2018/10/30

キリストの苦しみの欠けたところ

 キリストは、全世界の人々のために死なれたと言われ、また、「あなたの罪は、キリストの十字架により、すでに贖われた」とも言われる。でも、長い間疑問に思っていたことがある。世界の人口が、例えば70億人として、キリストが世界の人々の罪をその十字架の死により購ったのだとすれば、私の分は、その70億分の1に過ぎないのではないか。そして、私への神の愛もやはり70億分の1なのではないか。キリストの死は、それだけに値するのだと言われても、やはり数学科を卒業している私には、どうもピンと来なかった。「そんな風に算数的に考えてはいけない」と言われても、やはりどうも計算が合わないように思えたものだった。。
 ところで、使徒パウロは、聖書の中で次のように言っている。
 『今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイ1:24)』
 パウロは、なぜこんなことを書いたのだろうか。キリストの苦しみにどこか足りないところがあったとでも言いたいのだろうか。それとも、自分の功績を自慢したかったのだろうか。
 その理由は、「キリストの苦しみも、贖いも、その量にしてみれば、高々人間一人分だった」からである。
 それでは、なぜその高々一人分の死が私にとって70億分の1とはならないのだろうか。それは、まず、キリストご自身は、その贖いを受ける必要がない。彼には、罪がなかったのだから。だから、その一人分の贖いは、無傷のままであり、誰でも使える状態にある。神がそのように決められたのである。
 そして次に、私がそのキリストの死を自分のためだったと信じるまでは、私の罪は、まだ赦されないままであるということだ。そして、私がキリストの十字架の贖いを信じたとき、そのことに免じて、神は、私の罪を赦してくださるのである。だから、ここでもキリストの一人分の贖いは、使われることはない。それは、私と神様の間のことであり、私はキリストにより、神から直接に赦しを受け取り、神の子とされるのである。
 同じように、キリストにおいて、私は、神から直接に愛されている。キリストを救い主として信じたからである。キリストの十字架において表された神の愛は、私に至って70億分の1になるのではない。神は、キリストの十字架において示された愛で、正に私を新たに愛してくださるのである。つまり、キリストの愛は、神の私への愛の「見本」である。本物は、今神が正に私に対して持っておられる、その愛なのである。
 だからパウロは、あのように言い得たのである。 とりとめのない結論ではあるかも知れないが。
 

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2018/09/25

神の人となるために

 「神の人」と言えば、まず想い出すのは、預言者エリアである。彼は、天から火を降したり、雨を止めたりするようなこと、つまり神にしか行えないようなことを行うことができた。そして、主イエスもそうであった。彼は、嵐を沈めたり、パンを増やしたり、悪霊を追い出したり、病を治したりした。そこで、「神の人となる」と言うと、何か大それたことのように思われるかもしれない。その通り、「大それたこと」である。しかし、このことは、私がずっと神に願い求めてきたことなのである。つまり、主イエスに似た者とされることである。
 そして、私が神に願い求めてきたこととは、「誰でも神の人になれる、そんな方法を教えてください」ということであった。そんな方法があるのだろうか。しかし考えてみて欲しい。主イエスは何と言われたのか。「信じる者には、このような徴が伴う」と言われたのである。それは正に、「誰でも神の人になれる」ということでなくして、何であろう。
 しからば、なぜそれが今日、困難なことのように思えるのだろうか。それは、たぶん、主イエスが地上におられたときと現在では、何か状況が変わってしまったことによるのである。それは、何だろうか。「緊張感」だろうか。確かに、あの時は、教会が生まれようとしていたときであり、神の力の特別な傾注が必要だったのかもしれない。しかし、今は終わりの時代である。その終わりの時代に神は、「私の霊をすべての人に注ぐ」と言われているのである。
 そんな風にして、いろいろ考えていて、一つのことに思い当たった。それは、もしかしたら、私たちに問題があるのではないかということである。というのも、神の側からの恵みは、すでにすべて与えられたと考えられる。主イエスは、十字架上で、「完了した」と言われた。それゆえ、これ以上の恵みが無いのだとすれば、原因は私たちの方にあると考えられるのである。
 それでは、その原因、つまり、私たちが神の人になるのを阻止している原因とは、何なのか。それは、私たちがそのような状態になっていないということである。それでは、「そのような状態」とは何か。それは、「神から恵みを受けるに相応しい状態」ということである。そして、再びそれは、「神がそのように意図された状態」ということである。
 神は、すべての恵みを「御子イエス」により、彼を通して私たちに与えられるのである。そのためには、私たちは、御子に似た者となっている必要がある。そして再び、それは、難しいことではなく、そのようになるための道、方法が完全に与えられているということなのである。
 まず、私たちにできることとして、毎日聖書を読み、み言葉を心に蓄えることである。次に、毎朝起きたら、まず神を礼拝することである。なぜなら、そのような人こそが、神の恵みを受けるに相応しい人であり、主イエスご自身がそのように生きられたと思われるからである。それから、言葉を軽率に使わないこと。主イエスの語った言葉は、すべて成就したのであり、神の人にとって、言葉とはそのようなものだからである。それから、神に完全に信頼を置くこと、貧しい人、苦難の中にある人を思いやり、彼らのために祈ること。等々である。
 しかし、問題は、これらのことを一日どれだけの時間、どのようにミックスして行えば良いのか。また、時間的な配分や目的別の実施方法等々であり、つまり、神が最初にどのように意図され、今日においてもどのように意図されているのかということである。これらを、聖書のみ言葉に即して、戦略的に配合、実施しなければならない。そしてそれは、難しいことではなく、誰にでもできることであるはずなのである。ただ、歴史の中で、それがどのようにしてだか分からないが、困難な道に変質されてしまった。この道における恵みと励ましに関する洞察が掻き消され、変わりに賜物への根拠のない願望だけが強調されるようになってしまった。それはきっと悪魔の仕業に違いない。
 実際、まったく、とりとめのない話なのだが。。。

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2018/08/29

神の怒り

 「キリスト教の神は、愛の神であり、天の父は、私たちをねたむほどに愛しておられる。」とは、信仰生活において良く聞く話である。しかし、新約聖書においても、「神の怒り」という言葉は、何度も出てくる。例えば、
 『御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。』 ヨハネ3:35
 『わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。』 ローマ5:9
 等々である。つまり、神様は、新約の時代になったからと言って、もはや怒らないのではなく、今も昔とまったく同じように怒っておられるのであり、その怒りから私たちを救ってくれるのがキリストなのである。
 旧約と新約の違いは、この「キリストが有るか、無いか」ということであり、その他は、まったく変わらないのである。キリストという覆いが取り除けられた私たちが神のみ前に立ったら、それこそ大変なことになり、私たちは、一瞬にして、死の裁きを受けてしまうだろう。
 しかし、旧約の時代においては、罪の赦しのための贖いの儀式があった。今でもそれを行えば、私たちの犯す罪は、赦されるのであろうか。多分そうに違いない。しかしそれには、レビ記に書いてあるような、もろもろの前提条件を整えておく必要があるだろう。そして、今日においては、それはとても不可能であろう。だからこそキリストという贖いが必要なのであり、さらにそれは、単に旧約の「罪の贖いの儀式」の代わりではなく、ただ一度捧げられた、永遠なる完全な贖いなのである。
 実は、これからが本当に言いたいことなのだが、つまり、旧約の律法は、現在も生きていて有効であるということである。主イエスは、『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。』と言われた。この「完成」とは、どういう意味であろうか。それは、肉から心への適用により、律法本来の目的が完遂されるということである。
 主イエスは、『あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』と言われる。旧約では、未だ罪とされないことが、新約ではすでに罪を犯したとされるのであり、新約の律法は旧約より厳しいのである。それが心に適用されるからである。
 そこで、良く考えていただきたい。今日においては、私たちの心こそが聖霊の住まいされる神の宮であるということを。その心の宮に、思い煩いや憎しみ、恐れ等々が一瞬でも生じたら、それがどれだけ、神の心を悲しませ、神の怒りを招くのかということをである。神殿とは、旧約において、神に犠牲を捧げ、神を賛美し、礼拝する場所であり、ましてその前で不平不満を言う場所ではない。そこには、思い煩いや恐れ、憎しみ等々が微塵もあってはならないのである。しかし、実際問題として、そのようなことがあるとすれば、まさにそれが、現代を生きる私たちが、神の栄光をめったに見られないことの理由なのである。
 つまり、キリストの贖いは、100%働いている。そしてキリストは、パウロが言うように、私たちを垂れ幕の後ろの至聖所まで導きいれ、神の圧倒的な臨在の中に入れる道を開いてくださった。
 『それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。』 ヘブル10:19~20
 しかし、私たちの心の神殿に、まだ恐れや不満が少しでも残っているような状態ならば、それにより神の怒りが臨み、むろんその怒りからは、キリストの贖いにより、100%守られるのだが、しかし、まさにそのことのゆえに、神のご臨在が私たちを通して輝き出るということはないのである。
 そこで、もし私たちが、自分の心を神の宮と宣言し、そのように信じ、そこに聖霊をお招きし、そこを旧約聖書の神殿のようにして、神を崇め、褒め称え、神がこれから行おうとしておられるご計画の賢さ、すばらしさを期待し、賞賛し、神を祝福するなら、神の臨在の雲が私たちの心の宮を包み、そのご栄光が私たちの人生に、目に見える形で現れることが期待できることを確信するものである。
 この話が、これを読む方にとって、とりとめのないものでないことを祈るしかないのだが。

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2018/08/22

この先の人生

 私の見た夢で、不思議に現実になっていることが二つある。その一つは、私が持っているクラシックギターで、これは、かつて夢に見たものと本当に瓜二つであり、それが偶然に手に入り、今も私の最愛の楽器なのである。もう一つは、バイクである。これもあるとき夢に見たのだが、そのときは、免許も無かったし、自分がバイクに乗るなんてことは、まったく思いもよらなかった。でも、その夢に出てきたのと同じバイクが今目の前にあり、毎日乗っているのである。そんな訳なのか、そうでもないのか分からないが、ある預言者が私に、「あなたは、ヨセフ・ダニエル・ビジネスマン。」という預言をしたことがあり、その預言が私の人生を変えてしまった。
 それと、ちょっと関係あるかも知れないのだが、あれはもう、15年以上前だと思うのだが、神様に本気でお願いしたことがあった。それは、「私の人生が、もはや、私の自由ではなくなって、神様によってがんじがらめにされ、半強制的に導かれ、神様の栄光を現すために存在するようになること」であった。私が憧れていたのは、旧約聖書の預言者たちの人生であった。そして、今、それが実現していると実感している。
 定年後に、自分の住む街に入り込んで伝道したいと思い、技術事務所を開設し、いろいろな人と関係を持ちながら、街の色々なことが分かってきた。そして3年後に別の会社を立ち上げた。でもその会社は、全然自分の願いではなかった。2つも事業ができるわけがない。もう若くないし、できればやめたかった。でもそうならざるを得なかった。そして、今は、髪の毛が抜けそうに大変であり、この状況から逃げることはできない。しかし、それと同時に、また一方で大きな可能性が開かれてきていることを感じている。私の人生は、もはやがんじがらめにされているのである。神様は、私の人生に目的を持っておられると強く感じる。そしてこの、設立以来延々と続く自転車操業の会社が神様のご計画であり、神様がこれを用いて、私の街に影響を与えようとしておられることを確信するようになった。
 そして、次に目指している「この先の人生」なのだが、それは、本当にすばらしい人生なのである。それは、一言で言えば、「イエス・キリストを生きる人生」ということだ。つまり、主イエスが、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」と言っているが、そのような人生である。
 独立してから今まで、本当に大変だったので、そして、がんじがらめのように感じていたので、何か神様のことを恐ろしいような、怖いような、厳格なような、そんな風に感じるようになってきてしまった。でも、ビル・ジョンソンがコリント書から「主に向くなら、覆いは取り除けられる」とのメッセージを語っていたのを聞き、私は、「神の愛」と「神を愛すること」を忘れていたと思い至った。彼は、「私は、常にたった一人のためだけに演奏する」と言った。人生をである。今こそ、私は神様との「愛の関係」をもう一度取り戻さなければならない。神様にすべてを委ね、あらゆる心配を払拭し、神様が示したことだけを行い、それ以上に出ないことを学ぶ必要がある。そのとき、このがんじがらめの人生から再び開放され、真の自由を体験することができるだろう。それが、私の人生の究極的な目的なのである。

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2018/08/18

悪魔との戦い

 悪魔は、目に見えないので、悪魔と戦うのは、天使たちだけだと以前は思っていた。でも、信仰の友人や有能な働き人たち、また彼らの家族たちが突然の不幸や堕罪に見舞われるのを見て、これは偶然ではないと思うようになった。悪魔が彼らを罠に掛けたり誘惑したりしていると思われるのである。つまり、現代においては、私たちの心こそが神の宮であり、神との唯一の接点であり、私たちの外に神はおられない。そして、悪魔との接点があるとすれば、それは私たちの外の世界なのである。
 私たち夫婦も、私の定年と同時に街への伝道のために事業を始めようとしていた矢先に、正面衝突の事故に見舞われた。私たちの乗った車は、反対車線の歩道の縁石を乗り超えるまでに弾き飛ばされ、大破し、家内は背骨と肋骨を折る大怪我をしたが、私は幸いかすり傷で済んだ。思えば、そのとき家内は、教会の伝道委員長に選ばれていたのであった。警察の裁定によれば、事故はセンターラインオーバーの相手が100%悪いということだったが、彼は保険に入っておらず、どこかへ逃走してしまった。でも、私たちは結局、その事故から何の害も受けなかった。経済的にも、肉体的にも、何の後遺症もなかった。あのとき不思議と、二人とも神を賛美し、感謝が耐えなかった。私たちは、事故の相手への責任追及を公的に放棄した。神の愛を疑うことは微塵も無かったのであった。それが神の恵みであり、守りであり、またあの事故が悪魔から来たことの証拠だと思う。
 言いたいことは、私たちは、この世界で悪魔と戦っている、いや戦わなければならないということである。たとえ悪魔が目に見えなくても。
 あのとき私たち夫婦が、自分たちのしようとしていることが悪魔に与える影響について、もっと考察できていたら、そして、悪魔の罠に備えて対抗し、注意を深めていたなら、あの事故から守られただろうか。それは、なかなか判断が難しいことかも知れないが、というのも、あれから私たちは、正面衝突事故は、決して防げないということを実感したからだ。でも、あの場所をあと5秒でも遅く通っていたら、事故にはならなかった。その5秒は、私たちが祈りを一つ多く捧げることにより、生み出されていたのかも知れない。悪魔との戦いは、霊的な戦いなのである。

 カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった。(士師記3章1~2節)

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2018/07/31

人は、どう生きるべきか

 もうかなり以前のことだが、朝会社へ行くために玄関を出るとき、左右のどちらの足から踏み出そうかと本気で考えていたことがある。それがもし、神様の意図されていることだと確認できることなら、喜んでそれをしようと思っていた。こんなことを言うと、とても愚かに思われるかも知れない。しかし、愚かか賢いかということは、そのころの私にとってどうでも良いことだった。そして今もそうなのである。
 もう一つ前置きの話をしよう。それは、ある教団の全体集会のときだったのだが、講壇に立っている牧師が、自分の教会のある役員のことを持ち出して、講壇の上から批判したのである。それは、その役員の次のような言葉に対するものであった。彼は、「私は、信仰に立つ限り、すべての信徒は、同じ考え、生き方をするようになると思います。」と語ったというのであり、それを取り上げて、彼の考えが、非常に愚かであるかのように語ったのである。
 上の2つの前置きによって私が言いたいことは、つまり、私のような人間は、ある牧師にとっては、我慢がならない信徒であり、そのような考えは、徹底的に批判され、誤りと断定されなければ気がすまないようなものだということである。なぜか、それは、もし仮に、私のような考え方が正しいとすれば、かの牧師も含めたすべての人の生き方が少なからず、本質的な影響を受けざるを得ないということなのである。
 さらに私が言いたいことは、驚くべきことに、上記のように考えない牧師も存在するらしいということである。それが事実だとすれば、神の言葉を取り次ぐ牧師という人たちの中に、大きく2つの分派が存在するらしいということである。つまり、すべての人が信仰において、同じ考え、同じ生き方をすべきと考える人とそうでない人である。
 と、実は、ここまでが話の前置きである。私がかの牧師の話をしたのは、彼を批判するためではなく、人間は、牧師という崇高な人々も含めて、まったく異なる2つの考え方に分かれざるを得ないということが言いたかったのである。
 さあ、これからが本論なのだが、私は、かの役員と同じ考えに立つ。つまり、朝玄関をどちらの足から踏み出した方が神の御心に適っているかということがはっきりしたなら、それからの人生は、その方の足から玄関を出る生活を続けていくだろう。そして、それは、私の喜びとなるだろう。私の確信は、次のことである。つまり、この短い人生の中に、誰にも侵害されないものを自分だけのために、いつも残しておきたいと思うことの代わりに、すべてを神に捧げ、どんな機会にも、神に喜ばれることだけを求め、自分さえも神の御心のままに果てしなく変わって行きたいと願う人は、きっと私と同じように考えるだろうということである。
 もし、これを読んでいるあなたも、賛同してくださるならば、朝目を覚ましたときに、まず願うことは、そのときにまず読むべき御言葉があれば、それを教えて欲しいということに違いない。というのは、私の一日がそのときから始まるのであり、私はそのとき、まだ次に何をすべきかを知らないからである。そして、それを教えてくれるような御言葉を願い求めるのである。それは、いつも同じ御言葉かもしれないし、そうでないかも知れない。いずれにしても、それは、すべてを考える上で、もっとも大元となる御言葉であるべきだろう。その目的は、私がイエス・キリストによって、すでに神の子とされていることの確認に導くものなのだろうか。それとも、全能の神が天地を創造し、今も統治しておられることを告白することなのだろうか。その他、どのような目的のための御言葉が必要で、それはいったい聖書のどこなのか。そういうことがすべて整わなければ、私は、かの役員が言っていたように、同じ考え、同じ生き方を実践することが難しいとも思われるだが、それでも、それを追い求めなければならないと思うのである。それが、心の祭壇を築くということではないだろうか。実際、とりとめもない話なのだが。

 「私は決して、わが家の天幕にはいりません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」 詩篇 132:3~5

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2018/05/24

パカッ聖書

 これは、私の発明である。
 どういうのかと言うと、つまり、聖書をパカっと2つに割って、それぞれに名前をつけるということである。それでは、やってみよう。
 聖書をパカっと割ると、まず旧約聖書、そして新約聖書となると思うだろう。その通りである。しかし、それだけでは終わらない。それぞれに名前をつけなければならないのだ。そこで、旧約聖書に、「神の民の出現」と付け、新約聖書には、「あなたが神の民です」と付けるのは、何だか我ながら、「やったー」と言えるようなことに思える。
 今度は、旧約聖書をパカっと割ると、第一にモーセ五書、そして、それ以外となる。そしてモーセ五書には、「神の民の形成」、それ以外には、「神の民への約束」と付ける。モーセ五書をパカっと割ると、創世記とそれ以外となり、創世記は、「神の民の誕生」、それ以外は、「神の民の歴史」となる。モーセ五書に対する「それ以外」をパカっと割ると、ヨシュア記とそれ以外となる。そして、ヨシュア記には、「約束の実現」、それ以外には、「契約の破綻」と付ける。
 モーセ五書の創世記以外をパカっと割ると、出エジプト記とそれ以外となる。この場合、出エジプト記には、「奴隷からの解放」、それ以外には「神との契約」と付ける。この「それ以外」をパカっと割ると、レビ記とそれ以外となる。そしてレビ記は、「契約の内容」、それ以外は、「契約の施行」となる。この「それ以外」をパカっと割ると、民数記と申命記となり、民数記は、「契約の締結」、申命記は、「契約の警告」とする。
 まあ、こんな風に各書に辿り着くまで、次々にパカっと割って、それぞれに名前を付けて行くのである。
 これのどういうところが良いかというと、聖書を自分なりに理解し、頭の中に収めることができることである。そして、全体的な部分から個々の書へ降りて行くときに、ぱかっと2つに割って理解することにより、それまでの上位の分割と命名の妥当性が再度問い直されて、より全体の理解が深まるのである。
 こういう訓練をすることにより、聖書のどの書を読むにしても、ただ漫然と読み進むのではなく、自分が聖書全体の今どの部分を読んでいるのであり、それを全体の中でどのように受け取るべきか、また、どの部分をどのように味わうべきかを更に考えることができるようになるだろう。
 そして、聖書がそれを読む人にとって、本当の宝物となることを期待するものである。多少とりとめのない話かもしれないのだが。

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2017/12/09

偶像崇拝について

 偶像とは、「人間がそれ自体が良いと想定したもの」と定義することができると思う。しかし、イエス・キリストが「良い方は、父なる神以外にいない」と言っておられることから、良いものは、天から、光の父から降ってきたもの以外にはない。そこで人が、そのようなもの以外を「それ自体が良いもの」と想定するならば、それはすなわち「偶像」となる。
 この定義によれば、例えば芸術は偶像であり得る。また、科学は偶像であり得る。つまり、それがどのように私たちのこの世の幸福につながり、文化的な生活にとって必須のものであろうとも、それが「それ自体で良いものであり得る」と想定されるならば、それは偶像であり、人を神から引き離し、苦難へ誘うものとさえなるのである。
 そこで、もし自分の心の中から偶像を取り除きたいと願うなら、その人は、まず何をおいても、神の前に跪き、ひれ伏さなければならない。つまり、偶像崇拝を排除するには、その全く反対である、真の神を礼拝することが必要なのであり、全ての回復は、そこから始まるのである。ただそのことこそが、彼の持っている知識や財産、教訓や悟り、それらの全てを神の元へ奪還し、彼の心の宮から偶像を運び出すことに貢献するのである。イエス・キリストは、そのために縄の鞭を使われた。彼は、宮で商売している人々に優しく取り入ろうとはされなかった。ただ彼らを激しい憤りにより、追い出されたのである。だから、私たちも自分の心の宮において、そのように振る舞わなければならない。それ以外の方法で、偶像を追い出すことはできないのである。
 私たちは、自分の心から偶像が運び出された後の精神の宮たる心の状態を想像することは難しい。それは、私たちの思いを遥かに超えている。それは、私たちが創造し得るものではなく、神たる主イエス・キリストが創造されるものであり、主ご自身ですらあるとも言える。だから、それは私たちに属するものではなく、それでいて私たち自身でもあるのである。

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2017/10/06

誰も教えてくれなかったこと

 クリスチャンとして、もう30年以上も生きてきたけど、いままで誰も教えてくれなかったことがある。それは、一言で言えば、神様の前で何が正しく、何が正しくないのかということだ。
 聖書には、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」と言われている。それなのに例えば、何か偉業を成し遂げた人を大いに賞賛したり、音楽、絵画等の芸術をことさら価値或るものと位置づけたりということが良いこととされている。しかし、良く考えてみれば、そのようなことは結局、人の思いを神から引き離すことになる。だから、例え人を褒めるようなことがあったとしても、最終的にはその人を創造され、育ててこられた神が褒め称えられる必要がある。
 しかし、この世界で、一々そのような究極的な賞賛を行っているわけには実際は行かない。すべての人がクリスチャンではなく、むしろノンクリスチャンの方が圧倒的に多いのだから、彼らに対して、「あなたがすばらしいんじゃなくて、本当はあなたを造られた神がすばらしいんだよ」なんて言っていたら、偏屈な人間と思われてしまうだろう。
 そこで、ノンクリスチャンの手前、外面上は人を褒め、心の中では神を褒めるというような妥協的な対応に終始してしまうことになる。学問や芸術なんかについて言及するときにも、同じようなことになってしまう。牧師でさえ、教会員の中には、様々な信仰暦の人がいたり、求道者がいたりすることを考慮すると、上記のような対応にならざるを得ないのだろう。
 そこで、求道者や信仰暦の浅い信者たちは、それが本当のことだと思い込んでしまう。私もその一人だった。そして、この世界が罪に満ちていることを忘れ、この世界が何かすばらしいもので満ちているように思ってしまい、神を求めることを忘れ、この世のものを求めながら一生を過ごすことになってしまうのである。
 しかし真実は、この世界には、何一つ益となるものはなく、それは聖書のみことばの中にだけある。例え、自分を犠牲にして他人の命を救うような献身的な行為にしても、それが、その人自身が褒め称えられるような結果を招くならば、そのことは益とはならないのである。
 大切なことは何かというと、この世界の事柄から目を転じて、神のことがらへ集中することであり、そこにこそすべての良いことがあるのである。その本当に良いものをこの世界に現すのが教会の役目だと思うのだが、上記のような状況では、一般人が神を知ることができないのも無理のないことだろう。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。それは、教会の中に改革を起こすことである。この「改革」とはなにか。それは、真のクリスチャンを見つけて、その人たちと真実な礼拝、真実な交わりを実践することである。そこに現されるのは、文字通り真実であり、そこでは神のみが崇められ、褒め称えられ、そこに神の栄光が現されるなら、世の人もきっとそのすばらしさに気付くことがあるに違いないと思うのである。

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2017/09/07

宣教とは、なにか。。

 宣教は、戦いである。それも、全世界的な、宇宙を総動員した戦いである。そしてその目的は、この世界を神の下に奪回することである。被造物の頂点に位置するのが、神に象って造られた人間であるために、宣教活動の中心が福音を宣べ伝えることとなっているのではあるが、その最終目的は、そのことを通して、この世界のすべてが神の元に奪回されることなのである。
 そこで、まずはっきりさせておかなければならないのは、この場合の奪回とは何か、ということであろう。しかしながら、今日の宣教の状況から見て、これをはっきりさせることは容易なことではないと多くの人が考えるに違いない。そこでまず、そのことに関する私個人の考えが提示されなければならないだろう。
 私の考えを一言で言えば、「神の前にすべてのものが跪く」ということである。そう、まるでカルト教団か世界制覇を目論む独裁国家のようにである。というようなことを言うと、たぶん多くの人が異論を唱えることだろう。「それは、行き過ぎだ。それでは、愛も哀れみもない。」と。しかし、聖書のどこにそのようなことが言われているだろうか。終末論、千年王国、最後の審判、そのような最終的な歴史の結末に関する聖書の記述からすると、上の私の考えもそれほど外れてはいないとも思われるのである。そもそも、アブラハムその子がイサクを生け贄として捧げようとしたことも、律法における、神への冒涜に対する石打ちの刑等の厳しい裁き等々、聖書の中にそのような「絶対服従」の精神を読み取るのが自然ではないだろうか。
 それでは、なぜ多くの人が、この「絶対服従体制」について、「行き過ぎ」と考えるのだろうか。それは、この世界に「絶対服従体制」というか「絶対服従国家」の良い事例が皆無であり、あるのは人々に恐怖や嫌悪感を抱かせるような悪い事例しかないということによるのだと思う。それも仕方ないことだろう。この世界は「罪」の元に売られているからである。いったいこの世界には、悪魔が考え出した多くの偽物が氾濫している。上述の「国家」、「宗教」、「科学」、「芸術」、「学問」等々、それらの目的が神ではなく、この世界のものになってしまっている。
 しかし、偽札があれば本物の札が存在するように、偽の「絶対服従国家」があるのは、真の「絶対服従国家」が存在することを示している。そしてそれが、「神の国」なのである。
 そこでは、神への冒涜は無論「死」を意味するのだが、それは同時にまた無意味なことでもある。つまり、神は冒涜されるべきお方ではない。それゆえ、そのことに対する代価としての「死」も現実的なものではなく、神に対しては、賞賛だけが現実的なものである。神においては、「栄光」、「誉れ」その他、あらゆる良いことだけが存在するのである。
 このような話をしたのは、上記のこと。つまり「世界における神への絶対服従の確立」ということがすなわち宣教ということであり、そのことが宣教の鍵だと私は信じるからである。つまり、それ以下のことは、宣教ではなく、甚だしくは、宣教を妨害するものですらあるということである。
 というのも、神に絶対服従しないならば、その服従していない部分で一体何をするのだろうか。「自分を楽しませること」、「他人を楽しませること」等々ではないだろうか。しかし、「キリストでさえ、ご自身を楽しませることはなさらなかった」のである。私たちが人生で楽しむことがあるとすれば、それは「神が与えてくださったものを感謝して受ける」ことなのである。そして、それは私たちの人生を大いに豊かにする。「数えてみよ、主の恵み」、実にそれは十分にたくさんあるものであり、それだけあれば、私たちは、他に何がなくとも最高の人生を味わうことができるのである。反対に、神が与えておられないものを自分の力で勝ち取ろうとすれば、それは苦い人生と成り果てるであろう。
 そこで最後に再び、「宣教」とは何かということに話を戻そう。
 宣教とは、すなわち、私たちの生活を通して、「神への絶対服従体制」あるいは「神への絶対服従国家」の実例を提示することであり、その麗しさ、美しさ、広さ、高さ、深さを様々な形で、--そのもっとも典型的なものは、「主イエス・キリストの福音」なのであるが--、世の人に伝え、彼らをして神の元に奪回し、最終的にこの宇宙の全てを神の下に奪回することなのである。

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