないとも限らないから。その人は、きっと聖書を一生懸命に読んで、だれの助けも借りずに、自分と神さまの対話をそこに書くんじゃないか、なんてことを期待してしまうのだ。まあ、なにはともあれ、立ち上げてみようと思ったのでした。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008/11/21

実装神学の諸段階(第六段階:システムの応用)

 このシステムの応用は、その運用評価と改良の延長上に想定することができる。すなわち、聖書オブジェクトへ入力された情報に対する、そこからの有益なアウトプットの活用としてである。そして、オブジェクト指向設計技術が非常に柔軟なものであり得ることにより、純粋に聖書の記述に従って実装された聖書オブジェクトに、それらの仕様と混同することなく、新しい応用のための諸機能を追加することがまた可能なのである。そのようにして機能を拡張された新しい聖書オブジェクトは、全体としての聖書システムにおいて、その活用のためのヒューマンインターフェースを担う存在となる。
 その最も分かりやすい応用例は、クリスチャンコミュニティにおける聖書研究の支援である。例えばダビデという聖書オブジェクトは、サムエル記における主要な登場人物、戦い、祭儀、詩歌、預言等々との密接な関係を持っており、それらを検索するための有効な検索エージェントとなる。聖書においては、その書において生起した諸々の出来事は、その事件に関わる個々の人々の視点から書かれていることも多い。しかし、ダビデという検索エージェントは、それらを順序立てて、一人の視点から参照することを可能とする。これにより、例えば、サウル王から追われていたころのダビデが経験した戦い、窮乏、身を寄せた場所、出会った人々、等々を彼の詠んだ詩歌を交えてダビデ自身に物語らせるということもあるいは可能かも知れない。また、歴代誌の上下二巻は、ダビデとソロモンのもとでの神殿建築と礼拝について記しているが、それらの形成過程と出エジプト記やレビ記における幕屋や祭儀との関係を、そこに現れる祭儀オブジェクト同士の対応から相互参照することも可能であろう。また、他の観点からは、新約聖書の中の手紙においてパウロが参照している旧約聖書の出来事や特にヘブル人への手紙における祭儀、信仰の偉人たちの行動等々に対応する旧約聖書の事柄を、それらの福音的な位置づけとの関係で系統的に参照することは、パウロの神学の語る旧約聖書の独自な解釈を浮き彫りにし、時満ちて遣わされたイエス・キリストの恵みの絶大な価値を再発見することにつながるかもしれないという期待を与える。
 そのように聖書全体をその隅々に至るまで、神の礼拝と律法の運用という中心的な主題に沿って理解、参照できる基盤が整うことにより、聖書全体の骨格が明瞭に把握されると共に、例えば「愛」とか「憎しみ」、「取りなし」、「身代わり」、「欺き」、「助け」、「試練」、「忠誠」、「謙遜」、「柔和」、「慈愛」、「怒り」、「悲しみ」、「喜び」、「希望」等々、日常的な感情や意志の根拠や土台、背景等を聖書の中に求めることが可能になると共に、それを通じた、現代を生きる実存への深い理解とそこへの伝道的なアプローチの段階的な方向性を導き出すことも可能と思われる。これは、さながらこのシステムが一人の牧師的な側面を見せることから、インターネット上に開設されることが想定される仮想教会(バーチャルチャーチ)におけるCRM(Customer Relationship Management)すなわち、オンラインフォローアップの継続支援に利用できるだろう。
 そのように、このシステムの最終目的は、現代を生きる人間存在が見たり聞いたりすること、さらには、そこから感じ、考え、意志することまで含めたすべての精神活動に、聖書的な背景と根拠を与えることであり、それにより、「あなたはこうすべき」とまでは行かないまでも、「聖書はこう言っている」とか、また良いことにつけても悪いことにつけても「聖書の中のこの人物は、そういうときこうしたが、その結果こうなった」とかの情報を、その背景や条件も添えて提供することが可能となるだろう。そして、このシステムがコンピュータシステムとして構築されることの目的は、そのような情報提供をオンラインで、インターネット上の不特定多数のクライアントをターゲットに展開していくことが想定されているのである。
 今日、GoogleやYahoo、Amazon等が、インターネットの世界を凌駕している。彼らは、自らのサイトにアクセスしてくる膨大な数の人々のアクセスログを記録、分析して、そこからその人の嗜好を抽出し、それに呼応したこの世的な価値観による強力な商法を展開している。そこで、それらのサイトが提供するサービスは、必然的にこの世の欲望を色濃く反映したものとなる。そして、それらのサイトが発信する情報により、人々の思いが影響を受けることにより、そこで収集されるアクセスログは、より欲望に傾いたものとなる。そして、その解析結果が再びサイトに反映される。そして、・・・。この罪の悪循環を止めるためには、キリスト教界から、まずしっかりとした聖書の価値観に基づく、正統な物事の考え方がオンラインで提供され、インターネット社会の中で活用されて行くことが必要と思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/11/20

実装神学の諸段階(第五段階:システムの改良)

 すべての神学は、その構築自体が目的なのではなく、それによる実存の解明を通じた、生き方の提示、世への提言と警告がなされなければならない。そこで、実装神学の第五段階以降は、その本来の目的の達成段階である。これは、実際に実装されたシステムの改良と活用により実践されることになる。
 システムの改良は、実装神学そのものの構築の追求と見られ、聖書システムを構成するおびただしい数のオブジェクトの個々の評価と実装の改良のことである。オブジェクト自体の評価は、その動きが聖書に整合しているかどうかという観点に立って行われるが、一方システムという観点からは、それが聖書に記述されていない結果までもアウトプットすることから、その結果からの聖書の事実の再解釈の妥当性、有効性、応用性を評価することが中心となる。個々の聖書オブジェクト以外の要素としては、天と地、二つのオブジェクトコンテナの評価とそれらの高度な統合体としてのシステム全体の評価が想定される。しかし、オブジェクトコンテナ自体も一つのオブジェクトであるという意味からは、これも個々の聖書オブジェクトの評価に含めて考えることもできる。また、システム全体の評価は、実際にそれを動かしてみることによるのであり、そのためのマンマシンインターフェースが必要となる。その一つは、歴史全体を鳥瞰するコクピットのようなもので、神と民族の視点からシステムの機能を評価する。そして、もう一つは、自分というオブジェクトによる方法であり、歴史の中に没入し、その内部から周りを見渡すことによる評価である。しかしこの場合には、自分自身が歴史に与える影響をも考慮する必要があるだろう。しかし、そのような全体としてのシステム評価の結果がどのようなものになろうとも、その改良は、個々の聖書オブジェクトの改造に帰されることになる。というのは、このシステムの実体は、個々の聖書オブジェクトそのものなのであり、それ以外にシステムとしての本質的な要素は存在しないからである。つまり、このシステムが全体として、聖書に従って機能するかどうかは、個々のオブジェクトが聖書の記述を忠実に実装しているか否かにかかっているのであり、この神学の構築努力はすべて、そこに費やされるのだからである。
 しかし、各オブジェクトがソフトウェアコンポーネントとしてそれなりに形を成し、その表現すべき対象の性質をある程度具現化し、システムとしての歴史の中でそれなりの存在感を獲得してきた暁には、このシステムの機能の有機的な活用というものが現実味を帯びてくることになるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

実装神学の諸段階(第四段階:システムの運用)

 聖書システムのユースケースは、様々に想定される。まず考えられるのは、種々の聖書情報の検索アシストである。例えば、アブラハムという人と彼の関わる歴史に関すること。さらに、後代の人々に与えた影響等は、すべてアブラハムというオブジェクトに質問することにより、回答を得ることができる。その意味で、アブラハムというオブジェクトは、彼に関する情報の検索エージェントとなっており、彼を通して、聖書を一つの切り口から概観することができる。同じように、ダビデという人の目から見た聖書の歴史を紐解くのは、また一つの感動的な体験となり得るだろう。さらに、この応用として、イエス・キリストによるアブラハムの体験の参照が想定される。イエス・キリストがアブラハムのことをどのように語り伝えられたか、そして、そのことのアブラハムの生涯における位置づけや、その時代の諸事件や人々との関係等も検索することができるだろう。同様に、パリサイ人がイエス・キリストを通して聞いたアブラハムのこととその背景や、パウロを通してのアブラハムに関する事柄の検索等々、研究的な応用は様々に考えられる。
 次に想定される運用側面は、聖書に記述されている断片的なことがらから、それらの間のことがらを補完するシミュレーションである。例えば、ある歴史上の人物の異なる複数の時点における位置や地位、年齢、経済状態等々から、それらの間における状態の推定とそのような想定条件による他のオブジェクトとの関係とその結果としての状態の推定等である。
 さらに想定される運用局面として、異なる時代の似通った事象間の因果関係の比較。また、その現代への適用とそれから導き出される判断結果と行動指針。歴史上の出来事から、その原因のいくつかを除去した場合のシミュレーション結果により、それらの要因の事象への影響と要因の意味と重大さの考察。
 上記のことを通して、追求されることは、読み手が聖書の全体をリアルに戦慄を持って、自分に語りかけるものとして受け取り、それに全身全霊を持って応答することなのであり、それ以上のものでは決してないのである。まして、それは人類の発展のためなどではない。このシステムの目的は、迫っているイエス・キリストの来臨を遅らせるようなものであるべきではないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/11/19

実装神学の諸段階(第三段階:歴史の実装)

 歴史は、その上にオブジェクトが配置されるものであり、情報技術においては、オブジェクトコンテナがこれに該当する。しかし、それが歴史としての機能を持つ必要があることから、従来のコンテナの概念を少し拡張する必要があるかもしれない。それは、純粋なオブジェクト指向とは、次の点で異なるからである。
 まず、それは永い時間の流れを実装しているからである。通常のオブジェクト指向のシステム環境では、オブジェクトが現実の今という時間の中で機能する。そこでは、各オブジェクトに与えられる制約条件の中で、すべてが偶発的に生起する。しかし、聖書の歴史においては、すべてを動かしているのは、神の摂理である。そこで、コンテナとしての歴史には、ただオブジェクトを格納するだけの機能の他に、正確に時を刻む機能が必要となる。これは、聖書上の異なる書における同時間の出来事の間の同期を取るためである。聖書において、別々の書に書かれていることでも、それは歴史上は同時に起こったことであり、この実装においては、そのように取り扱うべきだと思うからである。さらに、このコンテナは、天と地という二重構造を持ち、それぞれのコンテナに格納されるオブジェクト間で相互作用が想定されるのだが、常に上から下への作用が強い立場にあることになる。それは、多分に神話的な構図を持ちながらも、その相互作用が現実の歴史をシミュレートするように実装される必要がある。
 このような処理系においては、コンテナの設計において、その背景として、様々な神学の実装が可能となるように思われる。例えば、極端な場合、天というコンテナからの影響を無に等しいものとすると、それは自由主義神学となり、最大限に調整したものが、予定論となるのかもしれない。アルミニズム等は、その中間のどちらかと言えば自由主義神学に近い場所に位置づけられるだろう。しかし、この処理系をどのように調整しようとも、エホバの証人や仏教等の他宗教をシミュレートすることはできない。それは、この処理系のオブジェクトとは、まったく異なった定義のオブジェクトによらない限り、表現が不可能なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

実装神学の諸段階(第二段階:聖書オブジェクトの設計)

 聖書オブジェクトを設計することは、聖書の登場人物の多様性から、それらに共通するところの人間存在の諸要素を列挙し、属性としてのそれらデータ項目の性質を決定すること。次に、町や建物、地域やそこの産物、食物等の特性を読み取り、その一般的な性質を記述する方法を考案すること。さらに、神殿とその中に収納された祭具類の構造を観察し、律法におけるそれらの用法の調査を通じて、それらの仕様、目的、機能を記述し、その律法及び天上の雛形との関係を定義すること。さらに、そのように定義された個々のオブジェクト間の相互作用や時間における経過モデル、歴史に介入される神や天使、悪の勢力との関係等々を規定することであり、これらには組織神学の研究成果が多いに参考になる。
 オブジェクト指向設計においては、定義はすべて外部定義である。つまり、外から見える状態のみを忠実に記述するのであり、内部構造の記述は必須ではない。そして、もし内部構造を記述するとしても、それもまた、そのさらに内部から見れば、あくまで外部定義でしかない。そのように、ちょうどたまねぎの皮をむくように、どこまで行っても外部定義に終始するのであり、最初から対象の完全な定義を意図しているのではなく、その総体としてのシステムが現実世界(これもまた外から眺めるのであるが)をシミュレートすることを追求するのである。というのは、我々は、聖書の世界の解明を目指しているのではなく(それは神に挑戦することであろう)、それをもって、現実存在、すなわち諸々の実存のあり方を尋ね求めようとしているのであり、これは、この世界を創造され、歴史を動かしておられる神の前にひざまづき、その語られることを聞き、その指示を過たずに実行に移すことを目指しているのである。
 例えば、アブラハムという「名前」を属性として持つオブジェクトは、また「年齢」という属性も持つ。この二つの属性は、共に不変のものではなく、名前は任意に変更可能であり、年齢は、時間の関数である。さらに聖書から抽出できる属性として、「信仰」がある。これをどう定義するかは、組織神学の研究成果に忠実でなければならない。すなわち、信仰は神の賜物であるということである。そこで、それは外部から与えられるものであり、個々のオブジェクトにおいて異なった重みを持つ。アブラハムは、信仰の父であるから、例えば、99という数字であり、これが人間における最大数である。しかし、100という数字を持つただ一つのオブジェクトがある。これがキリストである。また同様に、「良識」という属性や「罪」という属性も併せて内包することになるだろう。そのように、ただただ聖書の記述に忠実に、外部からオブジェクトの定義を積み重ねていくことは、さながら組織神学の深化に匹敵すると見られる。
 ここで、もう一つ忘れてはならないのは、現代の情報技術においては、オブジェクトは、上記のような諸属性ともう一つ「機能」を併せてカプセル化したものであることだ。オブジェクト機能の抽出は、聖書コーパスから種々の名詞を元にオブジェクト名を抽出するとき、それを主語とした「動詞」の抽出により機能の候補が列挙される。それを上記のように定義したオブジェクト属性との関連で、重要と思われるものをそのオブジェクトの機能として実装するのである。例えば、『アブラハムは、神を信じた。神は、それを彼の義と認められた』という文章から、アブラハムという人間オブジェクトの機能として、「信じる」という機能が抽出される。その機能の強さを決定するのは、そのオブジェクトの「信仰」という属性であり、外部から与えられる種々の作用や自ら抱える「罪」その他の諸属性との関係で、そのオブジェクトの行動が決定されることになるのである。この機能が出力するアブラハムの行動パターンは、聖書の記述を逸脱するものであってはならない。それがどの程度、制約の元におかれるべきかが聖書が啓示する人間存在の規定を表現するものとなるのであり、それがそのまま、現代を生きる我々の行動をも規定するものでもあるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

実装神学の諸段階(第一段階:聖書オブジェクトの抽出)

 広大なインターネット空間上に存在している無秩序な文書の固まりは、「コーパス」と呼ばれる。実装神学の最初の段階は、聖書コーパスに含まれる固有名詞をそれが表すところの実体すなわちオブジェクトの名前として抽出、分類することである。これには、京都大学が開発し、オープンソースとして提供しているMeCabというシステムが利用できる。これは、形態素解析という機能を持ち、文章を部品に分解し、それぞれに「固有名詞」、「一般名詞」、「副詞」、「動詞」等、様々な属性を付加してくれる。これらの情報を基に、聖書から人物、民族、場所、時代、預言、系図、語り、等々をオブジェクトとして半自動的に抽出、分類することが可能だと思う。
Copus_2 半自動的という意味は、一つには、聖書の表現の多様性から見て、完璧な自動分類が可能とは思えないことと、もう一つは、聖書とそこから分類したオブジェクトを分離して取り扱うのではなく、むしろ分類の手法を確立することにより、リアルタイムな抽出システムとした方が応用性が高いと思われるからである。例えば、訳の異なる聖書コーパス同士の相互参照ということにも利用できるだろうから。
 その場合、オブジェクトの抽出に掛かる前に、まず聖書の各章各節に、時代や時間を分かる限りの正確さで、属性として付加しておく必要がある。そうしておいてからオブジェクトの抽出処理を行えば、抽出されるオブジェクトには、聖書の章節と時代、時間が自動的に付加されることになる。そして、抽出されたオブジェクト名で結果を並べ変えることにより、例えばある人物が、どの時代に生き、その生涯が聖書のどの部分に書かれているのかが自動的に分析されることになる。そのようにして、これまで時代区分の分析が行われた様々な聖書的概念の他にも、様々な対象に対して、同じような調査を行うことができ、さらにそれらの調査結果の対照が自由に、しかもダイナミックに行えるようになる。これだけでも心踊るようなことではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クレイグリスト(Craiqslist)

 クレイグという人がサンフランシスコの街のローカルな情報交換のために開設した電子掲示板は、いまや世界300都市向けに専用サイトを公開し、一ヶ月に40億ページビューのアクセスを抱える巨大な仮想世界へと成長した。しかし、そのトップ画面は、まさにリストそのものであり、むだな装飾を一切そぎ落としたシンプルなヒューマンインターフェースは、どこかこのブログとも共通点が感じられる。それらが追求しているのは、実は仮想世界の背後にある広大な現実世界なのであり、かつてこのサイトが織りなす様々な人間模様が映画化されたことがそれを如実に物語っている。
 このクレイグリストのインターフェースを操作していて、その軽快さと単刀直入性にすがすがしささえ感じるのは、たぶん私だけではないだろう。それは、AppleとMicrosoftが進めてきたところのグラフィカルインターフェースが実は虚構であり、コンピュータから現実世界への接近であるどころか、それらが実は、人と人との間を隔てる垣根のような存在であることを示唆しているように思えるのだ。
 このクレイグリストのインターフェースこそ、私がこだわり続け、今後も追求し続けようとしているものに他ならない。その目指すところは、人の目からコンピュータが見えなくなることであり、そのためには、マンマシンインターフェースの派手なパフォーマンスなど無い方が良いのである。
 今日、コンピュータ処理の実体は、ますますヒューマンインターフェースから遠いところへ移されつつある。仮想化技術により、すでにハードウェアとソフトウェアが独立した存在になった今、デスクトップで見ている情報が、どこから送られてきたものなのかについては、まったく定かではない。これに対して、ヒューマンインターフェースは、その情報があたかもすぐそばで作られたかのような印象を与える性質を持っている。しかし、現代のコンピュータは、情報を提供する人とそれを使う人とをつなぐ役割を持つものであり、その意味で今日のヒューマンインターフェースは、虚構の道具となる可能性を内包している。しかも実際に、クライアント側のコンピュータ資源の多くがその為に費やされているのである。
 私は、特に聖書をコンピュータで取り扱う場合のように、場所を越え、時間を越えるコミュニケーションにおいては、このような現代のヒューマンインターフェースが、決して最適なものではないと思っている。そこで、何か違う種類のインターフェースが考案されるべきだと思う。そして、その新しい枝は、むしろこのクレイグリストのような、一見前近代的なマンマシンインターフェースから生え出るように思えてならないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/11/18

実装神学

 正統派神学は、聖書を神の言葉として、その信憑性を前提に研究、構築されてきた。しかし、その場合でも、何をもって聖書の原典とするかということや、それをどのようにそれぞれの言語に翻訳するかということ、さらにそれをどのように解釈するかということにおいて、いろいろな立場やアプローチの違いがあり得ることから、そこに様々な神学とそれに基づく教派が生まれてきた。
 しかし、信徒の立場から見れば、この状況は、憂慮すべきものであり、どの教派を選べば良いか迷う上に、そもそも生活圏と教会の位置的関係から、万人に教派選択の自由が十分に保証されているわけでもない。そこで、たまたま選択した教派により、その人の信仰人生のかなりの部分が規定されることにもなる。
 しかし、そもそも神学とはなんだろう。うがった見方をすれば、それは、信仰要素の一つの調和した体系である。しかし、この調和ということには、多分に人間的な要素が含まれる。そこで、人の思いを遥かに越えた神の思いの断片をこの世界に投影して調和させる試みは、様々な異なるシナリオを生み出すことになる。これを解決する最も単純な方法は、無理に調和させないことである。しかし、調和をさせなければ神学の概念が成り立たない。調和しているということが、その神学の信憑性を保証する、一つの有力な兆候でもあるからである。
 私たちが伝統的な神学に従って、机上で議論している限りは、この限界を越えることはできない。しかし、これまでも、実践神学という立場があった。これは、特定の神学の理論には立たず、聖書やその研究成果を実生活や社会現象に適用することにより、聖書の断片的な真理の性質とその人生への適用方法の定式化を模索するものである。それゆえこの立場は、信仰要素の調和を最初から求めることはしないが、その到達点として、一つの調和した体系に至ることを目指していると言えよう。
 これらに対して、今私が提唱しようとしている実装神学とは、次のような立場である。それはまず、信仰要素の調和を求めることをしない。それは、永久に調和自体を目的とすることはない。それはむしろ、聖書の断片的な真理を個々に実装することに集中し、その実装形態の評価と改良を第一の目的とする。そして、その実装された総合的な機能体系をもってして、個々の実存のあり方を解明することがその究極の目的なのである。このことを実現するために、この神学は何と、聖書の実装を実際に動かして見ることを追求するのであり、これに最適な環境は、オブジェクト指向に基づく現代のコンピュータ技術である。この「聖書を動かす」という大それたもくろみは、これまでの神学の限界を打ち破る可能性を持つ。それは、実践神学と同じようなアプローチを持ちながらも、実践神学が成し得なかったことを実現する。それは、聖書の歴史全体を対象とした広大なシミュレーションの実現と実装の改良によるスパイラル的な実証サイクルの高速化であり、それらをコンピュータアシストで実現するのである。
 しかし、そのようなものが神学と呼べるだろうかと思われる方も多いだろう。それは、まず、聖書から実体を抽出し定義することから始める。これは多分に組織神学の方向性に近いと思う。そして抽出、定義された実体を並べるところの背景としての歴史をもオブジェクトとして定義する。それは、聖書に含まれる諸実体間を時間的、関係的につなぐ役割を演じると共に、聖書の章節とも関連をもたせる。これは、歴史を支配する神の摂理を分析し、それを静的なものとしてではなく、各実体間の相互作用として体系化することを目指しており、これは、広大な予定論の実装にもなぞらえられる。なぜなら、ここにおいては、三位一体の神さえも一つのオブジェクトとして体系化できる可能性があるからである。それは、コンピュータ技術が定義するところのオブジェクトが外部的な定義であることによる。つまりこれに従えば、神のもっとも大きな定義は、神という名前そのものであり、その概念の内側に、三位一体という性質が実装されることになる。このように、聖書に即して、聖書に記述されている概念だけを用いて、聖書の実体を定義、実装していくことが可能なのである。
 私は、この実装の応用可能性が大きく開かれていると確信する。それは、たとえば、現代人の思考形態に劇的な影響を与えつつあるGoogleの検索結果に対し、神の御心に沿った、物事の解釈を提供する。そのようにして、人の精神活動のすべてを聖書の真理に基づいたものとするための情報基盤を提供する。それ自身一つの情報システムであるゆえに、それは例えば、ネットワーク経由で、他の情報システムと疎結合され、そのバックエンドで、種々の処理における愛と祝福の原則を提供し続ける。それはちょうど、実践神学が、聖書の真理を人生に適用したように、それをインターネットの仮想世界に適用し、そこを神の国に変革しようとするのであり、そのようにして、聖書の真理が、いかに祝福にあふれたものであるかを実証しようとするのである。
 そのために必要なすべての道具と材料を神が今与えていてくださっているのである。しかもタダで。これは、驚くべきことである。その有り様をこのブログで記述し、私に与えられた知識と技術をもってその実装にチャレンジしてみたいと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

おみやげの写真 そうじゃな~い! たわいのないものたち とりとめのない話 イザヤ書研究 エズラ記研究 エゼキエル書研究 エックハルト研究(参考文献:「エックハルト説教集」 田島照久編訳:岩波文庫) キリスト信仰の体験記 キリスト教の疑問 キルケゴール研究(参考文献:「死に至る病」:斉藤信治訳:岩波文庫) サムエル記上研究 サムエル記下研究 ドン・キホーテ前篇(一) ニーチェ研究(「ツアラトストラ(上)」より) ネヘミヤ記研究 ビジネスマンへの道 ブルトマン研究(著書:「イエス」より) ボンヘッファー研究(「共に生きる生活」より) マクグラス研究(歴史のイエスと信仰のキリスト:近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成) マタイの福音書研究 マルコの福音書研究 ヨハネの福音書研究 ヨブ記研究 ルカの福音書研究 レビ記研究 ローマ人への手紙研究 主イエスのしもべ 人生の問い 伝道メッセージ 使徒行伝研究 六弦 出エジプト記研究 列王記上研究 列王記下研究 創世記研究 奇跡への入口 心の祭壇 情報宣教方法論 新改訳聖書に関する疑問 新約の時代 新約聖書研究 歴代誌上研究 歴代誌下研究 死人がよみがえる 民数記研究 現代と聖書 病人をいやす秘訣 私のたからもの 続・エックハルト研究(福音信仰からの光) 続・ニーチェ研究(「ツアラトストラ(下)」より 続・ブルトマン研究(ヨハネの福音書) 続・ボンヘッファー研究(「行為と存在」より) 続・マタイの福音書研究 続・新改訳聖書に関する疑問 続・続・エックハルト研究(批評) 続・続・続・エックハルト研究(信仰の刷新を求めて) 続・続・続・続・エックハルト研究(キリストのうちに自分を見いだす) 続・続・続・続・続・エックハルト研究(神の子とされる) 続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に仕える) 続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に知られる) 続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神秘主義の光) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神との合一) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(認識の光) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(変容) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(王) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(カリスマ信仰) 聖書に関する随想 聖書の実装 聖書の矛盾研究(「バカダークファンタジーとしての聖書入門」を読んで) 聖霊と共に生きる 聖霊の賜物を受ける 解析学研究 詩篇研究 道を走る 遠藤周作研究(「沈黙」より) 野の花 KJV翻訳:その意図 KJV翻訳:創世記