2015/05/25

死して有る生き方について

 主イエスは、「わたしの名のために、あなたがたが何か苦しみを受けるならば、あなたがたは幸いである」と言われた。私たちは、王なるキリストのために生きるのだが、それにも増して、彼のために苦しみを受けるとき、あるいは死ぬときにこそ、大いなる幸いを得るのである。というのも、まさにそのことにより、私たちは永遠の命を得るのであり、エックハルトはこの「永遠の命」を「有」という言葉で言い表している。すべてのものは、「無」から創造された。そして、アダムが罪を犯したために、この世界に「罪」が入り込み、その結果「死」がすべてを支配し、その意味ですべては「無」に帰してしまった。そこで、この世界において、どのような努力をしても、どのような創造的な活動をしても、その結果「有」を生じさせたり、「有」に到達することはできない。「永遠の命」への入り口があるとすれば、それはこの世からの出口にこそ存在するのである。エックハルトは語る、「私たちの命は、すべて死すべきものである」、それゆえ、「私たちは、あたかも死んでいるかのようにふるまわなければならない」、そして、「死はつまり彼らにひとつの有を与えるのである」と。
 それでは、私たちの「死」から、どのようにして「有」が生じるのか。むろん、「死」はあくまで「死」であり、それ自体に「命」はなく、そこからは「有」は生じない。もし私たちが自分の「生まれながらの命」の終わりとして「死ぬ」ならば、私たちは永遠に「無」に帰するであろう。そのとき、私たちは依然として「無」のままである。しかし私たちが、この自分の「無」から脱却しようと願うなら、この地上において、その道が備えられているのである。それは、私たちが努力して何かを学び取ることでも、また何かを成し遂げることでもない。むしろ、そのように自分の考えで生きることをやめ、一人の王に従って生きることである。このただ一人の王に従うことなしに、神に仕えることはできない。神は、この王を通じて、命令を下すのであり、彼にだけ御心を示すのである。それゆえ、「有」とは、この王のことであり、私たちがこの王のために自分の人生を捧げるとき、私たちは初めて、自分の生まれつきの「無」から脱却して、この「有」の中に移行するのであり、そこ以外に「有」はない。しかも私たちは、この移行を、私たちがまだ生きているときに行わなければならないのである。
 エックハルトは語る、「魂が身体から離れれば、魂は知性も意思も持つことはない。魂は一なるものであり、そうすれば魂が神へと帰りゆくことを可能にする力を魂は見つけ出すこともできなくなるであろう」と。この世界における私たちの人生のすべては、私たちが人間として、同じく人となったこの一人の王の僕となるためにあるのである。そして、旧約聖書の武勇伝もすべて、私たちがそのことを学ぶために書かれたのである。

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2015/05/14

なぜという問いのない生き方について

 エックハルトは言う、「子によって生きるのでなければ、どんな人でもその点において正しいとは決していえない」と。この「子によって生きる」とは、キリストという王に従って生きるということである。しかし、「キリストに従う」とは、彼にただ隷属することではない。それ以上のことなのだ。つまり、自らの意思で彼に仕えることである。ちょうどヨアブがダビデに仕えたようにである。キリストに仕える者は、何ものにも隷属してはならない。自分の心にも、また論理や法則にも。つまり、「なぜ」という問い無しに仕えることが求められるのであり、神もそのような者を喜ばれるのである。
 しかし、いったいどのようにすれば、ただの隷属ではなく、自分の意思で神の喜ばれることを行うことができるのか。それには、彼が真理そのものとなることが必要である。エックハルトは語る、「この露な本姓のうちに直接立とうと思うものはだれでも、個人的なものすべてから離れていなければならない」と。しかし、「個人的なものすべてから離れる」とは、仙人になることでも、空想にふけることでもない。再びエックハルトによれば、「内面への沈潜、敬虔な祈り、甘美な法悦、あるいは神の特殊な恩寵の内にあるほうが、かまどの火のそばや、うまやにいるよりも、多くのものをうることができるなどと思い違いをするならば、あたかも、神をとらえ、その頭にマントをかぶせて腰かけの下に押しこめてしまうようなもの」なのである。彼はさらに語る、「神があなたに節に願うことは、あなたが、自分の被造物としての有のあり方にしたがって、自分自身より離れ、あなたの内に神を神としてあらしめることである。これをおいて他にない」と。この「自分の被造物としての有のあり方にしたがって、自分自身より離れ・・・」とは、どういうことであろうか。それは、「自分の具体的なあり方において自分を捨てる」、つまり、「生まれながらの自分というものを捨てて、神との必然的な関係、それもきわめて具体的な関係に入る」ということなのである。しかし、目に見えない神と具体的な関係に入ることはできない。そこで神は、この世界に御子を送って、私たちの王とされたのであり、私たちはこの一人の王と具体的な主従関係に入ることにより、自分を捨て、この王に仕えることにより、「なぜという問いのない生き方」に入ることができるのである。このもっともありふれた主従関係としての王と家臣の関係の中に、もっとも高度な信仰の状態が実現されるということがキリスト教の奥義であり、三位一体も、パウロの神学もみなそのためにあるのである。というのは、自分の意思で神の御心を行うためには、神と一つになることが必要なのである。しかし、「神と一つとなる」ということは、自己喪失でも霊的恍惚状態でも、さらには神を冒涜すること等ともまったく異なることだからである。
 これについてエックハルトは語る、「愛するものよ、あなたの内で神が神であることを神に許したとしたところで、あなたにどんな不都合があるというのだろうか。神のためにあなた自身から完全に離れよ。そうすれば神はあなたのために自分自身から完全に離れるのである。この両者が共に離れるとき、そこにあるのはひとつの単純な一である。この一なるものにおいて、父はその子を最内奥の泉に生む。そこに聖霊が咲き出で、そこにひとつの意志が神の内に湧き出でる。この意志は魂に属するものである。」と。

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2015/05/11

魂の内にあるひとつの力について

 「我々は、神の内に生き、活動している」とパウロは言った。その意味で、神は私たちを包み込むような大きな存在である。しかし一方で、私たちは聖霊の宮と言われる。その意味では、私たちは神を包み込むような、というか、神が内在されることのできるような存在なのである。というのは、聖霊は神の一部なのではなく、神そのものであるお方なのであり、主イエスもまた、「わたしと父は、来てあなたの内に住む」と言われた。神は、まさにそのように私たちの魂を造られたのであり、そのような大それたものを神は造ってしまわれたのである。エックハルトは、この説教の冒頭で、ルカ10:38を引用して、「彼女、すなわちイエスを迎え入れた人が、処女であった、ということはどうしてもそうでなければならなかった」と言っている。つまり、主イエスを心の中に迎えたいと思う人は、どのようなことに対しても、一切の先入観を持たない、精神的に処女のような、自我性から解放された人でなければならないのである。
 もっとも、人が救いに与るためには、彼の自我性が必要である。彼は、一人の罪ある人間として主イエスの下へ来て、十字架を仰ぎ、自分の罪を告白して救われるのである。しかし、ひとたび救われた後には、今度はその自我性から完全に開放されなければ(精神的に処女にならなければ)、主イエスの教えを真に受け取ることはできないというのである。しかし、エックハルトはさらなる段階を語る。それは、「女」という段階であり、マリアのように、主イエスの傍らに座って、偏見無くそのみ言葉に耳を傾けているだけではなく、マルタのように、ただ主のために働くという段階である。この「主イエスのために何かを生み出す」ことが、エックハルトの言う「女性」性である。そして、その「生む」ということが神の前で何か意味をもつためには、すなわち、無ではないもの、「新たな創造物」となるためには、それが神の業である必要がある。無から有を創りだせるのは、神だけだからである。しかし一方で、それはまた何と、実際に私たちの成す業でもあるのであり、そのような神的な力が私たちの内に与えられているとエックハルトは言い、それを「魂の城」と呼んでいる。主イエスも、「あなたがたは、わたしの業を成すようになる」と言われたように、私たちは主イエス、すなわち神と同じ創造の業を成す者とされるのである。しかし、ここのところが、かなりきわどく、異端とすれすれの領域なのであるが、私たちは神の力によって神の業を行うのであり、神が共におられなくては、神の業を行うことができない。それは、主イエスも同様であった。しかし、同時に、その業を私たちが行っているということも真実なのである。それはちょうど、子供を生むのが私たち人間であり、それが同時に神の成される業であるというのと同じである。
 こと精神に至っては、この神の業を行うためには、魂という精神の王国に、主イエスという王が必要なのである。そして、戦うのは私たち自身であり、勝利するのも私たちである。私たちは神により勝利し、神に栄光を帰すのである。この神と人の役割分担というか、領域の融合と区別を正しく受け取り、無垢な心で従うことが求められるのであり、そのために私たちは、エックハルトの言う、「処女であり女である魂の城」となり、そこに主イエスが登り来たり、迎え入れられ、彼が語る仕方で永遠にとどまるということが必要なのである。

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2015/05/08

魂という神殿について

 「神が力をもって思いのままに支配しようとするこの神殿とは人間の魂のことである。」とエックハルトは言う。神は、どのようにしてそのことを成されるのか。その前にまず、そのことを成されるのは、「父なる神」ではない。父なる神は、「裁く方」とか「愛」とか言われるが、それは「支配」ということとは異なるものである。また聖霊は、「助け主」とか「慰め主」とか言われているが、それもまた「支配」とは異なる。御子は、「救い主」とか「購い主」と言われるが、それさえも「支配」とは異なっている。「支配」とは、妥協を許さない完全なものであり、そのために何かの手段を使うというようなものではなく、方法なく、手段なく自由であり、しかもその支配から脱するあらゆる可能性を排除するようなものでなければならない。それでは、神はどのようにして人間の魂をそのように支配しようとされるのか。
 けだし、この「支配」とは、自由意志を持っている人間が、自ら望み、喜んで、その支配に服することを意味するのであり、それ以外の例えば「啓蒙」や「取引」や「恐怖」等による支配は、本当の意味の支配ではなく、そのようなものが人間を幸福にすることはない。主イエスは、「このようなものはここから運び出しなさい」と言われた。この本当の意味の「支配」が確立されるためには、どうしてもこれまでに無い何かが成されなければならない。それは、「新しい創造」である。神は、「ことば」によりこの世界を創造された。そして、いまもう一度、「ことば」により人の魂を再創造しようとされるのである。主イエスこそが、この生きた「ことば」である。しかし、この「ことば」を聞くためには、私たちは、まずもって「心貧しく」ならなければならない。私たちの魂が、固唾を呑んで、この「ことば」が語られるのを待ち望むほどに。それは実に、「無からの創造」である。それまでにあった、どんなものも、この新しい「ことば」とは、関係がない。しかし、それが語られるとき、私たちの内で「新しい創造」が始まる。そして、その「創造」は、人の魂を新しく造り変える。どのようにしてであろうか、それは実に「約束の地の奪還」なのである。なぜなら、一度目の創造が完全なもので、もはやそれにさらに付け加える必要がないようなものであったとしたなら、二度目の創造は、私たちが失ってしまったそれらのものの奪還に他ならないからである。そして、その奪還は、一人の王によって成されるのである。そして、私たちは知る。その一人の王イエスこそが約束の地であることを。それは、主イエスがあなたにとって、すべてのすべてとなることである。あなたの周りのすべての事柄の順序が入れ替わる。すべてが、これ以上あり得ないほど、整然と位置が整えられ、あなたは初めて、自分の人生の意味を理解する。いや、あなたという存在の意味、価値、愛おしさ等々を真に理解するのである。それは決して、「知り尽くす」というような意味の軽蔑すべき退屈なものではなく、すでに見知ったものも、そして未だ見ぬ無数のものさえも、その目的としての御子の内に、確固とした必然を持つことを予感するものとして、あなたの所有とされていることを知ることである。そして、神は、天国のためでもなく、天使のためでもなく、ただあなたの魂のために、そのことを成されるのである。

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2015/05/07

エックハルト再び

 なぜまた、再びエックハルトを研究しなおす気になったのか。それは、私の信仰がまた一つの異なる段階に入ったと思ったからである。それは、王としてのイエスに仕えるという段階である。私にとって、もはやイエス・キリストは救い主ではない。彼は、一人の王である。それも、ただ一人の王なのだ。旧約聖書のすべてが、その長い歴史が、その壮大なドラマが、この一つのことを語っている。しからば、新約聖書は何を語っているのか。それは、その一人の王が今生きておられるということである。そして、主イエスを信じる者は、このお方を王として、仕えることが求められる。もしそうなら、彼の人生は、生まれつきの彼の人生に比べて、まったく変わってしまうだろう。そこには、もはや個人的には、楽しみも喜びもない。ただ、「仕える」という必然のみがある。そして、そこへ駆り立てるものは、その一人の王の気高さである。ただ聖霊のみが、このイエスという王の気高さを人間の魂に啓示することができる。そして、この啓示を受けた者にとって、もはやどのような喜びもそれは無に等しいものとなる。
 エックハルトは、それを知っていたのだろうか。私は、彼が知っていたと思う。そうでなければ、あのように書くことはできなかっただろう。しかし、エックハルトの説教と言われるものが、そのことを十分に提示しているかどうかということについては、少し疑問が残る。というのも、そこに聖霊が働かなければ、それが啓示されるということはないであろうから。つまり、聖霊の啓示は、文字を通しても、つまり口述筆記を通しても伝達されるのかとい問題がある。そしてそれは、かなり疑わしい。しかし、エックハルトの説教が往々にして、否定神学的な方法に負っていることを考慮するならば、あるいはそれも可能なのかも知れないと思う。しかし、それにしても、人が、エックハルトの説教の口述筆記をただ読んだだけで、聖霊の啓示が伝わるとは毛頭思えない。そこには、なんとしても、何かがなされなければならないと思うのだ。それが、「解釈」なのである。しかも、それは単なる用語や考え方の説明などではなく、異なる言葉や表現による言い換えが必要なのであり、それらと併せて、口述筆記の原文を自分のこととして考察することによって初めて、聖霊の助けにより、当時の啓示内容が蘇えるということが起こり得るのではないかと思うのである。

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