2010/10/05

ツアラトストラを終えて

 これで、ツアラトストラの上下二巻を読み終えたことになる。最初はどうなることかと思ったが、何とか最後まで読み終えることができたのは良かったと思う。しかし、何かこう不完全燃焼のような気分を捨てきれない。もしかしたら、今一つ自分は、ツアラトストラを、ニーチェを理解し尽くせなかったのではないかという危惧である。とは言っても、私はツアラトストラが割と好きである。彼の生き方には、共感できるものがある。それは、彼が徹底して、世界内存在者として生き通したことである。これは、実に誰も成しえなかったすばらしいことであり、ニーチェの天才的なところだと思う。そもそもこの世界の謎を究明しようという野望を持つ人々の内、いったい誰が、自ら世界内存在者として生きようとあえて決意するだろうか。それは、強いて言えば、世界を創造し支配している神が自ら世界内存在者となって、この地上に降られたことに匹敵する驚くべきことであり、ここにツアラトストラという作品の類まれなすばらしさがある。
 しかし、その結末はなんと奇異なものだろう。「この世界のすべては、永遠に同じことを繰り返す」という永劫回帰思想をいったい誰が好ましいものと思うだろうか。しかしそれが、すばらしい夢を求めて鷲のように旅立ったツアラトストラの結論なのである。それは、大いなる矛盾を含んでいる。と言うより、それは矛盾そのものである。それは、この世界が無目的であることを示しており、それは同時に、それを信じる者の実質的な死を示している。そう言えば、ツアラトストラの初期の推敲においては、ツアラトストラは、ついに永劫回帰思想を人々に告知して、自ら死にゆくことになっていたという。その死は、いったい何のためなのか。彼は、キリスト教的なすべてのものへの反目から始めた。それが、もしかしたら人が考え出したものであり、ただ人を騙して盲従させるために仕組まれた、甘い夢に過ぎないと疑われたのであり、そのように疑う人が世に一人もいないことを彼は驚き怪しんだのであった。そして、彼は、それを証明するためには、何か理論的な哲学思想を考えだし、それを実世界の中で実験的に検証するという確率論的なアプローチをとらなかった。返って彼は、この世界の内的存在者として、自らこの世界を裸一貫で生きることにより、実証的に真実を素手でつかもうと決意したのであった。
 私の願いを言えば、ニーチェが最後まで真実を求めて、雄々しく戦い、それを勝ち取って欲しかった。しかし、神無しに全宇宙を相手に戦った彼を待ち受けていたのは、結果的には、狂気であった。それは、何を示すのか。軽々しい言及は控えたいが、彼は、キリスト教に対して、一つの重大な問題提起をしたと私は信じている。それは、信仰者が自分の信仰をどのように規定しているかということである。信仰者は、ニーチェのような姿勢で神を信じるべきだと私は思う。そう、彼のようにすべてを疑った上で、「それでも私は神に従う」と言うべきなのだ。聖書の中に、そのように自分の信仰を規定している者たちがいる。それは、「シャデラク、メシャク、アベデネゴ」である。彼らは、火の燃える炉の中に投げ込まれようとしたとき、「たとえ全能の神が助けて下さらなくても、私たちは神を信じる」と告白したのであった。

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しるし

 朝になるとツアラトストラは、彼の寝床から跳び起き、腰に帯を締めて旅支度を整え、勇ましく彼の洞窟から立ち現れた。彼が再び旅立ちを決意したのは、昨日彼を襲った驚嘆すべき出来事の勢だったのだろう。彼はそのとき、今や世界は完成したことを感じていた。そして、その徴候が間もなく彼の元に臨むことを確信したのであった。ただ一つ不本意であったことは、彼によって、初めて自分を超克するということを知ったあの高等な人間たちが、まだ依然として超人にはほど遠い状態であることであった。事実、彼らは、ツアラトストラの旅支度も知らずに、まだ夢の中に陶酔しているのであった。そこで、とりあえずツアラトストラは、「この連中はわたしの本当の道連れではないのだ」と考えておくことにした。「彼らは、わたしの酔歌には聞き惚れるが、しかしわたしに傾聴する耳、聴従する耳が、彼らの五体には欠けているのだ」と。
 しかしそのとき、不思議なことが起こった。突然彼の周りに無数の鳩がやってきて、飛び回り始めたのであった。また、一匹の獅子がやってきて彼の足もとに身を横たえ、頭を膝にすり寄せてきた。それは、本当に起こったことなのか、それともツアラトストラの心がそれを感じただけなのか、それは誰にも分からない。しかし、「しるしが来た!」とツアラトストラは語り、彼の心は変化した。ツアラトストラは、ぼんやりと放心状態でいたが、やがて彼に記憶がもどってきて、昨日と今日のあいだに彼に起こった一切のことを、一瞬にして理解した。それは、あの老予言者が彼に対して予言したことであった。彼は言った、「おお、ツアラトストラよ、わたしは、あなたをあなたの最後の罪へ誘惑しようとして来たのだ」と。「わたしの最後の罪として、わたしがこれまで保留しつづけてきたのは、いったい何なのか」、ツアラトストラは、しばらく自分に沈潜し、彼の前にある大きな石の上に腰をおろしていたが、突然跳び上がって言った、「同情だ!高等な人間に対する同情だ!」と。
 ところで「同情」とは何だろう。それは、「行為無き哀れみ」、「無責任な共感」である。彼は、世界内在者であるゆえに、自分の行為を完全に保証すること、それに責任を持つことができないのである。実にこれが内在者の限界であり、宿命でもあるのである。それゆえツアラトストラは、それさえも超克しなければならなかった。そして、彼がそれを超克したとき、彼は実に彼自身を失ったのである。
 ツアラトストラは、「人間は、超克されるべき何ものかである」と語り、自分を超え出ようとした。そしてそのためには、彼の最後の砦、「同情」さえも捨て去る必要があったのである。しかしこの「同情」こそは、彼が世の喧噪から逃れて身を寄せていた彼の洞窟から、再び彼を連れ出したところの一つの衝動であった。彼は太陽に向かって、「おまえ、大いなる天体よ、幸福をたたえた深い目よ、もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、一切のおまえの幸福はどうなることであろう」と語り、そこを出て、あえて下界へ赴いたのであった。しかし今、彼は最後の誘惑に打ち勝ち、それ「同情」さえも超克した。しかしそれでは、彼は、自分が到達した真理を人々へ伝えるという衝動さえも失ってしまったのではないのか。しかしその前に、彼が到達した真理とは何だったのか。それは実に「永劫回帰」すなわち、この世界は無目的であり、同じことを永遠に繰り返すという仮説だったのである。
 「神は死んだ」とツアラトストラは語り、一切のキリスト教的なものを捨て去った。その目的は、彼が一切の誤謬から自由になり、真に生きる者となるためであった。しかし、彼がそれを実行した結果はどうであったのか。それは実に、「彼自身の否定」、「彼自身の死」でさえあったのである。もっとも、彼の目的は、幸福を求めることではなくなっていた。彼の存在目的は、彼自身の事業を成し遂げることであった。しかし彼は、世界内在者としてそれを追求していたのであり、したがって彼自身の事業とは何であるかについて、未だ知らなかったのである。そして、幾多の遍歴を重ねるうちに、次第に確信を深めてきたのだろう。それが、ある恐ろしい概念「永劫回帰」に行き着くということを。
 「よし!かくあるも、今や果てた。わたしの苦悩とわたしぬ同情、それになんのことがあろう。いったい、わたしの志しているのは、幸福を得ることだこうか。わたしの志しているのは、わたしの事業を成就することだ!」、ツアラトストラは、かく語った。

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2010/09/23

酔歌

 彼らはそれぞれ、洞窟の外へと歩み出た。ツアラトストラ自身は、最も醜い人間に彼の夜の世界と大きな真ん丸い月と洞窟のそばの銀色の滝とを見せようと、彼の手を引いた。そのようにして、高等な人間たちは、みな相寄りながら静かに立っていた。
 そのとき、最も醜い人間がまたのどと鼻を鳴らし始めながら言った、「皆さんがた、わたしの友人たちよ。あなたたちはどう思うか。この一日のゆえに、わたしは初めて、全生涯を生きてきたことに満足しているのだ。この地上で生きることは、そのかいのあることだ。『これが、生であったのか』と、わたしは死に向かって語ろう」と。そのとき、彼の語ったことを聞いた、それらの高等な人間たちは、突如として自分たちの内の変化と回復を自覚した。彼らは、ツアラトストラの方へ跳んで行って、それぞれの仕方で大げさに喜びと感謝を表現した。
 見よ、彼らの心は、今や決定的な変化を遂げた。しかし、そのときツアラトストラの中では、もっと大きな変化が起こっていた。彼は、さながら酔った者のような様子でその場に立っていた。すなわち、彼の眼光は消え、彼の舌はもつれ、彼の足はよろめいた。彼は、自分自身の変化に驚いていた。それは、彼自身の変化ではあったが、彼自身から由来したものではなかった。彼は、初めて実際に知ったのであった、人間が自己を超克することができるということを。今まで生きてきた世界を超越し、その外へ出ることができるということを。それは、ほんの小さな実例ではあったのだが、彼は自分自身の目でそれを見たのであり、そして何よりも、彼自身が、そのような劇的な変化の原因となり、創始者、また師となったのである。それは、何を意味するのか。それは、すなわち、彼が信じていたあの恐ろしい思想「永劫回帰」の実在性を彼が証明し、彼自身がそれを生き始めた、つまり、彼自身が永劫回帰思想の本質となったということである。それゆえ世界は、今初めて完成したのであり、今やそれを裏付ける、何か更なる劇的な変化が彼を待っているのである。ツアラトストラ自身は、それを恐れていた。かつて自分は、すべてのキリスト教的なものに背を向けて、それらを離れ去り、それらの外で生きることを決意し、その実践に努めてきた。しかし、そのようなことが果たして可能なのかどうか、そして、そのことの結果は、どうなるのか、等々は全くの未知数であった。すべては、架空の世界であり、彼は自分の身を投じて、その実験に没頭したのである。その理由は、彼はただ、そのときの彼の状態の延長では、彼の人生は、そしてこの世界のすべては空しいことを確信したのであり、それからの逃避が彼をそのような行為にいざなったのであった。
 彼は、超越者としてすべてを知っていたのではなく、返って内在者として、自分の限界を素直に認識し、その可能な範囲で、確実なところから出発し、空想に走らず、世の人と共に地道に苦しみ、悩み、それらを克服し、自分の信じるところを展開したのであった。それは、今まで誰もあえて成さなかったことであった。誰も、そのような一見無力、無駄、無意味に見える、純人間的な努力によっては、真理へ到達できないと思った。しかし、ツアラトストラは、自分の信じるところをひたすら歩み、一つの結論に到達した。それは、人間は、神によらず、内在者として、生き、死ぬことができるということであった。神に造られた人間が、神によらず、被造物として、神から離れながらも、誇り高く、尊厳的に生き、死ぬことができるということであった。そして、その原型がツアラトストラであり、彼の信じた人間の姿、「超人」であった。「人間は、超克されるべき何ものかである」とツアラトストラは語る。そして、彼はまさにその「超人」に到達したのであった。
 押し寄せる内的衝動に圧倒され、意識を失いかけていたツアラトストラは、高等な人間たちの腕に抱きかかえられているあいだに、次第に少しばかり我に帰り、敬慕と憂慮をいだいている者たちの群れを両手で制止し、しばらくの沈黙の後に、指を口に当てて言った、「来たれ!」と。彼が呼びかけたものは何だったのか。それは、実に彼自身であり、そしてまた同時に、彼自身ではなかった。彼は、ついに彼の追い求めていた「超人」に自ら成った。しかし彼は、実に内在者として、内在者に徹して、それを追求していたのであり、その意味で、彼はその成った当のものとは、依然として別の存在なのである。なぜなら、彼は内在者であるから。「人間は、超克されるべき何ものかである」。しかし、もし彼が自分自身を本当に完全に超克してしまったなら、彼は彼自身ではなくなる。彼は、内在者ではなくなるのである。それゆえ、彼は永遠に彼でなければならない。すなわち、彼によれば、世界は永遠に繰り返さなければならない。「永劫回帰」であり、完全に「無目的」でなければならないのである。
 「世界は深い、昼が考えたより深い。苦痛は同時にまた快楽なのだ、呪いは同時にまた祝福なのだ、夜は同時にまた太陽なのだ、立ち去れ、しからずんば、そなたたちは学ぶべきだ、賢者が同時にまた阿呆であることを」、ツアラトストラは、かく語った。

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2010/09/21

ロバ祭り

 しかしそれにしても、彼らの考え出したそのような狂騒は、ツアラトストラの精神の許容力を越えていた。それで彼は、ついにもうそれ以上自分を抑制しておれなくなり、みずからロバよりも声高くイーアーと叫んで、彼の発狂した客人たちの真っ直中に跳び込んで、その真意を問い正した。
 すると、年老いた教皇が言った、「おお、ツアラトストラよ、どうか許してくれ。しかし実際は、『神は霊である』と語った者こそが、これまで地上において、不信仰への最大の歩みと跳躍を行ったのだった。それゆえむしろ、神をこういう形で拝む方が、全く形なしで拝むよりは、ましなのだ」と。それは、文字どおり偶像崇拝である。しかし私たちは、この教皇を手放しに非難できるだろうか。神が霊である限り、人間は、神を精神的に礼拝する、つまり心を込めて礼拝することは困難なのである。というのも、霊的な事柄は、人の精神を遙かに越えているからである。しかし、神は人となったのである。そして私たちは、この形ある人間イエスを礼拝することができるのである。しかし、その目的は、何か難しい神学を展開することではなく、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、彼に仕えるためなのである。
 しかし、いずれにしても、年老いた教皇自身は、そのようなことを理解していなかった。そしてまた、そこにいた奇妙な連中の中の誰一人として、自分の行ったことの意味を理解してはいなかったのであった。ツアラトストラは、彼らのそのような悪ふざけの返答に驚きあきれて、彼の洞窟の戸口のところまで跳びすさっていたが、次の瞬間に一同の方に向き直り、声を高めて叫んだ。しかしそれは、以外にも彼ら奇妙な者たちへの受容と愛の言葉であった。そして彼は言った、「そなたら、奇妙な者たちよ、そなたら、高等な人間たちよ、今やそなたたちは何とよくわたしの気に入ることか。しかし今は、何とぞそのような子供部屋を見捨てよ、今日あらゆる児戯の行われたわたし自身の洞窟を。およそ天国にはいることなんか、われわれは全く欲しない。われわれは大人になったのだ、されば、われわれは地上の国を欲する」と。なぜそのように言ったのか、おそらく彼自身も理解していなかったであろう。しかしツアラトストラは、彼の心に響いてくる言葉を彼らに向けて語りかけた。そしてそれは、彼らをある種の覚醒へと導くものだったのである。
 「この夜とこのロバ祭りを忘れるな、そなたら、高等な人間たちよ。それはそなたたちがわたしのもとで考案したものだ。それをわたしは良い前兆と見なす。この種のものを考案するのは、ただ回復しつつある者たちだけだ」、ツアラトストラは、かく語った。

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覚醒

 「さすらい人にして影である者」の歌が終わると、洞窟はにわかに騒ぎと笑いで充満した。彼の官能的な歌が、それを聞いていた一同に、ある喜ばしい共感を与えたのである。それは、彼らが今まで一度も体験したことのないものであった。というのも、彼らはそのようなものを悪しきもの、排斥すべきものという教育を受けて育ち、理由も分からぬままに、ただただ自らそのように生きてきたからである。しかし彼らは、そのようなものを、事もあろうに、神聖なツアラトストラの洞窟の中で聞いたのである。そしてその体験は、彼らの道徳観を一変させてしまったのであった。事実、彼らは、それが何とツアラトストラの洞窟の中で歌われ得るものであることを理解したのであった。それはもちろん、彼らが長い間失っていた生への積極性の最も低い段階ではあるにしても、現状の彼らは、そこから始めざるを得ないのであり、とにかくも彼らは、ついにそこまでたどり着いたのであった。
 「彼らはつついている。わたしの餌が効き目を現しているのだ。彼らは、回復しつつある者たちなのだ」とツアラトストラは語り、喜んだ。しかし、次の瞬間、突如としてツアラトストラの耳は驚愕を覚えた。というのは、それまで騒ぎと哄笑で充満していた洞窟が、にわかに死のように静かになったからであった。ツアラトストラがいぶかしく思い、彼らの様子を伺うと、何と彼らは、祈っていたのであった。しかも、子供たちや信心深い老婆どものするようにひざまずいて、「ロバを拝んでいた!」のであった。ちょうどそのとき、あの最も醜い人間が、一同に拝まれ香煙を捧げられているロバを賛美するための、一つの敬虔な特異な連祷を唱え始め、一同はそれを唱和し、それに加えてロバまでもが調子を合わせて「イーアー」という鳴き声を発するという奇怪な情景が展開したのであった。いったい何が始まったのか。彼らは、気が狂ってしまったのかとツアラトストラはいぶかったが、それもやはりツアラトストラによれば、彼らの回復の、そして覚醒の一つの段階であり、兆候でさえあったのである。
 「もろもろの新しい希望が彼らの腕と足に籠もっており、彼らの心胸は伸び広がっている。彼らはもろもろの新しい言葉を見いだしており、まもなく彼らの精神は、奔放を呼吸するであろう」ツアラトストラは、かく語った。

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2010/09/16

砂漠の娘たちのあいだで

 一同と握手し終わったツアラトストラは、再び外の清涼な空気が吸いたくなり、洞窟を出て行こうとした。すると、「ツアラトストラの影」と自称していたかのさすらい人が叫んだ、「立ち去らないでくれ。わたしたちのところにいてくれ。さもないと、あの古い息苦しい憂愁が再びわたしたちを襲うことだろう」と。
 彼らは、ツアラトストラの元に身を避けて来ていた。彼らの現実を厭い、そこから解放されることを求めて。しかし彼らは、再びそこへ舞い戻る可能性をまだ持っていたのである。彼らは、ツアラトストラと対面して、彼らの厭うべき現実からの解放を経験した。しかし、もし彼らがその師ツアラトストラの元を離れるようなことになれば、彼らはひとたまりもなく、かつて彼らが打ち負かされていた誘惑に負け、元の生活へと戻ってしまうに違いないのであった。それは、彼らの自己刷新の動機が、勇気ではなくむしろ恐怖であり、彼らの行為が冒険ではなく逃避であったからであり、そのような受動的な決心は、ほんの小さな試練の前にもあっけなく崩れ去ってしまうものなのである。
 恐怖に駆られて逃避する者、彼には、新しい救いを求める願望がある。それは、彼にとっては、新しい希望に輝いて見える。しかし、それが自分から出たものではないことを彼は十分に自覚していない。だから、その救いが自分の前から奪い去られると、たちまち彼は希望を失い、元の誘惑や恐れに取り囲まれた状態に舞い戻ってしまうのである。ツアラトストラの洞窟に集まっていた高等な人間たちは、みなそのような状態であった。彼らは、多かれ少なかれ、何らかの恐怖に駆られて現実から逃避しているのであり、その窮境を訴える声がツアラトストラの耳に聞こえていたのであった。彼らは、ツアラトストラの提唱する生き方の中に自分が求めていた救いを見いだし、そこに自由への希望を抱いていた。しかし、彼らの行為自体は、能動的なものではなく、返って受動的なものであり、冒険ではなく、逃避であった。つまり彼らは、ツアラトストラに憧れていたが、彼のように生き始めようとは思っていなかったのである。「ツアラトストラの影」と自称していた者も、やはりツアラトストラと共に、まだ誰もしたことのない冒険をしようなどとは、毛頭考えなかった。そればかりか彼は、かつて味わった快楽の思い出を執拗に心につなぎ止めていたのであった。
 ツアラトストラが提唱する冒険は、自分を失うほどに価値のある、自分を賭するものである。この「自分を賭する」ということに、人は一つの美を見いだし、それに憧れる。しかし、同じ「自分を賭する」という行為であってもその賭する対象が一時的な快楽のような価値のないものである場合には、その行為自体も価値のないものになってしまうのである。そこで、重要なのは、自分を賭すること、冒険することそれ自体ではなく、「何のために」ということなのであり、もはや砂漠のような意味のない快楽の繰り返しに、決然と背を向ける勇気なのである。
 「砂漠は成長する。もろもろの砂漠を蔵する者は、わざわいなるかな」、ツアラトストラは、かく語った。

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2010/09/15

科学について

 年老いた魔法使いの演じた「憂愁の歌」のパフォーマンスにより、その場にいた面々は、正に憂愁の中につき落とされてしまった。彼らにはもはや、ツアラトストラから聞いたことが信じられなくなってきたのであった。しかし、彼らの内の一人、「精神が良心的な者」だけは、その他の者とは異なっていた。彼は言った、「あなたがた、自由な魂の持ち主たちよ、あなたたちの自由はどこへ行ってしまったのだ」と。
 「自由とは何か」ということは、永遠の課題かもしれない。自由とはなにか。それは「何かあるもの」からの自由である。つまり、現在は自由ではないのであり、そうでなければ、自由という概念もまた無かったであろう。しかし、何からの自由なのか。世界からではない。この世界に住むならば、必然的に様々な事件に遭遇する。それは、この世界に住むことの宿命であり、それがこの世界に住むということなのである。それなら、そこにおける自由とは、精神的な自由ということになるだろう。そして、それこそがそこにいた者たち皆の求めているものだったのである。しかし再び、それは何からの精神的な自由なのか。つまり、それは能動的なものなのか、それとも受動的なものなのか。すなわち、冒険なのか逃避なのか、ということが問題となる。
 年老いた魔法使いの主張に対して、その精神が良心的な者は、「自由の原動力は恐怖」である、すなわちそれは「受動的なものであり、逃避である」と主張した。ところが、そのとき丁度入ってきて、彼の主張を聞いたツアラトストラは、それを否定して言った、「恐怖は、われわれ人間にとって、むしろ例外的なことなのだ。それに反して、勇気こそ、冒険こそ、不確実なものや敢行されたためしのないものに打ち興ずることこそ、要するに勇気こそが、わたしには、人間の前歴の全体をなすように思われる。人間は、最も荒々しく最も勇気のある動物たちから、この動物たちの諸徳の一切を、嫉妬に駆られて略取し、略奪した。そうして初めて人間は、人間になったのだ」と。このツアラトストラの言葉により、そこにいた皆は、あの年老いた魔法使いも含めて、再び元気付いた。そして彼らは、ツアラトストラを賞賛した。ツアラトストラは、彼らの間を巡って、悪意と愛を込めて彼の友人たちと握手した、あたかも、一座の者たちに何かを償い、謝罪しなくてはならぬ人のように。
 彼らは、ツアラトストラを理解しなかった。確かに彼らはツアラトストラに憧れていた。しかし彼らは、ツアラトストラについて、何も理解していなかったのである。彼が何を知っており、何を知らないかということを。また、彼が何を欲し、何を欲しないかということも。そして、まして彼のようになろうなどとは、実際には、考えもしていなかったのだ。
 「この勇気、それがついに洗練され、聖化され、精神化されたのだ、ワシの翼とヘビの賢さをそなえたこの人間的勇気、それが、わたしの思うには、今日・・・」、ツアラトストラは、かく語った。

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2010/09/11

憂愁の歌

 ツアラトストラは、高等な人間について、熱を込めて語り続けた。それは、そこに集まった人々が彼の後に着き従い、彼のように雄々しく戦い、彼のように勝利者、すなわち超克者となるための助言と励ましの数々であった。
 話を終えると、ツアラトストラはしばらく席をはずし、彼の洞窟の外へ出て行った。すると、そこにいて話をきいていた年老いた魔法使いが立ち上がり、自分の竪琴を手に取り、「憂愁の歌」を歌い始めた。それは、ツアラトストラが提示する超人の思想について彼自身が持っている疑念を歌ったものであり、そこにいる者たちの心をくじくためのものであった。
 「憂愁」とは、「覚醒者」すなわち「高等な人間」に伴うものである。どのような夢であれ、恋であれ、宗教であれ、それから醒めるか、それと気づいてしまった者には、この憂愁が伴うことになる。それは、2つの憂愁である。一つは、そこから醒めた夢についての憂愁。もう一つは、夢一般についての憂愁である。というのは、一つの夢から醒めてしまった以上、もう一つの夢からも醒める可能性がある、つまりすべての夢は、醒める可能性を持つ、すなわち、あてにならないものとなるのである。これが、すべての覚醒者、すなわち高等な人間の宿命でもあるのである。それゆえ、年老いた魔法使いは、ツアラトストラもその例外ではないと考えたのである。
 たしかにツアラトストラもその例外ではないだろう。そして、このことは実に、この世界の根本的な構造を表しているのである。つまり人間とは、一つの覚醒であるということを。しかしそれはまた、絶えざる覚醒であるということを。自分の勘違いに気づくということは、それ自体、何か今までと異なるパラダイムに自分が突入したかのように思われる。しかし実は、そうではない。この覚醒は、実は連続的に起こっているのである。しかし、人の意識が不連続なものであることにより、そのようにして、突然にそれまでの出来事の総合から、あるとき人は、自ら一つの判断をし、それに対する態度を決定するものであることにより、自分が何か、一つの夢から覚めたように思うのである。つまり、こうである。人間は、それまで自分が信じていた一つの真理から目覚め、次の真理へと向かう、そのようにして、より完全な真理へと到達しようとする。それが、ツアラトストラの洞窟に集まった奇妙な者たち、すなわち「高等な人間」たちであった。しかし、ツアラトストラは、さらに一歩高度な覚醒の中にあった。それはつまり、人間がそれ自体、一つの覚醒であり、いくつかの異なる世界からの覚醒ではなく、覚醒は、自分とそれを取り巻くただ一つの世界の間に、連続的に起こっていることに気づいているということである。それゆえ、彼はもはや、新しい真理を探究しようとは思わない。真理とは、彼自身なのである。世界の構造は変わらない。変わるのは、彼の意識の方である。しかし、彼の意識が変ったからと言って、彼自身が変るということではない。彼自身も不動なものなのである。このことに気付いたとき、彼ツアラトストラは、この世界に対して、不動な存在としての自分を自覚したのである。そのとき、神は彼にとって、死んだのであった。そして、世界も。なぜなら、この世界を造ったのは、神だからである。彼にとって、この世界は、もはや発展のない、永劫回帰なる世界となった。それは、彼が神を失ったからである。そして、彼は、永遠の存在としての自分を自覚した。しかし、それは、何も意味のない世界。有限の事柄の無限の無意味な繰り返しの世界であった。それは、何よりも透明なものである。それには、意味がないのだから。
 その意味で、年老いた魔術師の歌は、真理であった。しかし、彼はその意味を理解していなかった。自分が、ツアラトストラより一段と論理的に展開する以前の段階にあるということを。そして、彼があるとき彼の思想を劇的に飛躍させて、一段と弁証法的に展開させたとき、それはツアラトストラの永劫回帰の思想、超人の思想、人間とは超克されるべき一つのものであるところの思想に到達するのである。そして、それは、無なのである。それは、彼が神ではないところに真理を求め、そのようにして一つの真理から次の真理へと覚醒の遍歴を続けたからである。
 ああもし、神が存在するなら。不動のものが、自分ではなく、神であるのならば。この世界は、再び息を吹き返し、時間は永遠に到り、歴史は一度きりの有限性の中へ格納される。そのようにして永遠は、有限な時間の中に連続的に写像される。これが歴史であり、神の物語、His-storyであり、それは、有限なる人の人生と呼応するのである。これが、天地創造の意味である。
 「おお、わたしのまわりの清純な香りよ。おお、わたしのまわりの至福の静けさよ。さあ、どうか言ってくれ、わたしの動物たちよ、これらの高等な人間たちは、おしなべて、良からぬにおいを放っているのではあるまいか」、ツアラトストラは、かく語った。

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2010/09/08

高等な人間について

 「高等な人間」とは、一言で言えば、「気づいている人」と言うことができるだろう。何に気づいているのかと言うと、「偽り」、「まやかし」、「曖昧さ」等々について気づいているのである。自分が生まれてから今まで、それらに惑わされていたことについに気づき、それらから解放されることを目指しているのである。しかし、それらの高等な人間たちは、すでに気づいていながら、いまだそこから解放されているのではないのである。ツアラトストラの元にやってきた、あの奇妙な連中もそういう意味で、「高等な人間」であった。そしてそれは、決してつまらないこと、どうでも良いことではなかった。むしろ、人間がそのような意識状態にまで成長することは、まれなことであり、この「高等な人間」は、ツアラトストラが提唱する、人間の究極的な姿、すなわち「超人」へと至る上で、必ず通らなければならない重要な通過点なのである。そこでツアラトストラは、彼らを歓迎し、祝福し、この饗宴において、彼らに対して励ましと導きの言葉を語った。
 この世界に対する人間の立場には、大きく二つが想定される。一つは、この世界の目的というものを想定する立場である。それは、伝統的な立場であり、絶対的な価値観を要求する。この目的の創始者が神であり、その目的に沿うことが善、それに反することが悪である。もう一つの立場は、世界の目的というものを想定しない立場であり、この立場にとっては、すべて目的と呼ばれるものがあれば、それは悪であれ、まやかしであり、偽りであり、その他いろいろのものなのである。
 もしこの世界に神が存在しなければ、目的もまたないであろう。そこで、この世界の目的というものを想定しない者は、「神は死んだ」と主張する。そして、この世界の中に「目的」と呼ばれるものがあるとすれば、それはすべて、人間が自分の利得のために考え出したものだと考えるのである。そして、この考えの前には、キリスト教の自己義性的な愛でさえ、キリストが自分の教えを広めるために考案した創作ということになるのである。そして、これに気づいてしまった人、すなわち「高等な人間」は、それらを欺瞞と断じて、そこから逃れ出ようとするのである。
 この状態の「高等な人間」は、まだ真理に至り着いているというわけではない。ただ、自分の今の状態は、本来の状態ではないので、そこから逃れようとしているのである。しかし、それでは、いつになったら完全な知識に到達するのだろうか。否、いつということは分からない。そもそも、完全な知識などというものがあるかどうかさえ彼は知らない。彼にとっては、そのようなことは、どうでも良いことなのである。彼にとって重要なのは、彼自身が世界に対してどう振る舞うかということであり、それがすべてなのである。彼にとっては、この世界は、完成に向かっているのでも、滅びに向かっているのでもない。それは、すでに完成されたものなのであり、世界の目的などというものは、たわごとであり、むしろ、完成されるべきものは、彼自身の方なのである。
 「神の前では。だが、この神はもう死んだのだ。そなたら、高等な人間たちよ、この神はそなたたちの最大の危険であった。彼が墓のなかに横たわってよりこのかた、そなたたちは初めて復活した。今や初めて大いなる正午がやって来るのだ。今や初めて高等な人間が主人となるのだ。そなたたちはこの言葉を理解したか、おお、わたしの兄弟たちよ。そなたたちは驚愕している。そなたたちの心臓がめまいを起こしているのか。そなたたちは、ここに深淵が口を開く思いなのか。そなたたちは、ここに地獄のイヌがほえる思いなのか。さあ、さあ、そなたら、高等な人間たちよ。今や初めて、人間の未来という山が陣痛に苦しんでいる。神は死んだ。今やわれわれは欲するのだ。超人が生きんことを」、ツアラトストラは、かく語った。

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2010/09/03

晩餐

 主イエスがゲッセマネの園で捕らえられた夜、彼と弟子たちは、共に過ぎ越しの晩餐を守るために、一つの部屋に集まっていた。主イエスのただならぬ様子を察した弟子たちは、食事どころではなかったのかも知れない。実際、それは、食事どころではない程に切迫した状況だったのである。そのようなときに主イエスは、弟子たちと別れの食事をすることを望まれたのであった。
 一方、ツアラトストラの洞窟に集まっていた奇妙な連中は、それぞれに別個の要求を持ってやって来ていた。その中の一人、予言者と自称していた者が、ツアラトストラの話が途切れた瞬間を捉えて言った、「しかし、ツアラトストラよ。一事は他事よりも必要であるとは、あなた自身の言うところだ。よかろう、一事がわたしにとって今や一切の他事よりも必要なのだ。一言、時宜にかなったことを言わせてもらえば、あなたはわたしを饗宴に招いたのではなかったのか。また、ここには、長い道のりを歩いて来た者がたくさんいる。あなたはまさか、お話の供応だけでわれわれを追っ払うつもりではあるまいね。それにまた、あなたたちはみな、凍死とか、溺死とか、窒息とか、そのほか身体のもろもろの窮境については、すでに多すぎるほど述べてくれたが、わたしの窮境のこと、すなわち餓死のことは、誰一人として述べはしなかったのだ」と。
 彼らは、尊敬する師ツアラトストラのところに集まっていた。そして、饗宴が始まろうとしていたのだが、それは、師であるツアラトストラが望んだようなものではなかった。彼らは、ツアラトストラにとっては、招かれざる客であった。その彼らが、師であるツアラトストラに食事を要求し、その結果、晩餐が始まろうとしていたのである。もっとも、あの最後の晩餐においても、主イエスの弟子たちは、師である主イエスのことを理解していなかった。彼らは、これから何が起こり、それがどのような意味を持つのか、まるで理解できていなかった。そればかりか、彼らはそのしばらく後に、自分の命を惜しみ、師である主イエスを見捨てて一人残し、敵の手に渡してしまうことになるのである。そのような弟子たちに、主イエスは過ぎ越しの晩餐を自ら喜んで提供した。そして、自分の死後、弟子たちがやがて自分の後継者となり、福音を世界中に宣べ伝えてくれることを信じ、夢見たのであった。
 しかし、ツアラトストラも、この晩餐に満足していた。そこに集まっていた者の内の、自ら進んで乞食となった者が、「洞窟にこもり、高い山々に入るのは、こういう饗宴を催すためなのか」といぶかると、ツアラトストラは彼を、「わたしのように、きげんよくせよ。そなたの仕きたりを守るがよい、そなた、すぐれた者よ」とたしなめた。主イエスは、ひとつの良い意図と賢い計画とを持っておられた。そして、主イエス亡き後は、天から降った聖霊がその実現を導かれた。しかし、ツアラトストラは、何の計画も持っていなかったのである。そして、それゆえに彼は、この錯乱した饗宴においてきげん良くしていたのであった。しかし、そんな彼にも、一つの意図があった。それは、虚偽からの解放であった。彼にとって、もはや信じるに値するものは、自分しかない。他にあるとすれば、自分のように考える者たちだけである。その他の、固定概念に捕らわれた連中は、もはや彼の眼中にはないのである。そして、彼の意図とは、彼のように考える人の群れが起こされることである。それは、そもそも可能なことなのだろうか。もしこの世界に、神というものが存在せず、したがって、善悪という概念は人が考え出したものだとしたら、それらすべてを度外視した状況が想定されるのであり、人は、あらゆる固定概念から解放されることにより、すなわち自己を超克することにより、ある統合された全体性へと到達するということが考えられるかもしれないのである。しかし、それはどういう世界だろうか。
 「わたしが一個の掟であるのは、ただわたしに所属する者たちにとってだけだ。わたしは万人にとっての掟ではない。だが、わたしに所属する者は、強い骨を持っていなくてはならず、また軽い足を持っていなくてはならぬ。戦争と祝祭を好み、陰気者でも夢想家でもなく、さながら自分の祝祭を心待ちするように最も困難なことを待ち、健康にして健全でなくてはならない。最上のものは、わたしに所属する者たちとわたしとのものである。そして、人々がそれをわたしたちに与えなければ、わたしたちはそれを奪うのだ。最上の飲食物、もっとも清澄な天空、もっとも強い諸思想、もっとも美しい女性たちを」、ツアラトストラはかく語った。

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