「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第八節 遠くして近き神・罪と赦し
この最終章にして最終節には、この著書「イエス」を通してブルトマンが言いたかったことが凝縮されている。彼はこの節の最後の方でこう言っている。「イエスが赦しをもたらすのは、言葉においてであってそれ以外ではない。イエスの言葉は果たして真理であるのか。イエスは果たして神につかわされているのか。これが、聞き手のせまられている決断なのである」と。
ブルトマンはただ、キリストが提供する罪の赦しに与る機会を人が正しく受け取るようにと勧めているのである。人はこの機会を、自分がこれから聖書かなんかを読んでせいぜい良い人間になって行くための一つのきっかけにするようなことをしてはならない。なぜなら、人はそのようにして罪を購われるのではないのだから。また、キリストの十字架を神の全世界への愛の表現として宣べ伝えるようなこともすべきではない。なぜなら、そのような宣教によっては、誰一人罪を赦されることがないであろうから。
キリストがあなたに語ったのはただ次のことである。すなわち、あなたが今は罪人であること。そして、あなたが神との個人的な関係を修復することにすべてを捧げる意志があるなら、神はあなたの罪を赦し、もう一度あなたを本当の神の子として迎えてくださる、ということなのである。
そしてその永遠の救いは、決して主観的なものではなく、あなたがキリストを神から遣わされた者と信じ、その言葉に従って悔い改め、神の意志に生涯服従しようと決心したまさにそのときに、あなたに対するまさに歴史的な事実として生起するのである。
父なる神さま。主イエス・キリストにおける永遠の救いを感謝します。
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