2009/08/24

様々な教派があるがどれが正しいのか?

 様々な教派の教理の対照として、よく取り上げられるのは、カルバンの予定論とアルミニウスの自由意思論である。前者は、救われて天国へ行く人は、その人数まであらかじめ決められており、神は救いに予定されている人に対しては、その救いが確かなものとなるように働かれ、救いに予定されていない人に対しては、彼らを恵みから落とそうと働かれるという。これに対して、後者は、神はすべての人に同等に救いの機会を提供されており、あとは各人の自由意思に基づき、救われる人と救われない人が別れてくるという。
 どちらも一長一短である。前者は、愛の神からは程遠いように思われ、後者は、神の全能性が制限されるように思われる点である。というのは、救いが各人の自由意思に依存しているとすると、誰も救われない可能性もないとは言えなくなるからである。しかし、後者のアルミニウス主義は、これを補うために、神の予知という概念を持ち出す。つまり、神は誰が救われるかをあらかじめ知っておられるというのである。そして、誰も救われないということはなく、またすべての人が救われるのでもないと言う。それなら、あらかじめ救われる人が定まっていることと、いったいどこが違うのか。アルミニウス主義にしてもカルバン主義にしても、誰が救われるかは、人間には明かされていないのだから。
 あと、私の所属するフリー・メソジストには、「聖め」という概念がある。「聖め」自体は、他の教団、例えばホーリネスにもあるが、フリー・メソジストのは特殊であり、「一瞬にして聖められる」という。それに対して、ホーリネスは、一生涯を通して「聖め続けられる」ということらしい。あと教派間で異なっているのは、奇跡や預言が現在も起こると主張する派ともう起こらないと主張する派。それから、聖書に書いてあることがすべて本当だとする派、それに対して、ある部分は作り話(神話や編集)だとする派。しかし、これらの違いは、教派間の交流により解消できると思う。つまり、奇跡が起こるなら、見せてもらえば良い。目の前で起これば、奇跡は今も起こることになり、起こらなければ、そうではないことになる。「今日は起こらなかった」というなら、1カ月、1年くらい余裕を与えれば良い。聖めにしても、「一瞬にして聖められた人」に会ってみれば良い。きっとその人が本当に聖められた人かどうか分かるだろう。もし分からないなら、それは偽物だろう。私は、自分の教団では、約1名、「この人は聖められた人ではないか」と思う人がいる。しかし、それ以外は見たことがない。でも、その人がいるために、私も「一瞬による全き聖め」という概念がたぶんあるんだろうと思うようになった。異言にしても、自分で語るようになって、初めてその存在を確信するようになった。奇跡についても、自分が祈った時に即座に相手が癒されたときに初めてそれを信じるようになった。かく言う私は、以前は聖書をすべては信じない、改革長老派の教会で長い間育てられてきたのである。
 しかし一番重要に思えることは、上記のすべての教派が、大して異ならない聖書を持ち、それを尊重し、同じ文面の使徒信条を唱え、三位一体の神を信じているということである。私には、教派間の相違よりも、この一致の方が驚くべきことである。そして、この一点において一致しているなら、すべての教派は、すべての人をキリストの福音に導くために神によって存在を許されていると言えるのではないかと思う。

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2009/08/23

進化論と創造論のどちらが本当なのか?

 私は、どちらも本当だと思っている。しかし、普通に考えれば、この2つが同時に真理ではあり得ない。そこで、どういうことかというと、次のように考えている。
 たとえば、進化論が「地球ができてから46億年経っている」と主張するのは、創造論の主張する約6千年とかけ離れているので、これらは一見両立しないように思われる。しかし、今から6千年前に神が、45億9999万4千年かからなければできないような状態の地球を6日間で創造したとしたらどうだろう。進化論の観測も正しいし、というのは、彼らが科学的に観測する限り、地球の年齢は46億年と観測されるはずだろうし、そのような地球が6千年前に6日間で創造されたとする創造論の主張も正しいことになるからである。というのは、創造論にしても、神が6千年前にアメーバを創ったと主張しているのではなく、人間や他のすべての動物を創ったと主張しているからである。つまり問題は、「地球の年齢は何年か」ということではなく、「神が存在するか」ということなのである。
 そこで、創造論とは何かというと、それは、「進化論が間違っていることを論証する」というのではなく、神が実在するということを無神論者に説得するための一つのアプローチだと言えると思う。そこで、創造論を推進する方たちが、上記のことを意識しておられ、無駄な論争をしないことを目指しておられ、その上で進化論の考え方を引用または例示することにより、返って神の実在を証明することが効果的にできる、または、そのような議論や推論が、日常神に無関心な方々の興味を聖書に向けることに役立つとか、そういうアプローチを意識しておられるのなら、創造論は有益なものだと思う。しかし、単に進化論が神の存在を否定しているから、その間違えを暴くため、無神論者の無知を立証するため等々の目的に留まっておられるなら、それはあまり得策ではないと思われる。というのは、聖書にこう書いてある。すなわち、「作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。ある人々はこれらのものからそれて、無益な議論の中に迷い込みました。」(テモテⅠ1:4~6)
 そこで、このような危険を避けるために、私は、「進化論か創造論か」という議論よりも、神の実在をどのように立証するかということに関心がある。この一点さえ得られれば、あとの議論は、聖書がすべて教えている通りだからである。また反対に、「神が実在する」というこの一点を棚に上げたままの議論は、人間中心主義に陥ったり、狂信的な議論を招いたり、その他様々な迷宮に陥る可能性があると思う。というのは、ノアの大洪水一つとってみても、その事実性を科学的に検討しようする立場もあれば、またそのような大量虐殺の是非やその目的等に関する教理的な議論にも発展しかねないからである。そのときに、創造論者が、「私たちは、そのような問題には関心がなく、ただ神の実在の立証のみに関心がある」というような主張をしても、一度起こってしまった議論を収拾するのは、容易なことではないと思われるからである。
 私のアプローチはと言えば、神の実在を立証するためには、創造論も一つの方法かもしれないが、他にも「力の伝道」と言われている分野における癒しや悪霊追い出しを通じて、生ける神の力が目の前で実際に働くことにより立証する方法や、神秘主義的なアプローチによる、神の直接的な描写による提示、また、神の言葉聖書が、福音を語る人を通して、それを聞く人の心に超自然的な変革を起こす福音的なアプローチ、また、聖書の言葉やエピソードが語りかけていることに対する決断を求めることにより現代人の生き方を問う実存的なアプローチ等々、さまざまな方法を相手の状態は立場に応じて使い分けることが理想的だと思っており、それがこのブログの目指していることでもあるのである。

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2008/12/22

信仰があれば教会に行かなくても良いのか

 キリストを信じ、洗礼を受けたばかりの熱心な人にとって、教会はもっぱら勉強と訓練の場であろう。そこで、彼が信仰的に成長するために教会は、まず必要なものである。しかし、やがて彼の信仰が成熟するにつれ、彼の教会への参加動機も少しずつ異なってくることが考えられる。例えば、彼の信仰の知識やレベルが教会の平均に達し、またそれを超えるに及び、彼はやがて教会の礼拝説教から啓発を受けることが以前よりは少なくなるということも起こり得るだろう。そこで彼がさらに信仰成長を続けるためには、教会以外に、例えば自分の部屋での聖書研究やデボーションが重要となってくるだろう。さらに彼は、教会においてさまざまな奉仕に携わるようになり、彼の中の教会参加の動機は、それまでの受動的なものから、より能動的なものへ、受けるという目的から、与えるという目的に転換して行くことになる。
 そこで彼が、この「与える」ということを彼の信仰成長にとって、必要と考えるかどうかが問題となるだろう。ところで、この「与える」ということが、実は彼がキリストから「受ける」ということであることを理解したとき、彼に教会がこれまで以上に「必要なもの」となり得るのである。なぜなら、彼は、本当は自分の信仰成長を、自分で実現することができないからである。信仰とは知識ではなく、生きることであり、それは実践なのである。そこで、この実践の場が彼に与えられないならば、彼の信仰成長は望むべくもない。信仰は、試されることにより評価される。何人も、信仰を床の間に飾ったままにすることは許されないのである。信仰は、それを働かせることにより、それを持っていることが神の前に表明されるのであり、信仰とはむしろ、この表明そのものなのである。
 だから、もし彼が教会へ行かず、そこに属さず、教会が彼にとって、献金箱みたいであったとしたら、彼は、間違いなく、成長しないクリスチャンと言えよう。そればかりか、実は彼は信仰を持っていないとすら言える。信仰とは、知識ではなく、実践なのだから。しかし、あるいは彼は、自分には信仰の実践の場としての社会があると言うかもしれない。しかしそのときは、彼はただ一人でそれに立ち向かわざるを得ないのであり、彼がそれに100%勝利できるとは言えないし、彼のために祈ってくれる者もないのは、大きなリスクである。それに加えて、彼の信仰実践の動機について考えて見れば、事態はもっとはっきりしてくる。そもそも信仰は、何のために与えられているのか。それは、彼の人生の幸福追求のためではない。そうではなく、それは、福音を宣べ伝えるためなのである。そして、福音を宣べ伝えよと言われた主イエスは、それを誰に対して言われたのか。教会に対してなのである。
 そこで、もしクリスチャンが、自分の霊的成長を期待するなら、彼は、定められた教会に属する必要がある。なぜなら、彼のキリストとの関係は、教会を通じてのみ存在するからである。そしてそれが、「教会はキリストの体」という意味なのである。

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2008/06/17

どうしたら神に完全に従えるのか?

 そもそも人は、なぜ神に従わなければならないのだろうか。被造物は創造主から、ある目的を持って造られたのであり、この目的に沿って生きるべきであることは、明らかではある。しかし、それを認識することと、神に従うこととは、まったく別のことである。
 人は、「どうしたら?」と考える。しかしその追求が、文字通りの「どうしたら?」ではなく、「どう考えたら?」となってしまっていることが多い。しかし、もしそうだとしたら、我々は、あの気の遠くなるような、イスラエル民族の背信と神の救済の歴史をまたぞろ歩み始めているのである。それは、律法による呪縛であり、同時に罪による呪いである。
 どうしたら私たちは、この呪いから解放されることができるのか。しかしそれは、聖書に明確に提示されている。曰く「キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、私たちを罪から解放する」と。しかしまた、キリストは言われた、「一粒の麦が地に落ちて、もし死ななければ、それは一粒のままだが、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と。これら二つの言葉は、どのように調和するのだろうか。それは、私たちがこの世に対して死ぬということである。ここから、すべてが始まる。
 もし人が、キリストに従うと言いながら、自分に死ぬということをしないなら、つまりキリストと一緒に、自分の人生をすばらしく生きたいと思っているなら、その人は、キリストに従っているのではなく、実はキリストを自分に従わせているのである。キリストに従うとは、自分を完全に捨てることであり、この世界におけるすべての望みを捨てて、自分の人生に終止符を打ち、その後にキリストに従って行くことである。
 それは一見、真っ暗闇の人生である。もし、その人生が明るくなり、実り豊かで、祝福されたものとなる可能性があるとしたら、それは正に奇跡であり、それはあなたの力ではなく、キリストの恵みなのである。そして、このことが必ず起こるというのが、福音なのである。そしてそれは、必ず起こるのであり、信仰とは、それが起こるのを待つことである。

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2008/02/05

クリスチャンになってもなぜ苦難がやってくるのか?

 「クリスチャンになったら、苦難がなくなる」あるいは「少なくなる」と漠然と考える人がいるかもしれない。それもあながち間違えでははないだろう。というのは、私たちは、キリストを信じることにより、この世の呪いから解放されるのだから。この呪いがある限り、私たちの生活は、苦々しいままであり、生きて行く意味も良く分からない。しかし、キリストを信じて心に受け入れると、聖霊が私たちの心に新しい知識を授けて下さる。その人は、もはやこの世の空しい喜びには、捕らわれないようになる。また、存在の根底からやって来る底知れない不安や恐怖(それらは、死に定められた人間存在に共通する)からも解放される。そこで、人はクリスチャンになると、これらの大いなる苦難からは解放されるのである。
 しかし同時に彼は、新たな苦難をその身に負うようになる。それは、戦いという苦難である。これは霊の戦いであり、約束の地としての天国への旅でもある。世の人は、この戦いを理解せず、そのようなものがあることさえ知らない。しかし、主イエスが言われたように、天国は力ずくで襲われており、激しく攻める者がそれを奪いとっているのだ。この戦いを知らない者は、天国がどういうものか知らない。神がかつてご自身に背いて悪魔と化したルシファーを滅ぼさずにおかれたのは、私たちに戦いを教えるためでなくて何のためだろう。私たちが天国を受ける方法は、戦いしかないのである。なぜなら、勝利を得る者こそが天国に入る者なのであり、パウロも「私たちが神の国に入るためには、たくさんの苦難を経なければならない」と語っている。この段階に至った人にとって、旧約聖書は従来と全く意味の違うものとなる。というのは、旧約聖書こそ、この霊の戦いと約束の地としての天国争奪に関する戦いを記したものなのだから。
 それゆえ、人がクリスチャンになるやいなや、戦いもまた始まるのであり、彼は新たな苦難の中に身を置くことになる。ああしかし、彼はその苦難にすでに勝利している。万軍の主イエス・キリストが私たちと共におられるからである。そればかりか、私たちは苦難の中で安らぎ、神を賛美することができる。かつて、ヨシャパテが率いるイスラエル軍が、「主をほめたたえよ、その恵みはとこしえまで」と賛美すると、敵は打ち砕かれたのであった。ダビデも迫り来る敵との戦いの中で神を賛美する詩を詠んだ。彼の一生は、戦いの生涯であった。そして、神はダビデを「我がしもべ」と呼び、彼のゆえにイスラエルをとこしえに祝福されるのである。

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2008/01/30

キリストは、本当に復活したのか?

 キリストは、十字架に死に、葬られた後、3日目に復活したと信じられている。しかし私たちは今、その証拠を手にしていない。キリストは、甦った後に天に上って行ってしまわれたからである。つまり、ここで問題にしているのは、私たちは、何をもってキリストの復活を信じているのかということである。
 たぶん多くのクリスチャンは、信仰はそこ、すなわちキリストの十字架と復活から始まると言うだろう。そして、キリストの復活という前提が崩れれば、信仰のすべてが崩れると言うかもしれない。確かにそうだと思う。しかし、ここに一つの疑問が残る。人は、そんなに一つのことをしっかりと心に持ち、信じ続けて行けるものだろうかということである。それは、自分の努力では不可能ではないだろうか。つまり、誤解を恐れずに言うのだが、復活信仰は、私たちがそれを信じるという行為自体に懸かっているのではない。それを私たちに信じさせている存在がいるはずなのである。もちろん、その結果私たちは、何の誤りも無く聖書を信じられるというのではないだろう。それぞれに自分の解釈で信じているところはあるに違いない。しかし、いずれにしても全体として私たちの信仰は、何千年もの間保たれてきたのである。その原因には、クリスチャン同士の交わりとか奇跡とか教会生活とか祈りや聖書を読む習慣とかもあるだろうが、それらを通じて、私たちを信仰から信仰へ進ませて、日々新たにして行くように働く、ある生きた実存が存在するとしか思えないのである。私は、この実存が復活のキリストだと思う。復活のキリストが現在も確かに私たちと共におられて、私たちの信仰を保ち、私たちに絶えずご自身のことを思い出させられるのである。それゆえ私たちは、キリストは復活して、今生きていらっしゃると告白するのである。

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2008/01/17

神は存在するのか?

 これは、いかにもキリスト者らしからぬ疑問ではある。そもそもキリスト者は、神が存在すると信じているはずなのだから。しかし、恥を忍んで正直に申し上げれば、私の場合、神に感謝したくなるようなことや神に驚嘆するようなことを体験したそのとき、私の口を突いて出る言葉は、「神よ、やはりあなたは存在されるのですね」というような意味のものである。
 ちなみに私のようなシステム開発を仕事としている者が新しい開発言語を学び始めたときには、まずコンピュータの画面にたった一行の文字列を印字するだけの短いプログラムを作成してみることが常である。その印字する文字列は意図的に決まっていて、「Hello World!」(日本語での意味はオギャー)である。ちょうどそのように、私は自分の体験により、新しく知った神の中に新たに生まれることを希望しているかのようである。聖書の中の信仰の偉人たちもこのことを類まれな表現で言い表した。すなわち、「あなたは生きておられます」と。
 それでは、いかにしてキリスト者の心にこのような、言わば不心得な疑問がわき起ころうとするのであろうか。それは、神が正にそのようなお方であるからである。つまり不可解にも、「神は存在するのか?」という疑問は、神の御性質の中に含まれているのであり、それゆえ、神を信じる者は、「神は存在するのか?」というこの疑問をも同時に自分の財産とせざるを得ないのである。「そればかりか、神がそのように不確定なお方であることは、正に神ご自身が意図されたことなのである。その目的は、「信仰」である。キリスト教の本質は、史実ではなく信仰である。
 それゆえ。たとえキリストを心に受け入れたからと言って、もうすべてにおいて安心ということではない。「神は存在するのか?」という疑問は、信仰者の人生に絶えずやってくる。なぜなら、それこそが神だからである。誤解を恐れずに大胆なことを言えば、私たちは神を見ることはできないし、神を知ることはできない。なぜなら、神は私たちを遙かに超えたお方だから。しかし、私たちは神を信じることができる。神を知るとは、すなわち神を信じることに他ならない。この「信じる」ということ以外に私たちから神へ接近する道はないのであり、それは、一度だけのことではなく、絶えず繰り返されるべき礼拝なのである。神は正にこのことを私たちに要求されるのであり、これほど類まれな、美しくもかけがえのないものが他にあるだろうか。

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2007/10/25

三位一体は聖書的なのか?

 「三位一体」という言葉をときどき聞くことがある。聖書のどこに書かれているのかと言えば、それは、文字通りには書かれていない。しかし、「奥義」と言って、書かれていない教理があるという。つまりそれは、間接的に書かれていて、そのように推測されるのだ。三位一体は、この奥義に含まれる。
 例えば、マタイの福音書28章19節には、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」とあり、またヨハネの手紙第一の5章には、証しをするものが三つあり、それらが聖霊と水と血であり、これら三つのものは一致すると書かれている。
 しかし奥義と言えども、三位一体は、決して突飛な考えではない。それは、オーソドックスな信仰から、聖書に従って自然に考察することにより帰結する面もある。まず聖書によれば、父なる神と子なるキリストは、二つでありながら一つであり、同等の神であることが読みとれる。父なる神は、御子にすべてを与えられたし、御子ご自身も私はすべての権威を授けられたと言っている。しかし彼はまた、私は父によらなければ、何事も成し得ないと言われた。このように父と子は一体なのである。
 それでは、聖霊についてはどうなのか。第一に、主イエスは、「私は、あなた方を捨てて孤児とはしない。またあなた方のところに戻って来る」と言われ、「聖霊が来るとき、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」と言われた。さらに主イエスは、聖霊を汚す者は永遠の罪に定められると言われている。そのように聖霊と主イエスすなわち御子もまた一体なのである。
 しかし、上記のことがあったとしても、なぜわざわざそれらのことから「三位一体」という教理を導き出さなければならないのだろうか。それは、一つは異端への対処である。父、子、聖霊の三つが一つの神ではないと仮定すると、キリスト教は多神教となってしまう可能性もある。反対に、御子が神でないとした場合には、エホバの証人が言っているように、彼は天使だということになり、キリスト仮現説(肉の体を持たないという説)に陥る可能性が出てくるか、または、人間崇拝となる危険性もあるだろう。
 しかし私は、三位一体の本質は、その信仰規定の形態だと思う。この教理から、すばらしい信仰がもたらされる。それは、私たちから見た場合、御子を中心としたものとなる。まず、御子が唯一の神であるゆえに、御子以外の人間が神とされることはない。また、御子が人間でもあるゆえに、私たちは、神に限りなく近い存在である。私たちは神の子であり、神を父と呼ぶことを許されている。また、聖霊が神であるゆえに、私たちには神の思いが与えられており、御子にも限りなく近い存在なのであり、この世界を御子のように生きることが可能とされているのである。

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2007/08/11

救われる人は、最初から決まっているのではないか?

 キリストを信じて救われ、天国に行ける人の数は、最初から決まっているという考え。これには、似ているが2種類の考え方があるようだ。一つは運命論で、最初からすべてが決まっていて、もう変えようがないという考え。もう一つは予定論であり、全能の神がそのように予定されていて、そうなるように神自身が事を運ばれるというもの。まあ、救われない人にとっては、どちらも同じだとも言えるだろう。しかし悩ましいのは、運命論は別として、後者の予定論は、かの有名なカルバンの考えだということだ。カルバンと言えば、私たちが属するプロテスタントの創始者的な存在だから、私たちの教理の根幹にこのような考え方が横たわっていることにもなる。
 かなり前だが、予定論には私も悩まされた。ウエストミンスター信仰告白によれば、救われる人の数は、天地創造以来決まっていて変更することはできない。そして、神は救いに定められていない人の心を頑なにするように事を運ばれるという。ちょうどエジプトの王パロの心を神が頑なにされたように。
 私は、ウエストミンスター信仰会議がどのように開催されたかを読んだことがある。それによれば、まず○○牧師が祈り、次に△△師が1時間説教し、次にみんなで1時間祈り、次にまた□□師が2時間説教し、賛美し、そのように一日中やっていたという。そして、それは参加者皆の心にいつまでも残る、生涯でもっともすばらしい時々だったという。そのような会議の結実に予定論が含まれるということは、それを安易に受け止めてはならないように私には思える。それは、神への徹底的な従順から生まれてきた考えなのだ。しかし、それにしてもそれは、人の考えなのではないのか。ある意味ではそうなのだと思う。という意味は、それは無限の世界のことを有限の世界の言葉、すなわち人の言葉で表現したものだから、それは人間の考えとも言えないこともないだろう。
 しかしたとえ、100歩譲って、救われる人の数がきっちり決まっていたとしても、その数はだれにも分からないし、示されてもいないということもまた真理である。とすれば、それは、決まっていないこととどこが違うのだろうか。それは結局、最後に滅びる人が存在するのかしないのかという問題と同じではないだろうか。もし一人でも滅びる人が存在するのなら、それは数があらかじめ決まっていようといまいと、神はある人々を救い、またある人々を滅ぼされるということに変わりないのではないだろうか。
 しかし、だれも滅びないという考え、これはエホバの証人の考え方にも似ているのだが(彼らは滅びる人は消滅してしまうので、苦しみもないと言っている)、もしそう考えるのなら、宣教の必要性もなくなってしまうかもしれない。それなら主イエスはなぜ大宣教命令を出されたのだろうか。聖書が福音を宣べ伝えよと言っている限り、滅びる人がいるということもまた真理なのである。
 それでは、だれが救われ、だれが滅びるのか。それは誰にも分からない。だから私たちは、時が良くても悪くても、一生懸命に福音を宣べ伝える。それが、神への従順であり、私たちの伝道の結果、一人の人が救われたなら、その人は、神が救いに定められていた人なのであり、それはまた、私たちが伝道した結果なのである。この2つは、神を信じ、徹底して従順に従う人にとっては、なんの矛盾でもないのである。なぜなら、私たちは永遠から永遠まで支配される神の御心がこの世界に行われることを願うのだから。

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2007/08/10

なぜ神を礼拝しなければならないのか

 神は、すべての信仰者がご自分を礼拝することを求めておられる。しかし私たちは、なぜ神を礼拝するべきなのだろうか。神はなぜ、私たちにご自分を礼拝することを要求されるのだろうか。もしそのような疑問が湧いてくるならば、私たちの思いは、すでに自分主体なものへと傾き始めているのである。というのは、そのような考えは、例えば一人の人が多くの人の上に君臨するようなイメージで礼拝を捉えているからである。
 人が民衆の上に君臨するのは、権力を奮うためである。しかし、礼拝は、言わば最深の意味での驚嘆であり、神が権力を行使されるのとは違う。返って神は、人がご自分を礼拝するようになるのを待っておられるのである。そして、人が神を礼拝するとき、神は人から何物も徴収されることはない。返って神は、礼拝において人にご自身を与えられるのである。神が人にご自身を与えられるとは、どういうことか。それは、ご自身の義と愛の完全さを人に啓示され、人はそのあまりの素晴らしさゆえに、神を褒めたたえずにはいられなくなるのである。
 それでは、礼拝の要素とはどのようなものか。それは、まず準備であり、環境の整備である。かつてイスラエルが神を礼拝するための幕屋や神殿を作ったように、私たちも賛美と祈りにより、その場所に神の臨在を願い求めるのであり、そのときは私たち自身が神の宮となるのである。そのようにして条件が整うと、神がその場所に臨在されるということが起こる。そして神が臨在されるなら、そこに二つのことが起こる。一つは裁きであり、もう一つは赦しである。まず神の聖さの前に、私たちの罪深さが自覚され、そのようなものが神の前に出ていることの驚きと畏れが人の心を圧倒する。そこで私たちは、神から与えられた購いの小羊を心に掲げ、十字架のイエス・キリストを見上げるのである。すると、神の元から大いなる赦しと平安が湧き上がって私たちの心を満たし、自分の罪が赦されたことを知るのだ。私たちは神に感謝し、イエスの御名を告白し、その購いの力を讃美する。これは、私たちがこの地上にいる間、常に繰り返される。なぜなら、それは、私たちが神の元から迷い出てきて、再び神の元へ帰ること、すなわち「出ずると入る」とを示しており、この2つのことは、永遠の世界、つまり天においては1つのことなのだから。そしてそれはまた、聖書全体が言っていることなのである。

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