2005/07/14

主イエスのお姿

ルカによる福音書 第24章

「そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。」

 この箇所は、ちょっと考えると妙ではないだろうか。ふつうなら人を見分けるのは、顔や声であり、まして「パンを裂く様子」などではない。主イエスはたびたび弟子たちにパンを裂いて渡していたのだろう。それはいつも夜であり、薄暗い中でのできごとだったのかもしれない。そして昼は、主イエスはいつも群衆に取り囲まれておられたのかもしれない。そのように百歩譲っても、この聖書の記述は、やはり理解し難いことではある。
 マルコの福音書の対応する箇所には、「イエスはちがった姿でご自身をあらわされた。」と書かれている。また、マタイの福音書には、「そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。」とある。主イエスは、別人のようになられたのだろうか。
 私はそうだと考える。それは、弟子たちのためであり、同時に私たちのためでもある。弟子たちが、生前の主イエスに過度の愛着を持たないために、そして、現代を生きる私たちが、主イエスを直接見た弟子たちをうらやましく思わないために。
 主イエスさま。私たちとあなたとの関係が、弟子たちとあなたとの関係以上のものでありますように。

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群集心理

ルカによる福音書 第23章

「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った、」

 あれほど主イエスを慕って着いてきていた民衆が、なぜ彼を捨ててその敵となってしまったのか。おそらく彼らは、力のある者の側に着くということなのだろう。
 それが民衆心理の恐ろしいところだと思う。彼らは共に行動するだけで、共に考えようとはしない。かよわい羊のようなものだ。彼らは、常に一人一人の集合でしかない。彼らが主イエスを捨てるまでには、様々な葛藤がありもしたであろう。しかしそれらは過程的なことに過ぎず、結論は最初からきまっているようなものなのだ。
 しかし、民衆ではない者は、これと異なる反応をする。まずピラトとヘロデである。彼らは、主イエスに何も罪を見いだせなかった。それは正しい判断であった。彼らは、民衆心理に捕らわれてはいなかったのである。
 主イエスが十字架を負ってゴルゴダの丘へ向かうとき、大勢の民衆が悲しみ嘆きながら後をついていった。群衆は権威の隙間を縫って様々な反応をする。しかし、主イエスへ下された刑罰を変える力はない。この羊の群を牧しているのは、もはや主イエスではなく、闇の力なのであった。
 しかし群衆の中にいる人が、死という究極的な状況に直面したとき、彼はふと我に変えることになる。人が死ぬときは、みな一人だからだ。彼は突然群衆から連れ出され、一人神の前に立つことになる。
 主イエスと共に十字架につけられた強盗の一人も死に直面し、群衆から連れ出された。そのようなときに、彼が歩いてきた人生において、彼がどれほど一人の人間として歩んできたかが分かるのだ。もう一人の強盗は、最後まで群衆の一人、つまり羊のままだった。
 最後にもう一人、群衆から抜け出た人がいた。アリマタヤのヨセフである。彼の場合は、死に直面したのではなかったことが特徴的である。では、何に直面したのか。それ信仰だった。彼は主イエスと出会って、彼を信じる信仰を与えられ、その後の彼の生涯を主イエスに捧げたのであった。
 主イエスさま。私の残りの生涯を、ただあなたのために生きることができますように。

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2005/07/12

闇の力の時

ルカによる福音書 第22章

「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。」

 何という暗い雰囲気がこの章全体を覆っていることだろう。
 律法学者やパリサイ人たちは、民衆を恐れていたので、その手前、主イエスを捕らえることできなかった。そこで民衆のいない夜にユダとの間で主イエスを買う取引きをしたのである。それは、闇の支配の時であった。民衆もこの闇の力には勝てなかった。主イエスを捕らえた者たちが彼を大祭司の邸宅へ連れ込んでしまうと、民衆はその前に、単に力の無い一人一人の集合でしかなくなった。今まで主イエスを取り巻いていた群衆は、蜘蛛の子のように散ってしまった。そして、一人一人が主イエスの事実上の敵と化していった。
 今こそ闇の力は、その牙をむき始めたのであった。それにまず驚いたのは、ユダ自身だったかもしれない。その闇の力のあまりの変貌ぶりに、事の重大性に気づいた彼は、契約を解消しようとしたが、もはや手遅れであった。
 増大する闇の力は、底知れない恐怖を醸し出す。それは、生きるものに人生の目的を見えなくさせる。今まで成してきたことが、すべて無駄だったように思わせるのだ。その前に、主イエスにどこまでも従って行くとのペテロの決心は、跡形もなく崩れ去った。
 一人、また一人と闇の力にばらばらにされていく弟子たちを見ながら主イエスは、孤独な戦いを余儀なくされていった。闇の力が総力を上げて彼に襲いかかった。
 しかし主イエスご自身は、すでに闇の力に勝利しておられた。ゲッセマネの園で。それは、すべて計画されていたことだった。そしてその計画が滞り無く実施されるために、法廷における主イエスの証言も必要であった。彼は、ただそのためだけに、口を開かれた。
 闇の力は、今このときに襲ってくる。しかし、天の前にはすべてが天地創造の昔から計画されたことなのである。
 主イエスさま。闇の支配の時においても、あなたの勝利を実感させてください。

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私たちの救い

ルカによる福音書 第21章

 「これらの事が起こりはじめたら、身を起こし頭をもたげなさい。あなたがたの救いが近づいているのだから。」

 ここで主イエスが言われている「あなたがたの救い」とは、いったいなんだろうか。というのは、わたしたちはすでに救われているのだから。
 これは、「苦しみからの救い」と解釈できると思う。しかし「患難前携挙論者」のような意味ではなく、「被造物自身が産みの苦しみを続けている」と聖書にあるその苦しみからの救いである。この苦しみは、アダムが罪を犯したときから始まった。神が「あなたは額に汗して収穫を得、ついに塵に帰る」と言われたからである。
 そこで「私たちは今、苦しみの中にある」と私は考える。神を知らない人々だけでなく、心から主イエスに従い、主イエスに仕えつつ生きようとするものも、みな苦しみの中にある。神は分け隔てなさるかたではない。聖書を偏見なく読む者は、これに賛成してくれるのではないだろうか。パウロも「私たちが神の国に入るためには、多くの患難を経なければならない。」と言った。
 もちろん、クリスチャンとそうでない者との間には、雲泥の差がある。それは苦しみの意味についてである。神を知らない人は、この世界において根本的な孤独の中にある。彼は自分を愛しておられる方を知らない。しかしクリスチャンは神を知っている。神がどれほど自分を愛しておられるかをも。しかし、それは主イエスもそうであった。しかし主イエスは、地上で誰よりも苦しまれたのであった。愛する者の苦しみを通して罪人を救うというのが、神のなさり方のようだからである。
 そこで私たち信じる者もそのような苦しみの中にある。そして主イエスが、「あなたがたの救い」と言われたことが成就する日は、審判の日であり、神の義が明らかにされる日であり、私たちの喜びの日なのである。
 主イエスさま。私たちの救いの日に、あなたの前に恐れずに立つことができますように。

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2005/07/09

知恵と徳

ルカによる福音書 第20章

 主イエスは、預現者として来られた。そして歴代の預現者と同じ運命を辿られたのだった。預現者は、神から遣わされたものであり、その権威は人社会からではなく、神から直接に与えられるのであり、主イエスがバプテスマのヨハネの権威に言及されたとき、このことを言われたのである。
 そして続けて主イエスは、ぶどう園
の例えを話されたが、それはかつて預現者イザヤがその働きの始めに語ったものであり、祭司や律法学者にはその例えが自分たちを指して言われたことが痛いほど良く分かったのであった。
 しかし主イエスは、また預現と律法の完成者として来られたのである。彼には、神のすべての知恵と徳が形をとって宿っていた。彼は神ご自身であったのであり、この知恵の前には、祭司や律法学者の知恵は、無きに等しいものだったのである。
 主イエスさま。わたしの人生の中にあなたの知恵と徳を現して下さい。

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時の徴

ルカによる福音書 第19章

 ザアカイは取税人であったが、メシアがきたことを察知して、彼を家に招き入れ、その出会いによって彼の人生は根本から変わってしまった。
 主人から1ミナを預かった僕は、出て行ってそれを基に10ミナを稼いだ。
 主イエスが苦難を受けるためにエルサレムに入場されたとき、乗るためのロバが用意され、人々はシュロの枝を道に敷き、「ホサナ」と叫んだ。
 しかしこのように時の徴を見分けたのは、ごくわずかの人々だけだったのであり、多くの人はそれを知らずに、旧態依然とした生活に甘んじていた。そのためにエルサレムはローマ軍によって破壊されてしまうのである。それ以来イスラエルの民は、世界中に離散し、地上をさまよう放浪者となってしまう。それは、20世紀にイスラエル王国が再建されるまで続くのである。
 神の国の一つの特徴は、そこに入る者とそうでない者との落差が大きいことである。それはまるで裁判のようだ。裁判には、有罪か無罪かがあるだけであり、その中間は存在しない。紙の国もそれと同様である。それはまさに裁判なのだ。
 主イエスさま。私が世界の審判者であるあなただけを恐れるように導いてください。

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2005/07/06

神の国に入るために

ルカによる福音書 第18章

 主イエスは弟子たちに、神の国に入るために必要な態度を具体的に教えられた。
 まず、あきらめずに祈る信仰と忍耐。次に自分を他人より低くする謙遜。さらに真理を偏見なく受け入れる純真な心。律法の精神を理解しそれを実行する良心である。
 神への愛からこれらのことを心から求め、主イエスに従って行くことを願うものこそが神の国にふさわしいのだ。
 主イエスさま。私があなたにどこまでもお従いして行けるようにお助けください。

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誘惑への対処

ルカによる福音書 第17章

 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」

 神の国がこの地上においては、見られるかたちで来るものではないことから、私たちは私たちを信仰からそらす誘惑に対処する必要がある。
 主イエスが教えられたのは、信仰と謙遜であり、神の人モーセがこの二つを兼ね備えていた。
 次に時代の徴を見分けることである。そのために、神の言葉をいつもこころに持ち続け、思い巡らしている必要がある。最後の日は、聖書に記されているようにやってくるのだから。そのとき私たちは、主に向かって信仰の目を上げるのだ。
 アーメン、主イエスさま、来て下さい。

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生きる態度

ルカによる福音書 第16章

 この章には、人生を生きるときの二つの態度が記されていると思う。
 一つ目は、富に仕える態度。二つ目は、神に仕える態度であり、この二つは両立しないのだ。
 ある金持ちの家令は、最初は富に仕え、主人の財産を浪費していた。しかし、それが発覚して自分の地位が危うくなったとき、まったく違う富の使い方を始めた。それは、借金を棒引きすることにより、友を作ることであり、「この世の富」という目に見えるものから、「人間関係」という目に見えないものへ彼の最大の関心が移ったのであった。そして、その延長上に神に仕えるという態度が位置づけられてくる。神こそが全地の所有者であり、最大の友だからだ。このことを理解した者は、自分の富を神の栄光のために使うようになる。そしてそのことが彼を永遠の住まいに導くものとなるのだ。
 そして律法と預言者が、この神を愛し、隣人を愛するという二つの態度に掛かっていると主イエスは言われたのだ。
 主イエスさま。私がただあなただけにお仕えできますように。

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2005/07/05

永遠者の視点

ルカによる福音書 第15章

 聖書には、いくつかのモチーフが繰り返し現れる。その中の一つがこの「放蕩息子」のモチーフである。すなわち「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかる。」ということである。そしてそのとき天に大いなる喜びがわき起こる。
 しかし、神の全能との関係から私たちがこのことを思いめぐらすとき、一抹の疑問を抱かざるを得ない。つまり、神ともあろうお方が、なぜ何かを失うということをしてしまったのか、ということである。そして、そこになにがしかの意図的な要素を想定したくなる。これが予定論の糸口なのだろうが、それでも次の更なる難解な疑問が湧いて来るのを止めることはできないだろう。すなわち、なぜそのような「無駄な」ことをなさるのか、という疑問である。
 有限の世界で、時間に取り囲まれて生きている私たちは、このように考えざるを得ないが、このことを理解しようと望むなら、私たちは永遠者の視点からものごとを見る必要がある。
 つまり、まず信仰に立って「それは必要なことだった」と考える。そして次にみ言葉を読むことだ。み言葉には「天に大いなる喜びがあるだろう」とある。つまり「出て行くことと帰って来ること」これが神の大きな喜びだということだ。
 しかし再び私たちは、このことを永遠の視点から見る必要がある。この「出て行くこと」と「帰って来ること」この二つは永遠の中では一つのことだ。永遠の中では、すべては一つだからだ。さらに「出て行くこと」という表現は、この有限な世界での表現であり、これを永遠の世界の表現に変えると「出て行く能力」となるだろう。そしてこれと「帰ってくる能力」が一つであるとは、この二つが統合したものが私たち人間であり、神は私たちをそのように自由意志を持ったものとして創造されたのである。そして「天に大いなる喜びがある」とは、この二つの能力が共に永遠の能力として確定し、統合され、神が最初に人間を創造されたときの状態になることにより、「すべてが良い」ということになるのだろう。
 主イエスさま。私が永遠にあなたの僕となることができますように。

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