2007/06/09

終焉

サムエル記上 第31章

 イスラエル軍は、進軍して来たペリシテ軍と戦い、次々に打ち負かされて行った。イスラエル兵はペリシテ軍の前から、あるいは逃げ去り、あるいは傷ついて倒れた。いったい何が起きたのだろう。あの勇士ヨナタンさえ、ついに敵の剣に掛かって倒れてしまった。
 この日、神はイスラエルを省みられなかった。それにしても神は、イスラエルの王位をサウルからダビデへ移すために、このような悲劇を許されたのであろうか。私は、そうだと思う。伝道の書に書かれているように、災いはこの世界を生きるすべての人に、同じように臨むものなのだから。サウルやヨナタンが多くの敵を倒したのは、神の力によったのであり、神の栄光を表す使命によって行ったのであった。
 神はこの世界のすべての民族の創造者である。だから、神にとっては、ペリシテ人もイスラエル人と同様、ご自身が創造した民族であり、その限りで愛の対象なのである。イスラエルが選びの民であるということの意味は、神が創造されたたくさんの民族のうち、神はイスラエルを一番愛しておられるという意味ではない。それは彼らが、神と契約を結び、律法を与えられ、それに従って生きることにより、この地上で神の栄光を現し、神の裁きを告げ知らせるためなのである。サウルは、初代のイスラエルの王として、神の栄光を現し、神の裁きを告げ知らせた。イスラエルの兵士たちは、サウルの元で神を知らない諸国民と戦い神の裁きを遂行した。彼らは、人間としての弱さを抱えており、神から命じられたことをすべて成し遂げることはできなかったが、選びの民として、諸国民の間で神の栄光を現した。それゆえ神は、サウルをギルボア山頂で敵の剣により死なせたが、それはサウルに対する神の裁きなのではない。また同様に、ヨナタンに対しても神の裁きが降ったのではないし、イスラエルの兵士たちにとっても同様である。彼らは、神から与えられた選びの民としてのその勤めを終え、敵の剣に倒れたのであった。

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2007/06/08

忠誠

サムエル記上 第30章

 ダビデと兵士たちがアキシュと分かれてティクラグの町へ戻ってみると、そこはアマレク人に焼き払われ、人や財産は奪い去られた後だった。それを見た兵士たちは悲しみのあまり、泣き叫んだあげく、ダビデを石で撃ち殺そうとした。ダビデの2人の妻たちもアマレク人に連れ去られており、ダビデは大いに苦しんだ。今や彼は、異境の地にあって、自国の神に見捨てられてしまったのだろうか。彼は、神の前に倒れ伏しながら、なぜこのようなことになったのかと、悶々としたに違いない。神も、もしかしたら、あるいは本当に、ダビデを見捨てようと考えておられたのかも知れない。神は、選びの神であると同時に、公正な義なるお方だから。そしてダビデとて神の前に、一人の人間以上の者ではない。サウルを捨てられた神は、同じようにダビデをもまた捨てられるだろう、もしダビデが神の前に、イスラエルの王にふさわしく歩んでいないのならば。ダビデは、祭司アビアタルにエポデを持ってくるように命じた。
 ダビデは、たとえ自分が異境の地にあろうとも、また今アキシュの家来のような立場にあろうとも、そして今、神の裁きによって、自分の妻や財産がアマレク人に奪われてしまったかのように思えようとも、彼と神との関係を変えようとはしなかった。そして彼は、あえてその神、主によって力を奮い起こしたのだった。彼は、彼の現在、そして将来の存在理由のすべてを掛けて、自分の信じる神、主に問うた。「あの略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
 ああなんということだろう。神は、義の神であると同時に哀れみの神であり、永遠に不動の神であると共に、この有限な時間の中で私たちと共に生き、考え、御心を思い返されるお方なのである。このとき正に神は、ダビデに下した災いを思い返されて言われた、「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」 神は、ダビデが問わなかったことまで、彼にお答えになった。神は、私たちの住むこの世界においては、ご自身の燃える愛を、あたかも感情的なまでに注ぎ出されるお方なのである。しかし再び神は、永遠に不動のお方であり、アマレク人がダビデの民の一人にでも手を掛けることを許されていなかったのだった。
 ダビデはアマレク人の後を追い、神の助けによって、すべての民と財産を取り返した。兵士たちは、口々に言った、「これはダビデの戦利品だ」と。まさにそのとおり、それらはダビデの神への愛の戦利品なのであった。
 ダビデは、神からいただいた愛を、神の愛されるイスラエルの長老たちに贈り物として送った。この出来事で、ダビデは神の永遠の愛をあらためて体験しただろう。それは、永遠に不変であるゆえに、自分の神への愛も永遠に不変でなければならないと。そして、自分はイスラエルの王として、イスラエルを永遠の愛で愛しておられる神を民に示す者とならなければならないのだと。

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2007/06/05

摂理

サムエル記上 第29章

 ペリシテ人は、その軍勢をすべてアフェクに集結させた。イスラエル軍は、持久戦になると思ったのだろう、イズレエルにある一つの泉の傍らに陣を敷いた。ペリシテ軍は、武将たちの連合軍であり、百人隊、千人隊を成していた。ダビデとその兵もアキシュと共にペリシテ軍のしんがりを進んで行った。
 このときダビデは、本当にイスラエルと戦うつもりだったのだろうか。本当のところは分からないが、もしかすると、ダビデはサウルがこの戦いで戦死することを願っていたのかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、ダビデは、戦場においては、翻ってペリシテ軍の敵となり、イスラエル軍を助けたに違いないと思う。というのは彼は、サウルが死んだ後に、イスラエルを治めるのは、自分であることを自覚していたであろうし、また彼は、親友ヨナタンと契約を結んでいたのだから、ヨナタンの敵となることはできなかったであろう。
 ペリシテの武将もそのことを戦いの勘で察したのだろう。彼らは、ダビデとその兵が共に行くことを決して許さなかった。そこでアキシュは、ダビデを説得するために言った、「お前はまっすぐな人間だ。わたしはお前に、今まで何等悪意を見いだせなかった。しかし、ペリシテの武将の手前、今は平和に帰ってほしい。」アキシュは、何とお人好しだったことだろう。と言うのも、ダビデがアキシュに忠誠を尽くすことほど神の前に不遜なことはないのだから。だから、もしダビデがアキシュの言葉通りに真実を貫くことがあったなら、それはペリシテの武将たちが言ったように、彼が裏切ってペリシテの敵となり、彼らの武将たちの言葉の通りに、「そこにいた兵士たちの首をとってサウルの前に差し出す」ことになったであろう。

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2007/06/02

神が敵となる

サムエル記上 第28章

 ペリシテ人が結集してシュネムに来て陣を敷くと、サウルもイスラエルの全軍を集めてギルボアに陣を敷いたが、サウルはペリシテの軍隊を見て恐れ、その心はひどくおののいてしまった。主の霊は、すでにサウルを離れてしまっており、彼を奮い立たせるものはなく、夢にも預言にも、また祭儀によっても、神はサウルにもはや何も答えられなかった。神の力なしに、自分の力だけで強敵に対することは、サウルにとって恐ろしいことであった。以前は、このような状況の時には、神の霊がサウルに激しく降り、彼を別人にした。しかし今はそれがなくなっているのに彼は気付いたのだった。いつからそうなったのか、どうしてそうなってしまったのか、彼には分からなかった。彼は、かつて神の箱がペリシテ人に奪われたときのイスラエル人のように、自分から神の臨在が去ったのを感じることができなかったのだ。
 神はそのようなサウルを王として選ばれたことを後悔され、ダビデを新しい王に選ばれた。それではダビデには神の臨在が自覚できていたのか。私はそこまでは行っていなかったのだと思う。神の完全な臨在は、主イエス・キリストによって信じる者に与えられる聖霊によらなければ感じることはできないと思うから。だからダビデも神に伺いを立てるときには、エポデを用いたのだと思う。それにしても、サウルとダビデには、神との距離とでも言うものに大きな違いがあったのだと思う。ダビデは、神を畏れ、神を慕い、神を讃美した。彼の内には、神からある刻印が与えられていたのだと思う。それはあくまで刻印であり、神から何かがダビデの心に忍び込んだというのではなく、ダビデ自身の心がある決定的な変化を神から受け取っていたのである。
 サウルは、神の前に自分の心を変化させようとはしなかった。そこで神を自分の外に探した。彼はすでに、国内から口寄せや魔術師を追放していたので、いまやイスラエル中を探し回り、エン・ドルというところに一人の口寄せの女を見つけた。彼はその女に預言者サムエルを呼び起こさせた。サムエルはすでに時間のない永遠の世界で眠りについていたが、この女の魔術により呼び起こされ、サウルの前に立ち、「なぜわたしを呼び起こし、わたしを煩わすのか」と言った。サウルはサムエルに言った、「困り果てているのです。ペリシテ人が戦いを仕掛けているのに、神はわたしを離れ去り、もはや預言者によっても、夢によってもお答えになりません。」サムエルはサウルに言った、「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。」しかし、事実はそれをもっと奇異に表していた。すなわち、今や神の霊を持つダビデが、ペリシテの軍隊の一員として、彼の敵に回ろうとしていたのだから。

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2007/06/01

従う信仰

サムエル記上 第27章

 ダビデは思った、「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを探すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」ダビデはサウルを避けて、ガトの気さくな王アキシュの元に身を寄せた。彼は、サウルが戦いで死ぬまで待とうと思ったのだろう。
 アキシュはダビデに一つの街ティクラグを与え、ダビデはそこに住んだ。それからダビデと彼の兵は、シュルからエジプトの地に至る地方に住んでいたゲシュル人、ゲセル人、アマレク人を襲っては、男も女も皆殺しにし、財産を略奪したりしていた。しかしダビデはアキシュに、イスラエルの中のネゲブの街々を襲っていると嘘をついていたので、アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。
 この時代には、ヒューマニズムというものはなかったのだろう。民族同士で殺し合い、奪い合いをすることが普通に行われていたようだ。だから、このころのダビデを見て、「彼は急にどうしてしまったのだろう」と思っていぶかる必要もないのかもしれない。この時代には、絶対的な倫理観というものがなかったのだ。だから、ダビデやサムエルにとって神に従うということは、何か崇高な倫理観を神からいただいて、それを追求するという意味ではない。もともとキリスト教には、そのような倫理観は無縁なものなのだ。そしてそれは、イエス・キリストが来られた後にも変わってはいないと思う。私たちは、イエス様から、何か崇高な倫理を教わって、それに従って人生を美しく生きるのではないのだ。私たちはただ、イエス・キリストという王に従うだけなのだ。それは、このサムエル記の時代に、アビシャイがダビデに従ったのとまったく同じなのである。もしそうではなく、私たちが、聖書から何か自分なりの倫理観を掴み取ってそれに従って生きるならば、主イエスは、再び私たちに無用なものとなってしまうだろう。
 今日の私たちは、ともすると何かちっぽけな、そしてけちな倫理観に支配されているような気がしてならない。なぜなら、他人を蹴落としてまで出世しよう、良い大学に合格しようという輩が多いからだ。それから、他人よりかっこよくなりたい、他人から良く見られたい。人並み以上の生活をしたい、人にうらやましがられるような生活を目標としたい、等々、なんと自分勝手な、ちっぽけな人生観がまかり通っているのだろう。しかしその影で、わずかな賃金で延々ときびしい労働を強いられている子供たちや貧しい人々が世界に多くいると聞く。また、私たちがお茶を飲んでいる間にも戦争の犠牲になっていく人々もいる。また、そのような社会矛盾の狭間で、死を選択するたくさんの人々が日本にもいる。これでは、ダビデの時代に民族が民族を略奪していたこととまったく同じではないか。だから私は言いたい。この時代の私たちに人生を強く生きさせる力は、アビシャイのようにダビデに従うこと、そしてダビデのように雄々しく神に従うこと意外にはないのだと。

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2007/05/30

勝利の予感

サムエル記上 第26章

 ジフ人がサウルのところに来て、ダビデの居場所を知らせたので、サウルは再びイスラエルの精鋭3千人を率いて出陣した。ダビデは、サウルが追ってきたことを斥候を出して確認した。ダビデはこのとき、不思議な感覚を覚えたに違いない。そう、夢の中で夢に気づくときのような感覚である。それはまた、知らない道を歩いているときに、なんだか過去にそこを通ったことがあるような感覚にも似ている。
 神はしばらく前に、あの洞窟の中で、すでにサウルをダビデの手に渡されたのだった。そのときサウル自身がダビデに「お前は必ず王になり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」と言ったのだった。
 ダビデはいつしか、部下も伴わずに、一人サウルの陣営に偵察に来ていた。すると、サウルは幕営の中で寝ており、兵士はその周りに宿営していた。ダビデは、神がサウルを自分の手に渡されたことを確信し、陣営へ取って帰り、「サウルの陣地に、わたしと下って行くのは誰だ」と叫ぶと、ツェルヤの子アビシャイが、恐れずに、「わたしがあなたと行きましょう」と答えた。このアビシャイこそは、神がサウルをダビデの手に渡されたという確信をダビデと共有する器であった。この呼びかけと応答の意味は、ダビデとアビシャイだけが知っていた。これが勇者のやり方なのである。それが分からない者は、腰抜けであり、王と共に勝利者になることはできないのだ。
 私たち主イエスに従う信仰者は、すべてに勝利された主イエスと、このアビシャイのように勝利の確信を共有するものであるべきだ。日常生活の中で、あるいは会社で、学校で、家庭で、主イエスが、「私と共に出て行って、勝利するものはだれか」と叫ばれるのが聞こえたならば、「私があなたと行きましょう」と恐れずに言う者になりたい。
 ダビデとアビシャイがサウルの陣営へ行ってみると、果たして、主から来る深い眠りがサウルの陣営を包んでおり、サウルとその第一の部下アブネルは、幕営の中で眠り込んでいた。ダビデとアビシャイは、サウルの槍と水差しを盗んで陣営に戻った。ダビデは言った、「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。」

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新しい時代

サムエル記上 第25章

 サムエルが死んだので、全イスラエルは、集まって彼を悼み、ラマにある彼の家に葬った。祭司を中心としたイスラエルの体制は、完全に終わりを告げ、王を中心とした新しい体制に移行した。
 これは、主イエス・キリストを象徴するものだ。祭司を通して、神に直接仕えていたイスラエルに、神と民の間に入る祭司ではない人間が与えられたのだ。彼は、位置づけとしては祭司的なところもあるが、彼が行うのは、祭儀ではなく、この世界の個々の状況に関する裁きであり、政治なのである。そして、その政治の中に神の御心が行われ、神のご計画が実現して行くのである。
 マオンというところにナバルというならず者が住んでいた。彼の牧童たちは、野原でダビデの兵たちの世話になっていたが、ナバル自身はそれを知らず、彼が育てた羊の毛を刈るころに、ダビデはその収穫と共に彼を祝福しようと部下を遣わしたが、彼は「ダビデとは、エッサイの子とは何者だ。私のパン、私の水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」と言った。
 人の世話になっておきながら、その恩義に仇で報いることは、この社会では許されざることである。それをこの世界は、取り引きの倫理で裁こうとする。しかしそれは本来、神との関係で裁かれるべきものである。その意味で、神がイスラエルに王を与え、それにより確立しようとされた正義と公正は、この世界の社会倫理とはまったく異なるものである。ダビデがナバルのところへ遣わした下部たちがダビデの元に帰り、一部始終を告げたとき、ダビデは「各自、剣を帯びよ」と言ったが、そのときダビデは、この社会の倫理でナバルを裁こうとは思っていなかった。彼は徹底して、神の倫理により、すなわち信仰により、王としての裁きを行おうと出て行ったのである。そして、行く途中でナバルの妻アビガイルと会い、彼女からなだめの贈り物を受け取り、彼女の献身がナバルの罪を覆ったことを宣言した。
 王としてのダビデを見て、私たちはもう一度、自分とイエス・キリストとの関係を学ぶ必要がある。イエス・キリストは、私たち信じる者の王であるが、彼は私たちの中で、祭儀を行う方なのではない。彼は、ダビデのような王なのである。そこで、彼が行うのは、命令であり、裁きなのである。私たちは、イエス・キリストを主と呼んで、何か神に関する知識をいただき、神のことをあれこれ考えるのではない。主イエスに従うことにより、この社会で神の御心を行うのである。

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2007/05/29

サムエル記上 第24章

 ダビデがエン・ゲディにいると聞き、サウルは3千人の兵を率いてその後を追った。サウルがダビデのいるところに近づいたと思われたとき、そこに洞窟があったので、用を足すためにそこへ入った。その洞窟の奥には、偶然ダビデとその兵たちがいたが、暗かったので、サウルはそれに気づかなかった。ダビデの家来は「主がサウルをあなたの手に渡されました」と言ったが、ダビデは「わたしの主君であり、主が油注がれた方に手をかけることを主は決して許されない」と言って、サウルの着物の裾を切り取っただけで、サウルに手を掛けることはしなかった。
 主に従う者にとって、この世の敵は実は本来の敵なのではない。本当の敵は、主に服従しない自分自身の心なのだ。ダビデは、自分を殺そうとするサウルの手から逃げていたが、彼への憎しみに支配されることはなかった。ダビデのただ一つの関心は、その時々に、神に服従することにあった。それはある意味で、脈絡のない対応に見えるかもしれない。しかし、自分はこうするべきと思っても、神の御心をいつも捜し求めていて、それが示されたときには、自分の考えをいとも易々と捨てる勇気を持つ人こそが真に神に従う人である。その従順は、どこまでのものなのか。ダビデの場合、それは彼の全人格に及ぶものであり、実に死に至るまでの従順であった。彼は、自分の命をねらっている者がすぐ目の前に来ても、手を掛けなかったのだから。
 ダビデが自分に手を掛けなかったことをサウルが知ったとき、サウルの心を驚嘆が支配した。それは、人には考え着かないことであり、この世界の論理では理解できないことであった。しかしサウルは言った「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」と。サウルは、王であったから、イスラエルを治めるために本当は何が必要なのかを知っていたのだ。

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2007/05/28

戦術

サムエル記上 第23章

 サウルを避けて逃げ回っていたダビデは、ペリシテ人がケイラを略奪していることを知り、主に伺いを立てた。主は「行け、ペリシテ人を打ってケイラを救え」と言われた。ダビデの兵たちは、ケイラへ行ってサウルに捕まることを恐れたが、ダビデは兵を率いて主の命令通り進撃し、ペリシテ人の手からケイラを救った。
 サウルは、ダビデがケイラでペリシテ人と戦ったことを聞きつけて、そこへ駆けつけようとしたが、ダビデはすでにそこから避難したとの情報を得た。苦悩するサウルの元へジフの人々がやってきて、ダビデの居場所を報告し、ダビデの捕獲に協力する申し出をした。サウルは喜び、彼らを祝福し、更なる調査と協力を依頼した。サウルの戦略は、段々に効を奏してきたように見えた。彼は、武力、権力、組織力でダビデを追い詰めていった。これは、この世界の戦術である。そしてそれは、時として非常な効果を発揮する。その前には、信仰も役に立たないかのように見えることがある。
 一方ダビデの方は、祭司アビアタルが携えていたエポデにより、すべてを神に尋ねる戦術であった。それはこの世の戦術ではなく、信仰の戦術である。それは、時としてなにか頼りなく、いつも成功するとは限らないように見える。ダビデが主に「ケイラの有力者たちは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか」と問うと、主は「引き渡す」と答えられた。そこでダビデたちは、ケイラを去り、あちこちをさまよった。そんなとき、ダビデの元へヨナタンが来てこう告げたのだ、「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つものとなるだろう。父サウルも、そうなることを知っている。」ヨナタンの信仰と献身の思いを聞き、ダビデはどんなにか慰められただろう。
 現代を生きる私たちは、このサウルの戦略とダビデの戦略のどちらを取るだろうか。一見確実そうに見えるサウルのこの世の戦略に対して、ダビデの信仰の戦略は、すべてを神により頼んでいる分、どこか頼りなく思えるかもしれない。しかしダビデは、神にすべてを任せた。私たち信仰者もこのダビデの戦略を学び、それを実践する勇気を持つ必要がある。神は、ヨナタンのような協力者、励ます者を必ず送ってくださる。
 あるとき、ダビデとその兵は砂漠の南方、アラバのマオンの荒れ野にいた。サウルの追跡を察知したダビデたちは、岩場に入りながら必死でサウルの追跡を逃れようとしたが、次第に追いつめられて行った。そのとき、使者がサウルのもとに来て、ペリシテ人が国に侵入したことを報告した。サウルは、ダビデを追うことをやめて、ペリシテ人の方に向かった。

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2007/05/27

戦いと平安

サムエル記上 第22章

 ガトの王アキシュは、たぶん気だての良い男だったのだろう。気違いを装ったダビデは、彼のところから無傷で追い出された。アキシュのところを出たダビデは、アドラムの洞窟に難を逃れた。ダビデは、これまでのことで、自分の弱さを思い知っていただろう。彼の心は、苦難によって打ち砕かれ、神のみに依り頼む心が与えられた。そしてそこから、彼の信じている神の愛と哀れみが流れ出るようになっていった。いつしか彼の兄弟や父の家の者は皆、彼のもとに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集り、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた。彼は恐れずにモアブの王のところに行き、自分の父母をかくまってくれるように頼んだ。
 ダビデが預言者ガドの進言により、ユダのハレトの森に出て行くと、サウルも迎え討とうと出てきた。サウルは、彼の家臣たちに言った、「エッサイの子が、お前たち皆に畑やぶどう畑を与え、皆を千人隊の長や百人隊の長にするであろうか。」サウルの統治は、徹底して力の社会であり、弱肉強食の競争社会である。サウルは王として、手柄を立てる者に褒美と昇進を約束する。しかし、働きの無い者には、徹底した裁きが待っている。サウルの家臣や家来は、そのような緊張の中で互いに競争し合い、手柄を立てて褒美を得ようとし、人より高い地位に着こうとする。これは、今日の社会になんと似ていることであろうか。そのような社会には、安らぎというものは存在しない。私たちの社会にも、神を信じる者以外には、本当の安らぎはない。それは、みなサウル王に支配されているからだ。もし私たちが本当の安らぎを得たければ、ダビデの元に行く必要がある。ダビデこそは、イスラエルにおける信仰の指導者なのだ。私たちは、いつしか受験戦争や企業競争の中で、社会の競争原理の虜となり、サウル王の配下に捕われの身となっている。本当の安らぎを得るために、今勇気を持って、ダビデの元に逃れて行く必要がある。
 しかしダビデの元へ行くということは、戦いから逃れるということを意味しない。なぜなら、ダビデ自身が大いなる戦士であるからだ。私たちがダビデの元へ行くことは、主の戦士となることを意味する。自分の手柄を立てて、自分だけ褒美にありつくことを夢見るはかない戦士ではなく、主の栄光のために戦う誇り高き戦士となるのである。そして、そのような者に、ダビデの安らぎが与えられる。ダビデは戦いの中にあって、詩篇を詠み、舞を踊り、楽を奏したのである。彼の内には、常に主の平安があった。天から与えられる平安が。アヒメレクがダビデにパンと剣を提供したことをサウルが知ったとき、サウルは祭司の町ノブを襲わせ、そこの男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけて殺した。そこから一人逃れてきたアビアタルに対してダビデは言った、「わたしのもとにとどまっていなさい。恐れることはない。わたしの命をねらう者はあなたの命をもねらう。わたしのもとにいれば、あなたは安全だ。」

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