2010/12/30

権能の授与

第10章
 12弟子は、主イエスから、汚れた霊に対する権能を授けられた。彼らは、それを買ったのでも学んだのでもなく、授かったのであった。しかし、彼らのような凡人がそのような賜物を受けるということがいったい何を意味するのか、たぶん彼らは十分に理解していなかったであろう。主イエスは、言われた、「わたしがあなた方を遣わすのは、狼の中に羊を送るようなものである」と。彼らは、このことにより、悪魔の敵となったのであり、悪魔から特別にマークされる者となったのである。「あなたがたは、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」。権能を与えられた彼らが何故にそのような苦しみに遭わなければならないのか。その答えは、主イエスの十字架であり、彼らはその師以上の者ではないのである。つまり、失われた者たちの救いのために、彼らが苦しみに遭い、ときには命までも失い、そのようにして、彼らがキリストの苦しみの一端を担うということを天の神が必要とされるのである。それは、救いが有無を言わさぬ強制ではなく、本人の同意を伴うものであることにもよるのである。
 しかし、それにも増して、彼らが常に思い起こすべきことがある。それはすなわち、彼らが悪魔に打ち勝つ権能を授けられているということである。だから、彼らが命じるとき、悪の力は後退せざるを得ない。彼らは、世に勝つものである。そして、彼らは、自分が何をすべきかを知っている。聖霊が彼らにそれを教えるのである。彼らは、新しい者たちである。彼らのような者は、これまで存在しなかった。不完全でありながら、悪魔に打ち勝つ力を持つ者。自分がどういう者かについて、完全な知識を与えられているわけではないが、それでも天の神が、必要に応じてそれを彼らに示し、彼らを通じて大いなる働きをなさることのできる者たち。主イエスは、そのような者たちを創造されたのであった。
 ああしかし、そのことが可能となるためには、彼らが完全に神に従う必要がある。神に完全に従うとは、自分で判断することをいっさいやめ、聖霊の導きに従うことである。それは、新しい形態の信仰である。かつては、神を信じて勇敢に行動することが信仰であった。しかし今は、神の導き以外に歩まないことが信仰である。そして、ひとたび導きを受けたなら、勇士のようにその示されたことを行うのである。そのためには、自分を捨てる必要がある。まるで生ける屍のように。虫けらででもあるかのように。主イエスの十字架がそれを可能とするのであり、彼の死に様が、私たちの模範なのである。そして、そのことによる無限の可能性を主イエスの復活が与えるのである。

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2010/12/06

歓迎されざる権威

第9章
 この世界には、様々な権威がある。しかし通常、それらの権威は、人に従属するものではなく、むしろ逆に、人がその権威に従属しているのである。つまり、権威は、外部からある特定の人に、その人がその地位にある間だけ、一時的に与えられるものである。つまり、それらの権威は、世の仕組みに帰属しているものであり、いわば使い回しされているもの、人が意のままに自由に流用できるものなのである。世の人は、そのような権威を歓迎する。というのは、もしある人がその権威を手に入れることができれば、それは、ある程度彼の自由になるのであり、そのような権威を得ようと、人は日夜精進しているのである。
 しかし、ここにまったく異なる権威が現れた。そして、この権威は、人に従属する権威である。いや、むしろ逆に、すべての権威が彼に従属しているような人が現れたのである。この世の人々は、このような権威を決して喜ばない。なぜなら、この権威は、決して彼の自由にはならないからである。返って彼がその権威に従わなければならないのである。そして、彼がその権威に打ち勝とうとしていくら努力しても無駄である。この権威よりも高い権威は存在しないのだから。返って、この世界のすべての権威は、この権威の前にひざまずくしかないのである。
 その権威を持つ方は、この世界の苦しんでいる人に、「あなたの罪は赦された」と語る。これは、この世界の身分の階層構造を破壊する。金持ちも貧しい人も、罪の赦しにおいて、異なる所がなくなるのである。律法学者も祭司も同様である。世の人々がこれまで苦労して築いてきた自分の地位が、何の価値もないものになってしまうのである。そこで、この世の人は、この権威を持つ方に逆らって立つ。この方の権威を認めようとはしないのである。そして、この世の権威により抵抗して言う、「神以外に罪を赦すことのできるものがあろうか」と。そして、その権威の根拠を要求する。彼らにとっては、罪を赦すことは、メシアの権威であり、それならばその人は、奇蹟を行えなければならない。そこで、彼らにとっては、罪を赦すことよりも奇蹟を行う方が難しいのである。しかし、神から全権を委ねられたお方にとっては、罪を赦すことよりも奇蹟を行うことの方が容易いことなのである。しかし、その方が実際に奇蹟を行われるやいなや、彼らもその方と同じ観点に立ち戻ることになる。すなわち、奇蹟を行ったからと言って、人の罪を赦すことのできる存在、すなわち神の子とは言えないということである。
 このお方は、すべての常識を覆す。この方は、取税人を招いて自分に従わせ、彼の家に入って客となる。そして、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語った。それゆえ、古い考えの人は、この方に従い得ない。この方に従う者がいるとすれば、すなわち、この方の教えである新しいブドウ酒を飲むことのできる者は、心を全く新しくされた、新しい革袋のような者でなければならないのである。

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2010/12/01

神の国の現実

第8章
 神の国では、この世界とは違い、奇跡は普通に起こる。しかし、無秩序に起こるのではなく、そこには厳密な規則がある。私たちの目には、ときとしてそれは奇異に映る。聖霊の働きは、私たちの常識からすると非常に奇異なもの、気ままなものに感じる。癒しは、あるときは起こり、またあるときは起こらない。ある人は癒されるが、ある人は癒されない。そこで、今日、癒しのミニストリーを行う者は、往々にして、どこか頼りない思いをせざるを得ない。しかし、重ねて言うが、そこには明確な規則があるのである。
 それは、一言で言えば、つまりトップダウンということである。今日においては、奇跡を行うのは私たちである。神は、私たちを通して奇跡の働きを行われる。しかし、そこにあるのは、歴然としたトップダウンであり、私たちは、神の軍隊の長としての主イエスの権威によってそれを行うのである。このことを理解している者には、決して迷いというものがない。彼は、主の御心が「愛」であることを知っている。そしてそれで十分なのである。と言うのは、この「愛」には、すべてが含まれるからである。恵み、哀れみ、権威、力、栄光、誉れ、その他、神に属するすべての良き性質が含まれるのである。神は愛である。それゆえ、奇跡を行う者は、自分の考えでそれを行うのではない。彼の内にある主の愛によって行うのである。彼は、その愛を主イエスから直接受けた。それによって彼は主イエスご自身を知った。神は愛である。この愛を知っている者は、主イエスを知っている。この愛の中に主イエスの権威があり、命令があるのである。そしてその主イエスの御心とは、病にある人、苦しみの中にある人が癒されることなのであり、主イエスの命令とは、「癒されよ」ということなのである。
 「愛」と人々は言うが、もしそれが主イエスから出たものでないなら、それは、今私たちが語っている「愛」ではない。この「主イエスから出た愛」を持たないものは、この働きを行うことはできない。というのは、「この世の愛」には、権威が伴わないからである。しかし、神の国は、主イエスの権威で動いている。この「主イエスの権威」なくしては、私たちは何もできない。この世は私たちに対して強い、しかし主イエスの権威の前には、何ものでもない。このお方は、全宇宙の造り主であり、悪魔に勝利されたからである。

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2010/11/27

同等性と区別

第7章
 「良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と主イエスは言われる。すなわち、悪いものは、決して良くはなり得ず、その反対もまたあり得ない。これが区別である。しかし、「区別」自体は、何のためにあるのかと言えば、それは、「同等であること」との比較であり、したがって同等となるためであり、そのことを目指しているのである。そして、ここに何か「ひとつのすばらしいこと」があるとするならば、それは、まさに「神から出たこと」なのであり、それゆえに、それは、つまり「神と人との同等性」、すなわち「罪人が神の実の子とされること」は、文字どおりに現実となるのである。いつそれが実現するのだろうか。あなたがそのことを「求め」、人生において主を「探し」、天国の扉を「たたく」ときにそれが実現するのである。
 ところで主イエスは、二つの同等性について教える。すなわち「神と人との同等性」、そして「人と人との同等性」である。神は、人を愛の対象として創造された。「愛」とは「同等性」である。同等でないものには愛する価値はない。しかし、人は自ら罪を犯して、「神との同等性」つまり「神との愛の関係」を失ってしまった。しかし、神は人への永遠の愛のゆえに、もう一度、その同等性を回復して下さったのである。そして、私たちの同等性は、まさにこの「神との同等性」にかかっているのである。もし、「神との同等性」がないならば、「人との同等性」もまたないであろう。それが主イエスの位置づけなのである。そして再び、この「同等性」は、「区別」との対比であり、「区別」への危険をはらんでいるのであり、私たちは、主イエスへの信仰に留まることにより、「同等性」の中に留まる必要があるのである。

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主の祈り

第6章
 主イエスは、二つの祈りを教えられた。一つは、御子の名による祈り、もう一つは、父なる神の名をあがめる祈りである。神の御子が世に来られ、その苦難と死により、御子を信じる者の罪が購われ、彼は神から実の子として愛される存在となった。それゆえ彼は、御子の名を用いて、神に直接願い事をすることを許されている。この祈りは、私たちが遭遇する、日常の様々なできごとにおける必要を神に伝えるための実践的な祈りである。それは、私たちの心から出たものであり、人間としての限界を持つ、不完全な祈りではあるが、神は御子のゆえにそれを受け入れてくださり、その願いをかなえるべきかどうかを真剣に考えて下さるのである。そればかりか神は、その祈りにより、そのとき私たちが置かれている状況とそこにおける私たちの感情や所感、要望や願い、そして私たちの成長段階や許容量等をも総合的に考慮して、最善の対応をして下さるのである。
 そして、主イエスが教えられたもう一つの祈りは、「主の祈り」である。これは、変わることのない定形的な祈りである。つまり、神の御心が不動であるように、この祈りもまた不動なのである。それゆえ、それを祈る私たちの心も不動なものとされ、どこまでも神に従うものとなるのである。もちろんこの祈りは、定形的であるからと言って、良く行われているように、その全体を一分程度でさらりと祈る必要はない。返って一行を何十分にも渡って祈り続けることが可能なのである。それは、この祈りの一行々々が、神への賛美と従順、献身の思いを表現したもの、つまり礼拝だからである。
 これらのことを理解した者は、それにより、神の国の住民となる。主イエスは、「これらのことを学んだ者は、自分の倉から、良いものと悪いものを取り出す一家の主人のようだ」と言われた。彼は、御子を通して、神の国においてすべてを相続する。主の祈りは、その先取りでもあるのである。

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2010/11/24

教えの目的

第5章
 主イエスは、山の上で口を開き、弟子たちに教えられた。主イエスの教えとは、何だろうか。
 それは、まず「神の国の福音」である。神の国は、どんなところなのか。そこには、地上とは違う法則がある。だれでもその気になれば、世界一幸福になれる。そして、誰にもその幸福を奪い去ることはできない。幸福は、神の国の属性であり、そこに属する者に常に伴うのである。
 第二に、主イエスの教えは、「律法の解き明かし」である。律法とは、戒めであり、堕落した自由意志への禁止条項である。しかし、神の国においては、人間の意志は、購われ、完全に自由なものとなり、律法の要求を完全に遂行できるようになる。それにより律法は、禁止条項という役目を終えて、神の御心を行う喜ばしい意志へと完成するのである。
 そして最後に、主イエスの教えは、「独り子の啓示」である。父なる神は、御子によってこの世界に語ったのだが、その語った方は、御言葉そのものであった。つまり、神の言葉が肉体となって世に来て、世を生きることにより、ご自身を世に啓示し、ご自身を世に与えたのである。神の言葉を聞くものは、それを語るものが誰であるかを知り、それにより自分がどのような者かを知り、その語っておられる方を受け取り、自身がその方の栄光を写し、日々その方の姿に変えられて行くのである。
 それゆえ、主イエスの教えは、何かその外に目的を持っているものなのではない。私たちは、主イエスの教えを勉強し、それを実践することにより、何か偉大な事業を成し遂げようというのではない。主イエスの教えは、それにより、私たちが主イエスと親しい関係になり、神の御心を行う者となるためなのである。

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2010/11/17

誘惑に対する勝利

第4章
 神は、人間と天使たちを造り、彼らに自由意志を与えられた。しかし自由意志は、常に反逆の可能性を抱えている。それゆえ、無限の時間の前では、彼らの反逆は、必然的なものとなる。そのようにしてまずルシファーが神に背き、彼がアダムを唆すことになった。その結果、アダムはエデンの園を追放され、ルシファーは、神に仕えていたころの栄光を剥奪された。死が人間存在に入り込み、ルシファーには、すでに永遠の滅びが宣告された。しかし、人の命が有限になったことにより、反逆の可能性自体もまた限定されたものになった。人は、その有限な一生の間だけ神に従順であれば良いようになった。しかし、神に背いたルシファーを神が滅ぼさず、存続させたことにより、ルシファーは神にますます敵対し、三分の一の御使いを堕落させて自分に従わせ、徒党を組んで人類を惑わす勢力となった。つまりせっかく、罪を犯す機会であるところの人間の一生が有限になり、努力によれば、その生涯を通して神への従順を貫ける可能性が生じたにも関わらず、今度は、絶えず人の心を誘惑して止まない存在が発生することになったのである。しかし、これは元の木阿弥ではなく、実は神の計画だったのである。というのも、神は「死」ということを通して、新しい従順を創造されたからである。それは、死を単に一生の終わりと捉える消極的な態度ではなく、常に死をその身に負って生きるという積極的な態度である。それにより、清い生涯の終わりを先取りするのである。そして、そのことによる誘惑勢力との戦いの生涯は、信じる者を勝利という神の僕に相応しい栄光へ導くものとなる。戦いがなければ、勝利もまたない。そこで、私たちが神から約束の地、新しい地を受け継ぐためには、この戦いがどうしても必要なのである。なぜなら、「勝利を得る者は、・・・」と言われているからである。勝利は、敵に対して創造された概念ではない。それは、最初からあるもので、その実現のために、敵が存続させられているのである。
 主イエスは、荒野で悪魔の試みに勝利された。これにより、私たちの勝利は、聖別されたのである。それは、同じ勝利でも、まったく異なる勝利なのであり、それは未来にもたらされるのではなく、現にもうそれがもたらされ、日常生活の中で、すでに私たちの手の中にあるのである。

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2010/11/15

洗礼者ヨハネ

第3章
 洗礼者ヨハネは、たぶんすごい人だった。彼は、エリヤの再来であり、母親のお腹にいるときから聖霊に満たされていた。主イエスは、彼についてこう言われた、「女から生まれたものの中で、洗礼者ヨハネより大きい者は興らなかった」と。それゆえヨハネは、エリヤやエリシャより力を持った神の器だったのである。しかし、それにも関わらず、彼は奇跡を行わなかった。それはたぶん、神の方に方針の転換があったのだと思う。つまり、旧約から新約への転換。力から愛への転換。裁きから購いへの転換、等々である。しかし、この転換の主役は、あくまで救い主イエスなのであり、ヨハネは、そこへの道を備える者に過ぎなかったのである。彼は、らくだの毛衣を着て、旧約の預言者エリヤを彷彿とさせる風貌で民衆に向かって語った、「蝮の子らよ、迫ってきている神の怒りを逃れられると思っているのか」と。新約の愛と購いを受け取るためには、旧約の律法が必要である。つまり、一人一人の罪が示され、彼がそれを自覚し、悔い改めるということが必要なのである。すなわち、旧約は目的であり、新約はそこへ至る道であり手段なのである。それゆえ主イエスは、「私は、道であり、真理であり、命である」と言われたのである。そしてこのことは、また同時にノアの日のようである。すなわち、神は、もうエリヤのようにこの世界を裁くためには、預言者を遣わされないと決心されたのであった。そこでヨハネが語った、「悔い改めよ、神の国は近づいた」とのメッセージは、裁きではなく、恵みへ至る道、方法だったのであり、そのためには、派手な奇跡は必要なかったのである。
 彼は、自分がキリストのために道を備える者であることを自覚していたのだが、一方でキリストがどういう人で、その人にどう対応したら良いかについては知らされていなかった。そこで彼は民衆に、彼自身が考えるメシア像を語った、「私の後から来られる方は、私より力のある方であり、手に裁きのために魂を振り分ける箕を持っているのだ」と。ヨハネは、メシアを「世を裁く者」として提示した。しかし、実際に来られたメシアは、人の当然受けるべき神の怒りを一身に負われる購いの小羊だったのである。しかも、メシア自身が自分のところへ洗礼を受けに来たのだった。これらのことは、ヨハネを躓かせるに十分であった。彼は、あのイエスという男は、もしかしたら、来るべきメシアではないかもしれないと思い、イエスの元へ自分の弟子たちを遣わして尋ねさせた。すると主イエスは弟子たちに、「わたしに躓かない者は、幸いである」と言った。しかしヨハネは、たぶんこれらのことに適応できなかったのだろう。彼は、ヘロデ王に対して、一貫して裁きを宣言し続け、その結果捕らえられ、やがて獄中で死を迎えることになるのである。それはもちろん、ヨハネへの裁きではないだろう。ただ、ヨハネには、そのようにして死ぬことが定められていたのだと思う。

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2010/11/11

国際都市エルサレム

第2章
 エルサレムは、神のご計画の中では、そのころすでに国際都市であった。たとえ、ローマの属国となり、その支配に服していてもである。そもそもイスラエルは、古から世界が注目する国であり、アブラハムが地理的、時間的な基を据え、モーセにより、民族と神との関係を与えられ、ダビデにより人としての生き方を授かり、ソロモンにより国家の機能が与えられ、預言者により将来に渡る発展のビジョンが与えられていた。
 この国際都市には、かつてシバの女王を始め、多くの著名人が訪れた。そしていま、遠い東方の国から3人の著名な博士たちが遙々エルサレムを訪ねて来た。この都市に、世界を凌駕するような大事件が起こったからであった。その徴が天に現れ、博士たちはそれを観測したのであった。しかし、当時そこを治めていたヘロデ大王には、そのような認識はまったく無く、彼の関心は、せいぜいのところ自分の覇権の安定であったのである。彼はこともあろうに、この窮境におけるリスク調査をこの3人の異邦人に依頼した。しかし、元々彼らに天の情報を開示し、エルサレムまで導いたのは、神ご自身だったのである。
 ヘロデは、自分の治世を守るために、博士たちから聞いたわずかな情報に従い、考え得る限りの策を講じ、ベツレヘムとその周辺にいる2才以下の男の子を虐殺した。しかし、神の僕に国境はない。そのとき彼らは、すでに幼子を連れてエジプトへ亡命した後であった。彼らは、エジプトで何を考えたであろうか。聖書には、「エジプトから我が子を呼び出した」と書かれている。つまりそれは、新しい民族の始まりなのである。しかしそれは、新しい民族の誕生であると共に、また一方で古い民族の復興でもあるのであり、それゆえ彼は、救い主、不思議な助言者、栄光の王、ダビデの子と呼ばれるのである。

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系図の意味

第1章
 人はみな、それぞれの系図というものを持っている。たとえそれが目の前にはなくても、彼にも親や先祖たちがいるのだから。それら系図の中には、代々芸術家の家系や、学者を排出してきた血統、また王室の系図等もあるかもしれないが、多くは何の変哲もない系図の数々である。それらは、たくさんの死と出生により、織りなされて来たものであり、多くの場合、互いに関連を持たず、その歴史的な意味も明らかではない。
 しかしここに、一つの系図がある。それには、アブラハムやダビデ等、有名な人、誉れ高い人も載ってはいるが、一方、あの有名なモーセやアロン、エリヤやエリシャ等の名は、そこにはなく、返って異邦人や妾のような女さえ名を連ねている。これはまず、歴代誌の記述に従い、アブラハムから始めて、最初の14代として、名高い族長たちの名を、そして次の14代に王家の名を連ねている。しかし、バビロン捕囚後の14代に連なっている名には、私たちに馴染みのある名は、ほとんどない。かろうじて、エルサレム神殿の復興に貢献したゼルバベルが登場する程度である。彼は、指導者であったが、特別に身分の高い人ではなく、現代的に言えば、企業家がジェネラルプロジェクトのリーダ的な存在だったのだろう。そして、それは、さらに世代を重ねるにつれて庶民的な色合いを深め、最後には、貧しい農民の娘マリアと結婚したヨセフに至り、救い主の誕生までたどり着くのである。それゆえこの系図は、血筋の純粋性を伝えるのでも、由緒ある家系を伝えるのでもない。そこにあるのは、神がアブラハムに与えた約束の成就であり、その意味で、これは神によって作られ、予定されていた系図なのである。しかもこれは、最初の14代により、イスラエル民族との深い関係を持ち、次の14代によって、王制との関係を持っている。そして、最後の14代により、世界中の名も知れない一人の人との関係を持っているのである。つまり、この系図は、全世界に存在する無数の系図からなる人類の歴史という1枚の大きな織物の横糸なのである。
 この系図が完成したことを象徴するかのように、天使がそれも天使長ガブリエルが一人の貧しい乙女の元へ遣わされた。それは、この乙女とその夫に課せられた大いなる戦いに備えさせるためであった。ここにおいて、人類の歴史は、一気に精神的なものとなる。イスラエル民族のすべての歴史は、名もない一人の人の心の王国へと写像されることになった。一人の人間の人生に、天地創造から現代までのすべての歴史が含まれるようになったのであり、彼の魂にそれほどの重みが与えられたのである。それは、時至り、神ご自身が、古の約束に従い、天の御座から降り来たり、人をご自身の花嫁に迎えるために、その罪を購おうと決意されたからであった。

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