2008/11/29

ペテロと愛弟子、結び

ヨハネの福音書(第21章15節~25節)
 ブルトマンが書いたヨハネ福音書の注解、その学びもついにこれをもって完結することになる。この福音書を書いたヨハネとはどういう人で、ヨハネ福音書とは、どういう書物なのか。これがブルトマンの最大の間心事だったのである。それに対してキリスト信徒の中には、「そんなことは、どうでも良いことで、信仰とは関係ない」と言う人がいる。しかし、そんな独りよがりの信仰で、伝道ができるものだろうか。
 たとえばクリスチャンは、ときに伝道的なアプローチにおいて、「アダムの堕罪により、罪が全人類に入り込んだ」と言うパウロの言葉により罪の起源とその結果としての現代の悲惨を説明しようとする。しかし、アダムが犯した罪がどのようにしてその隣人に伝播し、さらに全世界に伝播するのかというその仕組みについては、何の関心も示さず、聖書を鵜呑みにしているだけであり、そのような態度を「聖書をありのままに信じること」だと言う。しかし、本当にそうであろうか。「聖書をありのままに信じる」とは、聖書に記述されていることが本当に起こったことだと信じることであり、鵜呑みにすることとは違うと思うのだ。もし、「聖書をそのまま信じる」というのなら、罪の説明において、何も創世記を紐解かないまでも、新約聖書に「すべて信仰によらざることは罪なり」と書いてあるので、それを信じて宣教の言葉とすれば良いのである。しかし、なぜかそれでは、ちょっと不足だと考えて、その理由付けというか根拠として、創世記の記述を持ち出すのだと思う。しかし、上述のように、それは、一般人に解かるような十分な説明を欠いていて説得力がないのである。クリスチャンが上述のような倒錯した理論武装をしているのは、まことに驚くべきことであり、彼ら(すなわち私たち)がまさに「羊」と呼ばれるゆえんだと思う。羊は、まったくばかであり、自分の隣で仲間がほふられていてもその場を逃げないそうである。しかし、私たちが上述のような倒錯した理論展開をしているまさにそのときに、それを聞いている人の耳に悪魔が囁いているのである、「こんなばかな話を信じられるはずないでしょ」と。
 私がブルトマンに好感を持つのは、少なくとも彼は、上述のことに気づいており、そのようなアプローチを極度に憎んでいるように思えるからである。
 そんな彼が、このヨハネ福音書の最終章を、無名の若僧の使徒ヨハネが、彼の著書たるこの福音書を権威付けるために書き加えたのだと主張する。イエスがベテロに3度、ご自身への愛を問い正した後で、殉教の預言を与え、服従を命じられたこと。そして、それと対象的な、ペテロを嫉妬させるようなヨハネの将来への言及。それらが書かれたことの目的は、ヨハネ自身をペテロと同格に持ち上げることであり、さらにそのことが彼の著書たるヨハネ福音書の権威付けのためであったという。さらに、イエスが言われた、「ご自身が戻ってくるまでヨハネが生き残っていることを望む」ということ、そしてその結果、弟子たちの間に、「ヨハネは死なない」という噂が広まったこと。そしてヨハネ自身が、それを単なるイエスの仮定話だと念を押していること。それらは実は、後にこの不死身と言われたヨハネが死んだことによる、聖書の事後訂正なのだという主張。これらを聞くとき、それまで羊のように脳天気ににやけていたクリスチャンが、こんどは突然に血相を変え、目を血走らせて、聖書の後ろに隠れながら、「神への冒涜だ!」とブルトマンを糾弾する。そのような状況を傍から見て、ノンクリスチャンはどのように思っていたことだろう。
 そのようなことを背景に私は、この第21章には、ブルトマンという人の人間像というか面影が色濃く焼きついているように思えるのである。この注解書を書き終えようとするブルトマンの思い入れを読み取る思いがするのである。これは推測だが、ブルトマンは、この第21章におけるペテロの姿に自分を重ねて見ていたのではなかろうか。失敗が多く、イエスを3度否認し、一度は信仰を捨てたペテロ。若いヨハネに対してイエスが語った、祝福された将来像をうらやむペテロにである。しかし、主イエスは、ペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われ、教会の統率を委任された。イエスを信じる信仰の生涯は、お行儀の良い優等生のクリスチャン生活ではない。返って、手探りの耐えざる迷いと探求の道である。今日、そのような信仰生活の中で、自分とは違う祝福された兄弟姉妹を見て、「主よ、あの人はどうなのですか」と問いかけたくなることがある。しかし、主イエスはその人に、すなわち、ブルトマンに、あのときのイエスと同じ、愛に溢れた眼差しを向けて言われるのである。すなわち、「あなたは私に従いなさい」と。

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2008/11/27

湖畔での復活者の顕現

ヨハネの福音書(第21章1節~14節)
 ヨハネ福音書は、20章で一度終止符が打たれた後、再び付録のような21章が始まっている。
 この復活者の顕現物語は、終始謎に包まれている。20章において復活者の顕現と励まし、派遣命令を受け取った弟子たちが、なぜまたここで、ガリラヤまで漁をしに帰って行くのか。そこへイエスは、いつどこからやって来られたのか。イエスの指示による大漁の魚とイエスご自身が用意された朝食の魚との関係。弟子たちがイエスの姿に気づかないこと等々、全体が霧に包まれたようになっている。
 しかし、その霧の中に浮かび上がっているいくつかの描写があり、ブルトマンは、それらが決定的なものだと指摘する。見知らぬ男の指示がもたらした大漁により、その人が復活したキリストだと気付いたヨハネは「あれは主だっ」と叫んだ。しかし、ブルトマンによれば、それはいまだ霧の中のできごとであり、現代を生きる我々を復活のキリストに遭遇させるできごととはなり得ない。しかしここに、感覚においては鈍いが、感性においては、卓越している一人の男がいた。彼は、主だと聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。この男ペテロこそ、主を直接認識できない現代のキリスト者を代表する。私たちは、啓示すなわち「あれは主だっ」という号令により、間接的に主を認識する。しかし、私たちは、その啓示をもたらした天才的な感性を持つものに比べて劣っているのではない。もし私たちが、その啓示を受けて後、湖に飛び込むという行動をとるなら、私たちは、啓示をもたらした者よりも先に主にお会いすることになる。
 主イエスは、愛する弟子たちのために朝の食事を用意しておられた。私たちが行う業、企てることは、すべて主の御手の業であり、それらがなくても朝食はふるまわれる。しかし、主はペテロに、「いまとった魚を何匹か持ってきなさい」と命じられた。復活の主は、今日においても、弟子を選び、彼を用い、漁(伝道)に召し、その成果を求められるのである。
 復活の主とお会いするとは、そのようなことであり、それこそが教会なのである。

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2008/11/15

弟子たちの前での復活者と懐疑者トマス

ヨハネの福音書(第20章19節~29節)

 ここには、2つの物語が対照的に記されている。突然のイエスの顕現により信じ、慰めと励ましを受ける弟子たちとその場所に居合わせず、懐疑するトマスの物語である。イエスは、トマスを叱責して言われた、「あなたは私を見たので信じたのか、見ずに信じる者は幸いである」と。しかし、「見ずに信じる者」とはいったい誰であろうか。そもそも見ずに信じた者があっただろうか。少なくともヨハネの福音書には、「見ずに信じる者」は出て来ないのであり、返ってマリアのように、見てもすぐには信じることができず、イエスに声をかけられて初めて信じたくらいなのである。その観点では、トマスもイエスの叱責の声により信じたのである。
 ブルトマンもこの件に言及して、「この物語は復活者に対する信仰は、目撃証人の発言に基づいて求められることを教えようとしているのだろうか」と言っている。しかし彼は続けて、こうも言っている。すなわち、「本当は復活者を見ることが初めて弟子たちをイエスが語った言葉を信じるように動かすのではなくて、この言葉はそれだけで彼らを納得させる力を持っているはずである」と。
 まことに、実際に主イエスを見た初代の弟子たちと、我々も含まれるところの主イエスの昇天後の弟子たちとの間の、この質的な差異は、現代の信仰者を迷わせるに十分な要素に思われる。そこでブルトマンは、私たちのイエスへの信仰の根拠を生前のイエスの訣別の言葉に置くのである。それは、実存主義的キリスト者としての彼の必然でもあり、また限界でもあると思う。まことに信仰を歴史的終末論的な出来事に対する人の決心的な態度と見る立場、すなわち実存主義神学においては、このような対処は必然的なものなのだろう。しかしここで、歴史的出来事とはなんだろうか。もしかしたら、それもやはり、ブルトマンがいま、ヨハネ福音書が拒否していると指摘し、自らも実存的神学者として拒否しているところの「目に見えるできごと」なのではないのだろうか。しかし、その目で見えるところの歴史的な出来事の中から、目に見えないところの主イエスの訣別の言葉が信仰者をして、今日も、また永遠に主イエスへの信仰に自らを留まらしむるのだとブルトマンは言いたいのだろう。その主イエスの言葉は、どこから来るのか。それは、ブルトマン自信も明確には認識していないようであるのだが、実は、実に見えない実存から来るのである。そして、その目に見えない実存が、今日も、今も、復活者イエスとして、私たちの前にリアルに相対しておられるとしたら。私たちは、それを信じる。主イエスは、復活して今私たちと共におられると。ブルトマンと共に、私は信じたい。私たちの人生を決定的に変革するところの訣別の言葉を語った主イエスは、今、その最後の晩餐における臨在と全く同じ臨在において、また、ユダヤ人たちを恐れて、固く戸を閉ざしていた部屋に集っていた弟子たちに現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われた、復活の主イエスの臨在と全く同じ臨在において、現代を生きる私たち信仰者に相対しておられるのだということを。

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2008/11/08

復活日の朝

ヨハネの福音書(第20章1節~18節)

 イエスの復活は、謎に包まれている。ブルトマンは、この箇所に二つの異なるモチーフが互いに競合しつつ記述されていると言う。一つは、墓でのマグダラのマリアの物語、もう一つは、ペテロと愛弟子の物語である。
 ペテロと愛弟子は、共にイエスの葬られた墓へ向かって走ったが、最後の晩餐のときに、御胸に寄りかかるほど親密であった愛弟子の方が先に墓に到達した。しかし、彼は墓に入ることはせず、後から来た、イエスを3度知らないと言ったペテロの方が先に墓に入り、空になった墓の中を実際に見て、イエスの復活を信じた。また、朝早く墓に行ったマリアは、目の前に現れたイエスを墓の番人と勘違いした。しかし、イエスが声をかけられるとその人がイエスであることを悟った。これらのことは、私たちが復活のイエスを認識するのは、肉体的な手段以外の、ある何物かによることを暗示しているようである。
 これに関してブルトマンは、聖書の記述にささやかな疑問を呈している。すなわち、イエスがマリアに「私に触れるな」と言ったことに関して、「それゆえ復活物語には独特の玉虫色のもの、または矛盾するものが付着している。事実、肉体的な手による接触が禁じられるのに、肉体的な目で見ることはどうして許されるのだろうか」と。しかし、マルコの福音書には、「イエスは、別の姿で弟子たちにご自身を現された」とある。つまり、「目による認識」は、実は成されていないのである。それゆえマリアには、その人がイエスであることが分からなかったと見るべきだろう。
 イエスは弟子たちに、「私の父であり、あなた方の父である方、また私の神であり、あなた方の神である方のもとに私は上る」と告げた。これは、イエスが生前、すでに最後の晩餐のときに弟子たちに語っていたことなのであり、そこに大きな意味があるとブルトマンは言う、すなわち、「だから真の復活信仰とは、このことを信じ、それによって十字架の躓きを理解しつつ乗り越えることなのである。それは復活者に対する、把握可能で内世界的な示唆的証明を信じることではない」と。さらに、「『私の神のもとに、またあなたがたの神のもとに』と言われるとき、それによって新しい思想が付け加えられてはいない。しかし一方でこの文は、イエスの父は神である!神はイエスを通して彼の者たちの父になっている!という高揚した荘重さを獲得している」と。

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2008/10/30

イエスの十字架刑、死、埋葬

ヨハネの福音書(第19章16b節~37節)

 ブルトマンによれば、これらの箇所は、奇跡と預言に彩られている。実存主義者の彼がそのように考えるのである。
 イエスの架けられた十字架の上部には、「ユダヤ人の王イエス」と記されていた。それは、ピラトが書かせたものであり、同時に預言でもあるという。それは、3カ国語で書かれた、つまり多国語に翻訳された宣言だったのだから。それは、ピラトにとってみれば、ユダヤ人への仕返しであり、当てつけであり、またユダヤ人にとってみれば、神の救いの拒絶である。しかし、その最も中心的な意味は、実は別なところにあるとブルトマンは言う。それは、すなわち、十字架に架けられたイエスが実は、世の救い主なのであり、十字架刑自体がイエスの高挙、栄光化なのである。それが、この罪状書が持っている預言的な意味である。
 イエスを十字架に付けた兵士たちは、旧約聖書の預言通りに、彼の衣服を4人で分けあい、下着をくじ引きにした。キリストは、その死に際して、十字架の上から、相弟子ヨハネに向かって、ご自分の母の世話を依頼された。それは、「婦人よ、見よ、あなたの子です」、「見よ、あなたの母です」という、正に預言的な言葉によった。
 イエスは十字架上で、聖書が実現されるために「わたしは、渇く!」と叫ばれ、兵士が差し出した、酢いぶどう酒を受けて、「すべてが成し遂げられた」と言われた。人は、神のご計画の成就に無意識に関与することしかできない。「信仰」という積極的な無意識を通して関わりを持つことだけが許されているのである。しかし、主イエスは、そうではなかった。彼は、神のご計画に関与する者であると共に、その創造者自身であったのであり、それゆえ彼は、聖書が成就するために「わたしは、渇く!」と叫んだのである。
 イエスは、十字架上のこれらの言葉と共に、あっけなく死を遂げる。彼は、時至って必然的にこの世に生まれ、そして死ぬのも自分の言葉によったのである。彼は、この世界の創造主であり、人の生と死を支配しておられるお方なのである。そして、彼の死後もなお彼に関する預言は成就する。すなわち、「彼の骨は折られてはならない」の通りに、兵士たちは、彼がすでに死んでいるのをみて、彼の足を折るのをやめたのであった。
 しかし一人の兵士が、持っていた槍で、イエスのわき腹を突くと、すぐ血と水が流れ出た。ブルトマンは言う、「それは間違いなく奇跡を報告しようとしているし、またこの奇跡は間違いなく特定の意味をもっている。その意味は、洗礼と主の食事とのサクラメントは、十字架で死んだイエスの死に根拠をもっているということ以外のものではありえまい」と。
 最後に、イエスの埋葬について。これはブルトマンではなく、筆者の感想だが、ヨハネはそれまでとは違って、預言も奇跡も用いずに場面を展開させている。それは、あたかもこの部分だけは、人からイエスへの愛の贈り物としたかったかのようである。それまでユダヤ人を恐れ、弟子であることを隠していたようなアリマタヤのヨセフが登場し、イエスの遺体の引き取り方を願い出る、そして、ある夜、人目を忍んでイエスに会いに来たニコデモが、葬りのためにたくさんの香料を持ってきた。そして、それまで誰も使ったことのない、新しい墓が与えられた。しかしブルトマンは言う、「これこそまさに神の摂理である。・・・埋葬は、間に合わせの仕方ではなくて、完全な仕方で行われた」と。

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2008/10/22

イエスに対する判決

ヨハネの福音書(第19章12b節~16a節)

 ピラトは最後まで、できるならばイエスを釈放したいと思っていた。そして、いろいろと努力したのだが、結局ユダヤ人たちの「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」という脅迫に負け、イエスを十字架に付けるために彼らに引き渡した。
 ここに、計り知れない矛盾があるとブルトマンは言う。というのは、ピラトもユダヤ人も共にこの世に従っていながら、互いに分かれ争い、しかも共に神の子イエスを否定している。この世の思いは、空を打つ拳闘のようであり、意味のない闘争心の同士打ちでしかないのである。それは彼らが、真理という唯一の有に背いていることの報いなのである。ピラトの語った、「あなた方の王を私が十字架につけるのか」という言葉と、イエスの架けられた十字架の上部に掲示された「ユダヤ人の王」という罪状書が、これらの底知れない矛盾を赤裸々に物語るのである。

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2008/09/30

第二の審問とその結果

ヨハネの福音書(第19章8節~12a節)

 イエスは、不気味な超人的な存在としてピラトの前に立っていた。ピラトは、イエスに問いかけた、「お前はどこから来たのか」と。この「どこから?」には、ユダヤの片田舎と共に、また星輝く天も想定されていたのである。それゆえにイエスは、不気味な存在であった。この「不気味な存在」は、躓きの一つの契機である。それは、ある点でピラトを越えている。人は、自分を越えた存在に遭遇するときに、二つの反応をする。すなわち、信じるか躓くかである。そして厳密には、この二つの反応は、同等なものではない。その意味は、躓きは必ず起こるものなのである。ブルトマンによれば、この躓きなくして信じるということは、起こり得ない。それは、自分を越えた存在との出会いそのものなのである。この躓きを越えて、その存在との親密な関係に入って行こうとする者には、信じるという行為が要求される。そして、それをあえて行う者は信じ、それを拒むものは、躓きの中に留まり続けるのである。
 ピラトが、自分を越えた者、すなわちイエスを信じれば、ピラトは、イエスに対する裁きにおいてもユダヤにおける政治においても、また彼自身の人生においても、神の御心を行う者となる。しかし、もし彼がイエスを信じなくとも、彼は神の御心を行わざるを得ない。神の御業の遂行を拒むことは、彼にはできない。それは、天地創造の昔からすでに決まっているのである。そこで、ピラトがどのように傲慢に、自分の思うままに振る舞おうとも、彼は神の御業の成就に、結果的に貢献することになる。信じる者は、神の栄光を現す聖なる器とされるが、ピラトのように、躓き、信じることのできない者は、神の意志を実行に移すための道具となるのであり、彼は自ら知らずして、神の御心を行うことになる。しかし、ブルトマンによれば、それでもピラトは罪ありとして裁かれるべき存在である。彼の行いもさることながら、彼の意志が悪いので、その結果としての行いも悪いものとして裁きを受けるのであり、まさにその彼の罪が、イエスを十字架刑に定めるのである。

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2008/09/25

イエスの鞭打ち、嘲弄、提示

ヨハネの福音書(第19章1節~7節)

 ピラトは、イエスを有罪としてしまった自分の過ちを何とか取り返したいと思った。そして、イエスを兵卒に渡して鞭打たせるということを行った。その意図は、ユダヤ人らの激情を和らげ、今となってはイエスは、彼らが恐れるような危険人物ではなく、か弱い惨めな一人の人間であることを示して、告発を思い留まらせようとしたのだとブルトマンは言う。そして、それは結局、失敗に終わるのだが、そのために主イエスは、無惨に鞭打たれ、嘲弄されたあげく、人々の前に連れ出され、見せ物にされた。そして、正にそのことにより、「言葉は肉体となった」ということの極端な帰結が、ピラトに対するイエスの要求の逆説となって、すさまじい像にまで具象化されているとブルトマンは言う。
 しかしピラトのやり方は、思惑とおりの結果を生まなかった。ユダヤ人たちは、ピラトの支配下にありながら、彼に対立し、彼に不当な判決の言い渡しを迫った。それは、ブルトマンによれば、単に国家の代表者としてのピラトとその統治下にある民との対立ではなく、国家と世との対立関係なのであり、またその背景には、国家権力と神的な力との関係があるという。
 「国家権力は、神によって立てられている」というのがブルトマンの信念である。しかし本当は、すべての権威は神によって立てられているのである。そして、権威は、それが行使される対象と対立する独立した存在なのであり、そのすべてが神によって立てられているのである。
 そこで、この福音書における、主にピラトがここで関わっている局面において、二つの、いや三つの権威が問題となる。一つはユダヤ人すなわちこの世に対する権威であり、この場合ピラトは、国家権力の代表として、神の側に立っているのである。それゆえ、ピラトがイエスをにせ預言者として裁かないことは、世に逆らうことになる。二つ目の権威は、イエスに対する審判者としての権威である。この場合も、ピラトは神の側に立って、イエスを裁くことになる。しかし、世が権力者に要求するのは、この場合、上記のような宗教的な判断とは対象的に、神の知恵をもって、この世界の諸問題を即時的に解決できるソロモン王のような権威なのである。そして、そのような裁きが、この世の権力者であるピラトの役割りであり、原理原則であり、また限界でもあったのだ。しかしピラトは、イエスの正体が分からず、確信を持って裁くことができなかった。彼には、このような問題に対処できるだけの知恵が与えられていなかったのだ。三つ目の権威は、神からピラト個人に与えられている権威であり、これは、万民に同じように与えられているもの、すなわち、自己の心の王国を支配する権威である。そして、ピラトの心の王国に対してイエスは、絶対的な権威を主張していたのだから、ピラトはそこを治める王として、イエスの権威を認めるか、それとも拒否するかの選択をする必要があった。しかしブルトマンによれば、上で述べたように、この世における権威とは、たとえそれが神によって立てられているものであっても、世がそれに対して要求するのは、せいぜいのところ、判断の即時性なのであり、それに対応できるものは、権威を行使する者が依拠すべき絶対なる存在への服従による裁きなのである。従ってそれはこの場合結局、「イエスが主張する神の国かこの世か」という「あれかこれか」の選択に帰結するのである。

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2008/09/22

イエスか、バラバか

ヨハネの福音書(第18章39節~40節)

 ピラトは、当時のユダヤを支配するローマ帝国の地方総督として、イエスを裁くために法廷に座していたはずであった。しかし実際は、被告人イエスが語った言葉が引き起こした終末論的なパラダイム転換により、いまや一人の被告として、人々の前に立たされていた。イエスは、真理を証しする者として、ご自身の創造物である全宇宙を従えて、ピラトを告発してこう言ったのである、「真理に属する人は皆、私の声に耳を傾ける」と。しかし彼は、耳を貸そうとしなかった。世の手前、その勇気がなかったのであった。
 ピラトは、イエスを政治犯として裁こうと思っていたが、それが不可能であることを知った。それならこの裁判は、自分の関わるようなものではない。そこで手を洗っていれば、ピラトは破局から逃れることもできただろう。しかし、続けてピラトが語った「それでは、やはり王なのか」は、イエスの語った「あなたは、わたしが王だと言った。その通り、私は王である」という答えにより、逃げ場のないものとなった。すなわちピラトは、イエスが王であるという可能性の存在を認めていた。そして、その王は、「真理を証しするためにこの世に来」て、いまピラトの前に立っているのである。ピラトは、さらにその上、真理に対して一瞥を向けてこう言った、「真理とは何か」と。
 いまやピラトは、イエスの前で、真理を求めるか、あるいは、ユダヤ人たちのようにそれを拒否するか、二つに一つの選択を迫られていた。もし彼が、この選択に対して、ローマの地方総督として、ふさわしい態度をとったなら、彼の威厳は保たれたであろう。しかし彼は、それに向かう勇気を持ち合わせていなかった。そして彼は、過ぎ越祭に囚人を一人解放するという週間を利用して、イエスを釈放しようと提案した。しかし彼は、その自分の言葉で、返ってイエスの罪状を確定してしまったこと、すなわち国家権力を世に自由に使わせてしまったことを知らなかった。しかしそれは、ユダヤ人たちがイエスの代わりにバラバの釈放を要求したときに明らかになるとともに、もはや取り消すことのできない判決となったのであっり、再びそれらのことは、イエスについて、聖書に書かれていた通りに起こったのであった。

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2008/09/18

第一の審問とその結果

ヨハネの福音書(第18章33節~38節)

 イエスは、ただ一人ピラトの法廷に立っていた。ユダヤ人は、迫っている過ぎ越しの祭りの前に異邦人に交じることによる汚れを避けて、そこに近づこうとしなかったからであった。しかし、この法廷で裁きが下されるためには、まずイエスの罪状が明らかになる必要があった。そこでピラトは、イエスに審問して言った、「おまえはユダヤ人の王なのか」と。それは、ブルトマンによれば、イエスが国家権力の代表者が承認できないような政治的な称号を要求しているのかどうかを確認するためであった。これに対して、イエスは、「それは、あなたの考えか、それとも他人の入れ知恵か」と切り替えした。ピラトは、その場を政治的犯罪の法廷としたかった。しかしイエスは、全宇宙の王としてピラトの前に立っていた。そして言った、「私の国は、この世のものではない」と。ピラトは、このイエスの答えを聞き、自分の裁きの範囲ではない、すなわち、イエスは政治犯ではないと結論したかった。しかし続けて語られた「私は真理のために証言するために生まれ、そのためこの世に来た。真理から出る者は、私の声を聞く」というイエスの言葉は、ブルトマンによれば、ピラトに一つの決断を迫るものであった。それは、イエスの国は、この世のものではないが、それはまた、この世と決して無関係ではなく、返ってすべての人間に関係するものだから、世に平穏をもたらすよりも、国家がその内部に秩序を打ち建てる領域を動揺させるものであるということである。そして、それはこの世の仮面をはいで、罪の世であることを暴露することにより、世に挑戦するものであり、ピラト自身も、いまこの挑戦を受けていることを自覚すべきものであった。
 それゆえ、ピラトが「私は、あの男に何も罪を認めない」と中立の立場をとったのは、もはや国家の代表者としての態度ではあり得なかった。そして、それを不承不承にも彼に認めさせたのは、皮肉にもユダヤ人たちのこの世的な思いから発せられた叫び声であった。

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