2018/12/15

あと一つ足りないもの

 教会に通い、聖書を読み、神学もちょっとだけ学び、家族を愛し、与えられた仕事を一生懸命にし、そしてある朝、目覚めたとき、なんだか力がでないということがある。どうもいつもの調子が出ない。何が足りないのか。そんなことは、誰にもあることで、そのうちに調子も出てきて、力も、自信も出てくるものなのだが、それがどうも自分の思うようにならない。100%の安心がない。信仰の必然性がない。それが罪の中にいるということなのか。
 いや、たぶん違うのだろう。信仰は、そんなに混沌としたものではないはずだ。誰でもが普通に努力すれば、勝利を勝ち取れるはずのものではないか。それでは、その原因は、何なのか。いつもいつも完全に信仰の中を歩めないということの原因は、いったい何なのか。それは、それは、やっぱり自分の力にまだ頼っているということなのだろう。
 そう、信仰の調子を自分で取り戻そうとしているところに無理があるのだろう。それでは、どうすれば良いのか。そもそもの始まりは、どこなのか。それは、「礼拝」である。
 「神を礼拝すること」。ここからすべてが始まる必要がある。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミヤ8:10)」
 それ以外に、私が力を得る道はない。私の内には、良いものがないからだ。そして、聖書を読んで考えても無理である。考えるのは、私だからだ。しかし、もし神を礼拝するなら、私の内に聖い憧れが湧き起こる。そして、聖霊による啓示が与えられる。
 私は、これをつかむ必要がある。つまり、「主を喜ぶことから力を得ること」である。そして、それは、神との関係の構築であり、自分の祭壇を築くことであり、それ以外のものではない。それは、今日を生きるためのものであり、今日、神に仕えるためのものであり、明日のためではない。「明日は、明日自身が思い煩に違いない。」
 黙示録を読んでみたまえ。そこに最後のことが記されている。すなわち、「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。(黙示20:9)」
 だから、私たちは、神と共に戦い、最後に勝利を得るのではない。最後に勝利を得るのは、神お一人なのである。私たちは、悪魔との戦いについに勝利するのではない。それは、神が今すぐにでも成し得ることであり、神がそれをなさらないのは、命に定められながら、今失われている者をすべて救うためなのであり、私たちがそのために成すべきは、今日というこの日の小さな戦いにおける一つ一つの勝利なのである。

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2018/12/12

三位一体の神を信じる

 キリスト教の神は、三位一体の神である。そこで、キリスト教の信仰の方法というか形態は、他の宗教とは決定的に異なっている。一言で言うと、「父なる神を礼拝する」、「御子イエスに従う」、「聖霊に依り頼む」というように、三位の各位格に対して、独特の接し方をする必要があるのである。
 まず、「父なる神を礼拝する」ということに関してであるが、私たちが礼拝するのは、旧新約聖書の神である。この宇宙を創造し、壮大な歴史を実際に動かしておられる大いなるお方である。聖書の中にご自身を表され、天地創造以前に私たちの誕生と救いを定められ、そのご計画に従い、私たちを喪失の中から救い出し、ご自身の子とし、全宇宙を相続する者とされた。その計り知れない知恵と力、愛と恵みの神を礼拝するのである。
 次に、「御子イエスに従う」ということであるが、「御子」とは、天の父の独り子であるが、私たちにとっては、私たちを治める王であり、万軍の主なる司令官である。彼は、神であられたが、自ら人となり、この罪の世界に生まれ、その公生涯を通じて、私たちの成しえなかった罪の贖いを成し遂げ、勝利を勝ち取られ、黄泉から戻り、復活して天に昇り、神の右の座に着かれた。その王の王、主の主に私たちは従うのである。何のためにか。失われた魂の内、永遠の命に定められている者を救い出し、勝ちとるためである。私たちは、その戦いのさ中にあり、主イエスがその先頭に立たれているのである。
 最後に「聖霊に依り頼む」ということであるが、主イエスが天に帰られた今、私たちをこの地上で導かれるのは、聖霊以外にいない。聖霊がおられなければ、私たちは何も知りえないし、何も成し得ない。私たちの生来の性質は、罪に死んでいるからである。しかし、もし私たちの内に聖霊がおられるなら、体は罪に死んでいても、霊は生きているのである。しかし、私たちは、霊的なことを理解することができない。そこで、どうしても助け主が必要なのである。聖霊は、私たちが父なる神を礼拝することを助け、主イエスの雄姿を心に啓示し、私たちが神の子であり、戦士であることを教え、励まし、助けてくださる。それゆえに、私たちは、信仰の戦いに勝利することができるのである。
 このような宗教が他にあるだろうか。このキリスト教の信仰体系に比べて、他の宗教の体系は、おもちゃのようなものだ。しかし、もし私たちが、この三位一体を正しく信仰しないならば、このすばらしい体系も十分機能せず、私たちは、迷いの中に悪魔の軍勢との戦いに翻弄されてしまうかもしれない。勝利は、すでに決まっているのであるが、私たちには、主イエスと共に、この戦いを雄々しく戦い、彼と共に勝利者となることが求められているのである。

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2018/12/06

異言のクリエイティビティ

 異言は、聖霊が語らせてくださる言葉である。しかし、だからと言って、それが100%聖霊の作品かと言うと、そうでもない。第一、私が口を動かさなければそれは発音されないし、私が語るのをやめれば、それは終わってしまう。また逆に、私が語り続ければ、それはいつまでも続くのである。かと言って、それは私のデタラメな創作なのかというと決してそうではない。私は、そのような言葉を、そのような速さで思いつくことはできないからである。使徒パウロは、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。(コリント1の14:18)」と言っている。それは、ある意味で「彼の能力」であったし、同時に神からの賜物だったのである。
 そのように異言は、聖霊と私の共同作品なのである。だから、それを努力して語れば、神も喜ばれるし、私も満足することができる。そしてパウロのように、神に感謝するのである。しかし、どのようにしてそれを充実させられるのだろうか。
 まず第一には、心を解放して、聖霊に明け渡す必要がある。第二には、積極的に可能性を探すことである。新しい思い、新鮮な思い、従順な思い、神を愛する思い、勇敢な思い。つまり、聖書に記されている、あらゆる気高い思いを言葉として発音すべく、可能性を探求するのである。聖霊がそれを助けてくださる。パウロはかつて、第三の天にまで引き上げられるという経験をしたので、その可能性を誰よりも多く心の内に持っていたのだろう。だから彼は、あのように言うことができたのだと思う。
 私たちも自分の生きてきた人生、経験してきたこと、それらを通して神を知り経験したことのすべてを持って神を賛美すべく、新しい言葉に託すのである。すると聖霊が新しい思いを与えてくださる。あなたが三段登れば、聖霊は、次の三段を引き上げてくださる。
 その目的は、ただ一つ。神を賛美することである。それは、天国で最も生産性の高い行為に違いない。そして、この地上においても、それは、あなたの霊の内に、確かな実を結ぶ。たとえ、あなたがそれを感じることができなくても、霊の世界のことは、人間の理性では理解できないことなのだから、あなたの霊的な成長は、そのようにして促進され得るのである。なぜなら、あなたが異言を語っているとき、それは霊的な世界とこの世界を隔てる壁に耳を当てているようなものだからである。

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2018/12/01

聖霊について

 聖霊は、一言で言えば、「神のワンストップサービス」である。主イエスが天に帰られた後、代わりに来てくださったのが聖霊であり、私たちは、聖霊を通じて、父なる神と主イエス・キリストとコミュニケーションすることができる。そして、それが唯一の完全な方法なのである。なぜなら、聖霊は人格者なので、私たちの言葉を理解してくださる。いや、言葉だけでなく、思いを理解してくださるのである。もし私たちの祈りが不完全なものであっても、--実際、私たちの祈りが完全であることは有り得ないのだが--聖霊が私たちの意図するところを父なる神の御心に適うように執り成してくださる。だから私たちは、いつも安心して心を注ぎ出して、父なる神にお願いをすることができるのである。
 聖霊は、どのように私たちのそばにいてくださるのであろうか。それは、空気のように一様に世界に満ちているのではなく、まるで一人の人のように、私たちに寄り添っていてくださるのである。それは、主イエスが、復活の後に、五百人以上の弟子たちに同時に現れたようにである。しかし、それ以上ではなかった。主イエスは、信じる者にだけ現れられたのである。そのように、聖霊も私たち信じる者とだけ共におられるのである。その意味では、遍在ではないのだが、すべての信じる者に同時におられるというところが遍在なのであり、聖霊の神たる所以である。
 だから私たちは、聖霊に対するときに、そのことを意識しなければならない。聖霊をあたかも自分だけのお方のように、親密に相対する必要があるのである。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。(詩篇16:8)』と語ったダビデのようにである。パウロもこれについて『絶えず祈りなさい。(第一テサロニケ5:17)』と言っている。

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2018/10/16

三位一体は、信じるものではない。

 『三位一体の教理内容は、人間の思考を遥かに超えているので、人間はそれを理解することはできない。それは、信じるべきものである。』という言い回しを良く耳にする。みんなが良く知っている福音伝道者でさえもそのように吹聴しているのである。しかし、私はそれは間違えだと思っている。
 無論、三位一体という言葉は聖書に出てこない。しかし、それは聖書の随所にある神に関する記述から、そのように認識されるということは、私も認める。そして、主に異端に対処するためにこの教理がまとめられたということも聞いている。そこで、これらから帰結してくることとして、「三位一体は、人間が考えたものだ」ということである。その大元は、聖書にあるのだが、それら分散したものを抽出してきて、「三位一体」という一本の教理にまとめ上げるということは、人間が考案したのであり、聖書の中には、そのような意図はなかったかも知れない。あるいは、あったかも知れないのだが、それを証明することはできない。そこで、やはり人間が考えたものと言えるだろう。
 それでは次に、この人間が考え出した「三位一体」という教理は、信じるためのものだろうか。否、信じられるべきものは、御言葉以外にはない。あってはならないのである。もしあったら、そのようなものが次から次と考案される余地が出てきて、収拾がつかなくなる。そこで、聖書の正典というものが定められたのだから。
 そこで、「三位一体」は、信じるべきものではない。それでは、それは、どういうものなのか。それは、「考えて理解すべきもの」である。しかし、人間の思考を遥かに超えているものをどうやって考えるのか。実は、ここに悪魔の欺きがあるのである。つまり、「三位一体は、人間の思考を超えてはいない」のである。だって、それは、人間が考え出したものだからである。人間が考え出したものが、人間の思考を遥かに超えているはずはない。そのように悪魔が刷り込んでしまったのである。簡単に言えば、「神とは、父なる神と子なる神、聖霊なる神の合わさったもの」と考えれば良い。あるいは、「混ざり合った」と言えばもっと分かりやすいだろうか。つまり、3つ合わせて1つの神なのである。なぜなら、もし、例えば「子なる神」がおられなければ、もはや聖書の神ではない。「父」についても「聖霊」についても同様である。そして、神は唯一である。三位がそろって初めて一つの神だからである。こんな簡単なことが、どうして難解なのだろうか。聖書の神は、そういう神なのである。
 それでは最後に、そのような単純明快なことが、どうして「難解」と思われるようになったのか。「難解だ」という人は、3=1という公式ばかりに着目している。しかし、上でも述べたように、実は、「神=3」なのである。この「3=1」という考えの中に、すでに三位一体を否定する考えがあったのである。それは、正に悪魔が考え出したことである。極めて美しく、有難い教理を「不合理で無味乾燥で難解なもの」としてしまうためである。そして、この教理を「難解」とする人は、神との人格的な関係を持つことができなくされてしまうのである。「3=1」を理解しようとしたら、そうなってしまうのである。だから、「理解せずに、床の間に飾っとこう」ということになる。そして、それは神との人格的な関係をも棚上げにすることに他ならない。理解しないのだから、人格的な関係など持てる吉もないのである。
 この論述が「とりとめのない話」と思われる方は、コメントしていただきたい。それから、「私も賛成」と言われる方もお願いしたい。これは、私にとって、大きなことである。それは、終わりの日に開かれる大きな真理なのかも知れないとさえ思っているからである。

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2018/09/05

三位一体について

 例えば、主イエスが教えてくださった「主の祈り」において、私たちが「天の父」と呼びかけるとき、神は私たちの父でなければならない。そうでなければ、私たちは、この祈りを本心から祈ることはできず、単に口真似をしているだけということになろう。私たちは、実に「神の子」でなければならないのである。聖ヨハネが言っているように、「わたしたちは、今既に神の子」なのであり、それは、主イエスの十字架の贖いにより、そのようにされたのである。つまり、主イエスが天に帰られた今となっては、私たちが主イエスの身代わりなのである。その主イエスは、聖霊の力により、病人を癒し、悪霊を追い出し、権威ある言葉を語られた。そして、この地上で私たちを神の子とし、天の神を「アバ父」と呼ばせるのも、私たちの内に宿られる聖霊なのである。
 それゆえ、この一連の恵みと召しを神から受け取るために、三位一体は不可欠であり、もしこの教理が真理でなければ、私たちには、何の望みも無いことになる。もし私たちが、キリストを信じて、単なる教会生活を送るだけなら、私たちは、この世界でもっとも惨めなものと言えるだろう。しかし、神のご計画は、私たちがこの「父と子と聖霊」の恵みに実際に与ることだったのである。それは、まさに私たちが主イエスの姿に変えられることであり、三位一体が私たち一人一人の中に具体的に実現することなのである。
 しからば、この最重要な教理であるところの三位一体とは、どのようなものだろうか。
 まず、天におられるのは、父なる神、つまりすべてを生み出された方、この世界を造られた創造主である。
 つぎに、御子は、神の言葉であり、この世界の雛形であり、創造主はこれによりこの世界のすべてを造ろうとされた。
 最後に聖霊は、子なる身分を授けるために神が遣わされたご自身の霊である。
 そえゆえ、主イエスは、ご自身では何も力を持たない状態でこの世界へ来られたのであった。彼は、単なる雛形であり、世界を生み出す力を持たないのだが、それでも彼の内には、この世界のすべてが予め在ったのであり、付け加えられるべき何ものもない。もはや何も生み出す必要がないのである。彼は正に、「わたしは有る」というお方なのである。そして、神の言葉である御子に従って、この世界を在らしめたのが聖霊である。聖霊は、御子の内にあるように、この世界のすべてを創造し、父なる神の「光あれ」との言葉で光を創造し、創世記にあるすべての創造の業を行われた。そして、それらすべてを行うことを決められたのが創造主で父なる神である。この創造主なる神は、天におられる私たちの父であり、すべてを動かしておられるので、私たちは、この父に祈り、お願いをするのである。
 つまり、ひとことで言うと、「御子:概念」、「父:意思」、「聖霊:力」、であり、これらが、一人の神に備わった御性質ということになる。
 しかし、三位一体の教理から帰結する、次のことこそ、もっとも重要なことである。それは、「主イエスと私たちの違い」ということである。つまり、上記のことから言えることは、主イエスと私たちの違いは、中身の問題であり、「主イエス:神の言葉」、「私たち:被造物」ということになる。そして、驚くべきことに、主イエスと私たちの違いは、それだけなのである。もちろん「それだけ」と言っても、これは天と地の違いであり、限りなく異なっており、似ても似つかないものである。しかし、それでも、ある一点において、主イエスと私たちは、まったく等しいのである。それは、「この地上で、神の働きをすること」においてである。私たちは、主イエスとまったく同じ体を持ち、まったく同じ聖霊を与えられているからである。そして、このことを人に悟らせまいとして、悪魔は、昔々に三位一体を難解な教理に仕立て上げてしまったに違いないのである。まったく、とりとめのない話なのかも知れないのだが。

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