2010/06/18

最も静かな時

 「真理は、あなたがたを自由にする」と主イエスは言われた。この場合真理は、それを聞く者を拘束せず、返って様々な因習やその動機となっていた無知や恐れから解放するのである。それは、真理とは神の愛であり、それを知ることは、神がどういうお方かを知ることだからである。そして、神を知った者は、もはや人生で迷うということがないからである。
 しかし、真理がもしこのような人格的なものでなく、何か物理法則のようなものであるとしたら、彼はその真理によって、自由になるどころか、返って逃げ場のない束縛の中に追い込まれてしまうことになるだろう。ツアラトストラが到達した真理とは、まさにそのようなものであった。そして、彼にとって真理による自由とは、その高圧的、一方的な真理を無条件に肯定し、受け入れることであった。それは、まさにニヒリズムであり、受け入れる対象の内容如何よりも、それを自らの意志で受容する行為こそが彼を自由にするという形態である。このような精神的行為にもっとも類似した実行為は、自殺であろう。それにより行為者は、自らの意志で束縛から解放される。しかしそれは、ニヒリズム(すなわち虚無思想)の上にのみ成立するのである。
 この恐ろしい真理に到達したツアラトストラは、それを自覚するなり驚愕のあまり悲鳴をあげた。そして、彼の顔から血の気が失せた。というのは、彼は二重の重圧を感じたからである、一つは、彼自身がこの真理に生きなければならないということ、もう一つは、彼の弟子たちにこの真理を伝えなければならないとうことである。それにより、彼は自分自身だけでなく、この世界のすべてを無とすることになるのである。ツアラトストラは、自分が未だそれができる段階に達していないと思った。それができるためには、彼は弟子や友との関係のすべてを無に帰さなければならないのであった。それには、文字どおり一切を捨てなければならない。しかしそれでは、彼の到達した真理の意義が分からなくなってしまう。この大いなる矛盾がツアラトストラを悩ませたのであった。
 しかし、ツアラトストラを後戻りさせない一つのことがあった。それは、彼の発見した真理がもたらす重圧こそが、すなわち彼自身の存在そのものでもあるということであり、それが永劫回帰思想なのである。もし彼が一切の望みを捨てることができるなら。彼は、真に彼自身となるのである。しかしそれが、生きることなのか、死ぬことなのか、有り続けることなのか、それとも永遠に消滅することなのか、喜びなのか、破滅なのか。それは、今の彼には分からない。とにかく、今の自分には、この現実を受け入れる力はないと悟ったツアラトストラは、弟子や友に別れを告げて、もう一度山に退いたのであった。
 ツアラトストラは、自ら神を捨てて、一つの真理に到達した。そして、それは彼にとって良いことなのか、最悪のものなのか、分からなかった。それでは、信仰者はどうだろうか。すべてを捨てて主イエスに従った。しかし、それが良いことなのか悪いことなのか、真理なのか、騙されているのか。それは、分からないのである。分からないのに、それを必ず良いことだと信じるのである。分かっていたら、信仰ではない。分からないことを信じるのが信仰なのである。

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2010/06/16

人間と交わるための賢さについて

 私たち信仰者は、天に属すると同時にまた地に属している。神と交わると共に世の人々と交わる。そこで、賢さが必要となる。主イエスも「あなたがたは、鳩のように聡く、蛇のように賢くあれ」と言われた。
 まず私たちは、この世における繁栄を求めてはならない。繁栄を求めるならば、世に欺かれることになる。第二に、世の人をいたわることである。彼らがいかに虚栄心に燃えていようとも、それを裁かないことが肝要である。というのは、彼らの虚栄心の動機は、実は彼らが自分に自信がないのであり、それをカバーするために他人からの賞賛を求めているからである。そこで、ツアラトストラが言うように、ある意味で、彼らほど自分を卑下している者もまたないのである。というのは、信仰者にして見れば、自分とは、天の神に愛される神の子であり、彼にはすべてが可能だからである。第三に、世を恐れてはならない。世の人は、様々なものを恐れる。彼らの幸福は、実に壊れやすいからである。しかし、私たちはそれらを恐れる必要はない。私たちは震われない国を受けているからである。
 しかし、そのように信仰者が世の人々と比較して、あらゆる面で卓越していようとも、私たちは世の人を見下したり、自分の信仰の確信を不用意に振りかざしたりしてはならない。そのようなことをすれば、世の人は、私たちを誤解してしまうからである。そこで、彼らを愛し、福音を伝えたいと思うなら、私たちは、ある程度彼らに調子を合わせる必要もある。但し、世のやり方ではなく、神に導かれたやり方でである。主イエスも、カイザルに税金を納められた。また、サマリヤの井戸べで女に水を乞い求められた。それらは、すべて福音を宣べ伝えるためであった。その意味では、世の人に対して真剣に対応しているとは言えない要素がそこに含まれるようにも思われるかも知れない。しかし、それらは一つの紳士的な配慮とも言えるし、また何よりも、愛から出た行為なのである。そして、それを働くために私たちは、肉体に留まり、世の組織に加わり、仕事に勤しむのである。そして一方、世の人は、この世の幸福を得んがために、肉体に頼り、世の組織に加わり、仕事に勤しむのである。
 「しかし、わたしはきみたちの仮装している姿を見たい、きみら隣人たちよ、同胞たちよ、十分にめかしこみ、見栄を張り、『善にして義なる者たち』のように威風堂々としている姿を。そして、わたし自身も、仮装してきみたちの間に座っていたい、それというのも、わたしがきみたちをもわたしをも誤認せんがためであるが。これがすなわち、人間と交わるための、わたしの最後の賢さなのだ」、ツアラトストラは、かく語った。

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救済者について

 人間は、自由意志を持っている。しかし、彼はまた時間の中で生きているゆえに彼の自由意志が及ぶ範囲もおのずと制限されている。というのは、すでに起こってしまったことに対しては、彼の意志はもはや何一つとして介入できないからである。さらに、彼が現在置かれている状況が過去の結果であり、そして未来がまた現在の延長上にあるということから、彼の人生全体が「過去」という、もはや取り返すことのできないものに、ある意味で支配されているとも言えるのである。かくて人間は、自由意志を持っていながら、実際はきわめて不自由な存在であり、そのことが自由意志を持つ彼にとっては、返って大きな矛盾でもあるのである。いったいどうしたら彼は、この大いなる矛盾から解放されるのだろうか。
 それは、2つの面から考えることができる。一つは、彼の過去の行いの評価である。もしこの評価が、何かの法則に則った機械的なものであるとしたら、彼の評価は、もはや永久に変更不可能となり、そこに何らかの価値観が設定された場合には、彼は永久に渡る評価、すなわち裁きを受けることになるだろう。もし彼がそれを回避しようとすれば、すべての価値観の排除、すなわちニヒリズムを選択せざるを得ない。しかし彼の行為を評価する基準が十分な情状酌量の余地を持っているものならば、彼は自分の過去の行為が一方的に評価されることからは守られるだろう。しかしここに、もう一つの問題がある。それは、彼が情状酌量の扱いを受けることは、彼の過去の行為の評価が曖昧になることであり、それにより彼自身の善悪基準は、無傷ではいられないということである。彼がその危険を回避できるためには、キリストの犠牲がどうしても必要なのである。
 彼の自由意志と過去の行為に関する束縛の間の矛盾からの解放へのもう一つの契機は、彼の可能性の増大である。確かに彼は、彼の過去に大きく依存している。しかし、もしそれを上回る可能性が彼にあるならば、彼は自分の過去の束縛から解放されて、彼の自由意志が指し示す方向へ向かうことができるだろう。通常、それを実現するものは、彼の持って生まれた才能や財力、そして血のにじむような努力である。しかし、それらのどれも持ち合わせていない者でも、全能の神を信じるならば、それが彼の大いなる可能性となり得るのである。
 そこで、ツアラトストラのような、自ら神を捨て去った者、ただ自分だけの力で最後の最後まで到達しようという者にとって、自己の自由意志と過去の束縛の間の矛盾を解決するものは、彼の過去と現在を、それがたとえどのようなものであっても全面的に肯定すること以外にはないのである。ああもしそれが、神の存在可能性までも含めて、探求と反省の可能性を含むものであったなら。しかしそれは実に、神を退けたという彼の過去における行為とその結果としての、神を信じていないという現在の状態さえも全面的に肯定することなのである。なぜなら、その意志は権力への意志であろうとするからである。
 「権力への意志であるところの意志は、一切の和解より高いものを意欲しなくてはならない。しかし、意志がそのように意欲することは、いかにして行われるのであろうか?誰が意志に、後戻りして意欲することをすらも教えたであろうか?」ツアラトストラは、かく語った。

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2010/06/09

予言者

 私たち信仰者は、ある運命の中に生きている。それは、永遠の昔に立てられた神の救いの計画である。それは、予定と呼ばれることもある。この予定の中にある人にとっては、現状はやがて過ぎ去る仮染めの状態に過ぎない。大いなる変化が彼を待っているのである。しかし、この予定の中に入らない人が存在する。その人にとっては、この世界のすべてのものは虚しい。まことに「一切は空であり、一切は同じことであり、一切はすでにあったのだ」。そのような人にとっては、この世界と自分を否定するか、それとも、現状のままですべてを肯定するかのどちらかしかない。どちらにしても、それは苦しい戦いである。ツアラトストラは、自ら神を捨て、超人への道を選び取った。そして、その道の険しさをいま悟り始めたのであった。
 しかし、それでは永遠の救いの計画とはなにか。私たちは、本当にそれを理解しているだろうか。例えば、永遠の国であるところの天国は、どういうところだろうか。命の水の川が流れ、木々は毎月実を結び、都はすべて透き通るような純金と、ここまでは聖書に書いてある通りである。しかしその後に書かれている、私たちは小羊と父なる神の御顔を仰ぎ見、神を礼拝し誉め讃えて暮らすということを心から求めるだろうか。それは永遠に続くのである。
 ツアラトストラがめざす永劫回帰とクリスチャンが予定されている天国での生活は、ある意味では同じ性質のものである。そこに、天国か地獄かの違いはあるが、「永遠に続く」ということにおいては、同じものなのである。そして、神を永遠にほめ讃えることを好まない者にとっては、天国もまた地獄と同じかもしれない。そこが永遠の楽園(リゾート)のように考えていた者にとっては、そこは、地獄のように窮屈なところではないだろうか。
 しかし、そうではない、私たちは変えられるのである。主イエスと同じ栄光の姿に。この世界に執着するものから、天国の住民、神の家族へと。そこでは、信仰の小さい者から大きい者まで、あまねく神を完全に知ることになるだろう。そのとき、彼は知るだろう。現実とは何か、私たちが見て、親しくしていたものは、実際はどういうものだったのかということを。
 その転機は、すべての人に必ず訪れる。時が永遠に入るという転機が。この有限の時間の後に、必ず無限の時間がやってくる。そして、私たちはそこを生きて行かなければならない。有限の心を持ってか、または、無限の心を与えられて。前者の場合には、有限性の無限なる流転、すなわち永劫回帰となる。後者の場合には、有限のものが無限を着るということになる。そしてそれも永遠の繰り返しではあるが、それは完成された一瞬の永遠なる繰り返しなのである。
 「もうしばらくすると、この長いたそがれがやって来る。ああ、どうすれば、わたしは自分の光を、このたそがれのかなたまで、消えないように守ることができようか!わたしの光がこの悲哀のなかで窒息せざらんことを!それは、より遠い世々にとっての、またさらに、もっとも遠い世々にとっての、光であれかし!」ツアラトストラは、かく語った。

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2010/06/04

大事件について

 この「大事件」とは、一つには「革命」を意味している。それは、永い歴史がまた一つ転回するために、あるいは必要なことだったのかも知れない。そこに支払われてきた大きな犠牲のことを決して忘れてはならないのだが、それでもそれは、旧態依然とした社会構造の下で、人知られず制圧にあえいでいた人々の生活に希望の光が当てられて、社会に新しい観点からの全体最適化が起こるための一つの契機でもあり得たのである。しかし、ツアラトストラは語る、「さあ、友よ、地獄の喧噪よ、わたしの言うことを信ぜよ!最大の事件、それは、われわれの最も騒々しい時ではなくて、われわれの最も静かな時なのだ。新しい喧噪の創案者たちをめぐってではなく、新しい諸価値の創案者たちをめぐって、世界は回転する。耳にきこえずに回転する。さあ、告白せよ。おまえの喧噪と煙が消え失せたとき、ほとんど何事もなかったのが常であった。都市が一つミイラになったところで、かくて立像が一つ泥のなかに倒れていようとも、なんのことがあろう」と。
 世界の歴史は転回し、新しい支配が始まり、文化が起こり、物事が考察され、思想が掲げられる。しかし、人々の思いの深いところは何も変わらない。そこは、まるで深い海の底のようで、世の喧噪もそこまでは届かないかのようだ。たとえ、その改革のために無数の人の血が流されたとしても。そしてそれはまた、一人の人間の人生においても言えることなのである。彼の人生に起こってくる衝撃的なできごと。社会への船出、出世、伴侶との出会いと結婚、家族の形成、病や事故、損失と喪失、回復と展望、死による離別。それらの一つ一つが、私たちにとっては、どれをとっても、完全に制御できない、従って責任のとれない、真正面から取り組むことの困難なことがらなのである。私たちは、それらが与える影響から逃れることはできない。そして、それらのできごとは、私たちの人生に大きな痕跡を残すことになる。しかし、それにも関わらず、それらにより、私たちの生き方が根本的に変わったかと言うと、そのようなこともない。私たちの深いところは、依然として何も変わっていないのである。それならば、私たちはいったい、精神なるものを想定する必要があるのだろうか。もしそれが、どのようなことにも、決して変わることがないとしたならば。まことにニヒリズムからは、このような結論しか出てこない。神不在の思想からは、何も生まれてくるものがないのである。もしそこに永遠に続くものがあるとしたならば、それは永劫回帰以外のものではない。つまり意味のないものの永遠の繰り返しである。そして、その場合の最高のものとは、その永劫回帰を受け入れること、自ら永劫回帰そのものとなることなのである。
 しかし、キリスト教は、狂ったように叫ぶ、「時は満ち、天国は近づいた!」と。「私を信じる者は、永遠の命を持つ!」と。それも一つの狂気であり、その事実性を証明することはできない。私たちは、それがどこから来て、どこへ行くのかさえ知らない。しかし、一つだけ確かなことがある。それが、実際に私たちのところに来たのであり、そしていま、それが確かに私たちのところにあるということである。
 かくて、もう一度、ツアラトストラは頭を横に振って、いぶかった。「わたしはそのことをどう考えるべきであろうか」と彼はもう一度言った。「いったいなぜ、幽霊は、『時が来た!時が熟した!』と叫んだのであろうか」、ツアラトストラはかく語った。

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詩人たちについて

 我々信仰者は、聖書の言葉を自分の人生に適用する。それは、私たちが生活の中で神の御心を知るために必要なことである。そしてその聖書の個人的な適用はまた、同じように聖書信仰を持つ他の信仰者にとっても、多いにインパクトを持つ証しとなり得る。たとえそれが個別的な状況であっても、あるいは、ときにそうあればあるほど、それは神が個人の特別な状況や問題にあえて介入してくださるということの証しであり、試練の中にある信仰者を力づけ、希望を与えるものとなり得るのである。
 ダビデも敵から攻められ、苦難の中にある自分の境遇に神が介入されたこと、及びまだ、そのときすぐには問題解決の糸口は無かったが、神は彼を決して見放さず、いつも彼と共におられ、必ず彼を苦難から救い出してくださるとの彼の信仰を詩編に書き綴った。そしてそれは、時代を越えて現代を生きる私たちの信仰を奮い立たせ、彼と同じ信仰の足跡を歩ませる力を持っているのである。
 ああしかし、それでもときとして、信仰の兄弟が語る力強い証しがそれに耳を傾ける者の心を奮い立たせることができずに、返ってその信仰を萎えさせるというようなことが起こり得るのである。それは、いかなる場合なのだろうか。それは、例えば、証しをする者が、自分に与えられた神の恵みを十分に理解せず、それを正しく伝えることができない場合がまず考えられる。その場合、聞く者は、語られる証しを聞きながらも、そこに神の哀れみと恵みを十分に汲み取ることができないのだろう。しかし、例えダビデのような詩人であっても、それを完全に伝えることが可能だろうか。否、それは困難だろう。私たちは、神から完璧な知識と人格を与えられているわけではないからである。ダビデにしても、多くの失敗をしたし、たくさんの人々の血を流したことにより、神に仕えることにおいて、神から制限を与えられたのであった。それでもダビデの詩が私たちに影響を与えるのは、そこに神の恵みが働くからであろう。そして、神をしてダビデに恵みを働かせたのは、彼の神に対する愛と忠誠であったろう。
 そこで、一つのことが言えるのではないか。つまり、私たちの個人的な信仰生活において、神の特別な恵みと導きが必要であると共に、そこで受けた恵みを証しするときにも、もう一度神の特別な恵みと導きが必要ということである。さらにもう一つ付け加えるべきことがある。それは、たぶん、その証しを聞く側にも、神の恵みが働くことが必要であろうということである。
 しかし、そこにもし神の恵みが働くことがないなら、その証しは、ただの虚しい詩歌と同じであり、彼は虚栄の詩人と成り果てるであろう。彼の語る神は、彼の考え出した偶像以外のものではないであろう。そのような虚しい証し、目的の定まらない証し、神ではなく、語る者の方が崇められるような証しが確かに存在する。「ああ、天地のあいだには、ただ詩人たちだけが何ほどか夢想しえたような諸事物が、実にたくさん存在しているのだ。そして、天上においては、とくにそうだ。というのは、すべての神々は、詩人たちの弄する比喩であり、詩人たちの詭弁であるからだ。まことに、われわれはつねに引き上げられるのだ。すなわち、雲の国へと。この雲の上に、われわれは、われわれの色とりどりのぬけがらを置き、しかるのち、それを神々とか超人とか呼ぶのだ」と。
 ただ神の栄光を讃えよ。神の御名だけが崇められることを追い求めよ。我々は、もう自分の証しに自ら酔うことをやめよう。それなら、むしろ坦々とした証しの方がまだましである。証しの詩人は、もう返上だ。今日からそれを始めようではないか。「わたしはすでに見たのだ、詩人たちが変化し、自分自身にまなざしを向けたのを。わたしは精神の贖罪者たちが来るのを見た。彼らは詩人たちのなかから生じたのだ」ツアラトストラはかく語った。

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学者たちについて

 一般的に、牧師になるためには、神学校に入って、神学を始めとして、宣教学、語学、教会論、教会史そしてときには心理学や哲学までも勉強することになる。そこで牧師は、なにがしか学者的な雰囲気を漂わせているようだ。それはまず彼が、一般信徒の知らない知識を持っているということにおいて。また、信徒が知らない伝道者の領域としての戦いを共有しているという同士的意識において。信徒の知らない各伝道者固有の牧会情報を保有していることにおいて。そして、教団の場合には、組織における固有の役割に任命されているということにおいてである。これら諸々のことが、彼らをして、学者的な雰囲気や態度を醸し出させるに十分なのである。
 もちろんこれらのものは、主イエスの大宣教命令を実行し、神の栄光を現すためのものであり、信徒との間に壁を築くためのものではない。しかし、信徒が上記の牧師固有の領域に不用意に足を踏み入れるというようなことが起こるときに、急にこの牧師と信徒の壁を意識させられることがある。それは、牧師に必要なリーダシップの確保に必要であることは認める。しかし、どうもそれだけではないように思えるのだ。そこでまず、この記事は、牧師を批判するために書いたものではないことを断っておく必要があろう。
 そうしておいて、まず感じるのは、前例のないことへの拒否感とでもいうようなものである。これは、牧会というものが失敗を許されない類の性質を持ちながらも、そこに常に実験的な要素を含まざるを得ないことによるのだろう。というのは、教会は生きていて、常に成長しているからである。次に、学問的な知識への傾注である。それはたぶん、異なる場面や異なる時間における自らの言論の一貫性を確保する必要から、何か確固たる拠り所が必要なのだろう。次に、組織への従属意識。これは、今日の教会組織が階層構造をしていることによる。そして、組織が大きく複雑になり過ぎたことにより、キリストの体としての機能と同じ、もしくはそれ以上に組織維持に労力を使わなければならなくなったからだろう。
 以上のことのゆえに、個々の牧師が牧会における非難されるべき要素を一般的に持っているものだとは言えないだろう。しかし、牧師というものが、そのような複雑な環境に置かれていることを理解するのは、意味のあることではないだろうか。しかし、学者的な人格に対してツアラトストラは語る、「彼らは出来の良い時計仕掛けである。ただ、彼らのゼンマイを正しく巻いてやるよう、心を配りさえすればよいのだ。そうすれば、彼らは忠実に時刻を示しつつ、或る控え目な騒音を立てる」と。
 今日の教会において、何かが欠けているとすれば、それは挑戦と刷新であろう。決まりきったことを繰り返していても、何も新しいものは生まれない。反逆でもなく、寄り道や迷いでもない、新しい前進が教会に求められているのではないだろうか。それが生きている教会、主の軍隊としての教会の力であり、私たちが持つ必要のあるものではないだろうか。
 「しかし、それにもかかわらず、わたしはわたしのもろもろの思想によって、彼らの頭の上を歩む。そして、万一わたしがわたし自身のもろもろの過失を足として歩んだとしても、わたしはやはり、彼らと彼らの頭との上にいるであろう。というのは、人間たちは平等でないからだ。正義はそう語るのだ。かくて、わたしが欲することを、彼らは欲することを許されないであろう」、ツアラトストラはかく語った。

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2010/06/01

汚れなき認識について

 聖職者の中に、それもかなり有名な人の中にも、時として醜い不祥事が発覚することがある。彼は、いったい真理を知っていたのであろうか。彼は、本当に信仰の教師だったのかと問いたくなる。しかし、信仰の内容を知っていることとそれを実践することとは、本来別のことであろう。そういう面で教師には誘惑というものが伴う。つまり、人に教えるためには、自分の所有する信仰を知識として固定し、客体化させる必要があり、そのプロセスにおいて、それを自ら理解し、認識し、評価してしまうということである。しかし、そのことにより、彼の信仰は、彼以下のものとなってしまわざるを得ないのである。彼が、良い教師であろうとすればするほど、つまり彼の信仰の客体化が完璧であればあるほど、それは彼を危険にさらすこととなるのである。
 しかし、ここに一つの疑問が湧き起こる。つまり、自分の認識した信仰を自ら行うことができないような認識、それはいったい正しい認識だったのだろうかという疑問である。否、それは正しい認識ではあり得ないだろう。しかし再び、信仰というものが詳細に認識可能なものなのかどうかということが問われてくる。そして、ここに問題の核心があるのだろう。つまり、信仰というものは、本来、それについて具体的かつ詳細な認識が難しいものなのであり、それにも関わらず、それが具体的に認識され得ると想定して、自らもそれを把握しようとし、また他人にもそれを教えようとすることは、そのこと自体が、その人が信仰というものを理解していなかったということを示しているのである。ツアラトストラは語る、「地上的なものを軽蔑するよう説得されたのは、きみたちの精神であって、きみたちの内臓ではない。だが、この内臓こそ、きみたちの身にそなわる最強のものなのだ!」と。
 私たちの従順は、どこから来るのか。日頃のデボーションで身に付けた聖書の知識からか。それとも、礼拝で聞く説教から得た知識からか。しかし、それらは共に知識である。そして、それが知識である以上、それは認識以上のものではない。そして、認識以上に強いものがある。ツアラトストラが「きみたちの内臓」と表現する、肉体的情動である。これが認識を上回るとき、これが認識を欺く力を持つ時、信仰者も醜い罪に陥る危険性の中に置かれるのである。そして、ツアラトストラがさらに指摘するのは、信仰者がそのような罪に陥らないまでも、そのような認識に先導される信仰生活は、神のために実を結ぶことがないということである。彼は語る、「しかし、きみら汚れなき者たちよ。きみら純粋認識の徒よ、きみたちの呪いたるべきは、きみたちが決して産まないであろうということだ、たとえきみたちが、ふくれ、身ごもって、地平線上に位置していようとも!まことに、きみたちはかずかずの高貴な言葉で口を満たす。そうすれば、きみたちの心が溢れていると、われわれが信じるとでもいうのか、きみら嘘つきどもよ?」と。
 私たちは、自分の信仰を、認識以上のものの上に建てる必要がある。それは、なんだろうか。それはまさに、一つの狂気である。アブラハムがその子イサクを捧げた狂気、神が一人子イエスを十字架につけた狂気、エリアが天から火を呼び降した狂気、イエス・キリストがラザロを死人の中から甦らせた狂気である。それが信仰者に来る時、信仰者は実に彼の認識を超える力を得る。そして、それだけが彼を罪から守り、神に完全に従わせるのであり、そのとき彼は、その身にキリストをまとうことになる。そして、キリストの中に自分を見出し、自分の中にキリストの知恵を見出すのだ。
 「まことに、わたしは、太陽に似て、生と一切の深い海とを愛する。そして、わたしにとっては、認識とはこういうことだ、すなわち、一切の深みをして昇って来させることだ。わたしの高みにまで!」、ツアラトストラは、かく語った。

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教養の国について

 ツアラトストラは、現代人を嘲笑して語る、「わたしの驚いたことには、五十の斑点で顔と手足を色どって、きみたちはそこに座っていたのだ、きみたち現代人たちよ!」と。「いまだかつてわたしの目は、こんなにも色とりどりの斑点があるものを見たことがなかったのだ」と。
 実際、現代には数え切れないほどのキリスト教派が存在する。それらは、いったいどこからやってきたのか。そして何のために。そう、とりわけその存在目的が不可解ではあるのだ。彼らは、「多様性は、良いことだ。それは、神の恵みと哀れみの豊かさを表している」と言う。しかし、それはどちらかというと、教派の個別的な存在意義に関する観測であり、教派が多数あるべきことの説明としては、どうもしっくりこないのである。というのも、どう見ても、現代のキリスト教界は、全体的なまとまりが悪く、多教派の利点よりもマイナス面、例えば、党派心や見解の不一致等による分派の悪影響の方が大きいように思えるのである。
 また、個々の教派を見ても、その内部が必ずしも一致団結しているというわけでもない。むしろ、その教派の特徴としての中心教理自体が空洞化し始めているということもあるのである。つまり、ほとんどの人が教理を正しく理解していないという憂うべき事態があり得るのである。しかし、なぜそうなってしまったのか。その一つの原因は、聖書以外の知識、例えば哲学への依存である。これはたぶん、キリスト教会形成のごく初期の段階から、異端に対抗するために、教理を体系化する必要性から、その認識の基盤に哲学が導入されたのだと考えられる。しかし、キリストも使徒パウロも、そのようなものを使わなかった。原始キリスト教会は、異端への対抗として、哲学を用いなかった。しかし、それだけでなく、現代のクリスチャンは、かつてなかったほどに、多くの新しいもの、すなわち「色とりどりの斑点」を身にまとっているのではないか。論理、慣習、社交、配慮、公平、共同、嗜好、趣味、合意、優越感、欲望、等々、数え切れないほどの非福音的な要素を身につけて、教会と社会を往復しているのではないのだろうか。そして、もしそれらを脱ぎ捨てるようなことがあるなら・・・、ツアラトストラは語る、「わたした、きみたちの裸身をも、衣服をまとった姿をも、見るに耐えないということ、これこそ、じっさいこれこそが、わたしの臓腑にとっての苦痛なのだ、きみら現代人たちよ!」と。
 実際、私たちは、これらの色とりどりの衣を身につけていて、主イエスとの活きた交わりなど、とてもできる状態ではないのである。ああ、私たちは、どこかへか帰らなければならない。かつて、何も余計なものを身にまとっていなかった、あの簡素で清貧な状態へと。そのとき、私たちは、主イエスとの本当の交わりを取り戻すことだろう。そして、それこそが私たちの力であったのであり、それをこそ私たちは、もしかしたら、失ってしまっているのである。
 ツアラトストラは語る、「そうだ、どうしてきみたちは信仰を持ちうるはずがあろう、きみら色とりどりの斑点がある者たちよ!きみたちは、かつて信仰された一切の事柄の絵画なのだ!きみたちは、信仰そのもの、足のある生ける反駁であり、一切の思想の挫傷である。信仰を持つに値しない者たち、このようにわたしはきみたちを呼ぶのだ。きみら現代的な者たちよ!」。ツアラトストラは、かく語った。

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2010/05/25

崇高な者たちについて

 クリスチャンは、一般人の目には、清い人々と映るかも知れない。しかし、この「清い」という表現がときには、多少の軽蔑をも込めて発せられることもあるようだ。それは、むしろ「無垢」という意味に近く、ときには「無知」に近い意味だったり、「無頓着」、「無能」というようにエスカレートしている場合もあるかもしれない。しかし、クリスチャンをそのように見る人は、何をもってそのように思うのだろうか。たぶん、キリスト教の持っている排他性が関係しているように思われるのである。彼らクリスチャンは言う、「すべての人に」と。しかしそのとき、結果的にわずか5%にも満たない人々が対象となっているのであり、そのような狭き門を建てたのが他でもない彼ら自身の教理であることを理解していないのである。そして、それにも関わらず、彼らはそれを「愛」と呼んで譲らないのである。そこにも幾ばくかの真理が宿っていることを認めないわけでもないのだが、彼らに滅ぶべき人々を思って泣く心がどれほどあるのかと問いたくもなるのである。一方、そもそも一般の人々は、この「天国と地獄」という構図に興味さえ持っていないのである。そこでそれを根拠にした福音を語るクリスチャンは、無慈悲かさもなくば無知、無感覚、あるいはKYということにならざるを得ないのである。そして、それに多少なりとも自ら気づいている者は、隠れキリシタン的になったり、そこまでではないにしても、信仰と実践の間の矛盾を気にしながら、伝道については、すべて牧師に任せて、自らは陰のように教会生活を送るというようなことにもなりかねないのである。
 しかしこのように、自らの矛盾の中に甘んじて留まっているクリスチャンは、まだ良い方である。というのは、いくらかのクリスチャンは、あえてこの矛盾を解決しようとするからである。しかしそのためには、教理になにがしかの修正を施さざるを得ない。それを彼らは、「聖書の解釈」とか「適用」と考える。しかし、そのような都合の良い修正を施したものがはたして神の言葉と呼べるだろうか。そして、そこから帰結する、何の犠牲も伴わない行為が信仰から出たものと言えるだろうか。救いの門は広げられ、律法の基準は下げられ、結局のところ、キリストの購いは無用の長物となる。それゆえ彼は、万人が神に近づく道を備えたと思いながら、結果的にらそれを閉ざしたのである。ツアラトストラは語る「彼は怪獣どもを征服し、もろもろの謎を解いた。しかし、彼がさらに、みずからの内部にひそむ怪獣どもや、もろもろの謎をも救済し、それらをさらに天界の子供たちに変化させるというようであってくれたらよいのだが」。
 私たちが目指すべきは、聖書をあれこれと粉ね回すことではない。あるいは、それが崇高なことだと勘違いされてきた傾向があるかもしれないが。私たちが聖書を理解する方法は、ただ一つ、それを生きることである。すべての人間的な配慮と画策とを捨てて。それが、神の前で自らの魂を飾る唯一の方法なのである。「そうだ、きみ、崇高な者よ、きみはさらに、いつの日にか美しくなって、きみ自身の美の前に鏡を置くべきだ。そのとき、きみの魂は、もろもろの神々しい欲望におののくであろう。そして、きみのうぬぼれのなかにすら、崇拝の気持ちがこもっているであろう。というのは、魂の秘密はこうであるからだ。すなわち、彼女(魂)を英雄が見捨てたときに、初めて、夢のなかで、彼女に近づくのだ、超英雄が」、ツアラトストラはかく語った。
 

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