2007/01/05

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 B、c キリスト教を積極的に廃棄し、それを虚偽なりと説く罪

 罪は、絶望の度合いが強まったものであり、躓きはそれのさらに強まったものというのがキルケゴールの主張である。そして、絶望の場合において、その度合いが強まるにつれて、ある段階に達すると、不連続的な質的変化が訪れ、弱さから強情へと転換したように、躓きにおいてもまた同じような転換が見られる。すなわち、「自分の罪に絶望する」という段階から「罪の赦しについて絶望する」という段階を経て「キリストを否定する」という段階へ転換するのである。これは、聖霊を汚す罪だとキルケゴールは言う。そしてこの段階においては、情状酌量の余地も悔い改めの機会ももはや有り得ないという。
 キリストは、人の救いのためにその身に苦難を負われた。しかし、キリストの救いがどのように完全なものであっても、彼に人が躓くという危険性を取り除けてしまうことはできないとキルケゴールはいう。神は人に自由意志を与えられ、彼をご自身にある意味で対等に関わるべき存在として創造されたのだ。しかし、その尊い救いに一つの条件が課せられている。それは、キリストの十字架が人類一般のためなどではなく、神の前に立つ一人の人間としてのあなたの救いのためであったことを信じるという条件である。そしてそれを信じるということは、あなたが神の前に自分を捨てて、自分の十字架をその身に負ってキリストに従い行く決意をするということなのである。
 天の神さま。私の十字架を負って、あなたに従い行かせてください。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 B、b 罪の宥しについて絶望する罪(躓き)

 この章は、他と比べて異様に長く19頁半もある。そこで、この書においてキルケゴールがもっとも言いたかったことがこの章に凝縮されていると見られる。それは、一言でいうと「キリスト教は本来どうあるべきか」ということである。
 曰く、「躓きというものは個体に関係する。それとともにキリスト教が始まる、すなわち各人を個体に、個体的な罪人になすことによってキリスト教が始まるのである。さてそれは天と地とが躓きの可能性について掻き集めうるような一切のものを一点に集中する、それがキリスト教である。」
 キルケゴールによれば、躓きというものは、キリスト教にとって無くてはならないものであり、これを取り除けようという試みは、神への冒涜であり、キリスト教の間違った推薦である。というのは、彼によれば「躓きは、個体的人間の主体性の最決定的な最高の規定である」からである。それゆえに神は人を愛し、その罪を取り除くために、罪を徹底的に糾弾されるのであり、その購いの御業における人との無限の質的相違において、人との関係、つまり購う者と購われる者との関係を全うされるのである。そして、「神=人の教説」すなわち三位一体は、このような神と人との関係において理解されるべきなのである。
 しかるに現在のキリスト教は、罪の教説を歪めてしまい、人の罪を正確に把握することができず、その結果、自らの罪の赦しを確信することができない状態、すなわち「自己の罪の宥しについて絶望する罪」に陥っている。
 だから、人の聖書に対する種々のアプローチがどのように効を奏し、それにより、キリスト教と人間がどのように合理的に説明されようとも、それは実は机上の空論に過ぎないのである。なぜなら、人は上記のような神との個人的な関係、すなわち罪を購われるべき存在であることからは、決して逃れられないからであり、人にそれが理解できないのは、彼が罪の反対を、聖書が言うように信仰に見ることをせず、徳に見ていることによるのである。
 父なる神さま。まことに信仰によらないことはすべて罪です。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 B、a 自己の罪にかんして絶望する罪

 「自己の罪に関して絶望する」とは、罪からの解放に関して絶望すること、すなわち悔い改めへのあきらめである。そしてそれは再び、「あきらめ」というような受動的なものではなく、恐ろしいことに彼の積極的な決断なのだとキルケゴールは主張する。
 それは、彼の中の罪がそれ自身として一貫性を持とうとしていることの現れである。彼が罪の中に留まりつつ彼自身であるという自己意識を持ち続けるためには、すなわち、彼が罪の中で自己実現していく為には、そこに一貫性、しかも罪の一貫性が必要となるのである。そしてそれは、彼が自分が罪の中に留まっているのだという 明瞭な自己意識を持ちながら罪の中に留まってるという状態であり、彼の罪がそれ自身において一貫性を持ち始めたこと、つまり彼が罪に本格的に沈潜し始め、罪との人格的な関係を獲得し始め、それにより彼自身が罪そのものとさえなり始めたことを意味しているのである。
 人が自己の罪を悔い改めて、自分を捨ててキリストに従って行くことを意志しない限り、彼を待っているのは、遅かれ早かれ、このような奈落への入り口なのである。
 父なる神さま。真の悔い改めの心をお与えください。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 B、罪の継続

 「すべての人は罪人であり、これは人間の力では決して克服することのできないものである。そして、そのような呪縛から私たちを救い出すために主イエス・キリストが来て下さったのだ。」ということが福音の定説となっている。それはある意味で正しいことだ。しかし、ある意味では正しくないとキルケゴールは言う。どのような意味で正しくないかと言うと、罪が呪縛であるという意味についてである。
 もし罪が文字通りの意味で呪縛であるなら、私たちは被害者であり、加害者では無くなり、罰を受ける言われもなくなってしまう。しかし、キリスト教は、人間が自らの意志で罪を犯し、しかもその中に自らの意志で留まり続けようとしていると人間を糾弾する。そして、そのような人間に地獄の刑罰を用意しているのである。
 人間の罪とは、人間がそのように、意志において完全に悪い者になり果てており、自分の意志で罪を犯し続ける存在であることなのである。しかし、この状態は、非常に恐ろしい状況であると共に、そこに一つの救いがある。それは、罪が継続的なものであるのは、人間の意志によることならば、人間自身がまたそれを克服することができるはずだということである。すなわち彼が、そのような自分の意志を捨て、正しいお方に生涯従っていく決心をするならば、彼は自分の意志で正しく生きて行くことが可能となるのである。それは、彼が自分の生来の意志を捨てることを意志するという複雑な行為であるが、キルケゴールが言っているように、人間が自分自身を見て、それと関わる存在であることによりこれが可能なのであり、それが悔い改めと呼ばれるのである。
 しかし人がそのように自分の罪を悔い改めて、悪い意志を捨て去ろうと意志しないならば、非常に恐ろしいことになる。それは、それが可能であるのは、上記のことから彼が継続的にそのことを意志し続けることによるからである。そして最初の内は、彼は、自分が悔い改める機会を待っているという受動的な感覚を持っているであろうが、やがて真実の状況が明らかになってくる。それは、彼がその生涯の間、自分の意志で、継続的に罪を犯し続けていたということである。
 父なる神さま。あなたの諭しに、真実な心で従うことができますように。

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2006/12/14

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、附論 けれどもそれでは罪は或る意味では非常に稀なことにならないであろうか?

 キルケゴールは、この書の中で独自の「罪の定義」を提起し、その信憑性を実証しようとしている。彼の提起する「罪の定義」は次のようなものである。すなわち罪とは「人が神の啓示によって罪の何たるかを知った後に、神の前において絶望して彼自身であろうと欲しないことないしは、絶望して彼自身であろうと欲すること」である。
 この定義によれば、人が罪を犯すことができる為には、まず彼に神から罪とは何かが示されなければならない。そして再びそのためには、彼が神を知ること、ないしは神と出会うことが必要なのである。しかし、そのようなことは容易には起こらないので、この定義によれば罪は非常に稀なものということになるのであり、これはキルケゴールによる罪の定義から導き出されてきた一見奇妙な結論と見えるのである。
 しかし人が自分の絶望に気付いていないからと言って彼が絶望していないということではない。そして罪が絶望の度が強まったものというキルケゴールの定義によれば、その気付かれていない絶望が無限の時を経て罪にまで強まることは必然的なことであり、そのことから、実は殆どの人が罪人であることが帰結するのである。
 しかしキルケゴールが嘆いているのは、実はそのことではない。そのように、罪が稀である現実、つまり多くの人が自分の罪を意識するに至らず、ただ日々の快楽にのみ興じていて、自分の人生を創造者との関係で問うことをしない現実のことなのである。
 父なる神さま。聖書に啓示された、人の罪を正しく認識できますように。

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2006/12/09

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第三章 罪は消極性ではなしに積極性であるということ

 罪は消極性ではなく積極性であるということのために正当派はいつも戦ってきたとキルケゴールは言う。しかしあまりにもこの真理に固執しようとしたために、福音主義からはなにか分からず屋のように見なされてきたのではなかったのだろうか。
 いっぽう福音主義は確かに聖書の言葉を重んじたかもしれないが、その反面、どう解釈するかという点では、各個教会を野放しにしてきた面があるのではないだろうか。その結果、ひとつの聖書の言葉から、パリサイ派のように多くの解釈が発生してくることになってしまい、その結果多くの教派というか、宣教ポリシーが生まれてきた。そして教派間の競争等があったかどうかは知らないが、現在に至っては、かなりの面で人に媚びへつらうような風潮ができてしまっているように感じられる。言葉を変えて言えば、聞く側のことを考えすぎているように思えるのだ。
 そして結局のところ、キルケゴールが言っているように、人がそんなにも自分の罪に束縛されているのは、福音の内容に関する知識が足りないためであるように勘違いし、教会が聖書講座とカウンセリングを提供するところになってしまったかのようだ。
 そのような教会を主イエスは、きっと口から吐き出されるだろう。現代の多くのキリスト教会の礼拝や活動が、まるでお通夜のようである原因をよく考えてみる必要があるのではないか。
 しかし、福音はすなわち聖書の宣教であるところにきっと救いがあるのだろう。そのように底なし沼に竿を刺すというか、のれんに腕押しのような産みの苦しみを重ねているうちに、時代が変化し、やがて主イエスが預言された終わりの時代、苦難の時代がやってくる。そのとき、キリスト教会の語っている福音の質が根本的に変化する。ただしそれは、外側の世界との相対的な関係においてである。そしてわれわれの語っている福音の中の真理が宝石のごとくに輝き出る。福音の意味は、時代とともに変化するのである。このような魂の収穫のとき、後の雨のときに向かって、我々は産みの苦しみをし、神に求め祈っていかなければならないだろう。キルケゴールが本書を通じて大いなる問題提起をしてくれているのだから。
 父なる神さま。人を救うのはただあなたの主権です。

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2006/12/07

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第二章 罪のソクラテス的定義

 「罪のソクラテス的定義」とは、罪は無知の結果であり、罪を犯す者は、正しいことについての知識が不足しているということである。これを逆の言い方にすると、人が何が正しいかを理解したなら、彼は必ず正しいことをするはずだということである。これがキルケゴールが言う「罪のソクラテス的定義」である。
 しかしある人は言うであろう。すなわち、「実際はそのように簡単ではない。正しいことを知っていながら、あえて悪いことをする人間がいるのだから」と。しかしソクラテスは言う。もしそのようなことがあるなら、その人は、正しいことを理解したと思っていただけで、実際にはそれを理解していなかったのだと。この場合その人の。「自分は理解したのだという認識」と「彼は確かに理解しているという事実」との間にギャップが存在するということである。それでは、その人が本当に正しいことは何かを理解した暁には、彼は実際に正しいことを行うであろうか。「然り」と答えるのがソクラテスであり、その場合には罪という概念は存在しないことになる。というのは、彼が良いことを行わないのは彼の意志が悪いからではないからである。
 しかしもし彼が正しいことは何かを理解した上でも依然として良くないことを行うということがあるなら、それを行っているのはたとえば良識等ではなく、まさに彼の意志なのであり、そこに罪というものが想定されてくるとキルケゴールは言っているのだ。それは、人が良いことを認識してから彼がある行動をとるに至るまでの過程を追うことであり、「人」というような一般的な対象を取り扱うことではなく、或る名前を持つ特定の個人を想定したものとなる。ここに初めてキリスト教が始まるのである。キリスト者とは、罪がどのようなものかということを天から啓示され、それとの決別を決意した者なのであり、このような高い認識には、人の努力では到達できないのである。
 父なる神さま。私の意志があなたに従順になりますように。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第一章、附論 罪の定義が躓きの可能性を含んでいるということ。躓きに関する一般的考察

 福音宣教にとって、人々の躓きとなるものをいかに除去するかということは、一つの課題で有りうる。しかし、そのこと自体が目的化されることは、大いなる弊害を生むことになる。というのは、キリスト教における罪の定義自体が躓きの可能性を内包しているのだから、というのがキルケゴールが言っていることである。
 彼によると躓きを避けるために福音を弁護するようなことは、常に福音の誤った推奨なのであり、それは福音の価値を知らないもの、すなわちそれを一度も信じたことのない者の仕業にほかならない。そのように、福音を宣べ伝える者の中にも、神のためを思わず、自己の虚栄心による者がいるのである。
 それでは何故に、キリスト教の中に躓きが内包されているのか。それは言わば、愛の神がそれによって身を守るところの防塁である。ずる賢い子供の願いを何でも聞き入れ、無限に罪を赦すことにより、子供からなめられてしまった神は、躓きという防塁によって、ご自身の義と尊厳を護り通されるのである。
 しかし、神がそのようなことをなさる必要がどこにあるのか。まったくない。神は全能であり、全宇宙の創造者であるから、私たちから身を護ったり、ご自身を弁護したりなさる必要はない。それでは何故神はそのようになさるのか。それは、すべて私たちのためなのである。すなわち神が義となられるためにキリスト教の中に「躓きの可能性」が必要なのである。
 父なる神さま。あなたの義は、揺らぐことがありません。

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2006/11/25

「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、第一章 自己意識の諸段階(「神の前に」という規定のもとにおける)。

 絶望の度は自己意識の度に従って強まる。自己がこの特定の個体的な自己として、自分が神の前に立っていることを意識している場合、そのとき初めてそれは無限なる自己である。そしてかかる自己が神の前に罪を犯すのである。
 人の生きる目的は、人が彼自身となることにあるとキルケゴールは言う。そう、神と父子の関係にある彼自身、つまり神から造られた姿としての彼自身となることである。そして、そのように成長するということは、彼の自己認識が高まり、自分がどのような者であるかを深く理解することを意味する。そこでそこには、彼が罪を犯したときの情状酌量の余地が段々となくなってくることになるのである。
 キルケゴールはさらに、あらゆる罪は実は神の前に起こっているのだと主張する。そして自己が神との関係を知る度合いに応じて、情状酌量の余地が減少するということから、自己認識により強められた自己が自己の創造主である神の前に立っている存在、すなわちキリストによる購いをうけるべき存在であることを知るとき、それに背くところの罪の度は最大限に強まることになるのである。
 そこからしてキルケゴールは、「厳密な意味では、違法人は罪を犯していない」と言う。それは、「罪を犯すまでに至っていない」という意味である。さらに彼は、このように定義されるところの罪の反対は「徳」ではなく「信仰」であると言い、このことはキリスト教全体のもっとも決定的な規定に属することなのだと言う。
 「信仰によらないことはすべて罪である」とパウロは言ったが、その意味は、人は全人格的に神に従うべきものであり、無限に深い意味において、自己のもっとも深く秘められたる願望と思想においてさえも神に従順であるべく義務づけられているということなのである。
 父なる神さま。私がすべてを捧げ、お任せしてあなたに従うことができますように。

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「死に至る病」:第二編 絶望は罪である。 A、絶望は罪である

 第一編においてキルケゴールは、絶望という病がどのようなものであるかについて、精神という規定のもとに見た自己認識の高まりとの関係から詳細に考察している。その要旨は、絶望を通じて自己意識を高められた精神が、この「死に至る病」から解放され、本来の自分に立ち返るために必要なのは、自分を捨てて創造主の前にへりくだることなのであるが、絶望者がそれを欲しない場合には、自己が独力で果てしない実験的な努力の悪循環を重ねる内に、もはやいかなる救済の手段も及ばないという極限の段階へと達してしまうということであった。
 そのような段階においては、絶望が外的な要因によって引き起こされるのではなく自分の内部から、つまり絶望している原因は自分自身であり、自分が意図的にそのような状態にあることを意志していることが示されてくることによりさらに回復は困難な状況になってくる。
 そしてこの第二編においては、さらに絶望の度が強められた段階が想定されている。それは「神の前に」という条件が付加されることによる。絶望の度合いは、自分を措定した対象をどのよう認識するかに応じて変わってくるというのだ。絶望の初期の状態においては、自分を措定したものは、何か他人かまたは外部的な物理要因のように感じられており、それが取り除かれさえすれば絶望も消え去るかのように思える。しかし、絶望のより高い段階においては、絶望は永遠なる自己の存在性から生起して来るものであり、自己認識の度合いに応じて永遠に強度を増して行くものである。そしてこの第二編において提示される「神の前に」とう条件は、自己に無限の価値を付加するものであるゆえに、絶望の度合いもまた無限に強められたものとなるのである。
 父なる神さま。あなたの前に一個の精神として立つことができますように。

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