2011/06/10

論述:離脱について

 エックハルトは、彼の研究の集大成とでも言うべきこの論述の冒頭において、彼の探求の目的と結論について語っている。それによると、彼の探求の目的は、「人を神に最もよく、最も近く結びつけ、恩寵により人を神の本来の姿と同じものにすることができるような徳を見い出すこと」であり、そしてそのような徳とは、「離脱」だというのである。それでは、この「離脱」とは、いったいどのような徳なのだろうか。また、この「離脱」というものは、神の母マリアが持っていた徳、聖書の内にも称えられているところの彼女の「謙虚さ」とどのような関係にあるのだろうか。
 これについてエックハルトは、「離脱は、愛にも、哀れみにも、また謙虚さにも優る」と言う。というのも、愛も哀れみも謙虚さも共に、それが神のみこころには違いないのだが、一方でまたこの世界の事物に対する行為であるからである。これに対して「離脱」はこの世界のすべての事物に背を向けて、神のみに向かうものだからである。それでは、聖書の中にこの「離脱」について述べられていないのはなぜであろか。エックハルトによれば、それはまさに離脱がこの世の事物をを対象にしていないことに起因する。そこで、もし離脱を所有している人がどのような形態においてであれ、そのことに言及する場合には、そのときは離脱はすでに離脱ではなくなってしまうということである。つまり、離脱は離脱として言及することのできないものであり、それゆえに聖書にも記述されていないのである。そこで、もし私たちがこの世界の中で離脱を所有している人に出会ったとしても、そのことを認識できないであろう。そして、このまさに「人に示すことも、誇ることもできない」ということこそ、「離脱」という徳の卓越したところだと言うことができよう。
 そこでエックハルトによれば、人が神に最もよく、最も近く結びつき、恩寵により神の本来の姿と同じになりたけれは、この「離脱」によらなければならないのであり、神の似姿に創造された私たちは、この離脱によって自ら神に近づくことができるのである。というのも、神ご自身がこの離脱の内に永遠の昔から留まっておられるのであり、離脱が純粋な無に向かうものであることから、これら2つの離脱の間には、何の区別も無いからである。
 それでは、人はどうすればこの離脱に到達することができるのだろうか。エックハルトは語る、「あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである」と。というのも、苦しみのみが謙虚さを生み出すことができるのであり、神がそのように定められ、人はそれに従うしかないのである。そしてこれが、人生の意味であり、それにより、その目的もまた明らかである。

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2011/06/09

神と神性とについて

 エックハルトは、彼の諸々の説教の中で、神に関する深遠な解き明かしをしているが、その中の特徴的なものに、「神」と「神性」という二つの概念がある。彼は語る、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と。そして、それらがどのように異なるかについては、「神は働き、神性は働くことがない。神性は働くべきいかなるものも持たず、神性の内にはいかなるわざもない。神性が何らかのわざに目を向けたことは一度もない。神と神性とは、働くことと、働かないこととで区別される」と言うのである。
 私たちが自分というものを良く観察し、それに基づいて知性的に考察するならば、次第に自分の精神の構成要素が認識されてくる。それらは大ざっぱに言えば、まず五感があり、次にそれらの働きから像を受け取り理解する論理的思考能力がある。私たちが神を認識するのは、この能力によるのであり、通常人が意識するのはここまでである。しかしエックハルトによれば、さらに私たちの知性には、「像も形もなしに認識する能力」があり、それは実は測り知れない可能性に満ちた世界である。この高次の知性は、低次の論理的な知性が捉えた「神」を、さらに高度に純粋な姿において捉えるのであり、それが「神性」というものである。そこで、ここにおいて「神性」に対して「神」と言われている対象は、個人の心の内にあり、それぞれに幾分か異なって存在している可能性のあるものであり、そのようにして「神」は、万人の心の内にご臨在される。それは、「神は人が考え出したもの」という意味ではなく、実在する神の栄光が人の心に射し込み、そこにご自身を現されるということにおいてである。ところが人の知性は、その神の像に様々な着色を施すこともまた事実である。しかし、高次の知性にあっては、「個」という概念はすでに突破されている。というのも、この領域には、形態や法則というものはなく、時間も戦略もないからである。そこで、この高次の知性の領域においては、そこが個人の領域でありながらも、すべてが共通なのであり、人の理性的精神は、いわばこの高次の知性の領域から流出し来たったということもできるであろう。逆に言えば、人の精神の内にそのような概念を超えた高次の領域が存在しているのである。この場においては、「1匹の蚊も人も同じ原像を持つ」とエックハルトは言う。そこでは、すべてのものは一である。この場所は、人間の精神の中にあるという意味では、個々人の固有の場所であり、それらは互いに共通部分を持たない。しかし、また同時に、それらは意味において、働きにおいて、目的において、共通しておりそれゆえそれらは、全くの一なるものと言うこともできるような場所なのである。というのも、そこには、個々人の固有性を区別するような概念自体が存在しないからである。そこで、それらは互いに別々の空間的場所にありながらも、この地上においてさえも、本質において、働きにおいて、一つなのである。そして、人はこの高次の知性の領域を意識するまでに自己を理解することが可能なのである。もちろん、人の意識は、感覚と理性を同時に意識できないように、論理的な精神の領域と高次の知性の領域を同時に意識することはできないのであるが。
 そしてエックハルトは、他の説教で驚くべきことを言っている。それは、「神は、ただ自己自身だけを認識することによって生きるひとつの知性である」ということである。「その知性は何ものにもいまだかつて触れられたことのないところでひたすらそれ自身の内にとどまりつづけている」と彼は言う。そこで驚くべきこととは、私たちは私たちの高次の知性の領域において、神とひとつだということである。なぜなら、神は私たちをご自身の似姿に造られ、私たちの精神の内に住まいされるからである。
 それゆえ、私たちが神に対する永遠の従順を獲得したいと願うならば、この高次の知性の領域を意識するまでに、この世界の諸々のものから超然として、その領域において、神と共に働くまでに神とひとつになることが道なのである。つまり、私たちはこの世界のすべてのものを、この高次の知性の領域にある形態において、つまりそれらが御子の内にあるままに認識すること、すなわちエックハルトの言葉を借りれば、「それらをその精神的有からわたしたちの知性の内へと運び入れる」ことが必要なのであり、そのようにして私たち自身がこの根底の内へと帰り来ることが必要なのである。
 エックハルトは語る、「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである」と。

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2011/05/31

観想的生と活動的生について

 ところで、わたしたちがこの世界に生まれてきた目的は、何だろうか。エックハルトは言う、「わたしたちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである」と。つまり、わたしたちは、この世界において、神に向かって昇り行き、日々神の御姿に変えられて行くのである。
 どのようにしてであろうか。エックハルトは、「魂は、神にいたる三つの道を持っている」と言う。それによると、第一の道とは、多種多様な生業を通じて、燃えさかる愛をもって、全被造物の中で神を探すことを言う。第二の道においては。人は自分と一切の事物との上に高く遠く、意志も説ち切り、像によることもなく上りゆく、しかしいまだ本質的な永遠性は手に入れていない。そして第三の道は、「道」と呼ばれはするけれども、それは同時に「家郷」に在ることであって、神自身の有において直接に神を見ること」であるという。
 以上は、人間をとりまく環境についてであるが、これらに対する人の生き方に、「観想的生と活動的生」があるとまた彼は言うのである。この「観想的生」には、聖書に出てくるマルタとマリアの内のマリアの生き方が当てはまる。それは、求める思いは人一倍持っているが、そのことが自分にとってなくてはならない道、つまり生業とはなっていないような人である。そのような人は、自分の状態や方向に対する必然性を持っておらず、むしろ何ものとも分からぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っているのである。そこでエックハルトによれば、「魂が一切の生業をもたず、純粋にして単純に永遠の周辺に境を接するまでに高く上げられている場合、もし何かが手立てとしてその間に入り込むことがあるならば、この魂は悲しみにくれ、その高みに歓喜に満ちてとどまることはもうできなくなってしまう」という。つまりその人にとっては、向上のための何か具体的な手だては、自分が現実に関わりを持たなければならない煩わしいものに過ぎず、その人の憧憬を壊すものでしかないのである。「それに対してマルタは、成熟した堅固な徳とわずらわされることのない心の内に立って、すべての事物に妨げられずにいた。その秘密はなんであろうか。
 「ここで徳について学んでほしい」とエックハルトは言う。彼によれば、徳のある生活の始めは、「自分の意志を神の内で断念することである。それには、人の持つ粗野な感性的意志が知性的意志によって制御され、ついに神の意志のみを満たそうとする不動なものにまで高められならなければならない。しかし、この永遠の意志へ人間の力で到達することはできない。それは、神から来るのであり、それは、神の主権に属するゆえに、人にはただ準備して待つことだけがある。神が私たちの業と思いを受け入れて下さるように。エックハルトは語る、「これらすべてが満たされると、神は魂の根底にさらにもう一つの意思を置く。それは聖霊の愛による掟をともなう『永遠なる意思』である。すると魂は、『主よ、あなたの永遠なる意思のなるごとく、わたしにもなさせたまえ』と語るのである。魂がこのような仕方で、先に述べたことを満たし、それを神が気に入ると、愛する父は魂の内に父の永遠なる言葉を語るのである」と。
 それは、神の主権によることであるが、その主権を発動なさる神は、生きた義と愛の神であり、私たちの心の思いを知り、切なる願いを聞かれ、献身を喜び受け入れられる方なのである。エックハルトは祈る、「わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2011/05/26

像を介さぬ認識について

 「神は善きものなどではない」とエックハルトは言う。これは、いったいどういう意味だろうか。そればかりか彼は、「神は賢いと言うならば、それは真実ではない。わたしが神より賢い」とも言う。これらのことの意図は、やはり彼の言葉であるところの次により理解される。すなわち、「わたしたちが第一原因について認識し語るものは、第一原因そのものについてではなく、むしろわたしたち自身のことである。なぜならば、第一原因はすべての言葉も理解も超えたものだからである」と。
 つまり、もし私たちが第一原因であるところの神について論述し、「神は云々」と言った場合、そこで想定されているのは、実は「神」ではなく、むしろ「私たちの想像した神」にすぎないということである。そして、私たちが想像するもの、考え出すものは、それが何であっても、私たち自身より大きなものではあり得ない。それは、つねに「わたし」という、考える主体、いわば「概念の創造者」に従属したものとなる。そこで、「わたしが神より賢い」ということになるのである。
 このように、私が神に従おうとして、そのために神と関係を持とうとし、自分の内に神の概念を設定した時点で、私はすでに「神」ならぬ「神の概念」と向き合うことになる。しかしそれは、私よりも小さい神の「像」でしかないのである。
 以上のことを解決するためには、私はまず、自分が作りだした、その不完全な神の像を捨て去らなければならない。そして、神に対してどのような像も用意してはならないのである。つまり、私は神を「像を介さずに」認識する必要があるのである。
 それでは、いったいどのようにすれば良いのだろうか。エックハルトは語る、「あなたは、あなたの自己からすっかり離れ、神の自己に溶け入り、あなたの自己が神の自己の内で完全にひとつの自己となるようにしなければならない」と。つまり「像を介さぬ認識」とは、そこには光のような媒介が存在しないのであるから、それはすなわちこの形態しかあり得ないのである。そのためには、あなたの心が根本的に新たにされる必要がある。そして、神があなたに与えられた能力に目を向ける必要がある。
 エックハルトは語る、「神は、精神とも心とも呼ばれる魂の最初の領域において、魂の有と共に、ひとつの力をつくった。この力は、魂と父との等しさを神性の流出を通じて創り出すのである」と。魂は、神から様々なものを受け取りはするのであるが、それは光によるのでも、まして手渡しによるものでもあり得ない。つまり、そこには伝達や搬送という行為というか現象自体が存在しないのである。なぜなら、そこにな未知も距離もないのだから。そして、そのような場において、神から何かを受け取るのが、エックハルトが語る「ひとつの力」なのである。それは、わたし個人の力なのであり、まさに「神性の流出を通じて、魂と神との等しさを創り出す」のであり、これ以外に方法はない。というのは、あなたという存在は、完全に閉じたひとつの宇宙であり、そのようなあなたを神は、永遠の愛で愛されるのである。それは、あなたが真の愛を知るためである。「真の愛」それは、与えることも受け取ることもない。エックハルトは言う、「神とわたしとがひとつの有となり、ひとつの有であり、しかもこのような有のあり方にあって永遠にひとつのわざを働くまでに、完全に一にならなければならない」と。そのときあなたは、彼が言うように、神をひとつの「非神」として、ひとつの「非精神」として、ひとつの「非位格」として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄み切った一なるものとして認識する。そして、わたしたちはと言えば、エックハルトによれば、「この一なるもののうちで、有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン」。

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2011/05/25

三つの闇について

 「求める価値のある一切のもののもつ味わいは、光によって魂の内へともたらされなければならない」とエックハルトは語る。魂は、自分とすべての事物を「像」により認識するのであり、そのために光が必要なのである。しかし、「認識」と一言で言っても、魂の内には、五感を含めて様々な種類の認識が存在する。エックハルトは、ここで3段階の認識について語っている。それらは、順を追って高くなるものであり、人は真理に対する、より高次の認識に至るように招かれているのである。
 どのようにして、人の認識は、高められて行くのだろうか。それにはまず、現在持っている認識力に練達することである。それにより、より高い段階の真理に対する洞察が得られる。しかし、その新たな認識は、古い認識とは形態が根本的に異なっている。その上、魂は一度に二つの事柄を認識することはできない。そこで、新しい形態の認識力を働かせるためには、どうしても古い形態の認識力の行使を断念せざるを得ないことになる。そして、古い形態の認識力の行使を断念したそのとき、当然ながらその認識の像も消滅することになる。つまり、新しい認識力がそれに対応する新しい認識の光を受け取るようになるとき、古い認識は、光から闇へと変わるのである。
 エックハルトによれば。もっとも低次の認識とは、「身体と結びついたものであり、たとえば目がものを見て、その像を受け入れるように、像を受けとる」ような認識である。その次の段階の認識は、「精神的なものであるが、身体的事物からなおも像を受け取る」。最後の段階の認識は、「精神における内的なものであり、像も写しもなしに認識する。この認識は天使にふさわしいものである」と彼は言う。このように、魂が現状よりもさらに高い認識に至るとき、それよりも低い従来の認識は、光から闇へと変わるのである。そこで前述のように、三つの認識のレベルを想定するとき、そこにおのずと、二つの克服された次元の認識に対応した、二つの闇が想定されて来るのである。それでは、エックハルトの言うところの三つ目の闇とは、いったい何だろうか。それは実は、三つ目の認識そのものに他ならない。というのは、この認識は、最高次のものであり、ここにおいては魂は、「像も写しも無しに認識する」からである。像も写しも無いところ、そこには光もまた必要ないのであり、神は、ここにおいて、ご自身を魂に、像も写しもなく与えるとエックハルトは言うのである。
 そこで、この認識においては、未知も距離も存在しない。つまりそれは、やがて受け取るとか、次第に獲得するということはなく、すべてがすでに獲得されているような認識なのである。ここにおいては、今持っているものは、どこからか得たのではなく、すでに持っていたものであり、これから得るようなものは、何も存在しない。もし、下位の段階の認識において、獲得が目指されていたもの、憧れていたものがあれば、この段階の認識においては、それらのすべてがすでに獲得されているのである。それらは、どこから獲得されたのであろうか。それは、神が魂に近いというそのことからである。それゆえ、この段階の認識においては、新たに認識すべきものは何もなく、ただすべてのものを超え出て、この段階の認識に到ることこそが必要なことのすべてなのである。そしてそれは、私たちの魂を導かれる主イエスと共に、高い山の頂に立つことであり、そのようにして、神の内にある小さきものから大きなものに至までの何もかもすべてを神の独り子の内で認識することなのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが神以外のすべてのものを超え出るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2011/05/19

無である神について

 使徒パウロが復活の主イエスに出会ったとき、まばゆいほどの光が天から彼を射し照らした。そして「彼は地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」と使徒言行録に書かれている。これに対してエックハルトは言う、「パウロの目が何も見なかった正にそのときに、彼は神を一つの無として見たのである」と。つまり、人がもしこの世界において神を見ようとするならば、そのときはどうしても、神を「無」として見るのでなければならないと彼は言うのである。
 ああしかし、たとえ「見る」と言っても、「無を見る」とは、すなわち「何も見ないこと」に他ならないのではないのか。しかし実に、この経験によりパウロの人生は、180度変わってしまうのである。だからそこには、確かに何かが存在するのであり、パウロが天からの光に包まれて、神を一つの無として見たとき、彼はいわば神の片鱗をかいま見たとも言えよう。エックハルトは言う、「この光の内で魂の一切の力が高まったのである」と。つまり、私たちはこの世界において神を見ることができるのだが、そのためには、魂の持っている一切の力が高められる必要があるのである。それは、どのような修行によるのだろうか。また、それにはどのくらいの年月が必要なのだろうか。しかしそれは実は、修行というようなものではないのである。というのも、彼によれば、この世界においては、「神へはいかなる入り口もない」からである。
 エックハルトは語る、「これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛躍し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しないかぎりは、天使といえどもこの思惟に関しては何も知ることはない」と。そして、さらに彼によれば、「恩寵や光が上昇したり増大したりすると理解している人は、まだ一度も神の内に来たことのない人である」と。つまりそれは、一瞬にして起こるしかないのであり、いつそれが起こるのかは誰にも分からない。それは、神の主権に属することなのである。
 しかし、このことについてエックハルトは、もう少し積極的なことを語る。すなわち、「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである。このように必ずなるのである」と。つまり、いわば神の恩寵を自分に招き寄せるような何ものかがある。それが「自己放棄」であり、「魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄するならば、そこで魂は無の内に神を見出すのである」と彼は語る。この「一なるもの」とは、すなわち「神」であり、エックハルトによれば、その神は、実は私たちの内部にいるのである。「神は真の光であり、魂にとってのよりどころであり、魂自身よりも魂に近くあるので、魂がすべての生成した事物から離れるならば、神が魂の内で輝き光を放つということは必ず起こらなくてはならないことなのである」と彼は語る。それゆえ、この神を、私たちはあり方なきあり方として、有なき有としてつかまなければならない。なぜならば神は、いかなるあり方もない形で私たちの内にいるからである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが、あり方も尺度も全くない認識の内にいたりつけるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2011/05/11

三つの内なる貧しさについて

 キリストは、「精神において貧しき人たちは浄福である、天国はその人たちのものであるから」と語った。この「貧しい」とは、いかなる意味なのか。「それは、文字どおり何も持たないという意味である」とエックハルトは言う。しかし、一般的にはそうではなく、往々にして、「神の御心以外を求めない」というような意味に受け取られている傾向がある。しかしエックハルトは、「あなたが神の御心を求めている限り、あなたは貧しくはないし、キリストの言われた貧しさを所有してもいない」と言う。なぜであろうか。それは、あなたの考える献身は、主イエスから直接に命じられたものでない限り、それがたとえどのように熱心でまた熟考されたものであったとしても、神の前では、所詮愚かなことに過ぎないからである。だからいっそのこと、そのようなものは、きれいさっぱりと、どこかへ捨ててしまった方が良いのである。
 そして、ただ神を知ることだけを求めようか。ところがそれもエックハルトによれば、「精神の貧しさ」ではない。つまり、神についてさえも知ろうとしてはならないのである。というのは、彼によれば、あなたが神について知る必要のあることは、すべてあなた自身がすでに知っているのだから。つまり、神は訪ね求めるようなものではない。子供がその父を知ろうとして、何かを探求するだろうか。しかしあなたは、イエス・キリストの恵みにおいて、神の子として創造されたゆえに、あなたは、自分の内に父なる神を知っているのである。それゆえ、それ以上に新たなことを知ろうとするのは、愚かなことであるばかりか、返って父から離れることとなるのである。だからあなたは、神のために精神において貧しくなろうと思うなら、もはや神について何かを新たに知ろうとしてはならないのである。
 それでは、只々、神が私の内で働かれるように、すべてを空っぽにして、私自身をすっかり神に明け渡そうか。しかし実は、これもエックハルトによれば「精神の貧しさ」ではないのである。彼は言う、「神は、あなたが神のために場所を用意することさえも望んではおられない」と。つまり、「神の御心を望むこと」、「神について知ろうとすること」、「神のために自分を捧げること」、これら三つのことを神は望まれないし、またそれらのことは、キリストが語った「精神の貧しさ」でもないというのである。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。それは、文字どおり、すべてを捨て、心を貧しくし、無一物になることである。そのときもはや、あなたからは何も新たには生まれない。あなたは、完全にこの世に対して死に、あなたはキリストと共に葬られたのである。そこには、文字どおり何の望みもない。ああしかし、ここに一つの驚くべきことがある。それは、あなた自身がキリストの死の様と等しくなるために、あなたは実に何ものも新たに獲得する必要はないということである。それが正にキリストの意図されたことであった。そしてまた、そのことこそがあなたが獲得しなければならないただ一つのことであり、あなたにそれを可能にして下さったのは、神なのである。それゆえあなたが、神の御心を成そうと意志せず、神を知ることを求めず、神のために自分を明け渡さずに、ただ、すべてを捨て去ることだけを求めるとき、あなたは、キリストの死の様と等しくなり、その結果、彼の復活の様と等しくなり、新しい命に生きるものとされるのである。そのとき、生まれながらの呪われるべきあなたという存在は消滅し、あなたはキリストの内に自己を見い出し、キリストと共に神との合一を体験するのである。

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2011/04/28

魂の内にある火花について

 エックハルトは、私たちに「知性的に生きること」を勧める。それは、一つの精神的な生き方ではあるが、この世の提供するような意味での精神的な生き方ではない。世の提供する精神的な生き方とは、すなわち「戦略」ということであり、それはいわゆる直接的な方法論に対して言われることである。つまりそれは、「急がば回れ」ということと、頭脳的な方法論によるのであり、その意図するところは、最適な施策への最短のアプローチである。しかし、エックハルトが提示するのは、そのような思惟的なものではない。というのは、思惟的なものは、それがどのように優れたものであったとしても、そこに、つねに間違えや騙される可能性が含まれているからである。
 それでは、エックハルトが勧める「知性的な生き方」とは、どういう生き方なのか。それはまず、この世界の事物から分かれ離れるということである。そして彼によると、それにより、魂の内にある一つの光が発動する。この光は、一つの不動なところを目指して飽くなき探求を続けているのだが、それ自体は不動なものではない。そして、この探求こそがエックハルトが勧める「知性的な生き方」なのである。それは、何のためなのか。それは、言うなれば、すべての事物の目的へと到達することである。そして、「すべての事物の目的」とは、「神」なのであるが、それは、いわゆる三位一体の神ではない。エックハルトによれば、三位一体にあっては、父なる神が御子を生み、父は、すべてのものを御子に与える。この授けの中で聖霊が流れ出る。そして、それらの体系は、万物の復興を目指しているのであるが、それゆえにそれは、万物の究極的な目的ではないのである。それでは、究極的な目的とはなにか。それは、「すべてが一つになること」であり、宣教の先にある万物の復興のそのまた先にあることである。それゆえ、そこにおいては、三位の区別もまたないのである。
 しかし、そのような遙かな未来における究極的な状態を、私たちはなぜ今、目指さなければならないのだろうか。それは、私たちの精神が時間を超越したものであり、それにより私たちは、万物の初穂であるからである。そして、エックハルトによれば、私たちは、「永遠の秘蔵性の隠された闇から父が永遠の内で生んだ独り子であると同時に、すべての純粋さの満ちた原初の純粋性という原始の内に依然としてとどまりつづけている」のである。すべてのものは、ひとつのところから流出し、またひとつのところへと帰り行くのだとエックハルトは語る。それゆえ、私たちが原初の純粋性の内にとどまり続けているのなら、また最後の回帰にも関わっているのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理が私たちを助けてくれますように。アーメン」。

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2011/04/25

神が魂の内に子を生むということについて

 「神は完全に一なるものである」とエックハルトは言う。しかし、その「一なるもの」であるところの神が「魂の内に子を生む」とは、いかなることなのか。彼は言う、「神は自身を自分自身から自分自身の内へと生み、そして自らを再び自らの内へと生む」と。神が完全に一なるものであるなら、つまり、神がすべてを包括しており、パウロが言う通り、すべてのものは、神の内に生き、活動しているのなら、神にとって自分以外のところはないのだから、まさに彼が言うように、「神は、自分自身を自分自身の内へと生む」と言えるであろう。しかし、実はこのことは、そのようなつじつま合わせ以上のことである。というのは、私たちは、神の姿に象って創造されたのであるから、神が自身を生むのは、この地上においては、他でもない私たちの魂の内へだからである。というより、神は、ご自身をその内に生むために、私たちをご自身に象って創造されたのである。しかし、神がご自身を私たちの魂の内に生むということは、また同時に、私たちが神を生むことでもあるのである。というのは、私たちが神の似姿であるならば、私たちは神と同様に、神を生む能力をも持っていることになるからであり、神は天にいまし、あなたは地上にいるのであるから、この地上で神が生まれるとしたら、生むのはあなた自身以外にはないのである。そして、それが、主が乙女マリアから生まれた訳であり、神はこの地上において、そのように御業を行われるのである。しかし、ここで重要なことは、私たちは神を私たちの内、すなわち自分自身の内へ生むのではない、ということである。私たちは神を、自分の外へと生むのである。しかし、神はすべてのすべてであるから、そのことはまた、私たちが神を、神から、神の内へと生むことでもあるのである。そのように、私たちは神ではなく、神により創造された神の似姿なのであり、神がすべてのすべてであるのに対して、私たちは、個体性、多様性、時間性を持っているのである。
 このとき、一つの重要なことがある。それは、私たちの知性がこの誕生を知覚していることである。そして、同時に神の知性もそのことを知覚する。私がそれを「知覚する」のは、神に従うためである。すなわち、いままで無意識に行っていた「生む」という行為を、神から受けた賜物として、自分の意志で行うのである。それは、これまで教えられていた信仰の真理以上のことである。というのは、あなたがあなたである間は、このことを決して行うことができないからである。あなたが神から与えられた「生む」という能力を自分から働かせるためには、あなたはあなた自身を完全に捨て去らなければならないのである。ちょうど処女マリアのようにである。それぬきにこのことを行うなら、それは神への冒涜となるかも知れない。しかし、あなたがあなた自身を完全に捨て去ってそのこと、すなわち「神を生む」ということを行うならば、あなたは、それまで体験したことのないほどの神との合一を体験することになる。実際、この「神を生む」ということ以上に神と一体となる行為が他にあるだろうか。この地上における、個体間の最深の関係は、実に親子の関係、つまり生むものと生まれるものの関係だからである。
 しからば、この「神を生む」とは、具体的にどのようなことなのだろうか。それは、乙女マリアの言葉に表れている。すなわち、彼女が天使に語った「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉である。つまり、神の御業がまず私というこの身に成就し、そして次に私を通して、この世界に成就することである。それは、あなたが今までにも聞いたような、教えられて来たような古い教えのようにも聞こえるかもしれない。しかし、そうではない。実に、このことこそが、あなたが「神を生む」ということなのであり、事実、あなたの内でそのことが起こっているのであり、神が天にいまし、あなたが地にいる、まさにそのままに、あなたは神と合一することなのである。
 エックハルトは語る、「すでに何度も話したことであるが、像としてのある像とその像のもとになったものとを互いに切り離すことはだれにもできない。魂が神の像であるような場で魂が生きるときに、魂は生むのである。そこに本当の合一がある。この合一を全被造物は互いにほどくことができない。神自身をものともせず、天使をものともせず、魂も一切の被造物もものともせずわたしは断言する、魂が神の像であるところでは、それらは魂を神からけっしてはなすことはできないであろうと。これが本当の合一であり、この内に本当の浄福がある。多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意思の内にもなく、それら二つを超えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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2011/04/18

神の言について

 この説教においてエックハルトは、使徒書簡から2つの言葉を引用する。1つ目は「御言葉を宣べ伝えなさい」であるが、これは彼によれば、「御言葉を語り出しなさい」という意味であり、そのために、「それがあなたの内にあることを覚りなさい」ということであるという。ところで、私たちの内にある御言葉とは何であろうか。それは、まさに生ける御言葉、主イエス、すなわち神に他ならない。そこで、彼の語っていることの意味は、「自分の内に神を見い出せ」ということである。2つ目の御言葉は、「どんな仕事にも励みなさい」であり、これは、「すべての事物の内で励みなさい」という意味であり、そのために、「すべての事物の内で神をつかめ」ということなのである。そのように私たちは、自分の内と外に共に神を見い出すことが必要なのである。
 「神はすべての事物の内にある」とエックハルトは語る。そして、「神が事物の内にあればあるほど、ますます神は事物の外にあることになる」とまた彼は言う。というのも、ある一つの事物から見ると、その他のすべての事物は、みなその外にあることになり、従ってそれらすべての事物の内に神があるということは、すなわち神は、その一つの事物から見ると、その外にこそ多くあるということになるからである。そしてこれは、上記の「自分の内と外に共に神を見い出す」ということと関係がある。そこで、もし私たちと神およびこの世界の関係がそのようであるならば、私たちは、これまでの既成概念を根本から変革せざるを得なくなる。つまり私たちは、全宇宙を無から創造された神ご自身に象って創造されたのであり、それゆえ、その宇宙創造の仕組みもまた、私たちの内に存在するということなのである。そしてそれは、「見えるものは見えないものから出てきた」と聖書に書かれていることにも関係している。つまり、私の周りにあるすべてのものは、古から神の内に存在していたのであり、その見えないものからすべての見えるものが出てきたのであるが、それらのものはまた、神の似姿に創造された私の内にも永遠の昔からあったということなのである。そしてそれのことは、エックハルトによれば、神はこの私の魂の最内奥において、全宇宙を創造したということであり、いまもなお創造し続けているということなのである。それは、考えようによっては、「すべては夢である」と言えるようなことでもあるのだが、また一方で、すべてはそのように現実であって、それがこの世界の根本的構造であるともまた言えるのである。つまり、この世界のすべてのものは、私たちの外にあるのと同時に、私たちの内にもある。私たちがそれを自覚しようがしまいがである。なぜなら、もしすべてのものが、ただ私たちの魂の外にだけあり、内にはなにも存在しなかったなら、どのようにして私たちはそれらを把握し、認識できようか。外にあるものに対応するなにものかが自己の内にあるがゆえに、私たちはそれを認識し、理解できるのである。
 もしそうなら、この世界を生きる上で私たちは、どちらのものにより多く依存すべきだろうか。つまり、心の内にあるものにか、それとも外界に存在するものにかということである。エックハルトは語る、「人がしっかりと眠りについていて、百年間も眠っているならば、その人は被造物についても時間についても、像についても知ることはない。そしてそのときに、あなたの内で神が働くものをあなたは知ることができるのである」と。また彼はこうも語る、「すべての事物は、それがこの世界にあるよりも、魂たる知性界にある方がはかり知れないほど高貴である」、また「魂の本性および本性的完全さとは、魂がみずからの内でひとつの知性的世界に、つまり神が一切の事物の原像を造りいれたあの知性的世界になることである」と。
 まさにそのためにこそ神の言はあるのである。聖書は、私たちがこの世界を生きるために具体的な方法を提供してくれるし、生ける神の言である主イエスは、聖霊により私たちの心の中に住み、私たちがこの世界を正しく認識し、そこを生きるときに神の御心を行うことを可能として下さるのである。

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