2005/09/22

分裂

ローマ人への手紙 第16章

 いつの世にも教会の中に分裂は起こってきた。それは当初、例えば教会運営や聖書解釈に関する若干の改良という形を取ることがある。
 それはあくまで改良であり、一見誰の目にも良いものに映る。しかし、それを実際に導入しようとすると、何カ所か実状に合わないところが発見される。
 そこで彼はその修正に掛かる。そして新たにいくつかの改良を追加する。しかしそれはもはや最前の策ではないことが彼にも薄々理解されてくる。
 誰かが異議を唱える。彼が応答する。他の人が彼を弁護する。更なる新しい案が提出される。かくしてして議論は絶対的なものから相対的なものへとシフトして行くのだ。
 そしてそのとき、改良案を提出した彼の意図が明らかになってくる。それは正に分裂を引き起こすためであった。
 主イエスさま。ただあなたの教えに照らして、然りと否を表明させてください。

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2005/09/21

宣教

ローマ人への手紙 第15章

 福音は、世界の果てにまで宣べ伝えられる。そこには、私たちと習慣を異にするたくさんの人々がいる。酒飲み、煙草飲みはおろか、人喰い人種さえいるかもしれない。
 しかしパウロは前の章で断言する。「それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。」
 神の前に汚れている民族自体は存在しない。汚れているのは、いつも個々人の思いと行いなのである。
 私たちは自分を含めて、裁かれるのは、その時々の行いなのである。
 主イエスさま。すべての時において、あなたに従えますように。

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ローマ人への手紙 第14章

「すべて信仰によらないことは、罪である。」

 罪とは神の御旨から離れることである。キリストも「あなた方は私を離れては、何一つできない」と言われた。そして、キリストもすべてを父から聞いてその通りに行っておられた。
 このことを理解する必要がある。すなわち、自由意志は、自分の考えで行動するために与えられているのではなく、ただ神に従うために与えられているということを。もし、すべてにおいて神に従うのなら、何のための自由意志なのか。それはまさに捨て去るためなのだ。
 「捨て去ること」それ自体は、無意味な行為であり得る。しかし、神のために捨て去ることは、「犠牲」であり、「捧げもの」であり、「礼拝」である。
 私たちの生活の全体が、礼拝となる必要がある。ちょうどキリストの生涯のように。そうなったとき、私たちの死さえも、犠牲、捧げもの、礼拝となり得るだろう。
 私たちがすべてを、自分の意志さえも神に捧げてしまうとき、私たちには何が残るのだろうか。いや、私たちは何も失っていない。あなたはそのときも神の前であなたのままであり、神との関係で失ったものは何もないばかりか、あなたは神ご自身を斯業として受け取るのである。古のレビ人たちのように。
 主イエスさま。私の受ける分は、ただあなたです。

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2005/09/20

権威

ローマ人への手紙 第13章

「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」
 殆どのクリスチャンは、このことを認めるだろう。しかし、だからと言って、それらの権威に従うことには、大いなる不安を抱くことだろう。ここに信仰者の戦いがある。しかしその戦いは、実は自分の信仰に関する戦いである。
 もし神が存在するなら(もちろん神は存在するが)、すべての権威は神により立てられ、それに従うことにより、私は神に従うことになる。逆に、そうならないなら、この世の権威は神に立てられたものではなく、神もまた存在しないことになる。
 私が私の所属する部署の権威に神により従うとき、私は神の権威の一連の階層構造をそこに具現化させることになる。この権威の階層構造のトップは神であり、その末端は神の子なる私となる。そのとき、神から私に向かって聖なる指令が発せられ、私の上にいる者もこの指令に従うことになる。
 極端な見解かもしれないが、信仰者の生きざまは、神の存在性さえ証しするものであり得るのだ。
 主イエスさま。あなたの立てられた権威に、天使のように従うことができますように。

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洗足

ローマ人への手紙 第12章

 「むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であり、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」

 神の御旨にかなう生き方をするためには、まず心を新たにして造り変えられなければならない。私たちが生まれてから今までに培ってきた価値観、思考習慣等々は、あまりにも偏っていて、それによっては神の御旨に到達できない。そこで、私たちはまずそれらをすべて捨ててから、自分の十字架を負って、主イエスに従うことが必要となる。
 それはまず、何でも知ろうとしないこと。神が私に日々与えられる知識を受け取り、その範囲で思考し、行動すること。次に、世界を広げようとしないこと。私の今の生活範囲に神からの使命を見出し、自分のポジションを精一杯守ること。最後に、私の思いを神に委ね、神から来る喜ばしい、活性的でかつ慎み深い態度を身にまとうことである。つまり、私の人格のすべてを神に捧げ、神のロボットと化すことである。
 しかしそれは実は不可能である。私が神のロボットと化すのを、神はお許しにならない。神は返って、私に自由意志を返却し、万物と永遠の命を賜り、ご自身が私の召使いとさえなろうとされるのだ。ちょうどキリストが弟子たちの足を洗われたように。
 主イエスさま。私の足を、決して洗わないでください。しかし、どうしてもそれが必要なら、頭まで洗ってください。

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2005/09/17

イスラエルの救い

ローマ人への手紙 第11章

 異邦人の救いが完成した後に、今度はイスラエル人の救いが予定されている、とパウロは言う。神は、愛する選民の救いよりも野蛮人のような異邦人の救いを優先されるのだ。
 それにしてもその実現までに福音を信じずに死んだイスラエル人はどうなるのだろうか。パウロの論理は、イスラエル全体をまるで一人の人のように見ているかのようだ。かつての預言者たちもそのように民族を人格視していたようだが。
 このように宣教というものは、まことに多様なものだと思う。それは一人一人の決断が前提となっているが、それはまた民族に対しても宣べ伝えられているのである。
 そして、その民族がある時点で福音を受け入れることがその民族みんな、すでに死んだ人をも含めて、その民族全体の運命の向上に貢献することのように思われる。
 主イエスさま。パウロが語っていることの真の意味を教えてください。

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福音

ローマ人への手紙 第10章

 キリスト教は、人が救われるために一連のステップを提供している。すなわち、宣べ伝えられること、それに耳を傾けること、信じること、呼び求めることである。
 しかし、これらがすべて人間の行うことであり、かつそれが時間と場所の制約の中で起こることであることから、そこに往々にして不平等が生じることになる。
 平等であるお方からの、本来平等であるべき福音が、なぜその配布において著しい不平等の中にあるように見えるのか。
 しかし、福音は本当に平等で有り得るのだろうか。言い換えれば、すべての人が福音を欲しているだろうか。つまりすべての人が神を第一にしようと欲しているだろうか。ここに至ると、もはや福音が万民のものではないことが理解されてくる。むしろ福音は、自分を捨て、神を第一として生きようと欲する、ごく一部の人々のものではないのか。
 しかし再び、そのような状態は、かつての律法時代のことであり、もはやそれは過ぎ去ったのではないか。多くの人が神を求めるようになる日が今近づいているのではないか。闇は過ぎ去り、真の光が世に輝いているのだから。
 主イエスさま。世の人々が、真のあなたの御姿を知り、真の愛を体験しますように。

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2005/09/15

イスラエル

ローマ人への手紙 第9章

 イスラエルは、神に選ばれた民である。しかしそうでありながら、彼らは歴史を通じて神に背き続けてきた。そしてそれは実は神のご計画であったとパウロは言う。
 エジプトの王パロのように神によって頑なにされた民イスラエル。「彼らは、躓きの岩に躓いた」とパウロは言う。そして神には、或る器を良いものに、他の器を悪いものに造る権限があるという。しかしパウロはまた、その躓き倒れようとする同胞のためなら、自分が代わりに呪われて、キリストから離されても厭わないと言うのである。
 このような背景から、「死後にも救いのチャンスがある」という非凡な見解が生まれてきた。聖書は、その可能性を否定していないようにも見える。キリストご自身が、黄泉に下って福音を宣べ伝えたと言われているから。
 しかしそれなら何も、あくせく宣教する必要はないということになってしまうように思える。
 私たちがこの世の知識で考えることには非情な限界がある。そこには、多くの迷宮への入り口があり、私たちが自分の考えで解決を模索する限りそれから逃れられない。大切なことは、聖書の一見矛盾と見られる記述の中に自らを置き、神と対話しながらそこを生きることではないだろうか。
 主イエスさま。聖書の奥義を教えてください。

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解放の力

ローマ人への手紙 第8章

 私たちを罪から解放する力は何だろうか。それは、神の全能の力である。キリストを死から蘇らせた、不可能を可能とする力である。
 この力が私たちの内に働き、罪に死んでいた体と心が生き返るのだ。しかし、その神の力は、私たちの信仰を通して働くのである。
 私たちは、キリストの復活を信じ、その力があるゆえに、自分の人生に死に、もはや自分の考えからは何もあえて行わないで良いと知るのだ。それはつまり、私たちが父なる神の子となることに他ならない。
 子となるとは、「アバ父よ」と語る身分、すなわち、人生におけるすべてのものを自分で得るのではなく、ただ父なる神からいただくということだ。
 これは、人生の大いなる転換であると共に、また大きな驚きでもある。私たちは、人生は自分で切り拓くものだと教えられてきた。しかし今は、すべて一つ残らず神からいただくものだと教えられるのである。
 主イエスさま。あなたの子となるということの意味を教えてください。

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2005/09/13

罪からの解放

ローマ人への手紙 第7章

 罪から解放されることは、何とすばらしいことだろうか。聖書には、「罪はもはやあなたを支配しない」と書かれている。しかし、このことが起こるためには、私たちが真に主イエスの恵みに与る必要がある。
 どのようにして罪から解放されるのか。パウロが提示しているのは、私たちがこの世に対して死ぬということである。そして、この世に対して死ぬとは、すべての望みを捨てることに他ならない。
 つまりこの世には、有益なものは何も無いと見なし、私たちがこの世からもはや何一つ得ようとは思わなくなること。それがこの世に死ぬということだ。
 しかしもしそうなら、この世は、何のために存在するのか。むしろ、この世など無い方が良いのではないか。
 私たちがこの世に対して死ぬとき、もし神が存在しないならば、そこに最悪の事態が出現する。しかし、もし神が存在するなら、そこにすばらしいことが起こる。
 一粒の麦が地に落ちて死んだとき、それに新しい命が与えられ、多くの実を結ぶようになる。ちょうどキリストが死から、永遠の命に蘇ったように、私たちも新しい人生に蘇るのである。
 主イエスさま。このことの意味を私たちが理解できますように。

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