2020/08/25

神を褒め称える

 「神の人となる」ための最良の方法が「神を褒め称える」ことだとしたらどうだろう。でも、それには十分な理由がある。以下にそれを述べよう。
1.それは、私たちが何を置いてもまず成すべきことである。
 それは、決して当を得ないことではなく、むしろ神を信じる者にとって最善のことである。かつそれは、完全に正しいこと、すぐにもやらなければならないことであり、他のどんなことが相応しくない場合にも、常に適切で、また永遠に成すに値することである。神は、そうされるに相応しいお方なのである。
2.それは、すべての始まりである。
 「神を褒め称える」ことにより、結果的に私たちは、神に最大限に耳を傾けることになる。私たちの全関心が神のすばらしさに向かうようになるからである。そして、神は実際にすばらしい方であり、その成されること、ご計画のすべてが常にすばらしいことである故に、私たちは「神を褒め称える」ことにより、神からそのすばらしさのすべてに関する知識を受け取ることにもなるのである。それは実に、私たちの心が神ご自身に近づけられることになり、そこからこそすべての良きことが実際に始まるのである。
3.それを神が喜ばれるから。
 神は、神の子供たちがご自身を褒め称えることを喜ばれる。彼らを真に愛されるからである。このことこそ、実に私たちが神を褒め称えるべき確固たる理由なのであり、このある意味単純な行為により、愛すべき神は、主イエス・キリストの贖いにより、私たちにご自身の友としての地位を気前よく与えて下さるのである。
4.それは、神の前に完全な行為である。
 「神を褒め称える」ことを行っている間、私たちは、神の前に完全な良い行いをしていることになる。そこには、どのような間違えも入り込む余地はない。神の前に完全でありたいと思うなら、永遠に「神を褒め称える」ことによりそれが可能なのであり、完全な行為は、私たちを完全な者と変え続けるのである。
5.それは、最も賢く、創造的な行為である。
 「神を褒め称える」ことは、どのような神学よりも正しく、どのような施しよりも高貴で、どのような慈善や奉仕よりも何倍も生産的な行為である。なぜなら、それなくしては、どのような良きことも始まらないからである。反対に、私たちが「神を褒め称える」やいなや、神から私たちの心に成すべき良きことが示される。この生産的な啓示により、私たちは真に生産的な奉仕をすることができる。神への賛美から始まらないすべての努力は、不毛である。なぜなら、この世界のすべては、神の良き御旨により創造され、活き、活動しているからである。
6.それは、ゆるがない真理である。
 「神を褒め称える」このことの中に真理がある。このことの効果を知らない者は、聖書の真理に関して、また神に関して、いまだかつて何も知ることがなかったと言うほかはない。

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2020/08/08

預言の定義

 「預言」というものを取り扱う神学を私はまだ見たことがない。あるのかも知れないが、オーソドックスなものには見当たらない。それにもかかわらず、旧約聖書の多くの部分を占めるのは、預言書である。使徒行伝にも「預言」という言葉は出てくるし、パウロも「預言を禁じてはいけない」と言っている。ここで、「預言の定義」というタイトルにしたのは、この「預言」という捉え難いもののイメージを少しでも明確にしたかったからだ。
 私の聞いたところによると、「預言」とは、最初は、心の中に湧き起こる短い一つの言葉である。それ自体は、預言ではないかもしれない。例えば、「私の子よ」とか、「私はあなたを愛している」とか、月並みな言葉かも知れない。しかし、預言している者の口からそれが語られるやいなや、彼の心の中に、次に語るべき短い言葉が与えられる。そして、それを口にしている間に、さらに次の言葉が与えられる。そのようにして、一連の預言の言葉が完結して行くというのである。それは、信仰による語り出しとも言えるし、どことなく異言にも似ている。
 しかし、ここで取り上げたいのは、このような預言の現象的な側面ではない。つまり、どういうのが預言であり、どういうのが預言ではないという区別がしたいのであるが、残念ながらそのようなことは、ついぞ聞いたことがない。そこで、ここで述べることは、私のオリジナルである。だからといって、でたらめだとも言えないと思う。要は、これを読んでくれる人が同意してくれるかどうかということである。そして、何よりも、私自身が「神の人となる」ための一つの足がかりにしたいのである。それでは、始めよう。
 まず、「預言」とは、「未来に関する言葉」である。そして、それは「断定的な言葉」であり、「神から来る言葉」である。だから、神への感謝とか、懺悔とか、願いとかは預言ではない。次にそれは、「今まで無かった新しい言葉」である。そのような言葉が、例えば祈りの中ででも与えられるなら、私はそれは「預言」だと思う。
 例えば、祈りにおいて、道が示されるということも確かにあるが、それは、往々にして、いくつかの選択肢の中で迷っている状態のときに、そのどれを選ぶかが確信されるというようなことであり、上の私の定義には当てはまらないので、それは預言ではないと言いたい。それでは、預言とはどういうものか。
 スタートは、同じとしよう。つまり、いくつかの選択肢の中で迷っている状態にある人がいたとする。その彼が、神にすべてをゆだねて、自分の選択肢をあえて捨て去って、ゼロベースで神に従い行く道を求めたとする。そのとき、それまでまったく考えていなかったような新しい道が示され、それが何よりも神の栄光になるということが彼に確信され、神を褒め称えるということが起こるなら、それは「預言」が与えられたと言いたいのである。そして、彼がその新しく示された道を実際に選択し、すべてを置いてその実現に進む決意をするならば、そのとき神から超自然的な力と助けが与えられ(つまり油注ぎということ)、そのことが実現し、彼により神の栄光が現される。そのようなことが実際に起こるなら、それは「預言」だと言いたいのであり、旧約聖書の預言の多くは、そのようなものだと私は思う。そのようにして預言者は、超自然的な働きをすることができたのである。
 ここで重要なことは、「ゼロベース」ということである。常にここから始まらなければならない。そして次に、「神の恵みを信じること」、つまり主イエス・キリストの恵みにより、神が働いてくださることを信じること。そして、「神がなさることは、すべて最高であり、神は、ご自身の子に常に最高のものをくださる」ということを信じることである。この「ハレルヤ!」という感情と共に、自分の思いをすべて神に委ね、神が自分の心に良き印象、イメージ、言葉、感触等々を投げ入れてくださるのを待つ必要がある。それは、すぐ来ることもあり、時間がかかることもあるだろうが、いずれにしても、その内容においても、時期においても、場所においても、神が失敗することはあり得ない。神は、信じる者に与えてくださるに違いない。
 そのようにして、神から自分のための預言をいただくことが日常化するようになれば、今度はそれを人のためにも期待できるようになるに違いない。そして、上で述べたように、一つの言葉から始まり、その相手に神が語っておられることを取り次ぐ器として用いられることもできるようになると信じるものである。
 最後に、ここで言いたいことは、もし上記のようなことが実現するならば、それはもしかしたら、もはやそれなしには、生きられないほど、すばらしいことではないかということである。というのも、それはまったく新しいことの始まりであり、いままで祈りの中でさえ迷いながら、未来に対して抱いていた恐れを完全に払拭できるほどに力強いものではないかということである。つまり、それは、以前は確かにあったが、今は失われてしまった何かなのであり、それゆえにキリスト教会が弱体化し、悪魔に好きなようにあしらわれてしまっている、そのような何かなのではないだろうか。そして、それがあれば、私たちは、もはや悪魔に負けることはなく、主イエス・キリストにより、すべてにおいて勝利者となれる、そのような何かではないかということなのである。

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2020/08/07

預言の必要性

 「預言」と言うと、たぶん多くの人が、心中穏やかならざるものを感じかも知れない。しかし預言は、教会を建て上げるために神から与えられた賜物の一つである。だから、今日の教会が弱体化し、宣教においても力がなく、世界に有益なメッセージを発信できずにいるのは、預言の賜物を使うことができないからだと思う。
 しかし、今日の教会では、「預言の賜物はすでに終わった」というのが主流の定説になっているようだ。それには、ディスペンセーショナリズムの影響が大きいと思う。これは、教会を弱体化させるため悪魔が考え出した策略だと思う。それにより、教会は翼をもがれ、空に舞い上がることがもはやできなくなってしまった。たぶん、ディスペンセーショナリズムは、シオニズムと関連しており、シオニストは、置換神学に対抗するためにこれを考え出したのかも知れない。そして今日の教会は、不用意にそれを受け入れ、頭でっかちになり、この聖霊の重要な賜物と引き換えに、力のない神学や哲学を手に異端と戦おうとしているが、自らが異端(熱くも冷たくも無い者)になっていることに気が付いていないのだ。さらに、教会を軽視する、一匹狼的な宣教者たちが、教会の人間関係等で傷ついた弱い信徒たちの注目を買おうとして、この異端神学を利用していると思われるのである。
 今日、悪魔の策略に対抗するためには、預言は必須だと思うのだ。かといって、悪魔のことに興味があるというのでも、悪霊たちを追い出すために、何かミニストリーを立ち上げたいというのでもない。そうではなく、今日の教会は、悪魔の策略に散々にやられてしまっているので、そこから何としても巻き返して、悪魔から恐れられるような、神様の権威のある存在に戻る方法を模索したいのである。それも、一信徒として何ができるかを考えているのである。それが、このカテゴリー「神の人となる」の目的なのである。
 そこで本題に入るが、「預言」は、新約聖書が完成したので、もはや必要がなくなったようなものではない。いったい誰が、新約聖書が完成したと言ったのだろうか。どこからそんな考えが出てくるのだろうか。百歩譲って、聖書が完成したとしても、そのために預言がいらなくなったとは言えない。かえってそれにより、預言に必須であるところの「吟味」をするための準備が整ったのである。
 預言を嫌う人たちの意見として、「それにより信徒が心に傷を負ってしまう危険性があるから」というのがあるが、今日の教会において、人間関係により傷ついている多くの人がいるということが軽視されてはいないだろうか。牧会によっても傷ついている人がいる。信徒の伝道においても傷ついている未信者がいる。それらを危険だと言ったら、宣教はできくなってしまう。それと同じように、預言を危険だと言ったら、教会が建て上げられなくなってしまうのである。
 神は、聖書により、すべてを語られるのではない。今日においても、預言により語られるのである。ディスペンセーショナリズム自身が言っている。「主イエスの言葉の多くは、今日の教会に向けて語られたものではない」と。私はそうは思わない。主イエスの言葉だけでなく、旧約聖書も含めて、すべての聖書の言葉は、今日の教会に向けても語られていると信じる。その一つの大きな役割は、預言を吟味するためなのだ。聖書を読んだからと言って、今、これから何をしたら良いのか、分かるだろうか。「こうしたらいいんじゃない」程度のことは分かっても、「こうすべきだ」とか「こうしなさい」ということは言えたものではない。そこに今日の教会の弱さがある。悪魔は、あざ笑っていることだろう。
 しかし、もし預言により、「今、こうすべきだ」とか、「こうしなさい」と言うことができたら、悪魔は恐れるに違いない。それは、神からしか来ないことだから。そして、それにより、「御心が天に成る如く、地にも成る」ことになるのである。もはや悪魔は、その前に退散せざるを得ない。神の御心が行われるのを悪魔は妨害できないからである。だから、これからの人生において、また宣教において、この神の御心をつかむためには、預言は必須である。聖書を読んだだけでは、それは出てこない。神から、今直接に与えられる必要があるのである。そして、その与えられた預言の言葉は、必ず吟味されなければならない。そのために旧新約聖書があるのである。

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2020/07/25

神の怒り

 私たちが今日、殆ど神の声を聞くことがないのはなぜであろうか。なぜ神は、現代において沈黙なさっておられるのだろうか。ディスペンセーション主義の人は言うかも知れない、「それは、聖書が完成したので、私たちは聖書からすべてのことを受け取ることができるようになった。それゆえ、もはや神は、個々の事柄について語る必要はないのだ。」と。彼らは、神が語られるのは、私たちに何かを示したり命令したりするためだと思っているのだろう。でも神は、そのような一方的なお方ではないと私は信じている。神様は、私たちに何でも語りたいと思っていると。
 神は聖書の中で言っている、「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」と。パウロも言っている、『「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。』と。主イエスも言っている、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と。創世記においても、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」とある。またイザヤ書にも、「論じ合おうではないか、と主は言われる。」とある。
 神様は、ご自身の考えを人間に語り、それに対する人間の考えを聞きたい、つまり会話や協議をしたいと考えておられるのだ。そんな神様なのに、なぜ今日、沈黙を守っておられるのだろうか。それは、神が怒っておられるからに違いない。
 人間的には、「怒る」か「喜ぶ」かどちらかにして欲しいと誰しも思うだろう。でも、神様は、そのようなお方ではない。例えば、あなたに子供がいたとする。その子があなたの誕生日に、とてもすてきなプレゼントをくれたとしよう。しかし、それが実は、お店から黙って持って来てしまったものだということが分かったらどうだろう。あなたの心には、実に複雑な感情が渦巻くのではないだろうか。今日、神様の心にも、そのような複雑な感情が渦巻いているのかも知れない。
 主イエス・キリストの十字架により、救いは完成した。誰であっても、例外なく、イエス・キリストを主と告白することにより、この救いに入ることができる。神の怒りは、すべて彼の上に注がれ、もはやあなたの罪は完全に贖われた。そして、神の愛は余すところなくあなたに注がれている。あなたが天国に行ける可能性は100%であり、もはやそれ以上何も付け加える必要はない。しかし、しかし・・・・・。
 もちろん神は、あなたを天国に入れてくれるだろう。でも、「喜んで」ではないかも知れない。主イエスの十字架は、「宥めの供え物」であることを忘れてはならない。それは、「神の怒り」からあなたを救ってくれるものなのである。それゆえ、神が100%あなたに心を許して、有頂天になって、あなたと楽しく話をするということではないのであり、そんな責任は、神にはないのである。
 つまり、主イエスの十字架は、「あなたが救われるため」であり、「あなたが神の友となる」ためではない。そして、神と語るためには、「神の友」となる必要があるのだと思う。
 神は、今日も怒っておられる。この世界の様々な出来事に。それが、終わりの日に余すところなく、この地上に注がれる。それだけでなく、いまこの時も、神は、怒り続けておられる。あなたが軽率な言葉を口に出しただけで。でも、その怒りは、あなたには注がれない。主イエスの十字架の影にあなたがいる限り。でも再び、神は、決してそのようなあなたと語りたいとは、思われないのである。
 それゆえ、神の声を聞きたいと思うなら、しなければならないことは、以下のことである。
 1.聖書をよく読み、神がどのようなときに怒られるかを知り、それを避けること。
 2.神と接するには、どのようにすべきかを律法から学ぶこと。
 3.アブラハム、モーセ、ダビデ、等々、神の友とされていた人から、神への接し方を学ぶこと。
 4.1日の100%を神に捧げ、何事においても神を第一にすること。
 5.思いを込め、精神を込めて神を愛し、常に神を賛美し、神の律法を守ること。
 6.主イエスが教えられたようにあなたの隣人を愛すること。
以上である。

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2020/07/22

神への接近

 神の人になるためには、私たちは、神に近く必要があるだろう。聖書に、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」とある。つまり、神に近づいてもらうためには、まず私たちの方から神に近く必要があるのである。しかし、「神に近く」とは、どういうことだろうか。どうすれば、神に近くことになるのだろうか。
 私は、旧約聖書の記事は、すべて今日の私たちの状況の比喩でもあると信じている。例えば、シナイ山に神が天から降りて来られたとき、イスラエルの民は恐れ、「これ以上神の声を聞いたら、私たちは死んでしまう」と言い、モーセに「あなた一人が代表して神から言葉を聞いて、私たちに伝えてください」と言った。つまりモーセは、民を神に近づけようとしたのだが、民はそれを拒み、モーセに間に入ってくれるように頼んだのであった。また、サムエルに対してもイスラエルの民は、「私たちに先立って進む王を立ててください」と要求した。彼らは、神と自分たちの間に人間を立て、その影に隠れようとしたのであった。
 私たちの場合は、どうだろうか。聖書を読み、み言葉を暗唱し、それに従って生活しようとはするが、自分の一挙一動を神に従うようにしたいとは考えない。「そんなことしたら、死んでしまう」と考えるのではないだろうか。そして、それが正にシナイ山におけるイスラエルの民の心境なのであり、み言葉に準拠していさえすれば、それ以外のことは、自分の自由に生活しても良いというお墨付きを得ていることに案じているのではないだろうか。そして、今の生活のささやかな喜びを、天国にもきっと持って行けると考えているのではないだろうか。
 でも、もし仮に、「そうではない」ということだったらどうだろう。私たちの一挙一動を神に捧げなければならないとしたら。それが、「神の人」になることの代償だとしたら。それは、大いにあり得ることではないだろうか。旧約聖書の神の人と言えば、まずモーセ、サムエル、エリア、エリシャ、等々が思い浮かぶが、彼らの人生はどうだっただろうか。また、イエス・キリストの人生は、どうだっただろうか。
 私たちは、どうしたら、神に近づいていただけるだろうか。それを毎日考えていようではないか。

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2020/07/21

何を祈るべきか。

 神の人になるために、何を祈るべきだろうか。「神様、私を神の人にしてください。」と祈るべきだろうか。しかし、祈りの目的は、「神の御心を知ること」である。それでは、「神様、私が神の人になるのは、あなたの御心でしょうか。」と祈るべきだろうか。否、それが神の御心であるというのがこのカテゴリーの確信である。
 それでは、どのように祈るべきだろうか。強いて言えば、「神様、私に何をお望みですか。」と祈るべきかも知れない。でも、私はそのようには祈らない。というのも、まず何をおいても、神を賛美すべきだと思うからだ。なぜなら、神はそのようにされるに相応しいお方だからである。そして、ひとしきり賛美した後で、何を祈るべきかを考える。通常、それは自然に与えられるように思う。例えば、友達から聞いた祈りの課題が思い出されることがあるかも知れない。
 でも、それについても、何から祈るのかに気を付けるべきだと思う。例えば、その友が受験勉強中だったとしよう。「神様、彼が目指す医科大学に合格しますように。」と祈るべきかも知れない。しかし、もしかすると彼の家庭は、それほど裕福ではないかも知れない。また、難病を抱えた家族がいたりするかも知れない。その他、彼がどんな環境にいるか、私には分からないのに、どうしたら彼のために最善の祈りができるだろうか。そこで、「神様、彼を祝福してください。」と祈るべきではないだろうか。そして、彼について私が知っている限りの状況を神にお話しすべきだろう。そして、神に対して、真剣に心を傾ける必要がある。そして、神が私に祈るべきことを語ってくださるように期待しよう。神は、必ず私に、祈るべきことを教えてくださる、というのが私の確信であり、もし私がそれをつかむことができるなら、そのとき、私は神の人に、本の少しだけ近づいたと言えるのかも知れない。

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ものごとの順番と限界

 普通のクリスチャンが「神の人」へと到達するのには、どのような道筋をとるのだろうか。
 まず第一に必要なのは、「祈り」だと思われる。そもそも「祈り」とは、何だろうか。それは、「神へのお願い」だろうか。私は、そうは思わない。それは、「神との会話」だと思う。それは、神という相手がある行為なのである。ここで「祈り」ということへ深入りするつもりはないのだが、要するに言いたいことは、まず最初に「神の御心を知る」ということが来るべきだと思うのだ。
 万一、神が、私が「神の人」になることを望んでいなかったら、それから先は、もう何もする必要はないだろう。だから、まず何をおいても、自分に対する神のご計画を知る必要がある。しかし、果たして神がそれを私に開示されるだろうか。それは、実際に祈ってみないと分からない。しかし、主イエス・キリストの恵みゆえに、神が私に、理由なく沈黙を続けられることは無いと確信する。実際、これまでも、神はいつでも必ず、私の心に答えを下さった。もっとも、涙を流して祈っても、神が沈黙されているように思えたことは確かにあった。でも、今から考えてみると、あのときも神は、やはり語っておられたのに、私は聞こうとしていなかったのだと思う。今では、そんな風に思われるのである。
 いずれにしても、まず最初に「祈り」が来る。そして、祈りとは神との会話である。そして、その中で私は神からある言葉を受け取ることになる。そして、それから後の私は、この「神から受け取った言葉」によって絶対的な制限を受けることになる。そこから、私は一歩も外へ出ることが許されない。
 だから、この「神との最初の会話」の範囲は、あまり狭くしない方が良いだろう。神が自由にあなたに語ることができるように、その会話の範囲は、考えられる限り広く設定するべきだろう。そして、神が語られることは、すべて時に適って美しいのである。あなたは、それに驚嘆し、神を賛美する。それ以外にはない。
 そして次に、神はあなたに、その語られた言葉を実行する力を下さる。あなたは、出て行ってそれを実行する。すると、そこに神が働いて下さる。以上が「ものごとの順序と限界」である。
 しかし、そんなにうまく行くのだろうか。私はいま、なぜ、このようなことを書いているのだろうか。それは、もちろん自分の経験(その一部は、このブログの「キリスト信仰の体験記」というカテゴリーで書いているが)から述べているのである。しかしもちろん、私とても、上記のような手順をとれば、神がいつも必ず働いてくださると言っているのではない。そこには実際、いろいろとリスクもある。まず第一に、私が神の言葉を聞き違えるという可能性もある。また、神の言葉を実行に移すときに、十分な確信がなく、心に迷いが出てしまうこともあるかもしれない。さらにまた、極端には、「失敗する」ということが、もしかしたら神のご計画の中にある可能性もゼロではないと思う。
 そこで、一番大切だと思われるのは、一度言葉を受け取ったと思ったら、確信を持って行動し、失敗を重ねる中で成長するということだと思う。それにより、私たちは、神の御心をより良く知ることができるようになると思えるのだ。もちろん、これらすべての基礎に、聖書を毎日読むということが前提としてあるのだが。

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神の人の資格

 それにしても、現代のクリスチャンは、神の人になる資格、あるいは可能性を持っているのだろうか。
 もちろん持っている、と私は確信している。それは、キリストの尊い血がすでに流され、それにより私たちは、買い戻されたからである。これ以上の保証はない。そしてまた、それ以外に、何の可能性もあり得ないのである。
 それゆえに、すべてのクリスチャンは、神の人となる資格と可能性を持っている。しかし、現実を見ると、そのようになっていないことが一目で分かる。それはなぜなのか。これが大いなる疑問である。先の記事でも書いたように、神の恵みは、一人ひとりに与えられていると同時に、キリストの体としての教会を通して一人ひとりに与えられてくる。そのどこかの過程に問題があるのだろうか。
 一つ言えることは、私たちに自由意志が与えられており、神はそれを尊重される方だということである。つまり、私たち自身が神の人となる可能性を拒んでいるのかもしれない。
 最近私は、どのような人に対しても、清い心を持って接せられるようになることを願い求めた。そのとき神は、次の聖書の言葉を思い出させてくださった。つまり、「若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」とある。私がそのことを心に刻み、努力し始めたとき、神は新しい思いを私の心に与えられた。神は、少しでも努力して、神に近づこうと思う者に、即座に助けを与えてくださるのである。私は、そのことを何度となく経験して来た。そして、神が示されたこととは、上記の聖句は、神へ近づくための入り口であるということである。つまり、この聖句を実行に移す者の心に、神はその人がどのような状態であったかを示される。つまり、問題は、彼が神から心を逸らせていたことなのである。つまり、彼の心の日常は、実際に気散じの連続であった。その只中にあるうちは、彼がその自分の意識状態に気づくことはない。しかし、彼が神の戒めに従い始めたとき、その気散じの状態に気づくのである。
 もし彼が、そのような気散じの日常から抜け出て、真に神に心を向け、日々その助けを願い求めつつ生きることを始めるなら、キリストの贖いと恵みは、即座に彼をして、神の子としての身分を得させ、神の語りかけは日常的なこととなるだろう。
 だから、私たちは、このことをまず第一に願い求めなければならない。私たちの心が日常的な気散じから解放され、ただ神にだけ集中し、キリストを通して、神から直接に、幻と戒め、恵みと裁きを受け取ることを。ああ神よ、そのようになりますように。

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2020/07/20

「神の人」のイメージ

 現代人がもし神の人になれるとしたら、それはどんなイメージだろうか。
 聖書にある神の人の特徴に関するリストは、以下のようである。「知恵の言葉」を持つ人、「知識の言葉」を語る人、「信仰」が強い人、「病気をいやす力」のある人、「奇跡を行う力」のある人、「預言する力」のある人、「霊を見分ける力」のある人、「種々の異言を語る力」のある人、「異言を解釈する力」のある人である。
 ただここで注意すべきは、神はこれらの賜物をすべて一人の人に与えられるのではなく、「御心のままに一人一人に分け与えられる」と書かれていることである。ここに教会という概念の大切さがある。私たちは、それぞれがキリストの体の一部なのであり、それを実感するために、みんながそれぞれ賜物を与えられ、神の働きをするのである。かつてモーセは、「私は、神の民一人一人が私のような預言者になることを切望している」と願ったが、それがキリストにおいて実現しているのである。
 それでは、今日の教会において、そのようなことが体現されているだろうか。否、もしそうなっていないなら、そこに何か原因があるに違いないのである。そして、このブログのこのカテゴリーの目的は、まさにその原因を追求することにあるのである。
 しかし、あるキリスト者が受けている賜物がどのようなものであれ、私はそこに一つの傾向を見出したいのである。それは、その賜物により、神が確かにその人と共におられることが明らかとなり、それを通じて、神が教会に御臨在されることが誰の目にも明らかになることである。そのようにして、神の御名が崇められることなのである。

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意図と構想

 また新しいカテゴリーを始めてしまったわけだが、その意図と構想を最初に書いておきたい。
 発端は、自分が今日まで育ててきた教会観の整理への欲求である。自分は、クリスチャンとして何のために生きているのか。ということをいつも考えているのだが、最近特に気になっている「ディスペンセーション主義」との関係と、今日の教会の弱体化を痛感する中で、やはりこれではいけないのではないかという考えになってきている。つまり、クリスチャンは、神を礼拝し、ただただ福音を宣べ伝えているだけでは、やはり不足なのではないか。ディスペンセーショナリストが言うように、教会は単に、ユダヤ人がキリストを拒んだために歴史に挿入されたものなのではなく、神の歴史の集大成であり、大目的なのではないかということなのである。それなら、これまでのイスラエルの歴史における神殿礼拝等の律法が教会の中に体現しているべきであり、また、預言者や王としての神の栄光も現代のクリスチャンの姿の中に燦然と輝いているべきだと思うのである。そして、それこそが、「神の人」としてのクリスチャンのあるべき姿と言えるのではないかと思ったのである。キリストは、「律法の一点一角も失われることはない」と言われれ、さらに「わたしは律法を完成させるために来た」と言われたのである。
 そのように、すべてがキリストにあって完成されるのだとすれば、今日の教会時代こそが、過去のイスラエルの時代を含めて、これまでの最高の時代であり、クリスチャンこそが、キリストが言われた通り、預言者以上の者であり、神の栄光を最大限に表す、「神の人」であるべきだと思うのである。そして、そうなるためにこそ「恵み」が必要なのであり、今は「恵みの時」であるゆえにそれが可能なのである。
 この観点に立つなら、原始キリスト教会における使徒たちやキリストご自身のように、私たちも超自然的な働きにより、強力な伝道を展開する力を持っているはずであり、もしそうなら、その力を使わないということは、キリストの語った譬えで言えば、与えられたタラントを地に埋めておいた僕になぞらえられるのではないだろうか。
 しかし、この説を展開するためには、やはり、厳密に聖書的な考察に依らなければならないと思う。そうでないと、ただ豪語するだけで、実際の力が生まれてこないし、方法論もないただの空論に終わってしまうから。それゆえ、このカテゴリーは、単なる議論や提案、仮説等々であってはならないと思う。それは、臨床に基づく、実践的な方法論にならなければならないと思うのだ。そういう意味で、このカテゴリーは、いくつかの危険性を内包していると思う。それらは、まず「妥協」であり、中途半端な論説に終始し、自然消滅してしまうという危険性である。また、「独断」であり、ただ自分だけ個人的に当てはまるような恵みや体験の羅列に終始してしまうことである。さらに、「教会や宗派、神学等の批判」であり、自己の論点の根拠の追及やその正当性の主張のために、他の批判に走るという危険性である。そのようにならないことを願うものである。
 そのように気を付けながらも、最終的に目指しているのは、これまでの、そして今後も得ていくであろうところの自分の知識と体験を最大限に動員することにより、万人(クリスチャンに限られるが)が、迷うことなく、楽に?、自然に「神の人」に成ることができる方法論を見つけることである。そして、それが可能であるというのが、今までのクリスチャン人生を経て、現在の私が持っている信仰の確信なのである。

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