2006/10/21

捧げもの

レビ記 第27章

 レビ記の最終章が、捧げもので締めくくられているのは、意義深いことだと思う。神は、自発的な犠牲を喜ばれる。それが捧げものである。神は、人に自由意志を与えられた。だから、すべての人は、自由な人生を送ることを許されている。しかし、本当は、すべての人を創造されたのは神である、この世界、宇宙を創造されたお方である。そこで、厳密なことを言えば、自由もなく、個人の所有物も本当は存在しないのだと思う。そこで、捧げものとはなにかと考えてみれば、それは結局、神への従順ということではないだろうか。だからそこに自発的なことが理想とされるのだ。
 神は、ここで驚くべきことを命じている。一度捧げたものを買い戻す自由を与えているのだ。しかし捧げたときの価値にその5分の1を加えて買い戻すことができるという。捧げものを捧げたときに祭司その価値を算定するのは、おそらくそのためなのだろう。
 神は、これらのことを通じて、最後には、人の心が永遠に神の元へ帰ってくることを願われているのだと思う。そう永遠に。そのようにして、創造されたすべてが、永遠に神の元へ帰るように。
 父なる神さま。永遠にあなたの庭に植えてください。

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契約の実現

レビ記 第26章

 神はアブラハムと契約を結び、その実現のために、イスラエル民族をエジプトから導き出し、約束の地カナンに連れて行かれようとしておられた。
 そしてその実現を前にして、次の契約の内容を語られたのである。それは、契約とは言われてはいないが、内容自体は、神がかつてアブラハムと結ばれた契約に匹敵するものと言えるだろう。それは、イスラエル民族が約束の地で神に背き、神に捨てられ、再び異邦の敵の地へ連れて行かれる、しかし彼らがその地でもう一度神に向かって叫び、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は再び彼らを赦し、もう一度神の聖なる民としてくださるというものだ。
 神の契約とは、つまり預言のようなものだ。だからそれは必ず成就する。この新しい契約は、神がアブラハムと結ばれた契約とどこか似ている。一度奴隷になった後に再び連れ戻されるというところがである。しかし、アブラハムとの契約の場合は、奴隷となったのが不信仰の結果ではなく、外的な要因であった。しかし、これから起ころうとしているのは、大いなる背信なのである。なぜ神はこのようなことを契約として結ばれようとされたのだろうか。それは、その背信が必然的なものであるからだろう。つまり、罪の中にあるイスラエルにとって、背きは時間の問題であり、それから逃れるすべはなかった。そこで神は最初から、背きと赦しを契約の中に含められたのだろう。
 契約であるからには、それが有効とされるための条件が存在する。それは、イスラエル民族がモーセを通して与えられた神の律法を守ることであるが、彼らにはそれを守る力がなかったのだった。
 父なる神さま。あなたの律法を心に刻んでください。

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ヨベルの年

レビ記 第25章

 神は、イスラエル人をエジプトから導きだし、乳と蜜の流れる地カナンを与えようとしておられた。それは、神がアブラハムと結んだ契約に基づいていた。しかしこれらのことを通して神は、イスラエル人をご自分に仕える聖なる民としようとしておられたのであった。そこで、イスラエル人が約束の地カナンに入り、そこを受け取り、定住するにあたり、神はいくつかのことをお命じになった。
 それらはまず、7年毎の休耕である。イスラエル人は6年の間種を蒔き、土地を耕し、収穫を得て良いが、7年目には土地を休ませるため、いっさいの農耕をしてはならなかった。そのために神は、6年目には通常の3年分の収穫をお与えになると言われた。6年目の分と7年目に何も収穫がない分、さらに8年目のまだ収穫が十分でない分までも、神が補償してくださるというのである。神の命令に服従することにより、神の民が損害を被ることはないのである。
 もう一つは、ヨベルの年である。これは、エジプトにおける40年間の奴隷生活からの解放を記念するものであり、この年には、すべての負債が帳消しになるというものだ。たとえその負債が、公に対するものであっても、また個人に対するものであってもである。
 人が貧しくなって財産を失い、家族や自分を奴隷として売るようなことがあれば、神はこれを喜ばれない。なぜなら、その人は神に仕えず、人に仕えるようになるからである。神はイスラエル人をそのようなことの為にエジプトから連れ出されたのではなかった。
 神は、人が物においても、お金においても、またいっさいの希望においても、ただ神にのみ仕えることを望んでおられるのである。
 父なる神さま。ただあなたにのみ仕え、あなたの大庭に精神的に植えられることを望みます。

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2006/10/17

緊張の中の天国

レビ記 第24章

 当時のイスラエルでは、モーセを通して与えられた律法が厳格に守られていた。それは、約束の地を受け継ぐための条件であり、その相続の内容には、物質的なものと共に精神的なものが重要な要素であった。すなわち、彼ら自身が神の聖なる民となることであり、様々な儀式はそれを象徴したものでもあったのである。
 そのような状態の中では、高度な緊張が保たれていた。天国は、この世界においては、高度の緊張感の中で保たれる。それは、この世界の様々な雑音が私たちの前の天国を崩す方向に働くからである。むろん天国自体は壊れない。しかし、私たちと天国の接点が崩れるのである。
 そのために昼夜、神の前に最高のオリーブ油により、灯火が備えられる必要があった。そして、イスラエル12部族を象徴する12の輪型のパン、聖なる香料、これらが会見の幕屋で神の前に捧げられた。
 そこには、神の御名を呪う者の存在する余地は、まったくなかったのである。
 父なる神さま。天国がいつも私たちの心にあるようにしてください。

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2006/10/14

過ぎ越しの祭り

レビ記 第23章
 祭りは天的なものだ。それは、聖なるもの、目に見えない天にあるものを表している。そしてそれはまた、この地上で現された神の御業の真の意味をも表しているのである。
 神は、モーセを通して民に命じられる。「あなたがたは、心を苦しめなければならない」と。この苦しみは、天からの苦しみであり、神の御心にある苦しみだ。また言われる、「あなたがたは、歓び祝わなければならない」と。この歓びは、天からの歓びであり、神の御心にある歓びなのだ。私たちは、祭りを通して、神と共に心を苦しめ、神と共に歓び祝わなければならないのだ。
 このように祭りは、イスラエルの民が自分人生をどのように生きるかを認識するために必要であった。今日では、この祭りに該当するのは、毎週の礼拝だろう。私たちは、礼拝に出席することにより、神の前にどのように自分の心を注ぎだして祈るべきか、また天からの祝福を受けて、どのように感謝し、喜ぶべきかを身をもって体験するのだ。そして、月曜日には、日常生活へ遣わされて行き、そこで神とともに歩む生活を実践するのである。
 父なる神さま。人生の中に、天的なよろこびをお与えください。

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2006/10/12

聖さの体系

レビ記 第22章

 捧げ物に関する規定である。まず気がつくのは、イスラエルの民が聖別して捧げた物が聖なる物とされていることである。それはどのようにして聖となるのか。それはただ、神が定められた通りに捧げられることを通してであり、これ以外に方法はない。捧げ物を聖くするのは、神の臨在であり、決して私たちの努力や技巧などではない。
 次にそのようにして聖くされた捧げ物は、すでに私たちとは関係がない。それは神の領域に属しているゆえに、私たちには属していない。またそれゆえにそれは聖いのである。祭司と言えども、清くないままでそれを食べるならば彼は神の前に害を免れない。
 次に聖い捧げ物は、それを捧げる者を聖くする。捧げ物の効果は、たちまちにして現れる。それがそれを捧げた人を聖くすることによって。
 最後に捧げ者は、神の御名を聖くする。神の御名自身は私たちに関係なく聖い。しかしもしそれが汚れているとすれば、それはそれを汚した人に対してのみ汚れているのである。ああ、なんということだろうか。神の御名がある人にとって汚されるということが有りうるとは。その結果、その人が神に近づく道が閉ざされてしまうのだ。彼のたった一つの望みさえも、彼の罪によって閉ざされてしまうのだ。
 しかし神は、それに期限を設けられた。例えば「夕まで」というように。そして、そのしばらくの期間の後、彼の神への道は回復される。神がモーセを通して語られたように、「私は主、あなたを聖めるものである」と。
 父なる神さま。あなたの聖さを教えてください。

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2006/10/06

聖なる差別

レビ記 第21章

 祭司職は聖なる職であるから、たとえレビの一族の者であっても、体に障害のあるものは、祭司の務めをしてはならない。また、寡婦や遊女を妻にめとるようなことがあってはならない。これは、今日の常識から言うと差別であり、人権侵害にあたるだろう。
 今日の「平等」の概念の根底には、常に人間主義的な考えがある。弱者に対する冷遇や差別は、人の心に潜む自己愛がときとして人を見下すからであろうが、人間主義はこれを平等の原則に反するということから、良くないと判断するのである。しかし、そもそも完全な平等というものがこの世界に存在するのだろうか。否、むしろ不平等なことの方が多いのではないだろうか。貧富の差一つとってみても、それをだれも不平等と思わないようだ。人間主義が提唱する平等は、結局機会の平等であり、その上での弱肉強食を容認しているのである。そこで人間主義は、詰まるところ人間を動物のように見なしていることにはならないだろうか。
 しかし神を第一とするときに、状況は根本から変わってくる。そこでは、何が神の栄光を現すかが問題とされる。だからそれによって、一見差別が発生するように思えるが、その差別は、人間同士が行う差別ではなく、一つの目的を持っており、それ以外の目的には適用されない。したがってそれは弱肉強食のような制御の利かないものではなく、そのような差別においても、神の愛と尊厳がそこに現されるのである。
 父なる神さま。あなたが私を見ておられる、そのあなたの御思いを知ることができますように。

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2006/09/13

永遠の命

レビ記 第20章

 「私が聖いので、あなた方も聖くあらねばならない。」と言われている。
神は人をご自身の形に創造された。つまり、人は神のみ姿に型どり、聖いものとして創造されたのである。なぜそのようにされたのか。それは、神が人を「永遠の愛」で愛すためなのだろう。だから人は、神の愛を受け取りながら、永遠に神との交わりの中に保たれて行く存在なのだ。
 しかし人は、時間の中で生きているゆえに、この「永遠という力」に耐えることができない。時間は、すべての形あるものを風化させ、破壊し、無効にする力を持っている。時間の前には、どうように堅い岩も粉々にされて砂と化し、またどのような堅い意志も骨抜きにされてしまうのだ。アダムの無垢を奪ったのもこの時間の力だったのだろう。
 そこでこの悪の力に立ち向かうには、私たちは死をもってするしかない。キリストの十字架上の死が私たちを罪から解放し、永遠の命を与えるのだ。主イエスは、それを類希なほど美しく言い表された。すなわち「一粒の麦が地に落ちて死ななければそれはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」この世界を生きる力の源をイエス・キリストだけに求め、その導きに完全に従って生きること。この中にこそ、最大の可能性があるのだ。
 父なる神さま。イエス・キリストこそが私のすべてです。

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2006/09/07

律法の精神

レビ記 第19章

 神は、モーセを通じてイスラエルの民に律法を授けられた。それは、十戒として知られているが、考えられ得る最高の律法である。
 この律法は、国家の効率的な運営を目指すものではない。それは群衆に与えられたものではなく、民一人一人に与えられたものなのであり、しかも人が考えたのではなく、神から人へ与えられたものなのである。
 そこでこの律法は、国家繁栄の原理を説明してはいない。また個人の完成を指向してさえいない。もともと聖書にはそのような個人的成長の概念はない。あるのはただ服従か背反かである。そして、与えられた律法を守ることが要求されているが、奇妙なことにそれを完全に守ることのできる者はいない。
 これらのことから言えることは、この律法の目的は、それによりそれまでになかった何かを成し遂げることではない。この律法の目的はただひとつ。民の心を創造主であるまことの神に向けさせることなのだ。
 父なる神さま。私の心が、業でなく、ただあなたに向いているように導いてください。

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2006/09/06

神を見ること

レビ記 第18章

 神がイスラエルをエジプトから導き出されたのは、彼らをそれら異境の民の因習から自由にし、ご自分に仕える聖なる民にするためだった。聖なる民になるために神に仕えるのではない。神に仕えること自体が聖なる民としての報酬なのだ。なぜなら、神は交わりの中におられるからである。
 「愛のない人に神は分かりません。神は愛だからです。」と聖ヨハネは言っている。神は、ご自身だけで単独に存在される方である。しかしそれは、また私たちが決して見ることのできない方である。私たちが神を見ようとするなら、主イエスが神を見ておられたようにして見る他はない。そしてそれは、聖霊の助けにより可能とされる主イエスとの交わりによる。そしてさらにそれは、信徒間の清い交わりによるのである。「2人また3人が私の名により集うところに私もまたいる。」と主イエスが言われた通りである。
 父なる神さま。主イエスが与えてくださる、清い生活をいきることにより、日々あなたを見るものとならせて下さい。

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