2009/11/17

クリスマスイブ

コリント人への手紙 第二 第8章9節

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』

 皆さんはきっと、一度はクリスマスの聖画をごらんになったことがあるのではないでしょうか。家畜小屋で赤ちゃんが眠っているあの絵画のことです。両親や何人かの人々と共に、馬や羊たちも生まれた赤ちゃんをやさしく見守っています。とても微笑ましい感じの絵なのですが、実はこの家畜小屋は、「貧しさ」を表現しているのです。赤ちゃんの両親マリアとヨセフは、住民登録でごった返していたベツレヘムで、その日に泊まる宿屋を探していましたがどこも満室でした。たぶんお金をたくさん積めば泊めてもらえるところもあったのでしょうが、彼らには、そのようなお金はありませんでした。しかしある宿屋の主人の親切により、家畜小屋に泊めてもらえることになったのでした。絵画では、わりときれいに情緒良く描かれていますが、実際は家畜の臭いがするきたないところだったと思われます。その赤ちゃんは、飼い葉おけに寝かされていました。
 聖書は、その赤ちゃんがなんと星輝く天から下ってきた神の独り子だったと言っています。天にいたとき身にまとっていた大いなる栄光をみな捨てて、一人の弱い赤ちゃんとして、家畜小屋に生まれました。それがキリストです。先ほど読んだ聖書の箇所に、「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました」とあるのは、このことを言っています。そして聖書は、続けて言います。「それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」と。これは、一見矛盾した言葉にも聞こえます。人を富ませることができるようなそういう種類の「貧しさ」というものがあるのでしょうか。キリストが持っていたのは、いったいどのような「貧しさ」だったのでしょうか。
 第一にそれは、「それまで誰も知らなかった貧しさ」でした。キリストは、お金も権力も持ってはいませんでしたが、彼の周りには、たくさんの人々が集まっていました。彼は、この世的な財産や快楽を求めず、外見は貧しかったのですが、心は豊かでした。彼と会う人々は、みな彼が何かすばらしいものを持っていると感じ、自分もそれが欲しいと思いました。彼らもこの世のものでない、天の喜びに目が開かれたのです。そして、その喜びを彼らから奪うことのできるものは何もなかったのです。「神の国は、あなたがたの直中にある」とキリストは言いました。今の時代は、飽食の時代、物質的繁栄の時代です。しかし、人間の欲望は尽きることがありません。物やお金、着るものや住む所、それらを手に入れれば入れるほど、もっと多くのものを望むようになります。そればかりでなく、今日私たちは、人類が歴史を通して物質的な繁栄を追求してきたことの報いを受けているようです。地球環境の破壊、たくさんの交通事故、その死者の何倍にもなる毎年の自殺者、それらの解決困難な問題を前にして、私たち現代人は、成すすべを知りません。しかしもし私たちが、キリストが持っていたあの「聖なる貧しさ」を所有することができれば、もうあれが欲しい、これが欲しい、ああ成りたい、こう成れたらいいなんて、思わなくなるでしょう。現代を襲う諸問題への対応に必要なのは、もしかしたら、大規模な政策以前に、このような他人を思いやることのできる心なのではないでしょうか。
 第二に、キリストが持っていたのは、「神に喜ばれる貧しさ」でした。今日、私たちの周りには、様々な恐れがあります。地球温暖化や核戦争の脅威、失業の恐れから健康維持に至るまで、現代人には気の休まる暇がないようです。それらは、もしかしたら神の怒りの現れではないかと思えるくらいです。そういう理由からでもないでしょうが、元旦には、無病息災を願ってたくさんの人が初詣に行かれます。クリスチャンは、必ずしもそのようには考えませんが。いずれにしても、天の神に喜ばれることは、大きな安心です。キリストは、神の独り子なので、何が神に喜ばれるかを知っておられたのです。そして、そのような生涯を自ら生きられたのでした。そして、こう言われました、「心の貧しい人は、幸いです。天国はその人のものだからです」と。「心が貧しい」とは、この世の富や名声に目を向けず、ただ神に目を向けて生きることです。そのような人を神は喜ばれ、人生を祝福で満たし、さらに天国を約束されるのです。キリストが語ったこの「心の貧しさ」が私たちのものとなるとき、人生のあらゆる祝福と天国の鍵も私たちのものとなるのです。しかしここに一つの問題があります。それはたぶん、このお話を聞いているあなたご自身が感じているものだと思います。それは、「自分はそれを受けるに値しない」という思いです。どこからそのような思いが来るのでしょうか。それは、あなたがこれまでの人生で犯してしまった不本意なことの記憶から来ます。聖書は、それを「人間の罪」と呼んでいます。これがぬぐい去られない限り、あなたは素直な心で神と接することができず、神の祝福を受け取ることもできません。どうしたら良いのでしょうか。それは、この十字架と関係しています。キリストは、当時のローマ帝国から犯罪人と宣告され、十字架刑にかかって死なれました。「それが私たちの罪の身代わりであった」と聖書は語っています。遠い国に生まれた一人の外国人があなたの身代わりとなって、その身に罪を負って死なれたというのです。「どうしてそんなことが」と思うかもしれません。しかし、罪によって神から離れてしまった私たちの心を回復するためには、ほかに方法がありませんでした。しかもそれは、効力のある方法だったのです。というのは、このある意味で突飛な出来事を、そのままに受け入れ、信じる人は、その心から罪に責められる思いが取り除かれ、自由に神に近づくことができるようにされるからです。
 最後に、キリストが持っていたのは、「私たちが成ることのできる貧しさ」、「身に着けることのできる貧しさ」でした。キリストが持っていた「聖なる貧しさ」、それは、難しいものではありません。もしあなたが今日、このクリスマスの日に、キリストが与える祝福された人生を始めようと願うなら、それは十分可能なのです。その第一歩は、先ほど申し上げた通り、キリストの十字架が自分の罪のためだったと告白し、それによりあなたの罪が赦されたと信じることです。そして、ご一緒にキリストに従ってまいりましょう。

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伝道メッセージについて

 伝道メッセージは、聖書研究とはまるで方向性が異なる。まずそれは、未信者に対して語られる。それは、まるでもろ刃の剣のように、するどく心を刺しとおし、隠れていた罪を明らかにする。この点で、伝道メッセージはカリスマ性を持つ。それは、預言にも似て、神の御思いを現わし、裁きと罪の赦しを宣言する。それは、神の言葉が生きていることを何よりも強く証しするものだ。神の言葉には力がある。そして、それは、語られることを求める。伝道メッセージを心にいただいた者がそれを語らないならば、彼は災いである。なぜなら、それは神の邪魔をすることだからである。メッセンジャーは、聴衆に向かって、あたかも一人の人に語るように語る。しかし、神の言葉は生きていて、そこに集う人、一人ひとりに異なったメッセージを語りかける。これは、まさに奇跡である。伝道メッセージを語る者は、彼が語るとき、いつもこの奇跡が起こることを期待する。そしてそれは、起こるべくして起こるのである。それは、神のことばロゴスと共に、その受肉としてのレーマを語る。それにより、その場にいるすべての人が、その語られたメッセージ自体ではなく、それを通して、神から直接に心に語りかけを受けるのである。
 かくして、それは、このブログのカテゴリーの一つになる。それは、聖書が何を語っているかを身をもって知るためである。このブログを読む人に対して、そしてこれを書いている自分に対して。

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