2012/06/14

研究を終えて

 「踏絵を踏んだロドリゴは棄教したことになるのだろうか。それとも、彼は依然としてクリスチャンであり続け得るのであろうか」というのがこの小説を読む者がまず持つ疑問であろう。しかし、もしその読者が信仰者ならば、自己が背景としている信仰の基準に則り、判断を下せるかもしれないし、もしそうでないという場合には、その人の信仰にどこか曖昧なところがないかどうかを再検討してみる契機にもなるだろう。そこでこの問題は、論理的には、白か黒かの明確な問題と考えられよう。しかし、「上記のことを遠藤周作自身は、どう考えていたのか」ということになると、これはそう簡単には判断できないように思える。この小説の最後の終わり方(切支丹屋敷役人日記以前)を読むと、踏絵を踏んだロドリゴの心境が肯定されているように思えるが、それでも、それを持ってして彼の信仰を普遍的な真理として提示しているとまでは受け取れない。むしろ、フェレイラに対する卑屈な描写や、ロドリゴのフェレイラに対する軽蔑、そしてそれと同種の自分に対する絶望のような感情、それらは決して、肯定的な表現ではなく、彼らはその後の一生をまさに影のようにして送ったであろうことを暗示させないだろうか。それでは遠藤周作は、この作品で、いったい何を表現したかったのだろうか。私には、それは、ちょっと考えすぎかもしれないし、またある意味では曲解的な解釈かも知れないのだが、その、つまり、現代キリスト者の浮ついた信仰への当て付けと警告のように思えるのである。
 フェレイラとロドリゴは、なぜ棄教してしまったのか。それは、彼らが「考え過ぎた」からである、というのが私の考えである。いや、信仰には「考えること」は、必要ないと私は言いたい。それでも足りなければ、「信仰には、考えることは有害である」と言っても過言ではないと思っている。というのも、「考えること」は、「もっと考えること」に通じ、それはさらに、「考えすぎること」に至る可能性を持っているからである。ロドリゴの宣教師生涯を見ると、それが分かるのである。彼が最初、日本宣教を決意したときには、彼はほとんど何も考えてはいなかった。彼の思いは、唯一つ、キリストのために日本に行くことだけだった。ところが、マカオに着いた彼の心の目は、早くもキリストから離れて自分に向けられ、さらに本国の聖職者たちに対しては、彼らに自分の苦しみは分からないと愚痴めいたことを言い始めている。そして、日本に渡ってからは、農民たちの信仰継承に感激しながらも、その内容がどこかおかしいと疑い始め、さらに彼らの殉教に沈黙する神の存在に対してさえ疑問を持つに至り、ついに死の恐怖に負けて、自分を偽り、ついに棄教するに至ったのである。それに対して、ひたすら天国における幸福だけを夢見た、純粋信仰の農民たちは、主イエスにある殉教を成し遂げて行ったのであった。また、フェレイラにしても、自分が宣べ伝えた福音が正しく受け取られていないのではとの疑問から、日本宣教に失望し、ついに何の脈絡もなく、棄教、背信、そして迫害者の手引きへと成り果てて行ったのであった。
 それでは、健全な信仰とはどういうものか。しかし、「健全な信仰などというものはない」と私は言いたい。キルケゴールは言った、「信仰とはキリストのために文字通り自分を失うことである」と。考えることが背信へ通じるのなら、信仰を保つには、「考えないこと」しかない。信仰の父アブラハムはどうであったろうか。彼が神から、「独り子イサクを生贄にささげよ」との命令を受けたとき、彼が「そのような惨いことを愛の神が命ずるはずはない」などと考えたとしたら、キリスト信仰は生まれなかったであろう。アブラハムは、あえて自分を狂人として、息子イサクを殺そうとしたのであり、聖書はそのアブラハムを信仰の父と呼ぶのである。しかしそれでは、文字通りの「カルト教団」ではないのか。その通りである。私たちは、キリストのために盲目となって、妄信的にキリスト教を信じるのであり、それ以外に信仰の道はない。「でも、もし間違っていたら?」、そう考えることが、背信へとつながるのである。ロドリゴが、「もし、神がいなかったら」と考えたのは、農民たちの殉教を前に沈黙するような神は、愛の神ではないのではないかと考え、それならユダを見捨てたキリストもおかしい、それを信じている自分もおかしい、・・・・・・、とエスカレートして行ったことによるのである。「それでも、もし、もし、私の信じた教えが間違っていたら」、そのときは、私たちを待っているのは破滅である。でも、私たちはキリストにすべてを賭け、彼を信じ、彼の十字架を負って従う決心をしたのである。私たちの義は、私たちの心の正しさや覚醒度合い、普遍性等に懸かっているのではなく、キリストの義にのみ懸かっているのである。
 そこで、現代日本のキリスト教をもう一度イメージしてみよう。「信仰のバランス」とか、「中庸な信仰生活」とか、「豊かな人生を約束する信仰」とか、「ビジネスを祝福に導く秘訣」とか、「聖なる楽しみ」とか、まあ、それらの中には、良いものもなくはないのかも知れないが、「キリストのためにすべてを捨て、それを糞土のように思っている」と言ったパウロとは、相反するものばかりが今日のキリスト者の周りに溢れているのではないか。
 この「沈黙」という小説が、恐ろしい異端に通じるとして警告を発する人がいるが、私はそれらの異端よりももっと恐ろしいもの、それこそが今日の生温いキリスト信仰であり、遠藤周作が描き出したかったのは、まさにそれであるように思えたのである。

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 踏絵を踏んだロドリゴは、人々から「転びのポウロ」と呼ばれ、とある家の窓に凭れながら、道を通りかかる人々を食い入るように眺めていた。彼は、自分の成したいわゆる棄教の行為の数々を思いだし、それらを自分の中で客観的に理解しようとしていた。彼は、それらを自分の弱さの成せる業とし、それが教会から糾弾されるべきものと理解しながらも、あえて自分が棄教したとは考えていなかった。むしろ、それはキリスト信仰の新しい段階、いや今まで一般に誤解されてきたことへの新しい洞察であり、従来見過ごしにされてきた自己矛盾の解決であると理解したのである。
 彼の心には、神学校時代から一つの疑問があり、その解決困難な疑問をずっと抱えてきたのだった。その疑問とは、「キリストはなぜユダを見捨てたのか」ということである。しかもキリストは、最初からユダの棄教を予告していた。それなら、ユダには悔い改めの機会さえ与えられず、単なる操り人形のようなものではないか、というのが彼の疑問であった。そして、彼が至った結論は、「ユダは棄教したのではなかった」ということである。そこで、キリストも実は彼を見捨てたのではなかった。ロドリゴは、自分の踏絵という行為を通じてそのことに気がついたのであった。彼が踏絵を踏もうとしたとき、彼の心の中のキリストが彼に囁いた、「踏むがいい、わたしはお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と。それは、本当にキリストの声だったのだろうか。それとも悪魔のささやきだったのか。それを確かめる方法を彼は持ってはいない。ただ、それによって彼の心にあった疑問は、とにかく一応解決したのであった。
『聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ』と彼は心の中で繰り返す。彼にとって、「信仰とは愛すること」である、しかしそれでは、「愛すること」とは・・?。キリストは言われた、「わたしを愛するとは、わたしの戒めを守ることである」と。それでは、彼はキリストの戒めを守ったのだろうか。「守った!」と彼は叫ぶ。穴吊りにされて苦しむ農民をその残忍な苦しみから救うために、信念をあえて捨てて、自ら教会の汚点となり、教会から排斥されることさえも覚悟して踏絵を踏んだのであり、それは今まで誰も成し得なかった、たぐい稀な愛の行為であると彼は主張するのである。『主よ、あなただけがわたしが棄教したのではないことをご存知です』と彼は祈る。彼は、教会との公的な関係を失い、キリストとの個人的な関係を取り戻した。しかしそれは再び、本当にキリストとの関係なのだろうか。そもそも、キリストはどこにおられるのか。復活の後に天に昇って行かれたキリストは、聖霊を地上に送られ、それにより教会を誕生させ、福音を世界に届ける働きを託された。そして、天から再び地上に来られるときには、ご自身の花嫁として教会を迎えられるのである。その意味では、教会は地上にあるキリストの半身とも言えるのであり、これを軽んずる者は、キリストの体を軽んずることになるのである。それゆえ、教会を離れては、キリストとの関係はあり得ない。聖霊は、まず教会に与えられ、その上で教会に属する個人に与えられるのである。
 ロドリゴは、彼がかつてフェレイラに対して抱いた軽蔑の念を自分自身に対しても抱いていた。しかしそれもいつしかぼやけてきて、段々とどうでも良くなってくるのだった。それは、彼が教会を捨てたため、もはや彼の内には信仰の客観的な基準というものが無くなってしまったからである。
 その月の4日に、ロドリゴは井上筑後守のところに呼ばれた。踏絵を踏んで後、初めてのことであった。井上筑後守は、彼に邸宅を与えると語った。それから、岡田三右衛門という死んだ男の名とその残された女房もである。
『「パードレは決して余に負けたのではない」筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら、「この日本と申す泥沼に敗れたのだ」。「いいえ私が闘ったのは」司祭は思わず声をあげた。「自分の心にある切支丹の教えでござりました」。「そうかな」筑後守は皮肉な笑いをうかべた。「そこもとは転んだあと、フェレイラに、踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申したそうだが、それは己が弱きを偽るための言葉ではないのか。その言葉、まことの切支丹とは、この井上には思えぬ」。「奉行さまが、どのようにお考えになられてもかまいませぬ」。司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。「他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ」。筑後守はつめたい声で言った』
 井上筑後守は、なぜそのようなことを言ったのか。もしかしたら、彼もまた真理を求めていたのではなかったのか。しかし、真理はそのように誰の目にも明らかに来るものではない。神が人に真理を示すとき、常にその人の自由意志に訴えかけるのである。その人が真理を受け取ることができるかどうかと。神は真理を示し、そして言われる、「これを受け取れる者は受けよ」と。そして、それに従うかどうかにつても、「耳のある者は聞きなさい」と。それが神ご自身の似姿に創造した存在への唯一の真理の伝達方法なのである。それゆえ、受け取る力のない者、聞き従う意志のない者には、それはどうでも良いもの、従う価値のないものに見える。そればかりか、彼はむしろ、自分で考え出した屁理屈の方を真理と勘違いするのである。
『その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」司祭は戸口にむかって口早に言った。「この国にはもう、お前の告悔をきくパードレがいないなら、この私が唱えよう。すべての告悔の終りに言う祈りを。・・・・安心して行なさい」。怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かして去っていった。自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今も最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた』。

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2012/06/10

 翌日、通辞が再び牢を訪れ、硬い表情で話しかけた。「どうだな。思案はしたか。沢野が申した通り、無益な強情は続けぬがよい。我々とて本意から転べとは言うてはおらぬ。ただ表向きな、表向き転んだと申してくれぬか。あとはよいように、するゆえ」。しかしロドリゴは、一切応じなかった。彼は、その彼の態度が、役人に対する最後通告となるであろうことを想像していた。
 その想像通り、翌日まず朝食が与えられなかった。昼近くに鍵が開いて、今まで顔を見せたことのない上半身、裸の大男が顎をしゃくって「出ろ」と言った。それから彼は、後ろ手に縛られ、痩せた驢馬のような裸馬にまたがらせられて、長崎市中を引き回された。一行の後には、祭のように押しあう群衆が従い、司祭が縄で縛られた不自由な体をねじらせるたびに嘲笑がひときわ大きくなった。馬糞と小石が飛んできて司祭の頬にあたった。群衆に向かって微笑を作ろうと努めても、もう顔は強張ってしまっている。今はただ眼をつぶり、自分を嘲っている顔、歯をむきだしている顔を見まいと努力するより仕方がなかった。
 迫害のとき、信仰者のそばにキリストが寄り添われる。たとえあのラザロのときのように、すぐそばにおられなくても、また到着が遅れることがあったとしても、キリストはその人が迫害に耐えることができるように、彼を助けられるのである。それは、「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われた聖書の言葉が真実であるからであり、キリストは今日でも、そのご自身の言葉に、どこまでも忠実なのである。ロドリゴは、このキリストの臨在により、この迫害の大きな舞台において、それに耐える力だけでなく、主と共にある大いなる喜びをも与えられていたのである。
 『背中を突かれて真暗な囲いに足を入れると、突然、悪臭が鼻をつきあげてきた。尿の臭いである。床はその尿にすっかり濡れているので、しばらく吐き気がおさまるまでじっとしていた。』
 ロドリゴは、この二畳ほどの光のない囲いの中にいた。『凄まじい夜の静粛が彼の周りを囲んだ。すると闇が木立をかすめる風のように、死の恐ろしさを突然、彼の心に運んできた。両手を握りしめて彼はあ、あっと大声で叫ぶ。すると恐ろしさは引潮のように去っていく。それからまた押し寄せる。懸命に主に祈ろうとしたが、心を途切れ途切れにかすめたのは、血の汗を流したあの人の歪んだ顔だった。今はあの人が自分と同じように死の恐怖を味わったという事実も、慰めとはならなかった。額を手でぬぐいながら、ただ気をまぎらわすために彼はこの囲いの中を歩きまわった。体を動かさないではいられなかったからである。』
 信仰者にも、ときとしてキリストの臨在が感じられなくなることがある。キリストが自分を見棄てたのではと思えるようなときがある。彼が窮地に追い込まれたというのではない。彼が置かれている状態は、それほど変わっていないのに、襲い来る不安に乗じて、疑いが彼の心を圧倒する。そのとき、彼と主イエスとの個人的な関係は、もはや役に立たなくなる。というのも、それは信仰者自身の心にかかっているからである。苦難や恐怖が彼と主イエスとの関係に打ち勝つほど大きくなるとき、そしてそれはあり得ないことではないが。そのとき、最後の砦は、「神の言葉」である。キリストもそれによって悪魔の誘惑に打ち勝たれた。そして、私たちも打ち勝つことが可能なのである。もし彼がそのすべてを疑わず、主イエスのように、その聖なる剣を行使するならば。
 そのとき、人の声が遠くで聞えた。キチジローが告悔を願おうとして来て、役人に叱られていたのであった。ロドリゴは、聖書に出てくるあのユダのような彼のために赦しの祈りを呟いたが、それは心の底から出たものではなかった。
 『司祭は基督がユダに言ったあの軽侮の言葉をまた噛みしめた。だが、この言葉こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあの人の人生におけるユダの役割というものが、彼には本当のところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのであろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。まるでそれではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。それに・・・・・それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄ておかれたのか。それらの疑問は神学校の時も、司祭になってからも、沼にうかんでくるどす汚い水泡のように意識に浮かびあがってきた。そのたびごとに彼はまるでその水泡が彼の信仰に影を落とすもののように考えまいとした。だが今は、もう追い払うことのできぬ切実さで迫ってきている。司祭は首をふって溜息をついた。最後の裁きの刻はやがてやってくる。人は聖書のなかに書かれた神秘をすべて理解することはできぬ。だが司祭は知りたかった。知り尽くしたかった。「今夜、お前はたしかに転ぶだろう」と通辞は自身ありげに言った。まるで、ペトロにむかってあの人が言われたように。「今夜、鶏鳴く前に、汝三度我を否まん」黎明はまだ遠く鶏は鳴く時刻ではない。』
 その通辞の言葉通り、ロドリゴはその夜、踏絵を踏んだ。彼は、まったくどうかしていた。彼が牢の番人の鼾だと思っていた声が、実は穴釣りにされて苦しむ農民のうめき声であったことや、彼の牢の壁に発見した「讃えよ、主を」という文字が実は、信仰に転んだフェレイラがかつて掘り付けたものであったこと。フェレイラが彼に語った日本宣教における挫折の数々。そして、彼は挙句の果て、ロドリゴに、たとえ教会から蔑視され、布教をあきらめても、今穴釣りにされて苦しむ農民を苦しみから救うことこそが、今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為であり、今この場にキリストがいたら、間違いなくキリストは彼等のために転んだだろうと言った。それらがロドリゴの心を錯乱させ、彼の心から、御言葉を追い出したのであろう。
 ここに信仰者の戦いがある。信仰者とは何か。それは、この世界で正しいこと、愛の行為を行う者ではない。そうではなく、彼はひたすら御言葉を信じ行う者なのであり、そのような彼を通してだけ、キリストが愛の行為をなされることができるのである。

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2012/06/06

 ロドリゴが再びイノウエ筑後守と会ったのは、それから五日後であった。イノウエは、いつものように微笑を浮かべて彼を迎え、最近の自分の平戸行きの話から切り出した。しばらく彼に棄教を説得した末、「パードレ。これからしばらくの間、この年寄りが申した二つのことを、よく考えられるがよい。一人の男に醜女の深情けは耐えがたい重荷であり、不生女は嫁入る資格なしとな」と優しく言い捨てて帰って行った。
 そこでの毎日は、ロドリゴの心を砂のように軽やかに流れて行った。鋼鉄のように張った気持ちが少しづつ腐蝕していく。殉教を覚悟していた心の一角がどこか弱まったような気がした。そして、日本の役人や奉行がほとんど何もせず、蜘蛛が巣に餌のかかるようにじっと待っていたものは、自分のこうした気のゆるみだったのだと司祭はその時初めて気がついた。
 そして、恐れていた通り試練が訪れた。朝まだ暗いうちに牢から連れ出され、海の近くの松林に連れて行かれた。そこでロドリゴは、戦慄のうちに相棒のガルペと3人の信徒の殉教の様を見せられた。体に菰を巻き付けられて蓑虫のようにされた3人は、舟に乗せられて海に漕ぎ出され、そこで舟から蹴落とされて海に沈んで行った。それを見たガルペも岸から海に飛び込み後を追ったが、ついに力つきて沈んで行ったのであった。心を動転させてたたずむロドリゴの背中から通辞が言った、「ああいうものは、幾度見ても嫌なものだて。パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる」と。
 自分の宣べ伝えた福音が、返って相手の状況を窮地に追い込む、それは何という矛盾であろう。「なぜ、こんなことに」という懐疑、迫害者の卑怯なやり方への怒り、その原因を作った自分自信への羞恥心、それらが入り交じって信仰者の心を執拗に苦しめる。彼は、百姓たちの命を救うために宣教をあきらめるべきだろうか。彼は、立ち止まって考える、「主イエスは何と言われるだろうか」と。しかし、そのとき彼の心は、もはや主イエスから離れ始めているのである。というのも、彼はそれ以前に、「主イエスは何と言われたか」と問うべきであり、聖書にすでにその答えがあるからである。果たしてロドリゴの心に、神への懐疑心が忍び込んできた。彼は牢の中で、ろくに食事もせずに心を迷わせていた。
『神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。蝉がないている真昼、首を落とされた片眼の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声を出して笑った。』
 何ものにも動かされない山のような信仰、それはどうしたら得られるのだろうか。それは、たぶん何も考えないことだろう。信仰者が自分の理性であれこれ考え始めるとき、彼は迷いの中を突き進んでいるのである。「あなた方の答えは、然り然り、否否であるべきだ」と主イエスは言われた。
 九月になり、空気に幾分ひんやりしたものを感じはじめた午後、彼は突然あの通辞の訪問を受けた。そしてその日、ついにかつての恩師フェレイラと会わされることになった。市中の寺で、年とった僧侶のうしろに、黒っぽい着物を着せられたフェレイラが俯きながら歩いてきた。「お前が転ぶよう、奨めろと・・・私は言われてきた」と彼は言った。「二十年、私はこの国に布教したのだ。この国のことなはお前よりもよく知っている」と。「そしてお前の眼の前にいるのは布教に敗北した老宣教師の姿だ」。「布教には敗北ということはありません。あなたや私が死んだあと、また新しい一人の司祭がマカオからジャンクに乗り、この国のどこかにそっと上陸するでしょう」とロドリゴは応酬した。しかしフェレイラは、確信を込めて言いきった。「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」と。さらに彼は言った、「日本人は人間を越えた存在を考える力を持っていない。彼らが信じていたのは基督教の神ではない」と。「基督教と教会とはすべての国と土地とを越えて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」とロドリゴは叫んだ。
 例え百歩譲ってそうであったとしても、フェレイラの言ったことが真実であったとしても、それが日本宣教をやめる理由にはならない。主イエスは、「すべての国民を弟子とせよ」と言われたし、「日本は例外だ」とは言われなかった。私たちは、宣教が直接の目的ではない。主イエスの命令こそがその目的なのであり、例え結果がどうであれ、その評価によって方向を変えることはないのである。それゆえ、ここから逸れる者は、偽り者なのであり、すべての悪の根がそこから生じるのである。「あなたは、もう私の知っているフェレイラ師ではない」、というロドリゴに彼は言った。「そう、私はフェレイラではない。沢野忠庵という名を奉行からもらった男だ。名だけではない、死刑にされた男の妻と子供も一緒にもらった」。
『闇の中で彼は、この夜、フェレイラは眠っているだろうかと考える。いや眠ってはいまい。あの老人は今頃、自分と同じこの町のどこかで闇の中に眼をじっとあけながら、孤独の深さを噛みしめているであろう。その孤独は今、自分が牢舎で味わわねばならぬ寂しさなどよりはもっと冷たくもっと恐ろしいものなのだ。彼は自分を裏切っただけではない。自分の弱さの上に更に弱さを重ねるため、別の人間をそこへ引きずりこもうとしている。主よ、あなたは彼を救わぬのですか。去れ、行きて汝のなすことをなせ。見離された群のなかに、あなたはあの男をも入れるのですか。』
 ここに一つの淵があり、それを越えて、こちらからあちらにも、またあちらからこちらにも渡ることはできない。それは、キリストが設定された淵であり、愛そのものである彼自信がそれを取り除こうとはされないのだ。それは、この淵をあえて越えようとするものは、やがてキリストの愛をも越え出ようと意志するであろうことを彼が知っておられるからである。

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2012/05/31

 その後ロドリゴは、千束野と呼ばれる荒野を越えて、馬に乗せられて別の牢屋に連れて行かれた。そこは、雑木林にとり囲まれた丘の斜面にある、まだ新しい土蔵作りであった。しかし、その牢内には、ふしぎなほど平和と静謐とがあった。かつての山中の彷徨の不安や焦燥は、遠い昔の話のようにさえ思われた。
『夜は床の上に横たわったまま眼をつぶり、雑木林で鳴く山鳩の声を聞きながら眼ぶたの裏に、基督の生涯の一場面一場面を描いた。基督の顔は彼にとって、子供の時から自分のすべての夢や理想を託した顔である。山上で群集に説教する基督の顔、ガリラヤの湖を黄昏、渡る基督の顔、その顔は拷問にあった時さえ決して美しさを失ってはいない。やわらかな、人の心の内側を見ぬく澄んだ眼がこちらをじっと見つめている。何ものも犯すことができず、何ものも侮辱することのできぬ顔。それを思うと、小波が浜辺で静かに砂に吸いこまれていくように不安も怯えも鎮まっていくような気がするのである。』 ここでの日々は、静かでやさしくロドリゴの心を流れていった。司祭はこんな日々が続くのも、自分の死がそう遠くない証拠ではないかとも思った。
 「殉教」という言葉を、信仰者なら一度は聞いたことがあるに違いない。しかしそのイメージを心に描いたことのある者はそう多くはないだろう。それが必要になるのは、自分にその可能性が生じたときだろう。死に至るまでキリストに従順であるために、そのイメージを思い描くということが必要になるのかもしれない。ロドリゴも宣教師として日本に来るにあたり、そのイメージを持っていた。そして、そのイメージの通りに生き、また死ぬことを願ったのである。そして彼はまた、殉教のイメージだけでなく、信仰者が受ける迫害のイメージをも持っていた。それは、ときには過酷を極めることもあるが、そこにはいつも神の護りと導きが伴う。だから、信仰者はどのような状況にあっても、必要を満たされ、勇気を与えられ、最後までキリストに従い通すことができるのである。この牢屋にあって、彼は比較的自由に番人の許しをもらって、朝と夕方と日に二度、信徒たちの牢舎に出向いて、祈り、告悔の秘蹟を与えることができた。そして、「主は、もうこれ以上、あなたたちを放っておかれるはずがない」と語って彼らを励ました。
 ある日、彼は、湯で体をぬぐい、着物を着替えさせられて役人たちの前に引き出された。そこで一通りの取調べが行われた。それは、一見やさしく、労いと配慮に満ちていた。しかしロドリゴは、そのような誘惑に屈することなく、毅然とした態度で対応した。
『しゃべりながら急に感情が興奮してくるのを感じた。背後から信徒たちに見られていることを意識すればするほど、彼は自分を英雄にしていった。』
 誤解を恐れずに言えば、信仰とは、一種の思い込みと言えるかもしれない。というのも、人それぞれに置かれている状況が異なっており、このときはこうすれば良いということを誰も彼に完全に教えることはできないからである。そして、神ご自身も彼に「こうしなさい」とは何も告げられない。もちろん、信仰の友の助言や励まし、それから神の恵みと導きというものは確かに存在する。しかしそれらは、ある時点、時点において断片的に与えられるのであり、それ以外のほとんどの時は、彼自身が独力で判断し、自らの責任において行動しなければならないのである。そこで、神は、ある意味で、ご自身を信仰者個人の自由に任せておられるとも言えるだろう。実際、神は彼の行くところどこにでも彼と共に付いて来て下さるのである。まるで、彼の奴隷になられたように。そして、彼の行為をすべて受け入れて下さる。彼が誰かに「神とは、こういうお方だ」とか「神は、こう言っておられる」と告げるとき、神はそれを肯定される。そればかりか、それを神ご自身が語られたのだとされるのであり、それが教会の奥義である。「あなたがたが地上でつなぐものは天でもつながれており、あなたがたが地上で解くものは天でも解かれる」と主イエスは言われた。
 この信仰者と神のと関係は、あまりに神が譲歩しておられるように見え、信仰者を当惑させるに十分であろう。というのも、それにも関わらず、それは真実であることを要求するからである。その真実は、どこから来るのであろうか。いかにして、彼自身がかってに考え、あるいは創出したようなことが神の前で真実であり得るのだろうか。それは、彼と主イエスとの関係から来るのであり、それこそが実は彼と主イエスとの関係の本質なのである。しかしそれには、 彼は自分のすべてを捨てなければならない。自分の夢も幸福も、そして「彼が持っていた苦難や殉教のイメージ」さえもである。
 ある日、囚人の中から一人の信徒が役人に故もなく切り殺された。「こんなことが・・・・」、祭司は格子を握りしめたまま、動転していた。しかし彼が混乱していたのは突然起こった事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静かさと蝉の声、蝿の羽音だった。一人の人間が死んだというのに・・・・。
『彼は、膝をかかえたまましばらく、床の上でじっとしていた。「時は殆ど十二時なりしが、三時に至るまで地下、遍く暗闇となり」あの人が十字架で死んだ時刻、神殿からは、一つは長く、一つは短く、また短く、三つの喇叭の音がひびいた。過ぎ越しの祭を用意する儀式が始まったのである。大司祭長は青の長袍を着て神殿の階段を登り、犠牲の祭壇の前では長笛が吹き鳴らされた。その時、空は翳り、太陽は雲の裏側に消えた。「日暗みて、神殿の幕、中より裂けたり」これが、長い間考えてきた殉教のイメージだった。しかし、現実に見た百姓の殉教は、あの連中の住んでいる小屋、あの連中のまとっている襤褸と同じように、みすぼらしく、あわれだった。』

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2012/05/29

 役人に引かれて行くロドリゴの目に、ボロをまとった大人や子供たちの家畜のように光る目が見えた。その幾人かに向けて、頬に無理やりに微笑をつくってみせたが、一人として応える者はなかった。その中に、何人かの隠れた信者がいるのかどうかも彼らの視線からは伺うことができなかった。そのようにして彼は、他の捕らえられた村人らのところに連れて行かれた。それは、小さな窪地に小枝を集めて作った小屋であった。そこには、彼の見知った村人たちも何人かいた。意外にも役人たちは、彼らの間の会話を咎めないので、なんだか妙に自由な雰囲気であった。
 ロドリゴはそこで、あの巡察師ヴァリニャーノ神父が名前を挙げていた恐るべき人物イノウエ筑後守を見た。しかし、その人物があまりにも無邪気でものわかりが良さそうな温和な人間に見えたため、その者がイノウエだとは夢にも思わなかった。また、ロドリゴはそこで、通辞(通訳)がら信仰問答を仕掛けられた。この通辞は、一度は洗礼を受けたことがあったが、その過去を否定し、自分は切支丹ではないと主張していた。そして、ロドリゴは彼から初めてフェレイラ師の消息を聞いた。それによると師は、今は名も日本人のごとく改め、長崎にて邸、女をあてがわれ、結構な身分だということであった。また通辞は、イノウエの手によって教会を裏切った宣教師の名を3人挙げた。ロドリゴは、自分の信仰が少しづつ崩れて行くのを感じた。
『あの人(フェレイラ)まで転ぶようでは、とても自分にも、これから見舞ってくる試練は耐えきれぬかもしれぬ。この不安が突然、胸をかすめた。烈しく首をふり、吐き気のようにこみあげてきたこの不愉快な想像を無理矢理に抑えつけようと努力すればするこどその想像は意志とは無関係に浮かんでくる。祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうとしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き・・・・』
 信仰者の心を燃え立たせるものとは、いったい何だろう。「祈り」か「信仰告白」か、それとも「讃美」だろうか。しかし、それ以前に何かが必要なのだ。そして、それがなければ、きっと祈りも讃美も役には立たないのだ。それでは、それはいったい何だろう。それは、「主イエスとの個人的な関係」である。それは確かに、祈りと讃美の生活の中で培われる。しかし、祈りと讃美自体は所詮道具に過ぎない。だから、「私は今日聖書を何章読んだ」などと言っても、それは所詮空しい。むしろその結果として、主との関係が深まらなければならないのであり、この「生きた主イエスとの個人的な関係」だけが、人をして試練に打ち勝たせる力なのである。そこで、私たちはもう一度自分自身の信仰を吟味してみる必要があるだろう。自分が信仰を燃え立たせたのは、いったいどんな時だっただろうかと。そこに、何か虚栄心、党派心、自己顕示欲、現実逃避、等々が少しでも含まれていなかっただろうかと。
 それからロドリゴは、今度は手首を縄で縛られ、裸馬に乗せられて連れて行かれた。昼すぎに諫早という町をすぎた。ここには、大きな堀と築地の塀をめぐらした邸が藁や萱葺きの周囲の家々にかこまれて建っていた。
『祭司は十数世紀前にあの人もまた今の自分が感じているこの悲しみのすべてを、渇ききった舌で味わったのだと思った。その交流の感情はいかなる甘い水よりも彼の心をうるおし、ゆさぶった。「いざ歌え、我が舌よ」、彼は馬の上で、頬に涙が伝わり流れてくるのを感じた。私はどんなことがあっても転ばないであろう。』
 強飯を侍たちが食べる間、司祭は馬からおそされ、樹木に犬のようにつながれた。そこに粟飯を破籠に入れて置いたのは、キチジローだった。その顔を司祭はきびしい表情で眺めた。浜辺で見た時はこの男を憎む気持ちも起きぬほど疲れていたが、今、この男にどうしても寛大にはなれない。草原で干魚をたべさせられたあとの咽喉の渇きが、煮かえるような思いと一緒に突然彼の心に甦ってきたのだった。
『「去れ、行きて汝のなすことをなせ」基督でさえ、自分を裏切ったユダにこのような憤怒の言葉を投げつけた。その言葉の意味が司祭には長い間、基督の愛とは矛盾するもののように思えてきたのだが、今、蹲って撲たれた犬のような怯えた表情を時々むけている男をみると、体の奥から、黒い残酷な感情が湧いてくるのであった。「去れ」と彼は心の中で罵った。「行きて汝のなすことをなせ」』

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2012/05/25

Ⅳ:セバスチャン・ロドリゴの書簡

 村民たちは、役人の探索に彼らの養ってきた知恵でうまく対応した。結局役人たちは、疲れ果ててあきらめて部落から引き揚げて行ったようだった。しかし後日になって再び、突然昼前に役人たちがやってきて探索を始めた。彼等は今度は、切支丹の証拠が見つからないのを見ても、この前のように諦めて引き揚げようとはしなかった。「じいさま」と呼ばれていた最年長の信仰の長老を捕らえ、馬につないで牽いて行った。また、「一同の中から三人ほど、明日、長崎に出頭せよ」と言い渡した。信者たちは、奉行所に誰を差し出すかを随分長く議論しあったが、結局キチジローとイチゾウ、モキチが選ばれた。「パードレ、わしらは踏絵基督ば踏まされるとです」。モキチがうつむいて自分自身に言い聞かせるように呟いた。「足ばかけんやったら、わしらだけじゃなく、村の衆みんなが同じ取調べば受けんならんごとなる。わしら、どげんしたらよかとだ」。これを聞いたロドリゴは、憐憫の情が胸を突き上げ、思わず「踏んでもいい、踏んでもいい」と叫んでしまった。そして、自分が祭司として口に出してはならぬことを言ったことに気がついた。「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」、キチジローが涙ぐんで言った。
『聞き棄ててしまえば何でもない臆病者の愚痴がなぜ鋭い針のようにこの胸にこんなに痛くつきさすのか。主はなんのために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の恐ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ、迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。キチジローの愚痴にはその問いがふくまれていたような気が私にはしてならない。』
 信仰者は、どこまで神を信じ続けられるのか。様々な不条理が次々に彼を襲うとき、「いくらなんでも、ひどすぎる。これでは、神も仏もないではないか」との思いが心にわき起こることがないとも言えない。それは、程度の問題なのだろうか。人それぞれに、「ここまでは我慢できるが、それ以上は無理」というところがあるのだろうか。そしてキチジローは、たまたまそれが他の信者と比べて低かったというだけだったのだろうか。もしそうなら、信仰は相対的なものと言えるかも知れない。そして、すべての人は、自ら信仰を捨てる可能性を内に秘めており、たまたま彼が生涯信仰を貫き通せたのは、全くの偶然であったということになるのかも知れない。しかしそれならば、死ぬまで信仰を守り通した者と不幸にも棄教してしまった者とは、内面的には何の違いもないのであり、結局躓かなかった者も躓いた者と同じ内面性を持っているのだから、逆に見れば、躓いてもまた信仰を完全に捨てたのではなく、いつでもカムバックできるのだということになるだろう。そして、それを突き詰めて行くと、あのイスカリオテのユダもキリストを捨てたのではなく、祭司長たちからもらった銀貨30枚を自ら投げ出したときに、彼は再び信仰を拾い返したと言えるのだろうか。
 ああしかし、そのように考え始めるとき、私たちは、終わりの無い迷宮に入って行ってしまうような気がしないだろうか。事実そうなのである。私たちは、考えてはならないことを考え始めているのである。それは、主に代わって裁きを行うということである。ユダが永久に信仰を捨てたのか、それを拾い返したのか。そして、主はそんなユダをもう一度赦されたのか、それとも彼に永遠の刑罰を宣告されるのか。それらを考えることは、主の代わりに裁きを行うことなのである。なぜそれらを考えたいのか。その理由は、自分が安心したいからである。自分がこうやっていれば、主から裁かれないで、天国の祝福に与ることができるという保証が欲しいのである。そして、その保証さえ与えられれば、ちょっと安心して、少し楽をしようかと考えているのではないだろうか。
 『この試練が、ただ無意味に神から与えられるとは思いません。主のなし給うことはすべて良きことですからこの迫害や責苦もあとになれば、なぜ我々の運命の上に与えられたのかをはっきり理解する日がくるでしょう。』
 ああしかし、それもまた欺瞞に過ぎない。理解することが先だろうと後だろうと、私たちはそれによって主の上に立とうとしているかも知れないのである。
 奉行所に出頭した3人は、結果的に踏絵を踏んだが、それでも赦されることはなかった。『お前らは、それでお上をだましたつもりか。なら、更に言う通りのことをやってみよ。この踏絵に唾をかけ、聖母は男たちに身を委してきた淫売だと言ってみよ』と命じられ、それができなかったモキチとイチゾウはついに自分たちが切支丹であることを体全部で告白してしまった。キチジローだけが、役人に脅され喘ぐように聖母を冒涜する言葉を吐き、拭うことのできない屈辱の唾を踏絵の上に落としたのだった。この二人は、水磔という恐ろしい刑に処されることになった。波打ち際に立てられた二人の十字架を見ながら、ロドリゴは考えた。『海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼らの死のあとにも同じ表情をして拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。しかし、そんなことはないのだ。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。しかし、万一、もちろん万一の話だが、万一神がいなかったならば・・・・』と。
 それからというもの、奉行所の探索は勢いを増し、ロドリゴとガルペは、ついに別々に逃亡する決心をした。一人が捕まっても、もう一人が生き延びて祭司の務めを続けるためであった。やっとのことで舟でたどり着いた島の小さな村も、すでに役人たちの取調べの最中であった。ロドリゴは山中をさまよい歩き、まだ手の入っていない村を捜した。そのうちに、偶然にまたキチジローと巡りあった。山中で彼と共に一夜を明かしながら、ロドリゴはキチジローのことを疑っていた。彼が役人の手下にされて、次から次へと村人を告発しているのではないかと。そのキチジローが差し出した塩の利いた干し魚を食べたばかりに、激しい喉の渇きに耐えられず、キチジローが水を探しに自分の元を離れるのを許してしまった。しばらくして、彼がどこからか用意の良いことに持ってきた竹筒の水を飲み干しているロドリゴの耳に聞こえてきたのは、彼を捕らえに来た役人たちの足音であった。

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2012/05/23

Ⅲ:セバスチャン・ロドリゴの書簡

 ロドリゴたちが日本に潜入してから一ヶ月近くが過ぎた。役人を恐れ、村人から提供された山中の炭小屋にまんじりともせずに隠れていた二人も、いつしか心が緩み、小屋の外に出て散歩を楽しんでいた。彼らはまた、祭司としての仕事に生き甲斐を感じていた。ミサをたて、信者たちの告悔を聞いて赦しと祝福の祈りをし、赤ん坊に洗礼を授け、百姓たちは基督教の禁制などまるで無視したように、次から次へとやってくるので眠る暇もないほどであった。それというのも、ある事件がきっかけで、ロドリゴの活動範囲が五島にまで広がったからであった。それは、キチジローが伝えた情報をたよりに二人の百姓が五島から炭小屋まで来たことから始まった。ロドリゴは、キチジローの口軽には迷惑していたが、彼のために恩恵を蒙ったのも事実であった。彼はキチジローに告悔を勧め、彼は素直に自分の過去の罪をすべて告白した。すべてが順調に進んでいるように思えた。しかし、どこか変に感じられることもなくはなかった。
 『もう一つ注意しなければならないことは、トモギ村の連中もそうでしたがここの百姓たちも私にしきりに小さな十字架やメダイユや聖画を持っていないかとせがむことです。そうした物は舟の中にみな置いてきてしまったと言うと非常に悲しそうな顔をするのです。私は彼等のために自分の持っていたロザリオの一つ一つの粒をほぐしてわけてやらねばならなかったのです。こうしたものを日本の信徒が崇敬するのは悪いことではありませんが、しかしなにか変な不安が起こってきます。彼等はなにかを間違っているのではないでしょうか。』
 信仰者は、自分の信仰が健康で正常な状態であることを何によって知るのだろうか。初歩的には、あるいはそれは、自分自身が自覚する、何か敬虔な気持ちのような、いわゆる「信心の自覚」のようなものかもしれない。それはときとして、教会堂にかけられた十字架や聖画を見るときに心に湧き起こる。それから、アクセサリーのような銀の十字架を手のひらに握り締めるときに、その心が呼び覚まされるということもあるだろう。そのように、人はそれぞれに自分の信仰を自覚する方法を持っているのだろう。しかし、信仰の経験を積んで、もはや十字架のアクセサリーや聖画には左右されないような信仰を身に付けたとしても、もしその彼の信仰が、実際には自分の心の中のアクセサリーや聖画のようなものに過ぎなかったとしたら。
 『なぜこのように私はあの方の顔を思い浮かべるのか。おそらくそのお顔が聖書のどこにも書かれていないからでしょう。書かれていないゆえに、それは私の想像に委せられ、そして私は子供の時から、数えきれぬほどそのお顔をまるで恋人の面影を美化するように胸にだきしめたのです。神学生の時、修道院にいる時、私は眠れぬ夜、彼のうつくしい顔をいつも心に甦らせました。』
 そのような信仰の姿勢は、何かによって矯正されねばならないものかもしれない。というのは、それは心の中に生じた偶像と考えられないこともないだろうから。しかし、それを克服した人の心には、いったい何が残されるのか。それは、理想的には、主イエスへのガラスのような透明な愛でありたいのだが、そのようになれるためには、人は多くの苦難を経なければならないのかもしれない。信仰の先達であるパウロがそのように言っているからである。そして、その途上にある人は、その心が再びこの世界の何かを求めてさ迷うということがあり得るのである。それは、例えば、「やりがい」とか「奉仕の満足感」とか、その他様々なものが考えられるのである。
 『嬉しさとも幸福感ともつかぬ感情が急に胸をしめつけました。それは自分が有用だという悦びの感情でした。あなたの全く見知らぬこの地の果ての国で私は人々のために有用なのです。』
 たぶん主は、ロドリゴために、しばしの試練を用意されておられたのだろう。舟で五島から戻り、いつものように砂浜に身を隠していた彼を迎えたのは、役人たちが村を捜索しているので急いで逃げてくれとの知らせであった。

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2012/05/22

Ⅱ:セバスチャン・ロドリゴの書簡

 ガルペとロドリゴは、キチジローを伴い、マカオを出航した。最初のころは航海も非常に順調であったが、やがて激しい嵐が襲ってきて、船の前方に裂け目が入り、浸水がはじまったので、一晩中水を船外へくみ出す作業を続けねばならなかった。精魂つき果てたロドリゴは、嵐の過ぎ去った後の雨を含んだ乳色の雲を凝視しながら、かつて同じ様な困難を乗り越えて宣教した聖フランシスコ・ザビエル他の先達たちのことを思った。「何が彼らをこの大きな苦しみに耐えさせ大きな情熱に駆りたてたか、それは今、私にはわかるのです。それらの人々もすべて、この乳色の雲と東に流れていく黒雲とを凝視されたのです。彼らがその時、何を考えたか、それも私にはわかるのです」。
 「私たちは、信仰の先達たちに雲のように取り囲まれて入るのです」とパウロは書いた。信仰の先人たちの勇姿は、キリストが彼らを強め、彼らを通して確かに働かれたという証である。そして、その復活のキリストは、また現代を生きる私たちの内にも働いて、神の栄光なる宣教の御業を行わせてくださるのである。
 ああしかし、その働かれ方は、いつも違っていて、二つとして同じものはない。それゆえ、信仰者たちと主イエスとの関係もまた、二つとして同じものはないのである。私たちは、自分の尊敬する先達のようになりたいと思う。そのために彼らを理解したいと願う。そして、幾分かは理解できたように思う。しかし、実はそれは理解したことにはならないのである。というのも、献身の本質は、信仰者の考えや気持ち、決心などではなく、主イエスとの個人的な関係にあるからである。そこで、それは知ることも学ぶこともできない。それは、主イエスとあなただけの問題であり、他の誰もそこに入り込むことはできないのである。
 「主よ、あの人はどうなのですか」と問うペテロに、主イエスは応えられた、「わたしが再び来るときまで、彼が生き残っていることをわたしが望むとしても、それがあなたに何の関係があるか。あなたは私に従いなさい」と。信仰者が先達から学ぶことは、冷たい言い方かも知れないが、実はあまり役に立たない。もし彼がそこから、自分と主イエスとの関係を学んでいなかったとしたなら。彼らは闇夜に、誰にも知られずについに日本に上陸した。
 『キチジローが事情を探るまで、じっとかくれていました。砂をふむ音が、その窪みのそばに近づいてきました。濡れた着物を握りしめて息をこらしていた私たちの前を布を頭にかぶり、籠をかついだ老婆が一人、我々に気がつかずにそばを通りすぎていきました。「戻ってこない。戻ってこない。」ガルペは泣きそうに申しました。「あの臆病者はどこかに行ってしまったのだ」しかし、私はもっと悪い運命を考えていました。彼は逃げたのではない。ユダのように訴えにいったのだ。そして役人たちがやがて彼に伴われて間もなく姿を現すだろう。「されば一隊の兵卒は松明と武器とを持ちて此処に来れり」ガルペはあの聖書の言葉を呟きました。』
 しかし、しばらくの後にガルペとロドリゴが聞いたのは、「パードレ、神父さま」と呼びかけるなつかしいポルトガル語まじりの日本語であった。彼ら隠れ信徒たちの話によれば、キリシタンには懸賞金がかけられていて、自分の村以外の者は信用がならないということであった。しかし、そのように精神的に孤立しながらも彼らは、先人たちの見よう見まねで、組織的な群れを形づくり、信仰を継承していたのであった。
 信仰の先人たちの蒔いた種は、日本においても芽を出し、成長を始めていた。しかし、その本来の目的は、そこに花が咲き、実を結ぶことである。そのためには、日本の信徒たちの、それまで宣教師たちの見よう見まねでやってきた信仰がそれぞれ、自分自身と主イエスとの関係にまで成長し、高められることが必要なのである。
 『「早う、歩いてつかわさい」老人が小声で我々を促しました。「ゼンチョ(異教徒)たちに見らるっといかんですもん」ゼンチョというわが国の言葉をこの信徒たちはもう知っているのです。聖フランシスコ依頼、我々の先輩たちが彼らにきっとこれらの言葉を教えられたに違いありません。不毛の土地に鍬を入れ、それに肥料を注ぎ、ここまで耕すことはどんなに困難だったでしょうか。しかし、まいた種からこの悦ばしい芽がもう生えている以上、それを育てることが私とガルペの大きな使命となるのだと思いました。』

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2012/05/18

Ⅰ:セバスチャン・ロドリゴの書簡

 ポルトガルを出航した3人の宣教師は、インドのゴアを経てついにマカオに到達した。彼らの1人サンタ・マルタは、マラリヤにかかり、その地で衰弱してしまったので、そこに置き去りにせざるを得ず、ガルペとロドリゴだけが鎖国中の日本に漂着することになる。彼らはマカオで、キチジローという日本人に偶然出会い、日本へ連れ帰ることと引き替えに道案内を得た。この男は、酒好きの上、ずるそうで油断のならな人間のようではあったが、他に選択の余地もなかった。ロドリゴは、本国へ宛てた書簡の中にこう記している、「ここは真実、地の果てです。蝋燭の灯の下、私は膝に手をおろし、じっとしています。じっとして自分が今、あなたたちの知らぬ、あなたたちの一生涯、訪れもしないこの極地に来ているのだという感覚をじっと味わっているのです。それは、あなたにとても説明できぬ疼くような感覚、まぶたの裏にあの長いあまりに恐ろしかった海や、訪れた港が一時に浮かびあがり、胸は苦しいほど締めつけられます。たしかにこの誰も知らぬ東洋の町に今、いるということが、夢のようでもあり、いや夢ではないのだと思うと、それは奇跡だと大声をあげて叫びたくなります。本当に私はマカオにいるのか。自分は夢をみているのではないかと、まだ信じられないくらいです」と。
 主イエスの十字架を仰ぎ、ひたすらその跡に従い、幾多の困難をも乗り越え、宣教の果てしない夢を追っていた信仰者の目が、いつしか自分自身に向けられるということが起こる。それは、たぶん一時のため息、深呼吸、気分転換のようなものかもしれない。しかし、その視線は明らかに、天上のものから地上のものへと映って行ったということを意識していなければならない。というのも、一度地上に降りてしまった視線は、すでに元あった場所を忘れてしまっているからである。それが天上のものであるゆえに、彼の地上的な意識は、それを決して覚えていられないのである。かくして、彼の視線は、もしかすると、それが元あったところの「主イエス」ではなく、「教会」の上へと動いて行ってしまうかも知れない。ところが「教会」は、天的な性質としての「主の御体」という側面と、地上的な「信徒の群れ」という側面があり、彼の心の視線がそのどちらの上に注がれているかが、容易には判別しづらいのである。そして、もし彼の心の目が地上の教会に注がれた場合には、それが何か機能的な組織に映るかも知れない。そして、彼の弱さが現れた場合には、自分の業績を誇ったり、またその反対に負い目を感じたりすることになる可能性がある。しかし、それはまだ良い方である。というのは、もし彼の心の目がある特定の人や人一般に注がれた場合には、もしかすると彼は、その対象である人または人一般と自分を比べて喜怒哀楽することになるのかもしれない。
 『雨のマカオ、それはこの哀れな町をさらにみじめにするだけです。海も町もすべて灰色に濡れ、支那人たちは家畜小屋のような家にとじこもり、泥だらけの道には人影もありません。こんな道を見ていますと私はなぜか、人生を思い、悲しくなります。』
 それでは、そのように地上のものに向けられていた信仰者の目が、再び天の栄光へと向けられる契機はいったいなんであろうか。おおそれは、彼の主イエスへの愛である。天から落ち、あらゆる天上の祝福を忘れ、この地上をさまよっていた彼の目が再び、万軍の主の燃える眼差しへと向けられるかどうかは、彼が普段の生活において、どれだけ主イエスに近づき、主イエスに従い、愛していたかによるのである。この奇跡は、起こるのであり、主イエスこそがご自身が「私は羊の門である」と言われるように、天国への入り口であり回帰点なのである。
 『だが今夜の私にとっては、その顔はゴルゴ・サンセボルクロに蔵されている彼の顔なのです。神学生の頃見たあの絵はまだ、なまなましく記憶に残っています。基督はその墓に片足をかけ、右手に十字架を持って、真正面からこちらを向き、その表情は、チベリアデの湖辺で使徒たちにむかい「我が小羊を牧せよ。我が小羊を牧せよ。我が小羊を牧せよ。」と三度、命ぜられた時の励ますような雄々しい力強い顔でした。私はその顔に愛を感じます。男がその恋人の顔に引きつけられるように、私は基督の顔にいつも引きつけられるのです。』

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