2010/01/26

暗号の書

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送ってその僕ヨハネにお伝えになったものである。」  ヨハネの黙示録1:1
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 ヨハネの黙示録は、暗号で書かれた書である。それは、パトモス島へ流刑になっていたヨハネが、当時のキリスト教への迫害の中で、信者たちへ秘密のメッセージを送るために用いた暗号による手紙なのである。
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■■ そうじゃな~い! ■■
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 いったいどこからそのような奇々怪々な解釈が生まれてくるのか。それは、それを主張する者の虚栄心の成せる業であり、その裏には、神の言葉を薄め偽って、その真意を曲げようという意図があるのである。
 この手紙を読むと、ヨハネがキリストの敵に対して、激しい敵対心を持っているのが如実に分かる。そしてそれは、キリストの敵にとっての直接敵な批判であり、これがあるかぎり、いくら暗号を用いて書いたとしても、その手紙が敵によりどのように取り扱われるかは火を見るよりも明らかである。もしヨハネがこの手紙を秘密裏に仲間に届けたいと思ったなら、けっしてそのような表現をとらなかったに違いない。それに、この手紙が暗号だという人は、どこを指してそのように言うのだろうか。この手紙は、黙示であり暗号などではない。つまり、暗号を解く為には、どうしても鍵が必要となるのだが、黙示は、その開示されている部分については、一般的な歴史観や知識によって解けるように助言されている。しかし、開示されていないところは、どのようにしてももはや解くことができないのである。「この方が開けると、誰も閉じることなく、閉じると、誰も開けることがない」と書かれている通りである。
 それゆえ私たちは、この手紙が暗号だなどと言うことのないように気をつけよう。そうでないと、私たち自身が、この手紙の内容を受け取る勇気を持たない者、それを好まない者、すなわちキリストの敵となり、それにより、まさにこの手紙の最後に書かれているような災いを加えられることになるかもしれないから。

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2010/01/25

ヤベツの祈り

『ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。』
 歴代誌4:9,10
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 ヤベツは、不孝な境遇に生まれ育ちながらも、自分の状態に絶望することなく、返ってイスラエルの神に望みを置き、期待をもって祝福を願い求めた。それゆえに神は、その願いを聞き入れ、彼に大きな祝福を与えられた。現代を生きる私たちも、まさにこのヤベツのように、自分の生活の祝福、領域の拡大、神の守り、苦しみからの解放等について神に願い求め、それをいただくように励まされており、神がそれを望んでおられるのである。
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■■ そうじゃな~い! ■■
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 この箇所は、マタイの福音書15:21以下に記されている「カナンの女」の物語と同じ位置づけにあるものと見るのが自然である。主イエスがその異邦人の女に哀れみをかけられたのは、後の時代の人々が、それを信仰の教訓として実践するように教えるためではない。それは、ただ神の哀れみの深さを示すためだったのである。それは、そのときの主イエスの置かれていた状況を考えれば明らかであるし、第一この物語により、「クリスチャンは神に祝福を願い求めよう」と提案する人はいない。それと同じように、この歴代誌におけるヤベツの祈りへの神の応答についても、それ以上の意味があるとは考えられない。その理由は三つある。
【第一の理由】ヤベツはユダの子孫とは言えない
 ヤベツは、ユダの系図の中に入れられているようにも見えるが、実は必ずしもそうとは言えない。系図には、「誰々には、誰が生まれた」という行があるが、ヤベツにはそれがない。彼の前後で、系図は点線のように途切れているのである。しかも2章の最後には、「ヤベツ」が地名として出てくる。そこで彼は、もしかしたらその地の土着民だったのかもしれない。それゆえ、「彼がイスラエルの神に祈ると」とわざわざ記されているのだろう。いずれにしても、ヤベツはユダの系図に明示的に入れられてはいないのであり、旧約聖書における信仰上の注目に値しないのである。また、彼の母は苦しんで彼を生んだが、彼は努力して有力になり、兄弟たちの中で最も尊敬される人物になった。信仰的でない者が有力になった。その彼が神に、願い求めたことは、自分の地位がさらに確固たるものとなることであったのだ。
【第二の理由】ヤベツには功績がない
 彼が神から祝福を受けた後に、どのような神の栄光を表したのか。「無い」、まったく無いのである。しかし、聖書の中にそのような、神から祝福をもらいっぱなしの信仰というものがあるだろうか。それは、やはり考えられない。祝福を受けた者は、必ず神の栄光を表すことにより、神に祝福をお返しするのである。というのは、ここは旧約聖書の世界なのだから。
【第三の理由】主イエスの教えとのギャップ
 主イエスは何と教えられたか。「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われたのであった。つまり、信仰の原則は、「自分のために祝福を求める」ということではないのである。もちろん神に祝福を期待するということは良いことであり、その場合に、旧約聖書の祝福の原則をもちろん適用できる。しかし、それにも関わらず、主イエスの教えは、「まず神の国とその義を求めなさい」なのである。それは、主イエスが律法の完成者だからである。律法の要求は、主イエスにおいてことごとく「しかり」となったからである。それゆえ、旧約聖書の「神は祝福を求める者を祝福される」という原則は変わらないが、それにも関わらず、私たちはもはや、自分の祝福を神に求める必要はない。神の祝福は、すべて主イエスを通してすでに私たちに与えられているのであるから。それゆえ、旧約聖書に約束されている、「神に求めよ、さらば与えられん」との祝福の原則は、何も変わっていないのであるが、私たちは主イエスにあって、それ以上、比べ物にならない祝福をすでに受けているのである。それは、神が私たちの父となったということであり、これを差し置いて神に祝福を求めることは、主イエスにおける神の愛を見くびることにつながるのである。
 それゆえ、ヤベツの祈り自体は聖書的(旧約)なものかもしれないが、それを持って「祈り求めなさい」と教えることは、聖書的ではないのである。聖書は、新・旧約聖書併せて聖書だからであり、今日、祈り求めるべきことを教えようとするならば、その新しい意味、すなわち新約聖書を持ってするべきだからである。

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2010/01/16

サムエルの祈り

 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話ください。僕は聞いております。」 サムエル記上 第3章10節
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 主から呼びかけられた声に、少年サムエルは純真な心で応答した。それは、すべてを置いて、ただただ主の声に耳を傾けるひたむきな姿勢であり、そのような真摯なサムエルの心に主は応えられ、特別に語られたのである。私たちもこの少年サムエルの純真で、ただ主の御声を何よりも最優先で聞こうという姿勢になることがここで教えられているのである。
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■■ そうじゃな~い! ■■
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 サムエルがそのような熱心に主に聞こうとする心を持っていたなどとは聖書に書いていない。このときのサムエルは何も知らない幼い子供だったのであり、主が語りかけられるお方だということすら知らなかったのだから、まして耳を傾けようなどと思うはずがない。サムエルは、ただエリに言われた通りのことをオウム返しに言ったに過ぎないのである。ここで語られているのは、そのようなお行儀のよい教訓ではなく、むしろ祭司エリへの当てつけであり、神はエリに語られずにこの無価値な少年サムエルに語られたということである。そしてその裁きは、それを聞く者の両耳が鳴るほどの恐ろしい内容であったということである。だから、ここを読む者は、神を畏れ、また神の心の悲しみをさえ、この個所から感じ取ることが求められていると思うのだ。
 私たちは、聖書を勝手にでっち上げて、それを床の間にでも飾っておくようなものにしてしまわないように気をつけなければならないと思うのだ。

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2010/01/14

思い悩むな

 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」 マタイによる福音書 第6章25~27節
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 鳥が思いわずらわないで生きているように、私たちも思いわずらってはならない。むしろ、今を一生懸命に生きることにより、充実した人生を歩もうではないか。
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■■ そうじゃな~い! ■■
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 鳥が思いわずらわないかどうかなど私たちには分からない。イエス様は、そんなことを言っているのではないし、私たちをけしかけているのでもない。私たちは、まずなによりも、「神の国とその義」とを求めなければならない。私たちが自分の幸福のために生きるならば、思いわずらうようになる。しかし、神のために生きるならば、その必要はないのである。イエス様は、そのように言っているのである。

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