2007/05/02

主がそこにおられる

エゼキエル書 第48章

 エゼキエル書の最終章は謎であるが、それは聖なる都について書かれているように思える。ヤコブの12人の子が長い歴史の中で、それぞれ独立した部族となり、聖なる土地を斯業として与えられた。ついに彼らは、神がアブラハムに約束された最終の目的地に到達した。ここが永遠に彼らの住みか、安住の地である。ここには、なんという安堵感が漂っていることだろう。もやは彼らは迷い出すこともなく、敵から攻撃されることもない。忌まわしいことがすべて過ぎ去ったのである。神は、かれらのために都を用意されていた。この都は彼らが建設するものではないと思われる。なぜなら、都の設計図がどこにも示されていないのだから。
 都の城壁には東西南北に3つづつ、計12の門があり、おのおのイスラエルの12部族の名が一つづつ記されている。この都の内に神殿はない。神殿は、レビ族の中のツァドクの子孫である祭司の領地の中にあり、たぶん安息日と新月の日しか入ることを許されない。それでは、毎日の礼拝はどこで行うのだろうか。いや彼らはもはや神殿で礼拝することはないのだろう。きっと彼らの礼拝の場は、実生活の場なのだ。そして神殿は犠牲が捧げられる場所としてのみ存続するのだろう。しかしそれも、やがて完全な犠牲が捧げられるときには廃止されるだろう。いやむしろこの神殿は元々、心の中の犠牲、すなわち人が主イエスに日々従うことを表したものではないだろうか。というのは、ヨハネの黙示録には、「神と小羊が都の明かりである」と書かれているから。そしてこの都の名は、その日から「主がそこにおられる」と呼ばれる。それは、主イエス・キリストにより、罪を購われ、聖霊を授かった人の心ではないだろうか。

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2007/04/23

聖さの体系

エゼキエル書 第46章

 内庭の東向きの門、これは主ご自身が通られた門であり、通常は閉じたままにしておかれるが、安息日と新月の日には、イスラエルの君主たちのために開かれる。君主たちはその日、各々自分が治める民を代表して犠牲をささげ、主を礼拝する。その日君主は、神殿の門の敷居のところまで入ることを許される。この君主は、神によって立てられた権威であり、上記のような特別な日の礼拝における権威である。しかし彼は普段の日においては、民と共に北か南の門から出入りする。
 この新しい社会には、人の定めた権威は存在せず、すべての権威は神のためにあり、すべての区別も神のためにある。その目的は、聖と属を区別することにある。そのために毎朝、無傷の小羊が犠牲として献げられなければならない。この地上で神が聖とされるためには、そのような耐えざる犠牲が必要となる。永遠の世界における神の栄光は、このはかない有限の世界においては、貴重なものの喪失という形態を取らざるを得ないのだろう。だから、犠牲も殉教もこの世においては、不条理な感覚の中にも、何か神々しい後味を醸し出しているのだろう。
 御使いはエゼキエルを門の傍らにある入り口から、北に面した祭司の聖なる部屋に連れて行った。そこには西向きの隅に一つの場所があった。それは、祭司たちが最も聖なる捧げ物を食べるために煮炊きするところであり、祭司の他に誰も見たことのない部屋であった。また外庭の四隅には、それぞれ一つづつ区切られ、石壁で囲まれた小さな庭があった。そこは、神殿に使えるレビ人たちが、民の捧げ物を煮炊きする場所であり、ここも一般の人は入ることができない場所であった。神は、このような場所を含めて、用意しておられたすべてをエゼキエルにお示しになった。神はエゼキエルに何も隠されなかった。それは、この世界において神が聖とされるための巨大なシステムの全体系であった。

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2007/04/17

聖域

エゼキエル書 第45章

 神はエゼキエルに、イスラエルの12部族に斯業としての土地を割り当てる方法を示された。それは、イスラエルの領地の北端から、ダン部族から始めて順に帯状に領地を割り当てるという大胆なものであった。そのように割り当てて来て7部族目のユダの領地に接するようにしてやはり帯状に聖域が始まる。最初の帯状の地帯は祭司が受け継ぐ地帯であり、その中に神殿のある聖所が含まれている。その次の帯状の地帯はレビ族のものであり、これら二つが聖域を構成する。それに接するようにイスラエル全体の共有地として、その中に都を包含するやはり帯状の地帯がある。そしてそれに接するように、残りの5部族のための帯状の地帯が始まる。
 このように土地を割り当てることは、大きな意味を持つに違いない。まずそれは、社会経済活動を強力に抑制する。土地の取引は許されず、マーケティングは意味をなさないものとなる。そのようにして、すべての営みは、神のためとなる。このシステムは、かつて出エジプト時代に荒野で営まれた社会形態である。あのときは、砂漠の中で民族ごとに、それぞれの旗印のもとに宿営した。それは、約束の地への途上としての形態であった。しかし今は違う。それは、最終的な到達地点、すなわち目的地における姿なのだ。この「途上における姿」と「目的地における姿」とが良く似ているところに大きな示唆があるように思われる。つまり、荒野におけるあの流浪の民のような生活、彼らはそこで泣き言を言い、神に向かってつぶやき、エジプトの生活を恋い慕ったのだったが。しかしそのときでも、それは、神の与えられた理想の、最上の、この上もない、まばゆいばかりの栄光の姿だったということである。ああ、神よ、あなたは、イスラエル民族をどれほど愛しておられたことか。そして、今も愛しておられることか。
 私は、確信する。きっと私たちも、この世の生活を終えて神の御元へ行くとき、すなわち私たちの生涯の目的地に着くとき、そこできっと知るだろう。神が私たちを、この地上という天国への途上において、どれほど愛していてくださり、私たちは神の御手に守られ導かれて、どれほどにまばゆいばかりの祝福の内にあったのかということを。

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2007/04/16

聖と俗

エゼキエル書 第44章

 神はエゼキエルに、神殿に関するすべてのこと、そのすべての掟とすべての律法について語り聞かせられた。そして彼に言われた。「神殿に入ってよい者と、聖所から排除すべき者すべてに注意しなさい」と。神は、聖なるものと俗なるものを分離せよと言われたのであり、それが律法であり預言者である。そしてそれは、神の愛と矛盾しないことなのである。神はエゼキエルの前で、ヤロブアムの罪を厳しく指摘された。彼は自分の王権を守るために、エルサレム以外の自分の街に主の祭壇を築き、犠牲を捧げた。そして、人の人気を買おうと、その聖なる務めを異邦人に行わせたのであった。
 今日でも同じような混同が行われる可能性がある。それは、教会に人々を連れてくるため、教会の門を広く開けておくためと言われる。しかし、そのために礼拝の中に静粛が失われ、開始時間は守られず、人のための祈りばかりが捧げられ、耳障りの良い讃美が多く奏されるなら、それは聖なるものと俗なるものがまざりあっていることになるのかもしれない。しかし神は言われる。「イスラエルの子らの中に住んでいるすべての外国人は、わたしの聖所に入ってはならない」と。また、イスラエルが迷ったとき、神から離れて偶像に従ったレビ人に対しては、二度と御前で使えることを許さず、神殿の雑務を行う者とされた。ただ、そのとき神の聖所の務めを守り通したレビ人の祭司であるツァドクの子孫にだけは、御前に近づくことを許された。それ以外の者は、神は決して御前に近づくことを許されなかった。
 それは、イエス・キリストを指し示しているのである。彼こそは、ツァドクの子孫のように、最後まで神に従い通し、ご自身の御体を通して、完全な犠牲を捧げられた。私たちは、ただこの方を通してのみ神に近づくことができる。この方だけがまことの祭司であり、私たちはこの方にあってだけ祭司なのである。

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2007/04/14

神の帰還

エゼキエル書 第43章

 御使いは、エゼキエルに神殿の内部をつぶさに示し終わると、彼を東の門へと導いた。すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方からまさに到来しつつあった。エゼキエルの立っていた地は、その栄光で輝き始めた。その幻は、彼がかつてケバル川のほとりで見たときと、また神が怒ってイスラエルの街を滅ぼされたときの幻と変わっていなかった。あのとき、御使いは神の命令により、ケルビムの巨大な回転する車輪の間に入り、そこにある炭火を手にとって、街を焼き払うために出ていった。その壮大な幻がいままたエゼキエルの前に姿を現したのだった。
 イスラエルの神の栄光は、東の門から入り、再び神殿の中に留まった。エゼキエルが神殿に行ってみると、見よ、神の栄光が神殿を満たしていた。エゼキエルは、神殿の中から彼に向かって語り掛ける声を聞いた。なんと、神はイスラエルを赦し、彼らの直中に永遠に住まわれることを決意されたのだった。それは、永遠の昔からではなく、いままさに創造された幻であった。神は、その実現をエゼキエルに託され、彼に神殿とその周りの街のすべての設計図、それから民が守るべきすべての掟と律法を示された。イスラエルの民がそれらに従い、定められた場所、定められた方法で犠牲を捧げると、神は彼らを受け入れられる。しかし、いったい何が変わったのだろうか。どうしても何かが変わらなければならないのだが。
 神はエゼキエルに言われた。「今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む」と。神はイスラエルの王制を終わらせられた。そして民と敷居一つ、壁一枚の隔たりで住まいされることを決意された。そのようにして、自らダビデのように民の一人一人を治められるのだ。
 神は、これらいっさいのことを今、エゼキエルに示され、その実現への決意を力強く言い表されたのであった。その実現は、いつのことだろうか。私は、これらのすべては、イエス・キリストにおいて実現したのだと思う。

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2007/03/30

聖なる場所

エゼキエル書 第42章

 拝殿の北と南には、それぞれ50m四方の構造物があり、それぞれ二つの建物から構成されている。それらは、一つの部屋と3階建ての階段状の建物である。部屋の方は、祭司がそこで聖なる物を食べたり、祭儀のための着替えをするための聖なる場所である。階段状の建物については、その用途に関する記述がないが、何と魅力的な姿をしていることだろう。
 拝殿に対して北と南にあるこの聖なる場所は、神殿全体ではもっとも聖なる場所ということではない。それは、聖なる所への入り口という程の意味である。この聖なる場所は、拝殿の東側にはない。東の門は、神ご自身が入って来られるところだからであり、神は聖なる場所を必要とされない。むしろ神の臨在される場所、いや神ご自身が聖なる場所以上のお方だからである。しかし、拝殿の北と南には、祭司のために聖なる場所が設けられた。同様にこの世界にも神は、聖なる場所を設けておられる。私たちは、この「聖なる場所」の意味を良く考える必要がある。それは、神聖への入り口というほどの意味であり、そこで私たちは神聖に至る備えをするのである。それでは、この世界における聖なる場所とはどこであろうか。それは、神の神殿としての私たちの体であり、その奥に聖なるお方が住んでおられるのである。だから、私たちは自分の体を聖なるものとして神にささげることにより、そこを聖なる場所として保つ必要がある。
 最後に神は、この神殿全体を幅約3mの外壁で取り囲まれた。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであると記されている。この世界において、聖なるものは俗なるものから意識して区別される必要がある。そうでないと、それら2つのものは、混ざり合ってしまうのであり、混ざり合ったものは、すなわち俗なるものだからある。この世界にあるものは、パウロが言っているように、基本的にはすべて聖なるものだ。それは、神が造られたという意味であり、聖い人にとっては、すべて聖なるものなのである。しかし、それが俗なるものになる可能性がある。それは、人間の意識の中でそのようになるのだ。そこで私たちは、自分の心の中に、聖なるものを俗なるものから区別するための堅固な外壁を築く必要がある。その外壁の高さは、せいぜい3mくらいあれば良い。しかしその厚さは、やはり3m必要である。それは、内部を外敵から防ぐためではなく、むしろあなたが決して外を見ることがないためのものである。もしあなたが、背伸びをしたり、余計な冒険心を抱かなければ、それは聖なるものを俗なるものから分離する堅固な砦となるのである。

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2007/03/28

聖なる神殿

エゼキエル書 第41章

 この神殿の中心には、神を礼拝する拝殿があり、その脇柱の太さは、3m、壁の厚さは2.5mもある。拝殿の入り口の幅は、都の門の幅と同じで5m、そこから中へ入って行くと、もう一段狭くなった入り口がある。この2つ目の入り口により、拝殿は聖所と至聖所に区切られている。しかし以前のような、聖所と至聖所を分けるためのケルビムの刺繍のついた分厚い垂れ幕については、なにも言及されていない。それはもはやそこに存在しないのだろうか。それらの内側は、すべて木の板が敷き詰められ、ケルビムとナツメヤシの模様がくまなく覆っていた。聖所は、廊のような形で、明り取りの窓格子が付いているようだ。これは、かつてのような恐ろしい神の臨在する場所ではなく、人々が歓びをもって神を礼拝するための場所のように見える。また、拝殿を取り巻く三階建ての回廊付きの脇間は、上階に行くほど広くなっている。それは、パウロの引き上げられた第三の天を思い出させるようだ。さらに拝殿の西側には、広い別殿が備えられている。これは何に使われるのだろうか。このように、記されている神殿の姿を心に描きながら、内を巡り歩くのは、なんと心が弾むことだろう。これは、心を癒す場所、憩いの場所ですらあるようだ。
 しかし、このような壮大な神殿の設計図は、何のために啓示されたのだろう。神はエゼキエルに、それをイスラエルの民に示しなさいと言われた。彼らが自分たちの行いを恥じるなら、この神殿を造らせよと命じられた。そして、ご自身がそこに住まわれることを約束された。
 神は、天地創造の昔から変わらない、聖なる哀れみ深いお方だ。神は、一貫した救いを提示して来られた。かつてモーセに幕屋を啓示され、ご自身がその中に住まわれた。そしてソロモンには、神殿の設計図を啓示され、そこに住まわれた。そして、ご自身を愛し敬う者に一貫した恵みと救いを提供されたのだった。
 エゼキエルに啓示されたこの壮大な神殿、それは歴史の中には、実在しなかったように思われるが、それが実在してもしなくても、神の愛と慈しみは、変わることがない。時が満ちて、神の御子が生まれ、ご自身の体なる神殿を持って神を礼拝し、ご自身が聖なる捧げものとなられ、私たちの罪を購い、天から聖なる霊を遣わし、彼を信じる者の心を聖なる神殿とし、ご自身、父と共に、その心の神殿に住まわれることを決意された。そして、これこそが神の愛と慈しみの究極の完成なのだが、それでも、それでも、神の愛が変わったのではない。
 神は、天地創造の昔から、変わらないお方であり、永遠の愛で私たちを愛しておられたのである。

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2007/03/18

幻の都

エゼキエル書 第40章

 バビロン捕囚が始まってから約12年目にエルサレムが陥落し神の神殿が破壊された。そしてその年から数えて14年後、それはエゼキエルが全能の神の力強い幻を見てからちょうど20年目にあたる。
 神はエゼキエルに一つの幻を見せられた。なんと神は、神殿を建設しておられたのである。それはまた、都のようにも見えた。生活の基盤としての故郷、民族のアイデンティティの保障としての自由、そして心のよりどころとしての神殿が失われ、多くの月日が流れ去り、すべての人間的な望みが尽きたところ、そこはまた、神の働きが始まるところである。それにしてもこの神殿は、何とすばらしいたたずまいをしていたことだろう。これはこの世のものとは思えない。もしかするとそれは、神が人の心に住まわれるとき、その人の心のあり方を示したものではないのだろうか。神は、エゼキエルに言われた、「あなたにこの神殿を見せたのは、それをイスラエルの民に示すためである」と。なんと神は、この神殿において再びイスラエル民族の直中に住まわれようと決意されたのだった。
 この神殿には、東と北、南に合計3つの門があり、それぞれの門は、みな同じ作りであった。それは幅が約5mあるゆったりとしたものであった。門は廊下のように長く神殿の内側に向かって続いており、そこへ入って行くと、それをぬけるまでに、両側にそれぞれ3つづつの控えの間があった。この「控えの間」とはなんだろうか。なんのために控えるのだろうか。これが入り口の門にあることから、誰かが来られるのを待つためなのだろう。しかも6部屋を配して。そのようにして待たれるお方は誰だろう。それは、王の王、主の主であるお方と思われる。それらを約3m間隔で配置することにより、この廊門の奥行きは25mもの長さとなる。その両側には明かり取りの窓が開けられていた。この長い門の裏側、控えの間を越えたところは、外庭になっており、そこには、敷石が敷き詰められていた。
 この都を取り囲む壁は、高さも幅も約3mであった。これは城壁ではありえない。そこにはもはや、この都を攻める敵は存在しないのである。

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2007/03/08

主の栄光の現れ

エゼキエル書 第39章

 その日は、主の栄光が全地に現される。それは、全能の神の聖なる御名である。
 その日には、人々が殺しあうための武器は、もはや用がなくなる。人々は、捨てられた武器を集めて,それで7年間も火を燃やし続ける。また、兵士たちは疫病と流血により屍となり、墓に埋められる。その葬りの作業に7ヶ月を要する。そのようにして、最後まで生き残るのは、平和を願う民だけとなる。
 その日は、それまでの人類の歴史に連結している。しかしその日は、それまでのような経済や政治、学問、武力の力学には従わない。神の御名が全地に知らしめられるその日は、人類の歴史に神の国が突入する日である。かつては、世界の霊的な勇者が神の国に突入し、襲い、それを奪い取っていた。しかしその日には、今度は神の国がこの世界に突入して来る。それに耐えられるのは誰だろう。
 そのようにして神がご自身の御名を全地に明らかにされる日、この世界の法則、原理は意味のないものになる。そこでは、神の国の原理が適用される。それは弱肉強食の原理ではなく、平和の原理である。弱肉強食は、正しく治める王のいない無法的な国家に存続する。しかしこの新しい国には、ダビデのように正しく治める力ある王がおられる。そのお方は、隠れてたことを明らかにし、力ある者から弱い者まで、また大きい者から小さい者まで民を公平に裁かれる。このお方こそ神を敬う者の憧れ、私たちの誉れ、すべてのすべてである。

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2007/03/06

最後の審判

エゼキエル書 第38章

 これは、終わりの日に起こることである。バビロン捕囚から神の御手により奇跡的に回復し、いまは安らかに暮らすイスラエル民族に、ある日ゴグの軍団が全地を覆う雲のように集められ、嵐のように襲いかかる。それは、イスラエルの信仰をためすために神がとっておかれた民であり、馬と騎兵からなる大軍団である。それは、かつて出エジプトのとき、紅海を背にしたイスラエル民族に襲いかかったパロの軍団にも似ているが、その規模は、何十倍、何百倍にも匹敵する。あのときは、神が雲の柱からエジプト人等をご覧になり、彼らの車輪をきしらせて、彼らを海に投げ込まれた。そして、今度も神ご自身が彼らと戦って下さるのだ。
 それゆえ、神の民イスラエルにとって、最大の防御は、やすらかにしていることなのであり、また最大の武器は、祈りと賛美なのである。
 しかし、心の定まらない者は、この恐ろしい光景の前に正気を失うだろう。そしてそのとき、彼らを導いてきた彼らの神を捨て、返って虚しいものに依り頼み、信仰を捨てるに至るだろう。神はいつでもそのようにしてすべて人を等しく裁かれる。敵の前でご自身の絵を踏む者に向かって、神が「踏むがよい、そのために私は十字架に架かったのだ。」などと言われることは決してないだろう。

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