2012/07/30

戦いと勝利

第十八章
 主人が宿代を支払わずに逃げ去ったため、そこに居合わせた連中にケット挙げにされて心身共に疲れはてたサンチョもやっとそこから解放されて主人に追いついた。そして、これまでのことを振り返って、やはり村へ帰って野良仕事に精を出す方が良いのではと切り出すと、ドン・キホーテが言った。「やれやれ、サンチョよ、お前には騎士道というものがまったく分かっておらんようだな。まあ無駄口を叩かずに辛抱しておれ。そうすれば、こうしてわしと歩き回ることはいかに名誉なことは、お前の目ではっきりと見る日も来ようからな。それとも、お前は、戦いに勝ち、敵を倒すことより大きな満足が、あるいはそれに比肩する喜びがこの世にあるとでも申すのか?そんなものは何ひとつないということには、いささかの疑いもないというのに。」信仰は戦いであり、主イエスは、勝利者であり、私たちの万軍の主なのである。なぜ、私たちは、戦いを悪いこと、取るに足りないことと考えるのだろうか。それは、現代的な、経済性に着目した考えだろう。確かに戦いには、大いなる浪費がつきまとう。罪の無い人々を巻き込んだイデオロギーの争い、それには何も得るところはないだろう。しかし、真実を賭けた戦いもあり、悪の力を打ち破る戦いも確かに存在するのであり、それらを混同してはならない。いや、むしろ戦わずして、敵の意のままになることは、神の御心がこの地に行われるのを妨害しているという意味で、悪いことであり、それに対する戦いこそが神の栄光を現すことなのである。旧約聖書にたくさんの戦いが記されていて、その勝利者に栄誉が帰されていることや、主イエスが言われた「天国は激しく襲われている」という言葉、黙示録における天の軍勢と悪魔の軍勢の戦い等がそれを示しているのではないだろうか。
 しかしサンチョがさらに、これまでの戦いにおける勝率の低さや、その理由としてドン・キホーテが挙げていた敵の使う魔法等について言及すると、彼は言った、「だが、これから先わしは誰か名人の鍛えた霊剣を手に入れるように努めるつもりじゃ。いや運さえよければ、アマディウスが燃ゆる太刀の騎士と呼ばれていた時に履いていたあの剣さえ手に入らぬとも限るまい。それはかつてこの世の騎士が帯びた最高の剣のひとつだが、いま述べた魔法よけの力をそなえていたばかりか、切れ味がまるで剃刀のように鋭かったので、どれほど頑丈な、そしていかなる魔力を帯びた甲冑であろうと、その剣の切っ先に耐えることはできなかったのじゃ」と。これこそエペソ人への手紙に記されている、信仰者が身につけるべき霊の武具に他ならない。なぜ神は、信仰者をその敵から護られるのか。それは、彼が神の戦いを戦っているからに他ならない。それは、彼の利得のためではなく、純粋に神の栄光のためであり、その実現のために神は、ご自身の敵をあなたの目の前で打ち砕かれるのである。
 彼らが尚も進んで行くと、その行く手に、2群のもうもうとした砂煙が現れ、かれらの方に近づいてきた。するとドン・キホーテは、それを二つの軍勢が合戦を交えようとしていると見て言った、「おおサンチョよ、ついに運命が拙者のためにとっておいた幸運がその姿を現す日がやってまいったぞ」と。彼は、弱い方に加勢し、相手の軍勢を打ち破って武勲を立てようとしていたのであった。何という大胆不敵な態度、恐れを知らない心、これこそが万軍の主イエスに従う真の信仰者の姿と言えよう。それらの砂埃が本当に二つの軍勢の立てたものであったならであるが、不運なことにそうではなかった。実際は、それは二つの羊の群だったのであり、そこへ向かって突進したドン・キホーテは、またしても羊飼いたちの石投げに当たって肋骨2本と歯を三、四本も折る大怪我をしてしまうのであった。

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2012/07/24

霊薬の効用

第十七章
 泊まっていた部屋の直中で勃発した大騒動に巻き込まれて、したたかに痛めつけられ、気絶していたドン・キホーテも、やがて正気に戻り、前日、打ちのめされて「棍棒の谷に横たわっていた」ときと同じ力のない声で、従士に呼びかけ、こう言った、「サンチョよ、眠っておるのか?眠っておるのか、友のサンチョよ?」「とんでもねえこった。なんで眠ってなんかいられるもんですかい」と、サンチョが憤懣やる方ないといった、いかにもいまいましげな調子で答えた、「今夜は、まるで悪魔という悪魔がおいらに付きまとってるみたいな気がするっていうのに」。
 しかしドン・キホーテは、自分が受けた苦痛と侮辱のことなど微塵も考えていなかった。彼が考えていたのは、その苦痛と侮辱を彼にもたらした原因のことであった。しかもそれを彼は、自分の気高さが敵の心に引き起こした嫉妬が原因だと考えたのである。彼は従士に語った「今夜わしの身に、およそ想像しうる最も不思議な冒険のひとつが起こったのじゃ。それをかいつまんで話せばこういうことになろう。実はほんの今しがた、この城の城主の姫君が人目を忍んでわしのもとにお越しになったが、それはそれは、この地上をくまなく探しまわっても、二人と見つからぬほど優雅にして美しい姫君でござった」と。それがたとえ妄想だったとしても、また実現性のない願望だったとしても、彼の気高さは妄想などではない。彼を造られたのは神であり、彼は神の似姿に創造されたのだから。人は、それを自覚すべきである。しかし、もし自覚していないなら、彼は神を軽んじていることになる。なぜなら、人は神が彼に成された大いなる恵みに無関心であってはならないし、彼の使命は、ここから発するのだからである。例えば、隣人を愛するとか、福音を宣べ伝える等々である。
 しかし、その身に受けた傷があまりにひどく痛むので、このときとばかりにドン・キホーテは、かのフィエラブラスの霊薬を作るために、その材料の調達をサンチョに依頼した。宿の主人から快くそれらを分けてもらうと、彼はそれらを混ぜ合わせ、もうこれで十分と思われるまで長いこと煮立てて、一種の混合液をつくった。次いで彼は、この液を前に、八十ぺんを越える主の祈りを唱え、さらに同じくらいのアベ・マリアと聖母の祈り、使徒信経を繰り返した。そして一口、と言っても一リットルほども試しのみをしてみると、途端に激しい吐き気に見舞われて、胃の中のものをすっかり吐き出した後、三時間以上も眠り込んだが、やがて目を覚ました彼は、自分の体がたいそう軽くなり、打ち身のほうもずっと楽になった感じがしたので、もうすっかり完治したと勘違いし、自分がフィエラブラスの霊薬をつくりあてたものと考えたばかりか、これさえあれば今後はいかなる種類の苦難にも、合戦にも、決闘にも、よしんばそれらがいかに危険に満ちたものであっても、すこしも恐れることなく平然と立ち向かえると確信したのであった。それを見たサンチョが、自分にも飲ませてくれと言うと、ドン・キホーテは快く許したが、サンチョの腹はドン・キホーテほど華奢ではなかったゆえに、飲んだ物を吐くに吐けず、まさに七転八倒の苦しみに耐えねばならないはめになったのであった。「サンチョよ、お前のその苦しみはすべて、お前が正式に叙任された騎士にあらざるところからきているに違いない。それというのも、たしかこの霊薬が効くのは正式の騎士に限られていたはずだからじゃ」とドン・キホーテが言った。このことは信仰者にも当てはまるであろう。もし彼がいい加減な気持ちで、つまり主イエスの救いを受けた後に、彼の弟子としての自覚を持たずして、宣教の業に励むならば、彼には神からの十分な護りは期待できないということだろう。なぜなら、天の特別の護りは、主イエスの弟子にのみ伴うものだからである。
 一方ドン・キホーテは、体がすっかり元気になったように感じて、すぐにでも冒険を求めて度に出たいと思った。こんなところでぐずぐず時間をつぶしていれば、自分の庇護と援助を必要としている世界と世の人々をそれだけ待たせることになると考えたからであった。そして、やっと落ち着いたサンチョを早くも咳かせてロバに乗せて出発しようとしたところ、宿屋の主人から宿代を請求されたが、例によって遍歴の騎士の前例にないと断って、ロシナンテに鞭をあてて走り去ったが、サンチョは捕まって、散々な目にあわされる羽目になったのであった。

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2011/08/20

苦難に勝る苦難

第十六章
 サンチョ・パンサは、馬方たちから散々に打ちのめされ、ぼろぼろになったドン・キホーテを自分のロバに載せ、これまたぼろぼろのロシナンテを引っぱり、自分も足を散々引きずらせて、やっとのことで一軒の宿屋にたどり着いた。そこの宿屋は大そう貧しかったが、主人を始め、みな良い人々だったので、彼らを哀れに思い、できる限りの介抱をしてくれた。サンチョは、自分たちが馬方たちに打ちのめされたことを隠して、崖から転がり落ちたことにしていた。しかし彼が自分たちの素性を明かすと、宿の女中は、「遍歴の騎士さんって、いったい何なの?」と問い返したので、サンチョが答えた。「ねえさん、よく覚えときなよ。遍歴の騎士というのは、今しがた棒でぶちのめされたかと思うと、あっという間に、今度は皇帝になるもののことよ。つまり、今日は世界でいちばん不幸な、いちばんみじめな人間でも、明日には従士にくれてやる王冠の二つや三つは手にしていなさる方というわけさ」と。
 信仰者もそうである。彼が純粋な信仰を持っていればいるほど、往々にして、人生が彼にとって向かい風となることがある。もし彼がそれに負けて、実生活に妥協してしまうなら、彼は世界でいちばん不幸な、いちばんみじめな人間となるであろう。しかし、もし彼が現実に踏みとどまり、その逆風に信仰を持って挑むなら、彼はその人生において、多くの宝を手に入れることができる。彼は、一国の王にも勝る富を自分の人生で掘り当て、世界一の幸せ者となるであろう。
 「それじゃ、あんたはそんな立派な主人に仕えていなさるのに」と宿の女将が言った、「見たところ伯爵領のひとつも持っていそうにないのは、どうしたわけなのかえ?」。これに対して、「そりゃまだ早すぎるんだよ」とサンチョが答えた。「なにしろ、わしらが冒険を探しに出てから、まだほんのひと月にしかならねえし、おまけに今日までのところ、本物の冒険には一度も出くわしちゃいねえからね。捜す物と見つかる物がくいちがうてなあ、よくあることさ。だけんど正直なところ、わしのご主人、ドン・キホーテ様の傷が、というか落下の打ち身がなおって、わしも打ち身から回復して五体満足でいたら、その時にはわしは、たとえスペインの貴族のいちばん上の位と引き換えでも、自分のでかい望みを捨てるつもりはないね」と。いったいサンチョはどうしてしまったのだろう。何が彼に、これほどのことを語らせたのだろうか。
 自分が何を持っているかは、その人の境遇が決めるのでも、周りの人の評価が決めるのでもない。それは、その人自身が決めるのである。たとえ、あの女将が言ったように、今はそれが見えなくても、それをすでにサンチョは持っていたのである。それはどこから来たのか。無論、ドン・キホーテからではない。彼もそのようなものは、持っていなかったからである。しからば、それはどこから来たのか。それは、星輝く天上からである。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(ヤコブ1:17)と聖書も言っている。私たちは、ただ天からのみそのような光り輝く望みを与えられるのである。
 いずれにしても、彼らが泊まった旅籠は、例によってドン・キホーテには、名高い城に見えたのであった。そして、その城の姫君が、彼の凛々しさに一目惚れして、今夜、両親の目をぬすんで彼のところに忍んで来るという妄想に取り付かれたドン・キホーテは、折も折、同じ部屋に泊まっていた馬方のところに忍んできた宿の女中を姫君と間違えて、彼女に言い寄り、これから先は、あえて書くまでもないことだろうが、またしても、大騒動に巻き込まれ、先の苦難にも勝る苦難を受けることになったのであった。

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2011/08/01

不運な冒険

第十五章
 グリソストモを葬る一行と別れたドン・キホーテは、森のなかに姿を消したマルセーラを探し出し、自分が騎士としてできる限りの奉仕をすることを申し出ようと心に決め、従士と一緒に森の中へと入って行った。ところが、あちこちさまよい歩いた末、ついにマルセーラを見つけることができなかった。そして、とある小川のほとりでひと休みしたときに、つなぎ忘れたロシナンテが、そこに来ていた馬方の一行の雌馬たちにちょっかいを出して彼らから棍棒で打ちすえられたことがきっかけで喧嘩となり、従士もろとも足腰の立たない状態になるまで棍棒の雨をくらうことになったのであった。
 二人と一匹は、しばらく散々な状態でぶったおれていたが、まず従士のサンチョが先に正気に返り、蚊の鳴くような情けない声で主人に呼びかけ、これまた蚊の鳴くような応答を確認すると、今回の一件に関しての後悔を語り始めた。「旦那様、おいらはおとなしくて穏やかな性質の、争いを好まねえ人間だし、それに家には養っていかににゃならねえ女房と子供もいるから、今後どんな侮辱だって平気で受け流すことができますだ」とサンチョは言い、今後自分を辱めようとする連中をみんな許すつもりだと言った。すると、これを聞いたドン・キホーテが言った、「ああ、情けない男よ。お前はまた、なんという思い違いをしておるのじゃ。よいか、これまでわれわれに逆らって吹いてばかりいた運命の風が、これからは向きを変えて追い風になり、われわれの希望の船を、安全になんのつつがもなく、わしがお前に約束したどこかの島の港に導いていくことにもなろうというのに。そして、わしがその島を攻めとって、お前をそこの領主にしてやろうというのに、お前がそんな心構えでは、いったいどうなると思うのじゃ」と。
 夢と理想、その追求には、いつの時代にも犠牲が伴う。求めているものが大きいほど、そこに要求される犠牲もまた大きいのである。だから、サンチョのような、良く言えば堅実、悪く言えば臆病な者は、決して大きな夢の実現を見ることがない。例え彼がそれを手に入れたとしても、彼にはそれを維持、統治していく能力がないのである。それに対してドン・キホーテは、自分の統治能力に匹敵するものを求める。それゆえ、大きな夢が彼の上に現実化するのである。しかしその始まりにおいては、それはあくまで夢に過ぎない。夢の実現を見るためには、まず夢を見なければならない。そして、夢を見るためには、人はあえて不確実性の中に自分の身を置かねばならないのである。
 信仰者とは、不確実性の中にあえて自己を放置する者である。その不確実性とは、かつて起こったと言われることを自分が見たかのように主張すること。そして、これから起こると言われることをすでに起こったかのように受け取ることである。
 結局、サンチョはドン・キホーテを驢馬の上に押し上げ、ロシナンテを綱でつなぐと、驢馬の端綱をとって、街道のあるとおもわれるほうに向かって歩きだした。それから後は運命が事を良い方へと導いてくれ、ほんの一レグアも歩かないうちに、二人は目指す街道に出ることができた。そして、その街道に見えた一軒の旅籠が、ドン・キホーテにとってはまことに喜ばしいことに、しかしサンチョにとってはあきれたことに、城ということになったのである。

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2011/02/04

グリソストモの歌

第十四章
 一行が現地に近づくと、ちょうど前方の小高い山と山のはざまを、二十人ほどの羊飼いたちが降りてくるのが見えた。それは、まさにあのグリソストモの亡骸を運ぶ人たちであり、彼らが目指す麓こそ、故人が自分を埋めてくれと言い残した場所であった。
 その場で顔を合わせた者たちは、互いにねんごろな挨拶をかわし、皆一様に輿の中をのぞき込んでいた。その中には、グリソストモが生前に悲恋の歌を書き記したたくさんの紙が添えられていた。ドン・キホーテたちと共にやってきた旅人の一人ビバルドが、それらの数枚を手に取りながら、これらの貴重な遺稿を一緒に焼いてしまわないよう嘆願すると、故グリソストモの親友アンブロシオは、故人の遺言だと言って丁重に断りながらも、彼が手に取ったものについては、それを遺品として持ち帰ることを許し、その前にそれを一同の前で読み上げるよう指示した。そこで、ビバルドはそれを皆の前で朗読した。そこには、果たしてグリソストモの悲恋の思いが切々と歌われていた。
 神は、良い者の上にも悪い者の上にも雨を注ぎ、太陽を照り輝かせて下さる。その点で、神は平等な方である。しかし、また一方で、神はある人に、特別な美貌を与えられる。ちょうどあの故グリソストモが死ぬほど恋慕したマルセーラのように。そしてまた、他の人には、特別な才能を、また巧みさやその他の能力を与えられる。その点では、神は不公平な方と言えるかもしれない。そういう意味では、気候や環境等も決して平等とは言えないように見える。そこで全体的には、神は気ままで不確かなお方のように見えてくる。しかしそれは、人の立場から見た場合である。
 神は、この世界のすべてを目的を持って造られた。そして、その目的とは、神がすべてにおいてすべてとなられることである。しかし、この目的の意味は、人には理解できない。その達成方法も分からない。それは、聖霊によってしか理解できないものなのである。それゆえ、マルセーラは、自分の美貌の用い方が分からず、それを持て余して、山の中に隠らざるを得なかったし、グリソストモは、自分の才能を無きものにして、マルセーラの後を追った。そのように人には、自分に与えられた特別な賜物の用い方が分からないのである。それは、聖霊によってしか理解できない。それを用いるには、聖霊の助けが必要なのである。
 聖霊を受けた人は、もはや神に平等を要求しない。そして、物事の本質を理解する。それは、人一般の、社会一般の法則などではない。それは、神との一対一の関係であり、人と人との一対一の関係である。そこには、平等という視点はなく、常に特殊である。私たち一人一人は、神から特別に愛されている者である。それゆえに、特別な愛で愛し合うのである。

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2011/01/28

騎士と恋

第十三章
 翌朝、ドン・キホーテとサンチョは、昨夜彼らをもてなしてくれた羊飼いたちと共に、噂のグリソストモの葬儀と埋葬を一目見ようと出かけて行った。途中、とある十字路に差し掛かったとき、横手から6人ほどの羊飼いと立派な旅支度の2人の紳士が合流した。彼らの話題も、グリソストモのことで持ちきりのようであった。その話に割って入ったドン・キホーテの物々しい出で立ちを見て、紳士がその理由について質問すると、ドン・キホーテが答えて言った、「わが天職を実践するためには、これ以外の格好で歩きまわるわけにはいかないし、許されてもおりませんのじゃ」。これを聞いた紳士は、ドン・キホーテの異常ぶりを即座に察したが、あえてそこで話を止めずに、現地へ着くまでの暇つぶしにと、第二の質問を投げかけた。それは、遍歴の騎士たちがめいめいに思い姫を持っており、いついかなるときにも思いを寄せ続けると共に、仇敵との戦いにおいては、その加護を祈るという慣わしがあるようだが、それはいかなる理由によるのかということと、キリスト教徒たるものは、女ごときにうつつをぬかすよりも、むしろ神の護りと導きを祈り求めるのが順当ではないかというものであった。これに対して、ドン・キホーテは言った、「恋をしないなどということはありえない」と。
 ドン・キホーテも含めて、遍歴の騎士というものは、一見奇妙な存在である。彼は、この地上の誰にも増して己の思い姫を慕い憧れる。昼も夜も、思うのは、思い姫のことばかりである。しかし、そのように恋焦がれている姫を自分のものにしたいなどとは、決して思わないのである。この決して成就しない恋は、遍歴の騎士の宿命である。というのも、その恋を成し遂げることが、むしろ騎士道の成就の妨げとなるからである。この大いなる矛盾に遍歴の騎士は、耐え、立ち向かい、勝利し続けるのである。
 人類は、人生の目的を探し求めて来た。そして、これこそが人間にとって人生の目的であるというものに、まだ出会ってはいない。そもそも、それは、出会えるものなのだろうか。グリソストモは、彼の人生の目的を、マルセーラという美しい娘に設定した。しかし彼は、いまその実を刈り取り、正に葬られようとしているのである。それに対してドン・キホーテは、騎士道という修行、いわば個人にとっての一つのムーブメントを人生の目的に設定したのである。彼の人生の目的は、お金でも幸福でも、また思い姫と結ばれることでもなく、自由となっていく彼自身なのである。

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2011/01/10

グリソストモの死

第十二章
 そのとき、村里へ食糧の調達に行っていた山羊飼いの若者が戻ってきて、こう言った、「なあみんな、村で大騒ぎになっていることを知っているかい?」それは、マルセーラという美女の羊飼いに恋い焦がれて自ら命を絶ったグリソストモという青年のことであり、その葬儀が明日、この近くで行われるということであった。そこで、ドン・キホーテが、その死んだ青年は、どんな男だったのかと訪ねると、それに応えて彼は、順を追ってしかも興味深々にそれを物語ったが、それはこの悲劇の主人公であるグリソストモだけでなく、その恋の相手マルセーラについても多少詳細に触れずには済まなかった。
 この二人は、共に裕福な家の生まれで、両親の財産を受け継ぎ、何一つ不自由がないばかりか、グリソストモは学才に恵まれ、マルセーラの方は類まれな美貌とそれに吊り合う貞節を身に付けていたという。そのような二人が、なぜにこのような悲劇を演じることになったのか。もっとも実際に悲劇を演じたのはグリソストモ一人であり、マルセーラは、ただ彼と彼を哀れに思う彼の親友の心の中においてのみ、悪女としてその配役を得ていたのであった。
 神は、人をご自身の似姿に創造され、女を男の助けとして備えられた。それゆえ、男は女を必要とする。生きていく助けとして。しかし、実際は、彼は恋の対象として女を求める。ここに悲劇が始まる。それは、ある意味で、神の造られたものを自分の心を楽しませる目的に供することであり、いわば偶像崇拝とも言える。しかし、この世界はすでにそのような原理によって動いており、それが常識になっている。したがって、今では、この常識に逆らって、執拗に貞節を守ろうとするマルセーラのような女は、むしろ悪女のように見なされるのである。つまり、彼女のような女が存在する限り、それは、彼女と出会う男にも、貞節を強要することになり、それを守れない男を誘惑するものとならざるを得ないのである。
 ドン・キホーテのような遍歴の騎士の存在は、このマルセーラの存在に相対するものである。しかし、彼女が決して善を意図せずに奔放に振る舞っているのに対して、ドン・キホーテは、失われた貞節と純血を守り、それをこの世界に復興させることを目指しているのである。

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山羊飼いたちと

第十一章
 森の中でドン・キホーテとサンチョは、そこに野宿していた山羊飼いたちに暖かく迎えられた。二人は、惜しげもなく振る舞われた山羊の肉料理をお腹いっぱい食べた。そして、デザートにはドングリが出て来たが、ドン・キホーテはその一つかみを手のひらでもてあそびながら、古き良き時代のことやその後の乱れた時代のこと、そしてそのような時代のニーズから遍歴の騎士が生まれ、自分はその階級に属し、生娘を守り、寡婦を庇護し、世を正すために立ち働いていること等を語って聞かせた。山羊飼いたちは、そのようなドン・キホーテの話しの意味など、理解するすべもなく、ただ呆気にとられて、ぽかんと聞いていた。しかし、その話が終わると、彼らの中にいる歌い手に一曲振る舞わせたいと申し出、その若者を呼び寄せ、彼の歌が始まった。
 このひとときは、まさにドン・キホーテが語った、古き良き時代の黄金の時間だったのである。山羊飼いたちは、遍歴の二人、どこの誰とも知らぬ者たちに自分たちの命の収穫を惜しげもなく振る舞い、彼らの間には階級の差もなく、すべてが共有であり、それゆえに現代人のように出世やビジネスの成功をもくろんであくせくしたり、人の顔色を伺うこともないのである。そしてそれは、彼らが迎え入れた遍歴の二人連れもまた同じなのであり、その共通の価値観こそが互いに見知らぬ同士である彼らを一つにしていたのである。彼らの間には、戦略的な情報交換などはなく、すべてが彼らが二人に振る舞った皮袋のぶどう酒のように、その場限りのものである。しかし、そこには彼らの間で必要なものは、すべて過不足なく備えられているばかりか、それらに加えて創造主なる神が与える守りと祝福も豊かに添えられているのである。
 そのような黄金の時間が歴史を生きる人々の心から消え去ったのは、いつのことだっただろう。その代わりに、彼らの心を占めたのは、はかない利害への気遣いや、他人を見下すためのしがない策略の類だったのであり、彼らはそれらと引き替えに、いったい自分が何を失ったのかすら分からなかったのである。
 その宴のさなかにドン・キホーテの耳がまた我慢できないほどに痛みだした。彼がサンチョに手当を頼むと、それを見ていた山羊飼いの一人がすぐに直る薬があると言い、あたりに生えていたローズマリーの葉を噛みつぶし、塩を混ぜて傷に当て、包帯を巻いたが、果たしてドン・キホーテの耳は、速やかに快方に向かったのであった。

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2011/01/07

フィエラブラスの霊薬

第十章
 先の壮絶な戦いで、例のビスカヤ人はドン・キホーテの太刀の一撃により瀕死の痛手を負ったが、ドン・キホーテも大切な兜と甲冑の左肩をひどく壊され、ついでに刀の刃で耳の半分を持って行かれた。その血がドクドクと流れているのを見てサンチョは、傷の手当てを勧めた。するとドン・キホーテは、もし自分がフィエラブラスの霊薬を調合して持ってきていさえすれば、難なく完治してしまうのだがと言った。それを聞いたサンチョは、そんなすごい薬を作ることができるのなら、主人が遍歴の騎士の従者への報酬にと自分に約束してくれている島の領主になるよりも、その薬の作り方を教えてもらいさえすれば、自分は一躍大金持ちになることができ、その方がずっと望ましいと言った。するとドン・キホーテが言った、「黙らっしゃい、サンチョ。わしはお前に、それよりもはるかに重要な秘伝を授け、もっと大きな恩恵を施してやりたいと思っているのだから」。ドン・キホーテがサンチョに与えたいと思っていた幸福がどんなものか、それがどのように栄光に富んだものであり、高さ・広さ・深さにおいて優ったものであるか、サンチョには、想像することができなかったのである。
 この時のサンチョとドン・キホーテの関係は、ちょうど人と神さまの関係のようだ。神さまは、私たちに大きな祝福を与えたいと願っていらっしゃる。しかし人間は、そんなものよりも何か手近なもので手っ取り早く幸福になりたいと思うのである。それは、信仰についても言える。聖書の意味は、とても深く、そこには本当に驚くべきことが書かれている。それは、人の人生をまったく造り変え、彼の価値観を根底から覆し、それまで彼が大切にしていたものを糞土のように思うほどにすばらしい精神的な宝なのであり、そしてまたそれは、単に精神的なものだけではなく、実際にこの世界を生き、勝利を勝ち取るための知恵でもあるのだ。しかし人は、そのような価値ある聖書を自分勝手に解釈し、何かこじつけてつじつま合わせをすることができれば、それでひとかどの信仰理解であるかのように思うのである。
 いずれにしても、ドン・キホーテとサンチョは、傾きかけてきた日を眺めながら、道端で粗末な食事を早々に切り上げ、その泊まるべき宿を求めて、次なる村へ急いだのであった。しかし、そこへ辿り着く前にとっぷりと日が暮れてしまい、彼ら二人はその日、森の中で夜を明かすことになったのである。サンチョは、このことがすこぶる不満であったが、ドン・キホーテの方は、野天で眠ることに大いに満足していた。それというのも、野宿は自分を鍛えるためにうってつけの試練であり、こうした試練を乗りこえるたびに、自分が騎士道の修業をそれだけ積んだことになると考えていたからである。

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2011/01/05

武勲の史家

第九章
 巨人ならぬ風車との戦いで散々な目にあったドン・キホーテとサンチョは、気を取り直して、今度はプエルト・ラピセに向かう道を辿って行った。そこは往来が多く、新たな冒険に出会えると思ったからである。すると、はたして向こうから二人のサン・ベニート会の修道士とその後ろには、ラバを引いている二人の徒歩の者と騎乗の者四、五人に伴われた馬車がやって来た。彼らがみな黒装束に身を固めていたため、ドン・キホーテはその一行が、誘拐してきたどこかの姫君を馬車で連れ去らんとする妖術師たちに違いないと思った。そこで、ここは姫君を救わんと、道の中央に出て馬にまたがったまま大音声で叫んだ、「やあやあ、悪魔に憑かれた異形の化け物ども、汝らがその馬車に閉じこめて、無理無体に連れ去らんとしておるやんごとなき姫君を、今すぐ自由にしてさしあげろ。さもなくば、汝が悪事の当然の報いとして、すぐにも死を覚悟いたすがよい」。かくして、遍歴の騎士ドン・キホーテと馬車の従者の一人である気性の荒いビスカヤ人の壮絶なる一騎打ちが繰り広げられようとしていた。
 しかし、ここに来て困ったことに、この物語の原作者が、資料が見あたらないという理由で物語を中断してしまったと編集者のセルバンテスは記している。これには、さすがの彼もなすすべがなかったが、それでも彼は、あきらめなかった。というのも、ドン・キホーテほどの名高い騎士の行状や武勲の数々を、その冒険に随伴し、詳細に記録するような歴史家一人もいないなどということは、ほとんど考えられないことだからであり、果たして彼は、とある市場で、ふとしたことから、原作の続きが一人の貧しい少年の手にあった粗末なノートに記されていたのを見つけ、彼からそれを二束三文で買い取り、編集に取り入れることができたのであった。
 いま私たちが手にしている聖書もそのようにしてできたのだろう。それには、元々定まった著者や編集者などなく、言い伝えられてきたことが一つにまとめられたものである。つまり、できごとを記録する人が重要なのではなく、それらのできごとを成した当の人が重要なのである。しかし信仰者は、その編集の過程に聖霊の導きがあったことを認める。そして、すべてが神のご計画のために効果的にはたらき、そのようにして、すべてが神の栄光となるのである。
 ところで、見つかった原作の続きによると、ドン・キホーテとかのビスカガ人の一騎打ちは、壮絶な切り合いの末、みごとドン・キホーテが勝利を治め、姫君を魔物から救い出したということである。

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