2013/12/12

キリスト教の真理というもの

 キリスト教が信じられないという人が良く口にすることの一つに、「愛の神が人を地獄に落とすはずがない」ということがある。しかし聖書には、死後裁きがあるということが書いてあるし、特に旧約聖書において、神に裁かれて、死に追い込まれたような事例がたくさん見受けられる。そして、クリスチャンは、それらを文字通り信じていながら、「神は愛です」としゃあしゃあと言ってのける。いったいどうして、そのようなことが可能なのだろうか。これは、並みの精神の人には、決して理解できないことだと思うのだが。クリスチャンと公言し、このようなことに少しも疑問を持たない方々は、文字通り、洗脳されていると言われても仕方がないのではないだろうか。
 いったい、全能の神が、どうしてあのような旧約聖書の悲惨な歴史を演出されたのか。それ以外に方法がなかったのだろうか。そうとしか考えられない。かのキルケゴールが言ったように、「全能の神にも、おできにならないことがあるのだ」。それは、「躓きの可能性を取り除けること」。神は、人をご自身の姿に創造された。神よりもわずかに劣るものとして。それゆえに、人の心を変えること、特に、ご自身を信じさせること、これこそが神にとってもっとも難しいことなのだろう。悪魔は、人の心を誘惑して、神から遠ざけようとする。それが可能なのは、それが割りと簡単なことだからである。まして、悪魔には、人を神に導くことなど不可能である。それがもっとも難しいことだからである。それは、神のみに可能なのであるが、それにしても、神にとっても非常に難しいことなのだ。神が人をご自身の姿に似せて、ご自身に等しく造られたからであり、それゆえに、神は、人の魂をねたむほどに慕っていらっしゃるのである。
 聖書の中に、神が感情を持っているように書かれている部分がある。実際、神は怒られたり、憤られたり、悲しまれたり、後悔されたり、思い直されたり、まったく、気の短い老人のように振舞われている。それを読むとき、「これって、本当に全能の神様なのだろうか」と疑いたくなることがある。しかし、聖書に書かれていることを真理とするならば、その理由は唯一つ、神にとっても困難なことがあるということであり、それこそが、人の心に関わることなのである。そして、その神の姿に造られた人間にとって、難しいことは、他にもたくさんある。例えば、「天国に入ること」。イエス様は、人が天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通ることの方が簡単だと言われた。パウロも、「それには、人は多くの苦難を経なければならない」と言っている。つまり、それは、ただ漫然と待っていて実現するものではなく、人が自ら「戦い取る」、「奪い取る」必要があるもの、どうしてもそうでなければならないものなのである。というのも、それは、神に等しく創造された人間の心に関することだからである。ちょうどイエス様が、「天国は激しく襲われている」と言われたように。たとえ、主イエスが十字架ですべての贖いを完了し、彼を信じる人すべてに天国が保障されたとしても、それが「戦い取る」、「奪い取る」性質のものであることに変わりはない。なぜ、人生において人は、様々な困難に遭遇するのか。それは、何のためなのか。その結果は、何なのか。人生を真剣に生きている人こそが、幸福は勝ちとるものだということを理解するのであり、旧約聖書の約束の地の奪還の歴史は、まさにそのことを表わしているのである。そして神には、そんな人間を助けることが難しかったのである。それからそれから、難しいものと言えば、「信じること」、「赦すこと」、「愛すること」、等々、神にとっては、人にそれらの意味を教えることも、それらを人に体得させることも、共に非常に難しいことなのである。そして、それを実現するために、神は、旧約聖書の歴史を演出されたのであり、またそのようにして、新約聖書における宣教史を導かれるのである。パウロが言っているように、私たちは、「キリストの苦しみのなお足りない部分を自分の体をもって補わ」なければならない。神は、人間を用いて、人類の救いの計画を実現されるのであり、それは、私たちを通してしか実現しないのである。
 以上のことが、キリスト教の一つ高い真理であり、聖書によれば、さらに高い真理がある。そしてまた、さらに高い真理があるのであり、私たちは、その達し得たところに従って、信じ、従い続けるしかないのだろう。本当に、とりとめのない話だが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013/08/19

信仰の到達点とは?

 『分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな』とは、一休禅師の作と伝えられる道歌だそうである。宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いているという。しかし私は、これをキリスト教諸派に適用してみたいと思う。キリスト教の中に、たくさんの教派があることは、たぶん良いことなのだと思っている。しかし、それらは、一つのことを目指しているに違いないと思う。それは、一言で言えば、「キリスト」である。しかし、こう言っただけでは、何の解決にもならない。ここで考えたいのは、どうやってそこへ到達するのかということと、到達点としてのキリストとは、いったい何なのかということである。
 私は、日本キリスト教団で洗礼を受け、その中の改革長老派の教会で育ち、現在はウェスレイ派の教会に席を置き、カリスマ派のビジネスマンフェローシップに属している。その間、信仰の成長を目指して、さまざまな追及や体験をしてきた。その中で、一番インパクトがあったのは、聖霊のバプテスマを受け、異言を語り始めたことである。
 異言は、一つの神体験だと思う。それは、自分では考えつかない言葉であり、そもそも考えて語っているのではなく、その暇もないうちに口から出る言葉で、これは、聖霊が語らせてくださっていると言われている。これは、私が知っているどんな敬虔な祈りよりも、なおいっそう私を神に近づけるように思える。そこには、何も自分の考えを入れる余地がない。しかし、語っているのは、私であり、いつでも語るのをやめることができ、また再び語り出すことができる。今日は、調子が悪いから語れないということは決してない。いつでも私が語りたいときに語ることができるのだが、私が考えて語るのではなく、ある衝動によって自動的に語っているのである。異言そのものは、静かなものから時には激しいリズムとダイナミックスを伴うものまで様々で、その衝動も必ずしも激しいものではなく、無音の静けさの中にいるとさえ思われることもある。その言葉は、いつも違っていて、二度と同じことを語ることができないが、また同時に、同じ言葉が再び、何度も口から出てくることもある。この現象の中に、神秘的な神体験のすべてが含まれているように思う。それは、私にとって一つの奇跡であり、その意味では、私はいつでも神の奇跡を体験することができる。
 異言を語り出してから、私の信仰生活が根底から変わってしまった。まず、聖書が愛おしくてたまらなくなり、おもわず両腕で抱きしめたこともある。どこを読んでも、深い感動があり、いままで分からなかった意味が、自分のことのように理解できるようになり、もはや誰からも教えてもらう必要がないし、信仰書等も不要になった。それまでは、決して読もうと思わなかったレビ記を涙を拭きながら読むようになった。そして、聖書のどこにもキリストご自身が記されていることが、つまり、聖書は神の言葉、キリストであることが分かった。だから、異言は私にとって奇跡であり、このことにより、少なくとも自分自身に対しては、私は神を知っているとさえ言える。賛美が神への捧げものになった。神を畏れるということが、これまでとはまったく異なる意味を持つようになった。神の主権と裁きと愛が矛盾しないものであることが分かった。そして、これらのことは、カリスマ派以外の教派からは、提供されなかったものである。少なくとも、それまでは、愛の証しに神様から靴をもらうなどという個人的な経験をしたことはなかった。家庭の中で、奇跡的な癒しなども起こらなかった。そういう意味では、私の信仰は、本質的にはカリスマ派なのだろう。そして、自分では、この個人的な神体験は、ほんの入口だと思っている。私がその気になれば、そのように行動すれば、圧倒的な神体験が、手の届くところにあると信じられる。それは、私がそれを行うかどうか、自分の生活に、もう一段高い祭壇を築けるかどうかに掛かっているのであり、それは、決して困難なことではなく、すべてが私個人に掛かっているのである。
 それでは、それらのことの到達点は、どこに向かっているのだろうか。それは、それは、神のことば聖書である。私は、遠藤周作の「沈黙」という作品を読んで、これを理解し、そのことをこのブログの記事にも書いた。再度、信仰の到達点が神のことば聖書であるということは、どういうことかと言うと、私の場合には、上記の個人的な神体験がすべて無に帰するということなのである。つまり、そのような神体験を前提とせずに、神のことば聖書を文字通り信じるということであり、それがすべてになるということであり、上記のような私の個人的な神体験は、すべてそのための通過点、助け、ステップに過ぎないということなのである。そのとき、私が神のことば聖書を信じるのは、何かの体験によるのでも、ある信頼できる人から教えられたからでも、ある権威ある書に薦められているからでもなく、理由などは何もないのである。そのとき、私は、一人の狂信者であり、それ以外の者ではない。それが、信仰の父アブラハムの足跡を踏む者なのである。かつてアブラハムほどの狂信者がいただろうか。自分の一人子を生贄にするとは、そして、父なる神もそのようなお方なのである。そして、それは、私たちもそのようになるためなのである。そして、そして、・・・・・・・。すべての教派の到達点も、やはりそこにしかないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/06/27

聖霊のバプテスマについて

 聖霊のバプテスマは、主にカリスマ派と言われる教派において、信仰生活の重要な要素となっている。それは、通常、異言を伴うものである。しかし、聖霊派と呼ばれる教派の中にも、異言を除外する派もあるようであり、さらに福音派、リベラル派に至っては、聖霊のバプテスマという概念自体を否定することも少なくないようである。そこで、ここでは、聖霊のバプテスマとは、どのようなものかをとりとめもなく考えてみた。

 まず、水のバプテスマ(洗礼)と聖霊のバプテスマとの関係であるが、それらが同時に与えられるとする説と、それは別々に与えられるとする説があるようだが、以下の聖書の記事を読む限り、別々に与えられるということが明確である。

 「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒 8:16~17)

 「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(使徒 19:2~6)

 つまり、いずれの場合も、水の洗礼の後に、手を置くことにより、聖霊のバプテスマを受けている。そこで、聖霊のバプテスマが水のバプテスマや決心または信仰告白と同時に与えられるとする説は、聖書の記述を無視した勝手な解釈と言えよう。

 次に、聖霊のバプテスマと異言との関係であるが、聖霊のバプテスマには、必ず異言が伴うとする考えと必ずしも伴わないとする説があるが、聖書の次の記述からすると、必ず伴うとするのが自然のように思われる。

 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。(使徒 10:45~46)

 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(使徒 19:5~6)

 しかし、聖書の次の記述は、これを必ずしも支持しない。

 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。(第一コリント 12:30)

 そこで、「異言を語ること」は、聖霊のバプテスマを受けた徴となるけれども、異言を語らなくても、聖霊のバプテスマを受けていることは有り得ると考えられる。

それでは、異言を語ることは、どのような意義を持つのであろうか。それについては、以下の聖書の記事が参考になる。

 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。(第一コリント 12:10)

 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。 ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。(第一コリント14:2~4)

 これらのことから、異言は、自分の徳を高めるためのものであることが分かる。つまりそれは、祈りやデボーションと同様に重要なものなのである。預言については、ここでは言及しないが、聖書をどのように解釈しても、異言が無用なものであるとは言えないことが分かる。返って、次のように書かれている。

 それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。(第一コリント 14:39)

 しかし、異言を語ることを許すときに、同時に秩序への配慮も必要であることが言われている。

 ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。(第一コリント 14:23)

 そこで、少なくない数の教派において、異言の存在を否定または無視するか、それを語ることを禁じているという実態がある。実際、教会で異言を語ることを許せば、それにまつわる多くのことに配慮する必要がある。パウロが言っている次のようなことである。

 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。(第一コリント 14:26~30)

 しかし、それにも関わらず、パウロは、異言や預言を教会の中で禁じているのではなく、返ってそれを語ることを奨励しているのである。そこで、教会もそれを禁じてはならないばかりか、返って奨励しなければならないと言えるだろう。そして、その結果として生じてくる、面倒な状況に対応しなければならない。そういう努力をして、なおあり余るほどの祝福がそこにあるのである。さらに、それらは、神からの賜物であるゆえに、それを軽んじるものは、それを与えられた神ご自身を軽んじることにもなるのである。

 最後に、他の霊的体験との関係であるが、一般にきよめ派と呼ばれる派には、「聖化」とか「きよめ」とか呼ばれる体験がある。これは、聖霊のバプテスマとどのような関係にあるのだろうか。私の考えは、それらは、同じものであるということである。その理由は、聖霊のバプテスマは、聖書に記された、れっきとした事実であり、神からの尊い賜物である。そして、「聖化」とか「きよめ」という霊的体験は、聖書に明示的には記されていない。それを教職者に質問してみたところ、ギリシャ語で新約聖書を読むと、ギリシャ語独特の言葉の時制により、そのような教義が導き出せるとのことであった。つまり、日本語の聖書を読んでいても、それが書かれていることが分からないのである。もちろん、次のような聖書の箇所は、日本語の聖書においても目に付く。

 イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ記 19:2)

 しかし、これは霊的な体験ではなく、神の戒めである。それに対して、「聖化」とか「きよめ」と言われる体験は、それが起こったことが客観的に分かるような実際の体験なのである。そこで、仮にそのようなものが実在するとしたら、それらは、「一つのもの」でなければならないと私は信ずるものである。それが、いくつもあっては、紛らわしくて仕方がないし、神が唯一の神である限り、その神への接近としての、信仰の根幹たる霊的体験が何種類もあるというようなことは、どう考えても有り得ないことであろう。つまり、それらは同じものである。そして、聖霊のバプテスマがすでに聖書に明確に記されている、実在する霊的体験であるのだから、「聖化」とか「きよめ」と言われるものは、その異なる見解と言わざるを得ない。極端なことを言えば、聖霊のバプテスマがあるのだから、「聖化」や「きよめ」は、無くても良いとさえ思うのである。それらは、異言を禁じたことにより生じた、神へのアプローチの二次的な形態なのではないだろうか。

 まあ、「とりとめのない話」という、このブログのカテゴリーの性質を借りて、言いたいことを言ってしまったという感触も強いが、上記のようなことに起因する混乱の弊害を最も被っているのは、一般の信徒たちであると思うから、ここで、上記のようなことを言っても、そんなには、悪いことにはならないと思うのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/06/26

真に存在するもの

 聖書には、「見えるものは、見えないものからできた」と言うことが書かれている。そのように、神は見えるものを見えないものから創られた。これは、神だけが行うことのできる業である。神は、無から有を呼び出されるのである。それに対して、悪魔は、有から無を作る。つまり、この世界に在るものから、無きに等しいものを作るのである。そして、悪魔が行うことは、すべてその類のものである。だから、私たちは、それらが無に等しい、存在価値のないもの、むしろ存在しないものであることを肝に銘じる必要がある。たとえば、「恐れ」。これは、何も有益なものを生み出すことがないばかりか、他の良いものを破壊する。「恐れ」それ自体に何か存在の根拠があるわけではない。それは、人間の心の中に出現し、すべての良い思いを打ち砕き、無きに等しいものにしてしまう。そのように悪魔が作り出すものは、破壊でしかないのである。同じようなものに、「欲望」、「羞恥心」、「憎しみ」、「絶望」、等々があるが、いずれも実体のないものである。私たちは、悪魔が作り出すこれらのものに対して、はっきりと、「無」という判定を突きつけなくてはならない。それらは、実体のないものであり、存在価値のないものである。それらは、人間の心に生まれ、実在するように思えるのだが、実はその実体は、「無」である。その証拠に、それらからは、何も良いものが生まれて来ないばかりか、返って良いものを破壊する。それらのものを注視し、それらにこだわり、執着するならば、その人の人生は、それらの実体である「無」と等しいものとなる。
 私たちは、この世界を生きるときに、いま自分の心にあるものが、神から来たものすなわち「有」なのか、悪魔から来たものすなわち「無」なのかを見分ける必要がある。もしそれが悪魔から来たものならば、それは「無」であるから、「それは存在しない」と認識し、そのように取り扱う必要がある。たとえば、あなたがもし、ある出来事をきっかけにある人に憎しみを抱き始めたならば、その「憎しみ」は、確実に悪魔から来たものだから、あなたは、それに対して「無」と宣言する必要がある。なぜなら、あなたは実体のないものに執着しているからである。その「憎しみ」は、あなたの心の中だけにあり、そこにあるとき突然に発生し、あなたの意志次第で一瞬にして消えうせる運命にあるもの、すなわち「無」なのである。あなたが、それを心に抱くいかなる理由もないし、それを持ち続ける義務もない。それは、もともと存在しないもの、悪魔が作り出したイミテーションであり、「無」そのものなのである。そして、あなたがそれを認識し、それに対して「無」と宣言するとき、その悪魔の作り出したイミテーションは、実体のないことを現し始める。そして、速やかに消え去ることだろう。なぜなら、それは、最初から存在しないものだったのだから。人間は、神の似姿に創造された神の子である。それゆえ、いかなる人に対しても憎しみを抱くということは、有り得ないことなのである。それをさせるのは、悪魔であり、それが有から無を作るということである。
 一方、私たちには、神から与えられている使命がある。それは、有から有を造ることである。私たちは、神の創造されたものを使って、神に栄光を帰するのであり、それが有から有を造ることである。私たちは、神の子どもであり、神の創造に倣い、良いものを造り出し、神に栄光を帰するのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

罪からのきよめと聖霊

 私たちを罪から解放するものは、聖霊である。もし、聖霊がおられないならば、私たちが罪に打ち勝つ可能性は存在しない。私たちが自分の罪を告白して洗礼を受け、イエス・キリストに従い行く決心をし、きよく正しく生きようと願っても、私たちの生まれながらの心は罪に犯されており、罪に打ち勝つことは決してできない。しかし、イエス・キリストは、聖霊を与えることを約束された。聖霊が与えられるとき、私たちにある可能性が与えられる。それは、罪に従わず、神に従うという可能性である。聖霊が、罪から神の御心へと導いてくださるのである。だから、私たちは、自分に聖霊が与えられているということを明確に認識し、そのお方に従うことを意志しなければならない。
 聖霊は、私とは異なる存在であり、外から私に働きかける。聖霊に従う第一歩は、聖霊と自分を区別し、その存在を尊重することである。聖霊は、雰囲気や教義や自分の思い、ひらめきなどではなく、生きておられるまことの神である。しかも、霊として、この世界にやってこられたお方であり、礼拝の対象である。そのように聖霊の存在を意識した後に、次に、聖霊が、あなたの心に語りかけられる方法を知らなければならない。まことに不思議なことだが、聖霊は、あなたとのコミュニケーションのために、あなた自身の心を用いられるのであり、聖霊ご自身の思いをあなた自身の思いとして形作られるのである。それは、どのように、私自身の思いと区別することができるのだろうか。それは、まず、それが外から来たということであり、あなたが自分で考え出した思いや考えではないということである。つまり、それは、あなたの知識や置かれている状況とは、まったく関係がなく、あなたの心に与えられる思いなのである。それが聖霊があなたの心にそっと置かれた思いであることを知るためには、私たちはこの世界のすべてのことに背を向けなければならない。自分の心の中を良く見回して、自分の置かれている状況や、これからの計画や、予定、戦略、気がかり、義務、責任、懸案、願望、恐れ、わずらい、怒り、恥じらい、気後れ、その他、この世界に存在するすべての思いに対して、意識して、勇気を持って背を向け、そこから目を決然と背け、さらにそれらに起因して生じた自分の心にあるすべての二次的な思いさえもすべて投げ捨てたとき、その後、あとに残されたもの、それこそが聖霊があなたの心に置かれた思い、すなわち聖霊の導きである。そのようなことを悪魔は、決して行うことはできない。悪魔が行うのは、この世の思い煩いにより、あなた自身の罪の心を動かして、悪しき考えを起こさせることであり、それはあなた自身の思いであり、この世のものである。しかし、聖霊は神であるから、無から有を創り出される。それは、何ものにも起因せず、何ものもその原因となることはない。それは、直接に神から来るからである。そして、その思いは、神のことば聖書と完全に一致する。
 そのように、日夜、聖霊の語りかけに心を向け、それを認識し、従うことを心がけることにより、自分の中のこの世的な思いや、それから発する二次的な思いをすべて退けてしまわないでも、段々と聖霊の語りかけを認識できるようになってくる。それは、イエス・キリストが言われたように、「羊は、羊飼いの声を聞き分ける」からである。そして、イエス・キリストは、聖霊を通して、あなたを養われる。その言葉がキリストの言葉であることを確証するために、哀れみと慰めと愛と希望によって、あなたの心を満たされるのである。そして、そのときから、あなたは、あなたの心の王国の勇士となり、その王国をキリストが治めるようになる。旧約聖書を聖霊の導きによって読むならば、あなたの心の王国において、あなたがどのような勇士であるか、そして、キリストがあなたにとって、どのように誉れある、気高い王であるかがあなたに分かるようになる。そして、あなたは、生涯、キリストに忠実な僕とされるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/06/23

キリスト教というもの

 キリスト教とは、どのような宗教なのだろうかと最近考える。それは、「唯一つの真正な宗教で、天地万物を創られた真の神を、イエス・キリストという完全な姿で啓示している宗教」というのが正統派キリスト信徒の立場だろう。しかし、それを世の人にどのように伝えたら良いのか。上記のことをそのまま伝えた場合、聞いた人は、それを「福音」と受け取ることができるだろうか。むしろ「裁き」と受け取るのではないだろうか。というのも、その言葉を聞いた人は、まだ信じていないので、救いに入っていないと共に、その福音によれば自分は滅びる者であることを認識せざるを得ないからである。でも、呑気なクリスチャンは、「自分はそんな裁きを宣言するつもりはない。あなたが信じれば、天国はあなたのものであり、この救いは、すべて信じる者に無代価で与えられているのだ」と主張する。しかし、この「もしあなたが信じれば」という言葉は、「もしあなたが信じなければ」ということの裏返しである。そして、その結論は、モーセが申命記で語ったと同じ「祝福と呪い」なのである。「私は、あなたの前に祝福と呪いを置く。あなたは、そのどちらかを選ぶしかない」と言っているのと同じなのである。そして、キリスト者が福音を宣べ伝えるとき、この「祝福と呪い」をセットで宣べ伝える以外になく、「祝福」だけを取り出して宣べ伝えれば、「異端」となり、「呪い」だけを取り出して宣べ伝えれば、「カルト」となるのである。
 それでは、いかにしてキリスト教は、「愛と恵みの宗教」で有り得るのか。しかし、そもそも、キリスト教が「愛と恵みの宗教」とは、いったい誰が言ったのか。聖書のどこにそれが書いてあるのか。「神は愛である」と確かに書かれている。しかし、「キリスト教は愛と恵みの宗教である」とは、聖書のどこにも書かれていない。返って、聖書の最後にあるヨハネの黙示録には、「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」と記されている。キリスト教は、「愛と恵みだけの宗教」ではない。言うまでもないが、「愛の神」は、同時に「裁きの神」であり、それは、旧約聖書から新約聖書に移っても変わることのない一貫した教えなのである。それでは、いったい何が変わったのか。「律法による不完全な救いが、キリストの贖いによる完全な救いに代わった」のである。救いは、キリストによって完成された。アダムによって失われた人間の「いのち」が回復される完全な方法が提供されたのであり、そのために、イエス・キリストを救い主として信じなければならない、というのがキリスト教の教えなのである。
 そこで、これらのことから言えることは、福音を宣べ伝えるのに、新約聖書だけをもってするのは、不可能ということである。人が不幸な現実の中にあり、キリストの救いを必要とするのは、実はその人の「いのち」が失われているからであり、その原因が、「原罪」にあるということが示されるまでは、その人にキリストの救いの必要性が分からないからである。というのは、キリストの贖いは、「罪からの贖い」であり、それの根拠は、旧約聖書に記されているからである。そもそも、人がキリストを受け入れるのは、自分の罪の贖い主として受け入れるのであり、その背景には、「裁き」があり、「裁き」はまさに旧約聖書の事柄なのである。しかし、だからと言って、福音を語る前に、相手に創世記からの一連の人類の歴史のダイジェスト版を語る必要はない。語るべきことは、「人間の罪とその報酬としての裁き」についてであり、それこそ旧約聖書の教えていることである。以上のことを語る人は、どのような人だろうか。彼は、「愛と恵み」を語る人ではない。「祝福と呪い」を語る人、モーセその人なのであり、裁きを告げるエリアのような預言者なのである。この二人は、高い山の上で現れて、「愛の人」キリストと共に、受難の意味について話し合っていた。
 そこで、ここまで書いてきて、一つの結論に近づいてきているように思える。それは、「キリスト信徒に福音を語ること」の危険性である。「すでに救われている者に向かって福音を語ること」、それはいったい何を意味するのか。それは、ちょっと茶化した言い方をすれば、「あなたは、もしかしたらまだ、完全に救われていないかも知れないから、もう一度福音のおさらいをしなさい」と言っているようなものかもしれない。しかし、戦慄すべきは、むしろ上記のことからの帰結である。それは、「すでに救われている者」、「罪を贖われた者」に向かって、福音を語ることは、「恵みのみの福音」、「裁きなしの福音」すなわち、「異端」となりかねないということである。「そういえば・・・」と思い当たることがないだろうか。そのようなものを聞かされるくらいなら、むしろ眠っていた方がましであろう。キルケゴールが言っていたことは、そのようなことなのである。すなわち、『神=人の教説が絶え間なく説教の対象となされることによって空虚なものにされたということである。その結果神と人間との間の質的相違が、最初は貴族的に思弁的に、次に大衆的に大道と裏町で汎神論的に止揚された』。「裁きなしの福音」とは、そのようなものであろう。
 今日の日本で、キリスト教の低迷を嘆く声が絶えない。そして、その背景に、上記のことがあるように思えてならない。「裁きなしの福音」を聞いた信徒が出て行って、「裁きなしの福音」を語る。それがキリスト教の宣教であろうか。信徒が語る証しは、自分が聞いた「福音の焼き直し」ではなく、自分に神から直接に与えられた恵みと、福音を信じない者への裁きでなければならないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/02/23

召命の必要性

 若いころは、ずっと人生に悩んでいた。それは、高校1年生ごろから始まり、いつ終わるとも知れずに、心のあえぐような毎日が続いた。恋もしたし、アルバイトや2年間の浪人生活、泊り込みの新聞配達をしながらの予備校通い、その後の大学受験合格。しかし、憧れの大学時代にも悩みの晴れることはなかった。3年生の冬(1年落第したので、実際は4年目の冬)にキリスト教会で洗礼を受けた。精神の救いに与り、根本的には心が落ち着いたのだが、今度は、信仰の悩みが始まった。就職をして、結婚してもまだまだ悩んでいた。この悩みは、どこまで続くのかと思った。
 今になって考えれば、あの悩みは、自分の道を自分で探していたことによるものだったと思う。しかし、自分の道を自分で探さずに、だれが探してくれるのだろうか。その点、クリスチャンという人種は、奇妙な人々で、神様がそれを与えてくれると主張する。でも、良く観察すると、実は自分で考えて決めているようにも思えてくる。具体的には、自分の考えた中から、祈ってみて一番それらしく思える道を選んでいるようにも思えるのだ。それが、人によると、「示された」とか「与えられた」という表現になることがある。中には、「神の声が聞こえた」とか「その道だけが心から離れなくなった」とか言う人もいるし、「それ以外の道が閉ざされた」とか「その道に進む助けが不思議に与えられた」とかいう人もいる。しかし、それらが本当に自分の心の産物でなく、神から来たものであるかどうかは、実際にはその人だけにしか分からないのだろう。そうだとすれば、客観的な判断基準は、何もなく、やはり最後には、自分の心が決定するものと言えるかもしれない。神の導きとは、実際はこのように微妙なものであり、結局はそのような中で、人生の分岐点に一つの道を選択しなければならないのが人生なのではないだろうか。
 それでは、今の自分は、どうなのかと言うと、なにかとても晴れ晴れしている。それは、「自分の道は、これしかない」と言えるところについに辿り着いたからである。しかしそれでは、やはり自分で自分の道を決めているのではないか。確かにそうも言えるかもしれない。でも、以前と違うところは、自分が考えたいくつかの道から、祈ってそれらしい道を選んでいるのではないということである。具体的にどうしているのかと言えば、自分の歩んできた道を振り返って、総合的に考えて、神様は自分に何を望んでおられるのかということを自分の頭で考えるということである。その際、自分の好みは二の次にして、まず神様の立場に立って考えるということである。これまでに神様から不思議な恵みによって与えられたもの、拓かれた道、受け取ってきた思い、自分の性格、得意分野、持っている技術や資格、財産、家庭、会社、生きている社会、友達、知り合い、聖書の記事、教え、教理、祈りの答え、それらを全部総合して、これからの人生を神様は、どのように生きなさいと言っておられるのかを自分の頭で良く考えるということである。そのとき、一つの道が見えてくる。時には、少し時間をかけて、祈って求めることが必要かもしれない。それに気づくまで、しばらくの時間が必要かもしれない。でも、それは与えられる。神が生きておられ、いままで私を導いて来られたのなら、必ずそれは与えられると思う。しかし、私の場合、その実現の為には、今後、多くの難関を突破しなければならない。ここに、一つの真理が見えてくる。それは、旧約聖書に、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」(伝道者の書 7:14)とあるように、それが本当に神の示された道であるかどうかは、後になって見なければ分からないことがあるということである。だから、いま私が選んでいる道が、本当に神様の与え、示された道であるかどうかは、それが実現した後でなければ、本当には分からないのだろう。いや、たとえ実現したとしても、厳密には、それが本当に神の与えた道かどうかは、私が死ぬときまで、つまり、私の人生の総決算まで分からないのかもしれない。しかし、一つだけ言えることは、今は確信があり、それが進む力になっていることである。そして、それが実現する前にこれを書いているのは、その確信によっているのである。何人も、それ以上に進むことはできないのだと思う。だから、信仰が必要なのだろう。そして、以上のことを納得した上で、自分の召命を神から受け取ったと信じるならば、それは、その人が神との一つの関係を獲得したと言えるのではないだろうか。
 あああ、また、とりとめのない話になっちゃったなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/02/01

イエスさまとの関係

 洗礼を受ける前から、そして受けた後にも、「三位一体」については、良く理解できなかった。「父、子、聖霊が三つでありながら一つの神である」というキリスト教の奥義のことである。しかしこれは、私たちの救いについての理解において、とても重要なことらしいということは感じていた。全能の神が自ら地上に降り、人となり、私たちと同じ人生を歩み、悩みと苦しみを通り、罪の罰を十字架で身代わりに負われた、そのことの中に神の愛が啓示されているという。
 このイエス・キリストというお方において、神が私たちに極限まで近づいて来られたということは、確かに言えると思う。そしてこれは、他のどのような方法によっても成し得ない究極的な接近なのであった。使徒パウロが言ったように、神は私たちから遠く離れておられるのではない。しかし、神がイエスという一人の人となったのには、もう一つの目的があった。それは、イエスご自身が「わたしは、あなた方をしもべとは呼ばない。わたしはあなた方を友と呼ぶ」と言われたことと関係するのだが、主イエスは、私たちの目標でもあるのである。パウロが言っているように、「私たちは、聖霊の働きにより、日々主と同じ姿に変えられて行く」のである。そのために神は人となられたのであり、それにより、人が神から、どのような栄光の姿に創造されたか、そしてそこからどのようにして、どのような状態に堕ちてしまったか、そしてそこからどのように再生されるのかを教えられているのではないだろうか。
 これらのことは、文字通りに思い描くことは、比較的たやすいように思う。しかしそれを、「三位一体」という教理として考えたとき、とても理解できないような代物となる。なぜであろうか。それはたぶん、教理というものは、人格的な関係を抹殺してしまうからではないだろうか。キリスト教の教えは、律法や教理として表現されるが、それを暗記しただけでは、それを自分のものにすることはできない。つまり、読み覚えただけでは、自分のものにすることができないし、それを生きることもできない。ということはつまり、それで救われることはできないということだ。キリスト教は、知識ではなく、救いの御業だからである。それを受けるためには、イエス・キリストとの人格的な関係に入ることが必要である。教理の理解ではなく、教えられたことを理由なく、偏見なく、過不足なく、受け入れて信じることが求められるのである。たとえそれが理性的には矛盾したものであろうとも。その目的は、整然とした体系を作ることではなく、人を救いに導きいれることなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/10/16

クロノスとカイロス

 ギリシャ語には、「時」と訳される言葉が2つあるという。「クロノス」と「カイロス」である。一般的に、「カイロス」は、「神の時」とか「重大な転機」というような、何か預言的でもあるような、劇的な瞬間を表わしているようであり、聖書的には、この「カイロス」が重要で、「クロノス」の方は、あまり取り上げられてこなかったように思う。しかし私は、この「クロノス」が非常に重要に思える。それは、言わば「時の流れ」を意味しており、その意味で「原因と結果を結びつけるもの」、「因果の力」とでも言うべきものである。旧約聖書は、この因果応報のモチーフの宝庫である。例えば申命記に、「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。」とある。「祝福と呪い」それは、行いの結果である。その意味で、旧約聖書は、時間の流れの中に展開された、神の真理のモチーフの宝庫である。しかし、主イエスはこう言われた、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」つまり、原因、即、結果であるという教えを語られたのである。その意味では、新約はつねに「カイロス的」である。「あなたの罪は赦された」、「主イエスは、死に打ち勝ち、甦られた」、「悪の力は打ち破られた」、「あなた方は、人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」、・・・・。そして、そのような観点で旧約聖書を見るならば、それは何か、使い古された、価値の失せた遺物のように見えるだろう。しかしそうではない。むしろ新約もカイロス的ではなく、クロノス的に解釈されねばならないと思う。なぜなら、それは永い救済の歴史の到達点なのだから。
 私は天国は、カイロス的だと思う。つまり、「原因、即、結果の世界」である。だから主イエスは、そのように教えられた。天国に入るためには、カイロス的な思考に慣れなければならないと。「私が地上のことを語ったのに信じられないなら、まして天のことを語ったらどうして信じられようか」と。天では、「風は、思いのままに吹く」。そこには、因果関係は存在しない。原因、即、結果なのである。つまり、悪いことを考えたら、それがそのまま実現する。そこは、永遠の世界であり、軌道修正のための時間は存在しない。すべてが、完成されてしまっているのである。だからといって、それはすべてが固まった、死の世界ではない。返ってそれは、すべてが「思いのままに吹く」動的な世界、思ったことが即現実となる世界である。この世界は、そこへ行くための準備の時間なのかもしれない。イスラエルの民が、約束の地に入るために、荒野で訓練されたように。私たちは、この時間の世界の中で、因果応報を心に刻み付ける必要がある。旧約聖書は、私たちへの教訓のために書かれた。「光があるうちに、光の中を歩め」とは、「時間の流れのあるうちに、因果応報を理解せよ」との意味である。だから、カイロスの真の意味を理解するには、クロノスの意味を知る必要がある。そして、カイロスはクロノスの中に含まれる。クロノスなしにカイロスは存在しない。
 黙示録の中に、「二十四人の長老が御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出した」とある。彼らは、永遠の礼拝をささげる者たちである。永遠に自分の冠を投げ出している。拾い返す必要はない。そこは、カイロスだけの世界である。そこでは原因と結果は、一つなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012/04/16

永遠の世界の生活の練習

 最近、つらつら考えていることなんだけれど。つまり、この世界は、私たちが行くべき永遠の世界の練習なんだということである。どうもそんな風に思えて仕方なくなってきた。まず、この世界には、永遠の世界の雛形がたくさんある。旧約聖書における「戦い」も、イエス様が言われた「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」という言葉に表れているように、やがて来る天の御国における戦いの雛形なのである。「天に行ってまで戦いをしなければならないのだろうか」と思われる方もたぶんおられるだろう。しかし、この「天の戦い」は、この地上の戦いのように戦死者は出ないし、また搾取されたり捕虜になったりする者もない。それは、「霊的な戦い」であり、これこそが本当の戦いだったのであり、それがこの地上に焦点を結ぶと、たぶん天上におけるそのエネルギーの大きさのゆえに、この世界を破壊し、多くの悲惨を生み出すことが多い。しかし、「戦い」の真の姿は、そのようなものではなく、強いて言えば、旧約聖書に書かれているすべての「栄光、尊厳、誉れ高きこと、愛、・・・」それらのすべて、つまり主イエス・キリストの王としての御性質がそこに漂い、ほとばしり出ているところのものなのである。それを想像しただけで、まったくため息が出てくるほどだ。ああ、そのためには、自分のすべてを賭ける価値のあるもの、それが「天における真の戦い」なのである。
 次に「生むこと」これは、旧約聖書によれば、エバが罪を犯したために、苦痛なものになってしまったが、たぶんそれ以前には、そのようではなかったのだろう。ときどき「復活が信じられない」という方がおられるようだが、復活は以前生きていた者が一度死んで甦ることだが、「生まれる」とは、何もないところから生命が誕生することであり、しかも、何の変哲もない一般人のお腹の中に誕生するのである。これこそがまさに信じられないことではないだろうか。この「生まれる」こと、「生むこと」が不思議でないのなら、復活だけでなく処女降誕までも、別に不思議なことではなくなるのではないだろうか。そして、この「生むこと」は、「自分と同じ存在を創造すること」であり、天上においては、人がその似姿に作られた「神を生むこと」なのである。その雛形が新約聖書の中にある「マリアの処女懐胎」であり、マリアはまぎれもなく「神の一人子」を産んだのである。この地上において、私たちが自分と同じ人間を産むのは、父なる神の心を体験するためであり、生まれてくる子にとっては、父なる神を体験するためなのであり、それが天国においては、神ご自身を限りなく身近に知ること、神と一体になることであり、それが「神を生むこと」なのである。
 こんな風に取り上げていくと、きっと何時間かかかりそうなので、これで最後にしたい。それは、「時間」についての考察である。この世界においては、時間というものがあるが、来るべき永遠の世界においては、時間というものはない。そこでは、すべてのものは考えた後は、それが一瞬よりも早い内に生起する。例えば、ケーキを食べたいと思えば、そう考えた瞬間に、もうケーキを食べている。いや、もう食べてしまっている。良いことを考えれば、その瞬間にそれが成就する。どのようなすばらしいことも、何の困難もなく、時間も掛からずにそれが実現する。その反対に、どんな悪いことも、瞬間的に実現するということになったらどうだろうか。しかし、永遠の世界には時間が無いというのなら、きっとそういうことになるのだろう。つまり、そこでは、原因即結果であり、それは一体なのである。これは、ある意味ですばらしい世界であり、またある意味で、恐ろしい世界である。そこで生きて行くためには、悪いことを考えてはならない。悪いことは、回りまわって自分に帰ってくることを私たちはこの世界で、時間の中で学んだはずだからである。そして、この時間の中の世界においては、良いことを実現するためには、大きな努力と犠牲を払わなければならない。そうして汗水たらして、必死の努力をして、やっと一つの良いことが実現する。しかし永遠の世界ではそうではない。良いことを考えたら、それがすぐに実現する。だから、もっともっと良いことを考えよう。誰よりも良いことを。そして、もっともっと良いことがあるのである。いったいどんなことがもっともっと良いことなのか。一見良いと思えても、その結果が必ずしも良くないようなこともたまにはある。しかし永遠の世界でそんなことになっては困る。それがすでに実現してしまうからである。だから、私たちは、どんなことが良いことなのかをこの時間の中で学んでいるのである。ここなら、完全に失敗する前にそれが分かる。時間がブレーキやクッションの役割をしてくれるからである。この世界で、人生を生きながら十分に真剣に学んだ人は、永遠の世界で失敗することはないだろう。そして、彼は、聖書に書いてあるように永遠の世界を生きるのである。つまり、「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」ピリピ 4:8

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

おみやげの写真 | そうじゃな~い! | たわいのないものたち | とりとめのない話 | イザヤ書研究 | エズラ記研究 | エゼキエル書研究 | エックハルト研究(参考文献:「エックハルト説教集」 田島照久編訳:岩波文庫) | キリスト信仰の体験記 | キリスト教の疑問 | キルケゴール研究(参考文献:「死に至る病」:斉藤信治訳:岩波文庫) | サムエル記上研究 | サムエル記下研究 | ドン・キホーテ前篇(一) | ニーチェ研究(「ツアラトストラ(上)」より) | ネヘミヤ記研究 | ビジネスマンへの道 | ブルトマン研究(著書:「イエス」より) | ボンヘッファー研究(「共に生きる生活」より) | マクグラス研究(歴史のイエスと信仰のキリスト:近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成) | マタイの福音書研究 | マルコの福音書研究 | ヨハネの福音書研究 | ヨブ記研究 | ルカの福音書研究 | レビ記研究 | ローマ人への手紙研究 | 主イエスのしもべ | 人生の問い | 伝道メッセージ | 使徒行伝研究 | 六弦 | 出エジプト記研究 | 列王記上研究 | 列王記下研究 | 創世記研究 | 情報宣教方法論 | 新改訳聖書に関する疑問 | 新約の時代 | 新約聖書研究 | 歴代誌上研究 | 歴代誌下研究 | 死人がよみがえる | 民数記研究 | 病人をいやす秘訣 | 私のたからもの | 続・エックハルト研究(福音信仰からの光) | 続・ニーチェ研究(「ツアラトストラ(下)」より | 続・ブルトマン研究(ヨハネの福音書) | 続・ボンヘッファー研究(「行為と存在」より) | 続・マタイの福音書研究 | 続・新改訳聖書に関する疑問 | 続・続・エックハルト研究(批評) | 続・続・続・エックハルト研究(信仰の刷新を求めて) | 続・続・続・続・エックハルト研究(キリストのうちに自分を見いだす) | 続・続・続・続・続・エックハルト研究(神の子とされる) | 続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に仕える) | 続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神に知られる) | 続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神秘主義の光) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(神との合一) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(認識の光) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(変容) | 続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・続・エックハルト研究(王) | 聖書に関する随想 | 聖書の実装 | 聖書の矛盾研究(「バカダークファンタジーとしての聖書入門」を読んで) | 聖霊の賜物を受ける | 解析学研究 | 詩篇研究 | 道を走る | 遠藤周作研究(「沈黙」より) | 野の花 | KJV翻訳:その意図 | KJV翻訳:創世記