2005/06/08

イエスの復活

マルコによる福音書 第16章

 主イエスの復活は、一つの恐怖である。まず、死人が蘇るということ自体、気味の悪いことだ。たとえそれが身内のものであっても。
 次に、主イエスを十字架に付けた者たちにとっては、それは限りない恐怖であろう。
 次に弟子たちにとっても一つの恐怖でありうる。彼らは、主イエスの死により、また以前のある意味で平穏な生活に戻り始めていたであろうから。しかし今。自分たちを支配し、見知らぬところへ連れて行く存在が蘇ったのだ。
 この世界の視点で、主イエスの復活を見るとき、それは恐怖と写る。弟子たちや女たちが、主イエスの復活に接し、恐れたり疑ったりしたのは、そのためだと思う。そして今日においても、もし私たちに神の掲示がないのなら、主イエスの復活は、同じように恐怖と写ることだろう。
 というのは、使徒行伝における初代教会のような伝道を今日の教会が行ったなら、たぶん多くの教会員は、教会から出ていってしまうだろうから。それは多分、聖霊の迫りと励まし、慰め等により、初めて可能となるのだろう。
 しかしそういうことはあっても、主イエスの復活は私たちにとって大きな喜びでありうる。しかしそのことは再び、私たちの主イエスに対する従順と信仰の上に成り立つのである。
 主イエスは、復活してから言われた。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」この命令を真摯に受け止め、その実現のために人生を捧げる者だけが、主イエスの復活を真に喜ぶことができるのだろう。
 主イエスさま。あなたの大宣教命令を私に実行させて下さい。

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イエスの死

マルコによる福音書 第15章

 「ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。」 マルコ15:44
 マルコ福音書では、イエスの十字架刑は、この第15章に納まってしまっている。
 人の一生は、時としてとてもあっけないものに見えることがある。かつてピラトは、メシアの誕生におびえ、その来臨を阻止するために、たくさんの幼児虐殺まで行った。そして、ある時ついにその恐れていたメシアがエルサレムに現れた。しかし捕らえられて裁きを受けるために自分の前に引き出されたメシアは、何と弱々しく見えたことか。そして彼は、自らメシアに死刑判決を言い渡した。そのメシアがついに息を引き取ったのであった。何とあっけない最後だったことだろう。
 しかしこの世界全体は、そうは受け取らなかった。全地は光を失い、地は震えおののき、数十センチもある分厚い神殿の幕が、上から下まで真二つに裂け、墓から死人が蘇った。イエスを見ていた百卒長は、これらのことを見て「まことにこの方は、神の子であった」と言った。
 主イエスさま。あなたのご生涯の偉大さに目を開かせて下さい。

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2005/06/03

新しいものの始まり

マルコによる福音書 第14章

 この世界には、一つの法則がある。それは、完全なものが現れるために、不完全な物が捨てられるということだ。
 ひとりの女が高価な香油を浪費したとき、主イエスへの彼女の完全な愛が表されたのだった。また、イスラエルの永い歴史を通じて守られてきた過ぎ越しの祭りは、神の小羊主イエスの十字架上の死による完全な購いにより廃止されることになった。さらに、見事な石で築かれた立派な神殿が壊され、聖霊により私たちの心の中に、天の父を崇める完全な神殿が建てられたのだ。
 また、裏切り者が出て行ったことにより、真にイエスに従う者だけがそこに残ったのだ。しかしそれもまたもろくも崩れ去るべきものに過ぎなかった。完全な従順は、ペンテコステまで待たなければならなかった。そのとき、神の律法が信じる者の心に書き込まれたのであった。
 裁判で、それまで一言も答えなかった主イエスが初めて口を開かれたとき、彼は新しい言葉を語った。天地が始まって以来、それまで誰も語ったことのないことを。それは、まるで天地がひっくり返るようなことだった。
 そして彼がそれを語ったとき、彼に向かって死刑の判決が言い渡された。しかしその判決は彼を通り越して、実はその宣告者である、この世界すべてに向けられていたのだ。というのは、彼は万物の創造者であり、万物の運命を支配しておられたからだ。彼が語ったのは、次のことだった。
 すなわち、今大祭司の目の前にいる被告が、実は全能の神ご自身であり、やがてこの古い天地は終わりを告げることになっていること。そしてそのときに、彼自らが雲に乗ってやってきて、すべての人を裁き、新しい天と地が始まるということだった。
 主イエスさま。あなたこそ万物の支配者です。私が新しい天と地に望みを置く者でありますように。

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主の預言者として

マルコによる福音書 第13章

「神は、・・・、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。」 ヘブル1:2
 主イエスは、預言者の一人であった。しかし彼は同時に神であった。つまり預言者に言葉を与える方でもあったのだ。だからこう言われた。「だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。」そして彼は、世の終わりの日に起こることを預言されたのだった。それは、私たちがその語られたメッセージを今の時代に語るためだったのだ。
私たち一人一人が神から遣わされた預言者として。
 私たちはこの時代にどのようにメッセージを語るべきだろうか。それは、今もう「人の子が戸口まで近づいている」ということ、すなわち主の再臨が近いということであり、だからみな「悔い改めるべき時」であるということである。このメッセージは、かつてバプテスマのヨハネが主イエスの顕現に先だって語ったと同じものだ。神は首尾一貫した方法でこの世界と関わられる。そしてその方法を尊重する人を用いられるのだ。
 しかし主イエスはここで警告しておられる。「あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長老たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。」「また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。」私たちが神の首尾一貫した、この世界へのアプローチに従うとき、私たちの境遇もまた神の前に首尾一貫したものとなる。すなわち、そのとき私たちも、預言者が受けてきた迫害を受けるということである。
 それでは、私たちをして、あえてそのような境遇に連れて行くところの動機とは何であろうか。それはまず、主イエスへの燃えるような愛、次にこの世界に生起する諸現象の主イエスの言葉に基づく観察と考察、最後に聖霊の内なる声へのたゆまぬ傾注であろう。
 主イエスさま、私がこの世界に対して、一人の預言者であり続けられますように。

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2005/05/04

永遠に続く一瞬

マルコによる福音書 第12章

 主イエスは、神の知恵を持っておられたゆえに、当時の知識人の知恵に遙かに勝っておられた。そればかりではなく、この方の内には、全宇宙を創造された神の知恵と慈しみ、力と権威等々、神のすべてのご性質が形を取って宿っていた。ここで主イエスは、パリサイ人、サドカイ人、律法学者に優しく慈しみを持って語られた。彼らも主イエスにとっては、失われた一匹の羊だったのである。
 しかし、また主イエスにとっては、それら知識人の知恵も無きに等しいものだった。人の知恵は、神の知恵の前では、愚かな一遍の知識にすぎない。私たちは、どんなに修行を積もうが、本を読もうが、それによって天国の知識に到達することはできない。この地上で取得できるのは、所詮この地上を生きるための知識でしかないのだ。しかし、この地上の生涯の後には、天国の生活が待っている。そのとき私たちは、この地上では、本当に何も学んではいなかったことを知るのだろう。
 主イエスは、当時の知識人たちが持っていたこの世の知識には興味を示されなかった。しかし、主イエスが非常に興味を示されたことがあった。それは、献金箱に誰がどのくらいお金をいれるかということであった。この実際の行動、つまり自己犠牲の量だけがその人がどれだけ天国に近いかを表していた。
 多分天国には、知識などはないのだろう。すべてがすでに認識されており、もうそれ以上新しいことを知るということもないし、新たに何かを得るということもない。新しくなるものがあるとすれば、それは神との関係である。それは、一度表明すれば良いというものではなく、つねに更新され続ける必要がある。私が存在する限り、私と神の関係は、常に表明され続ける必要があるのである。しかしそれは、再び永遠の世界のできごととして生起するのである。つまり、一瞬の決断、献身の決心等が、私たちの神への姿勢を表わすのだ。それは、そのままこの世界の一瞬一瞬の決断なのだ。だから、私たちは一瞬一瞬を神への信仰の表明として生きる必要がある。あの貧しいやもめが献金箱に投げ入れた生活費には、そのような重みがあったのだ。
 主イエスさま。私が日々の生活の一瞬一瞬において、あなたを第一にすることができますように。

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2005/04/30

天国への備え

マルコによる福音書 第11章

 主イエスのなさることは、私たちには奇異に写る。
 彼は、つないであるロバの子を無断で解き、それに乗られる。いちぢくの生る季節ではないのに、それに実が無いと言って呪う。するといちぢくの木は枯れてしまった。また、宮で売り買いしている人々を鞭で追い出した。
 これらの一見奇異な行動は、何を意味するのだろうか。それは多分、それが霊の世界の、あるいは天国の現実だということだろう。
 天国では、すべてが矛盾無く整然と生起する。主イエスが御要りようなものがそこに無いなどということは絶対無い。そればかりか私たちに必要なものさえ、そこに無いということは有り得ない。天国においては、私たちが必要と信じるものは、いつでもそこにあるのである。それを地上の生活で表現すると、「攻め取る」、「奪い取る」というような表現となる。
 私たちが聖書を偏見無く、そこに書かれている一つの言葉もおろそかにしないように読みとり、それに従って生きるならば、私たちはこの世界に暮らしながら、聖書から天国のことを学び、今から、そこに入るための心構えをすることができるのだろう。
 主イエスさま。聖書から私たちに天国のことを教えてください。

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妥協の世界

マルコによる福音書 第10章

 この世界で運用されている様々な慣習や法律は、みな多かれ少なかれ妥協の産物だ。モーセが離縁状を出すことを許したのもそうだった。
 私たちは、長い間人生を生きてきて、そのような慣習に慣れてしまったために、律法の妥協的な精神が現実であるかのように思ってしまうのだ。私たちの心をこの世界の慣習が殻のように覆っている。それはこの世においては、様々な誹謗中傷から私たちを保護してくれるので、私たちはそれを頼りにしてしまうのだが、それは実は時が来るともろくも崩れ去って行かざるを得ないものだ。そしてその殻が取り除かれるとき、私たちの内部にいかに骨が無く、甲殻類のようであったかが分かるのだ。
 しかし主イエスは、天国に入るためには、幼子のような純粋性が必要だと言われた。私たちは、天国に入る前にそれまでの人生で得てきたすべてのものを脱ぎ捨てる必要がある。人生を生きるためのどのような知恵も、天国には携えて行くことができない。天国に持っていけるのは、ただ幼子のような純粋性と燃えるような主への愛である。
 私たちは、できればこの地上にいる内に、天国に行くための準備をしたいものだ。そのためには、私たちの内にある既成概念を取り除き、私たちの命が尽きたときになくなってしまうようなものは、思い切って捨ててしまうくらいの思い切りが必要だろう。
 そのようにして私たちがこの世界の様々なものから自由になり、天国に向かって歩み始めるとき、だんだん私たちは、この世界からはみ出した存在となってくる。そしてどこかこの世と波長が合わなくなってきて、今までうまく行っていた日常が、楽しかった毎日がどこかギクシャクしてきて、このままではだめで、何とかしなくてはならないように思えてくる。それらのことに私たちはどのように対処すべきだろうか。
 しかし私はこう思う。すなわち、それは対処不可能なことなのだと。主イエスもそれに対処されなかった。彼は、天国の法則に歩んだ報いをこの地上で受けられた。それはある程度、彼に従って歩む者たちの運命でもある。主イエスは、ご自分の近い生来を見越しておられ、エルサレムに顔を向けて進んで行かれた。そしてその先には十字架が待っていたのである。
 主イエスさま。私が、自分の十字架を負ってあなたにお従いできるように導いてください。

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2005/04/23

高い山

マルコによる福音書 第9章

 高い山に登ったとき、主イエスは弟子たちの前で変貌した。その御衣は、いままで見たこともないほど、白く光り輝いた。私たちは、光り輝く主イエスとお会いするために高い山に登らなければならない。この世界の諸々の思い煩いから離れて、祈りの坂道を登り、遙かな高みに立つ必要がある。そのとき私たちは、主イエスの光り輝く本当の姿を見るのだ。
 そして私たちは、そのとき我を忘れて主イエスに向かって語るかもしれない。「主よ、私が今ここにいることは、すばらしいことです。あなたを知ったことは、モーセやエリヤを知ったのと同じくらいすばらしいことです。いつまでも私の内に留まってください。モーセやエリヤと共に。」
 しかし私たちにとって、主イエスはモーセやエリヤと同じような預言者ではない。彼は、すべてのすべてなるお方なのだ。彼こそは、永い歴史の中でただ一人神の御心にかなう者。私たちは、心の中に小屋を三つも建てる必要はない。私たちの前には、いつも主イエスただお一人だけがおられるのである。
 ああしかし、私たちが山を降りるとき、この世の様々な事柄が、再び私たちを捕らえる。そこは、主イエスとお会いするには何と不適切なところだろう。不信仰な人々に囲まれて、主イエスは叫ばれた。「私はいつまであなた方に我慢できようか。」
 しかし主イエスは、それでも私たちから離れて行かれたのではなかった。むしろ彼は、そのような私たちと共に生活し、私たちの為にご自身の命さえも捧げようとされたのである。
 私たちも今、この不信仰な世に住んでいる。そして、様々な悲しい事件や心を荒立てざるを得ないような仕打ちにあうこともある。しかし、私たちの内におられる主イエスは、私たちが住むこの世界に留まることを欲し給う。だから、私たちは落胆してはならないだろう。私たちは、主イエスを世に表すためにここに生きているのだから。
 主イエスさま。この世界のあちこちにあなたを持ち運ばせてください。

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2005/04/20

悟りと業

マルコによる福音書 第8章

 パリサイ人が「しるし」を求めたとき、主イエスは「しるしは、今の時代には決して与えられない」と言われた。この「しるし」とは、「証明」のことである。主イエスは、病人を癒し、悪霊を追い出し、神の言葉を解き明かしたが、それらのすべてが彼が来るべきメシアであることの「しるし」であった。それに対して、パリサイ人は、もっと違う公式な効力のあるものを要求したのだった。
 今日においても、私たちが主イエスのお役に立つために何か、公式な証明が必要になるのだろうか。ときにはそうかもしれない。たとえば、教会を牧するときには、神学校の卒業証書とか、牧師の免許状とかが、もしかしたら必要になるかもしれない。それは、秩序を保ち、混乱を避けるために必要なことだろう。
 しかし主イエスは、そのような証明を何も必要とされなかった。主イエスが必要とされたのは「悟り」であった。「悟り」とは何だろうか。それは「超自然的な理解」ということができる。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とをよくよく警戒せよ」と主イエスは言われた。
 五つのパンを五千人に分け、七つのパンを四千人に分けたとき、主イエスはそのことを通して弟子たちに超自然的な理解(悟り)を期待しておられたのだ。パリサイ人が頼りにしているような、何かこの世的な証明ではなく、神から直接に与えられる確信である。この世の権威は「紙ペラ」を要求する。しかし主イエスが与える権威が要求するものは、そのような燃え尽きてしまうものではない。それは、天から心の奥底に書き込まれる確信である。ペテロは、この確信を告白したのだ。
 今日、私たちがクリスチャンであることを証明するものはなんだろうか。それはまた同時に天国の鍵でもあるのだが。それは「悟り」と「業」と言えるだろう。すなわち、天から啓示される「イエスは主である」との確信と、それにより与えられる主イエスの弟子としての「神の僕としての業」である。
 主イエスさま。あなたが主であるということを私に啓示してください。

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明暗の中の悪

マルコによる福音書 第7章

 パリサイ人や律法学者たちは、昔からの言い伝えを堅く守っていた。
 「言い伝え」は、初めからあったものではない。それらは、ある時につくられ、それ以来ある人たちの間で堅く守られてきたのであった。そのようなものは、往々にして時代の流れに耐えられない。それらは、時間の流れを止めてしまう。作られたものは、みなそのようなものだ。作られたものは、みな古びて行く。しかし、もっと古いものがある。それは、決して古くならず、常に新しい、その中に命がある。初めからあったものは、みなそうである。
 昔からあったものが二つある。一つは良いもの、もう一つは悪いものである。悪いものは、良いものの反対として生まれた。この世界では、たくさんのものが生まれ、また消えていくようであるが、実はそれらは、霧のようなものにすぎない。それらは、昔からあった、良いものと悪いものを反映しているのである。
 良いものは神から出て、御子を通して信じる者に与えられる。悪いものは、悪魔から出て人間の心を誘惑し、良いものを破壊しようとするのである。
 しかし、これを知っておく必要がある。つまり、悪いものは良いものの陰だということである。だから、良いものが来るとき、悪いものは退散しなければならない。しかし、この世界は良いものと悪いものが混在するところであり、その中を生きる人間の心の中もそうなのである。
 神は、人間を良いものとして創られた。しかし、人が罪を犯したため、人の中に明暗ができてしまった。そのような場所では、悪は決して力の無い存在ではない。悪は人を欺くことにより、その勢力を増大させることができるのだ。
 しかし、主イエスの中には、暗いところが一つもなかった。そのような存在は、悪に打ち勝ち、それを侵略する。悪は善の前に後退せざるを得ない。そして、もしクリスチャンが主イエスの完全な弟子になるならば、彼らは、主イエスのように悪を駆逐する存在となるだろう。
 主イエスさま。私がクリスチャンとして、あなたに完全に帰依することができますように。

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