2005/04/13

悪魔にとっての恐怖

マタイによる福音書 第28章

 主イエスが十字架上で死なれたとき、恐ろしいことが起こった。死人が甦ったのだ。悪魔の力は、死によって働く。しかし、死人が甦るとき、悪魔の力は役に立たなくなる。
 死人が甦るのは、私たちにとっても恐ろしいことかもしれないが、それは悪魔にとっては、限りなく恐ろしいことだろう。主イエスは、かつてラザロを甦らせた。このとき、悪魔はどう思っただろうか。たぶん言い知れない恐怖を感じたに違いない。しかし、その後悪魔は、もう一度気を取りなおして、このように言ったのではないだろうか。「なあに、ラザロはまた死ぬだけのことだ。」
 しかし、今度ばかりは違う。「私は甦りであり、命である。」と言われる方がおられる。その方は、死から甦り、天へ帰って行かれた。そして、今も生きていらっしゃるのである。この方だけが、真に新しい体に甦り、そして今も生きていらっしゃる。それは、この世界が始まって以来のことであり、悪魔が気が狂わんばかりに恐れることなのだと思う。そして、その方がまた約束された。「私を信じる者は永遠の命を持つ。私は、終わりの日に彼を甦らせる」と。
 主イエスは、その生涯を通して、贖いの業をすべて一人で行われた。それに直接に関わることのできた者は、だれもいなかった。これは、主イエスご自身の戦いであり、御業であったのだ。ある者は、それと知らずに預言をし、またある者は、それと知らずにロバや家を提供し、ある者は、それと知らずに死刑の決定を下した。
 しかし、主イエスが復活されてからは、そうではない。厳密には、聖霊が来られてからは、そうではなくなった。私たちは、主イエスの心を持つことを許されるようになった。そして、聖霊により、信仰により、主の戦いに直接に参画する者とされたのだ。
 主イエスさま。私をあなたの戦いの勇士として用いてください。

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最大の戦い

マタイによる福音書 第27章

 過越の子羊は、すでにほふられた。主イエスは、その生涯における最大の苦痛をすでに乗り越えられた。
 総督の前に立たれた主イエスの姿は、何と雄々しいことだろう。それは、かつて自ら弟子たちの先頭に立ってエルサレムを目指して進んで行かれたときのお姿のようだ。しかし今度は、果てしない肉体の苦痛が待っている。しかし主イエスは、ダビデのような若獅子であり、これは歴史上で最大の戦なのだ。主イエスは、この戦にただ一人出陣し、ダビデのように勝利を得られたのだった。かつて歴史上の誰も戦って勝ったことのない相手。ダビデをさえも巧みに打ち破った強者。その悪魔と戦って、主イエスは勝利を得られたのだった。実に、創世記の第2章にすでに書かれていた、永い永い戦いの勝負がこのとき決まったのであった。
 主イエスさま。私はあなたが耐えられた苦痛を嘆くよりも、あなたが行われた戦いの勝利を賞賛いたします。それがあなたにふさわしいことだからです。

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過ぎ越しの祭り

マタイによる福音書 第26章

 主イエスは、過ぎ越の祭りの最中にローマ軍に捕らえられた。主はそのことを祭りが始まる前にあからさまに弟子たちに打ち明けられたのだった。喜ばしいはずの祭りの前に。
 主イエスこそは、本当の過越の子羊だったのだ。この祭りは、正にこのときのために何百年もの間、守られてきたのだ。たった一度のこの過ぎ越の日のために。目の前でパンを裂いている人がほふられるべき子羊であることを弟子たちの内の誰一人、理解していなかった。
 その場には、何かこう緊張した雰囲気が支配していたのだろう。苦菜や子羊の肉はどこにあるのかと誰も聞いた者はいなかったようだ。もし聞かれたなら、主イエスは、かつての信仰の父アブラハムのように、こう答えられたのではなかっただろうか。「友よ。神ご自身が、過越の子羊を用意していて下さるのだ」と。
 この日が過越の日であったのなら、まさにこの日に災いが過ぎ越されたのだ。それはまことに恐ろしい夜だった。かつて、初めの過越の日に、エジプトに大いなる悲しみの叫びが起こった。その日には、エジプト人の家で死人のない家はなかったからであった。しかしこの日には、悲痛な叫び声を上げたのは、ただ一人だった。主イエスは、ただ一人で真正の過越の祭りを祝われたのだ。自らをほふり、自ら初子となって、虐殺される側の恐怖と苦痛を味わわれた。その時代のだれひとして、この祭りのことを知っていた者はいなかった。虐殺する者たちがやってきて、彼を捕らえていった。そのようにして、その恐怖の夜に、災いは過ぎ越されたのだった。
 ああ主イエスさま。あなたの生涯はそうまで聖別されたものだったのですね。誰もそれを知らず、またあなたの本当の姿を見た者はいなかったのです。そのような孤独の中で、あなたは死ななければならなかったのですね。

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永遠からの要求

マタイによる福音書 第25章

 この世界にあって、ある意味で私たちは永遠の世界に行くための準備をしていると言える。しかし、永遠の世界の性質の前に私たちは戸惑わざるを得ない。というのは、永遠の世界は、私たちに不確定なものを要求するからである。
 まず「永遠」は私たちに「留まること」を要求する。私たちがいつも変わらずに主イエスに留まるべきことを。
 10人の乙女に、永遠の世界は「待つこと(留まること)」を要求した。しかし「いつまで」ということは示されていなかった。そこで、各人の間に行動の違いが生じることとなった。「永遠」が要求するものは、有限の世界の事物を振り分ける働きをする。永遠の世界にふさわしいものだけが残るためである。
 私たちは、この有限の世界に住んでいるので、私たちの行動は、いつも有限な範囲にとどまらざるを得ない。しかし、その私たちの行動を篩(ふるい)に掛けるのは「永遠」なのである。その際、この有限の世界で振るわれないものはいつも、「期限が定まっていない」というような不安定な状態をとる。いつまでそれが続くのか、いつ終わるのか、何の保障もない。このような状態の内に、主への信仰と愛の故にあえて留まることを欲するものだけが、永遠の世界へ行く準備ができた者なのである。
 次に「永遠」は私たちに「成長すること」を要求する。神から与えられたタレントをさらに成長させ、主イエスの御姿に成長することを。
 三つ目に、「永遠」は私たちに「働くこと」すなわち「奉仕」を要求する。私たちが、常に主イエスとつながって、この地上において神の御心を行うことである。
 いつまでということはない。「永遠に」ということだ。私たちの「永遠」は、それ自体は有限なものでしかないが、それは永遠の世界に通じているのだ。
 主イエスさま。私がこの地上における私の有限な人生において、永遠にあなに仕えることができますように。

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有限の世界の終わり

マタイによる福音書 第24章

 主イエスは、世の終わりに再びこの世界に帰って来られる。この最後の時とは、この有限な世界の終わりの時という意味である。それは同時に、新しい無限の世界の始まりの時だ。
 しかしそのためには、振われるものが取り去られる必要がある。振るわれるものは、無限の世界にそのままでは入って行くことができない。そこでは、有限のものが無限の中へ入ろうとするからである。そのとき、有限なものに篩(ふるい)が掛けられる。
 私たちの信仰がもし、教会の建物やその中のイス、自分の地位、名声等々、有限なものに置かれているなら、それにも篩が掛けられることになる。だから主イエスの語っておられる最後の日の前兆を感じて、私たちは今、永遠の国に入る備えをしなければならない。
 二つの終わりがある。一つは、ここで主イエスが語っておられる世界の終わりであり、一部の人々のみが経験するものだ。しかし歴史的に見た場合には、それは一部とは言いがたいほど膨大な人数となる。世界の人口増加は、終わりの日に向かって、爆発的に膨れ上がっているからだ。
 もう一つの終わりとは、人生の終わりであり、すべての人が等しく経験するものだ。その日には、彼のすべての力が衰え果て、この世界のすべての存在が彼にとって意味を持たなくなる。それは、彼が永遠の世界へ行く準備なのだろう。彼が交通事故等で突然に死ななければならないときも、一瞬の断末魔のときのために人生の走馬燈が用意されている。
 いずれにしても、「目をさましていなさい」と主イエスは言われる。そのときでは遅いのだ。私たちは、このメッセージを語るべく遣わされているのだ。
 主イエス様。終わりの日に向けて、あなたの僕として、私たちが語るべきメッセージを語れるようにお助け下さい。

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2005/04/12

戒めの座

マタイによる福音書 第23章

 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。」と主イエスは言われた。「モーセの座」とは「律法の座」、「戒めの座」である。しかし、律法に人を救う力はない。だから律法学者にもパリサイ人にも、人を救うことのできる教えを提供できなかった。人を救えるのは、命を与えることができる神お一人なのだ。
 それでは、今日の教会も牧師さえも人を救えないのだろうか。その通りだと思う。教会が、牧師が、信徒が、もし人を生ける神に導くことをせず、ただ聖書の解釈だけを教えているなら、人は救われないだろう。教会や牧師、信徒は、人を主イエスに導く大切な役目をしている。しかし、教会自体が人を救うのではない。また牧師でも信徒でもない。人を救うのは、今日でも生ける神お一人であることに変わりはない。
 主イエスは、律法の座に座るものに対して怒りを現される。律法の座に座るのは祭司と預言者だけであるべきだからだ。この神から特別に選ばれた種族、人だけが律法の座につくことができる。それ以外のものがモーセの座に座るとき、カルトが始まる。
 救いを仲介できる人は存在しない。神と人の間に入ることができるのは、主イエスお一人なのだ。救いは、いつも神から直接にやってくるのだ。
 主イエスさま。私の心の神殿に、いつもあなただけがおられるようにしてください。

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教派の壁

マタイによる福音書 第22章

 当時の著明な教派であった、パリサイ派やサドカイ派は、深遠な教えで人々の心をとらえていた。しかし一人の神様に熱心に仕えるところのこの二つの教派は、その教理において互いに異なっていた。
 今日でも、プロテスタント信仰の中にたくさんの教派がある。それらは、みな異なった深遠な教理を持っている。神の真理がこの世界に住む個々の人々の心に焦点を結ぶとき、それらはみな異なった像となる。私たちは皆、真理をおぼろげに見ているのである。
 しかし主イエスにおいては、神の真理が揺らぐことなく、完全な像を結んでいたのだった。彼の言葉は、どの教派にも通用し、それらを論破した。純粋な真理の内においては、ある真理が他の真理を打ち破るということはあり得ない。真理は決して破られることはない。打ち破られるものは、真理ではあり得ない。だからパリサイ派の教理は、真理ではないものを含んでいたのだ。
 今日の私たちの信仰も、往々にして真理でないものを含んでいる。そしてそれは、主イエスという完全な真理の前に、打ち破られるのを待っているのだ。そしてそのときこそが、私たちが主イエスに出会える大切な機会なのだ。
 主イエスさま。いま私を打ち破って下さい。あなたの真理をもって。そのようにして、私の心にあなたの真理を輝かせ、真理が人となったところのあなたの御姿を私の心に写してください。

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2005/04/08

威光と尊厳の生涯

マタイによる福音書 第21章

 主イエスは、全宇宙の王としてこの世界に来られた。主イエスの生涯は、全宇宙の王としての生涯だったのである。
 ああしかし、それは私たちが思い描くところのいわゆるこの世の王の生涯とは、何とかけ離れておられたことだろう。「彼には人が慕うような美しさもない。その声を大通りで聞くこともない。」主は、あたかも貧しい一介の貧民のような生涯を自ら生きられた。しかし、おお、それは何と威光と尊厳に満ちた生涯であったことか。
 現代社会においても、顧みられることのないたくさんの人々がいる。いや、現代に置いてはむしろ、ほんの一部の人だけが富を名声を所有し、人生を謳歌している。それに引き替え、大部分の人々の人生は、みじめで目的もなく、顧みられることのないようなものになり果ててしまっているのではないか。
 しかし、ああしかし、主イエスも最後には、そのような貧しく、顧みられることのないような人生を生きられたのではなかったか。
 ご自身の生涯を通して、主イエスは私たちに語っておられると思う。「あなたがた、私を信じる者の人生は、私の威光と尊厳に満ちたものである」と。「私を信じる者の人生に、私は私自身の威光と尊厳を現そう。なぜなら、それは私の人生でもあるから。私は、天からの光と数々の奇跡をもって、彼の人生を飾ろう。」
 主イエスさま。私が、あなたの僕としての人生を生きることができますように。

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最大の報酬

マタイによる福音書 第20章

 主イエスはここで、私たちが受け取る、天からの報酬について語っておられる。
 私たちはこの世界で、主のために様々に働くことができる。そして主はそれに対して報酬を用意していて下さる。しかし、その戴き方は、この世界の基準とはかなり異なっている。
 先の者が後になり、後の者が先になる。また、多く働いた者も少ししか働かなかった者も、主から同じだけ戴くことになる。
 この世界においては、少しでも多くの報酬を得るために、時には不正な手段が効を奏することがある。しかし、神の国においては、それはまったく役に立たない。
 私たちは時として、この世界の戦術を信仰の世界にまで持ち込んでしまうことがある。しかしそれは空しい努力となる。主は、私たちをまったく違った目でご覧になっている。
 主の目には、私たちは神に創造された尊い神の子なのだ。だから、どんなに惨めな格好をしていても、またどんなところで寝起きしていても、どんなに知識や能力が欠けていても、その人が苦しむとき、その人の上に向かって、主の哀れみの御手が動き始める。その御手から癒しの力が流れ出る。そのことに区別はない。そして、それこそが、主から私たちへのもっとも大きな報酬なのだ。
 主イエスさま。あなたの愛と哀れみこそが、私の最大で永遠の報酬です。

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子供のように

マタイによる福音書 第19章

 私たちが生きているこの世界は、妥協に満ちている。神の御前で生涯を誓い合った二人が、ちょっとした意見の違いや人生観の違いで離婚に陥ってしまうことがある。また、より大きな目標の前には、それよりも小さな目標は、時として諦めてしまうことが得策とされる。しかし私たちの主は、それらのことにも決して妥協されることはない。
 主にとっては、目標に大小はない。あるのはただ、神の御心か否かだけだ。そして、神は決して妥協されることはない。「天地が滅び行くまでは、律法の一点一画もおろそかになることはなく、ことごとく実現する。」と主は言われる。
 子供のようにこのことを受け入れ、そのためにこの世の自分の財産をさえ惜しまない人こそが天国の住人なのである。
 主イエスさま。私が今までの人生で獲得してきた知識や経験をすべて捨てて、あなたから与えられる新しい心であなたにお従いすることができるようにお導きください。

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