2018/08/18

悪魔との戦い

 悪魔は、目に見えないので、悪魔と戦うのは、天使たちだけだと以前は思っていた。でも、信仰の友人や有能な働き人たち、また彼らの家族たちが突然の不幸や堕罪に見舞われるのを見て、これは偶然ではないと思うようになった。悪魔が彼らを罠に掛けたり誘惑したりしていると思われるのである。つまり、現代においては、私たちの心こそが神の宮であり、神との唯一の接点であり、私たちの外に神はおられない。そして、悪魔との接点があるとすれば、それは私たちの外の世界なのである。
 私たち夫婦も、私の定年と同時に街への伝道のために事業を始めようとしていた矢先に、正面衝突の事故に見舞われた。私たちの乗った車は、反対車線の歩道の縁石を乗り超えるまでに弾き飛ばされ、大破し、家内は背骨と肋骨を折る大怪我をしたが、私は幸いかすり傷で済んだ。思えば、そのとき家内は、教会の伝道委員長に選ばれていたのであった。警察の裁定によれば、事故はセンターラインオーバーの相手が100%悪いということだったが、彼は保険に入っておらず、どこかへ逃走してしまった。でも、私たちは結局、その事故から何の害も受けなかった。経済的にも、肉体的にも、何の後遺症もなかった。あのとき不思議と、二人とも神を賛美し、感謝が耐えなかった。私たちは、事故の相手への責任追及を公的に放棄した。神の愛を疑うことは微塵も無かったのであった。それが神の恵みであり、守りであり、またあの事故が悪魔から来たことの証拠だと思う。
 言いたいことは、私たちは、この世界で悪魔と戦っている、いや戦わなければならないということである。たとえ悪魔が目に見えなくても。
 あのとき私たち夫婦が、自分たちのしようとしていることが悪魔に与える影響について、もっと考察できていたら、そして、悪魔の罠に備えて対抗し、注意を深めていたなら、あの事故から守られただろうか。それは、なかなか判断が難しいことかも知れないが、というのも、あれから私たちは、正面衝突事故は、決して防げないということを実感したからだ。でも、あの場所をあと5秒でも遅く通っていたら、事故にはならなかった。その5秒は、私たちが祈りを一つ多く捧げることにより、生み出されていたのかも知れない。悪魔との戦いは、霊的な戦いなのである。

 カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。そうされたのは、ただ以前に戦いを知ることがなかったということで、そのイスラエルの人々の世代に戦いを学ばせるためにほかならなかった。(士師記3章1~2節)

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2018/07/31

人は、どう生きるべきか

 もうかなり以前のことだが、朝会社へ行くために玄関を出るとき、左右のどちらの足から踏み出そうかと本気で考えていたことがある。それがもし、神様の意図されていることだと確認できることなら、喜んでそれをしようと思っていた。こんなことを言うと、とても愚かに思われるかも知れない。しかし、愚かか賢いかということは、そのころの私にとってどうでも良いことだった。そして今もそうなのである。
 もう一つ前置きの話をしよう。それは、ある教団の全体集会のときだったのだが、講壇に立っている牧師が、自分の教会のある役員のことを持ち出して、講壇の上から批判したのである。それは、その役員の次のような言葉に対するものであった。彼は、「私は、信仰に立つ限り、すべての信徒は、同じ考え、生き方をするようになると思います。」と語ったというのであり、それを取り上げて、彼の考えが、非常に愚かであるかのように語ったのである。
 上の2つの前置きによって私が言いたいことは、つまり、私のような人間は、ある牧師にとっては、我慢がならない信徒であり、そのような考えは、徹底的に批判され、誤りと断定されなければ気がすまないようなものだということである。なぜか、それは、もし仮に、私のような考え方が正しいとすれば、かの牧師も含めたすべての人の生き方が少なからず、本質的な影響を受けざるを得ないということなのである。
 さらに私が言いたいことは、驚くべきことに、上記のように考えない牧師も存在するらしいということである。それが事実だとすれば、神の言葉を取り次ぐ牧師という人たちの中に、大きく2つの分派が存在するらしいということである。つまり、すべての人が信仰において、同じ考え、同じ生き方をすべきと考える人とそうでない人である。
 と、実は、ここまでが話の前置きである。私がかの牧師の話をしたのは、彼を批判するためではなく、人間は、牧師という崇高な人々も含めて、まったく異なる2つの考え方に分かれざるを得ないということが言いたかったのである。
 さあ、これからが本論なのだが、私は、かの役員と同じ考えに立つ。つまり、朝玄関をどちらの足から踏み出した方が神の御心に適っているかということがはっきりしたなら、それからの人生は、その方の足から玄関を出る生活を続けていくだろう。そして、それは、私の喜びとなるだろう。私の確信は、次のことである。つまり、この短い人生の中に、誰にも侵害されないものを自分だけのために、いつも残しておきたいと思うことの代わりに、すべてを神に捧げ、どんな機会にも、神に喜ばれることだけを求め、自分さえも神の御心のままに果てしなく変わって行きたいと願う人は、きっと私と同じように考えるだろうということである。
 もし、これを読んでいるあなたも、賛同してくださるならば、朝目を覚ましたときに、まず願うことは、そのときにまず読むべき御言葉があれば、それを教えて欲しいということに違いない。というのは、私の一日がそのときから始まるのであり、私はそのとき、まだ次に何をすべきかを知らないからである。そして、それを教えてくれるような御言葉を願い求めるのである。それは、いつも同じ御言葉かもしれないし、そうでないかも知れない。いずれにしても、それは、すべてを考える上で、もっとも大元となる御言葉であるべきだろう。その目的は、私がイエス・キリストによって、すでに神の子とされていることの確認に導くものなのだろうか。それとも、全能の神が天地を創造し、今も統治しておられることを告白することなのだろうか。その他、どのような目的のための御言葉が必要で、それはいったい聖書のどこなのか。そういうことがすべて整わなければ、私は、かの役員が言っていたように、同じ考え、同じ生き方を実践することが難しいとも思われるだが、それでも、それを追い求めなければならないと思うのである。それが、心の祭壇を築くということではないだろうか。実際、とりとめもない話なのだが。

 「私は決して、わが家の天幕にはいりません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」 詩篇 132:3~5

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2018/05/24

パカッ聖書

 これは、私の発明である。
 どういうのかと言うと、つまり、聖書をパカっと2つに割って、それぞれに名前をつけるということである。それでは、やってみよう。
 聖書をパカっと割ると、まず旧約聖書、そして新約聖書となると思うだろう。その通りである。しかし、それだけでは終わらない。それぞれに名前をつけなければならないのだ。そこで、旧約聖書に、「神の民の出現」と付け、新約聖書には、「あなたが神の民です」と付けるのは、何だか我ながら、「やったー」と言えるようなことに思える。
 今度は、旧約聖書をパカっと割ると、第一にモーセ五書、そして、それ以外となる。そしてモーセ五書には、「神の民の形成」、それ以外には、「神の民への約束」と付ける。モーセ五書をパカっと割ると、創世記とそれ以外となり、創世記は、「神の民の誕生」、それ以外は、「神の民の歴史」となる。モーセ五書に対する「それ以外」をパカっと割ると、ヨシュア記とそれ以外となる。そして、ヨシュア記には、「約束の実現」、それ以外には、「契約の破綻」と付ける。
 モーセ五書の創世記以外をパカっと割ると、出エジプト記とそれ以外となる。この場合、出エジプト記には、「奴隷からの解放」、それ以外には「神との契約」と付ける。この「それ以外」をパカっと割ると、レビ記とそれ以外となる。そしてレビ記は、「契約の内容」、それ以外は、「契約の施行」となる。この「それ以外」をパカっと割ると、民数記と申命記となり、民数記は、「契約の締結」、申命記は、「契約の警告」とする。
 まあ、こんな風に各書に辿り着くまで、次々にパカっと割って、それぞれに名前を付けて行くのである。
 これのどういうところが良いかというと、聖書を自分なりに理解し、頭の中に収めることができることである。そして、全体的な部分から個々の書へ降りて行くときに、ぱかっと2つに割って理解することにより、それまでの上位の分割と命名の妥当性が再度問い直されて、より全体の理解が深まるのである。
 こういう訓練をすることにより、聖書のどの書を読むにしても、ただ漫然と読み進むのではなく、自分が聖書全体の今どの部分を読んでいるのであり、それを全体の中でどのように受け取るべきか、また、どの部分をどのように味わうべきかを更に考えることができるようになるだろう。
 そして、聖書がそれを読む人にとって、本当の宝物となることを期待するものである。多少とりとめのない話かもしれないのだが。

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2017/12/09

偶像崇拝について

 偶像とは、「人間がそれ自体が良いと想定したもの」と定義することができると思う。しかし、イエス・キリストが「良い方は、父なる神以外にいない」と言っておられることから、良いものは、天から、光の父から降ってきたもの以外にはない。そこで人が、そのようなもの以外を「それ自体が良いもの」と想定するならば、それはすなわち「偶像」となる。
 この定義によれば、例えば芸術は偶像であり得る。また、科学は偶像であり得る。つまり、それがどのように私たちのこの世の幸福につながり、文化的な生活にとって必須のものであろうとも、それが「それ自体で良いものであり得る」と想定されるならば、それは偶像であり、人を神から引き離し、苦難へ誘うものとさえなるのである。
 そこで、もし自分の心の中から偶像を取り除きたいと願うなら、その人は、まず何をおいても、神の前に跪き、ひれ伏さなければならない。つまり、偶像崇拝を排除するには、その全く反対である、真の神を礼拝することが必要なのであり、全ての回復は、そこから始まるのである。ただそのことこそが、彼の持っている知識や財産、教訓や悟り、それらの全てを神の元へ奪還し、彼の心の宮から偶像を運び出すことに貢献するのである。イエス・キリストは、そのために縄の鞭を使われた。彼は、宮で商売している人々に優しく取り入ろうとはされなかった。ただ彼らを激しい憤りにより、追い出されたのである。だから、私たちも自分の心の宮において、そのように振る舞わなければならない。それ以外の方法で、偶像を追い出すことはできないのである。
 私たちは、自分の心から偶像が運び出された後の精神の宮たる心の状態を想像することは難しい。それは、私たちの思いを遥かに超えている。それは、私たちが創造し得るものではなく、神たる主イエス・キリストが創造されるものであり、主ご自身ですらあるとも言える。だから、それは私たちに属するものではなく、それでいて私たち自身でもあるのである。

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2017/10/06

誰も教えてくれなかったこと

 クリスチャンとして、もう30年以上も生きてきたけど、いままで誰も教えてくれなかったことがある。それは、一言で言えば、神様の前で何が正しく、何が正しくないのかということだ。
 聖書には、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」と言われている。それなのに例えば、何か偉業を成し遂げた人を大いに賞賛したり、音楽、絵画等の芸術をことさら価値或るものと位置づけたりということが良いこととされている。しかし、良く考えてみれば、そのようなことは結局、人の思いを神から引き離すことになる。だから、例え人を褒めるようなことがあったとしても、最終的にはその人を創造され、育ててこられた神が褒め称えられる必要がある。
 しかし、この世界で、一々そのような究極的な賞賛を行っているわけには実際は行かない。すべての人がクリスチャンではなく、むしろノンクリスチャンの方が圧倒的に多いのだから、彼らに対して、「あなたがすばらしいんじゃなくて、本当はあなたを造られた神がすばらしいんだよ」なんて言っていたら、偏屈な人間と思われてしまうだろう。
 そこで、ノンクリスチャンの手前、外面上は人を褒め、心の中では神を褒めるというような妥協的な対応に終始してしまうことになる。学問や芸術なんかについて言及するときにも、同じようなことになってしまう。牧師でさえ、教会員の中には、様々な信仰暦の人がいたり、求道者がいたりすることを考慮すると、上記のような対応にならざるを得ないのだろう。
 そこで、求道者や信仰暦の浅い信者たちは、それが本当のことだと思い込んでしまう。私もその一人だった。そして、この世界が罪に満ちていることを忘れ、この世界が何かすばらしいもので満ちているように思ってしまい、神を求めることを忘れ、この世のものを求めながら一生を過ごすことになってしまうのである。
 しかし真実は、この世界には、何一つ益となるものはなく、それは聖書のみことばの中にだけある。例え、自分を犠牲にして他人の命を救うような献身的な行為にしても、それが、その人自身が褒め称えられるような結果を招くならば、そのことは益とはならないのである。
 大切なことは何かというと、この世界の事柄から目を転じて、神のことがらへ集中することであり、そこにこそすべての良いことがあるのである。その本当に良いものをこの世界に現すのが教会の役目だと思うのだが、上記のような状況では、一般人が神を知ることができないのも無理のないことだろう。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。それは、教会の中に改革を起こすことである。この「改革」とはなにか。それは、真のクリスチャンを見つけて、その人たちと真実な礼拝、真実な交わりを実践することである。そこに現されるのは、文字通り真実であり、そこでは神のみが崇められ、褒め称えられ、そこに神の栄光が現されるなら、世の人もきっとそのすばらしさに気付くことがあるに違いないと思うのである。

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2017/09/07

宣教とは、なにか。。

 宣教は、戦いである。それも、全世界的な、宇宙を総動員した戦いである。そしてその目的は、この世界を神の下に奪回することである。被造物の頂点に位置するのが、神に象って造られた人間であるために、宣教活動の中心が福音を宣べ伝えることとなっているのではあるが、その最終目的は、そのことを通して、この世界のすべてが神の元に奪回されることなのである。
 そこで、まずはっきりさせておかなければならないのは、この場合の奪回とは何か、ということであろう。しかしながら、今日の宣教の状況から見て、これをはっきりさせることは容易なことではないと多くの人が考えるに違いない。そこでまず、そのことに関する私個人の考えが提示されなければならないだろう。
 私の考えを一言で言えば、「神の前にすべてのものが跪く」ということである。そう、まるでカルト教団か世界制覇を目論む独裁国家のようにである。というようなことを言うと、たぶん多くの人が異論を唱えることだろう。「それは、行き過ぎだ。それでは、愛も哀れみもない。」と。しかし、聖書のどこにそのようなことが言われているだろうか。終末論、千年王国、最後の審判、そのような最終的な歴史の結末に関する聖書の記述からすると、上の私の考えもそれほど外れてはいないとも思われるのである。そもそも、アブラハムその子がイサクを生け贄として捧げようとしたことも、律法における、神への冒涜に対する石打ちの刑等の厳しい裁き等々、聖書の中にそのような「絶対服従」の精神を読み取るのが自然ではないだろうか。
 それでは、なぜ多くの人が、この「絶対服従体制」について、「行き過ぎ」と考えるのだろうか。それは、この世界に「絶対服従体制」というか「絶対服従国家」の良い事例が皆無であり、あるのは人々に恐怖や嫌悪感を抱かせるような悪い事例しかないということによるのだと思う。それも仕方ないことだろう。この世界は「罪」の元に売られているからである。いったいこの世界には、悪魔が考え出した多くの偽物が氾濫している。上述の「国家」、「宗教」、「科学」、「芸術」、「学問」等々、それらの目的が神ではなく、この世界のものになってしまっている。
 しかし、偽札があれば本物の札が存在するように、偽の「絶対服従国家」があるのは、真の「絶対服従国家」が存在することを示している。そしてそれが、「神の国」なのである。
 そこでは、神への冒涜は無論「死」を意味するのだが、それは同時にまた無意味なことでもある。つまり、神は冒涜されるべきお方ではない。それゆえ、そのことに対する代価としての「死」も現実的なものではなく、神に対しては、賞賛だけが現実的なものである。神においては、「栄光」、「誉れ」その他、あらゆる良いことだけが存在するのである。
 このような話をしたのは、上記のこと。つまり「世界における神への絶対服従の確立」ということがすなわち宣教ということであり、そのことが宣教の鍵だと私は信じるからである。つまり、それ以下のことは、宣教ではなく、甚だしくは、宣教を妨害するものですらあるということである。
 というのも、神に絶対服従しないならば、その服従していない部分で一体何をするのだろうか。「自分を楽しませること」、「他人を楽しませること」等々ではないだろうか。しかし、「キリストでさえ、ご自身を楽しませることはなさらなかった」のである。私たちが人生で楽しむことがあるとすれば、それは「神が与えてくださったものを感謝して受ける」ことなのである。そして、それは私たちの人生を大いに豊かにする。「数えてみよ、主の恵み」、実にそれは十分にたくさんあるものであり、それだけあれば、私たちは、他に何がなくとも最高の人生を味わうことができるのである。反対に、神が与えておられないものを自分の力で勝ち取ろうとすれば、それは苦い人生と成り果てるであろう。
 そこで最後に再び、「宣教」とは何かということに話を戻そう。
 宣教とは、すなわち、私たちの生活を通して、「神への絶対服従体制」あるいは「神への絶対服従国家」の実例を提示することであり、その麗しさ、美しさ、広さ、高さ、深さを様々な形で、--そのもっとも典型的なものは、「主イエス・キリストの福音」なのであるが--、世の人に伝え、彼らをして神の元に奪回し、最終的にこの宇宙の全てを神の下に奪回することなのである。

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2017/07/08

異言の祈りの対象

 最近、発見したことがある。それは、ある人にとっては、当たり前のことなのかもしれないのだが。それは、「異言の祈りの対象」ということについてである。
 異言自体は、自分にも、たぶん他人にも理解できない言葉である。それは、「御使いの言葉」とも言われるが、この地上にある言葉の場合もあり、そうでない場合もあるのだろう。いずれにしても、語っている人には理解できない。だから、それを語るのに、対象を限定せずに、ただ漠然と祈っていることが多かった。でもそれは、ちょっと退屈で、忍耐が必要な時間であった。
 でも、言葉の意味が分からないからといって、その祈りの対象を持たずに祈っていては、空を打っているようであり、祈りに実が入らないのも無理はないのではないだろうか。そこで、祈りの対象を設定してみた。例えば、「自分の仕事の中の困難」、「災害で苦しんでいる人のため」、「家族の護りのため」、そして「神を賛美するため」等々、祈りの対象を心に抱きながら異言の祈りをしてみると、その対象が変わったときに、明らかに異言の内容が変化することを発見した。つまり、聖霊が祈りの対象に合わせて、異言の言葉を選んでくださっているのだと思う。そして、再び同じ祈りの対象を設定すると、さきほどと同じような異言の内容となるのは、ちょっと不思議な気がする。
 これらのことから、神様は、異言の内容自体は、私たちの自由にはなさらないようなのだが、その祈りの対象については、私たちが積極的に決めることを許しておられる、あるいは、そうすることを望んでおられるように感じるのである。これは、実に驚くべきことである。そして、そのように、異言の祈りの対象を積極的に具体的に設定して、思いを込めて、熱烈に祈るとき、異言が以前にもまして流暢に流れ出ることを発見した。そして、このような異言の祈りの時は、本当に満たされ、潤され、啓発され、霊的に高められ、安らぎを与えられる、祝福された、そして聖なる戦いのときとなることを知ったのである。

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2013/12/12

キリスト教の真理というもの

 キリスト教が信じられないという人が良く口にすることの一つに、「愛の神が人を地獄に落とすはずがない」ということがある。しかし聖書には、死後裁きがあるということが書いてあるし、特に旧約聖書において、神に裁かれて、死に追い込まれたような事例がたくさん見受けられる。そして、クリスチャンは、それらを文字通り信じていながら、「神は愛です」としゃあしゃあと言ってのける。いったいどうして、そのようなことが可能なのだろうか。これは、並みの精神の人には、決して理解できないことだと思うのだが。クリスチャンと公言し、このようなことに少しも疑問を持たない方々は、文字通り、洗脳されていると言われても仕方がないのではないだろうか。
 いったい、全能の神が、どうしてあのような旧約聖書の悲惨な歴史を演出されたのか。それ以外に方法がなかったのだろうか。そうとしか考えられない。かのキルケゴールが言ったように、「全能の神にも、おできにならないことがあるのだ」。それは、「躓きの可能性を取り除けること」。神は、人をご自身の姿に創造された。神よりもわずかに劣るものとして。それゆえに、人の心を変えること、特に、ご自身を信じさせること、これこそが神にとってもっとも難しいことなのだろう。悪魔は、人の心を誘惑して、神から遠ざけようとする。それが可能なのは、それが割りと簡単なことだからである。まして、悪魔には、人を神に導くことなど不可能である。それがもっとも難しいことだからである。それは、神のみに可能なのであるが、それにしても、神にとっても非常に難しいことなのだ。神が人をご自身の姿に似せて、ご自身に等しく造られたからであり、それゆえに、神は、人の魂をねたむほどに慕っていらっしゃるのである。
 聖書の中に、神が感情を持っているように書かれている部分がある。実際、神は怒られたり、憤られたり、悲しまれたり、後悔されたり、思い直されたり、まったく、気の短い老人のように振舞われている。それを読むとき、「これって、本当に全能の神様なのだろうか」と疑いたくなることがある。しかし、聖書に書かれていることを真理とするならば、その理由は唯一つ、神にとっても困難なことがあるということであり、それこそが、人の心に関わることなのである。そして、その神の姿に造られた人間にとって、難しいことは、他にもたくさんある。例えば、「天国に入ること」。イエス様は、人が天国に入るよりも、ラクダが針の穴を通ることの方が簡単だと言われた。パウロも、「それには、人は多くの苦難を経なければならない」と言っている。つまり、それは、ただ漫然と待っていて実現するものではなく、人が自ら「戦い取る」、「奪い取る」必要があるもの、どうしてもそうでなければならないものなのである。というのも、それは、神に等しく創造された人間の心に関することだからである。ちょうどイエス様が、「天国は激しく襲われている」と言われたように。たとえ、主イエスが十字架ですべての贖いを完了し、彼を信じる人すべてに天国が保障されたとしても、それが「戦い取る」、「奪い取る」性質のものであることに変わりはない。なぜ、人生において人は、様々な困難に遭遇するのか。それは、何のためなのか。その結果は、何なのか。人生を真剣に生きている人こそが、幸福は勝ちとるものだということを理解するのであり、旧約聖書の約束の地の奪還の歴史は、まさにそのことを表わしているのである。そして神には、そんな人間を助けることが難しかったのである。それからそれから、難しいものと言えば、「信じること」、「赦すこと」、「愛すること」、等々、神にとっては、人にそれらの意味を教えることも、それらを人に体得させることも、共に非常に難しいことなのである。そして、それを実現するために、神は、旧約聖書の歴史を演出されたのであり、またそのようにして、新約聖書における宣教史を導かれるのである。パウロが言っているように、私たちは、「キリストの苦しみのなお足りない部分を自分の体をもって補わ」なければならない。神は、人間を用いて、人類の救いの計画を実現されるのであり、それは、私たちを通してしか実現しないのである。
 以上のことが、キリスト教の一つ高い真理であり、聖書によれば、さらに高い真理がある。そしてまた、さらに高い真理があるのであり、私たちは、その達し得たところに従って、信じ、従い続けるしかないのだろう。本当に、とりとめのない話だが。

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2013/08/19

信仰の到達点とは?

 『分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな』とは、一休禅師の作と伝えられる道歌だそうである。宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いているという。しかし私は、これをキリスト教諸派に適用してみたいと思う。キリスト教の中に、たくさんの教派があることは、たぶん良いことなのだと思っている。しかし、それらは、一つのことを目指しているに違いないと思う。それは、一言で言えば、「キリスト」である。しかし、こう言っただけでは、何の解決にもならない。ここで考えたいのは、どうやってそこへ到達するのかということと、到達点としてのキリストとは、いったい何なのかということである。
 私は、日本キリスト教団で洗礼を受け、その中の改革長老派の教会で育ち、現在はウェスレイ派の教会に席を置き、カリスマ派のビジネスマンフェローシップに属している。その間、信仰の成長を目指して、さまざまな追及や体験をしてきた。その中で、一番インパクトがあったのは、聖霊のバプテスマを受け、異言を語り始めたことである。
 異言は、一つの神体験だと思う。それは、自分では考えつかない言葉であり、そもそも考えて語っているのではなく、その暇もないうちに口から出る言葉で、これは、聖霊が語らせてくださっていると言われている。これは、私が知っているどんな敬虔な祈りよりも、なおいっそう私を神に近づけるように思える。そこには、何も自分の考えを入れる余地がない。しかし、語っているのは、私であり、いつでも語るのをやめることができ、また再び語り出すことができる。今日は、調子が悪いから語れないということは決してない。いつでも私が語りたいときに語ることができるのだが、私が考えて語るのではなく、ある衝動によって自動的に語っているのである。異言そのものは、静かなものから時には激しいリズムとダイナミックスを伴うものまで様々で、その衝動も必ずしも激しいものではなく、無音の静けさの中にいるとさえ思われることもある。その言葉は、いつも違っていて、二度と同じことを語ることができないが、また同時に、同じ言葉が再び、何度も口から出てくることもある。この現象の中に、神秘的な神体験のすべてが含まれているように思う。それは、私にとって一つの奇跡であり、その意味では、私はいつでも神の奇跡を体験することができる。
 異言を語り出してから、私の信仰生活が根底から変わってしまった。まず、聖書が愛おしくてたまらなくなり、おもわず両腕で抱きしめたこともある。どこを読んでも、深い感動があり、いままで分からなかった意味が、自分のことのように理解できるようになり、もはや誰からも教えてもらう必要がないし、信仰書等も不要になった。それまでは、決して読もうと思わなかったレビ記を涙を拭きながら読むようになった。そして、聖書のどこにもキリストご自身が記されていることが、つまり、聖書は神の言葉、キリストであることが分かった。だから、異言は私にとって奇跡であり、このことにより、少なくとも自分自身に対しては、私は神を知っているとさえ言える。賛美が神への捧げものになった。神を畏れるということが、これまでとはまったく異なる意味を持つようになった。神の主権と裁きと愛が矛盾しないものであることが分かった。そして、これらのことは、カリスマ派以外の教派からは、提供されなかったものである。少なくとも、それまでは、愛の証しに神様から靴をもらうなどという個人的な経験をしたことはなかった。家庭の中で、奇跡的な癒しなども起こらなかった。そういう意味では、私の信仰は、本質的にはカリスマ派なのだろう。そして、自分では、この個人的な神体験は、ほんの入口だと思っている。私がその気になれば、そのように行動すれば、圧倒的な神体験が、手の届くところにあると信じられる。それは、私がそれを行うかどうか、自分の生活に、もう一段高い祭壇を築けるかどうかに掛かっているのであり、それは、決して困難なことではなく、すべてが私個人に掛かっているのである。
 それでは、それらのことの到達点は、どこに向かっているのだろうか。それは、それは、神のことば聖書である。私は、遠藤周作の「沈黙」という作品を読んで、これを理解し、そのことをこのブログの記事にも書いた。再度、信仰の到達点が神のことば聖書であるということは、どういうことかと言うと、私の場合には、上記の個人的な神体験がすべて無に帰するということなのである。つまり、そのような神体験を前提とせずに、神のことば聖書を文字通り信じるということであり、それがすべてになるということであり、上記のような私の個人的な神体験は、すべてそのための通過点、助け、ステップに過ぎないということなのである。そのとき、私が神のことば聖書を信じるのは、何かの体験によるのでも、ある信頼できる人から教えられたからでも、ある権威ある書に薦められているからでもなく、理由などは何もないのである。そのとき、私は、一人の狂信者であり、それ以外の者ではない。それが、信仰の父アブラハムの足跡を踏む者なのである。かつてアブラハムほどの狂信者がいただろうか。自分の一人子を生贄にするとは、そして、父なる神もそのようなお方なのである。そして、それは、私たちもそのようになるためなのである。そして、そして、・・・・・・・。すべての教派の到達点も、やはりそこにしかないのである。

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2013/06/27

聖霊のバプテスマについて

 聖霊のバプテスマは、主にカリスマ派と言われる教派において、信仰生活の重要な要素となっている。それは、通常、異言を伴うものである。しかし、聖霊派と呼ばれる教派の中にも、異言を除外する派もあるようであり、さらに福音派、リベラル派に至っては、聖霊のバプテスマという概念自体を否定することも少なくないようである。そこで、ここでは、聖霊のバプテスマとは、どのようなものかをとりとめもなく考えてみた。

 まず、水のバプテスマ(洗礼)と聖霊のバプテスマとの関係であるが、それらが同時に与えられるとする説と、それは別々に与えられるとする説があるようだが、以下の聖書の記事を読む限り、別々に与えられるということが明確である。

 「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒 8:16~17)

 「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(使徒 19:2~6)

 つまり、いずれの場合も、水の洗礼の後に、手を置くことにより、聖霊のバプテスマを受けている。そこで、聖霊のバプテスマが水のバプテスマや決心または信仰告白と同時に与えられるとする説は、聖書の記述を無視した勝手な解釈と言えよう。

 次に、聖霊のバプテスマと異言との関係であるが、聖霊のバプテスマには、必ず異言が伴うとする考えと必ずしも伴わないとする説があるが、聖書の次の記述からすると、必ず伴うとするのが自然のように思われる。

 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。(使徒 10:45~46)

 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(使徒 19:5~6)

 しかし、聖書の次の記述は、これを必ずしも支持しない。

 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。(第一コリント 12:30)

 そこで、「異言を語ること」は、聖霊のバプテスマを受けた徴となるけれども、異言を語らなくても、聖霊のバプテスマを受けていることは有り得ると考えられる。

それでは、異言を語ることは、どのような意義を持つのであろうか。それについては、以下の聖書の記事が参考になる。

 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。(第一コリント 12:10)

 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。 ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。(第一コリント14:2~4)

 これらのことから、異言は、自分の徳を高めるためのものであることが分かる。つまりそれは、祈りやデボーションと同様に重要なものなのである。預言については、ここでは言及しないが、聖書をどのように解釈しても、異言が無用なものであるとは言えないことが分かる。返って、次のように書かれている。

 それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。(第一コリント 14:39)

 しかし、異言を語ることを許すときに、同時に秩序への配慮も必要であることが言われている。

 ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。(第一コリント 14:23)

 そこで、少なくない数の教派において、異言の存在を否定または無視するか、それを語ることを禁じているという実態がある。実際、教会で異言を語ることを許せば、それにまつわる多くのことに配慮する必要がある。パウロが言っている次のようなことである。

 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。(第一コリント 14:26~30)

 しかし、それにも関わらず、パウロは、異言や預言を教会の中で禁じているのではなく、返ってそれを語ることを奨励しているのである。そこで、教会もそれを禁じてはならないばかりか、返って奨励しなければならないと言えるだろう。そして、その結果として生じてくる、面倒な状況に対応しなければならない。そういう努力をして、なおあり余るほどの祝福がそこにあるのである。さらに、それらは、神からの賜物であるゆえに、それを軽んじるものは、それを与えられた神ご自身を軽んじることにもなるのである。

 最後に、他の霊的体験との関係であるが、一般にきよめ派と呼ばれる派には、「聖化」とか「きよめ」とか呼ばれる体験がある。これは、聖霊のバプテスマとどのような関係にあるのだろうか。私の考えは、それらは、同じものであるということである。その理由は、聖霊のバプテスマは、聖書に記された、れっきとした事実であり、神からの尊い賜物である。そして、「聖化」とか「きよめ」という霊的体験は、聖書に明示的には記されていない。それを教職者に質問してみたところ、ギリシャ語で新約聖書を読むと、ギリシャ語独特の言葉の時制により、そのような教義が導き出せるとのことであった。つまり、日本語の聖書を読んでいても、それが書かれていることが分からないのである。もちろん、次のような聖書の箇所は、日本語の聖書においても目に付く。

 イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。(レビ記 19:2)

 しかし、これは霊的な体験ではなく、神の戒めである。それに対して、「聖化」とか「きよめ」と言われる体験は、それが起こったことが客観的に分かるような実際の体験なのである。そこで、仮にそのようなものが実在するとしたら、それらは、「一つのもの」でなければならないと私は信ずるものである。それが、いくつもあっては、紛らわしくて仕方がないし、神が唯一の神である限り、その神への接近としての、信仰の根幹たる霊的体験が何種類もあるというようなことは、どう考えても有り得ないことであろう。つまり、それらは同じものである。そして、聖霊のバプテスマがすでに聖書に明確に記されている、実在する霊的体験であるのだから、「聖化」とか「きよめ」と言われるものは、その異なる見解と言わざるを得ない。極端なことを言えば、聖霊のバプテスマがあるのだから、「聖化」や「きよめ」は、無くても良いとさえ思うのである。それらは、異言を禁じたことにより生じた、神へのアプローチの二次的な形態なのではないだろうか。

 まあ、「とりとめのない話」という、このブログのカテゴリーの性質を借りて、言いたいことを言ってしまったという感触も強いが、上記のようなことに起因する混乱の弊害を最も被っているのは、一般の信徒たちであると思うから、ここで、上記のようなことを言っても、そんなには、悪いことにはならないと思うのである。

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