2010/06/09

第2章 死人がよみがえる12の証拠

 ガジマ師の教会では、すでに150人以上の人が死からよみがえっているという。それなら、「死人がよみがえる12の証拠」を挙げようと思えば、その中から12人を選んで証しをしてもらえば話は簡単かもしれない。しかし、彼はそうはしない。彼にとって証拠とは、聖書の言葉なのである。というのも、ガジマ師が示したいのは、「死人がよみがえった証拠」ではなく、「死人がよみがえる証拠」なのであり、むしろ今後のことに力点が置かれているのである。それを示すために、彼はまず、「聖書にこう書いてある」と、その箇所を示し、つぎに自らの体験を証しする。これ以上に確かな証拠はない。特に、ガジマ師が初めて死人(それは赤ん坊であったが)を生き返らせたときの証しは手に汗握るものがあり、感動的である。それは、彼の教会におけるリバイバルの引き金となった。それにより、彼の教会は、老信徒2人の死にそうな教会から、一気に信徒100人以上の命に満ち溢れる教会となったのである。しかし、そのために彼は、赤ちゃんを殺したと誤解され、群衆に囲まれて危うく警察へ連れて行かれるところであった。そのぎりぎりの状況に神が介入され、彼は神の「わたしはよみがえりであり、命である」との御声を聞いた。そして、その言葉は、死んだ赤ん坊の上にに成就したのであった。
 私たちは、千の証拠よりも、むしろこの神の御声を聞くことを欲する。その御声はどうすれば聞こえるのだろうか。まずそれは、電光石火百発百中の御声である。それは、必ず成就する。それゆえに、失敗は許されない。それを聞くには、100%の従順を必要とする。というのは、この神の御業を行うのは、自由意志を与えられた人間だからである。そこで神は、ご自身を100%信頼し、御声にどこまでも聞き従う者にご計画を語られるのである。実際に神の語りかけを聞いたという人はいる。しかしそれは、神がその人を哀れみ、その人のためにその人の内にご自身の臨在を教えるためであった。しかし神の命令は、それとは異なる。それはその御声を聞く人のためではなく、神の栄光が世に現されるためのものなのである。次に、神が語られるのは、神の御声を覚えた人に対してである。それには、祈り以外にない。ガジマ師は、主イエスのように、夜を徹して祈るという。第3に、ただ神にのみ頼る人である。この世のすべてのものに失望し、それらを軽んじることを学び、最後に自分さえも信じなくなった者、そのような者に神は語られるのである。そして、それが実に、ガジマ師が最初に死人をよみがえらせたときの状態であった。
 そこで、神の栄光を見たいなら、この状態に自らを置く必要がある。そしてそれは、往々にして辛いことである。そのとき自分の運命は、神の前に風前の灯火となる。そして、それでも神の助けは来ない。それは、ついにやって来ないかもしれない。しかし、もしそれがやってくるとすれば、それが神の栄光となる場合である。そして、たとえそれがやってこない場合にも、それが神の栄光となるのである。これらを覚悟できる者、つまり自分を捨て、日々十字架を負い、主イエスに従うものだけが、神の声を聞くのである。

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2010/06/06

第1章 人生の問題を解決する

 「問題」と聞くと、私たちは、「またか」と思う。そのとき私たちは、問題についてネガティブに受け取っているのである。もちろん、それ以外の受け取り方は、通常想定し難いだろう。しかし、この点で私たちは、もしかすると悪魔に騙されているのである。例えば、「問題は、起こるものであり、それは仕方のないことだ」と思うことにおいてである。しかしそれでは、その問題は、どこからやって来るのだろうか。もし悪魔から来るのだとすれば、私たちには返って希望がある。悪魔より強い方がおられるからである。また一方、問題が神から来るとすれば、私たちは、神が良いお方であることを知っている。それゆえに、ここでもまた希望を持つことができる。その場合には、神の良いご計画が現れ出ようとしているのであり、私たちが遭遇している問題には、神の栄光となる目的があるのである。そこで、すべては神の栄光のためになるのであり、私たちの内の誰一人、自分のために死ぬものはないのである。
 しかし、そうは言っても、問題自体は決して良いものではないだろう。それが無い方が良いに決まっている。しかしそれならば、そもそも問題というものはなぜ存在するのだろうか。ガジマ師は、問題の根源として、悪魔を想定する。問題を引き起こしているのが悪魔とその手下であり、それらが追い出されるとき、その結果としての問題も一気に解決するというのである。しかしそれでは、いったい悪魔はどこから来たのか。それは、天使が堕落したものだという。これは、キリスト教の比較的伝統的な考え方ではある。しかし続けて、なぜ天使が堕落したのかということまでは、ガジマ師は考えない。それは組織神学の問題である。彼のアプローチは、徹頭徹尾実践的である。というのは、彼自身、一度死んでよみがえった経験を持っているからである。そして、天国に比べたら、この世の生活は無きに等しいものだと言う。もし本当にそうだとしたら、私たちは、「問題はなぜあるのか」と問う必要などないだろう。私たちの国籍は天にあり、そここそが私たちの本当の住み家であり、この地上はかりそめの場所に過ぎない。それなら、そこが楽しい人生であろうが、苦しみの人生であろうが、その後の天国でのすばらしい生活に比べたら、取るに足らないことではないだろうか。それゆえ、ガジマ師は、この世界の物事の原因を深く追求したりしないのであろう。
 それでは、私たちは、この世における種々の問題に対して、どのように対処したら良いのだろうか。ガジマ師によれば、私たちは、この世の問題と戦うのではなく、悪魔の勢力と戦うのである。彼によれば、問題とは、悪魔の業の現れだからである。そして、私たちがこの世で主の御名により、悪魔の勢力を打ち破るとき、問題も解決される。逆に、問題だけを解決しようとしても、悪魔の勢力が残っている限り、一度解決されたかに見える問題も、再度噴出してくることになる。そこで、私たち主イエスに従う者にとって、もはや問題の解決は、目的ではないことになる。目的は、この世界において、悪魔の勢力と戦い、それに縛られている魂を主の御名によって解き放ち、主イエスを信じる信仰に導くことである。その目的を達成する中で、副産物として種々の問題が解決され、主の栄光が現わされるということになる。それには、私たちは祈らなければならない。祈りほど、悪魔の勢力との対決に効力のあるものはないからである。

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2010/05/31

死人がよみがえる!

Shinin 「死人がよみがえる」だって? それは正気の沙汰だろうか。もちろん正気の沙汰ではない。第一にそれは、物理法則に反しているのではないか。しかし、生命現象というものが科学で解明できていないゆえに、人の生死が物理法則に支配されているとも言えない。まことにこの「死」というものは、私たち人間にとって、いまだに未知の現象なのである。
 しかし、この本の著者というか、聖会の講師であるガジマ師が驚くべき見解を語る。すなわち、「死は、霊であり、追い出すことができる」と。これは、新しい知識だ。それは、「死が単なる物理現象ではない」という発見と、「霊」という存在に対する我々の認識の刷新とを同時に指し示しているのである。そして彼はさらに新しいことを言う。「魂は、霊とその住まいである肉体との合わさったところにある、両者の架け橋である」と。私の知る限り、このような見解を語った人はいない。そのような知識は、彼自身、一度死んでよみがえった経験があることに起因するのだろう。そればかりか、彼の教会では、実際に150人以上の人々が死からよみがえったと言うのである。そこでガジマ師は、私たちがまだ知らない何かを知っているのかも知れない。そして、それを知ったなら、私たちも死人をよみがえらせるようになると言うのだろうか。というのは、ガジマ師はこの本で、ほかでもない「死人をよみがえらせる方法」について論じているからである。つまり、彼はそれを私たちに、知識として伝えようとしているのである。
 しかし、果たして私たちは、死人をよみがえらせたいと思うだろうか。否、ほとんどの人は、それを願わないのではないだろうか。死人がよみがえるということは、恐ろしいことでもある。ガジマ師が死人をよみがえらせたのを見て、その場にいた人々は、みな逃げ去ってしまった。私たちは、できればそのようなことには関わりたくないと思う。自分がそのようなことができる能力を持ちたいようには思えるのだが、むしろそのことが招くかもしれないところの結果を思うと、恐れをなしてしまうのである。しかし、主イエスを愛する人々は言うだろう、「主よ、御心ならば成させ給え」と。彼らは、すべてを主の栄光のためだけに行う人々である。しかり、そのような人々だけが、ガジマ師の書いたことの意味を理解するであろう。そしてそれ以外の人にとっては、この本は、ただの眉唾か果てまた奇妙な現実を無責任に面白く書き綴ったものにしか思えないだろう。しかし、今この本をもう一度真面目に読んでみたいと思った。そこに、主イエスを畏れ、心から慕い求め、愛する心を感じたから。これは、今日のキリスト教会にもしかしたら欠けているものかもしれないと思えるから。

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