2012/06/28

論述:離脱について

 エックハルトは、その生涯を通じて多くの書物を読み、考え、悩み、そしてついに一つの結論に到達した。それは、一つの非常に単純な原則であり、キリスト教の提示するすべての真理がそこに含まれる。そればかりか、すべての宗教がそこに含まれ得るものである。それゆえに、他宗教はそこにキリスト教との融合の道を見る。そればかりか、心の定まらないキリスト者の中からも、他宗教との融合によりキリスト教の礎を強化しようなどという虚構を企てる者さえ出てくるのである。エックハルトの到達した信仰の原則とは、どのようなものなのだろうか。
 それは一言で言えば、「すべてを捨てることにより、神を得る」ということである。これは、非常に単純で、信仰の原理にかなっている。しかし、解りにくい面もある。まず、「すべてを捨ててから、どうするのか」ということである。しかし、エックハルトは語る、「すべてを捨てたならば、もう何も成すことは残っていない」と。あなたの信仰は、神のみにかかっているのである。「でも、何か悪い方に逸れて行ってしまったら?」。そう考える人は。まだすべてを捨てていないのである。「でも、何か悪い存在に取り付かれたら?」。そう考える人は、まだ神を信頼していないのである。「神は唯一で、他に神はない」と聖書に書かれている。その聖書は、何のためにあるのか。それを糧にして人生を豊かにするためではなく、それを読んですべてを捨てる決心をするためなのである。この観点からは、旧約聖書が非常に重要な意味を持つ。そして、私がすべてを捨てるとき、私にはただ神のみが残され、かつその神は、聖書の神以外ではないのである。「神は唯一で、他に神はない」からである。
 すべてを捨てることすなわち「離脱」が、私を神に導く道だということを認めたとしても、聖書の教える「徳」についてはどうだろうか。それには何か「離脱」以外に、もっと積極的な行為が必要なのではないのか。また、愛、哀れみ、敬虔、等についてもそうではないのか。これに対してエックハルトは語る、「純粋な離脱は、あらゆる徳、愛、哀れみ、謙虚さにも勝る」と。これらのものは、認識と愛の業であるが、「浄福は認識の内にも、愛の内にもない。むしろ、魂の内にひとつのあるものがあって、認識も愛もそこから流れ出ている。これは、魂の諸力と違い、認識もせず、愛することもしない。この『あるもの』を知ればだれでも、どこに浄福があるかわかるであろう」と彼は言う。このエックハルトの言う「あるもの」を得ることが必要であり、そのための唯一の道が「離脱」だと言うのである。
 それでは、エックハルトの言う「離脱」とは、いかなるものなのだろうか。彼曰く、「真の離脱とは、鉛でけきた山が少々の風にはびくともしないで不動であるように、襲いくるあらゆる愛や悲しみ、名誉や恥辱、誹謗に対して、精神が不動であることにほかならない。このような不動の離脱こそが神と最も等しきものになるように人を導くのである」と。聖書には、哀れみのゆえに神の意志に反するような行為は許されていない。それは、神の愛を疑うことなのである。それゆえ、自分の愛や哀れみの心よりも神の命令を優先すべきなのである。その結果、一人息子を失うことになってもである。私たちの信仰は、共に独り子を捧げたアブラハムと父なる神ご自身にかかっているのである。この一線を越えることは、大きな冒険であり、この世の知識や力をもってしては無理である。それには、どうしても聖霊の力が必要である。聖霊にすべてを明け渡し、コントロールされる体験、すなわち「聖霊のバプテスマ」が必要なのである。
 それでは、このような完全な離脱にある人は、どのような生活をしているのだろうか。彼は、霞でも食べて生きているのだろうか。しかし、エックハルトによれば、その人は一見、普通の人と見分けがつかない。離脱は、彼の内なる人においてのみ実現されているからである。彼の外なる人は、この世界の人々と共に喜び、悲しみを共にしながら生きているのであり、それがキリストに付き従うということなのである。そして、彼の意識の中心がこの外なる人から内なる人に移るとき、彼は永遠なる世界をめざして「変容」するのである。

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2012/06/20

神と神性とについて

 この説教は、説教集の最後にあるだけに、エックハルトの思想の究極とも言える内容である。それは、神とは何かという問題に対して、考えられ得る最深のアプローチとなっている。神とは何か?そもそもそれは、考えることが可能な問いなのだろうか。自分よりも無限に大きな対象である神について、「それは何か」と問うのは、蟻が象について探求するようなものではないのだろうか。しかし人間の魂は、神という象の前で、蟻ではないとエックハルトは言う。それはやはり象なのである。神が人の魂をご自身に象って創造されたから。
「神が人を創造したとき、そのとき神は魂の内で神のわざと等しきわざを顕わした。それは神が現に働いているわざであり、永遠なる神のわざである。そのわざは、魂以外の何ものでもないほどに大いなるものであり、また、魂さえも神のわざそのものに他ならないのである」と彼は言う。彼によれば、「神」とは、この世界の被造物が発する神性の反映なのである。もちろん「神」は、私たちの意識とは関係なく存在する。しかしその神(エックハルトはこれを神性と呼ぶ)は、私たちの意識を遙かに超えた存在であり、認識することはできない。私たちが認識する神は、私たちの魂が反射する神性の像(いや、正確には、その像のそのまた精神への投影像)なのである。
 これらのことを前提にしてエックハルトは、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と語る。この「神性」とは、私たちに認識できない「神の本体」とでも言うべきものである。そして、この「神性」は、働くことがない。「働き」すなわち「わざ」は、被造物の方にある。被造物の中にある「神のわざ」は、神(すなわち神性)がそのように措定したのであり、その定めは永遠に渡るものであり、永遠に神のわざを行い続けることにより神の臨在を生み出すのであり、人の魂もそれにより自己の浄福を造り出すのである。この「造り出す」とは、奇妙な表現かもしれないが、神性が働かないものである以上、魂は独力で浄福を造り出さざるを得ない。しかしエックハルトによれば、「魂さえも神のわざそのものに他ならない」のであるから、魂が己が浄福を造り出すのは、「神のわざ」として、すなわち神によってであり、神と魂との距離はそれほどに近いのである。
 しかし、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」とエックハルトは語る。そしてまた、「内なる人と外なる人とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と語る。この二つの隔たりの間には、いずれも有限から無限への壁と時間と永遠との間の飛翔が横たわっているのである。そして、神がその壁と飛翔とを超えて存在しているように、人の魂もまたそれらを超えて存在しているのである。
 それでは、魂がこの壁を超えて飛翔するとき、彼は何を経験するだろうか。それは、エックハルトによれば、「神が消える」ということである。そればかりでなく、すべてのものが消える。神無しには何ものも存在できないからであり、その意味は、個体性の消滅ということである。例えば、永遠の世界においては、「場所」というような局所的な概念は存在しないとすれば、そこにはまた個体性も存在しないことになる。同様に時間についてもそのように言えるのであり、「神」ということと「個」ということは、そのように結びついているのである。「すべての被造物が神と言うとき、そこで神は、『神』と成るのである」とエックハルトは言う。これが「個体性」という意味であり、私たちはその中で神を認識するのである。
 もし私が、神を愛するゆえに、自分の個体性を脱却しようと願うなら、それは良いことに思われる。「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とパウロも言っている。そして、それにより、私の個体的な欲望もまた消滅し、自由に主に仕えることができるようになるだろう。しかし、そのとき私は、この「仕える」ということをもう一度問い直さなければならなくなる。エックハルトが次のように言っているからである。
「わたしが神の内へ帰り来て、神のもとにも立ちどまらなければ、わたしのその突破は、わたしの流出よりもはるかに高貴なものとなる。わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである」と。

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2012/05/10

観想的生と活動的生について

 この説教には、信仰者に馴染みのマリアとマルタという2人の姉妹が出てくる。マルタは主をもてなそうと立ち働いていたが、マリアは主の足元にすわって御言葉に聞き入っていた。エックハルトによれば、「マリアは、なにものともわからぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っていた」のであった。ところでこの「なにものともわからぬもの」とは、「変容」にほかならない。彼女が片時もそこを離れたくなかったもの、その存在のすべてをかけて求めてやまなかったもの、それが「変容」だったのである。しかし彼女自身には、それが何であるか、どのようなものなのか、ということは皆目分からなかった。「変容」とは、誰にとってもそのようなものなのである。しかしそれでは、なぜ彼女がそれに憧れることができたのか。それは、知性ではなく、彼女の霊がそれを求めるのであり、神もまた私たちの内に住まわせたご自身の霊を妬むほどに求めていらっしゃるのである。かくして変容への憧れはわき起こる。「変容」とはなにか。それは、この世界にいながらにして神の姿、すなわち人間イエスの姿に変えられることである。しかし、そこへ至る為には、この世界にあっては、ひとつの道を通らなければならない。「練達」という道である。もっとも、人が主イエスの姿になるためには、神の恩寵が必要なのであり、練達は必要ではない。それが必要なのは、その状態から落ちないためである。神との距離は、この世界の概念で計ることはできない。しかし、それにも関わらず、天は高いところにあるのである。つまり、天における高低は、この世においては、この世界の高低差に対応しているのである。それゆえ天から落ちれば、まずこの世の高いところに落ちる。そこで、その高いところに慣れていないなら、身に危険が及ぶことにもなるのである。
 マルタは、マリアがまだこの練達を身につけていないのを知っていて、それを不安に思い、主イエスに彼女の練達の実現について願ったのである。しかし主イエスは、「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われた。エックハルトは語る、「私たちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである。そのためには、知性のうちで、絶え間なく神へと登りゆくことが必要であり、それは、像による表象の区別性においてではなく、知性にかなった命あふれる真理性においてである」と。この世界において、私たちは神に近づくためにこの世界で練達に励む。しかしその到達点はこの世界にはないことを認識している必要がある。練達において、つまり神への接近にあたっては、私たちには多くの師があり得るし、また必要でもある。しかし神への到達に至っては、もはや師はあり得ない。それには、ただ神の恩寵のみが必要なのであり、そこにあるのはすなわち、あなたと神との関係だけなのである。
 「試練に遭うとき、弱り果ててはならない」と聖書は語る。それは、この世における神への最大の接近の機会は、試練の中にあるからである。そして、そこで弱り果ててしまわないために練達が必要なのである。しかし再び、神に到達するためには、それ以上のこと、すなわち飛翔が必要となる。この飛翔を可能にするものとは、いったい何だろうか。それは、この世界において神と合一すること、すなわち「変容」である。しかしそれはどのようにして可能となるのだろうか。いったいこの世界において、かつて神との完全な合一に達した者があっただろうか。エックハルトは語る、「わたしたちはその証をキリストに見いだす。神が人と成り、人が神となったそのはじめから、キリストはわたしたちの永遠なる救いのために働きはじめ、十字架上の死に至るまでずっと働きつづけたのである。彼の身体のどの部分も、際立った徳を働かなかったところはなかったのである」と。キリストが人となったのは実にそのためであり、彼が神の独り子であるという一点を除けば、私たちと彼との間にどのような違いもないのであり、私たちは彼を模範として彼のように神と合一できるのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2012/04/27

像を介さぬ認識について

 「像を介さぬ認識」とエックハルトは言う。しかし、この世界のすべてのものは、像により認識される。この意味で「認識」とは、対象物そのものではなく、むしろ自分の心に作り出された、対象物の像である。それがどのように高度に複雑な造形をしていたとしても、また反対にどのように簡潔明瞭なものであったとしても、それは所詮対象物そのものではなく、むしろ自分が造り出した自身の一部と言えよう。そこで、このような認識の内にいる限り、私たちは、その対象物を真実には認識することはできず、極端なことを言えば、一種の思い込みの世界にいるとも言えるのである。これがこの世界における私たちの状況であり、そういう意味で、私は、自分の肉体の内に虜になっていると言えるのである。そして、この肉体の牢獄から救い出してくれるものは、何もないのである。
 しかし、もし人がこの生まれつきの肉体の限界を超えることができるなら、彼は、心の底から新たにされて、すべてを直接的に認識することが可能となるだろう。この超越を可能とするものは、いったい何だろうか。それは、肉体的な鍛錬や生来の思考概念の拡張等では達成され得ない。というのも肉体の鍛錬や概念の拡張は、それらの従来の状態の延長なのであるが、問題は、それらの存在性そのものにあったのだからである。つまり、それらがいかに拡張または強化されたとしても、それらの根本的なあり方そのものが変わらない限り、その限界もまた依然として残されたままなのである。この限界は、「個」というものに起因するのであり、それを超越するということは、「個」そのものの存在を揺るがすようなことが起こらない限り、実現不可能なのである。この「認識しようとしている当の存在自体がまた認識そのものの障害でもある」という大いなる矛盾が人間存在の孤立性を如実に表しているのであり、この矛盾を解消する道は、対象との同化以外にないのである。しかし、自己と異なる対象との「同化」は「自己崩壊」以外のものではない。ここに一つの絶対的な限界があるのであり、つまりこの世界は、所詮そういう構造をしているのである。
 それでは、この「人間」という限界の多い存在がこの世界の対象を真に認識するために、どういう道があるのか。それがエックハルトがこの説教で提示しているところの「神との同化」なのである。しかし、被造物とさえ同化できない人間が神と同化できるであろうか。それができるというのがエックハルトの考えである。というのも、聖書によれば、人間は神ご自身に象って造られたのであり、この地上にいる状態で神の御姿に日々変えられて行く存在なのである。しかしそれでも、神と同化することは、やはり自己崩壊にならざるを得ないのではないだろうか。それは、人間存在と神との差異がどれくらいかによるのであり、エックハルトは、この差異が無限に小さいと主張するのである。彼が「わたしが端的に神になる」と言うとき、それは意図的な自己改造などではなく、純粋に人と神との同一性にのみ依存しているのである。
 それでは、このエックハルトの「神と人との同一性」に則って神と同化するとは、いったいどういうことなのだろうか。それは、まさにエックハルトが主張してやまない「自分を捨て去ること」に他ならない。人は、自分と同等のものにしかなることはできない。そして、人にとって自分と同等な存在とは、自分を生んだ、父なる神以外にはないのである。彼は語る、「あなたは、あなたの自己からすっかり離れ、神の自己に溶け入り、あなたの自己が神の自己の内で完全にひとつの自己となるようにしなければならない。そうすれば、あなたは、神の生起せざる有のあり方と、神の名づけえざる無のあり方とを、神と共に永遠に認識するのである」と。
 そのとき、私は自分という存在を依然として認識できるものだろうか。もちろん認識できる。しかし、神と自己とを同時に認識することはできない。というか、そうなってもあなたは、依然として、あなた自身が認識する対象としては、神を認識できないのである。あなたが神を認識するのであれは、神の立場から神を認識するしかないのであり、それならば可能だとエックハルトは言うのである。それでは、百歩譲ってそれが可能だとして、そのときあなたは、自分が神の立場から神を認識していたことを覚えていられるだろうか。それは、ある意味で覚えているし、また別の意味では、覚えていないと言える。というのは、あなたはそのことが起こったということは覚えているが、それがどのようなものだったかについては、何も覚えていないからである。というのも、それはこの世界の思考形態では把握できないようなものであるから。あなたがそれまでいた神の立場から自分自身に戻った瞬間にその記憶は消えてしまう。というか、あなたは、神の立場から自身の立場に何一つ持ち帰らなかったし、また持ち帰る必要もないのである。そのためにあなたはいつでも神の立場になれるのであり、そのようにしていつでも神の知識に入ることができるのである。
 それでは、そのようにしてあなたが神の立場で得た知識を自分自身の立場に持ち帰り、そこで利用するというようなことができるのだろうか。できる。しかしそれには、上で述べたような、神の立場と自分自身の立場の間にある認識のフィルターを通過しなければならない。それはどういうことかというと、神の立場で得た知識に、場所、つまり距離とそれから時間が付加されなければあなたはそれを認識できないからである。誰がそれを付加するのであろうか。あなた自身である。そこには、神とあなた以外にはいないし、神は天上におられ、あなたは地上にいるからである。そのようにして、あなたが天上から地上に持ち込んだ知識は、一見あなた自身が自由に作り出した知識、つまり「作り話」のように見えるかも知れない。しかし、それは真実なのであり、あなたはそれをあなた自身の願望や空想と区別し、聖別しなければならないのである。主イエスは、それを日常的に行われ、未来を知り、人の心の中にあるものをも知っておられたのである。彼の神への無私にして無制限の従順がそれを可能にしていたのであり、それはまた同様にして私たちにも可能なのである。天国と地上は、このようにしてこの世界で接するのであり、これ以外の方法も形態もない。主イエスがその場所であられたのであり、今日においては、私たちの信仰がその場所なのである。
 それにしても、これらのことは、いったい何のためにあるのだろうか。それは、私たちが神を愛するためである。それも、自分の外にある対象として、外から伺い知ることのできる範囲で愛するのではなく、文字どおり神に自分自身を捧げ尽くすような愛し方である。そのためには、自分という存在の限界を突き破り、見慣れた概念の世界を後にし、見知らぬ意味の砂漠で神に出会い、その懐に飛び込む必要があったのである。そのとき私たちは知るだろう。そここそが、私たちの真の居場所であり、エックハルトが言っていたことこそが、私たちがそこに永遠に留まる方法だということを。
 彼は語る、「それではいったいわたしは神をどのように愛すればよいのだろうか。あなたは神を、ひとつの非神として、ひとつの非精神として、ひとつの非位格として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で済みきった一なるものとして愛さなくてはならないのである。そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2012/04/24

三つの闇について

 「人が群衆をあとにするとき、神は魂の内にみずからを像なく、写しなく与える」とエックハルトは語る。「群衆を後にする」とは、「人間的な思考体系に背を向ける」ということであり、そのとき彼は、「像」すなわちこの世界にある被造物と「写し」すなわちそれらの被造物に関する知識とから解放され、自分自身と神以外の何ものも意識することがなくなる。そして彼はそこで、すべてはこの関係すなわち神と私の関係のためであったのであり、すべてはそれが与えられるために存在したのであることを知るのである。
 そこで、あなたがそのことに気づき、それを意識し始めるにつれて、あなたの認識は、物質的世界の対象から霊的世界の対象へと、すなわち見える世界の対象から見えない世界の対象へ、この世界の光から天上の光へと開かれて行くのである。しかしその場合、私の精神が単一なものであるということのゆえに、そしてその私の認識の移り変わりが私の根本に関わるものであることのゆえに、私はそれら複数の認識に同時には対応することができず、常にどちらか一方だけを認識するということになるのである。
 エックハルトは、この認識の移り変わりを2つではなく、3つの状態として提示する。つまり、私たちが通常、認識を感覚的すなわち肉体的なものと精神的なものの2つに分けるのに対して、さらにもう一つ高次の認識を提示するのである。それは、私たちが持つイメージとはかけ離れており、どのような思考や感覚によっても捉えることのできないものである。しかし、そこには何もないというのではなく、返ってそこでは、すべてのものが無限の密度を保って存在している。それは、まさに「本質的な有」とでもいうべきものであり、天上の世界を反映したものである。というのもそれは、距離も時間もない認識なのだから。そこにあるのは、純粋な「関係」であり、距離と時間を超えてすべてのものが短絡してしまったような世界である。
 そのような高次の認識の世界で生きるために、私たちはどのような努力をしなければならないのだろうか。エックハルトは語る、「私たちは、神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである」と。私たちは、今暮らしているこの世界の中で何かを得たり失ったりする。その現象は、上記の第一の認識すなわち身体的な認識に属する。そして、それらの出来事に関して私たちは、心を楽しませたりまた悲しんだり、またあるときには戦略を巡らしたりする。それはすなわち、第二の認識であるところの精神的な認識に属する。第二の認識は、第一の認識よりも自由である。それは、第一の認識を把握しながらも必ずしもそれに左右されず、返ってそれを克服し、支配する力をさえ持っている。しかしそれにも関わらず、それらはこの時間と距離の世界における出来事である。そしてその背後には、より高次の第三の認識があり、それはもはや何ものにも影響されることはなく、返って第一、第二の認識を支配するものである。
 「一切の被造物のこの『新たな緑の内』で主は『その羊を養おう』とするのである」とエックハルトは語る。私たちは、この『新たな緑の内』に入らなければならない。それは、高い山の上にあるのだが、そこを照らす光は、この世界の光ではない。それは、もはやどのような認識によっても捉えることのできない光である。それゆえそこでは、何かを新たに得たり失ったりするということもない。何かを得たとすれば、それは実は最初からあなたの内にあったものである。また、あなたが何かを知ったとすれば、それは実は最初からあなたの心の内にあったものである。そこでは、時間が超越されているからであり、「得る」とか「知る」とかは、時間の内におけるできごとだからである。
 エックハルトは語る、「魂は神の子であるこの『像』の内へと変容し、写され、刻印されなければなない。もし魂が一切の像を超え出るならば、魂は、神の子であるかの像の内に刻印されるのだ」と。しかし、神は永遠に変わることのないお方だ。そこでこれは、私たちのことを言っているのである。私たちは、自分自身がこの隠された神性の『像』の内へと「変容」し、写され、そこに刻み付けられるのである。つまり、私たちはそこに「植えられる」のである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが神以外のすべてのものを超え出るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2012/04/13

無である神について

 「神は近づき難い光の中に住み・・」と聖書に記されている。しかし、たとえ私たちに見えなくとも、神は存在されるのであり、たとえ目に見えなくとも、何らかの方法でそれが知られるのである。それを「神を見る」と表現することもまた許されるであろう。しかし、目でみるのでないからには、そこに何か五感を超えた超肉体的な認識が働いているのを認めないわけにはいかない。そんなことから始めて、段々と神について深く知って行くということはたぶん可能だろう。しかしエックハルトは、「神について知る」ということと「神を知る」ということとを明確に区別する。曰く「神は増大していくような光ではけっしてない。確かに光の増大を通じて神へと到達したということはあるにちがいない。しかし光の増大のただ中では、神の片鱗もうかがうことはできないのである」と。私たちは、自己の獲得する認識の光が増大することによって神に近づく。しかし「神そのものを知ること」は、ただそこからの飛翔によって、すなわち「変容」によってのみ可能なのである。そのとき彼は、何を見ているのだろうか。それは、この世界のものごとの延長では決してない。そこには、大いなる、完全なる不連続があるのである。それゆえそのとき彼の瞳には、いかなるものも映ることはない。それは、超自然的な認識ではあるが、確かに知覚可能なものである。しかし、この「認識」をこの世界における認識の延長線上に置く者は、それを決して知覚することはない。むしろ彼がこの世界のものに対して完全に盲目となったときに、初めてその新しい認識への目が開かれるのである。
 それについて、これから語ってみよう。しかしそれは、たぶんこの世的な分かりやすいものにはなり得ないのである。つまりその認識とは、誤解を恐れずに言えば、たとえば「自由な考え」、「思いつき」のようなものと言えるかもしれない。というのは、その認識は、あなたの外からやって来たものではないからである。もしそれがあなたの外からやって来るなら、あなたはそれを容易に認識し理解できるに違いない。しかし、それはそのようにしてはやって来ない。それは実にあなたの内から来るのであり、それを来たらせるのもまたあなた自身なのである。それを認識と呼ぶことは可能だろうか。それは可能である。というのは、それはあなたからやって来るという点では、あなたの思いつきのように見えるかもしれないが、それを創りだしたのは、厳密にはあなたではないのだから。しかしそれでも、それを来たらせるのは、やはりあなたであり、あなた自身がそれを産むのである。ここにおいては、あなたと神との間には、距離も時間も存在しない。そこでは、神の意志があなたの意志となり、あなたの認識となるために時間やプロセスを必要としないのである。それゆえ、その意志を創造したのは神であるが、その意志を産んだのはあなたであり、その認識を創造したのはあなた自身なのである。そして、そのようになったとき、あなたの周りの諸々の被造物は、すべてあなたにとって「無」となり、神もまたあなたにとってひとつの「無」となる、とエックハルトはこの説教の中で言っているのである。
 それゆえ、そこにはある意味、あなたひとりだけしかいない。もちろん、かつて神に創造されたすべての魂も、神と共に存在していことは間違いないのだが。しかしそれでも、すべての意志が神から発し、あなたの元でひとつの認識となることに関われるのはあなただけなのである。つまり、ここであなたと神との関係に関われるのは、あなたひとりであり、それはまた同時に、キリストによってあなたが相続したすべての被造物との関係をも含んでいるという意味で、それがすべてなのである。
 エックハルトの祈り、「わたしたちが、あり方も尺度も全くない認識の内にいたりつけるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2012/04/10

三つの内なる貧しさについて

 エックハルトがここで「三つの貧しさ」と言っているものは、実はむしろ「三つの豊かさ」というべきものである。つまり、地上的にはそれは「貧しさ」なのだが、天的にはそれは「大いなる豊かさ」なのであり、そのように地上的なものと天的なものとは、裏腹な関係になっているのである。そこで、この天的な祝福を認識するためには、地上的な知識や経験によってはかなわないばかりか、それらは返って障害とさえなるのである。
 エックハルトは語る、「わたしたちがこれから話そうとしているこの真理とあなたがたが等しくならなければ、あなたがたがわたしを理解することはけっしてできない」と。天的なものは、すべてそのようなものである。なぜなら、それは「突破」であり、「飛翔」だからである。それは、実に「神さえも越える」ことである。「神」とは、私にとっては、つまり「私の把握する神」、あるいは、せいぜいのところ「私の把握し得る神」、つまり「神概念」でしかない。しかし神ご自身は、私の概念を越えて存在される。しかし、もし私が自己のすべての概念を超えることができれば、その私の前には、もはや超えるべきものは何も残されてはいないのである。神は、私をご自身の御姿に創造されたからであり、この一線を突破した者には、もはや高い低いとか多い少ない、速い遅いというような尺度は存在しない。それらはみな私の概念、すなわち低次の知性の内に含まれるものだからである。しかし、それを超え出て、高次の知性の内へと自己の意識が到達した者にとっては、もはや神との間には、いかなる距離も存在しない。
 そこには、もはや新たに知るべきものは何もない。「知る」ということは、時間の中でのみ必要なことだったのである。そこには、もはや新たに得るものは何もない。「得る」ということは、時間の中でのみ可能なことだったからである。そこで、そこにはもはや新たに意志すべきことは何もない。「意志する」ということは、時間の中でのみ行う価値のあることだったのである。
 エックハルトは語る、「私の永遠なる誕生において、すべてのものは誕生し、わたしはわたし自身とすべてのものとの原因となったのである。もしわたしがそう望んだのならば、わたしもすべてのものも存在しなかったであろうし、わたしがなければ、神もまたなかったであろう。神が神であることの原因はわたしなのである。もしわたしがなかったならば、神は神でなかったであろう」と。そのように、そこには始めも終わりもない。そこには、有る無いという区別さえない。私が有ることと神があることは同値であり、そして、その結果として必然的に被造物があるのである。しかし、このことを理解するためには、まず彼がこの真理と等しくなること、すなわち「変容」が必要なのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが今日の話のように生きるよう、またそのことを永遠に経験するよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2012/04/04

魂の内にある火花について

 エックハルトは語る、「地はその本性に従って、自分が天から隔たっていて、等しいものではないことを感じとり、天を避けて最も低い場所にまで身をひいたのであり、天に近づかないように地は不動なのである」と。
 根本的には、この世界には等しいものは一つとして存在せず、互いに孤立していて、すべてのものは、互いに異なっている。そして、それら相互の違いにもまして、それらは天上の事物から計り知れないほど隔たっていて、回復の可能性を持っていないほどなのである。しかし、自らの内に何の可能性も持たないそれら被造物に天が触れることにより、そこに一つの可能性が付与されるのである。天は、すべての可能性の宝庫だからである。しかし、だからと言って地が天の様に変質するというのではなく、地は地のままに天的な存在とされるのである。ここにエックハルト独自の福音があり、それが「変容」の意味なのである。さらに彼は語る、「自らの内で、神の内で、そしてすべての被造物の内で自分自身を無にした人も全く同じである」と。変容のためには、人はすべてのことを諦める必要がある。彼がすべての可能性を捨て去り、そしてついに、天とは異なっているという属性さえももはや捨て去ったとき、そこに明らかになることがある。つまり、その相違を作り出していたのは、実は彼自身であったことが。そして、彼がその先天的な無意識の努力を断念するやいなや、神の元から一筋の光がやってきて彼を包み、神の御姿に変容させるということが起こり得るのである。
 それはどのようにして起こるのか。それは、彼の魂と神との同等性によるとエックハルトは言う。すべてのものは、神の元から流出し来たった。それらは、神から流出したとき、一つの属性を受け取った。「彼である」ということを。その個別性は、神が彼を愛し、彼が神を愛するために必要であった。しかし、ひとたび愛した者たちは、今度は一つになろうと願う。神に愛され、神を愛した者は、神のもとへと帰ることを願うのである。そしてこれは、まさに「彼である」ことを捨てること、自分を捨てることである。しかしそれは再び、犠牲的精神などではない。犠牲的精神は、返って自分自身に執着するようなものだからである。そこで、神の元に帰ろうと願う者は、自分と共にまた全被造物をも捨て去って、もはや省みないことが必要なのである。
 そのとき彼は、初めて神に造られたままの彼の姿に回帰し、神の内にいること、すなわち自分が変容したことを知るのである。それは、どのような状態なのか。エックハルトによれば、そのとき、神を見ている彼の目は、彼を見ている神の目であり、両者は同じひとつの働き、ひとつの認識、ひとつの愛である。どのようにして、そうなったのか。どのようにしてということはない。強いて言えば、最初からそうだったのであり、彼だけがそれを知らなかったのである。それではそれは、どのようにして知られたのか。変容を通してそれが彼に認識されたのであり、彼の探求によったのではなかったのである。そこで、切実なこととして、この「変容」が必然的なものであるか否かが問題となる。それは、ある意味で必然的に起こる。神の愛が必然的なものだからである。しかし一方で、それは偶然的なものでもある。それが神の主権に掛かっているからである。そしてそれは、再び私たちの自由意志にも掛かっているのである。これら、愛と主権と自由意志の三つを貫く一つの光が存在する。それは、これら三つのどれにも傾くことなく、あくまで中立で不動なものである。そして、この不動性は、単に動かされることがないというだけでなく、すべての可能性がそこから生まれるところの躍動性を持っているのである。
 エックハルトは祈る、「この根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純な静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命がうけとられるのである。わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理が私たちを助けてくれますように。アーメン」。

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2012/03/30

神が魂の内に子を生むということについて

 「神は、魂が命あるものになるために、その子を魂の内に生む」とエックハルトは言う。「神の働きは、神の子を生むということにある。神はその子を常に生みつづける。この誕生の内ですべての事物が流れ出てくるのであり、神はその際神のすべての力を費やすほど、それほど大きな喜びをこの誕生に対して抱いているのである」と。「生むこと」は、人にとっても神秘的な働きである。それは、自分と同じものを創出することであり、自分の能力を越えているのである。それゆえ「生むこと」は、もはや人が自力でなすことではなく、神の創造の業が彼の内で働いているのである。これを理解した者は、また次のことをも理解するであろう。つまり、神がその子を魂の内に生むということは、すなわち、神の業が魂の内に働いているということである。「魂は神をまさに自分自身から生むのである。このことは、魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生むということによってなされる。そこでは魂は神の似像である」とエックハルトは語る。つまり、「神がその子を魂の内に生む」と言っても、それは実は、「魂が彼の内に働く神の創造の力によって、神をまさに自分自身から生む」ということにほかならないのであり、それ以外のものではないのである。
 エックハルトは、ルカによる福音書の「一人息子に死なれた寡婦」の話を引用して、「この寡婦とは、魂のことである。彼女が知性の内で生きなかったからこそ夫は死に、彼女は寡婦となったのである」と言う。この「知性の内で生きる」とは、どういうことなのだろうか。それは、この世界の中を生きながらも、様々な事柄に心を煩わせることなく、不断に神の御心を求めて従うことであり、そのときにだけ聖霊は贈られるのである。また彼は語る、「寡婦に欠けているものは、生む能力が死んでいるということである。それゆえ実りもまたないのである」と。しかし、もし魂が知性の内で生きるなら、彼女は再び生む能力を回復し、父なる神と共に豊かに生むものとなる。何を生むのだろうか。自分の内に、神の御子を生むのである。その目的は、それすなわち「生むこと」、すなわち「彼の内に働く神の業」により、精神において父なる神の御姿に変えられることである。魂は父なる神と共に「生む」という一つの働き、それも天地創造にも関わるような働きをするとき、神の御姿に変えられているのである。
 この「変容」は、実に各瞬間毎に起こる。この世界においては、目標とその実現の間には、時間というギャップが存在する。しかし精神の世界には、そのような遅延は存在しない。考えたことがそのままその人にとっての現実となるのである。そこで、この世界の出来事は、来たるべき永遠の世界、すなわち知性的世界における「変容」の予行演習なのである。
 エックハルトか祈る、「主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けてくださるように。アーメン」

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2012/02/22

神の言について

 「時間が一度たりとも侵入せず、像がひとつたりとも光を当てたことのないそこにおいて、魂の最内奥にして最高所の場において神は全世界を創造する」とエックハルトは言う。そこは、時間がつくられる場所であり、そこでは六千年前も千年後もある一つの活動力の中にある。「時間」とは何だろう。それは、可能性であり、記憶であり、意識であり、また法則でもある。つまり、時間はこれら別々のものの綜合なのであり、もともとそれらを互いに結び合わせているものなど無いのである。しかし、それらをすべて創造し、動かしている方がおられる。それゆえ、そこに時間という綜合が生じるのであり、すべてのものは、この連携を意識し、その内に生き活動しているのである。
 エックハルトは言う、「神はこの全世界をそっくりそのままこの今において創造する」と。「この今において」。つまり「この今」とは、この「関連」のことであり「聖なる連携」のことであり、「そこにある、あらゆる複合的な可能性」のことである。神は、それらを各瞬間において創造し、支配しておられるのであり、それを知っているのは、神と人間の魂だけなのである。あなたは、それを感じるだろうか。あなたの魂の最内奥におけるこの出来事を。あるいはそのために、何が必要なのだろうか。エックハルトは語る、「人がしっかりと眠りについていて、百年間も眠っているならば、その人は被造物についても時間についても像についても知ることはない。そしてそのときに、あなたの内で神が働くものをあなたは知ることができるのである」と。「百年間も眠る」?。そう、そのようにして、あなたという存在が死にきったとき、初めてあなたの心の目が開かれ、神の創造の業に目覚めるということが起こり得るのである。
 聖書は語る、「すべての事物の内で励みなさい」と。あなたは、この世界の、あなたが置かれている状況において、神を求め、神に仕え、神に委ね、神を愛さなければならないのである。それは具体的には、自分を愛するように隣人を愛せよということである。つまり、あなたの内にいる神は、またあなたの隣人の内にもおられるのである。そのようにして、あなたはそれらの事柄の内に、「今というこの一瞬」をつかまなければならない。そのためにこそあなたは、あなた自身とすべての被造物を捨て去ったのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちがこの完全性へと到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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