2015/08/06

○○○殺人事件(34章)

 ヤコブの一人娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけて行ったところ、その土地の首長であるヒビ人ハモルの息子シケムが彼女を見かけて捕らえ、共に寝て辱めてしまった。それを知った兄たちは、策略を立て、シケムにディナを嫁がせる条件として、その土地の男全員が割礼を受けることを切り出した。彼らがそれを受け入れ、3日目に傷の痛みに苦しんでいるところを兄たちが襲い、彼らを虐殺し、財産を略奪した。
 なぜ、このような悲惨な出来事が起こったのだろうか。これは、聖書に記された出来事であるところに大きな違和感がある。しかし実際は、聖書は、このような残虐な出来事に満ちているのである。しかも、神の民と言われるイスラエル民族も大規模な虐殺を繰り返してきたのである。これは、いったいどういうことなのだろうか。
 それと同じような疑問を、よく人は提起する。神がおられるのに、なぜそのような悲惨な出来事が起こるのか。これでは、神も仏もないではないか。しかし、聖書は公然とその事実を記し、その目的を約束の地の奪還であると主張する。そしてそれが、人類の永い歴史の大きな火種となり、現代に至ってもその火は沈静化していないばかりか、むしろいつまた燃え上がるかもしれないような状況が続いているのである。
 それは、神の所為なのであろうか。聖書は、そのようには言っていない。強いて言えば、それは、神がこの世界をご自身で直接的に裁くことから手を引いてしまったからである。そして、それを人間に任せられたのである。あのノアの大洪水の後で。だから、この世界に悲惨なことが起こるのは、実は人間の所為なのである。でも、どうして神は、そのような不器用な方法で世界を治められるのか。他に方法がないのだろうか。たぶん、無いのだろう。というのも、神の目的は、この世界のみんなが仲良くなることではないからである。かつて、人間が仲良くなって、一つの理想国家を作り上げるまでになったことがあった。しかし、その目的は、神への反逆であった。人間が一致したときに、成し遂げることは、神の無視、偶像崇拝、等々だったのである。その出来事は、ノアの洪水の後だったので、神は、彼らを直接に裁くことをされず、彼らの言葉を乱すことにより、これを食い止められた。神の対応は、ノアの出来事の後で、守備一環しているのである。そして、神の目的は、世界中の人が自分の意志で、心から喜んで神の元へ帰ることである。そのために、神はこの世界を直接的に裁くことが寄与しないことをご存知なのであり、福音宣教によって、それを実現しようと意図されたのである。

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2015/08/05

神と相撲をとる(32~33章)

 2人の妻と多くの家畜を含む全財産を抱えて伯父ラバンの家から逃走したヤコブは、兄エサウの住む実家へ向かっていた。それは、神の配剤でもあり、ヤコブは長子としてイサクの家を継がなければならなかったのである。しかし、ヤコブは兄エサウの復讐を恐れていた。そして、ヤボクという渡し場で祈るうちに、その場所に現れた神と相撲をとって勝ち、イスラエルという名と共に神からの祝福を受けたのであった。
 ヤコブは、なぜ格闘で神に勝つことができたのだろうか。また、それには、どんな意味があるのだろうか。まず、神がヤコブに語っていることに注目する必要がある。「お前は神と人と闘って勝った」。ヤコブは、神に勝っただけでなく、同時に人にも勝ったのであった。ヤコブは、神と戦うと同時に人と戦っていた。つまり、ヤコブが戦っていたのは、神であり、同時に人である者であった。「神であり、同時に人である者」、それは、イエス・キリストであるが、そのことは、今は置いておこう。神はこのとき、神でありながら、同時に完全なる人になっておられたのである。それは、なぜか。ヤコブと戦うためであった。神は、ヤコブと対等に戦う方法を捜し求め、人となって現れることを選択されたのであった。何のために?ヤコブと戦うためであり、そのこと自体が目的だったのである。戦いとは何か?私たち人間は、例えば生活の糧を得るために戦う。あるいは、恋人を得るために戦う。つまり、何か別のものを自分のものにするために戦うのである。しかし、神にはそのようなことは必要ない。私たちには、戦いの真の意味が分からないのである。戦いとは、契約以上のものである。神は、アブラハムを選び、彼と契約を結ぶことにより、人間と特別の関係に入られた。創造主と被造物の関係のような、主従関係ではなく、対等の本気の関係にである。しかし、究極的な本気の関係とは、戦いなのである。そして、戦いの本質は、どちらが勝つか分からないところにある。そして、どちらが勝っても、負けた方は、勝った方である相手を祝福するのである。神は、決してヤコブより弱くはなかった。しかし、「ヤコブに勝てなかった」のであった。神の目的は、ヤコブに勝つことではなく、ヤコブと戦うことだったのである。そのために神は人となり、それゆえにヤコブに勝てなかったのである。そして、夜が明けるという期限切れを前に、反則を犯された。つまり、ヤコブの腰のつがいに触れられたのであった。そのことにより、神は反則負けを期し、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言って、ヤコブを祝福されたのであった。このことにより、ヤコブは神と戦って勝った者と呼ばれる。それは、全世界でただ一人、神と最高の親密な関係を持った者という意味であり、神は、イスラエルをそのような民族として選ばれ、本気の関係を持つことを意思されたのである。

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ヤコブとラバンの化かし合い(29~31章)

 兄エサウから長子の特権と父からの祝福を横取りし、怒りを買ったヤコブは、母の助言により、伯父のラバンの家に身を寄せるべく独り旅立った。彼はそこで、ラバンの2人の娘、レアとラケルを妻に迎える。そのために彼は、ラバンに騙されて14年間仕えなければならなかった。その後も、悪賢いラバンは、ヤコブを良い様に働かせて家畜を増やした。しかし、悪賢さではヤコブも負けていなかった。ラバンとの取引における彼の策略により、ヤコブはラバンの多くの家畜を自分のものにし、2人の妻を連れてラバンの家から故郷へと逃走することになる。ヤコブの2人の妻は、子を生むことにより、自分が夫に気に入られようとし、自分の仕え女までヤコブに与えて子を生ませた。そのようにして、ヤコブには11人の男子と1人の女子が誕生し、ここからイスラエルの部族が形成されて行くことになる。ここにおいては、注目すべきことが2つある。まず、聖書的な概念であるところの「神の予定」という事柄と、「イスラエルとはどのような民族か」ということである。
 まず、「神の予定」についてであるが、これは「予定論」と呼ばれている事柄である。しかし、多くの人は、この「予定論」について誤解している。それは、「神が未来に起こることについて予め詳細に定めていて、誰もそれを変えることができず、すべては映画のシナリオのように、ただ無味乾燥に動いて行くのであり、人間の自由意志と矛盾するものである」という考えである。しかし、予定論とは、決してそのようなものではない。それは、「遺棄」の教理と密接に関連していて、人間の自由意志に基づくものなのである。つまり、神は、ご自身のご計画を実現するために、人間の自由意志に対して働きかけられるのである。出エジプト記におけるエジプト国王パロの場合、神は彼の心が頑なになるように様々な出来事を引き起こされた。そのすべての結果、パロは最後の最後までイスラエル民族の解放を自分の意志で拒否したのであった。そのように、神はその全能により、人の自由意志を巧妙に取扱われることにより、歴史を動かし、予定を実現されるのである。
 そこで、ヤコブもエサウもその両親のイサクもリベカも、またラバンさえも、神の予定の中にあったことになる。神のご計画は、ヤコブからイスラエル民族を創造することだったのであり、彼の妻たちは、そのように相争ったのであった。そして、この神のやり方は、人間の自主性と矛盾しないばかりか、全能者が自由意志を持った人間と関わる上での、もっとも人間を尊重した方法なのである。
 また、イスラエル民族については、神はこれを純粋培養されようとは思われなかった。上記のような生まれ方をした12人、特にエジプトで育ち、エジプト人の妻を迎え、2人の混血の子、マナセとエフライムを生むヨセフを含む民族の血は、純粋とは決して言えない。むしろ、彼らを混血の民族とすることで、全世界の民族の代表とされたのであった。そして、この雑多な民族と契約を結ぶことにより、それを一つの純粋な民族とみなされた。イスラエル民族の純粋性は、神との契約にのみ基づいているのである。

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2015/08/03

父をだますヤコブ(25、27章)

 アブラハムの一人子イサクに、エサウとヤコブという兄弟が生まれた。しかし、2人がまだ生まれ出る前に、母リベカは神から「兄が弟に仕える」と告げられた。果たしてその通りに、長子の権利は兄エサウからヤコブに移り、父イサクからの直接の祝福もヤコブが母と共謀して騙し取ってしまった。ここで2つのことの意味が問われる。まず、「兄が弟に仕える」という成り行き。次に、そのように仕組まれた神の介在である。
 これらのことは、「神の選び」という聖書的な概念を思い起こさせる。神は、祝福を与える者を自由に選択される。しかし、なぜ神があえて選択をする必要があるのか。それは、個々の人間の間に不均一があるからである。それは、アダムとエバがエデンを追放されて以来の婚姻と誕生の繰り返しに起因する。神は、ご自身がこの世界に持っておられるご計画を実現ために、必要な者を選ばれるのであり、それがヤコブだったのである。そして、神はもはや直接的には、この世界に介入されないため、人間同士の泥臭い駆け引きにより、この場合には、兄弟間の凌ぎ合いにより、それを実現されるのである。たぶん、リベカに前もって知識を伝え、様々な指図をしたのも、歴史を導く天の会議体の決定だったのだろう。
 それでは、これらのことの目的は、いったい何なのか。かつて天使から遠い将来に関する幻を示された預言者ダニエルは、「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねた。それに対して天使は、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている」と答えた。そのように、これらのことの終わりは、神によって秘められ、封じられている。しかし、それらに意味が無いわけではない。エサウもヤコブも、イサクもアブラハムも、イスラエル民族も、そして異邦の民たちも、神のある一つの目的のための道具なのではない。彼らは、巨大な複雑な機械の中の1枚の歯車なのではない。神は、契約を結ぶことにより、彼らと関係を持つことを意図された。そして、それこそが神の目的なのである。神は、ノアの出来事を期に、ある意味でこの世界への直接的な介入を放棄された。そして、この世界を後にして去って行かれたのではなかった。神は、この世界の人々と契約を結ぶことにより、本質的な関係を持とうとされたのだった。それは、神がこの世界に直接的に介入することよりも、遥かに勝る、人との親密な関係である。その関係は、神の広大な計画を実現するためでもあるのだが、それ以上に、その契約による人との親密な関係こそが神の目的そのものなのである。だから、神の目的は、アブラハムにおいて完結しているし、イサクにおいて完結し、ヤコブにおいて完結し、イスラエル民族の歴史において完結し、そして現代においては、あなたという一人の信仰者の生涯において、完結するのである。
 有名な理論物理学者ホーキングはかつて、「宇宙はなぜ、存在するという面倒なことをするのか」と語った。彼は、宇宙という大きな機械の目的を探していた。しかし、たとえその結末があったとしても、それは、神にとって、一つの本の最後のページでしかない。神にとって、大切なのは、それを読んでいる、ホーキング、あなた自身なのである。

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2015/07/23

ヤハウェのドキドキ義人実験(22章)

 「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22章1~2節)
 この『これらのこと』とは、例えば、アブラハムがソドムについて執り成したことが含まれる。神は、ご自身の言葉のように、善い人を悪い人と共に滅ぼすことはせず、ロトとその家族を災いから救い出された。また、ゲラルのアビメレクのところに滞在したこと。神は、契約を結んだ者を特別に扱われる。また、アブラハムが女奴隷の子イシマエルを追い出したこと。神は、サラの願いを肯定され、アブラハムから生まれる長子イサクと契約を結ぶと約束された。これらのことの後に、神はアブラハムを試みられたのであった。
 アブラハムは、上記のことにより、神がイサクを殺されることは無いことを確信していた。それはまず、神の命令に滞りなく従い、旅の準備をした態度に表れている。次に、彼が僕たちに語った次の言葉がそれを示している。すなわち、『アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。』(22章5節)。そのように彼は、自分とイサクが必ず生きて戻ると宣言していた。さらに、『 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。』(22章7、8節)とのイサクに対する言葉にもその信仰が宣言されている。つまり、アブラハムは、神の恐ろしい命令に服従しながらも、神がその命令を覆されることを確信していた。神もまた、アブラハムがそれを確信できるようにと、上記のことをアブラハムに対して、事前になさっていたのであった。
 しかし、だからと言って、アブラハムがイサクを捧げたことが狂気ではないということではない。それは、確かに狂気である。アブラハムがイサクを捧げたとき、もし神の静止がなければ、彼は息子イサクを殺していたであろう。しかし、アブラハムは、最後の瞬間まで神を信じ続けた。それに対して、一般的な狂気とは、神の恐ろしい命令に、自分の心で賛同し、従い、実行することである。しかしアブラハムは、神に最後まで従うということと、神がその命令を覆されることを信じることを同時に行っていたのであり、それゆえ「信仰の父」と呼ばれているのである。

 

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2015/07/21

ソドムとゴモラ(18~19章)

 ソドムとゴモラが滅ぼされる前に、3人の天使がそれらの町の状況を見ようと遣わされた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」(18:20)。つまりこのとき、神はもうすでに、この世界をご自身で直接裁くのではなく、たぶん、ある天の会議体を通じて裁いておられたのである。なぜそのようなことになったのか。その起源は、ノアの大洪水にまで遡る。そのときに神が全世界と結ばれた契約によるのである。
 この新しい契約の内容について、あまり取り上げられることはないようなのだが、それはどうでも良いような、単に「神はもう大洪水を起こさない」というような単純なものではない。神がもはやご自身で世界を裁かないと決心され、世界の統治を人間に委ねられたということが何を意味するのかというと、その結果、この世界で、善と悪の壮絶な戦いが始まったということなのである。つまり、神がこの世界に介入されている間は、善が必ず勝利し、悪は即座に裁かれ、謂わばすべてがハッピーエンドであることが保障されていたのだが、神がもはやこの世界に介入されないとなると、必ず善が勝利するとは限らないという恐ろしい状況になったのである。果たして、あるとき、天で壮絶な戦いが起こり、天の軍勢と悪魔の軍勢との戦いに悪魔が敗れ、地上に投げ落とされたとイザヤ書14章や黙示録12章他に記されている。その結果、天には神を中心とした天使の会議体が置かれ、地には悪魔を中心とした悪の軍勢がはびこることになったと思われる。しかし、この世界の統治が人間に委ねられているとすれば、天の会議体は、何のために存在するのか。それは、全世界の統治を神から委ねられている人間を助けるためなのである。
 そのようにして、あの3人の天使は、天の会議体から地上に遣わされ、裁きを行う前の状況確認がなされたのである。そして天使は言った、「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」(18:17)彼らは、アブラハムという人間を助けるために遣わされて来ていたのである。その目的は、神がアブラハムと結ぼうとされている契約を邪魔する要因を取り除くためであった。ソドムとゴモラを放置しておくことは、その神の計画を妨害することだったのである。そして、もう一つの目的があった。それは、アブラハムに神の裁きとはどういうものかを見せるためであった。神は、命の尊厳を守るために、その尊厳を冒す者の命を要求すること、そして、神は正しい者を悪い者と共に滅ぼすことは決してないということである。もくもくと煙の立ち上るソドムから救い出されたロトと再開したとき、アブラハムはそのことを確認したに違いない。そして、その戦いがどのように壮絶なものであったかも思い知った。ロトの妻が犠牲になったことにより。

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2015/07/15

昼ドラ創世記(16~17章)

 聖書は、様々な人間模様に満ちている。聖書に出てくる人々は、たとえヒーローと言われる人であっても、そのほとんどは普通の人間であり、現代を生きる私たちと同じような弱さ、醜さを持っているのである。そして、それゆえに聖書は、現代を生きる私たちにも強く働きかけてくるのであり、私たちはそこから、現代を生きるための知恵と励ましを得ることができるのである。
 このことは、どんなに強調しても強調し過ぎることはないだろう。私たちは、聖書を読むとき、そこに何か模範的な人間、聖人のような、崇高な人間を期待してはならない。そんな人は、本のわずかしか出てこない。むしろそこは、泥臭い張り合いや戦い、争い等に満ちているのである。それでは、私たちは聖書の中に、何を期待するのだろうか。それは、そのような人々の中に、神がどのように働かれたのか、彼らが神の導きや助けによって、どのような偉業を成し遂げたのか。それは、何のためであり、そこからどのような教訓が得られるのか。そして、それらのことから、私たちは現代をどのように生きるべきなのか、また、これからの人生、将来に何が期待できるのか、等々ということなのである。
 そこで、アブラハムとサラ、そしてその女奴隷等を巡る人間模様がどろどろしたものであろうとも、それは少しも驚くには及ばない。それはむしろ、そのような状況を神がどのように導き、彼らに偉大な事を成させるかを見るための前提条件でしかないのである。
 ここ、特に17章には、「契約」という言葉がたくさん出てくる。実に13回も出てくるのである。神は、ノアの大洪水の後にノアを通して人間を含む全世界の生き物と結ばれた新しい契約により、もはやこの世界に積極的には介入されないことを誓われた。そこで神は、この世界に、「契約」によって関わろうとされたのである。「契約」とは、その関係者の間だけに通用する取決めである。そしてそれには、「証拠(しるし)」がなければならない。神は、人の肉体に、しかも主に彼だけが目にする場所、一日に何度も目にする場所に、その契約のしるしを付けることを要求されたのであった。それは、彼がその「しるし」を見るたびに、神の契約を思い起こして、それを守るためである。
 契約とは、その双方に義務を生じさせるものである。そこで、この契約の義務とは、人間にとっては、彼が神の民となり、神の戒めを守るということであり、神の義務は、そのように生きる彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させるということである。この「契約」により、新しい状況が出現した。それは、ノアのときの契約とは、本質的に異なるものであり、さらに強い契約である。それは、全世界の人々とではなく、ある本の一部の人々と神の特別な契約である。ここに、神の民とそれ以外という区別が生まれた。つまり「選民」が発生したのである。その発端は、神が全世界の人々の中から、アブラハムを特別に選ばれたということであり、神は、このアブラハムの子孫とも、代々に契約を結ばれ、神の選民とすると言われるのである。

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2015/07/14

アブラハムの神話級美人局(12~15章)

 「美人局」という言葉は、初めて知ったが、あまり良い言葉ではないようだ。しかし、このブログでもそのままに記載しておこう。というのも、聖書は、人間のどろどろとした側面も、包み隠さずにそのまま記載しているからである。
 まず最初に、はっきりさせておく必要のあることがある。それは、聖書の根本的な考えとして、「義人はいない、一人もいない」という主張がある。実に、イエス・キリストでさえも、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言っておられる。まして、アブラハムが義人であろうはずもない。聖書の中には、アブラハムに対して、「義と認められた」というような表現も確かにあるが、良く読むと、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記 15:6)」というような表現になっており、「アブラハムという人間」が義なのではなく、「彼の行為」が義と認められたということである。そのように聖書は、「義」とか「正しい」とかの概念を、特定の人間に帰属させることはしない。キリスト教は、誰か善い人、先生、師匠、等々を崇め、その人にあやかること等を追求する宗教ではないのである。もちろん神にも、神のようにもなろうとするものではない。それならば、聖書に出てくるヒーローたちには、何の意味があるのか。それは、彼らは、聖書の歴史を形成してきた人々なのであり、その意味では、私たちと同じ人間なのである。
 だから、私がアブラハムについて書かれた記事を読むとき、私の目的は、神がアブラハムとどのように関わられたのか、神と関わったアブラハムがどのような働きをしたのか、アブラハムがどのような成功を収め、またどのような失敗をしたのか。そして、それはそれぞれ、どんな時だったのであり、そうなった原因は、どこにあったのか、等々を読み取り、それを自分に適用することなのである。つまり、「アイ・アム・アブラハム」(私は、アブラハム)ということである。
 それでは、アブラハムは聖書の中で、なぜ「信仰の父」と呼ばれているのか。それは、彼が神の約束の成就を疑うことなく信じたからであり、そのことを最初に行った人だからである。この「最初に行う」ということが重要なのだが、それも決してアブラハムに専属のものではなく、彼がやらなければ、他の人がやっただろう。そして、その人が「信仰の父」と呼ばれるだけの話である。しかし、神は実際にアブラハムを選び、彼に信仰の試練を与えられ、アブラハムはそれをパスしたのであった。そして今日、それを読む私たちも、アブラハムのように、これから与えられるであろう信仰の試練をパスすることを願い、決心するのである。
 次に神は、ご自身と関わりを持つ人を特別に取扱われる。神は、ご自身の意思でアブラハムを選び、彼と特別な関係を持たれたので、彼を特別に取扱われたのである。そして、それは何もアブラハムに限ることではなく、今日の世界においても、神が関係を持たれる人、いや神と関係を持とうと願う人を特別に取扱われるのである。決して、善い行い等をする人ではなく、神と関係を持とうとする人なのだ。聖書においては、人の善い行いは、あまり価値のないものでしかない。しかし誰であっても、神と関係を持つことを願うならば、それは神に着目されることなのだ。それでは、「神と関係を持つ」とは、いかなることか。それは、聖書のどこにも書かれていない。そしてそれは、聖書のいたるところに書かれている。聖書のヒーローたちがその生きた実例なのである。

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2015/07/13

バベルの塔(11章)

 ここに記されているバベルの塔とは、いったい何なのか。そして、神はなぜ、その建設を阻止されたのか。それには、やはり神がノアを通じて全世界と結ばれた新しい契約が関係していると思われる。この契約により、神はもはや積極的にはこの世界に介入されることを控えることを約束された。そこで、この世界の行く末は、その統治者であるところの人間の手に掛かっていることになった。そこは、ある意味で弱肉強食であり、完全な正義の無い世界である。このような状況において、存在が可能となるイデオロギーは、民主主義と社会主義である。社会主義の脅威は、現代における社会主義国の状況を私たちが見たときに実感されるものであり、その最たるものは、世襲制による恐怖政治である。それに対して、資本主義には、自浄作用がある。しかし、それが働くためには、様々な権力が分かれ争う、かなり浪費型の社会を覚悟しなければならない。そして、景気の波が貧富の差をますます拡大させることになる。
 そこで、ここに記されているバベルの塔とは、世界統一のシンボルである。それは、一つの理想的な社会主義国家を目指していた。しかし、世界が一つの国家であり、しかもそれが社会主義国家であったなら、たぶんいずれ恐ろしい状態に落ち着くことになるだろう。人間の罪がそのように方向付けられているのである。そこで、神はこれを阻止されたのだろう。人間の言葉が混乱させられ、複数の国家が分かれ争う状況が出現した。「バベル」、それは「混乱」という意味だが、そこには自浄作用が含まれる。互いに競争しあうことにより、より高い理想に向かうのである。しかし、それと共に弱肉強食の原理も働き、戦争という悲惨な状況がもたらされることにもなる。いったいそれ以外に方法がなかったのか。全能の神にもそれは不可能なのか。ある意味でそれは、不可能なのだと思う。神は、徹頭徹尾、ご自身が創造した人間の自主性を尊重されているようだ。聖書の神は、人と契約を結ばれる神なのである。そして、契約というものは、その責任を両者が同等に持つべきものなのだ。このことを死守する限り、神の世界への介入は、このバベルにおける出来事以上のものにはなり得ないのではないだろうか。

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2015/07/11

ノアの洪水(6~10章)

 アダムの堕罪後、神は継続してこの世界に介入されてきた。例えば、罪を犯したアダムをエデンから追放したり、弟を殺したカインをその地から追放したりした。そのように、ご自身が創造した世界に対して、神は絶対的な覇権を持っているというのがキリスト教の教理であり、これを否定するクリスチャンはいないであろうし、それはまた福音宣教の中に密接に組み込まれている動かせない事柄なのである。
 そのようにして、神はこの世界を何とか運営して行こうとされていたのだろう。この「何とかやっていく」というような表現は、全能の神には相応しくないものかも知れない。神は確かに全能で、神にはできないことはない。しかし、それを行使すれば、どうなるのかということも神はご存知なのである。例えば、この世界をすべて滅ぼしてしまうこともできるが、それでは、この世界を創造した意味がない。また、人類のすべての罪をただただ赦すこともできるが、それでは、この世界の統制が取れなくなり、めちゃくちゃになってしまうだろう。それを避けるために、人間の心から悪い心をすべて取り去ることもできるに違いないが、それでは、人類はただのロボット(機械)と化してしまうだろう。神の最初からのやり方は、この世界と「関係」を持つという高度なやり方だったのであり、神は御遣いも導引してそれに全力を尽くされたようである。しかし、御遣いもまた、ある程度自由意志を持っていたため、神に忠実でなく、定められた場所から離れ去り、人と結婚してしまうような者も出てきたらしい。神の造られた人という存在は、そんなにもすばらしく魅力的であったのだろう。なにしろ、神は人をご自身の姿に創造されたのだから。それゆえ、御遣いにも人を統制することはできず、できる者があるとすれば、それは人間自身なのである。
 しかし人類の罪が限界に達し、それ以上の放任が即全人類の破滅を招く段階に達したとき、神はこの世界に再びご自身で介入することを決心された。それがノアの大洪水なのである。神は、この世界と新しい契約を結ぶことにより、それを条件に、この世界を存続させようとされた。しかし、契約というものは、私たち人間の場合もそうであるが、対等な者同士が対等な関係において結ぶものである。神は、地上を見渡し、ご自身に従う無垢な人間ノアを選び、彼を介してこの世界と契約を結ばれたのである。そして、その契約に与ったのは、箱舟に乗り込むことのできたものたちだけだった。
 神がこの世界と結ばれた契約とは、次のようなものである。
 ①神は、今後もう、この世界に直接介入することはされない。
 ②神は、ご自身の代わりに、人間にこの世界を治めることを託される。
 ③人を殺した者は、自らの命により、これを償わなければならない。
以上であり、これらを条件に、神はこの世界を存続させられたのであった。
 つまり神は、不完全な存在である人間に、この世界の統治をゆだねられたのであり、その際に、ただ一つの原則を導入された。それは、人の命の尊厳であり、それゆえ人は、人を殺してはならないのである。神が彼をご自身の姿に創造されたからである。
 これ以後、人間は、自分たちに自ら裁きを行わなければならなくなった。神が裁かないからである。不完全な存在、神の言葉を借りて言えば、「人が心に思うことは、幼いときから悪い」、そのような人間が自分たちで自分たちを裁くことになったのである。ただし、その裁きがどのように愚かであっても、神は一つの原則を貫かれる。命の尊厳の原則である。それを護るためには、神はときにはこの世界に介入されることもあるのである。
 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、テントの中で裸になっていた。それを発見し、兄弟たちに暴露したハムは、父ノアから裁かれ、「お前は兄弟たちの奴隷になれ」と言われてしまった。人間の行う裁きは、昔も今もそのように本質的には、変わらない愚かなものなのである。

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