2010/04/15

離脱について

 エックハルトは、真理の探求のために非常に多くの書物を読んだという。そのようにして彼が探し求めたものは、一つの徳であった。その徳とは、何か教訓のようなものではなく、理解でもなく、処方箋でもなく、彼自身のあり方だったのである。それは、自分が神の前でどのような存在であるのかという知識とそれをもって神の前にどのように生きるかという決意だったのである。彼は他の説教の中で言っている、「わたしに金持ちの兄弟がいたとしても、わたしが貧しい男であれば、そのことが何の助けとなるだろうか。あるいは、彼が賢くても当のわたしが愚かであれば、そのことが何の助けになるだろうか」と。そこで、彼にとっては、考えられ得るものは、それすなわち自分が成ることのできるものなのであり、もしそうでないならば、それを考えることに彼は何の意味も見い出さないのである。つまり、彼にとって人生とは、考えられ得る最上のものであるべきであり、そして実際にそうなのである。つまり彼が何かすばらしいことを知ったとしたなら、彼はそれそのものに実際になることができるべきなのであり、また実際になることができると彼は主張するのである。それに対して、もしある人が彼の人生において、何か良いものに気づきながらも、それをただただうらやむだけしかないならば、そのような人生は、虚しいとエックハルトは言うのである。
 そこで、聖書の中に、何か自分を感動させる、すばらしいことが書かれているなら、それがそのまま、その人の人生にも起こるべきなのであり、エックハルトは、実際にそれが起こると教えるのである。また、聖書の中に、何か自分を感動させる、ダビデのような勇者がいるならば、それを読んでいるあなたは、正にダビデのような勇者になることが可能なのである。そして、神の子キリストがあなたのために天の栄光を捨てて、地に下られたならば、あなたは天の父から自分の子として愛されているものであり、あなたはやがてキリストの姿に変えられることが約束されているのである。
 だから、エックハルトを読んでいる人が、もしこのことを受け取ることがないのなら、エックハルトはその人にとって、何の関係もなく、何の益ももたらさないと私は思うのだ。彼の説教を読んで、何か難解で、いままで聞いたこともないような凄いことが書いてあると思ったとしても、エックハルトが伝えたいのは、そんな糞土のようなものではない。彼の用いる神秘的なアプローチは、実は聖書に基づいている。それは、「見えるものは、見えないものからできた」とする聖書の記述に対する真正面からのアプローチなのである。そして、見えない世界へ自ら赴こうとするのである。いや、彼はこの見える世界から一歩も出ることなく、見えない世界を見ようとするのである。そして、真理の追求には、このアプローチ以外にないのであり、その究極がこの論述の主題である「離脱」なのである。
 それは、瞑想のようなものなのだろうか。そうではない。彼は、考えるのではなく、自らそれを生きるのである。それは、逃避のようなものだろうか。いや、そうではない。彼は、それをもってこの世界に肉迫するのである。そして、キリストと困難をも共にすることを願うのである。彼は語った、「さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の速い動物は、苦しみである。キリストと共に最も大きな苦しみに立つ人たちにもまして、永遠なる甘美を多く享受する人などはいないからである。苦しむことほど苦いものはない。しかし苦しんだことほど甘美なこともない。世間では、苦しむことほど身を醜くするものはないが、逆に神の前では、苦しんだことほど魂を飾るものはないのである。このような完全性が立つことのできる最も確固とした基盤は謙虚さである。その人の本性が地上で最も低く身を屈めれば、その人の霊は神性のはるか高みへと舞い立つからであり、愛は苦しみを、苦しみは愛をもたらすからである。それゆえ、完全なる離脱に至ろうと願うものは、完全なる謙虚さを得ようと努めなければならないのである。そうすれば神性の近くにまで至ることとなる。このことがわたしたちすべての者にかなえられますよう、最高の離脱が、それは神自身であるが、わたしたちを助けてくださるように。アーメン。」

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2010/04/08

神と神性とについて

 「神は、ご自身の形に人を創造された」。エックハルトは、この聖書に記された「人の創造」というできごとを特別なものと見る。彼は語る、「造るということは、簡単なことである。しかし創造するといったとき、わたし(神)が創造するものは、わたし(神)自身であり、わたし(神)自身によって、わたし(神)自身の内へ、わたし(神)の像を完全に写し入れるのである」と。すなわち、これが彼の語るところの「流出」というできごとであり、私たちは、神の元から外へと流れ出ながら、同時に神の内にいまもそして永遠に留まり続けているのである。それは時間の内においては、或る特定の時に始まったのであったが、また同時に永遠の内においては、現在も働いている永遠に不動なる神のわざであり、この不動性により、すべてのものは動かされているのである。つまりこの「流出」においては、「出てくること」と「出て来たところへ戻ること」とは、一つのことである。聖書に「主は、あなたの出ずると入るとを守られる」とある通りである。これに関して私たちは、聖書の中にいくつかのモチーフを見い出す。ヤコブもイスラエル民族も、主イエスが語られた「放蕩息子の話」も、もと出てきたところへの回帰を語っているのであり、「彼らが出てきたこと」と「その元の場所へ帰ること」とは、「流出」という神の永遠のわざにおいて、一つのことだったのである。
 さて、私たちは、これらの体系の中のどこにおいて神を認識するのだろうか。もちろん神の外においてである。組織であっても何であっても、それを客観的に認識するためには、その対象の外へ出る必要がある。神は、私たちという神のわざを通してご自身を客観的に認識されるのである。しかし、ものごとの本質を知ろうとすれば、自らその中に属することが必要となる。そこでこの本質の認識への契機は「回帰」の内にこそあるのである。
 しかしこの「回帰」はまた、「一(いつ)」への回帰であることを認識する必要がある。そこでは、すべてのものは一であり、この一であるものについて人は語ることができない。かつて私の永遠なる流出において、すべてのものが語った「神が有る」と。しかし、回帰においては、すべてのものは沈黙する。それは、永遠なる運動であり、私はすべてのものを御子を通じて神から相続し、それらと共に神の元へと回帰するのである。そしてそれは、私一人で行うべきことなのである。つまり、すべての被造物が「神」と叫んだのは、それを通して私が神を認識するためであり、その結果私がすべてのものを取り戻し、それらを神のものと成すためだったのである。このことのモチーフも聖書の中に見出される。すなわち、聖なる民イスラエルによる異民族の征服、そして約束の地の奪還であり、そのことを主イエスはまた、「天国は、激しく攻められている」と言われたのである。エックハルトは語る、「すべての被造物はその有のためにその命を捨てる。すべての被造物は、わたしのうちで精神的に存在しようとして、みずからをわたしの知性の内へと運び入れるのである。すべての被造物が神へと再び帰りゆくのを用意するのは、わたしだけなのである」と。
 しかし、そのようにして、私が神の元へ帰り来たるとき、そこには何が見出されるのだろうか。しかしそれが実は、何もないのである。そこには、私が認識できるような被造物は、文字通りには存在しない。そこでは、すべてのものは一つだからである。そこにあるのは、すべての被造物の原像であり、そこには区別も概念もない。それゆえ私の理性は、それらを認識できないのである。そればかりではなく、私は私以外の人間さえも認識できない。そこでは、すべてのものが一つだからである。つまり、そこでは私は、私以外の人やその他の被造物を認識する必要すらないのである。なぜなら、エックハルトによれば、そこで私は、すべてのものを動かす不動の原因だからである。彼は語る、「わたしが神の内へ帰り来て、神のもとに立ちとどまらなければ、わたしのその突破は、わたしの流出よりもはるかに高貴なものとなる。わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」。

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2010/04/02

観想的生と活動的生とについて

 ルカの福音書に出てくる「マリアとマルタ」の話は、信仰における観想的生と活動的生とを表しているとエックハルトは言う。
 観想的生が信仰的なものである限りにおいて、それは、目に見えないものに心の目が開かれ、その重要性に気づき、それに憧れ、求めるという点で、生まれながらの人に比べて、真理の探求という面で卓越したものである。他方、活動的生が信仰的なものである場合には、それは、観想的生の持つ、そのような真理への執着からも解放され、真理を求めることをもはや越えて、真理を生きる者とされてるということにおいて、観想的生に勝る信仰の段階であると見ることができる。
 しかし、信仰的にそのように卓越した状態にあったマルタが主イエスから、「あなたは思い煩いの中にある」と言われているのである。そこでマルタは、このとき何事かに思い煩っていたのであり、彼女のように信仰的に高い段階にある者も、ときに思い煩うことがあるのである。
 エックハルトは語る、「さてマルタは言う。『主よ、彼女にわたしの手伝いをするよう命じて下さい』と。マルタは不機嫌になってこの言葉を語ったのではなく、むしろ彼女は、愛から出る好意にかられてそう言ったのである。わたしたちは、それを愛から出る好意、愛の叱責と呼ばずにはいられない。それは、マリアが魂の歓喜にすっかり満足して浸りきっているのをマルタが見たからである」と。
 つまり、いかに信仰において卓越していても逃れられない思い煩いというものがある。しかもそれは、他ならぬ信仰の一つの契機であるところの愛から生まれ来るのであり、キリストの苦しみもこの愛に発するものであった。しかし、もし思い煩っているその人が信仰に立っているのなら、それはそれ自体たしかに思い煩いではあっても、世の人の体験する思い煩いとは本質的に異なっているとエックハルトは言う。彼は語る、「愛するマルタは思い煩いの中ではなく、思い煩いのかたわらに立っていたのであった。その場合、時間の内における働きは、何らかの仕方で神の内へと没入している場合と同様に高貴なものとなるのである。なぜならば、その働きは、わたしたちに分かち与えられうるかぎりの、最高のものにまで、わたしたちを高く上らせるからである」と。
 私たちがこの世界にある限り、思い煩いもまたそこにある。いや思い煩いだけでなく、すべての悲しみ、苦しみもまたそこにそのままにあるのである。しかし、神の友である人にとっては、彼が思い煩いや悲しみ、苦しみの中にあること、そのこと自体は、彼を決して思い煩わせることがない。彼は、神への変わらぬ信頼と愛との内にその状態の中に留まるのである。もはや彼にとって、今体験しているところの困難から解放されるかどうかは問題ではない。彼は、神を信頼しており、神はその全能により、彼をいつでもその困難から解放することが可能であることを信じているのである。このような人にとって、一切のこの世的な諸概念は、もはや意味を持たない。人々が神からもっとも遠いと思っている苦難や喧噪の中で、彼は神の最も近くにいることができる。彼が最も自分自身を意識する場所である心の密室において、彼はそこに神を見いだす。彼の肉体が弱り、あるいは疲れ、自分の弱さを重苦しく感じるそのとき、彼のそば近くに寄り添われる神の臨在を強く感じるのである。これこそ、生前のキリストが持っておられたものであり、いま私がこのブログカテゴリーで追求しているところの神秘主義の光なのである。

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2010/03/26

像を介さぬ認識について

 「天地は、滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることはない」とキリストは言われた。つまり、「形あるものは滅びる」のであり、その「形あるもの」に頼る者、それに望みを置く者もまた虚しいのである。それでは、どうすればいいのか。キリストが言われたように、キリストの言葉すなわち聖書に望みを置くべきなのである。神は、言葉によって世界を創造された。そして、同じ言葉によって、この世界を保っておられるのである。また神は、人をご自身の形に創造された。そして、命の息、すなわちご自身の霊をその中に吹き込まれたのである。それゆえ、神の似姿に創造され、神ご自身の霊を吹き込まれた人間が、神の言葉聖書の教えるところに従ってこの世界を見るとき、当然彼は神を認識することができるようにも思われる。しかし、事態はそれほど単純ではない。というのは、この世界には時間というものがあり、その中においては、形あるもの、すなわち像を持つものは、すべて移ろい、変化するからである。つまり、「像を介した認識」においては、私たちは決して真理をつかむことができないばかりか、万障の移ろいの中に目を眩まされ、翻弄されてしまうのである。それでは、どうすればよいのか。エックハルトは語る、「あなたは、あなたの自己からすっかり離れ、神の自己に溶け入り、あなたの自己が神の自己の内で完全にひとつの自己となるようにしなければならない。そうすれば、あなたは、神の生起せざる有のあり方と、神の名づけざる無のあり方とを、神と共に永遠に認識するのである」と。
 「あなたがたは霊において新たにされなければならない」とまた彼は言う。「霊において新たにされる」とは、いかなることか。それは、私たちがこれまで行っていた認識の仕方を根本から改めて、ただ神のみをその有り様のままに、像によらずに、直接に認識するということである。それはつまり、誤解を恐れずに言えば、自ら神の姿になることによるのである。しかしそれは、神を冒涜することになるのだろうか。しかし私たちは、神の似姿に造られ、栄光から栄光へと主の御姿に変えられることを願うことを許されているのである。
 しかし、それらのことの目的は何であろうか。それは、「神を愛すること」である。それゆえ、私たちの究極の目的は、この世界を認識することでも、また自分自身を認識することでもない。それは実に「神ご自身を認識すること」なのである。ああ、神よ。あなたを認識させ給え。あなたを求めています。あなたを愛していますから。
 しかしエックハルトは語る、「あなたは神を非精神的な仕方で愛さなくてはならない」と。なぜであろうか。それは、神には形も概念もないからである。私が自分の精神すなわち心で認識するものは、すべて形や概念を持つものである。しかし神には、形も概念もない。神は永遠に変わらない。変わるのは私たちの方なのである。なぜなら、私たちは時間の中を生きるのであり、そのことは変わることを意味するからである。どのように変わるのであろうか。有から無へと変わりゆくのである。私たちの心からすべての像が取り去られ、すべての概念も取り去られるとき、それはまるで死する時のようでもあるが、私たちは、自分自身を見て神を認識する。神から私たちには、何も来るものはない。神は、私たちに何も新たに提供されない。しかし、神の臨在は私たちの内にあり、キリストは私たちと共におられるのである。
 そのとき私たちは、神を像も概念もなしに認識する。そのとき私たちは、神に近づくのだろうか。あるいは私たちは、神の元へと昇りゆくのであろうか。否、私たちは沈みゆくのである。像を持つものから像なきものへと。概念を持つものから概念なきものへと。すなわち、有から無へと、永遠に沈みゆかなければならないのである。
 エックハルトは祈る、「そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように」と。

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2010/02/25

三つの闇について

 かつて主イエスは、群衆をあとにして山に登り、そこで口を開き、神の国について教えられた。そのように、「神の教えを受けようとする人は、人々の間に広まっている一切のことの上へ登りゆき、それを越え出なければならない」とエックハルトは言う。それは、神がその本性の高みと甘美さとを告知しているものであり、そこは天使も到達することのできない、はるかな神の高みなのであるが、魂はそこにまでも到達することができると彼は言うのである。しかしそのために人は、「精神を集中し、自分自身の内に堅く身を閉ざし、すべての不安や心配や低き事物への愛着に背を向けていなければならず、そのようにして、多岐にわたり、また細かく分けられた魂の諸力、そして論証的な思惟さえをも越え出ていかなければならない」とエックハルトは言うのである。
 精神は、三つの認識力を持つと彼は言う。「第一のものは身体と結びついたものであり、たとえば目がものを見て、その像を受け入れるように像を受け取る。第二のものは精神的なものであるが、身体的事物からなおも像を受け取る。第三のものは精神における内的なものであって、像も写しもなしに認識する。この認識は天使にふさわしいものである」と。そして人には、これら三つの認識を持ってこの世界を生きながら、また一方でそれらを越え出て、遙かな高みへと到達し、そこで神の教えを聞く力が与えられているのである。エックハルトはその力を、これら三つの認識に対応して、それらの超越としての「三つの闇」として提示するである。
 第一の闇とは、「人が無に執着して盲目となり、被造物について何も知ろうとしなくなること」であり、これは身体的な認識からの自由である。第二の闇とは、「魂が何も知らず、何も認識しようとしなくなること」すなわち、一切の論理的思考からの自由である、そして第三の闇とは、魂が天の光さえも求めなくなることすなわち、すべての意志、意欲からの自由である。というのは、エックハルトによれば「天はそれ自身においては輝きもせず、冷たくも、暖かくもない」からであり、そのようにして「魂もまたこの闇の中では一切の光を失う」のである。
 彼は語る、「神は闇の中で輝いているがそこでは魂は一切の光を越え出ている。確かに魂は、その諸力の内で神の光と甘美さと恩寵とを受け取る。しかし、魂の根底にはひとり神以外、他の何ものも入りこむことはできない」と。魂は、どのようにして一切の事物を越え出て行くのだろうか。それは、知性が魂から発出することにおいてである。その場合、発出した知性自身は、魂自身とは別の本性の内に入り込んでいくことになる。この知性とは、感性や理性を越えた高次の知性のことである。そして魂は、その可能性として、それらの場所にさえも留まることなく、それらを遙かに越えているのである。
 魂から知性が発出すること、そして知性が魂自身とは別の本性の中に入って行くということの目的は、エックハルトによれば、「魂は神の子であるこの『像』の内へと変容し、写され、刻印されなければならない」ことによる。彼は語る、「もし魂が一切の像を越え出るならば、魂は、神の子であるかの像の内に刻印されるのだ」と。そして、「私たちは、神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである」。

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2010/02/23

無である神について

 「神には、いかなる入り口もない」とエックハルトは言う。「入り口」は、内部と外部の接するところである。したがって「入り口がない」とは、内部と外部とが互いに接しておらず、完全に分離しているということである。つまり、人がこの世界を見ている間は、神を見ることはできず、反対にもし神を見るならば、今度はこの世界のものを見ることは、いっさいできないということである。ダマスコへの途上で、パウロはそのようにして神を見たのだとエックハルトは言う。そして今日においても、神を見ようとすれば、そのようにならざるを得ないのである。彼は語る、「恩寵や光が上昇したり増大したりすると理解している人は、まだ一度も神の内に来たことのない人である。神は増大していくような光ではけっしてない。確かに光の増大を通じて神へと到達したということはあるにちがいない。しかし光の増大のただ中では神の片鱗もうかがうことはできないのである」と。
 それでは、私たちはどうすれば神を見ることができるのだろうか。エックハルトは、「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである」と言う。そのように私たちは、神以外のもの、すなわちいっさいの知恵や戦略、教訓や修行、そしてときには聖書さえもあきらめ、それらから離れて、ただ神のみを見ようと努力しなければならないのである。
 しかし、それにしても、ただむやみやたらに神を追い求めても、それは空を打つ拳闘となってしまわないだろうか。それに対しては、アウグスティヌスは、「神は真の光であり、魂にとってのよりどころであり、魂自身よりも魂に近くあるので、魂がすべての生成した事物から離れるならば、神が魂の内で輝き光を放つということは必ず起こらなくてはならないことなのだ」と言う。つまり、神を追求するというよりも、むしろ待ち望むのである。しかし、この点における従来のアプローチとの違いは、いっさいの備えを持たないということである。つまり、文字通り何も考えず、何もしようとせずに神を待ち望むのである。なぜなら、何か備えをするなら、それはこの世界からの連続的なアプローチとなり、それでは入り口のない神に到達することはできないからである。
 そこで私たちは、神にお会いするために、どのような備えもあえてしてはならない。ただし、努力は最大限にすべきなのである。すなわち、自分を無にするという努力である。自分の存在が無に等しくなり、その結果、すべての事物が彼にとって無に帰するとき、そのときの彼の状態は、まさに彼が神の内部からすべての事物を見るときの状態なのであり、そのようにして彼は、自分が神の内部にいることを知るのである。
 それでは、すべての事物を無と認識し、それにより神の内に入った者は、神をどのように認識するのだろうか。エックハルトによれば、それもまた無なのである。ああ、それではどうすれば良いのか。しかし私たちはここで、認識ということに関する自分の観念を変えなければならない。「認識とは、何かを捉えることである」という観念をである。といのは、何かを捉えるとき、私たちは媒介を必要とする。そのとき私たちの認識は、常に間接的なものとなる。たとえば、なにか物を見るとき、私たちは、その物から反射してくる光を捉えることによってその対象を認識するのであって、その対象を直接に認識するのではない。それゆえ私たちは、認識しようとする対象と一つになることはない。そのように私たちは、神の元から流出し、この世界の中にばらまかれているのであり、お互いに孤立していて、認識においても愛においても一つになることはない。しかしそれらは、神の内においては、相等しく、神はそれらのものに等しく与えるのである。エックハルトは語る、「神は被造物すべての内へと流れこむが、神はしかしながらそれらすべてに触れられることのないままでいるのである」と。私たちは、これをつかまなければならない。これとは、何であろうか。それは、「自分を変革する」ということである。「神には、いかなる入り口もない」、それゆえ、どのような手段を持ってしても、そこに入ることはできない。それでは、どうしたら良いのか。自分の内に神を見いだすのである。神はあなたを、ご自身の似姿に創造されたのだから。あるいは、「キリストの内に自分を見いだす」のである。キリストは、神の栄光を捨てて、あなたと同じ姿になられたのだから。この二つは、旧新約における神秘の真髄である。自分を変えるのは、ある意味で自分で行う作業であるが、そこに神の恩寵が働く必要がある。ちょうどパウロが天からの光で盲目とされたように。恩寵は、天から降り注いでくる。しかしそれが来たとき、あなたは自分を変革しなければならないのである。

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2010/02/20

三つの内なる貧しさについて

 「自分」という言葉は、ある意味で矛盾を抱えている。それには、「自分を認識している自分」という考えが含まれている。しかしそもそも、自分というものを厳密に認識し得るものだろうか。例えば、目はそれ自身を見ることができない。もし見ようとすれば、鏡が必要になる。そのように私たちは、自分を直接に認識するのではなく、外界からの反動として認識するのであり、かくして私たちの持っている自己認識の多くは、そのようにして得られたものであることを認めざるを得ない。しかし、だからと言って、私たちの周りの外界が文字どおりに存在するという証明も、また厳密には不可能なことである。
 しかし、デカルトが発見した「考えるという行為をしている我が存在することは疑い得ない」という事実から、外界がもし存在しなくても我は存在するのであり、この「根元的な我」をエックハルトは、「外界に依存する我」から区別する。この「根元的な我」は、彼によれば、実に神にも依存しない我である。なぜなら、私の知っている神は、外界に依存する私の認識によって得たものであり、その意味で外界に依存した神だからである。そこで、エックハルトによれば、我と外界、そして神は、一つの閉じた宇宙を形成する。これら三つはそれぞれ、どれが最初ということもなく、相互に依存した存在であり、一つが存在しないなら他の二つも存在の基礎を失うのである。この「外界に依存する我」は、「根源的な我」の同意なくしては存在しない。その意味で、「外界に依存する我」は、「根源的な我」の自由な意思決定により外へと歩み出て、自己の被造的有を受け入れたのであり、そのようにしてそこでひとりの神を持ったのである。エックハルトは言う、「なぜならば、被造物が存在する以前には、神はまだ神ではなく、むしろ神は、神があったところのもの、であったからである。被造物が生じ、その被造的有を受け入れたときに、神は、神自身においてではなく、被造物において、神となったのである」と。そこで、「根源的な我」、「外界に依存しない我」は、この閉じた宇宙の中にあるすべての被造物とそれを通して認識される神との存在原因なのである。
 しかし先に述べた、外界に依存することのない「根元的な我」に対しても、やはり神という存在が想定される。神は、外界の存在とは関わりなく存在するからである。これは、エックハルトの言う「神性」であり、神の根源的な本質である。この我と神の関係こそ、真に根源的なものであり、それは、被造物やそれを通して認識される神に依存しない関係である。この認識に立つ者は、自分の住む宇宙のはかなさを真に認識し、そこにおいて生きる目的をその世界の中で探し回ることはもはやしない。彼が見入っているのは、外界とは関係なく、自分に相対している「根源的な神」であり、エックハルトの言う「神性」である。エックハルトは語る、「ある偉大な師が、彼の突破は彼の流出よりも高貴であると言っているが、これはまことである。わたしが神から流れ出たとき、そこですべての事物は語ったのである。『神がある』と。しかしこのことはわたしを浄福にすることはできない。ここではわたしはわたしを被造物として認識するからである。しかし突破においては、わたしは、わたし自身の意志、神の意志および一切の被造物を超え、神でもなく、被造物でもなく、むしろ、わたしはわたしがあったところのものであり、今も、これからも絶えることなくありつづけるところのものである。この突破において、わたしは、すべての天使を超えた彼方へとわたしを連れてゆくひとつの飛翔を受けとる。この飛翔の内で、わたしは、神が神としてあるすべて、神的なわざのすべてをもってしてもわたしを満足させることができないほどの大きな豊かさを受けとるのである。なぜならば、この突破においては、わたしと神が一つであるということがわたしに与えられるからである」と。
 エックハルトの言う、この境地に入った人がはたしているだろうか。いるかも知れない。たぶんいるだろう。しかしもしいるなら、その人はいったいどういう人で、何を語るだろう。いや、彼は普通の人なのである。この境地には、人の認識を持ってしては入ることができないから。この境地に入った人は、そのことを自覚するだろう。しかし彼は、その知識を持って、彼の閉じた世界に再び帰還することはできないのである。しかしそれにも関らず、エックハルトはこの境地に入ることを追求することを教えるのであり、私たちもそれを追求すべきだと思うのである。そう、エックハルトの教える、熱心な祈りのなかで。

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2010/02/17

魂の内にある火花について

 エックハルトはここで、自分の前に置かれた講壇とそれを見ている自分の目とに関する比喩から始めて、人の魂と神との共通性について語っている。その根底にあるのは、神が人をご自身の形に創造されたという聖書の記述である。つまり、「神は、人をご自身の形に創造されたと聖書に記されてあり、かつそれが『この部分は』と限定されていない以上、人は神にそっくりに造られているのだ」と彼は言いたいのだろう。それでは、人が神にそっくりだということは、何を意味するのだろうか。それは、自分を見れば神が分かるということと、自分の中に、神のように機能する部分があるということである。
 エックハルトによれば、主イエスが言われた「わたしを見た者は神を見たのです」という言葉は、「神はイエス・キリストというただ一人の人においてご自身を表された」という意味に留まらない。というのは、主イエスはまた「わたしを信じる者は、わたしのしている業をする」とも言われたからである。そこで、神は私たちを通してもこの世界にご自身を表されるのである。そこで、もし私たちが、自分の体を生きた聖なる備え物として神に捧げるなら、私たちは、その内に神が住まいされる聖なる神殿となるのである。そして、エックハルトによれば、その内に神が住まわれるということ、そして神の器とされるということは、神の側だけの業ではない。それは、私たちも参与しなければならないことなのである。しかもそれは、ちょうどマリアが主イエスを生んだのと同じように、決心と献身を要することなのである。
 エックハルトは、人に与えられている「生む」という機能を特別なものと見る。それは、その営みを通して、私たちが霊的な世界の事実を認識するためなのである。それは、父なる神が御子を生むという聖なる永遠の業から出ている。それは、肉親としての父親から天の父なる神を想い、母親から主の母マリアの献身と忍耐を想うためであり、さらにそれらを通して、自分自身が御子イエスを自己の内に懐胎する、すなわち「生む」という事実を知るためなのである。
 しかし、なぜ私たちが自身で神を生まなければなはないのか。エックハルトによれば、それ以外に私たちから神へのアプローチは存在しない。神は、私たちの心に主イエスを懐胎させられる。しかし、実際に生むのは、私たちの方なのである。それは、マリアが聖霊によって身ごもった後に、家畜小屋で御子イエスを生んだのと一緒である。そして、この自ら神を生むという働きは、神から魂に与えられた働きなのであるが、それは魂自身の認識を越えている。肉体における生むことが半不随意的な機能であるように、霊的に生むということもまた、半不随意的な働きなのである。それは、エックハルトによれば、「神自身を生みこむ神の働きの内で神を受け取る」ということである。この「霊的に生む力」は、精神の他の力と共に人に与えられ、それらの力と共に魂の内にあるのだが、それらの力との一性よりも神との一性の方が大きいとエックハルトは言う。そしてこの力によって、まるで父なる神が御子を生むように私たちも御子を生む(生まされる)のであり、そのことを通して私たちは神をありのままに認識するのである。しかし、それが可能となるためには、私たちがこの力を正しく認識し、他の力から区別する必要がある。つまり、「霊的に生む」という力を聖なる三位一体から発する力と捉えて、それに依り頼み、他の力を軽視し、それらによるこの世界の認識とそれに基づく諸々のもくろみや束縛から自由にならなければならないのである。
 そのとき私たちは、自分という1個の存在に与えられている諸能力という観点、つまり自分という存在を基点とした観点から解放され、すべての存在を貫く神の働きとしての観点からこの世界を捉えるようになる。これは、存在を超越する方向性であり、その思考は自分を突破する。そればかりではなく、やがてすべての存在を突破せずにはいない。しかもその中には、聖なる三位一体における三つの位格も含まれる。そしてエックハルトによれば、驚くべきことに三位を超越した、彼の言う「神性」という神の本質さえも、それが「存在」として捉えられ得る限り突破の対象となる。しかしその後に、いったい何が残るというのだろうか。神ご自身、いや神ご自身の根底と言えるものさえ突破し、無に帰してしまった今となっては。しかしエックハルトによれば、そこにあるのは「満足」であるという。しかしこの満足は、私たちが通常想い浮かべるようなものとは異なる。というのも、それは神ご自身が持っておられるものなのである。それは、いったい何なのか。エックハルトによれば、それは「単純なる静けさ」であり、「静粛なる砂漠」である。そしてそこには、「だれも住まいするものがない」、実際はあるのかもしれないが、たとえあったとしても、それを認識する手段はない。そこには、実に概念というものがないのだから。そこは実に「不動なる根底」であり、「内的世界の最内奥」なのである。

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2010/02/12

神が魂の内に子を生むということについて

 「神はすべての被造物をひとつの発語の内で創造するのである。つまり魂が命あるものになるために、そのために神はそのすべての力を生むことに費すのである」とエックハルトは言う。この「命あるもの」とは、「つねに若い」ということであり、「つねに若い」とは、「時間から自由である」ということである。「知性はいかなる時間にも触れることがない」と彼は言う。
 私たちは、時間の中で生活しており、時間の束縛の中にある。しかし、時間を認識できるということ、それを数えることができるということは、知性が時間を越えている証拠である。しかし私たちの肉体や感覚は、時間に完全に縛られている。すべての物理法則もそうである。それゆえ私たちは、この時間の中に縛られている自分と周りの世界を認識し、息を詰まらせるのである。しかし、私たちの知性自体は、時間に縛られてはいない。私たちは、自己の知性において、時間を止めたり、永遠に向けて想いを馳せることもできるのである。しかし私たちは、生まれながらの生活の中で、時間に縛られた思考形態に慣れてしまった。つまり、せっかく時間から自由な知性を所有していながら、あたかも自分の心の中で時間が流れているかのような不自由な思考をしていることがあるのである。しかし、主イエスは言われる、「神には不可能なことはない」と。神には、すべてが可能なのであり、この信仰の確信こそ、私たちを縛っている物理法則から自由にし、時間から解放するものである。
 それは、どのようにして起こるのか。私たちが主イエスを信じ、その僕となって彼に従うときにそれが起こるのである。そのとき、神の御子イエスのゆえに、神的恩寵が父なる神の元から私たちに注がれる。しかしエックハルトによれば、「恩寵が何かのわざをなすということはない。恩寵がそこに現れるということが恩寵のわざなのである」。そればかりか「恩寵は知性の内へも、意志の内へもやってこない。恩寵はどんなわざもいまだかつて一度もなしたことがなく、わざを通じて魂を神との合一へと導いていくこともないのである。恩寵とはむしろ神の内に魂が住みこむこと、共に住まいすることなのであり、このことに比べれば、いままでにわざとよばれたもの、外的、内的な一切のものは、あまりにも価値が低すぎるといわなくてはならない」のである。
 そこで私たちは、すべてのことを自分の力でなさなければならない。そしてそのために、「神はすべての力を、生むことの内で費やすのであるが、そのことは、魂が再び神へと戻り来ることを目ざしているのである」とエックハルトは言う。そして、神の御子が私たちの心に生まれると、「神はその子の内で自分自身を語り出す」のである。そのとき、魂は再び命にあふれたものとなり、知性は時間から解放され、神にはすべてが可能であることを実感するのである。そしてその究極の業は、エックハルトによれば、「魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生む」ということ、すなわち「魂が神をまさに自分自身から生むこと」である。この生むというのは、創造の模倣であり、生む本人は、自分のしていることの責任をとれるわけではない。生むというより、むしろ生ませられるのである。ちょうどマリアが主イエスを生んだのと同じように。そこでは魂は神の似像である。エックハルトは語る、「魂が神の像であるような場で生きるときに、魂は生むのである。そこに本当の合一がある」と。
 神との合一は、ここにこそあり得る。すなわち、神が魂をご自分の似姿に創造されたという一点に。それ以外の接近は、神への冒涜である。エックハルトは語る、「魂が神の像であるところでは、天使も全被造物も、魂を神からけっしてはなすことはできないであろう。これが本当の合一であり、この内に本当の浄福がある。多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを越えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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2010/02/10

神の言について

 「神はすべての事物の内にある」とエックハルトは言う。しかしそれは、本来的には、魂の最内奥を意味する。神はそこで何をしているのだろうか。彼によれば、「神はこの世界をそっくりそのままこの今において創造する」のである。「神が六千年あるいはそれ以前にこの世界をつくったとき創造したすべてのものを、今、神はいっさいがっさい創造するのである」と。
 神は、この世界を言葉により創造した。それゆえ、魂の最内奥には、常に神の言葉が語り出されている。そこでエックハルトが勧めるのは、まずそのことを覚ること、そしてそれをもって神の子として、この多様な世界の上に基礎づけられている状態にあって、あなたの努力を試みよということである。それは、あなたにとって有益なことを生み出すことである。それは、神のみ旨にかない、神に喜ばれるすべての良いことである。
 ここでエックハルトが言っていることがもし本当なら、私たち一人一人は、神の天地創造に関与しているのである。しかも神の独り子として。これがエックハルトの教える宇宙の構造である。すなわち、この宇宙はあなただけのために創造され、あなただけのために動いているということである。そしてあなたは、それを父なる神から相続するのである。それゆえ、あなたは神の独り子として、ただ一人あなたの住むこの宇宙を治めているのである。そのあなたの宇宙は、果たして他の人の住む宇宙と接点があるのだろうか。それは、きっとあるに違いない。まさにいまあなたが見ている通りに、あなたの宇宙は、他の人の宇宙とオーバーラップしていることだろう。しかし、それらは本質的には、別々の宇宙なのである。そればかりではない。あなたは、神と共通点を持っていない。あなたは神と完全に別の存在である。あなたは、神から創造され、そのあなたの内に神は御言葉を語り始められる。それにより、あなたの中で万物が創造され、あなたはそれらを知覚する。そのことにおいて神はあなたの内に臨在する。しかし神ご自身はあなたの中におられるのではない。神ご自身は、あなたの外におられるのである。そして、あなた以外の精神も、またあなたの外、すなわちあなたの宇宙の外にいるのである。このような互いに孤立した世界、物理的には何も通い合うもののない世界、そこに私たちはいるのである。それは、私たちの目に見えるありさまを見れば一目瞭然であろう。一人ひとりに独立した体が与えられ、その中に孤立した魂による孤立した精神が内包されており、人の心は互いに通じ合うこともなく、互いに相手の考えていることを知る方法はない。このような世界に生きていて、いったいなんの望みがあるというのだろうか。
 しかしエックハルトは語る、「そこにおいて、あなたの努力を試みよ」と。あなたが、あなた自身を捨てて、自己を無に帰するとき、主イエスが言われた、「一粒の麦が地に落ちて死んだとき」、そこに新しい可能性が始まるのである。それは、あなたの被造性が終わる時である。そして、あなたの被造性が終わるということは、あなたの孤立性もまた死ぬということである。あなたと神は、違う宇宙に住んでいながら、一つの存在となる。例えあなたの中に神がおられなくても、神があなたの宇宙の外におられたとしても、それは何の関係もない。その場所であなたは、神の独り子であり、あなたと神は一つなのである。同じように、あなたと他の人々も、同じ神の子なのであり、等しく愛し合う兄弟なのである。そのようにして、あなたは、真にこの世界に復帰するのである。
 エックハルトは語る、「第一は、あなたのものすべてを取り除き、そしてあなたを神に委ねよ、そうすれば、神が神自身のものであるように、神はあなたのものとなり、神がみずから自身にとって神であるように、神はあなたにとって神となる、けっしてこれより劣ることはないということである。わたしのものは、だれかからもらったわけでもない。だれかからもらったものであれば、わたしのものではない。それはくれた人のものである。あなたは頭をもたげよ、という第二の意味は、あなたのわざすべてを神へと向けよ、ということである。多くの人たちはこのことを理解できないでいる。しかしそのことはわたしには少しも不思議なことではない。なぜなら、このことを理解しようとする人は、一切の地上の事物から離脱し、それを高く超えていなければならないからである。わたしたちがこの完全性へと到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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