2006/03/06

出エジプトの構想

創世記 第50章

 神がアブラハムと結ばれた契約は、3代に渡るものであり、神はこの契約に沿ってご自身を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言い表された。
 創世記には、全部で3つの契約が記されている。神とアダムの契約(これは、実際には締結されなかった)、ノアとの契約(これは一方的な契約である)、そしてアブラハムとの契約(これは、信仰による、或る意味で対等な契約である)である。3つ目の契約がヤコブの死と共に満了したので、創世記も終わるのである。しかしその約束は、また出エジプト記とオーバーラップしている。神は、アブラハムにエジプト脱出までを約束されたからである。
 ヨセフは、どのようにしてそれを知ったのだろうか。おそらく父ヤコブが生前にそれを彼に告げたのであろう。しかしもしそうでなくても、彼は預言者であり、自分の生涯を省み、自分がエジプトへ売られた意味を知っていたのだろう。ヨセフが兄たちにそれを預言したとき、彼は自分が語った出エジプトの構想の真の意味を理解したに違いない。
 父なる神様。あなたが創世記の中に提示されたすばらしい真理を理解させてください。

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神の祝福と導き

創世記 第49章

 死期が近いのを悟ったヤコブは、自分の息子たちを周りに集め、彼らに預言の言葉を語った。「預言」、それは、神の全能を啓示する行為である。
 ヤコブは息子たちに、神の義を啓示した。父の寝床を汚したルベンを裁き、殺戮をしたシメオンとレビを退け、ユダを讃え祝福した。このユダ族こそ歴代の諸王を生み出し、われらの王、主イエス・キリストに続く系図を持つ部族となったのだ。
 ヤコブは、死ぬ前に自分を葬るべき場所を指示した。そこは、アブラハムとサラ、イサクとリベカ、そして彼ヤコブの妻レアが葬られているところである。彼は、自分の愛した妻ラケルをそこに葬ることはしなかった。彼は、自分の真の妻が誰であったのかを知っていた。彼の生涯は、恐れと迷いの連続であったが、それでも彼が今語った預言の言葉と矛盾してはいなかった。そして、アブラハム、イサクの神は、この普遍的なヤコブの生涯を導き、祝福された神なのだ。
 父なる神様。私の生涯が、どのように恐れと迷いに満ちていても、その全体があなたの導きと祝福で満ちていますように。

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12部族

創世記 第48章

 ヨセフがエジプトで、パロの娘との間に与えられた2人の息子、マナセとエフライムをヤコブは自分の子とした。これで彼の子は、ヨセフを除いて、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イッサカル、アシュル、ダン、ガド、ナフタリ、ベニヤミン、マナセ、エフライムの13人となり、これがイスラエルの12部族の基となるのである。
 それは、何と雑多な人種の入り交じったものであることだろう。ヤコブの最愛の妻、ラケルの子はベニヤミンだけ、もう一人の妻の子が4人、あと残りは、やこぶの妻たちの女奴隷とヤコブの間に生まれた混血であり、上で述べたように、マナセとエフライムは、エジプト人との混血なのである。
 神は、この雑多な混血民族を選び、聖なる民としてお立てになり、特別な契約を結ぼうとされたのである。神は、アブラハムからイシマエルを通じて多くの異邦人を生み出され、エサウを通じてさらに多くの人種を生み出され、イスラエルの内にも、12の多様な部族を生み出され、一人の王、王の王により、それらを一つにしようと意図されたのだ。
 父なる神様。すべての王の王なる主イエス・キリストの御姿を私の心に啓示してください。

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2006/03/01

アブラハム、イサク、ヤコブの神

創世記 第47章

 ヤコブは、エジプトの王パロの前でかれの生涯を振り返って語った。「私の人生は、実り少なく苦しい生涯でした。その齢は、私の父たちの長さには及びません。」彼は、神が彼の父たち、すなわちアブラハム、イサクのゆえにどれほど彼を守り、祝福されたかを十分に理解していなかった。そのことは、たぶんヤコブの罪として神の前に数えられただろう。彼は、パロの前でアブラハム、イサク、ヤコブの神を高らかに誉め讃えるべきであったのだ。
 イスラエルがその後、エジプトで奴隷となる運命を辿らざるを得なくなるのは、もしかしたら、このヤコブの罪のためなのかもしれない。もし、ヤコブが全能の神をその子孫にしっかりと示していさえすれば、イスラエルには、あるいはもっと違う繁栄が用意されていたのではないかと思う。というのは、アブラハムへの神の約束が「奴隷の身分」とは、どうしても不自然に思えるからである。
 しかし、そのようなことはあっても、神のイスラエルに対する哀れみは大きかった。エジプトに飢饉が続き、やがて国民が、自分の家畜や家、土地、そして自分自身までも、食物と引き替えに国王に捧げなければならなくなっても、イスラエルには、国家からただで食物が供給された。つまり、このころには、エジプト国民全体が奴隷化されてしまい、自由人はイスラエルの民以外にいなくなってしまった。そして、エジプトにヨセフのことを知らない王が起こるに及んで、初めてイスラエルの民が奴隷となったのだ。しかし、それは彼らがエジプトを脱出する一つのきっかけであり、そのような圧迫がなければ、イスラエルの民は、エジプトを出ることはなかったのだろう。そして、彼らが星の数のように増え広がり荒野に歩み出たとき、神がアブラハムと結んだ契約は、成就したのであった。
 父なる神様。旧い契約の祝福を教えて下さい。

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複数の契約

創世記 第46章

 ヨセフがまだ生きていることを知ったヤコブは、エジプトへ行く決心をした。彼は、まず何をおいても、父イサクの神に犠牲を捧げた。その点、ヤコブは非常に神に忠実であり、ここに神がヤコブを選ばれた理由がある。
 神は、夜の夢の中にヤコブに現れ、将来のご計画を彼に語られた。それをたぶんヤコブは理解できなかっただろう。なぜなら、神はイスラエルをエジプトで奴隷にしようとしておられたのだから。神は、アブラハムにはそのことを明らかにされておられた。しかしヤコブには、そのことを明らかには示されなかった。ヤコブには、自分の息子を神に捧げるような信仰はなかったのだろう。それはイサクにもなく、信仰の父アブラハムにこそ見られるものだ。それでは、神はなぜ「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言われたのだろうか。それは、神がアブラハムと結ばれた契約によっている。旧約聖書と一言で言っても、そこには実は、複数の契約があるのである。最初の契約は、神がアダムと結ぼうとされたものだったが、これはアダムの堕罪により締結に至らなかった。そこで、神は一人の正しい人ノアを通して、全人類と最初の契約を結んだ。そして、2回目に神は、アブラハムと彼の子孫を含め3代に渡る契約を結ばれた。そして次には、神の人モーセを通して、荒野で、星の数のように増えたイスラエルの民と契約を結ばれたのであった。
 父なる神様。あなたの契約の深い意味を教えてください。

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2006/02/24

聖なる真実

創世記 第45章

 ヨセフが自分のことを兄たちに打ち明けたとき、彼はやさしく語った。彼は、自分がなぜ今ここにいるのか、それは何のためなのかを語った。
 預言者は、神のなさることをすべて知っているわけではない。彼はむしろ彼が言葉を語る相手よりもわずかに早くそれを知るに過ぎない。それは、彼がどんなときにも神に信頼し、神に聞いているからである。
 一般の人の人生は、その多くの時間が自分で考える時間であるのに対して、預言者の人生の殆どは、神の言葉を聞く時間なのである。
 ヨセフと兄たちは、殆ど同じ時期に真実を知った。それは、ヨセフがエジプトへ売られてからそれまでの気の遠くなるような期間に比べれば、殆ど同時との言えるような時期であった。しかし、ヨセフの方が兄たちよりもわずかに早くそれを知ったのであった。それは、彼が預言者であったことによる。その意味で預言者は、世の人々と運命を共有しているのである。
 ヨセフがエジプトへ売られたのは、イスラエルが海の砂、空の星のように増え広がるという神の約束が実現するためであった。神は、社会性のまったくないこの民を、エジプトに養わせようとされたのである。
 そしてその後、神はイスラエルを荒野へ連れだし、そこで契約を結ぼうとされたのである。イスラエルは、そのような意味で非常に特殊な民族だ。それは、社会というものを持っていない。いつも個人対神という構造になっている。そしてそれは同時に、民族対神という構造にもなっている。このような民が他にあるだろうか。それは、神が自ら純粋培養された民なのだ。ご自身の壮大な計画をこの地上に成し遂げるために。
 父なる神様。あなたの聖なる民に連ならせてください。

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ヤコブの家への裁き

創世記 第44章

 ヨセフは、ヤコブの家に神の裁きを遂行した。「神の裁き」とは何だろうか。それは、単なる罪の精算ではない。それは、愛、哀れみ、義、威光、尊厳等々、神のご性質のすべてを現実世界の中に明らかにすることである。そのとき、現実世界はそれに耐えることがでしない。そしてそこに悔い改めと回帰が生起するのである。
 この場合の「悔い改め」とは何だろうか。それは、兄たちがかつてヨセフを裁いたことに対して、裁きは神のみが行うべきであり、人は安易に他人を裁いてはいけないという悟りである。
 また「回帰」とは、自分の力で生きてきたヨセフの家が、ただ神の守りと導きにのみ拠り頼む者となることである。
 ヨセフは、自分にひざまずく兄たちを前にして、復讐としての裁きではなく、神の代弁者としての哀れみの裁きを遂行したのだった。
 父なる神様。あなたの義と裁きを誉めたたえます。

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永遠の信仰

創世記 第43章

 エジプトの宰相となったヨセフは、食物を買いに来た自分の兄たちに荒々しく応対し、末の息子ベニヤミンを連れてくるように要求した。しかしヤコブはかつてのヨセフようにベニヤミンをも失うことを恐れて、彼を連れていかせることを拒んだ。
 食物が再び尽きたとき、ヤコブはついにベニヤミン行かせる決心をして、「全能の神がエジプトの宰相の前に好意を得させてくださるだろう」と言った。
 ヤコブの人生は、常に後ろ向きの人生であった。彼には、何という神の守りと祝福が常に伴っていたことか。しかし彼自身はそれに気づかなかった。彼は常に過去を省みて神に信頼した。しかしヨセフにはまだ見ぬ未来における神の祝福を確信する賜物が与えられていた。
 そこで、ヤコブとヨセフを比較するとき、ヤコブはイスラエルに、ヨセフはイエス・キリストになぞらえることができる。
 父なる神様。あなたへの永遠の信仰をお与え下さい。

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永遠の愛

創世記 第42章

 ヤコブは、エジプトに食物があると聞いて、食物を買うために彼の10人の息子たちをエジプトへ遣わした。
 神の祝福はヤコブにではなく、エジプトにいるヨセフと共にあったのだ。今やイスラエルは、ヤコブ一人ではなく、一つの民族であり、聖書はそのような意味で彼のことを再びヤコブと呼び直しているのだろう。
 しかし神の祝福は決してヤコブから去ったわけではなく、彼の末息子ヨセフを通して注がれ続けていたのである。神は、イスラエルの数を海の砂のように、空の星のようにするというアブラハムとの約束を遂行するために、強力な社会力を持つエジプトの中で育てようとされたのだ。
 実際、社会性という観念のまったくないイスラエルの民が、単独でそのように増え広がることは不可能であった。神は、決してイスラエルに社会性を学ばせようとはなさらなかった。後に彼らが王を要求したとき、神はそれを歓迎なさらなかった。しかし、その王でさえ、後に来られる王の王イエス・キリストの雛形であったのだ。
 父なる神様。イスラエルへのあなたの永遠の愛を誉め讃えます。

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ファラオの夢

創世記 第41章

 ヨセフは、神から与えられた力によりファラオの夢の解いた。それは、ヨセフによれば神がファラオに幸いを告げられたのであった。
 この世界には、幸いと困難が交代で起こってくる。しかし、神はファラオに困難ではなく、幸いを告げられるのである。「幸い」とは何だろうか。それは、人が神の御手の内にあるということなのである。もちろん、すべての人は神の御手の内にある。しかし、その人が幸いであるためには、それが彼に知らされる必要がある。すなわち幸いの内においても困難の内においても神が変わらずに彼と共におられることである。だから神はヨセフを通して、ファラオに幸いを告げられたのである。
 しかしここに、ファラオよりも幸いな者がいる。「幸いを告げる者」がそれである。なぜなら、彼は告げられる前にすでに幸いを知っているのだから。そして、その幸いな人がヨセフだったのである。
 しかしここに、ヨセフよりも幸いな者がいる。信仰者である。なぜなら彼は、もはや神から何かを告げられる必要はないのだから。神が彼の内に、すでに一度だけ、永遠の幸いを告げられたのだから。
 父なる神様。あなたの前で永遠に幸いな者でいられますように。

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