2005/08/11

天職

ヨハネの福音書 第21章

「しかし、その夜はなんの獲物もなかった。」

 獲物が無いのは当然だった。彼らは、すでに漁師をやめていたのだから。すでに彼らの漁師としての鑑は、狂い始めていたのだった。
 そのように私たちが、生涯を明け渡して主に従った後、再度元の生活に戻ろうとしても、決してうまく行かないだろう。彼が始めたことは、あまりにも大きなことであり、神聖な神の御計画に参与することであり、彼はすでにこの世のものではないものに関わってしまっているのであり、彼の波長は、すでにこの世とは異なるものになってしまったのである。そのような彼らに、主イエスは再度、招きの手を差し伸べられる。
 「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
 そのとき彼らは、かつて主イエスが彼らを召された時のことを思い出した。あのときも魚がたくさん採れた。そして、この世界のすべてを支配しておられるのは主であることを理解したのであり、今またその真理が再び彼らに啓示されたのだった。
 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。これは、かつてペテロがした「あなたこそ生ける神の子キリストです。」との告白と同じものである。
 私たちに必要なものは、ただ一つ、この告白であり、それには天からの啓示がどうしても必要なのである。
 主イエスさま。わたしにあなたご自身を啓示し、わたしの生涯を啓示してください。

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復活の御姿

ヨハネの福音書 第20章

「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。」

 主イエスの十字架がいかに神の愛を表し、神の栄光を示すものであろうとも、復活ほど栄光に満ちたものではあり得ない。
 十字架上の主イエスがいかに私たちに神の愛を啓示し、改心へ導くとしても、復活された主イエスほど力強く私たちの生き方を変革することはあり得ない。
 主の血によって、すでに購われた私たちに、次に必要なのは、復活された主イエスのお姿の啓示なのである。なぜなら、復活の主イエスこそ本来の三位の一位格としての御子の栄光に富んだお姿だからである。
 しかし、墓から出たばかりの主イエスは、まだ父も元に上られていなかった。すなわち、まだ人間の弱さを身に負われたままだったのである。
 しかし、父の元に上られ、栄光を回復された主イエスは、完全なる神であり、創造者その人であられるのだ。
 今、私たちがより頼むべきお方は、この復活の主イエスなのである。
 主イエスさま。復活され、回復されたあなたの栄光の御姿を私に啓示してください。

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この世のものでない権威

ヨハネの福音書 第19章

「あなたは、上から賜るのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。」

 権威を握る者は、権威に対して非常に敏感だ。彼は、どうすれば権威を得られ、そして保てるかを知っている。それが彼の命であるからだ。
 しかし権威は、ある意味で非常にデリケートなものだ。わずかな均衡の狂いにより、それはもろくも崩れ落ちることがある。
 ピラトは、自分の持っている権威がどのようにもろいものであるかをしっていた。そして、そんな彼が主イエスと面と向き合うことになった。そのとき彼は、今まで見たことも聞いたこともなかった、新しい権威に出会ったのだった。彼は思わず主イエスに聞いた。「あなたはもともと、どこからきたのか。」しかし、主イエスはそれをピラトに説明するための言葉を見つけることができなかった。この世のものではないものをこの世の言葉で説明することは不可能である。
 残念ながらピラトに理解できたのは、祭司長や律法学者たちの訴えであった。それはピラトにとってもあまり説得力のあるものではなかったが、ピラトに理解できたのはこれだけであったため、彼に選択の余地はなかったのであった。
 主イエスはかくして、自らの権威によって十字架刑につかれたのであった。それは、誰にも止めることができなかった。彼について書かれていた預言は、その細部に至るまで。文字通りに成就したのだった。
 主イエスさま。わたしにあなたの主権を掲示してください。

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神の計画

ヨハネの福音書 第18章

「わたしはこの世に対して公然と語ってきた。すべてのユダヤ人が集まる会堂や宮で、いつも教えていた。何事も隠れて語ったことはない。なぜ、わたしに尋ねるのか。」

 主イエスの生涯は、すべて彼に対する預言が成就するためのものであった。そして世の人々は、すべて彼に対する預言の通りに振る舞ったのであった。彼らは、主イエスの教えの本当の意味を何一つ理解していなかった。そしてそれに逆らい、妨害し、ときには自分たちの策略のために利用しながらも、預言の成就に貢献せざるを得なかった。
 しかしそれでも、主イエスご自身が彼らに協力されなかったら、「彼は罪人の一人に数えられた」との預言は、成就しなかっただろう。主イエスから見たら、この世の人々の計略は、すべて飯事遊びのようなものであったのだ。
 そして、現代を生きるクリスチャンにとっても、この世の人々の策略は、同じように飯事遊びのようなものである。彼らは、終わりの日に関する預言の成就に、我知らず貢献しているだけなのである。
 主イエスさま。わたしが目覚めた状態で、あなたのご計画に参与できますように。

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父なる神を知る

ヨハネの福音書 第17章

「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

 主イエスは、神であられたが、ご自身の栄光を捨てて、人の姿となってこの地上に来られた。このようなことが起こったことは驚くべきことだ。神にその栄光を捨てることが可能だとは。
 栄光を捨てるとは、どのようなことだろうか。それは主、がかつて持っておられた、神との親密な交わりの手段を失われたということを意味する。主は神であられたゆえに、全知全能であり、父なる神に聞かなければならないことは何もなかった。しかし、主がその栄光を捨てられた後は、父の御心を知るために、ときには夜通し祈らなければならなくなったのであった。
 彼はすべてにおいて、私たちと同じになられたのである。そして、その生涯を通じて従順を学び、激しい叫びと祈りのゆえに、父なる神に受け入れられたのであった。
 彼はその生涯により、神とはどのようなお方かを示して下さった。すなわた、主イエスを見た者は神を見たということにおいてである。それはどういうことだろうか。
 すなわち、神は主イエスと孤立して存在される方ではない。父、子、聖霊の交わりとして存在しておられる。それゆえに、人が神を見るという場合、ただ父なる神のみを単独に見るということは不可能である。神は孤立した存在ではないからだ。
 そこで、人が父なる神を見る場合、主イエスが父なる神を見るときの見方に完全に従うということが必要であり、そのことが完全になされた場合にのみ、そのとき人は父なる神を見る(知る)と言えるのである。そして、そのことは再び、人が主イエスを心に完全に受け入れ、お従いするということに他ならないのである。すなわち、主イエスを見たものは、父なる神を見たのである。
 そしてさらに驚くべきことは、父なる神を見るものは、その御心を行うのだ。だから、主イエスを心に迎える者は、父なる神の御心を行う者、すなわち、神の一人子となるのだ。
 主イエスさま。あなたのように、父なる神を知る者とならせて下さい。

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2005/07/31

真理の御霊

ヨハネの福音書 第16章

「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話して聞かせる時が来るであろう。」

 この章に書かれている主イエスの言葉と今日の私たちの状態は、何と異なっていることか。
 私たちは、会堂から追い出されたことも迫害を受けたこともない。それゆえ、他の良いこともまた私たちの身に起こらないのかも知れない。しかし天の父は、物惜しみされるようなお方ではない。だから私たちが本当に主イエスだけにより頼み.、心から彼に従うなら、この章に書いてあるような良いことが起こるだろう。
 そのとき、私たちは父なる神がまことに私たちと共におられることを知ることになるのだろう。そうなるためには、迫害がもっとも近道かも知れないが、それ以外では、私たちがこの世の見捨てられた存在となることも恐れずに、主イエスに従い、福音を述べ伝えることではないだろうか。
 主イエスさま。あなたのようにこの世に憎まれ、そして父なる神に愛されますように。

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神とつながる

ヨハネの福音書 第15章

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。」

 なんと全能の神にもおできにならないことがあるのだ。それは、無条件に私たちとつながるということだ。なぜなら、「神と私たちがつながる」ということの内には、私たちの意志自体が含まれてしまっているからだ。もし私たちがそれを望まないならば、神とつながったことにはならないのであり、この部分に神の介入できるところはないのだ。もし神が介入されれば、私たちの自由意志が阻害されてしまうのだ。
 神が私たちをそのような存在に創造されたのは、私たちへの愛からであり、それゆえ神は永遠に愛であり、永遠の愛で私たちを愛されるのだ。そしてまた、神は私たちにも互いに愛し合うことを命じられ、それと共に万物を与えようとされたのだ。
 このような神に愛されている者たちが世からは愛されないのは、ある意味で当然なのだろう。世にあっては、強く賢い者が宝を手に入れるが、神の国にあっては、自分に死んだ者がもっとも良い宝を得るのだから。
 主イエスさま。いつもあなたの愛の内にいることができますように。

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2005/07/28

三位一体

ヨハネの福音書 第14章

「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

 主イエスは、ご自身と父なる神とは一体だと言われた。この「一体」とは、「三位一体」の「一体」である。すなわち、主イエスと父なる神とは、別々の存在でありながら、一体だということである。
 主イエスはまた、このことが私たちにも起こると言われた。つまり例えば、私たちが言葉を発するとき、私たちが語るのではなく、そのとき、父なる神が私たちの内におられて、御業を行っておられるということである。
 そうなるためには、二つのことが必要となる。まず、この世界のすべてに失望し、その追求を断念し、それらから身を引くことである。次に、神に完全に魅了され、この世界の至るところに、神の良しとされるときにいつでも現わされ得る神の栄光の御業を常に期待して待ち続けることである。
 主イエスさま。まことにそのようになりますように。私はそれを心から願います。

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神の真実

ヨハネの福音書 第13章

「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」

 主イエスと係わることは、知識やただの概念上の事柄ではない。それは、実に日常的な事柄であり、むしろこの世的な関係よりもさらに深いものなのだ。主イエスは、弟子たちと分かれる時が近づいたのを知られて、彼らとの関係をいっそう良く印象付けるために一つのセレモニーを行われた。
 そのころ、外から帰った人の足を洗うのは、奴隷や僕の仕事だった。奴隷は、お金で買われてその主人の所有物となったのであり、自分からは主人との関係から逃れられない。弟子たちも、主イエスがこれから受けられようとしている苦難により、その尊い血によって買い取られるのであり、主イエスとの関係は変わることがない。そしてこの関係は、一方的なものではなく、双方向の関係である。
 主イエスは、そのことを表現したかったのだろう。つまり、主イエスも弟子たちにつながれているということである。その保証は、神の誠実であり、神はご自分が約束されたことを撤回できないのである。しかし私たちは、いつもこのことを忘れてしまいがちだ。神がどこまでも誠実なお方であるということを。
 たとえ、私たちが不真実でも、彼は真実なお方なのである。
 主イエスさま。あなたの真実をいつも覚えていることができますように。

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全能の神の子

ヨハネの福音書 第12章

「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。」

 主イエスは、全能の父である神の子であった。そして、父の元を離れて地上に来られ、私たちと同じ姿になられた。
 この地上で生きる者は、みな時間の内で生きている。時間の内で生きるとは、未来について限定されているということだ。主イエスもこの地上においては、未来について限定された知識しか持っておられなかった。それゆえに、夜を徹して熱心に祈られたのだった。
 しかし父は全能のお方であり、この地上においては、様々な方法でご自身の計画を信じるものに知らせられる。しかしそのことで、彼が賢くなるのでも、また全能になるのでもない。だから父は、ただ目的を達成するのに必要なことのみを僕たちに示されるのだ。
 主イエスは、ご自分の受難のときを知る為に、他に預言者も特別な掲示も必要とされなかった。彼は、数人のギリシア人が訪ねて来たことにより、その時が訪れたことを悟ったのであった。これは、一つの暗号と言えるかもしれない。暗号は、心の通じた者同士の間でのみやりとりされるものだ。しかし、その意味するところに疑いの余地はない。というのは、彼は直接に父と話すのではなく、彼と親しい関係にある聖霊が彼にその暗号を解読して下さるのだから。
 主イエスさま。聖霊によって、あなたの御思いを教えてください。

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