ツアラトストラを終えて
これで、ツアラトストラの上下二巻を読み終えたことになる。最初はどうなることかと思ったが、何とか最後まで読み終えることができたのは良かったと思う。しかし、何かこう不完全燃焼のような気分を捨てきれない。もしかしたら、今一つ自分は、ツアラトストラを、ニーチェを理解し尽くせなかったのではないかという危惧である。とは言っても、私はツアラトストラが割と好きである。彼の生き方には、共感できるものがある。それは、彼が徹底して、世界内存在者として生き通したことである。これは、実に誰も成しえなかったすばらしいことであり、ニーチェの天才的なところだと思う。そもそもこの世界の謎を究明しようという野望を持つ人々の内、いったい誰が、自ら世界内存在者として生きようとあえて決意するだろうか。それは、強いて言えば、世界を創造し支配している神が自ら世界内存在者となって、この地上に降られたことに匹敵する驚くべきことであり、ここにツアラトストラという作品の類まれなすばらしさがある。
しかし、その結末はなんと奇異なものだろう。「この世界のすべては、永遠に同じことを繰り返す」という永劫回帰思想をいったい誰が好ましいものと思うだろうか。しかしそれが、すばらしい夢を求めて鷲のように旅立ったツアラトストラの結論なのである。それは、大いなる矛盾を含んでいる。と言うより、それは矛盾そのものである。それは、この世界が無目的であることを示しており、それは同時に、それを信じる者の実質的な死を示している。そう言えば、ツアラトストラの初期の推敲においては、ツアラトストラは、ついに永劫回帰思想を人々に告知して、自ら死にゆくことになっていたという。その死は、いったい何のためなのか。彼は、キリスト教的なすべてのものへの反目から始めた。それが、もしかしたら人が考え出したものであり、ただ人を騙して盲従させるために仕組まれた、甘い夢に過ぎないと疑われたのであり、そのように疑う人が世に一人もいないことを彼は驚き怪しんだのであった。そして、彼は、それを証明するためには、何か理論的な哲学思想を考えだし、それを実世界の中で実験的に検証するという確率論的なアプローチをとらなかった。返って彼は、この世界の内的存在者として、自らこの世界を裸一貫で生きることにより、実証的に真実を素手でつかもうと決意したのであった。
私の願いを言えば、ニーチェが最後まで真実を求めて、雄々しく戦い、それを勝ち取って欲しかった。しかし、神無しに全宇宙を相手に戦った彼を待ち受けていたのは、結果的には、狂気であった。それは、何を示すのか。軽々しい言及は控えたいが、彼は、キリスト教に対して、一つの重大な問題提起をしたと私は信じている。それは、信仰者が自分の信仰をどのように規定しているかということである。信仰者は、ニーチェのような姿勢で神を信じるべきだと私は思う。そう、彼のようにすべてを疑った上で、「それでも私は神に従う」と言うべきなのだ。聖書の中に、そのように自分の信仰を規定している者たちがいる。それは、「シャデラク、メシャク、アベデネゴ」である。彼らは、火の燃える炉の中に投げ込まれようとしたとき、「たとえ全能の神が助けて下さらなくても、私たちは神を信じる」と告白したのであった。
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