2007/04/15

なぜ不平等があるのか

 この世界には、不平等なことがたくさんある。お金をたくさん持っている人がいるかと思うと、貧困に明け暮れしている人がいる。私たちの住んでいるこの日本は、平穏な毎日を送っているが、遠い国では今も戦争が行われている。日本に生まれた子供は、豊かな生活を送れる可能性が高いと思うが、戦争の最中に生まれた子供は、平和も知らず、その一生はどんなにか苦しみの中にあることだろう。また、生まれつき体が弱かったり、障害を持って生まれてくる人がいる。そのような場合は、生まれてくる子供の両親の苦労もまた大きい。またそうでなくても、人生の途中で事故にあったり、病気に掛かったりして、その身に大きな苦難を負って人生を歩む人がいる。
 私は神様に、どうしてそのような不平等があるのかと聞いてみた。「神様、あなたは、すべての人を等しく愛しておられるはずです。それなのに、どうして幸福な人と不幸な人がいるのでしょう。また、幸福に多い少ないがあるのでしょう。また苦難にも人により大きな違いがあるのでしょうか。」神様は、答えてくださったように思えた。それは、私の予想していなかった答えであった。
 神様がこのように言われたように思った。「私は、不平等をしていない」と。「神様、どうして、どうして不平等ではないのですか。」神様は、言われたように思った。「あなたの人生の目的はなにか。」「もし人生の目的が、楽しく暮らすこと、幸福に暮らすことならば、あなたが言うように、私は不平等をしていることになる。しかし、人生の目的は幸福に暮らすことではない。この世界にあっては、人の最後はみな死だからだ。だから、その短く空しい日々をどう生きようかとあくせくしてはならない。人生の目的は、愛なのだ。」「私は、イエス・キリストにおいて、すべてをあなたに与え、永遠の愛であなたを愛した。だから、あなたの人生の目的は、神を愛し、神の栄光を現すことだ。そして、私はすべての人がこの人生の目的を達成することにおいて、いつも平等に機会を与えているのだ。」「だから、どんな苦難の中にあっても、どんな苦しみの中にあっても、危険の中にあっても、また裕福の中にあっても、貧困の中にあっても、私たちはその人が私の栄光を現すのを固唾を呑んで見守っているのだ」と。

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2006/12/25

人間とは何か?

 聖書は、神が人をご自身の形に創造されたと言っている。驚くべきことに神は人の形をしておられるのである。しかし神が人の形をとられたというのではなく、神は最初から形を持っておられ、その形に似せて人を創造されたのである。しかもこれらのことは永遠の世界のことである故に、この形とは、姿形だけでなく、心の領域をも含んだものなのである。
 なぜ神はそのようにされたのだろうか。それは、神が人と対話ができるためなのである。もし神が人の形をしていなかったなら、人は神の言われること、すなわち聖書の意味が理解できなかったに違いない。反対に、人は人である限り、そのことのおかげで、神の語りかけを理解することができるのである。
 だからだれ一人、聖書に書かれていることの意味が分からない人はいない。聖書は、私たちがアダムのように造られ、アブラハム、イサク、ヤコブのように神に見いだされ、モーセのように神に出会い、ダビデのように神に従い、ソロモンのように神に背き、エゼキエルやダニエルのように神に聞くことを教えているのだ。そして神は最後に、私たちが神の子であることを教えるために、この世界に、ご自身の形でもある人の形、すなわちイエス・キリストとして現れて下さったのである。
 だから、「人間とは何か」を知りたければ、聖書を読むことだ。そこには神について書かれているが、それは同時に人について書かれている。そして、それら二つのものは、イエス・キリストにあって、一つなのだから。

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2006/12/16

いじめられっ子への励まし

 最近の子供たち青年たちの社会の歪がかなり大きくなってきているらしく、マスコミでもいじめのことが良く取り上げらてきており、新聞でも様々な趣向で特集を組んだりしているようだ。今日(12/16)の朝刊にも、1面に『いじめられている君へ』という特集で、有名な漫画家が提言をしていた。
 『あなたの人生は、はじまったばかりだ。目の前には、時間という宝物がある。無限大の可能性がある。未来は両手を広げてあなたを待っている。・・・・・・・』 なんという無責任な励ましであろうか。
 『自分は何のために生まれてきたのか。それはいまわからなくてもいい。必ずわかるときがくる。いずれ、自分はこうなりたいという夢が見えてくる。』 「こうなりたい」ということと「何のために生まれてきたのか」ということが同じとはどうしたことだろう。
 『夢は、おおきければ大きいほどよい。年をとればとるほど、夢は縮んでいく。だから夢の土台は大きくかまえなければいけない。』 年とともに夢が縮んで行くなら最後はどうなるだろうか。人生がそんなものなら、生きる価値などないではないか。
 『あざけられたり、ひやかされたりしてもかまわない。いちど見つければ、あとは夢があなたを支えてくれる。』 現実から目をそむけて、ただ夢を見るように生きろということだろうか。
 『なにより自分の人生は自分で決めるべきものだ。』 結局何の励ましでもなく、提言でもない。
 いじめに本気で取り組んでいる人はたくさんいるだろう。その人たちの努力には敬意を表したい。しかし、新聞のトップ記事に、このような内容が、こともあろうに『いじめられている君へ』の励ましの言葉として載せられているということに、この世界が果てしなく狂ってしまっていることを感じざるを得ない。
 人はなぜ生まれてくるのか。生まれたくて、生きたくて生まれてくるのだと私は信じる。これは、単なる思い込みとは言い切れないと思う。なぜなら、もしそうでないなら、自殺して行く人に、「死ぬな」と言うことはできないと思うから。
 人は、生まれたくて、生きたくて生まれてくるはずなのだ。ぜったいそうであるはずだ。そうでなければ、この世界もこの宇宙も神さえも存在価値はないと思う。
 しかし、いつしか人は、考え始める。「どうやって生きれば良いのか。」「どう生きるのが良い方法なのか。」その先は、「何とかうまく生きられないか。」「何とか苦しまずに生きられる方法はないのか。」「何か、現実から目をそむけて、夢のようにこの地上の時間を浪費する方法はないのか。」等々となって行ってしまう。
 私は声を大にして言いたい。 最初からそんなだったのか。そうではないだろう。そうではなかったはずだ。
 そして、今でもそうではないはずだ。何も変わっていないよ。何一つ、みんな以前のままだ。ただ変わったのは、あなただけだ。たくさんの数の「あなた」の心が変わってしまったのだ。どうして?だまされているんだ。なにに?何かに。それは何なんだ。「うそっぱちにさ」 人間が正しいことの追求を放棄してしまったからだ。資本主義社会の責任かもしれない。人間が生み出したもののすべてが、人間に向かって、いま復讐を始めているのだ。
 もういちどもとにもどろうじゃないか。 生きる意味なんて考えはじめない、あの生まれたままの心に。

 それが、神さまを信じるってことだよ。

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2005/10/29

この世界には、なぜ、多くの悲しいできごとが起こるのか

 この世界には、明らかにたくさんの悲しいできごとが毎日のように起こっている。いったいなぜなのだろうか。
 「悲しいできごとは、神によって引き起こされている。」と私は考える。あるいは、この表現が不適切ならば、次のように言い換えよう。すなわち「悲しいできごとが起こることは、神に容認されている」と。(ヨブ記第2章6節参照)
 「悲しいできごと」とは、いったい何だろうか。それは、人生の目標を実現不可能にしてしまうようなことと言えるだろう。このできごとの前には、彼の人生のすべての意味が消え失せ、彼が生まれてきた意味さえもないかのように思われてくる。
 しかしここで再び、彼の生まれてきた目的とは何だろうか。それは、ただ一つ「神を知ること」である。(前論参照)
 もしそうなら、彼が体験する「悲しいできごと」が、彼が神を知ることを妨げるかということが問われる必要がある。否、否、返ってその悲しいできごとは、この世的な快楽や虚栄等から彼を解放し、彼がただ神だけに望みを置き、神を崇めるように仕向けないだろうか。
 父なる神さま。悲しいできごとに遭遇した人たちが、そのことによって、あなたを知るようになりますように。

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人はなぜ生きるのか

 人が生きる目的とは、いったい何だろうか。
 しかしもし彼が、自分の生きる目的を見いだしたとしても、その後彼がその目的に向かって進むかどうかは、実は疑わしいのではないだろうか。彼には自由意志があるからである。むしろ彼は、自分が見い出した目的自身によって、恐ろしく不自由な存在になってしまう可能性が高いのではないだろうか。そこで、私はあえてこう言いたい。
 この世界が造られた目的が存在しない以上(前論参照)、人が生きる目的もまた存在しないと。
 しかし、これは明らかに間違った洞察のように見える。というのは、もし人に生きる目的がないならば、人は死ぬしかないように思われるからだ。
 しかしここに、もう一つの可能性がある。それは、世界が造られた当初は生きる目的がなかったが、その後、いつからかそれが生じたということだ。もしそうなら、いつからなのだろうか。それは、「死」がこの世界に入ってきてからである。
 もし死が存在しないならば、生きる目的もまたないに違いない。「生きない」という可能性がないからだ。この場合「目的がない」ということそのものは、それほど悪いこととも思われない。例えば、人が一生一代の大きな恋をしたとしよう。その恋には、決して理由や目的などないだろうから。むしろその恋自体が彼の目的なのだ。同じように、主イエス・キリストの愛にも、別の目的があるわけではない。あなたを愛すること自体が主イエスの目的なのだ。
 そのように「生きる目的」は、世界が造られた当初は、そのこと自体であり、他にはなかった。しかし、人が罪を犯し、神から分離し、死ぬべき存在となったとき、「生きる目的」もまた生まれたのだ。しかしその目的がもし、何か具体的なものであったなら、上で述べたように、そのことによって彼の一生は、牢獄と化してしまうだろう。だから彼が目的を見いだした後にも自由で、無限の喜びの内にあるためには、彼にとって再び「生きること自体」が目的とならなければならない。
 これらのことから「生きる目的」は明らかである。つまり彼が神を知り、そのことにより、彼が永遠に生きる存在、すなわち死なない存在となることである。
 そうなったとき、彼の生きる目的は再び消え失せ、彼には「生きること自体」が目的となるのだ。
 父なる神さま。私に主イエス・キリストを信じる信仰による「永遠の命」をお与えください。

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2005/10/21

この世界は何のために創造されたのか

 神は全知全能だから、何かを成すための手段などと言ったものは必要ない。それゆえ、この世界は、神が何かを成すための手段として創造されたのではないに違いない。

 つまり神がこの世界を創造されたのは、他に何か目的があるのではなく、その創造自体が目的だと考えられる。(創世記 第1章1節)

 神はまた、慰めや楽しみをも必要としない充足したお方だから、この世界は、神の楽しみのために創造されたのでもなく、万物を創造することは、むしろ神の御性質の一部でさえあったと考えられる。それが自然だったのだ。(創世記 第2章2節)

 かくして、この世界や私たちは、神の御性質に従い、必然的に創造されたのであり、「何のために」との理由などないと思われる。むしろ、この世界や私たちが創造されず、存在しないという可能性は無いと言える。つまり、神がおられる限り、万物も私たちも存在するしかないのだ。

 この時間の中で、エントロピーの法則により、無秩序に向かっている世界においては、手段や戦略が重要となるが、神にはそれが必要ない。永遠の世界には、手段も戦略もない。(伝道の書第9章10節)

 私たちが「何のために」と問うのは、この有限な世界にいるからなのだろうが、真理を知るためには、永遠の世界の思いを持つ必要がある。神がそれを与えてくださる。

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