2006/06/02

栄光の雲

出エジプト記 第40章

 神がモーセを通してお命じになったものを民がことごとく造り終え、それがモーセの目にかなったとき、神は、月の第一日目に幕屋を建て上げて、それらの創造物を配置することをお命じになった。神が人の作ったものを受け入れられ、その中に住まわれるとは、なんと驚くべきことだろう。
 しかし、モーセとアロンとその子等が、これらいっさいのものを啓示された位置に据え終わるや否や、雲が会見の幕屋に満ちた。それは、全能の神の臨在を示す栄光の雲であった。
 もしこのことが起こらなかったなら、彼らのこれまでの奉仕は、何の価値もなかったであろう。それは、一つの荘厳な儀式を中心とした宗教を創作するのには、あるいは十分であったかもしれない。しかし彼らは荒野で、そのような空虚なものを求めていたのではなく、神がモーセを通して民に啓示されたものもそのようなものではなかった。かくして栄光の雲が幕屋を満たした。そしてそれは全能の神が、彼らの直中に住まわれることであった。
 もしこのことが今日の私たち信仰者に起こらないなら、私たちの敬虔は、何の甲斐もない。もし全能者の聖なる霊が、神の言葉とふさわしい苦難によって整えられた、備えある信仰者の心に天から注がれて、超自然的にそこを満たし、神が宿られる聖なる神殿とすることがないならば、私たちの信仰もまた空しいと言わなければならない。
 父なる神さま。私たちの心を聖霊によって満たし、あなたが臨在される、聖なる神殿としてください。

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2006/05/31

天上の民

出エジプト記 第39章

 神がモーセを通じて命じられたもので彼らが造ったものは次に、アロンの子等が祭儀に際して着る衣装、その上に身に付ける12の宝石が埋め込まれたエポデと言われる胸当て、その上に羽織るガウン、スカートとその裾に付けられる房と金の鈴その他であった。
 彼らはこれらを全能の神から与えられた知恵と理解力で造り終えた。「知恵」それは、この世界にかつて無いものを生み出す力、そして「理解力」は、それをこの世界に焦点を結ばせることにより、具体的な客体として結実させるのである。
 彼らがそのすべてを造り終えたとき、モーセがそれらをチェックすると、みよ、それらはすべて神がモーセに命じた通りに造られていた。ちょうど神が天地を創られ、7日目に休まれたときのように、それは快くすべての仕様を満たしていた。
 何という違いであろうか。彼らは、かつてアロンに迫って、金の小牛の偶像を自分たちの考えで造らせた。それは、神の怒りを買い、モーセは怒って契約の板を砕き、金の小牛を粉々にし、水にまぜて彼らに飲ませた。しかし、ここにモーセが見たものは、そのすべてが神の御心にかなう、麗しいものだったのである。
 モーセはそこに何を見ただろうか。それは、彼がかつて怒っておられた全能の神に命を掛けて取りなしたときに、彼のなけなしの信仰の目で見ていたところのイスラエルの民の天上における本当の栄光のすがたに違いない。
 父なる神さま。信仰の目で、天上のものを見ることができるようにお助けください。

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荒野の宝

出エジプト記 第38章

 ベツアレルは、オホリアブと共に神から特別に授かった知恵と理解力で、神がモーセに命じられたすべてのものを造った。それらは、まず祭壇、これはアカシアの木で造られ、4つの角があり、青銅がかぶせられた。そしてその祭壇に煩祭が捧げられる時に使われる諸々の用具も青銅で作られていた。
 また、聖所の中庭を仕切る垂れ幕、それを支える東西南北合計56本の柱とそれをはめ込む窪み、これらも青銅で覆われており、幕を柱から下げるためのフックと紐は銀であった。その他、聖所の門を始め、すべて主がモーセを通して命じられたものを彼らは造り終えた。
 そしてそれらすべてを造るのに使われた物資の合計は、実に金29タラント730シケル、銀100タラント1775シケル、青銅70タラント2400シケルであった。その他、天幕や垂れ幕やその上に施される刺繍に使われた高価な素材もあった。これだけの財宝が、エジプトからあわてて夜逃げしてきたようなイスラエル民族の持ち物の中に隠れていたのであった。それらは、聖書の記述によれば、彼らがエジプトを出発するときにエジプト人に希って、もらい受けたものであり、そのようにして奪い取ったものであった。しかしそれらは、荒野を旅する彼らにとっては、何の価値もないに等しいものでもあった。彼らは高価な財宝に囲まれながら飢え死にしそうであったのだから。
 しかし彼らが、それらの財宝をモーセの命令に従って、神の御前に持ってきたとき、彼らは、今まで抱えていた彼らの埋もれていた財宝の真の意味を知ったのだ。それらは、彼らにとってある意味で重荷であった。金29タラント730シケル、銀100タラント1775シケル、青銅70タラント2400シケルを彼らは、自分自身で身に付けて持ち運んでいたのだから。
 しかし、彼らがそれらを主に捧げたとき、しかも主に心を動かされて捧げたとき、そこに出現したのは、もはや金の小牛ではなかった。それは、全能の神が宿られる聖所であり、かつてこの世界には存在したことのないものであった。彼らはそこで、神の輪在を体験し、彼らの荷は軽くなった。神は、彼らの重荷を、レビの子等に負わせられたのだ。
 これら一連の事柄の中に、私は神が天地創造以前に計画されたところの主イエス・キリストによる購いの御業を見る思いがする。
 父なる神さま。あなたの永遠の救いの御業とそれに対応した、私たちの中に埋もれた、あなたの財宝に目を開かせて下さい。

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2006/05/26

雛型

出エジプト記 第37章

 ベツアレルは、神から特別に与えられた知恵と理解力で、契約の箱、購いの座、机、その上の箱や桶、瓶、燭台、香炉、そして聖なる注ぎの油を造った。
 これらは聖なる物であり、それまではこの地上に存在しなかったのであった。これらは、荒野を歩むイスラエルの民にとって、直接的には役に立たないものであり、ある意味で重荷でしかない。それらには、各々4つの輪がついており、それに棒を通して担いで行くようにできていた。神は彼らの重荷を軽くするために、それらを純金で鋳造させることはなさらず、アカシヤの木で造り、純金で包むよう指示された。しかし購いの座だけは、純金の打ち出し細工とされ、一塊の純金から造られた、連続的でつなぎ目のない物であり、この地上には住まない生物であるケルビムがデザインされていた。これらはすべて、天上にあるものの雛形であり、それまで誰も見たことのないものであり、神がその選ばれた民にのみ啓示されたものであった。
 イスラエルの民は、これらすべてを担いで荒野を旅しなければならなかった。それは、時には重荷であったことだろう。しかしそれらは、彼らが神に選ばれた特別な民であるために必須のことであった。神は、これら天上のものを啓示することにより、彼らの天上の罪をこの地上において清めておられたのである。
 今日、私たちもイエス・キリストを信じて、神にとって特別な民とされている。しかし私たちは、かつてのイスラエルの民のように幕屋や契約の箱を担いで歩き回る必要はない。なぜなら、私たちの心こそ、神の聖霊が宿られる完全な幕屋であり、それは小羊の聖なる血により、完全に清められたからである。
 父なる神さま。イエス・キリストの購いを、私たちの内に確かなものにしてください。

 

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2006/05/24

捧げる心

出エジプト記 第36章

 ベツアレルとオホリアブは、神の霊の導きにより、神の幕屋のすべてのものを神がモーセに命じられたように造った。神は、最初に啓示と命令を与えられる、そしてその実施にあたっては、大いなる導きと助けを与えられるのである。
 神はまた、荒野を歩む民の心に喜んで捧げ物をする心を与えられた。そして、民が毎朝捧げ物を持って来たものは、必要を遙かに越えていたのであった。
 私たちの毎日が、どのように簡素で貧しいものであったとしても、そこには神が用いてくださるための十分な素材がある。もし私たちが神のためにそれを差し出すなら、それは神が与えて下さった純良な素材となるのである。
 人は、すでにあるものを使って何かを始めたり作ったりする。しかし、神はいつもすべてを創り出すことから始められるのだ。だから民の靴はすり減らず、着物も古びることがなかったのである。
 父なる神さま。私の生活にあなたとお会いするための会見の幕屋を創ってください。私に与えられているものをお捧げしますから。

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2006/05/22

捧げ物

出エジプト記 第35章

 モーセは、会衆を集めて神が命じられることを告げた。神は、彼らの神であることを望まれる。神は、彼らから捧げ物を受けることを望まれる。そして、それらの捧げ物をもって作った聖なる所に住まわれることを望まれる。この全宇宙を創られ、自らその中に住み、そのすべてを支配されるお方が、あえてそれを望まれたのである。
 しかし神は、そのためにご自身が住まわれる聖なるところに関して、妥協されなかった。それをあくまで聖なる所とするために、ある人を選び、彼に知恵と理解の霊を注がれた。神は、その全能の力により、俗なる物を聖なるものに完全に変えることがお出来になるのだ。
 そして、民自体をも聖なるものとするためにもっとも大切なことを命じられた。すなわち、「安息日を守りこれを聖とせよ」と。安息日は、民の生活そのものである。この日を聖別する者は、神がその人を聖別される。それは、その人の生活の第一歩だから。私たちは、毎週、毎日、神の前にこの聖なる第一歩を踏み出さなければならない。いや、毎時、毎分、毎秒、神の前にこの第一歩を踏み出す必要がある。それが使徒パウロが語った「すべて信仰に依らざることは罪なり」ということなのだ。
 父なる神さま。たえずあなたの前に、信仰の永遠なる第一歩を踏み出すことができますように。

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2006/05/19

神の栄光

出エジプト記 第34章

 神はモーセに、もう一度、二枚の石の板を切り、それを持ってシナイ山に登るように命じた。そこには、モーセのほか誰も登ることを許されなかった。神は、誰もいない山の上でモーセと会われると言われたのである。
 神と会おうとするなら、私たちはただ一人にならなければならない。神はそこであなたに何を示し、与えられるのか。神はまずご自身がどのようなお方かをあなたに示される。「ジェホバ、ジェホバ、哀れみ深くと恵みを賜う、怒るに遅く、愛と誠に富み、過ちを赦す神、しかし決して罪を赦さず、親の罪を子に報い、子の罪をその子孫に報い、3、4代に及ぼす者。」神はまた、あなたが神の前でどのような存在なのかをあなたに示される。神があなたと共に行おうと思われている偉大な業の数々を。神は、あなたの前から、その強い御手によって敵を追い払われる。あなたは、それらの敵の所有する財産に目を奪われてはならない。それらをすべて破壊しつくさなければならない。そうでないと、それらは、あなたを信仰から迷い出させる罠となる。そして、あなたがこれらのことをきちんと行うことができるために、あなたは、すべてにおいて神を第一にしなければならない。すなわち、あなたは安息日を厳守しなければならないのである。
 神と語り終えたモーセに、神は一つの栄光を伴わせた。それは、彼の顔に輝く光であり、罪あるすべての者はそれを見つめ続けることができなかった。神の栄光は、人から隠されている。それには、人が耐えられないからだ。モーセは自分の顔に覆いを掛けねばならなかった。しかし彼が神と語るとき、もはや覆いは必要なかった。神を知っている者には、神は栄光を隠されないからである。
 父なる神さま。あなたの栄光をこの世界に輝かせてください。

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2006/05/18

神の臨在と主権

出エジプト記 第33章

 神はモーセの取りなしを受け入れられ、民をアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた、乳と密の流れる地へ導くことを約束された。しかし神は、ご自身が民の罪を見て、彼らを滅ぼすことのないように、民と共には歩まれないことを告げられた。
 モーセは、宿営の外にしつらえた天幕で、神の使いと顔と顔を会わせて、友がその友と語るように語られた。
モーセは、神に申し上げた。「私の協力者を私に見せてください。」彼は、すでに彼のそばにいるヨショアが目に入っていなかったし、彼は神以外の協力者を求めていたのである。神が彼に民と共に歩まれないと言われたからである。しかし会見の幕屋でモーセが神と会われるとき、民は神を礼拝した。神はどれほどイスラエルの民を愛しておられたことだろう。
 モーセは神に申し上げた。「私が最後まであなたの前に恵みを得ることができるように、あなたの栄光を私に見せて下さい。そして、この民があなたのものであることを忘れないでください」と。彼は、自分がまずしっかりと神を知り、民を導いて行こうと思ったのだ。しかし神はモーセに言われた。「私の臨在があなたと共に行き、あなたに平安を与えよう。」神につながることは知識によるのではなく、それは神の臨在によるのである。それでは、神の臨在はどのようにして獲得できるのか。否、否、それは不可能である。神の臨在は、獲得することはできない。それは神の主権に関わるものなのであり、神が与えようと思われる者にのみ与えられるのである。
 神はモーセに言われた。「私は、私のすべての恵みをあなたの前に進ませよう。私は恵もうと思う者を恵み、哀れもうと思うものを哀れむ。」
 父なる神さま。私があなたの前に恵みを得ますように。

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戦いの中の平安

出エジプト記 第32章

 「私たちをエジプトから導き出した人モーセがどうなったのか分からないからです。」
 民がアロンに偶像を求めたのは、モーセの代わりとしてであった。彼らにとっては、自分たちをエジプトから導き出してくれたのは、全能の神ではなく、モーセという一人の人間に過ぎなかったのだった。今日においても、人が宗教に触れるとき、そこには何か偉大に見える人物がおり、その人が神と人の間をかえって隔ててしまうことがある。民に神を示す為には偉大な指導者が必要だが、その一方で、その人自体がかえって神を見えなくする原因になるとは、何という皮肉だろうか。
 アロンが民に、彼らの持っている金の指輪をはずして持ってくるように命じると、彼らはすぐにそれを持ってきた。民は偶像を求める。その欲求は、宝へのそれよりも強い。平安に生きることへの欲求は、何よりも強い。しかし真の「平安」とは、戦いの中にあるものなのだ。民は、この戦いを生きることをずっと避けてきた。しかし神は終始、彼らを戦いの中に導いて来られた。エジプトで奴隷であった彼らを、戦いによりそこから導き出された。ここでは、神が彼らのために戦われたのであった。神が私たちに示そうとしておられるのは、この「戦いの中の平安」であり、それゆえ私たちの神の名は、「万軍の主」なのである。
 それでは、民の罪の本質はどこにあるのか。それは、彼らが戦いにおいて彼らの内におられる神の力を信じることをせず、ただ安楽のみを求め、それが手軽に与えられるように、神そのものではなく、仲介者を求めたことにある。「神と共に戦いの人生を生きること」これが神が私たちに求めておられることなのだ。そして新約聖書が言っているように、「臆病な者」は、神が与えようとしておられる祝福から最初に脱落する者となる。なぜなら、神の与える平安は戦いの中にこそあるのだから。
 モーセには、民をこの戦いに連れ戻す必要があった。宿営の門に真に神に従おうと願う民だけを集めて、彼らに各々その兄弟、仲間、隣人を殺させた。この戦いには、兄弟も友もない。神に付くかどうかのみが問題なのだ。そしてそれは今日でも変わっていない。主イエスご自身がこう言われている。すなわち「私よりも、自分の父、母、兄弟、子供を愛する者は、私にふさわしくない。」
 父なる神さま。私たちの心にある戦いの概念を新しくしてください。

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安息日

出エジプト記 第31章

 神はモーセに会見の幕屋、契約の箱、その上の購いの座、家具類、燭台等々の仕様を啓示し、その示された通りにそれらを作るように命じた。そしてその実施にあたって、ウリの子ベツアレルを選び、彼にあらゆる知力と理解力の霊を満たして、神がモーセに啓示したすべてのものを作ることができるようにされた。
 神の言葉を語ることとそれを実現することは、別の賜物である。それは、今日においては、牧師が教会でビジョンを語り、信徒がそれを実現するための奉仕を担うのと同じである。だから私たちは、それぞれの状況に応じた賜物を神から与えていただく必要がある。
 神はまたモーセに、安息日を厳守するように命じられた。この世的には、やらなければならないことはたくさんある。しかし安息日を休むということは、神にはすべてが可能であると信じて、それらすべてを神に委ねることなのである。
 安息日は信仰の原点であり、信仰はここから始まる。それは、神の義と哀れみが輝き出る源である。主イエスが姦咽の女を訴える律法学者たちを前に、無言で地面に字を書き続けられたとき、主イエスはこの安息の中におられたのであり、彼が沈黙を破ったとき、神の哀れみが彼女に向かって流れ出、またその場にいた人々の心を神の裁きが貫いた。また、嵐の中の船で主イエスは、この安息の中に眠っておられたのであり、主が目覚められたとき、神の力が風を静め、弟子たちの心の中の波を鎮めたのであった。
 この安息は、全能の神の住まいであり、この「何もない」というものなくしてはすべてのものも存在しないのである。
 父なる神さま。あなたの安息の中に棲むことができますように。

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