2006/10/18

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第八節 遠くして近き神・罪と赦し

 この最終章にして最終節には、この著書「イエス」を通してブルトマンが言いたかったことが凝縮されている。彼はこの節の最後の方でこう言っている。「イエスが赦しをもたらすのは、言葉においてであってそれ以外ではない。イエスの言葉は果たして真理であるのか。イエスは果たして神につかわされているのか。これが、聞き手のせまられている決断なのである」と。
 ブルトマンはただ、キリストが提供する罪の赦しに与る機会を人が正しく受け取るようにと勧めているのである。人はこの機会を、自分がこれから聖書かなんかを読んでせいぜい良い人間になって行くための一つのきっかけにするようなことをしてはならない。なぜなら、人はそのようにして罪を購われるのではないのだから。また、キリストの十字架を神の全世界への愛の表現として宣べ伝えるようなこともすべきではない。なぜなら、そのような宣教によっては、誰一人罪を赦されることがないであろうから。
 キリストがあなたに語ったのはただ次のことである。すなわち、あなたが今は罪人であること。そして、あなたが神との個人的な関係を修復することにすべてを捧げる意志があるなら、神はあなたの罪を赦し、もう一度あなたを本当の神の子として迎えてくださる、ということなのである。
 そしてその永遠の救いは、決して主観的なものではなく、あなたがキリストを神から遣わされた者と信じ、その言葉に従って悔い改め、神の意志に生涯服従しようと決心したまさにそのときに、あなたに対するまさに歴史的な事実として生起するのである。
 父なる神さま。主イエス・キリストにおける永遠の救いを感謝します。

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「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第七節 父なる神

 ブルトマンは、イエスは「父なる神」という言葉によって神と人についての新しい理念を宣べ伝えたのではなく、それはユダヤ教における概念に等しいと言う。
 そしてそれは、他の多くの宗教に見られるような人間把握すなわち、人間は神的な全コスモスの一部分として、本性からして神と類縁を持ち、その子であるというような思想とは真っ向から対立するものである。つまり、人は生まれながらに神の子であるのではなく、神に対する服従と神の救いの業によって神の子となり得るという。
 しかし彼はまた一方で、このような神の子となる可能性は、もちろんすべての人間に存しているのであって、神の子であるような特色ある性質をもっている特別な人間を考えてはいけないとも言う。
 ここに人間把握、すなわち人間が自らを把握するということの限界のようなものを感じる。というのは、上のことから、例えば犬は神の子と成り得るかと言えば、それは否であり、そのような意味では、人間は「本性からして神と類縁を持っている」ことになるだろう。しかしだからと言って、自動的に神の子とされるわけではない。しかしこの部分も、宣教や修行を行う異教においては、やはりそのように言えるであろう。つまり、結局実は何が問題になっているかというと、それは人間把握なのではなく、やはり神把握なのではないのだろうか。しかしブルトマンは、神把握への直接的なアプローチはすなわち普遍的なアプローチは虚しく、それは遠い神なのであり、そこへのアプローチは、近い神すなわち実存的なアプローチによるしかないという。しかし、もしかしたらそのような状況こそが、むしろ非神話化の遂行による帰結なのではないだろうか。
 聖書の神話的な側面には、もっと他の意図があるのではないだろうか。そしてまた、聖書の神話は単なる神話ではなく、同時に実話だったとしたらどうだろうか。それは次の二つの意味において、すなわちまず聖書の神話こそ人間にとって事実よりも本質的な意味を持つのかもしれないという意味と、もう一つ、聖書の神話が実際に現実世界において生起した現象であったとしたらという意味においてである。
 父なる神さま。あなたの子として聖書を読むことができますように。

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「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第六節 信仰概念

 ブルトマンにとって信仰とは、「神の啓示のもとでの人間の服従」でも「唯一神についての正しい知識」でもなく、また「世界観の一部分」でもない。
 彼は言う。「イエスにとっては信仰とは、生活の特定の瞬間において神の全能の確信を真摯に受け取る力であり、そのような特定の瞬間において神の行為が真に体験されるであろうというたしかさであり、人間がその日常の態度を捨てようと決心し、近きにいます神を目をあたりに見る覚悟を真に持ちさえすれば、遠き神はまことに近き神でいますという確信である」と。
 ブルトマンは、イエスによるこのような信仰概念が、使徒パウロ等のそれと異なっていると言う。しかしそうであろうか。パウロが言うところの信仰の定義、すなわち、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ぬ事実を確認することである」とは、かなり相通じるところがあるのではないだろうか。
 父なる神さま。常に新しい信仰をお与えください。

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2006/10/17

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第五節 祈りの信仰

 ブルトマンは、祈りについて次のように言っている。「祈りとは神と語ることであり、ただ神とのみ関わるものなのである。それは祈願者の要求を通すのではなく、神の恵みを乞い求めるのであり、しかもその恵みを私たちは確信してよいのである」と。
 そして、「神の恵みについて語り、それを信頼することのできるのは、ただこの恵みを自分の固有の現実のなかで受け取る意志があり、この恵みに自分の固有の命をゆだねる意志のあるものだけなのである」と。
 ブルトマンにとって祈りは、ある緊張の内にあるものであり、そこはまた「遠い神と近い神」の接点でもある。この「遠い神」すなわち全能の神の前では、私たちにはただすべてに服従することだけが期待されることになる。しかし、イエスによれば、ユダヤ教の神概念と同様に、この遠い神は、人間に把握され得ないものであり、しかし、その「遠い神」はまた同時にイエスという一人の人において「近い神」として私たち一人一人と出会い、会話し給う神なのである。
 ここにおいてブルトマンは言う。「疑い得ないことは、イエスが求めの祈りをすすめる時には、その求めは本来の意味での求めを考えていることである。ということは祈りにおいては神の不変の意志に対する帰依が行われているのではなく、祈りは神を動かし、祈りがなければなし給わないようなことを神がなされるように動かすというのである。」「世界の出来事はイエスの信仰によれば、法則的な必然性にもとづいているのではなく、神の自由な行為にもとづいている。将来の出来事も同じである。そうであればどうして私は神に祈り求めないでいられようか。」
 父なる神さま。ただあなたに向かって祈ることができますように。

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2006/10/16

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第四節 奇跡信仰

 ブルトマンは言う、「神はただ信仰にとってのみ近き神でいまし、この信仰は奇跡と共にのみ成立する。」と。
 奇跡は、ブルトマンの提示する「遠くて近き神」という神把握の重要な要素である。彼は言う、「日常の出来事は不信仰に対しては神を覆い隠しており、その限り神は遠くして彼岸的である。しかし神の働きを見てとる信仰に対しては神は近い]と。
 つまり、まことの信仰者は、いつ何時にも神の意志に無条件に従う準備ができているのであり、神が自然法則をも信仰者の思いや常識をも越えて働かれること、つまり奇跡を信じることが期待されているということである。
 ブルトマンは、その様式史的なアプローチにより、聖書の奇跡物語をそのまま信じることはしないのだが、イエスが病人を癒し悪霊を追い出すというような奇跡を行ったことは、疑うことのできない事実であると言うのである。
 父なる神さま。私たちの人生があなたの奇跡の御業で彩られたものにしてください。

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2006/10/13

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第三節 摂理信仰と義神論

 「何を食べようかと命のことで思いわずらうな。何を着ようかと体のことで思いわずらうな。命は食物に、体は着物にまさるではないか。」
 イエスが語ったこのような楽観論と、人が人生において遭遇する様々な苦難や困難の間のギャップは、神学者たちを悩ませてきた。しかしイエスは、次のようにも語った。
 「空の鳥には巣があり、きつねには穴がある。しかし人の子には、枕するところもない。」
 義なる神がおられることを前提とすれば、苦難の意味は信仰により完全に説明できなくてはならない。しかしこれまでどの神学もそれを良く説明してこなかった。「神の沈黙」、それがキリスト教にとっても不可解な事柄であり、古代キリスト教会はこの神義論の問題に苦しみ、時には旧約聖書風の報償思想の助けを借り、また時にはギリシャ的・哲学的な思想の助けを借りてこれを克服しようとしたとブルトマンは指摘する。そして彼によるとイエス自身もその回答を与えてはいない。
 しかしイエスにとっては、それは実は問題ではないのだとブルトマンは言う。むしろイエスにとっては、人間自身に関わり、ありのままの人間の確かさを揺り動かすような問い、つまり人間に対してその状況が終わりの時の状況であり、決断の状況であることを明らかにしてくれるような問いだけが意味を持つというのだ。
 ブルトマンによると、人間にとってはすべての状況が決断の状況であり、それは苦難の状況においても同じであり、そこにおいても人間の意志が要求されているのであり、将来を与えたもう神の意志の肯定において、自分の要求を拒否することが求められているのである。
 従来から「神の沈黙」に対して、キリスト教的な観点から様々な考察が行われてきた。その中には、神の沈黙に遭遇した信仰者が、その状況に躓いて、神を否定し、たとえ彼が踏み絵を踏むようなことがあっても、それは神の前に受け入れられることであると主張する人さえいるようだ。そのことの客観的な妥当性に関する議論は、ここでは置くとしても、少なくともブルトマンは決してそのようには言わないだろうし、彼の神学からは、そのような結論は導き出し得ないであろうということだけはここで指摘しておきたい。
 私が見たところでは、ブルトマンの神学に同調した人が、その勢いにのって福音主義全体を否定し、そこから果てしない倒錯へと発展してしまうケースがあるように思えるのだが。もしそういうことが往々にしてあるとすれば、それはなんと憂慮すべきことだろうか。
 父なる神さま。信仰上の偏見からお守り下さい。

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2006/10/11

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第二節 将来の神

 ブルトマンは、イエスの神概念とユダヤ教の共通点を次のように認識する。すなわち、神はイエスにとってユダヤ教の意味での遠き神である。神はどんな意味でも決して世界には属さず、世界の一部ではないと。
 これは、限りなく神秘主義思想に近い考え方である。さらに興味深いのは、彼がこの世界から完全に隔離された見えざる神と人が交わりを持つ道が与えられていると主張することである。それが彼によれば、現実世界の中で、自分の前に置かれた種々の問題、課題に取り組む中で、神の意志に完全に服従しながら真剣に生きること以外にはなく、聖礼典的な洗いが人間を清くするのではなく、ただ清い心、つまり良い意志のみが清くするのだという。
 このようなブルトマンの神把握に出会ったとき、人は二つの反応をするようだ。一つは、今までの自分の信仰における思い上がりや幻想に気付き、神の前に心砕かれて、もう一度自分の信仰を新たにすること。もう一つは、それでは神は存在しないと思い込み、信仰から離れてしまうことである。いずれにしても、ブルトマンに出会った人が、自分の信仰を根本から問い正されて、揺さぶられて、ただそこに振るわれないものだけが残るということは共通しているようだ。
 つまり、ブルトマンを読んで、その非神話化論等々に出会い、神はいないと勘違いして信仰から離れてしまう人に、ブルトマンは責任がないだろう。それは、その人自身の中にあった神との間の関係における問題点が暴露されてきたに過ぎないのだろう。
 しかし、こういうことは言えるだろう。もしかしたら、上のようなことを通して、ブルトマンが本当に、「神は存在しない」と語っているかもしれないということである。しかし千歩譲って、もしそうだとしても、そのことは、ブルトマンがこの世界には神はいないと語っているに過ぎず、神はどこにもいないと語っているのではない。しかしこのことについては、異議がある。というのは、神はこの世界に存在するからである。そう、少なくともブルトマンが主張する仕方で。彼の方法論がこの世界における神との出会い方をはっきり提示している。たとえこの世界に神が存在しなくとも、ブルトマンはその隠れた神との出会いの方法論をはっきり提示しているのである。
 おお、それはまさにイエスその人である。ブルトマンが書きたかったのは、このことなのだろう。「イエス」、この人をおいては、神に出会う道は無い。宗教にも儀式にも、神秘性の中にも、霊的感動の中にも存在しない。ただただ、人間イエスの中に、神は人となり、ご自身を啓示され、人との交わりの道を開かれたのだということだ。
 父なる神さま。イエス・キリストを本当に知ることができますように。

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2006/10/09

「イエス」:第四章 イエスの宣教・遠くて近き神 第一節 ユダヤ教の神観

 ブルトマンは、この書「イエス」の最終章であるこの章の最初の節でまずユダヤ教の神観について観察し、そこにおいて決定的なことは、神の超世界性、彼岸性の考えと、世界が神に対する関係を持っており、神は世界に心を向けておられるという考えとが共存しているその独自の結合にあると言う。彼はこの概念を「遠くて近き神」と呼ぶ。
 しかし実際には、このユダヤの神観に対して、様々なものが影響を及ぼし、これを不明瞭なものにしていると彼は主張する。それらは、天使や悪魔等様々な空想的な概念、ギリシア・ヘレニズムからの二元論的なもの、そしてユダヤの神観そのものに内包される諸概念の間の緊張関係であるという。
 そしてその結果、人はいつしか瞬間々々において決断的に神に従うことよりも、来るべき審判の日における身の安全の方を気にかけるようになり、その結果功績としての善き業に期待するようになるという。そして彼は更に、このことは、神観そのものの崩壊を意味しているのだと言う。というのは、人の考えが功績を求めることにより、彼の現在における神への服従の決断が鈍って来、そのことがそのまま、また同じユダヤの神観の他の概念から、彼の将来における裁きを意味することになるからである。そしてこのことは結局、人間の罪が真剣に取り扱われていないことなのだとブルトマンは言う。
 ブルトマンはこのように、純粋な信仰を阻害する要因をするどく見抜いてそれを指摘する。そして、このような曖昧性に陥らないために、神を審判者としてとらえ、人間を罪人としてとらえるべきことを主張するのである。すなわち、罪は購われるのではなく、ただ赦されるのみであるということ。たとえキリストを信じても、そこに人格や人間性の向上が期待されているのではなく、期待されているのは、ただただ耐えざる服従の決断のみであるというのである。
 ブルトマンの神学は、私たち福音主義から見ると、一見何の希望もないように見えるかも知れない。しかしそれは、信仰から人為的なものを一切排除し、ただ神のみに希望を置こうという真摯な姿勢なのである。
 しかし再び、神があえて人為的なものを信仰の中に設定されたのだとしたらどうだろう。そして「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神と呼ばれることを良しとし、イエスという有限な一人の人と自ら成られたのだとしたら、もしそれが本当だとしたら、それをあえて信じないことが、神を敬うことになるだろうか。
 父なる神さま。あなたの高い高い思いを教えてください。

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2006/10/01

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第八節 神の意志と神の支配到来

 イエスは、神の意志を啓示したという点ではラビであり、終末論を提示したという点では預言者であった。このラビという保守性と預言者という革新性がどのように調和するのか、というのがここの論点である。ブルトマンによれば、この二面性がイエスの宣教を正しく把握するための重要な鍵となる。
 彼はまず従来の神学がこの二面性をどのように理解したかに言及し、その欠点を指摘する。彼によれば、従来の神学がこの並存を統一として理解し得なかったのは根本的には終末論をも倫理をもその究極的決定的意味において理解しないからなのだ。しかし、神の意志が、全的服従と自己主張の断念を要求しているのを理解したときに、この二面性を調和的に理解することができると言う。
 即ち人は、ラビであるイエスの言葉により神の意志を啓示されることで、今決断の中に立たされているということ。そのとき彼の今は彼にとって最後の時であり、そこで預言者イエスの招きに従い、世を棄てて神へと決断することが要求されていて、そのとき、彼の人間としての自己主張は一切沈黙しなくてはならないということなのだという。
さらにブルトマンは言う。「ここで古い人はその処理可能な状態から脱却して他者(神)の支配に入る」と。その決断の結果、「真の将来が彼の前に立つ。そしてそれは、人間が基本的には既に処理しているような偽りの将来ではなく、人に彼がまだ持っていなかった性格を与えるような将来なのである」と。
 このようなブルトマンの信仰への真剣なアプローチというか、彼の宣教は、ある面で正統信仰に勝るとも劣らないほど純粋で、厳しいものである。しかしブルトマンはここでは、そのころ流行していた様々な自由主義的な神学に対して、その欠点を指摘しているのであり、福音主義はこれには該当しないと思う。というのは、主イエスこそが律法の完成者であるという教理が、イエスのラビ的側面と預言者的側面の調和という一点に関しては少なくとも良く説明していると思われるからだ。
 しかしここで問題なのは、福音信仰は、上記の教理により間接的に、ブルトマンが指摘するように、贖罪を客観視する傾向を持つことになり、信徒の教育において赦しのみを強調し、人の側でなすべきこととしての決断と献身を結果的に軽視してきたのではないかということである。
 父なる神さま。あなたが語っておられる声に耳を傾けることができますように。

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2006/09/26

「イエス」:第三章 イエスの宣教・神の意志 第七節 愛の戒め

 福音派の信徒に「なぜ人を愛さなければならないか」と聞いてみると、殆どの人は、次のように答えるだろう。すなわち、「人は神にかたどって創られた尊い存在だからだ、聖書にあなたは高価で尊いと書いてあるでしょう」と。しかしブルトマンは、これはイエスの提示している愛ではないという。彼にとって、他人を愛せよというのは、単純に神の命令であり、人にはそれに従うかどうかの決断が要請されていると言う。
 つまり、人を愛するのは、人に何か価値があるからではなく、ただただそれが神の命令だからだと言うのだ。そのように、ブルトマンはヒューマニズムを徹底的に否定する。彼にとって「愛」とは、『人が人に対して立つ具体的生状況での、意思の自己超克』なのである。
 彼の言わんとしていることは、たぶん次のようなことだと思う。つまり、もし人に何がしかの価値があるから人を愛すべきだとすると、その場合の価値観というものが存在するはずである。そして、その価値感に従って人の価値が評価される。そして、その価値感というか、あるいは少し譲って人生観でも良いが、とにかくそれに従っているかあるいは近い人は、価値が高く、そうでない人は価値が低いということになる。このような考えが、教会の中にあると、それにより傷つく人や裁かれる人が出て来ることになる。
 しかし、これに対しても反論があり得る。つまり、聖書が言っている「あなたは高価で尊い」とは、何か人がそうなるべき、ある設定された価値感のことを言っているのではなく、すべての人がすでにそうだと言っているのであり、この価値感により、人が高く、あるいは低く評価されることはないと。しかしこの場合の難点は、すべての人が、この聖書が言っているところの自分の価値を認識できる精神状態に至っていないことにある。そこで、そのような人に向かって、「あなたは本当は高価で尊いのですよ」と言った場合、その人がどのような気持ちになるかを十分推定していない可能性がある。そして、この場合、その人にことによると理解できない真理の理解を強要してしまうことにもなりかねない。そして、その結果は、やはりその人が心に傷を追ってしまうか、かえって落胆してしまうかというような結果が想定されてくる。
 ブルトマンは、そのイエス理解において、このような危険を回避するような方法論を展開しているように思う。彼は、人間が置かれている状況と人間自身の力だけにより、神の前に独立した一人の実存として立ち続けるべきことを我々に提起する。それ以上に出ることは、彼にとって、結果として何か人為的な、つまりヒューマニズム的な価値観を設定することとなり、その結果、人を愛するのではなく自分を愛することに陥ってしまう危険性がある。そして、教会の歴史の中における様々な悩みや悪循環は、教理の中に潜むこのヒューマニズム的な要素に、牧会が気付かなかったことに起因するところが大きいのかもしれない。
 それでは、我々はやはり上記のような危険性を排除するために、ブルトマンの非神話化の方法論を全面的に採用すべきなのだろうか。私はそうは思わない。その理由は、イエスご自身がそれを排除されなかったと思うからである。その結果、イエスの弟子たちは、ブルトマン流に言うならば実際、弟子たちは、イエスの宣教内容を大幅に拡張した教理を世界宣教に向けて展開して行った。私は、イエスが神である以上、それを計画されていたと信じる。
 それにしても、ブルトマンは三位一体をどのように考えているのだろうか。ずっとそれが気になっていたのだが。
 父なる神さま。三位一体のあなたを礼拝します。

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