2005/09/02

人生

使徒行伝 第28章

 人の生涯の善し悪しは、何によって評価されるのだろうか。彼の死ぬ前の生活の豊かさだろうか。「終わり良ければすべて良し」と人は良く言う。
 しかし、パウロの生涯を見たとき、そこには私たちが良い人生と認めるような要素はなにもなかったと言えるだろう。彼は生涯独身であり、家も財産も持たず、ひたすら福音のために自分自身をすり減らした。
 もし、キリストを信じる者の末路がみなパウロのような生涯だったなら、いったい誰が福音を信じるだろうか。しかし、そうではない。世の中には、幸福なクリスチャンが山ほどいる。豊かな生活をし、広い家に住み、趣味をたしなみ、学識があり、人に信頼され、権力を握り、社会に貢献し、・・・・・・。
 しかし、パウロのような人生を送る人は少ない。それは、限られた人だけに許される特権なのだ。その人に用意されている天の宝は、どれほどだろうか。それは、永遠に続くのだ。そして、その宝を分けてもらえる人はいないのである。
 主イエスさま。本当に幸いな人生について、パウロの人生から教えてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

試練

使徒行伝 第27章

 神はパウロを励まして、「あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない」と言われた。しかし今、神は彼の乗る舟に嵐を送られ、ローマ行きを妨害されるのである。
 もっとも神は決して嘘をついてはおられない。パウロは、必ずローマへ行くことになるのだから。しかしそのことは簡単に実現するのではなく、そのために神は、パウロが試練を乗り越えることを要求されたのだった。しかし、それはいったい何の為なのか。
 「何のため」ということはないのかもしれない。パウロにとっては、試練は彼の心をくじくものではなく、それは彼にとって、むしろ神のために働くと共に恵みを体験するための一つの契機に過ぎなかった。神を愛する者にとっては、喜びや楽しみよりも、むしろ困難の方が神と共にいることを強く感じられるものなのだ。
 神からの使命と約束を受け取った者にとっては、試練は一つの必然性なのかもしれない。
 主イエスさま。試練さえ私にとって喜びとなりますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/09/01

福音への姿勢

使徒行伝 第26章

 パウロの弁明は、彼自身の霊的な体験を赤裸々に語ったものであり、聞く者の理解を越えていた。
 フェストは、パウロの証言を聞き、その理路整然とした内容に感服しながらも、その内容を事実として受け入れることはできずに大声で言った。「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている。」
 福音とは、そういうものだ。人は福音を聞きながら、そのままの自分でい続けることはできない。それは、人間存在を根本から変革し、聞く者を神の所有物とするのだ。これに絶えられない者は、思わず苦し紛れに叫ばざるを得ない。「おまえは、少し説いただけで私をクリスチャンにしようとしている」と。
 しかし、彼が聞くことが多かろうと少なかろうと、彼には今聞いた福音に対して、それを受け入れるか否かの決断が強制されているのであり、曖昧な態度は許されていないのだ。だから、アグリッパ王は、この尊い福音を足蹴にし、自らに裁きを招く結果となったのだ。
 主イエスさま。私が誰の前でも福音を誇り、この地に裁きをもたらす者でありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

裁き

使徒行伝 第25章

 人を裁くことは、実は自分の立場を表明することであり、従ってそれは結果的には、自分を裁くことになる。主イエスを死に追いやった人々は、それによって実は、自分の身に裁きを招いたのであった。
 パウロを訴えていた人々は、それによって自らの信仰を言い表し、神に敵対する者となった。しかし彼らは、伝統的な信仰に熱心のあまりそのようになったのであり、それも神のご計画だったのである。
 しかし、当時の統治者たちは、彼らとは異なる対応をした。フェストの前地方総督ペリクスは、パウロの話を聞いて不安を感じながらも、ユダヤ人の関心を買おうとして彼を留置し続けた。またその後総督となったフェストは、「おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くが良い。」と事務的な扱いをした。
 統治者やその他名の通った人々は、自分の意見というものを持っていない。彼らは裁きはするが、自分の意志で裁くのではない。彼は、いわば調整役に過ぎない。しかしそのことで彼が裁きから免れているかというと、決してそうではない。彼は、神の前には存在していないようなものなのだ。そして、神の前に存在していないものは、すでに裁かれているのである。というのは、神の前に存在しないことは、許されないことだからである。
 主イエスさま。あなたの前に、存在し、あなたを愛し、あなたから愛され続けることを心から願います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/30

投獄

使徒行伝 第24章

 パウロはローマへの途上で、地方の総督ペリクスの元に投獄されたまま二カ年が経過した。
 この牢獄の中で、彼は新約聖書に収録されている多くの手紙を書いたのだろう。神は、パウロの牢獄生活における必要を満たしてくださった。ペリクスが、彼を寛大に取扱い、友人らが世話をするのを妨げなかったからである。
 パウロにとってこの牢獄は、ローマへの出陣前のしばしの安らぎの場所でさえあったのだろう。主の召命に応え、信じるままに歩み、その結果様々な困難に遭遇し、主の導きによりそれらを乗り越えてきた彼にとって、この牢獄以上に彼の名誉にふさわしい場所はなかったのだ。
 主イエスさま。あなたの大きな配慮を感謝します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

確信

使徒行伝 第23章

 エルサレムで捕らえられ、裁判にかけられたパウロには、2つの確信があっただろう。一つは、「私はローマまで行く。」という思いであり、もう一つは、「私はローマに行かなくてはならない。」との思いである。
 前者の場合は、彼の心には平安があるが、後者の場合には平安がない。自分の思いが先行しているからである。
 パウロは、自分に鞭を加えようとしていた兵卒に「ローマ人たる者を、裁判にもかけずに鞭打って良いのか。」と言った。これは余裕のある行動ともとれるし、せっぱ詰まった行動ともとれる。信仰者の態度には常にその両面があるようにも思える。
 彼はまた、自分を打てと命じた大祭司に向かって裁きの宣告をしたが、その言葉は、効を奏さなかった。
 主は彼に、「しっかりせよ。」と声を掛けられた。「あなたはローマでも、私のことを証ししなければならない。」
 パウロは、かつて彼自身が言ったように、必ずローマに行かなければならないのだ。
 主イエスさま。私に与えられた、あなたからの言葉を信じ続けることができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

群衆

使徒行伝 第22章

 パウロの必死の弁明に対して、群衆は聞く耳を持っていなかった。群衆というものは一つの人格を持つ。つまりそれは、一つの価値観によって判断を下すことをする。しかしこの価値基準は、流動的であると共に柔軟性に乏しく、往々にして惰性に負うところが多い。
 このときも彼らは、パウロは危険人物だという先入観に支配されていた。いったい群衆のうち何人がパウロのことを少しでも知っていただろうか。つまり、彼らは何か大きな力というか、彼らを包み込む流れのようなものに支配されていたのだ。
 この群衆を包み込む大きな流れを支配する者は、その時代を支配する者でもある。ときには、カリスマ的な人物がそれに成ることがある。しかし彼もまた、より大きな力に頼っているのだ。それは、霊的な力である。悪しき霊の力との破滅的な契約が彼にカリスマを与えるのだ。
 しかし神の力は、これとは全く異なる働き方をする。それは一人一人に直接的に働くのだ。神は、パウロの心に働いて、福音を宣べ伝えるための働きに彼を召した。そして次に、彼から福音を聞く者に、再び個人的に臨まれるのである。神が人々を群衆として扱われることは決してない。いつも一人一人の自由意志に対して神は決断を迫られるのである。
 主イエスさま。私の従順が永遠の決断でありますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

苦難

使徒行伝 第21章

 パウロの一行がエルサレムへ帰る途中で様々な人たちが、彼を苦難が待ち受けていることを預言した。それなのに彼は、なぜあえてエルサレムへ行ったのか。これまでの宣教と今後のローマ行きを報告するためだったのだろうか。
 しかし、彼がひとたびエルサレムへ入るや否や、宣教はそれまでとはまったく異なる様相を帯びてきた。すなわち、パウロの宣教は、一般人から隔離された、当時の権力者たちへ向けたものとなってきたのだ。
 しかし、いつの時代にも権力者が福音を信じることはなかった。だから、そのような宣教は、一見無駄のように思われる。パウロには、果たして自分のしようとしていることが見えていたのだろうか。
 たぶん彼には、あまり先を見てはいなかったのだろう。具体的には、最終的にローマでキリストを宣べ伝えることになるが、その前にエルサレムへも行かなければならないこと、そしてそこで彼を苦難が待ち受けていることくらいしか理解していなかったのだろう。
 しかし、彼は一番大事な事柄を理解していた。エルサレムでの苦難がどのように危険なものであっても、彼は最終的に必ずローマへ行くということ、そしてそれらが主の御心だということである。
 神の国の戦略は、この世のそれとはかなり異なっている。この後の章を読むと、彼は囚人としてローマへ護送されることになる。しかしもし彼が一旦エルサレムに戻らずに、そのままローマ宣教に向かったならば、何か他の方法に依るしかなかっただろう。
 神のご計画は何とダイナミックなものだろうか。それは、幾重にも備えられ、レールが引かれている。私たちは、自分の意志で道を選択するが、神のご計画は不変であり、神の私たちへの愛も変わらないのである。
 主イエスさま。あなたのご計画の中を歩むことができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/25

主への熱心

使徒行伝 第20章

 パウロは、聖霊によってローマ行きを示されたが、その前にエルサレムに戻る必要があった。異邦人伝道、とりわけローマ伝道は、支配国への宣教であり、エルサレムのクリスチャンの群れにもそれは多大な影響を与えるに違いない。パウロは、大いに身の危険を感じつつも、一旦エルサレムに戻る決心をした。
 パウロの人生を見るとき、そのすべてが神に従ったものだったのだろうかと疑いたくなる。それは、被らなくても良いような災難に会っているように思えるからである。前章のエペソにおける大騒動もそうである。彼が他の弟子たちと一緒に出発していればそのようなことにはならなかったと思われる。
 そして今度も、エルサレムへ報告と挨拶に帰ることが、本当に神の御心だったのかということは、聖書からは読みとれないようだ。そして、彼がエルサレムに戻らずに、そのままローマに向かっていれば、大きな迫害に会わずに済んだように思われる。
 パウロの博学や野心的な心が、彼にそのような行動をとらせたのだろうか。
 このように考えると、パウロのこれからのローマまでの行程の中にも、たくさんの苦難が待ち受けており、それらすべてを神がパウロに与えようとされていたものなのかどうか疑わしくも思えてくる。
 しかし、それらは聖霊が一貫してパウロに告げていたことだと彼は自ら言っている。そして、主ご自身も、「彼が私のためにどんなに苦しまなければならないかを彼に知らせよう」と言っておられるのだ。
 重要なのは、災難に会わずにスムーズに自分の使命を果たすことではないのかもしれない。自分の信じるところに従って、最後まで神への愛により、主のために働き通すことこそが大切なことなのだろう。
 主イエスさま。順境にあっても、逆境にあっても、とにかく最後まで、変わらずにあなたに従い通すことができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

順境と逆境

使徒行伝 第19章

 神はアジヤにおいて、パウロの手により、異常とも言える力ある業を行われ、弟子たちを増やし、聖霊を授け、魔術からの解放を行われた。
 パウロにとっては、自分の宣教の実を直に収穫し、神の大いなる御力を目の当たりにする心弾む体験であったのだろう。神が聖霊により、ローマ宣教を示された後にも、なお彼はアジヤに留まり続けた。ローマはパウロの故郷であった。宣教者は、郷里で働くことをきらう傾向にある。主イエスもナザレではあまり力ある業をすることができなかった。そこには、大胆な宣教の邪魔をする余計な人間関係等々がたくさん残っているから。
 しかし、神はパウロが直ちにローマへ向かうことを望んでおられたのではなかったのだろうか。一人アジヤに残ったパウロを待ち受けていたのは、そこの守護神アルテミスを巡る大混乱であった。
 神は、ご自分の愛する者をときに非情にきびしく取り扱われる。それは往々にして、次に待っている大いなるご計画への準備でもあるのだろう。
 それにしても、パウロはなぜローマへ行くことになるのだろうか。一度出てきてしまった故郷へ。
 聖書には、人がその出てきたところへ戻って行くというモチーフが繰り返し出てくる。イスラエルの民は、カナンからエジプトに移住し、再びそこに戻って行った。主イエスは、天から来られ、御業を成し終えてそこへ戻って行かれた。その他にも、バビロン捕収、ヤコブの生涯、放蕩息子等、様々な記事が、「元出てきたところへ戻る」というモチーフを継承している。
 しかし、この再び戻る場合に、戻るもの自身は、元の者のままではない。彼はむしろ新しく変えられた者なのだ。パウロは、元は単なる博学な青年であっただろうが、主イエスと出会って人生を変えられ、宣教という新しい使命を持ってローマへ戻って行くのであった。
 主イエスさま。私が福音を持って、自分の私生活に回帰するこtができますように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

おみやげの写真 そうじゃな~い! たわいのないものたち とりとめのない話 イザヤ書研究 エズラ記研究 エゼキエル書研究 エックハルト研究(参考文献:「エックハルト説教集」 田島照久編訳:岩波文庫) キリスト信仰の体験記 キリスト教の疑問 キルケゴール研究(参考文献:「死に至る病」:斉藤信治訳:岩波文庫) サムエル記上研究 サムエル記下研究 ドン・キホーテ前篇(一) ニーチェ研究(「ツアラトストラ(上)」より) ネヘミヤ記研究 ビジネスマンへの道 ブルトマン研究(著書:「イエス」より) ボンヘッファー研究(「共に生きる生活」より) マクグラス研究(歴史のイエスと信仰のキリスト:近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成) マタイの福音書研究 マルコの福音書研究 ヨハネの福音書研究 ヨブ記研究 ルカの福音書研究 レビ記研究 ローマ人への手紙研究 主イエスのしもべ 人生の問い 伝道メッセージ 使徒行伝研究 六弦 出エジプト記研究 列王記上研究 列王記下研究 創世記研究 奇跡への入口 心の祭壇 情報宣教方法論 新改訳聖書に関する疑問 新約の時代 新約聖書研究 歴代誌上研究 歴代誌下研究 死人がよみがえる 民数記研究 現代と聖書 病人をいやす秘訣 私のたからもの 続・エックハルト研究(福音信仰からの光) 続・ニーチェ研究(「ツアラトストラ(下)」より 続・ブルトマン研究(ヨハネの福音書) 続・ボンヘッファー研究(「行為と存在」より) 続・マタイの福音書研究 続・新改訳聖書に関する疑問 続・続・エックハルト研究(批評) 続・続・続・エックハルト研究(信仰の刷新を求めて) 続・続・続・続・エックハルト研究(キリストのうちに自分を見いだす) 続・続・続・続・続・エックハルト研究(神の子とされる) 続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に仕える) 続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に知られる) 続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神秘主義の光) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神との合一) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(認識の光) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(変容) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(王) 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(カリスマ信仰) 聖書に関する随想 聖書の実装 聖書の矛盾研究(「バカダークファンタジーとしての聖書入門」を読んで) 聖霊と共に生きる 聖霊の賜物を受ける 解析学研究 詩篇研究 道を走る 遠藤周作研究(「沈黙」より) 野の花 KJV翻訳:その意図 KJV翻訳:創世記