2011/11/05

論述:離脱について

 エックハルトは、様々な書物を読み、最高の徳とはなにかを探求した。しかし彼は、ある特定の徳と言われるものの内に最高のものを見つけることはできなかった。むしろ、彼が見出したのは、「純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐ」ということ、つまり「徳をさえ追い求めない、善悪を超越した境地」にこそ、最高の徳があるということだったのである。それは、いったいどのようなものなのだろうか。それは、「愛」よりも純粋で、「謙虚さ」よりも高貴、また「憐れみ」よりも神に近いものだという。このエックハルトの語る、最高の徳としての「離脱」というものは、それ自体非常に一貫したものであり、自らは何も求めず、知ろうとせず、成そうともしない。それは、一見石のように頑固でありながら、また一方で空気のように怠慢であるようにも見える。しかし、そのような離脱の状態にある人に、ひとたび神が声を発せられるや否や、彼はそれまでしていたすべてのことを即座に投げ捨て、その場所から立ち上がり、神が彼に命じたことに直ちに取りかかるのである。つまり、彼は神の目配せにいつでも対応できるようにと、耐えずすべてから身を引いているのである。
 どうしたら、そのようになれるのだろうか。しかし、どのようにしたらということはないのだとエックハルトは言う。「どのようにしたら」ということほど、離脱に反することはないからである。つまり離脱には、そこに至るための具体的な方法も目的もない。そこに至りたければ、文字通りすべてを放棄するだけである。その結果、神があなたを離脱へと導いて下さる。神の良しとされるときに。しかし、それはいつなのか。それは、誰にも分からない。これは神の主権に関わることなのである。というのも、もしあなたの今の状態が、あなたが離脱するのにふさわしい段階になければ、あなたは今離脱することは決してできないからである。そればかりか、そのように準備ができていない状態で離脱を試みることは無謀であると共に、またあなたの精神にも危険が及ぶ、いわば自殺行為ですらあるのである。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。ここであなたは、はっきりと知らなければならない。この世界には、あなたの自由になるようなことは、たとえあなた自身に関することであっても、なに一つとしてないのだということを。すべては、神のためにあるのであり、あなたがすべてを神のために行うことを心から求め始めるまでは、離脱への扉は、あなたに向かって決して開かれることはないということを。そしてエックハルトは語る、「さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである」と。「苦しみ」という動物について彼は語る。動物は、人のために造られたが、人の助け手にはならなかった。「苦しみ」も、人の助け手にはならないが、それでもそれは、人のために造られたのである。それを受ける人の魂が砕かれ、謙虚にされ、この世界の事物を軽んじることを知るようになる為に。しかし、たとえ苦しみであっても、それが適切に受け取られない場合には、命取りになり得る。苦しみ自体は、悪いことであり、災いだからである。そこで、これもまた神の賜物なのである。神がその人を取り扱われ、練り聖め、ご自身の役に立つ者にされるのである。
 しかし、そのようにして、ついにあなたがその段階に達するときがやってくる。挫折と練達の弁証法が何度も転回し、これまであなたは神に近づくことに幾度となく失敗してきたが、あるとき、神から一筋の力があなたにやってきて、あなたをつつむということが起こるのである。あなたはそれに気づかないかも知れない。そして、いつものように自分の意志と力で復帰を試みているように思っているかも知れない。しかし、あるとき突然、あなたにそれが理解される。あなたを導いているのが神であるということが。そこに神がおられたということが。そして、いまこのときがまさにあなたの復帰のとき、すなわち「離脱のとき」だということが。あなたは、このときを決して逃してはならない。というか、あなたはこのときを決して逃すことはないだろう。それは、永遠の昔からあなたのために計画されていたものである。もしかしたら、あなたにはそれが信じられないかもしれない。あたかもそれが、あなたの身勝手な思い込みのような気がして。そして、またしてもそれが挫折への一つの契機でしかないかのような気がして。しかし、あなたは気づくだろう。もしあなたが確信さえすれば、それがそのままあなたにおける真理となり、真実の転機の時となるのだということを。いままでは、いくらあなたが確信しても、思い込もうとしても、あなたの状況がそれを許さなかった。しかし、いつのまにかその状況が変わっていることにあなたは気づく。それは、一つの予感でもあるのだが、あなたが確信しさえすれば、すべてがあなたに開かれるということがあなたに知られる。つまり、あなたを差し止めていたものが取り除かれたのであり、それだけが今までと違っていることなのである。そこで、あなたは、恐る恐る前に歩み始める。すると、あなたの前に道ができ、あなたに神の導きと助けが伴っていることが分かる。しかし状況は、これまでと何も変わってはいない。変わったのは、あなたが進もうと思うところへ進めるようになったこと。つまり、あなたを差し止めていたものが取り除けられたことである。それでももちろんあなたが、独力で進まなければならないという状況は以前と比べて何も変わっていない。神は、最後までこの「あなたの自由」という足かせだけは、決して取り除こうとはされないのである。エックハルトは語る、「この奇跡をよく聞きなさい。何と驚くべきことであろう。外に立つと同時に内に立ち、つかむと同時につかまれ、見ると同時に見られたもの自身であり、保持すると同時に保持されるとは。こここそが究極の場であり、そこで精神はあこがれの永遠とひとつになり、安らぎにつつまれてとどまるのである」と。
 そのようにして、あなたはエックハルトの語る「離脱」に至るのであり、そのようにしてそれはあなたにやって来、あなたは自己を突破し、神性の近くにまで至るのである。彼は語り、祈る、「それゆえ、完全なる離脱に至ろうと願うものは、完全なる謙虚さを得ようと努めなければならないのである。そうすれば神性の近くにまで至ることとなる。このことがわたしたちすべての者にかなえられますよう、最高の離脱が、それは神自身であるが、わたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2011/10/28

神と神性とについて

 「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった」とエックハルトは語る。神の内には、一時的なわざというものは存在しないのである。それに対して彼はまた、「神が人を創造したとき、そのとき神は魂の内で神のわざと等しきわざを顕した。それは、神が現に働いているわざであり、永遠なる神のわざである。そのわざは、魂以外の何ものでもないほどに大いなるものであり、また、魂さえも神のわざそのものに他ならないのである」と語る。つまり、神の内には、ただ永遠のわざのみがあり、人の魂こそがその「永遠のわざ」なのである。しかし、厳密に言えば、魂自体は造られたものであり、被造物である。そこで、エックハルトがここで「わざ」と言っているものは、魂から発出する知性と意志のことに他ならない。そこで彼の言うように、人の心が神のわざであるとするなら、それは限りなく神に近い、というより、それは神そのものとも言えよう。それが独立した意識を持つのは、実にそれが孤立した「有」、すなわち「魂」において現れ出で、そこに働いていることに起因するのである。
 しかし、エックハルトがそのように魂と神を同一視することは、神への冒涜とはならないのか。それに対しては、彼の提示する神概念の特殊性が一つの説明となる。それは、「神」と「神性」の二つから成るものである。そして「すべての被造物が神と言うとき、そこで神は神と成るのである」と彼は言う。つまりエックハルトによれば「神」とは、神のわざとしての私たちの心が発する神性の旋律であり、それにより、そこに神が臨在されるのであるが、その際、魂は魂のままなのである。そのように、私たちの心は、個別的な有としての私たちの魂に働く神のわざであり、そして「神」とは、私たちの魂が反映する神性からの光なのであり、そのように神は、すべての魂の内に遍在されるのである。
 かくして、神により創造された私たちの魂は、時間の流れとこの世界の諸々の事物を知覚する。それは、個別化への動き、すなわち「流出」なのであり、全体としての一つの完全なる「有」にして「無」すなわち「神性」からの「流出」なのである。それゆえそれは、時間の中のできごとではなく、永遠の世界における一つの性質なのである。それ、すなわち「私たちの流出」が永遠の世界では、私たちの性質であるなら、それは後から付け加えられたものであり、私たちの本質は、今も神の内に留まっているのである。そこで、私たちが再び神のもとへ帰り来るとは、その後から付け加えられた性質すなわち「固別性」が取り除かれること、すなわち「離脱」なのである。しかし、エックハルトが言うように、「わたしが、神性のこの根底の内へと、その基底の内へと、この源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」。このように帰り来たったとき、そこはすでに個別性を超越した世界であり、そこには「個」というものは存在しない。それゆえそこでは、私の魂が反映するところの「神性からの光」である「神」も存在しないのである。そこでは、私は私自身と神を一として認識するのである。
 エックハルトは、この説教において上述の真理を発見したのである。そして、彼がこの説教をするたびごとに、彼はこの真理を再び「新しく」、「初めて」発見するのである。この真理は、「発見した」と言うことができない。それは、つねに、いつになっても、「新たなる発見」なのであり、私たちにとってもまたそうなのである。彼は語る、「この説教を理解した人がいれば、その人にこの説教をわたしは喜んで捧げたい。しかしたとえここに聞く者がだれひとりとしていなかったとしても、わたしは今日の説教をこの献金箱に向かってでもしたにちがいない。これから家にもどり、慣れたところで、いつものパンをかじり、神に仕えりゃいいと言うあわれな人も多くいることであろう。わたしは永遠なる真理にかけて言うがこのような人たちはいつまでも迷いつづけなければならず、心の貧しさを手に入れることもなく、新たな天地のもとで神に従いゆく人たちが勝ち取り獲得するものをけっして手に入れることもないであろう。アーメン」。

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2011/10/26

観想的生と活動的生とについて

 私たちは、この地上に生きている。そこは、聖と俗とが混じり合うところである。なぜ私たちは、そのようなところに置かれたのであろうか。エックハルトは、「私たちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである」と言う。それは、神の戯れなどではない。神の切なる願いなのである。神はすべてを、私たちが神の似姿に変えられるために行われるのである。そして、そのためにご自身が人となられたのである。そして、この「人となった神」こそが私たちの究極の目標であり、私たちの真の現実であり、そのように成ることこそが、私たちが完全に神を知るということに他ならないのである。つまり、「神を知る」とは、神を知識や教養として知ることではない。人は、全能者をそのような形で知ることはできない。それは、不可能なことである。神を知るとは、むしろ「ある状態」なのである。それは、一言で言えば、「インマヌエル(神共にいます)」という状態であり、その場合に注意すべきことは、私たちの知性は、それを完全に知覚できないかもしれないということであり、それゆえに逆にそのような状態に成り得るとも言えるのである。
 私たちがそのような状態、つまり「インマヌエル」なる状態になる場合、それは私たちがこの世界から出て行くということではない。それは、恍惚状態ではないのである。すべてのことをこれまで通りに行い、今まで通りに怒ったり喜んだりし、生活の不安を持ち運びながらそのような、つまりインマヌエルなる状態になるのでなければならないのである。それを煩わしく思う人は、逆に決してそのような状態にはなれないとエックハルトは言うのである。それゆえに神は人となられたのである。そして、私たちのようにこの地上で喜び、悩み、苦しみつつ生きられた。それは、神を知るとはどういうことかを私たちに示すためであった。
 「主よ、彼女にわたしの手伝いをするよう命じて下さい」とマルタは主イエスに願った。それは、彼女が妹のマリアが忘我状態で主イエスの言葉に聞き入っているのを見たからであった。彼女は、マリアがそのような状態で神を知ることはあり得ないことを知っていたのである。しかし主イエスはマルタに言われた、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と。この世界に生きている限り、多くのことに思い悩むことは避けられない。しかし彼女の場合、それは永遠なる浄福をいささかも減ずることのないものだったである。というのもマルタは、思い悩みのかたわらに立っていたからである。「思い悩みのかたわかに立つ」とは、「物事のかたわらに立つ」ということであり、それはつまり、「神のために」ということである。自分のために生きる者は、起こり来る物事の「直中に」立つことになる。しかし、神のために生きる者は、そうではない。彼は、物事のかたわらに立っているのである。なぜかというと、彼にとって大切なのは、神の御心が行われることであり、そのためには、物事は実はどうでも良いことなのだからである。「それゆえに彼らは、はるか高く永遠と境を接するところに立つときに持つものと少しもかわらぬものを持っているのである」とエックハルトは語る。そのような人は、自分の意志を神の内で断念し、神の意志を満たすために、「秩序」と「洞察」と「知恵」に従って働くのである。そしてマルタは、そのような状態に達していたのだがマリアの方は、まだ神から喜びを受けることだけを求める段階にあったのであり、つまり「自分のために」生きていたのである。しかしマルタに、主イエスは応えられた。「必要なことはただ一つだけである」と。それがマリアに今与えられた。それは、神との交わりである。誰しも、最初から神のために生きるようになるのではない。最初は、自分のために神の恵みを求め、次に神のために神との交わりを意思するようになるのである。その最初の神との交わりがマリアに与えられたからには、マリアもいずれ「神のために」と意思するようになると主イエスは言われたのである。
 なぜ神は、私たちを最初からご自身の元に置かれないのか。それは、私たちが神と共におり、神の恵みに浴しているうちは、私たちは神に似たものとなることはないからである。神は、この地上に私たちを独りで置かれる。その理由は、私たちが神と共にいることではなく、自ら「神に似たものとなる」ためなのである。そして、私たちの手本は、人となった神なる主イエスなのである。エックハルトは祈る、「わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2011/10/19

像を介さぬ認識について

 この説教の最初の10行には、実に驚くべきことが書かれている。ここには、これまでの私たちの認識を新たにすべき重要なことがいくつも書かれているのである。まずエックハルトは、「あなたがたは、精神とも心とも呼ばれるあなたがたの霊において新たにされなければならない」と語る。精神と心、すなわち知性は霊だと彼は言うのである。彼によれば、魂から知性が発出する。そして霊とは、魂が「ここ」とか「今」というすべての自然的なものを脱した状態のことなのである。つまり魂は、この世界を生きながら、知性や感性を含む諸々の力を発達させながら、成熟した霊へと成長して行くのである。しかし、彼が別の説教の中で言っている「魂が身体から離れれば、魂は知性も意志も持つことはない」という言葉も無視することはできない。これらから受け取られることは、霊としての魂の成長は、この世界から離脱する方向性にあり、空間と時間を超える方向性だということである。つまり、知性も意志も魂自身ではなくその持っている力に過ぎない。魂は、五感を含めて多くの力を持っているのだが、その多くは肉体と共に衰退し、ついに死に行く。ただ認識と意志という2つの魂の力だけは例外で、これらだけが魂にとどまるとエックハルトは言う。つまり、知性の内においてもその多くの要素は、肉体と共に滅んでしまうというのである。それはたぶん、肉体の死により、魂には空間や時間と関わりを持つ手だてがなくなり、その結果、思考や戦略というような実践的な力が意味を持たないものとなってしまうからであろう。これは恐るべきことであり、私たちは、やがて自分にもそのような時が訪れることを念頭に置いてこの世界を生きる必要があるのである。
 そこでエックハルトがこの説教で提唱するのは、魂の諸々の力を空間と時間を超越する方向で組織化することである。まず、魂の下位の力から、一つ目は、区別する能力「悟性」であるが、これには「照明」という金の指輪をはめなくてばならない。「あなたの区別する力が常に、時間を超えて、神的な光によって照らされているように」とエックハルトは言うが、要するに、自分の努力であれこれつかもうとするのではなく、神的真理として啓示される物事の本質を霊的な知覚によって捉えよということである。魂の下位の力の二つ目は、「憤り」つまり怒りであるが、これにあなたは「平安」という指輪をはめなくてはならない。あなたの義憤が神の永遠の真理と完成された義によって報われるためである。三つ目は「欲求」すなわち欲望である。これには「満ち足り」という指輪をはめなくてはならない。それは、あなたが欲求を超越し、キリストにあって、時空を超えてすべてをすでに持っていることを知るためである。魂の上位の力にもあなたは同様に金の指輪をはめなければならない。第一は、「保持能力」すなわち記憶で、これにあなたは「保有」という指輪をはめる。あなたが苦労して集めた真理がキリストにあってすでにあなたの保有となっていることをあなたが知るために。第二の力は、「理性」、すなわち知性である。これにあなたは、「認識」という指輪をはめるべきである。あなたが神をいつでも認識するように。しかしそれは、空間と時間を超えた、媒介を経ない直接的な認識である。第三の力は「意志」であり、これにあなたは「愛」という金の指輪をはめなければならない。しかしこの愛は、理由や目的のない愛である。「あなたは神を非精神的な仕方で愛さなくてはならない」とエックハルトは言う。それが愛において空間と時間を超えるということなのである。そしてそのとき、「あなたは神を、ひとつの非神として、ひとの非精神として、ひとつの非位格として、ひとつの非像として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄みきった一なるものとして愛する」ことになる。この愛は、いったいどこへ向かおうとするのか。「あなたの魂が非精神的になり、一切の精神性を脱ぎ捨てるほどに非精神的な仕方で愛さなくてはならない」とエックハルトは語る。そのようにこの愛を極めるということは、自分という存在を極限まで捨て去ることを意味する。しかし、自分を捨て去るのは他でもない自分なのである。これは、何という矛盾であろうか。その人は、果たして完全に自分を捨て去ってしまうことが可能なのか。そもそも、自分という存在がなくなれば、また捨て去るということもできなくなる。そこで、この愛の行為としての喪失は、自分という存在がなくなるまで、つまり永遠に漸進的に続くことになる。「永遠に続くものは、信仰と希望と愛」と書かれている通りである。そしてそれは、永遠の中で一つの一貫した存在性を獲得しており、それ自身が永遠なる存在なのである。私たちは、消滅するのではない。限りなく自分を喪失しながら、神の前に永遠に存在し続けるのであり、それが私たちにとっての、最善で最高のあり方なのである。
 エックハルトは語る、「そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2011/10/07

三つの闇について

 主イエスは、山の上で弟子たちに教えられた。「神は高みにおいて、自らを魂の内へと像もなく、写しもなく与える」とエックハルトは語る。その教えを受け取るには、人は自分を捨て去ることにより、この世界のものから離れ、その精神が全く自由にならなければならない。そのとき彼にとって、見える世界はその輝きを失い、闇のようになる。彼に啓示される真理の光が、あまりにも明るい輝きを持っているからである。
 エックハルトは、私たちにとって3つの闇が存在すると言う。第一の闇とは、「この世界」という闇である。「光は闇の中に輝いている」とあるが、それは真理の光であり、それに比べれば、この世界は闇なのである。第二の闇とは、「魂」という闇である。天からの光を味わった魂は、もはやこの世界の物事に決して満足しない。そして、返ってこの世の物事から離れ、それらから自分を注意深くかくまい、固く身を閉ざし、自己の内面にのみ集中しようとするのである。魂は、自らこの世の光から離れ、闇の中に身を投じる。天からの啓示を見るためには、この世の光はむしろ邪魔なのである。第三の闇とは、「天の闇」である。エックハルトは言う、「天はいかなる光も持たない」と。「天はそれ自身においては輝きもせず、冷たくも、暖かくもない。そのように魂もまたこの闇の中では一切の光を失うのである。魂は、熱とか色とか名づけられるような一切を超え出るのである」と。
 この高みからは、すでに一切の被造物はすべり落ちており、従って人間は神と自分自身以外の何ものについても知ることがない。この高みは、また天使たちの領域でもある。エックハルトは語る、「すべての被造物ははじめ神から落ち、そのあとで天使たちを通過したのである」と。それゆえ「天使はその本性の内に一切の被造物の刻印を持つ」と彼は言う。私たちの魂がこの高み到達するとき、私たちの魂はその通過してきたところに再び接近する。そこには、私たちの魂の「刻印」が残されているのだが、それは言わば「抜けがら」のようなものである。というのも、私たちは確かにそこを通過したのだが、私たちの魂は、いま私たちの心のあるところにあるのだからである。そこで私たちは「高い山」、かの高みにまで登らなければならないのである。そうすれば、エックハルトが言うように、「魂は、神の子であるかの像の内に刻印される」のである。
 それは、不自由な状態なのであろうか。「主の庭に植えられる」と聖書にも書かれているが、それは不自由な状態だろうか。下界に住む人にとっては、あるいはそうかも知れない。しかし、かの高みに到達した人にとっては、その認識においては像も写しも必要ない。そしてそこには、また未知も距離もないのである。それは、どのような認識なのだろうか。それは、ある一つの目的を持った、それゆえある意味で非常に単純な認識である。エックハルトは言う、「羊は純粋である。一に帰した人々もまた単純である」と。それは、要するに「聖くなること」である。自己の内から、余計なもの、神の御心以外のものが無くなり、分かれ争うものが無くなったとき、魂は真の平安の中に入るのであり、もはや何かを求めて自分の外に出ていくことはなくなるのである。
 しかし、魂がいかに高くまで登りゆこうとも、私たちの体はこの地上にあり、私たちはこの地上において神とつながっているしかないのである。「魂はその諸力の内で光りと甘美さと恩寵を確かに受け取る」とエックハルトは言う。これが魂と神のつながりなのである。「光は闇の中に輝いている」。エックハルトによれば、聖ハウロも語っている、「ところで神は神の独り子の内にあってわれわれに語ったのである。つまり、わたしは神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである」と。エックハルトは祈る、「わたしたちが神以外のすべてのものを超え出るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」

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2011/10/01

無である神について

 人が神を知るということは、いったいどのようにして起こるのか。人は、どのようにして神を見るのか。それをエックハルトはここで語っているのである。それは、一つの「認識の光」でり、あの筋金入りのパリサイ人であったパウロを改心に導いたものである。
 そのとき「ひとつの光が天からやって来て・・・」と言われている。その光が彼の肉体の目を見えなくし、精神の目を開かせた。そのようにこれら2種類の目は、決して同時に開くことがない。それは、人の精神が単一なものであるために、どちらか一方にしか関われないからである。
 この2種類の目は、それぞれの段階の知性に対応している。肉体の目は、私たちが通常それを用いて生活している論理的な知性に対応し、精神の目は、その上位に位置する高次の知性に対応しているのである。論理的な知性は、この世界である空間と時間の中で機能する。エックハルトは語る、「それは、周囲をめぐり、そして捜す。またそれは、あちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。捜し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別の知性がある。この知性はそこではもう捜し求めることもなく、かの光の内に包みこまれた、その純粋な有の内に立つのである」と。つまり、この高次の知性は、空間にも時間にもとらわれることがなく、それらを超えており、それゆえそれは、もはや何かを捜し求めて、得たり失ったりすることもないのである。パウロの肉体の目が天からのまばゆい光によって眩まされて見えなくなったそのとき、彼の精神の目が開かれる可能性が生じた。しかし、それはあくまで可能性である。そして、「この光の内で魂の一切の力が飛躍したのだ」とエックハルトは語る。それは、どういう意味であろうか。彼はまた、こうも言っている、「魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄するならば、そこで魂は無の内に神を見出すのである」と。つまり、パウロはこの光によって、何らかの知識を外から与えられたのではなかった。そのような方法では、人は神を知ることはできないのである。彼は、熱心なパリサイ派であり、自身の信念に基づいてキリスト者を迫害していたが、かの天からの光によって、その彼の人生の指針のすべてが完全に否定され、崩壊を余儀なくされたのであった。そのときパウロは、彼のそれまでの生き方を、つまり自分自身を完全に放棄した。この「自己の完全な放棄」こそが神を見るための必須条件であり、それは決して消極的なことではないのである。一般的には、自己放棄は一つの消極性と見られがちである。しかし、成長した魂においては、それは決して消極性ではなく、返って最大の積極性なのである。それでは消極性とはなにかと言えば、現実からの逃避、自己への根拠のない固執、絶望、錯乱、およびそれらの類である。
 そのようにして、パウロはとにかく神を見た。それはどのように見えたのか。エックハルトによれば、「彼は無を見た。それが神だった」のである。つまり、彼が神を見たとき、神から彼の内に入ってきた情報は、なにも無かったのである。エックハルトは語る、「あなたが何かあるものを見るならば、あるいは何かあるものがあなたの意識の内へと入ってくるならば、それは神ではけっしてない」と。つまり、誤解を恐れずに言えば、人は自分の外に神を見ることはできない。自分の中に見いだすのである。エックハルトも言う、「神は、その全神性を携えて、魂の根底にいるのである」と。もちろん神は、私たちの内にだけいるのではなく、全宇宙を包含し、支配している。しかし、それにも関わらず、私たちが自分の内に認識する神は、神のすべてなのである。なぜなら、神は決して部分に分けることができないからであり、この世界のどの部分にも完全な形で存在されるからである。
 つまり、どういうことなのかと言えば、例えば蟻が人間を知ろうとしても、それは到底不可能であろう。それは、蟻と人間は、あまりにもかけ離れており、想像することさえ無理だからである。そのように人間と神がかけ離れたものであったなら、人間に神を知ることは不可能であろう。しかし神は、人間が神を知ることができるように、彼をご自身の姿に創造されたのである。つまり、何かを知るとは、実は自分を知ることに他ならない。そして、人が神を知るとは、自分の中にある神の姿を知ることなのである。しかしそれは、そうだからと言って、何か神ならぬ虚しい幻影を捉えることなのではない。それは、同時に神を本当に知ることなのであり、神の領域に足を踏み入れることなのである。エックハルトによれば、アウグスティヌスは言っている、「一切の事物が魂にとって無となるところ、そこに魂は神的本姓へと通ずる秘められた入り口を持つのである」と。人が自分を完全に捨て去るとき、彼はこの秘められた入り口に立つのであり、そこで神に出会うのであり、それ以外の方法はない。そのために神は人となったのであり、キリストと父なる神との関係もまさにこのことによったのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちは主に祈ろう。わたしたちが、あり方も尺度も全くない認識の内にいたりつけるよう、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン」。

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2011/09/26

三つの貧しさについて

 エックハルトがここで語っている3つの貧しさとは、一言で言えば、「自分を完全に捨てる」ということである。人は、「神のために」と意志することをもって「自分を捨てた」と見なす。しかし、「神のために」と意志している者が、実は彼自身であることを見落としている。つまり、彼の献身の質や度合いは、彼自身にかかっているのであり、そのままでは、それが自分本意なものであることも十分可能なのである。例えばペテロの場合、彼は家族も財産も仕事も捨てて主イエスに従ってきたのだったが、主イエスの十字架を理解できず、主をいさめるようなことをしてしまったし、主の苦難を前にして、3度主を否んでしまった。つまり、私たちが決意する献身は、それがどのように純真で立派なものに見えても、神の御心から見ると、常に早とちりで頼りないものだということである。
 それでは、私たちはどうしたらこの不完全な献身状態から解放されるのだろうか。それは、献身の形態や方法等さえもすべて神に完全にゆだねることである。そして、それがエックハルトがここで言っている1つ目の貧しさとしての「何も意志しない」ということに他ならない。しかし、「何も意志しない」と言っても、文字通り何も意志しないのではない。というのは、生きている限り意志を持たないことはできないし、意志を持たない限り、神に従うこともまたできないからである。そこで正確に言えば、「自らは、具体的には何も意志しない」ということであり、常に自分の意志を神の御心により修正することである。つまり、その人は、ある時点においては、一つの明確な意志を持っているのだが、彼はそれにまったく執着してはおらず、いつでもそれを投げ捨てる意志を持っているのである。実際彼は、それが必要とあれば、日に何度も、彼の持っていた意志を水泡に帰し、その都度神のために新しいことを意志し始めることを厭わないのである。そして、そのようにして常に神の御心を探し求めていると、それ自体が彼のこの上ない喜びとなるだけでなく、それが日常的に行えるようになる。そして、自分がそれまで何と自分勝手な考えに支配されて生きてきたかということに気づくのである。そのようにして、彼の中から彼自身の意思が取り去られて行き、常に神の御心をのみ追い求めるようになることにより、彼は神が彼にあらゆることを示してくださることを知るようになるし、また神により彼にはすべてが可能であることにも気づくのである。しかし同時にまた、彼を一つの誘惑が襲うことになる。それは、彼が文字通り自分を失うことへの恐れである。彼がすべてを神にゆだねるにつれて、彼のうちに大きな力を感じるのだが、その力が彼をどこか見知らぬところへ運び去って行ってしまうように感じ、彼はもう一度自分を取り戻そうとして、あるいは罪の中へ逆戻りするということがあるかもしれない。エックハルトが他の説教の中で言っているように、「魂はみずから無となり、神が魂を支えるまでは、自分自身では再び自分自身に帰り来ることができなくなるほど遠くまで離れ出る」ということが起こるからである。しかし、そのようなことを繰り返すうちに、ついにあるとき、「神がその非造性によって魂の無を支え、魂を神の有のうちで保つ」という状態に恩寵により到達するのである。そのとき彼は、どのような存在となっているのであろうか。それは、一見彼という自己が完全に破壊された状態のように見えるかもしれない。しかし、そのようになる前の彼が果たして、本当に彼自身だったのかは、非常に疑わしいのである。というのも、彼はもともと、自分がどのように生まれてきて、これからどのように生き、そしてどこへ行くのかを知らずに生きていたからである。しかし、今彼は神の御心を求め、それに生きている。彼は、彼自身の意思で神に完全に服従し、神はすべてを彼に与え、教え、彼はその神の恩寵の中で、すべてを知っており、すべてが可能なのである。それゆえ、彼はいまや最も自由な者であり、もっとも彼自身でもあるのである。
 エックハルトが語る2つ目の貧しさとは、彼が「何も知ることがない」ということである。彼は、すでに「何も意思しない」という状態に達した。それゆえ、彼にはもはや何も知るべきことはない。彼は、彼に必要なもの、そして、彼が神に仕えるのに必要なものはすべてすでに持っているのである。それゆえ、そのような彼にとって、「新たに何かを知る」ということは、もはや起こらない。実に彼は、何ものもあえて知ろうとはしないし、またその必要もないのである。そればかりか、彼は神に、自分が何ものも新たに知ることがないことさえ求めるのである。というのは、その新たなものは、彼にとって、必ず悪いものであるからである。彼には、彼に必要なすべてが与えられている以上、それ以外のものは、何であっても必ず悪いもの意外ではあり得ないのである。
 3つ目の貧しさは、エックハルトによれば究極のものであり、「何も持たない」ということである。もちろん彼は、もはや自分のためのものなど、何も持っていない。その彼が、あえて何も持たないということは、「神のためにさえも何ももたない」ということを意味するのである。それは、まさに神との関係のすべてを断ち切ることを意味する。彼を神につなぎとめていたすべてをいまや彼は、彼自身から断念するのである。つまり、彼の中に神が存在するような場所をさえ、彼の中から投げ捨てるということである。それを用意したのが彼である限り、彼はあえてそうすべきなのである。というのは、彼にとって、すべては神から与えられたものでなければならず、もはや彼自身が作り出したり、備えたり、とっておいたりしたものは、彼と神の関係にとって、障害以外の何ものでもないからである。そして、彼は神との全関係をかけて、神との関係を断ち切るのである。それにより、彼を神につなぎとめているのは、もはや神以外ではないことになる。そして、それこそが彼と神との唯一の正しい関係だったのである。
 エックハルトは語る、「この話が理解できない人がいても、そのことで心を悩まさないでいただきたい。人がこの真理に等しくならないかぎり、人はこの話を理解することはできないであろうから。というのも、それは神の心から直接に発した、ひとつの露な真理だからである」と。彼は祈る、「わたしたちが今日の話のように生きるよう、またそのことを永遠に経験するよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2011/09/23

魂の内にある火花について

 エックハルトがここで言っている「魂の火花」とは、魂に与えられた「神を知る力」、「認識の光」とでもいうべきものである。魂は、様々な方法で神を求める。あるときは、自分の周りの世界を探求することにより、またあるときは、自己の内へと沈潜し、黙想することにより。しかしこの光は、それらとは全く異なる方法で神を認識しようとするのである。それは、エックハルトによれば、神が創造したところの「神と魂の同等性」によるのである。それでは、魂は神とどのように同等なのであろうか。再びエックハルトによれば、「魂は被造物であるというこの一点においてのみ神と異なっている」のである。しかしこの違いは、無限に大きな違いである。それにも関わらず、聖書によれば、神は人をご自身の姿に創造されたという事実がある。これは何を意味するかと言うと、魂はその有においては、神と本質的に異なっているが、ある特定の働きにおいては、神と同等であるということなのである。そして、その「神と同等の働き」がすなわちエックハルトの言うところの「魂の火花」なのであり、人はそれを通して神を完全に知ることができるというのである。それを「火花」と呼ぶのは、それがあるエネルギーを持っているからである。それは、ある強い意志を持った「認識の光」であり、その目的は、何かを得たり、成し遂げたり、愛したりすることではなく、あくまで「認識すること」なのである。そしてその方法は、エックハルよれば、「神自身を生みこむ神の働きの内で神を受け取ること」であり、この働きこそ、人に与えられた、神と同等な一つの働きなのである。
 これは、ある特殊な認識である。というのも、通常の認識は、自己との違いから対象を把握するのに対して、この認識は、自己との同等性から対象を把握するからである。また、この認識は五感を用いず、それらから取得される情報を基に、あれこれと論理的な思考をも行うことがない。というのは、エックハルトが言うように、「そこには、未知も距離もない」からである。そこで、この働きにおいては、認識はもはや合一のための手段でもまた過程でもない。ここにおいては、認識はそのまま合一なのである。それゆえ、この認識に到った者は、また神との合一にも与ることになるのであり、再びそれはまた、天地の創造にも関わることなのである。というのも、エックハルトによれば、神はこの世界をそっくりそのまま、今というこの一瞬において、再創造するからである。しかし、そのような巨大なエネルギーに満ちていながらも、ここは、エックハルトによれば、さながら「静粛なる砂漠」のようである。そこがすべてのものの始まりであり、また終わりだからである。それゆえ、そこには、もはやだれも住まいする者もなく、そこがどのような場所なのかについても、いかなる方法によっても伺い知ることはできない。そこは、実に「単純なる根底」であり、そのようなところへ、かの「認識の光」は行こうとするのである。しかし、あなたがこの場所へ赴くことをあえて望むようになるためには、あなたは「自分自身および被造的事物一切から離れ去ることにより、時間にも空間にも触れることのない魂の火花の内で、ますます統一され、浄福なものとされ」なければならない。そのとき、それまでずっと迷い続け、何ものをもってしても満足することのなかったあなたの認識の光は、「その世界の最内奥においてはじめて満ち足りる」とエックハルトは語るのである。
 彼は祈る、「私たちがこのような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理が私たちを助けてくれますように。アーメン」。

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2011/09/16

神が魂の内に子を生むということについて

 福音書には、一人息子に死なれた寡婦の話が載っている。息子に先立たれることは悲しいことだが、さらに悲しいことには、彼女が寡婦であり、もはや夫がいないので、新たに子を儲けることもできないのである。エックハルトは、この死んだ夫とは「知性」のことであると言う。そして、生まれつきの魂も、霊的にはちょうどこの寡婦のように、何の望みも無い存在だと言うのである。彼は語る、「知性の内で生きることがなければ、息子は死ぬのである」と。しかし、この死んだ息子に向かって、主イエスは語りかけられた、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と。この「起きなさい」とは、すなわち「わざから起き上がって、魂の上へ、自分自身の内へとあなたを起きなさい」という意味だとエックハルトは言う。そしてこの「自分自身の内へ」ということは、「知性の内で生きる」という意味である。つまりその目指すところは、「時間を越える」ということなのである。「知性はいかなる時間にも触れることがない」と彼は語る。それはどういう意味かと言うと、つまり、そのように私たちは、一切の被造物を見捨て、それらから離脱し、時間を超越した世界で知性的に生きなければならないのである。「神は永遠の内の一なる今においていつも働く。神の働きは、神の子を生むということにある」とエックハルトは語る。神は、「永遠の一なる今」において、あなたの心に神の独り子を誕生させられるのである。
 これらのことを一言で言えば、すなわち「生きた信仰」ということである。それは、神の全能性をどこまでも信じる信仰である。そのためには、私たちは時間を超えなければならない。つまり、時間とは関係なく、また時間の関数であるところの物理法則とも関係なく、さらにまた、これから時間と共に起こり来るすべての恐るべきこととも関係なく、そしてまた時間と対比されるところの私たちの考えるすべての戦略や可能性とも関係なく、「主よ、あなたにはすべてが可能です」と告白するのが「生きた信仰」である。そのときあなたの心に、真に神の独り子が誕生するのである。「神はその子の内で自分自身を語りだすのである」とエックハルトは言う。すなわちキルケゴールが言うように、「自己が精神となるまでに自己の本質が根底から動揺せしめられて、一切が可能であるということを理解するに至ったような人間のみが、神との交わりにはいったのである」。この信仰こそが、人をして神の独り子と同じ姿にするのであり、それは、「神が私たちの魂にその独り子を生むこと」によるのである。
 またエックハルトは語る、「魂は自分の外へ神を、神から、神の内へと生むのである」と。つまり、魂もまた神の独り子を生むのである。自分の内から神の内へと。しかし、私たちと神との間には、決して越えることのできない壁がある。そして神の御心も、私たちが神になることなどではなく、私たちが私たち自身として生きることなのである。それでは、エックハルトが追求する「神との合一」とは、いかなることであろうか。それは、私が私自身でありながら、最大限に神に接近すること、すなわち「神を生むこと」なのであり、そのことを通して、私たちは神を真にそのあるがままの姿で認識し、その内でまた自分自身をも、そのあるがままの姿で認識するのである。その能力を神が私たちに賜ったとエックハルトは言う。「このことは、魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生むということによってなされる。そこでは魂は神の似像である」と。さらに彼は語る、「多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを越えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である」と。
 エックハルトは祈る、「主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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2011/09/12

神の言について

 「神はすべての事物の内にある」とエックハルトは語る。たとえ聖霊は与えられていなくても、神ご自身は遍在なるお方だから、信じない者の内にもおられるし、またその他の被造物の内にも神は同時に臨在されると言うのである。そして彼は、その超越性を安易に神の全能性によって説明しようとはせずに、むしろその事実を基にこの世界と神と私たちとの関係を解き明かそうとするのである。そして、私たちの目には見えない一つの仮説を提示する。すなわち「すべての被造物は、外へと流れ出ながら、しかもそれ自身の内に永遠にとどまりつづけている」と。聖書もまた「見えるものは見えないものから出てきた」と語る。そして、その見えないものの起源は神であるゆえに、すべてのものは神から出てきたということになる。神が存在しないなら、すべてのものもまた存在しないのである。この聖書の意味をエックハルト流に表現すれば、「すべての被造物は、神から流出した」ということになる。しかし、そのことと上で述べたこと、すなわち「神はすべての事物の内にある」ということは、どのように関係するのか。それは、これらが永遠の世界のできごとであると考えることによるのである。すなわち「私たちの流出」ということが「永遠の世界のできごと」であり、見えるものは、この見えない「永遠の世界のできごと」から生じた、いや今まさに生じているということなのである。つまり、私たちの流出が永遠の世界のできごとであるならば、それは文字通り永遠に続く。流出している当の私たちは、それを果てしない時間の流れとして自覚する。しかし私たちの流出自体は、時間の中の現象ではなく、永遠の世界におけるひとつの事実なのである。そして「神の内にあること」と「神から流出すること」とは、永遠の世界における私にとっては、2つではなく1つのことなのである。すなわち、聖書に「神は、あなたの出づると入るとを守られる」とあるように。そして、このことを受け取る者は、神がすべての被造物の内に同時に臨在することを受け取るのである。そればかりか、彼は、エックハルトが語るもう一つの深遠な洞察をも受け入れるであろう。すなわち、「神はこの全世界をそっくりそのまま、この今において創造するのである」と。
 エックハルトが提示するこの世界の根本構造は、「神の言葉」の性質そのものである。すなわち「御言葉は、語り出されながらも、語る者の内に深く留まる」のである。そして、エックハルトは、私たち信仰者がこの世界を生きるための二つの大きな指針を次の聖書の言葉により提示する。すなわち「御言葉を宣べ伝えなさい」、「すべての事物の内で励みなさい」と。
 「御言葉を宣べ伝えなさい」とは、「それを語り出しなさい」という意味であり、それは再び「それがあなたの内にあることを覚りなさい」という意味だとエックハルトは言う。「神はすべての事物の内にある」、しかし、この世界の無数の被造物のうち、その内に御言葉を持つのは、人以外にはない。「神は、あなたを神の独り子として、けっしてそれより劣ることのないものとして生むために、人となったのである」とエックハルトは言う。それゆえ、この一つ目の指針においては、私たちが自らの力で努力することはなにもない。むしろ私たちは、自分の内へと沈潜し、エックハルトによれば心の最内奥にして霊的な世界の最高所であるその場所において、ただ神と向かい合うのである。
 二つ目の指針である「すべての事物の内で励みなさい」について、エックハルトは、三つの意味を説明している。第一に「すべての事物の内で神をつかめ」ということ。次に「すべての事物を越えて神を愛しなさい」、最後に「すべての事物において神を等しく愛せよ」という意味である。つまりこれは、自分から外へと向けられた試みである。これらから理解されることは、一見内向性に終始しているように見えるエックハルトの真理へのアプローチの真の目的は、実はこの世界への回帰であるということである。それは、生活の直中で神を見出し、自分のように隣人を愛し、貧しさの内にあっても豊かさの内にあっても、等しく神を愛し、その後に付き従うことを常に追求しているのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちがこの完全性へと到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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