2007/02/19

論述:離脱について

 神は人をご自身の似姿に創造された。私たちは、このことを良く心に刻む必要がある。というのは、もしこのことがなかったならば、私たちは神からの祝福を受けることはできないからである。「神はまことに天使たちを助けることをなさらず、アブラハムの子孫を助けられるのである。」と聖書は言っている。
 しかしこのことは、決してイエス・キリストの購いを不要とするようなものではなく、返って福音がそこへと向かうべきものなのである。すなわち、イエス・キリストの購いにより、旧約聖書の記述が必要なくなったのでもなく、また神がイエス・キリストにより、まったく新しい祝福を創り出されたのでもない。旧新約聖書は、アダムが失ってしまった祝福を奪還するための一貫した歴史なのである。
 このことを認め、深く心に刻むならば、私たちは、イエス・キリストにより救われた後に、自分が受けた祝福の意味をもう一度、旧約聖書から学び直す必要がある。そうでないと、私たちが受けた祝福の意味が分からなくなってしまうだろう。しかし、旧約聖書のどこに神が人に与えられた祝福の内容が書かれているだろうか。むしろ、創世記の第3章において、すでにアダムとエバが罪を犯し、エデンの園から追放されているのを見る。しかも第1章と第2章のほとんどは、神が天地万物を創造したことの経緯が書かれているのであり、アダムが受ける祝福の内容については、ほとんど記述されていないとも見られる。アダムがそれを享受する前に悪魔がそれを奪って行ってしまったからである。しかし、この祝福は、悪魔にはもともと受けることのできないものであった。なぜなら、悪魔は神の似姿に創造されたのではなかったから。神の似姿に創造され、神の祝福を受け継ぐことのできるのは、創造されたすべてのものの内の人間だけなのだ。
 神は、アダムとエバに罪の報酬としての罰を宣告し、エデンの園から追い出し、彼らが再びそこへ戻ることがないように、回る炎の剣を置いてエデンの園への道を閉ざされた。そして、長い長いイスラエル民族の歴史を経て、ご自身の一人子をこの地上に生まれさせ、完全なる救いを成し遂げられた。神は、このイスラエル民族の罪の歴史を通して、何を成し遂げようとされたのか。なぜ、イエス・キリストが生まれて来られるまでに、そのような気の遠くなるようなイスラエルの罪の歴史が必要だったのか。
 その答えは、唯一つ。すなわち、イスラエル民族の歴史こそが、神がアダムに与えようとされていた祝福を描写するものだったということである。そこに綴られている祝福と呪い、勝利と敗北、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、それらは、アダムが受けるはずであったが失ってしまった祝福を詳細に綴ったものだ。それはアダムの罪を受け継ぐ私たちに理解できる形で記されているのであり、もしアダムが受け継ぐ祝福がそのままの形で記されたなら、私たちにはそれが理解できなかったであろう。それは、天上のものだから、地に住む私たちには理解できない。
 しかし、私たちの前に今や、イエス・キリストを通して完全な救いが現れた。それは、アダムが受けるべきであった祝福をもう一度私たちにもたらすものである。それは、これまでのイスラエル民族の歴史を無意味にするものではなく、反対にそれを完成させるものである。私たちは、イエス・キリストにより、イスラエル民族の歴史のすべてを収穫するのであり、彼らが受けるべくして完全に受けられなかった哀れみ、力、勝利、祝福は、イエス・キリストにおいて、すべて完全な形で私たちのものとなるのだ。なぜ彼らはそれを完全な形で受けられなかったのか。彼らがその奪還の戦いにおいて、敗北してしまったからである。しかしイエス・キリストは、ユダ族の獅子として完全な勝利を得られた。だからイエス・キリストにおいて、私たちは、アブラハムの祝福、モーセの奇跡、ヨシュアの勝利、ダビデの従順、ソロモンの知恵、イザヤの洞察、ダニエルの夢、エゼキエルの幻、それらすべてを受け取ることになる。どのようにして、それは完成するのか。無となることによってである。イエス・キリストの前でこそ、イスラエル民族の歴史におけるすばらしい教訓は、無に解消されることができる。すべてがイエス・キリストを待ち望んでいたのであることが今や明らかになる。すべてがイエス・キリストの前で無に等しくなり、すべての栄光がイエス・キリストのものとなるのである。

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2007/02/16

説教22:「神と神性について(マタイ10:28)」より

 神は昔から様々な形で人々にご自身を啓示して来られた。アブラハムには全能の神として、イサクには祝福の神として、またヤコブには選びの神としてご自身を現された。神はご自身を現そうとされる対象により、様々な形でご自身を現されるのである。そこに啓示されているのは、神ご自身と言うよりは、むしろ啓示する対象としてのそれぞれの人の使命あるいは生涯である。つまり啓示という形で私たちが知ることができるのは、神ご自身というより、むしろ私たち自身のことなのであり、そのとき私たちが聞くのは、実は神からの声ではなく、被造物が発する「神よ!」という叫びなのである。
 それでは神は本当はどのようなお方なのか。上で述べたような啓示という形で私たちが知り得る最も完全な神の姿は、主イエス・キリストである。神は人間イエスの中に考えられ得る最高の形でご自身を啓示された。このお方をおいて他には、完全な形で神を見る方法はない。しかしその場合でも、イエスにおいて見られているのは、神ご自身ではなく、救い主としての神ご自身の啓示なのである。
 そこで私たちが神を最も身近に知る方法は、自分自身の生涯に現れられる啓示としての神を知ることであり、それを通して私は、神の前で自分はどういう存在であるのかを知るのである。そして、これがこの世界を生きる私たちが個体として神に迫ることのできるぎりぎりの線なのである。
 しかし、もしあなたがこの線を越えて進もうとするなら、自分の個体的な概念を完全に捨て去らなければならない。それは、神の前に完全な信仰者として立つことであり、イエス・キリストをその身に着ることである。そのとき、この世界にはもはやあなた以外のものは存在しないと同じである。完全な信仰者とは、来るべきアダムであるイエス・キリストであり、このお方はただ一人だからである。
 そのとき、神はあなたを通してこの世界をご覧になり、あなたを通してこの世界を愛される。あなたが見ているこの世界は、神が見ているその世界であり、あなたが愛するこの世界は、神が愛されるその世界なのである。そのとき、あなたを見ているのはあなたであり、同時に神であることになる。そしてそのことは再び、神があなたを通してご自身を見ていることになるのである。そのようにしてついにあなたは、神の愛される一人子としてのあなたとなるのだ。

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2007/02/14

説教21:「観想的生と活動的生について(ルカ10:38)」より

 聖書の中に出てくる有名な2人の女性マリアとマルタ。彼女等は、私たちの信仰生活の姿勢の2つのタイプを表現している。マリアは好奇心が強く、信仰的な事柄に熱中すると他の日常的なすべてを忘れてしまうほどそれに没頭してしまうタイプである。いっぽうマルタは、常に自分の成すべき役割を自覚し、その遂行に自分を捧げるタイプである。かつて主イエスがこの2人の女性の住む家を訪れられたとき、彼女らはそれぞれに自分の性分の通りに主イエスに応対し、主イエスもそれぞれに応じて彼女らを賞賛された。信仰者としてこの世界を生きるとき、私たちにはこのマリアとマルタの両方の姿勢が共に必要となる。すなわち、この世の様々な思い煩いから完全に離れて聖書のみことばに聞き入る姿勢と、日常的な自分の責任を神から与えられる知恵により的確に遂行する態度である。
 それにしても、私たちは、なぜこの世界に生きているのだろうか。それは、この世界を生きることにより神にめぐり合い、神を知り、信仰を試されることにより、より深く神を知り、神から造られた神の似姿としての自己、すなわち長子としてのキリストの姿に自らを変えられていくことである。
 その場合、まず私たちは、マリアがキリストの前に座り、み言葉に聞き入っていたようにこの世界の思いわずらいから開放されて、直接に神の御前に立つことが必要であり、次にそこで聞いた御言葉を実生活においてマルタのように実践し、その真の意味を体得することが必要となるのである。この二つのことは、一見矛盾するものであり、両立しないもののように思われる。しかし、実際はそうではなく、この二つの姿勢の融合こそ、キリストの受肉を通して、神が私たちに与えようとされている唯一の祝福なのである。
 「あなた方は、イエス・キリストを着なさい。」と聖パウロは言う。このキリストを着るとは、この世界を生きるために天からの油注ぎを受けることであり、信仰者がキリストの下にひざまずき、彼の主権を心に啓示され、最深の意味でキリストの僕となるときに与えられる、キリストとの新しい関係である。

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2007/02/12

説教20:「像を介さぬ認識について(エフェソ4:23)」より

 私たちは、常に信仰の刷新を必要としていると思う。もしあなたの信仰生活になにか喜びがなく、どこかマンネリ化したもののように思われるのなら、また過去に何度も同じ過ちを繰り返し、一度決心してもまた度々同じ結果に陥ってしまうようなことがあるとしたら、そんなあなたに欠けているのは、きっと信仰の刷新に違いない。
 信仰の刷新とはなにか。それは、主イエスを新しく知ることに他ならない。主イエスは、どのようなお方なのか。彼は、人と成られた神である。神が人と成られたことにより、私たちが受けた恵みは計り知れない。しかし、戸惑いもまた大きかったのである。それは、生まれながらの人には、決して理解できないことであり、その事実を受け取るには、聖霊の啓示が必要とされたのだ。そこで私たちがキリストを知っていると言うとき、どのようなお方として知っているかが問題となる。
 まず私たちはキリストを、人生を楽しく生きるためのアドバイザーのように知るべきではないだろう。私たちの人生はもはや自分のものではなく、キリストのものだからである。また、この世の友のように知るべきでもない。あなたはキリストの僕であり、キリストは、あなたと対等の存在ではないから。さらに、一人の偉人として知るべきでもない。どのような偉人もキリストの権威とは比べものにならないからである。
 私たちは、かつてはキリストをそのように知っていたとしても、今後はもうそのような知り方はすまい。それでは私たちはキリストをどのようなお方として知るべきだろうか。私たちはキリストを、自分の内におられる「有って有るお方」として知る必要がある。このお方により、このお方のために全宇宙は創造された。このお方には始まりがなく終わりもなく、永遠に変わらないお方である。
 そのようなお方が人の内に住まうことができるために、神は人の内に聖なる幕屋を設けられた。そしてそこで永遠の礼拝が執り行われる。その礼拝がいよいよ始まるそのとき、あなたがどのようにして救われたかは、もはや問題とはならない。あなたがキリストに従ってどのように生きるかも問題ではない。あなたがキリストをどのように知っているかも、もはや問題ではない。問題なのは、ただキリストがこの宇宙でどのようなお方なのかということである。あなたは、このお方、あなたの主にして全宇宙の王であるお方をあなたのため息を持って礼拝し、その前にひざまずき、無に等しきものとなる。この礼拝においてあなたの成すべきことはただそれ以外にない。永遠に。

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2007/02/03

説教19:「三つの闇について(マタイ5:1)」より

 人の好みは、年齢により移り変わるものである。子供のころ嫌いだった、山葵や唐辛子等も大人になるとうれしいスパイスとなる。それは信仰においても言えるだろう。たとえば晩年を冷たい牢獄で過ごすことも、信仰の生涯を全力で走り通した勝利者としてのパウロにとっては、神の冷たい仕打ちとしてではなく、はるかな天国への憧れと究極の平安をしみじみ味わうのに、もっともふさわしい栄光の場所であったのかもしれない。
 初めてキリストを信じたとき、人は神の愛を感じる。それは、自分の罪の罰を身代わりに受けてくださった方の愛に表れている。しかしやがて彼は、この快い愛の影には、御子の死の苦しみがあったことを理解するだろう。そのお方は、また隣人を自分のように愛することを彼に命じられた。そして、その愛の命令を遂行するためには、ときには自分を犠牲にしなければならないことをまた理解し始める。
 信仰の光は、最初まばゆいばかりに輝いて人の心を照らす。しかし信仰生活の中で、やがて移り変わり、それはいぶし銀のような淡い光を放つようになる。光が弱まったのでも、価値が低下したのでもない。それは、新しい光、内面的な光であり、この世界の感覚ではとらえることのできない光である。
 天国は、どのようなところだろう。ある人は、それは黄金のように輝く街のようなところであり、きれいな川が流れ、みずみずしい植物がいつもおいしそうな実を結んでいるようなところだと言う。聖書には、「都の大通りは、すき通ったガラスのような純金であった。」(黙示22:21)と書かれている。ガラスは透明であり、見る角度によっては金のようには光を反射しない。また、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」
 天国が、闇だとしたら。それは、神を冒涜する言葉だろうか。ある韓国人といっしょに座って祈っていた。その人は、部屋の電気を暗くしてくれと言った。彼にとっては、神との交わりに、光が邪魔になるのだろう。本当に神のみを求める人、都よりも、純金よりも、きれいな景色よりも、おいしい食べ物よりも、ただただ、神とその一人子との交わりだけを求める人にとって、天国はそのようなところかもしれない。
 ここに3つの闇がある。1つ目は、キリストを愛するゆえに、この世界のすべての楽しみを捨てることである。第2は、キリストに従うゆえに、自分のすべての夢や考えを捨てることである。第3の闇は、キリストを得るために、自分の行ったことすべてを忘れ去ることである。

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2007/02/01

説教18:「無である神について(使徒9:8)」より

 クリスチャンを迫害しようとダマスコへ向かう途上でサウロは、天からのまぶしい光を浴びて地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼は起きあがり、目を開けたが何も見えなかった。
 パウロの目は、強い光により、盲目にされてしまった。神がそのようにされたのは、パウロが死んでしまわないためであったのだろう。神を見てなお生きていられるものはいないから。それゆえパウロは何も見なかった。しかし、彼の人生がそのときから永遠に変わってしまったことから、彼が何か決定的なことを体験したということもまた事実だろう。彼はいったい何を体験したのだろうか。
 パウロは、神を見ずして神を見たのであった。つまり無の中に神を見たのだ。この地上で人が神を見るのは、この形態をおいて他にない。彼は、自分の人生のすべて、知力、知性、感情、意志のすべてを尽くして神を愛してきた。しかしいま、超自然的な力が彼を打ち倒し、彼のそれまでの人生が全面的に否定されてしまった。彼にはもう何も残っていなかった。まったく何も。しかし、そのとき聞こえた声の主は彼の名前を「サウロ、サウロ」と2度呼んだ。それは、彼が今までに体験したことのないような愛のこもった響きであった。それは彼に、すべてを超えた大きな存在が、彼のそれまでの人生を全面的に否定しながら、同時に彼サウロの存在を全面的に肯定していることを教えた。彼は祈りの中で、それまでの彼自身を捨て、この大きな存在に完全に従うならば、彼の人生はまったく新しく、暗いところがなくなることを悟った。
 しかし、今のサウロにとって、完全に従うとは、まずもって、自分を完全に捨てることでしかない。それが彼に可能な唯一のことであった。彼がそれまで学び獲得してきたことをもって神に仕えることはできないばかりか、そもそも彼の神概念自体が根底から変革されざるを得なかったのである。それゆえ主イエスはサウロに言われた、「立って、まっすぐという通りに出て行きなさい。そこであなたの成すべきことが告げられるだろう。」
 かくてサウロは、神を見ずして神を見たのであり、彼がそのようにして神を見たとき、彼にとって、すべてのものは無に等しい、糞土のようなものになったのである。

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2007/01/30

説教17:「三つの内なる貧しさについて(マタイ5:3)」より

 「心の貧しい人々は幸いである。天国は彼らのものだから。」主イエスはこの言葉で、弟子たちを励まし、その信仰の刷新を意図しておられるのである。
 信仰の刷新、それは神に徹底的に信頼し、従い、ただ神のみを求め、神の栄光だけを追求する信仰への到達を意志することである。この主イエスの誘いに応答して、私たちはまず自分の信仰を吟味してみる必要がある。
 そもそも人が神に従うという場合にも、従う主体は彼その人なのであり、そこに彼の意志や判断が介入せざるを得ない。そこで、彼が自分の意志で神に従おうと欲する限り、彼は不自由に成らざるを得ない。もし、彼が真に自由に、喜んで神の意志を満たすことを意志しようとするならば、神に従おうとする彼の意志はむしろ障害とさえなるだろう。むしろ方向性としては、神の意志が彼の意志となることが必要であり、彼の自由意志は神の御心の前に最終的には消滅すべきものなのである。
 しかしこの方向性は、彼の存在自体が消滅するような方向ではあり得ない。むしろそれは驚くべきことに、神が彼の存在の前に消滅する方向性なのである。どのようにして彼の前から神が消滅するのだろうか。彼が神に完全に自分を明け渡し、もはや彼の中に神の意志ではないところがなくなったとき、そのとき彼には神が見えなくなるだろう。すなわち彼の前から神が消滅するのである。だから、彼の目指すべき方向は、神の意志を見たそうと意志する方向ではなく、神から解放されるような方向なのである。
 同様に彼が神を真に知るということは、彼が神を知覚する方向ではなく、その反対に神を知覚しなくなる方向なのである。
 最後に、彼が神を持つということも、反対に神を捨てるという方向性となるのである。なぜなら、神が本当に彼のものになったなら、すなわち彼が本当に神のものになったなら、彼はもはや神を捜し求めたりはしないだろうし、そのとき彼は神を得ようとする衝動から徹底的に解放されてあるはずだからである。

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説教16:「魂の内にある火花について(ある師の言葉について)」より

 この宇宙を動かしている力について。一つの大きな力は、万有引力である。これは、地上において私たちが見いだす、もっとも小さな力である。たとえば、この力が人と人との間に働くのを感じ取ることのできる人がいるだろうか。しかしこの小さな力が、距離を超えて働くと、最後には星を動かす最も大きな力となる。しかしこの力を生み出すのは、巨大なモーターなどではなく、質量という不動性なのであり、そのようにこの世界は、不動なものによって動かされているのである。
 自ら不動なものがいかにして動きを生み出すのか。それは、それら不動なものの間の違いによるのであり、全宇宙のすべてがかく動くべく、神はすべてをそのように創造されたのである。
 しかしまた、この全体系における、もっとも大きな流れを生み出す力は、同等性なのであり、神はそのように人をご自身に似せて創造されたのである。そこで人は万物の内で、神からもっとも大きな力と恵みを受け取る存在なのであり、この享受は、私たちと神の差異が消失するまで、すなわち永遠に続くのである。
 神は、自ら人と成られようと決意されるほど、私たちをご自身に限りなく似せて創造された。それゆえ、私たちは、一見神のご性質を余すところなく備えている。たとえば新しいものを創造するという能力でさえ、心の中にではあるが備えている。それら能力の中で、最も注目すべきは、「生む」という能力である。
 マリヤが神を生んだのは(正確には、生むという役割を遂行できたのは)、この力によるのであり、私たちがキリストを心に宿すのもこの力による。そのとき、神は実に力ない嬰児のように私たちに抱かれ、日常生活において私たちの保護のもとに置かれる。神がそれを良しとされるのは、そのことにより私たちが、初めて真に神を知るということを得るからであり、それにより、真に神の友となり、この全宇宙を神から相続するためなのである。

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2007/01/29

説教15:「神が魂の内に子を生むということについて(ルカ7:14)」より

 「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と主イエスは言われる。この「若者」とは知性であり、神は人の知性に向かって語り掛けられる。なぜなら、神が語られるときにそれを認識できるのは、感覚でも感性でも意志でもなく、知性だからである。主イエスは、なぜ若者に語り掛けられたのか。彼が死んでいたからであり、主イエスが語りかけられたとき、彼は生きて起き上がったのであった。
 ああ、もし、私たちクリスチャンの信仰生活が、森の中を手探りで進むようなものであったとしたら。救われてから何十年も欠かさず日曜日には教会に通い、牧師のメッセージを聞き、信徒の交わりや勉強会等によって育まれ、様々な信仰書を読み、自分なりの考えを持ち、家族に信仰を継承し、なに不自由のない生活をしていたとしても、「神との関係」というこの一点に関しては、本当は死んでいるも同然であるとしたら。また、キリストの十字架上の死が、自分のためであったことを告白し、永遠の命を与えられ、天国が保障されていたとしても、この毎日の瞬間々々を神と共に生き、神の御心を最優先させるということがまだなされていないということが、もしあるとしたら。そしてそのようなことは、生身の人間には、不可能であり、それはこの地上の人生ではなく、天国において実現するようなことであると暗黙の内に信じ、決して日のあたらない心の奥底に片付けてしまっているというようなことがあるとしたらどうだろう。
 そのときには、何かが、何事かがなされなければならない。すなわち、キリストがあなたの寝ているその棺おけに歩み寄り、あなたの知性に向かって、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と語り掛けられる必要がある。どうしたらそのことが可能となるのであろうか。どうしたらではない。語り掛けられるのは、キリストであり、だれに語りかけられるかは、神の主権に関わることなのである。しかし、これを読んでいるあなたが、もし心に迫られることがあるなら、そのときキリストがあなたに歩み寄り、語りかけられているのかもしれない。ちょうど祭司でありながら放縦を繰り返していたころのアウグスティヌスに向かって、神が歩み寄り、聖書を示して「取りて読め!」と言われたように。そのことが起こるのは、永遠の昔から計画されていたことなのだ。
 キリストは、そのようにあなたに声を掛けられたあと、次に何をされるのだろうか。それが実は、それでおしまいなのである。キリストが成されることは、実にあなたに向かって、「起きよ」と言うことだけなのだ。あなたの魂は、その言葉を永遠に待っていたのである。あなたに必要だった、たった一つのことは、このキリストの「起きよ」の言葉だったのだから。そして、そのときからあなたの人生は、永遠に変わってしまう。あなたが変わるのではない、キリストが変わるのでもない、あなたとキリストの関係が変わるのだ。そして、永遠に、永遠に、あなたはキリストと共にいるだろう。

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2007/01/27

説教14:「神の言について(テモテ第二4:2,5)」より

 「御言葉を宣べ伝えなさい。どんな仕事にも励みなさい。」と勧められている。「宣教」と「仕事に励むこと」の両方を共にしっかりやりなさいといわれている。
 それは、神がなさっていることでもある。神は、信じる者を助け導き、宣教の業を進められるが、いっぽうこの瞬間において、全宇宙をその全能の力で動かしておられる。たとえ巨大な星であっても、それは微細な素粒子の動きの綜合であり、それらの質量の総和に応じて生じる引力が有効に作用している。そしてこの目に見える体系の上には、巨大なエネルギーの流れがあり、また下には不可思議な生成と消失、そして質的な転換がある。これらを生成、消滅させ、また動かしているのが遍在の神の御心なのだ。神は、全宇宙を今という時の中で再創造されるのである。
 さて私たちは、このたゆみない神の業にどのように参与できるだろうか。「御言葉を宣べ伝えなさい。どんな仕事にも励みなさい。」。「宣教」と「日々の仕事」、これらの中に神の業がある。あなたがこれらを共にしっかり行うとき、神はあなたの業を祝福し、超自然的な奇跡の力により、あなたの仕事を尊い神の業に変えることがおできになるのだ。あなたが何十年かかってもできなかったような、魂の救いという奇跡を神は6日で行うことがおできになる。
 イスラエルは、エジプトで400年過ごし、荒野で40年過ごした。しかしその結果何を得たのか。彼らは確かに約束の地を受けた。しかし、その者たちは、実はそれらの苦しみを知らない者たちだった。人の成す労働は、すべてそのようなものだ。しかし神は、6日間でこの全宇宙と人間をお造りになったのだ。「御言葉を宣べ伝えなさい。どんな仕事にも励みなさい。」それは、あなたが永遠の決断を持って、神がこの全宇宙を創造する「今」という時に回帰することである。

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