2010/11/05

現存在が理解される場としての教会

 これまでボンヘッファーは。超越論哲学と存在論哲学のそれぞれからの真理へのアプローチが、共に単独では不完全なものとならざるを得ず、従ってそれらのコンビネーションこそが真理への接近の可能性を持つこと、そして、その場合にも、然るべき方法によらなければならないことを能動的に主張してきた。そしてその「然るべき方法」こそが、教会という場の想定であると力説した。しかし、この新しい章においては、彼は、非常に慎重に、この「教会という場」が、あくまで一つの前提であることを告白する。それはまさしく、彼の緻密な思考の成せる業である。つまり、今述べたアプローチは、これまで述べて来たことからの自明な結論ではないのである。というのは、超越論的なアプローチであっても、また存在論的なアプローチであっても、それが啓示というものを取り次ぐためには、それが実存的な様式でなければならい。そうでなければ、それは啓示とは成り得ず、単なる一般的な知識に過ぎないものとなってしまう。啓示とは、神から実存へのインパクトなのである。そこで、そこにはもはや「必然」というものは存在しない。たとえ存在論的なアプローチであろうとも、それがボンヘッファーが言うように、「~における存在」という様式を取る場合には、それは存在そのものではなく、その存在と関わりを持つ実存自身の存在形態のことであり、それはもはや実存的な様式なのである。つまり、それはどこまでも信仰の世界の事柄とならざるを得ないのである。そこで、ボンヘッファーが実証したことは、次のことである。つまり、超越論的なアプローチも、またそれの存在論的なアプローチによる補完も、真理への直接的な接近を実現できない。それが真理への接近となるためには、どうしてもそれらのアプローチを通して、実存自身の存在様式へと帰結させる必要があり、そのとき初めて、実存は自分の外部から、すなわち神から自分へともたらされる新しい知識、すなわち真理を享受する可能性を得るのである。
 そして、キリストの体なる教会こそ、それらのことを可能とする場であり、一つの前提なのである。そこには、教理があり、霊的経験があり、制度がある。そして、それらに応答し、その中で自問しつつ行為する実存がある。そのような状態に自分を置くことにより、人間は初めて、自己を認識し、他者を認識する中で、そこに生きて働くキリストを認識し、それらの全体の支配者としての神を認識するのである。

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2010/11/03

「~における存在」としての人間

 これまでのところでボンヘッファーは、神と人間の接点としての「啓示」の解釈について、まず超越論からのアプローチとして、それを行為として見た場合の利点と難点について考察し、次にそれを補う目的で、存在論からのアプローチを展開した。彼は、この存在論的アプローチについて、次のように述べている。「第一にそれは、人間の実存を包含しなければならない。そして第二に、連続性における存在を考えることが可能でなければならない」と。この包含性と連続性こそ、超越論的アプローチから存在論的アプローチへの要請であり、それらを用いて、上記の二つのアプローチが組み合わさることにより、初めて啓示の解釈は完全なものとなり得るのである。ボンヘッファーは、この「包含性と連続性」を共に実現する存在論的アプローチの具体的な様式を「~における存在としての人間」と表現する。
 これは再び、信仰の先鋭化へのアプローチである。というのも、人間は、この世界の概念を用いて信仰を実践しているからである。たとえそれが信条であっても、教理や奥義であっても、また教会であっても、それらはみなこの世界のものであり、それらは、人間の意のままに取り扱うことが可能なものである。そのようにして、人間はこの世界の中に自分の依存する場所や事柄を作りだす。それは、ともすると偶像化する可能性を秘めてはいるのであるが、それでもそれは、私たちが信仰に踏みとどまるために必要な手段なのである。というのも、目に見えない物は、人間にとっての実質的な助けにはならないからである。聖書が手にとって見ることのできる神の言葉であるゆえに、それは私たちを霊的に養うことができるのであり、主イエス・キリストが人と成られたのも同様の理由からなのである。しかし、この具体的な手立てを文字通り崇め奉るなら、それは偶像崇拝となってしまう。そこで私たちは、その具体的な手立てへの依存方法について追及しなければならない。その様式がボンヘッファーの言う、「~における存在としての人間」というアプローチなのである。つまり、依存形態の焦点は、「具体的な手立て」そのものにではなく、それに依存しようとする「人間の状態」に置かれているのである。そしてこれは、実存的なアプローチである。超越論的アプローチが徹底して実存的であったように、存在論的アプローチもそうであるべきであり、しかも「包含性と連続性」を提供するものでなければならない。「~における存在としての人間」というアプローチは、まさにそれを提供するものであり、この「~」こそ、「教会」であるとボンヘッファーは言うのである。

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2010/11/02

啓示の認識

 ここで「啓示の認識」と言われているのは、これまで考えられてきたように、啓示を通じて、神とか、神のご計画とか、真理とか、つまり神に付随するものを認識するというのではなく、啓示を通じて神ご自身を認識すること、つまり啓示が存在者そのものである場合を言っているのである。もし、全能の神ご自身が認識の対象として、ご自身を啓示しておられるとすれば、その啓示はどのような形態になるだろうか。まず、それが全能の神ご自身であり、すべてのすべてであることから、それは、私たちのすべての認識の基礎であり、根底とならなければならない。しかしこれは、単純なことではない。というのは、私たちが今後、新たに認識するどのようなものごとでも、この認識が基礎であり、根底になっていなければならないからである。つまり、この認識は、私たちの認識のすべてを常に越えたものであり、いわば実質的な先験性、つまりそれにより、私たちが様々なことを認識することができる当のものということになるのである。そこで、それは、「認識」でありながら、私たちには、その全体が認識し得ないようなものである。それは、再び、どのようなものなのだろうか。
 まず、それは私たちと実存的に出会うもの、つまり私たちの存在を脅かすものである。通常、私たち以外の存在、それ自体は私たちを超えているが、存在の認識は、私たちの手中にある。私たちは、その存在を意のままに把握する。しかし、神にあってはそうではない。神は認識の対象となってもやはり神なのである。したがって、それは認識できない認識である。それと共に、それは記述され、私たちの手中にありながら、認識できない認識なのである。それを認識するためには、何か天的な物事の助けが必要となる。それがまさしく「信仰」なのである。すなわち、神を認識させるための啓示、それは信仰によってのみ認識できるものである。その実例はなにかあるだろうか。ボンヘッファーは、「三位一体」がそれだと語る。これは、聖書に記された全能の神ご自身を知るための奥義なのである。

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2010/10/29

啓示の「存在」

 「行為は存在に従属する」と教義学は言う。たしかに「行為」があるということは、それを行っている者が存在することを示している。行為者がいなければ、行為もまた存在しない。そこで、「啓示」があるということから、啓示の提供者としての神が存在することが保証される。そしてまた。啓示があるということは、それを受ける者であるところの人間の存在をも保証する。しかも、その啓示の内容が一人に向けてではなく、複数の人に向けて語られているならば、それにより、この世界に自分以外の他者が存在することもまた保証されるのである。それならば、この存在を保証するところの啓示そのものも存在概念により解釈可能なのではないか。ボンヘッファーは、それには3つの形態が想定できると言う。
 1つ目は、教理としてである。しかし、もし教理というものの中に、すべての啓示が含まれ得るとすれば、神自身が教理によって完全に記述されることになる。これは不可能である。というのは、そのような状況においては、神と人との実存的な出会い、すなわち「従うか否か」、「信じるか躓くか」というような関係は起こり得ないからである。そこで、このような状態は、啓示の概念が変質してしまっている状態と言える。啓示の本質は、神と人との実存的な出会いの中にあるからである。2つ目は、心理的な経験としてである。これは、「教理」に比べて、幾分か実存的な香りを放つもののようである。しかし、心理的な経験は、誰か特定の人の心の中で起こるのであり、それはその人の心に包含されてしまう。つまり、すべての実存的な出会いも彼の心の中だけで起こることになってしまうのであり、これもまた不合理である。3つ目の可能性は、「制度」としてである。最初の2つが、共に人間存在により制御または包含されてしまう性質のものであるのに対して、「制度」は、逆に人間存在を包含するものである。それは、確かに人間が設定するものではあっても、人間はそれに規定されるという意味で、人間を超えているところがあり、もしたとえ人間の意識の外においてであっても、それが一つの制度に具現化され、設定されるならば、その制度を通じて、あるはその制度の中で、人間が絶対者に実存的に出会うということがあるいはあり得るかも知れないのである。しかしこれもまた不可能である。というのは、制度というものは、それが人間が作るものである以上、また人間がそれに適応可能なものだからである。最初から人が適応できないような制度を人間は作ることをしないに違いない。それは、人には思いつかないことである。したがって、提示された3つの可能性のいずれも啓示の具現化とはなり得ず、啓示は存在論的には解釈されないことになる。
 それでは、これらのことから、どのように考えるべきであろうか。啓示への行為概念による、つまり超越論的なアプローチは、それ自体、全能の神を指し示すものであるが、それが人間の手の届くものとなるために存在論的なアプローチを必要とした。しかし、存在論的なアプローチは、それをあまりにも手近に引き寄せすぎて、神を天から引き下ろすことになる。いったいどのようなアプローチがそれを実現することができるのだろうか。
 ボンヘッファーは語る、「むしろ両者は、存在者と非存在者との二つのものを自らの中に包含し、同時に、人間(信仰)を通して人間自身の思惟形式を自らの中で止揚する一つの存在様式の中で考えられなければならない」と。彼が、この「一つの存在様式」という言葉で、「キリストの教会」を想定していることは、何となく明らかであろう。

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2010/10/28

決断する人間

 これまでのところでボンヘッファーは、「啓示」というものを「行為」に関する用語で、すなわち「行為概念」で解釈しようとしてきた。そしてその目的は、信仰概念の尖鋭化であった。しかしそのようにして、信仰自体の純粋性は確保されるものの、それを行う当の人間存在の理解については、困難な状況に直面せざるを得なくなっている。というのも、神と人との関係を純粋行為だけから理解しようとすると、その関係は、行為というものの性質上、一つの行為から次の行為への必然性を持たず、ずたずたに引き裂かれてしまうからである。そこで、人間存在の根底に、この神との関係を置こうとすれば、人間という実存の連続性が保てなくなってしまうであろう。しかし、連続性のない人生にいったい意味が見出せるだろうか。というのも信仰は、実に一つの連続性なのだから。そこで、何としても人間という実存の歩みにおける連続性が確保されなければならない。しかし、行為概念で啓示を、すなわち神を解釈しようとする限り、この断続性から解放されることは困難に思われる。そこで、ボンヘッファーは、ここで「決断」なる概念を持ち出す。「決断」とは、「行為の一つの原因」(たとえそれが突発的なものであっても)であり、それ自体行為と考えられながらも、行為そのものではなく、その「原因」であるところに、どこか静的な雰囲気が感じられるゆえに、存在的な側面をも持っているように思われる。そして「決断」という概念は、「行為」という概念に比べて、そのようにある意味で弱められた性質を持つ代わりに、また他方においては、行為に比べて、より「意思」に接近した概念であることから、実存的にはいっそう強められた概念とも言えるのである。というのは、ひとたび決断がなされれば、その後の行為は、ある種必然的に行われると考えられるからである。
 しかし、啓示の観点、すなわち神の視点に立って考えれば、人間が、自分が罪の中にあるかまたは恵みの中にあるかということを、そのときどきに与えられる啓示によって断続的に知るにしても、彼の状態そのものは、断続的ではなく、継続的に罪の中にあるかまたは恵みの中にあるということなのであり、ここになにがしかの実存的な連続性が潜んでいると考えられる。このことは、「回心」という概念によって表現される。たとえばバルトにおいては、回心した新しい私が、古い私が消え去ったまったく新しい理想形式として提示される。そして、この理想形式としての私は、まったく神に帰依してていることにより、連続性を持っている。しかし、その理想的な私と現実の私の関係は、どのようになっているかが今一つ判然としない。また、ブルトマンにおいては、古い私と新しい私は、終末論的な歴史概念により連続している。しかし彼の場合、人間存在は、歴史性の中で回心はしても、根本から新しく作り替えられることはなく、依然として罪の中にあることにより、常に誘惑にさらされ、堕落と背信の危険性の内に置かれているのである。そのような状況において、人間の行為に連続性というものを想定すれば、ともすると行為概念自体が曖昧になり、その結果、信仰の概念も十分尖鋭なものではなくなってしまう危険もあるのである。
 以上は、行為という概念による信仰の尖鋭化における帰結であり、それは、存在論による信仰へのアプローチへ、なにがしかの要請をするものであるように思われる。

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2010/10/25

啓示の認識

 ここでボンヘッファーは、啓示を行為概念で解釈しようとしているのである。その目的は、啓示を与える神の主権を正しく認識し、それによって、自分自身の立場を認識し、正しい信仰に到達するためである。というのも、神は本来、人間の自由にはならないし、その行為もまったく予測できないからである。そこで、人が神から何か祝福を受けたとしても、それは完全に神の自由な行為なのであり、まして人間の行いに対する褒美などではない。もっとも神は正直で忠実なお方だから、人間の良い行いに報いてくださるのだが、あえてそれをなさらない自由も持っておられる。そして、実際にそうされないこともある。人間は、どのようにしても、強いて神に何かを行わせることは不可能なのである。そして、行為は文字通り自由な行為なのであり、知識ではない。そこで、一つの行為から次の行為が必ずもたらされるという保証などないのである。それゆえ、啓示を行為概念で解釈するとは、啓示から知識を蓄積することはできないということを意味する。それは、人がただ従うための神からの指示なのであり、知識を与えるためのものではない。これがボンヘッファーがここで強調していることなのであり、それは神の前に人間を非常に遜らせるものである。
 「しかし・・・」とボンヘッファーは、続けて語る。それは、「啓示の認識」についてである。これまでに人間に与えられたもっとも重要な啓示、それは「キリストの福音」である。それを行為として解釈すべきなのかどうか。「もしわれわれが真に啓示について語ろうとするならば、それはともかく人間に対して明白で、人間にとって認識されたものとならねばならない。そして実際に、神の啓示は、キリストにおいてともかく知られるものとなっている。これはどのように理解されるべきであろうか」と彼は自らに問いかける。しかし、その後で彼は、驚くべき見解を述べる。「このことは、神が啓示認識の主体でもあるということによってのみ可能なのである」と。つまり、神が人の内に住んでおられるゆえに、キリストによって、それが実現したゆえに、神が私たちの内におられて、啓示を解釈し、理解させてくださるというのである。これが、真理の御霊の働きであり、この神主体の認識が「信仰」と呼ばれる。「聖霊は、私の信仰において自らを証しする」と彼は言う。「私の神認識は、神が私をキリストにおいて知っておられるか、神が私の中にキリストへの信仰をもたらしておられるかにいつもかかっている。それゆえに、神認識のためのいかなる方法もない。信仰は、真に実存的なのであり、啓示と出会った状況において実存的なのである」と。
 これらのことを通してボンヘッファーが主張してやまないことは、人間は独力で神を知ることは不可能であるということである。「神は、対象的存在という意味においては存在しない」と彼は言う。もし人が、神を知っていると主張することがあるならば、彼は、まだ知らなければならないことすら知っていないのである。神が存在するのは、個人の信仰の中だけである。「神は、信仰の行為における人間において自らを理解しつつ存在する。神は、人間実存の自己理解において、すなわち、啓示において存在する」と彼は語る。
 以上のことでボンヘッファーが目指しているのは、信仰という概念の先鋭化であろう。彼は、信仰と宗教をはっきりと区別する。宗教とは、神的なことがらに関する知識体系である。それは、啓示によって提示されたことがらの集大成かもしれない。しかし、ボンヘッファーによれば、宗教それ自体は、もはや啓示ではなく、神についての知識でもない。人は、神に関する知識を体系化することはできない。啓示は、常に実存的なものであり、個々の状況において、そのつど与えられるものなのである。それでは、福音とはなにか。それは、啓示によって与えられた神的な知識の体系であるが、それ自体が神についての知識ではない。それは、神を知る啓示を受けるための方法に関する知識なのである。だから、たとえ人が福音の内容を理解したとしても、それで神を知ったことにはならない。神を知るには、彼自身が神と関係を持ち、神から直接に啓示をいただかなければならないのである。だから、もし、キリスト教が分からないとか、聖書を信じられないという人がいれば、その人は、たぶん知識としてそれを得ようとしているからなのだ。必要なことは、むしろ、神との一対一の真剣な交わりを通して、生きた神を直接的に体験することなのである。それに福音や聖書に関する知識は少しは役立つかもしれないが、最後には自分と神の間の問題なのであり、自分のこれまで得た知識や人生観等々をすべて捨てて、それらを代償に神を得るという願いが必要なのである。

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2010/10/21

啓示の偶発性

 真理の探求における哲学の2つのアプローチ、すなわち超越論的なアプローチと存在論敵なアプローチのそれぞれに関する省察を述べたボンヘッファーは、今度は純粋な神学概念である「啓示」に関する探求を開始する。それが超越論的に、すなわち「行為」として探求されるべきか、それとも存在論的に、すなわち「存在」として探求されるべきかと問うのである。「啓示」は、その定義上、それが純粋に人間存在の外から来るという意味で超越的なものである。そして「行為と存在」も共に人間存在に対して超越的である。行為は、「決して説明されず、理解されるのみである(ディルタイ)。同じく存在も決して証明されず、指示されるのみである」と彼は言う。
 啓示を行為概念により解釈するとは、それをダイナミックなものとして受け取ること、すなわち、啓示を与える神という生きた存在を前提することである。「神は、純粋行為として理解される」とボンヘッファーは言う。その意味は、神と人との関係が、すでに獲得されたものや十分な確率性を持って期待されるようなものではなく、むしろその継続性が全面的に神の主権(すなわち自由な行為)にかかっているということである。さらにもう一つのこととして、そもそも啓示が与えられるということ自体も神の自由な意志決定に依っているのである。
 以上のように啓示を捉えることは、人間が考え出す様々な間違った教えから信仰を守るために有用なことである。間違った教えとは、神の存在を否定し、その代わりに哲学や科学を真理の位置に据えるものだからである。しかし、神は、何ものにも制約されず、完全に自由である。神は人間の思い通りにはならない。その偶発性を表現するのに、「神は純粋行為である」という命題は、非常に有効である。そして、これは神の自由を「形式的(機能的)」に捉える方法である。しかし、神が自由に行為される背景には、人間には知り得ないが「神の予定」というものがある。これは、存在的な概念と考えられる。そこで、啓示というものを理解する方法には、上記の「形式的(機能的)な理解」の他に、もうひとつ「内容的(存在的)な理解」が考えられる。というのは、啓示は、神から人へと伝えらえるものであり、それは「内容」だからである。そして、もし人が「神の啓示」に関して、何か「知る」ということを許されることがあるならば、それは、もちろん「内容的理解」以外にはないのである。
 ボンヘッファーは言う、「もしこの内容的理解こそ神の自由についての真の理解であることが示し得るならば、われわれは純粋行為としての啓示理解によって、存在の概念へと向けられる。しかし、この立場から、啓示の新しい理解と共に、神学体系の問題も全く異なった展望のもとで提起され、全く異なった方法で解決を見出すであろう」と。彼が、キリストと教会の関係を念頭に置いているのは明白である。そしてそれは、考えられ得る最も保守的でかつ革新的な彼独自の方法論なのである。

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2009/11/09

行為と存在:存在論的な試み

 「われ思う、故にわれあり」の説き明かしにおいて、「われあり」に対して、存在の問題を提起するのを怠ったのは、デカルトとすべての彼の追随者の本質的な誤りである、とボンヘッファーは言う。確かに「考える我」が存在していることは、たとえ他のすべてのことが夢うつつであったとしても、決して疑い得ない事実であり、デカルトがこの発見を彼の哲学の基礎に据えたことは画期的であった。しかしよく考えてみれば、「思うこと」によって「われがある」ようになるのではなく、「われ」はすでに存在しているのであり、むしろ「われ思う」はその結果なのだから、存在論が提起されるべきであったとボンヘッファーは言うのである。つまり、もう少し人間的に言えば、もしすべてが夢であり、この世界に私以外のものが存在していないなら、私がいくら考えようとも意味はなく、私の存在の必然性も危うくなってくるからである。存在論は、この存在の必然性から論理を組み立てようとするのであるが、その際にも、私の知覚が受け取るものと当の対象の間には、質的、量的の両面に拭いきれない相違が存在し得る。それにより、存在論が空虚な体系に陥らないためには、知覚を含む思惟自体をも存在として取り扱うことにより、自らの体系に取り込む必要がある。しかしこれにより、存在論は観念論的な傾向を帯びることを免れ得ない。そこで、その危険を注意して避ける為には、自らの内に閉じ隠ろうとする衝動を抑え、外部とのコミュニケーションの道を開く必要がある。それはつまり、自分の外部に何か超越的な対象を想定することであり、その方法は、現象学的な洞察、すなわち認識の限界性を正しく受け取る限り、直観的なもので有らざるを得ない。つまり存在論は、自らの体系を補完するために思惟的なものを体系の中に巻き込んだのであるが、それは結局、思惟的なものすべてを定義されたものと見なすことになり、その結果そこには、創造的なものの入り込む余地がなくなり、新しいものはすべて直観により獲得せざるを得ないということ、すなわち存在論的な探求の基礎が実は直観のみであるということになってしまったのである。
 これらのことは、神学にとっては、絶対者の存在証明に道を開くことになる。そして、存在論が言うところの「直観」は、神学の言う「啓示」に対応する。つまり、これまで考えられてきたように、哲学が神学の基礎となるのではなく、逆に神学的な洞察が存在論を彩り、実り多いものとなし得るのである。
 さらに、神学にとって有用なものとして、キルケゴールやハイデッガーの実存哲学の方向性がある。これにより存在論は、人間一般を静的に取り扱うものから、歴史の中における特定の自己の生き方をダイナミックに問うものとなり、罪の意識と贖罪に対応する事柄が体系の中に期待されるようになる。そしてさらに、ブルトマンが主張する「信仰ある現存在も、依然として現存在である」という実存論的な信仰姿勢による神学から哲学へのアプローチは、信仰者に対して、すなわち神学に対して、それまでなかった、活き活きとした啓示概念を回復させることになるとボンヘッファーは言う。
 さらに哲学に対しては、学問的な探求だけでは、自己が認識する通りの有り様で外的世界が存在するとは言えず、また自己は外的世界の有り様をありのままに把握できているとも言えないゆえに、すべては直観ないしは啓示により与えられるしかないのだから、このことを哲学は直視し、正しく受け止め、自ら予感している超越論的な存在への洞察を神学的なインスピレーションによって刷新することが求められるのである。
 このようなことを背景に神学は、啓示の存在についての従来のような独断的宣言と、これまた独断的な神の存在証明の試みから離れ、かと言って、哲学を神学の基礎に据えるのでもなく、哲学的な探求の可能性が神学的な洞察、乃至は前提を必要とすることを論証することにより、すべてを包み込む体系としての真理の探求という行為の中に、哲学と神学をしっかりと位置づけ、存在論的アプローチと実存論的なアプローチの両面から、すなわち外界の観察とその中に存在する我の観察の両面から、神を探求する信仰のアプローチを展開する必要があるのである。

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2009/10/21

超越論的な試み

 神学は、「神とは何か?」と問う。しかしその究極の目的は、「私とは何か?」ということであり、それはまた「世界とは何か?」という問いをも含んでいる。つまり結局は、何一つとして確かなことなどなかったのである。そのような従来の状況に対してカントの超越論的方法論は、まず自己の限界を認識することから始める。そのようにして自己というものを分析的に認識していくことにより、やがては自己を包み込むところの外部世界、そしてそれらの存在理由であり統治者でもあるところの根本的な存在を認識しようとしたのである。この方法論は、自己を未完成な存在と認識しつつも、精神の内にすべての認識の基礎となるところの認識と機能が先天的(アプリオリ)に存在することを発見し、それを基にして、自己の完成という課題に対して超越論的統覚の形成という方向性を与え得たことは大きな成果であると共に、そのアプローチはある種、信仰的な香りを放ち得るものでもあったのである。そして、神学が自ら学問であることを意識し、その独断的な神啓示の宣言から脱却して、なにがしかの普遍性を獲得しようと願うなら、この奇抜な方法論に頼ることが得策に思われたのであった。
 しかし、この超越論的認識から始めて、一気に神の存在証明にまで到達することにより、宣教における決定的な推進力を獲得しようという誘惑に駆られることは、神学がそのあるべき方向性から逸れることを意味する。というのは、それらすべてを試みているのは、実は他ならぬ自己自身なのであり、この自己が未完成なものである限り、そのような企ては、結局未完のままに終わらざるを得ないことをボンヘッファーは見抜いた。果たして、そのようにして、哲学の土台が揺らぐとき、それを基礎にしていた神学もまた揺らぎ始めるのである。それは、哲学が「存在」という究極的には捉えようのない物自体をとにかくどのような方法を使ってでも認識しようと追い求めていたことによる。そこで、追い求むべきものは「存在」ではなく、「方向」すなわち「意志」ということになり、「意志する」という「行為」であるということになる。
 ここまでは良かったのであり、それはキルケゴールが言う「ソクラテス的な無知の知による罪の認識」からキリスト教的な「意識の中に存在する罪」の概念への方向性とも整合していたのであった。ところが反省が「意志」という精神的な対象に目をむけるや、哲学は再び観念論的な様相を帯び始め、外界の認識を断念し、自己の内部に閉じこもる傾向を持つようになった。その結果神学にも、一部そのような動きの影響を受けるものが現れ、従来の超越論的傾向を持つものと並立するようになった。それは、神学に独自の確固たる基礎がなかったため、哲学をその基礎に据えてきたために、その理解と適応に時間がかかったのである。しかし哲学ならまだしも、神学がこのような真理の根本的な探求姿勢において、多様性を持つことは好ましくない。それは、むしろ神学自体を混乱させることにもなるのであり、例えばバルトの神学において、この根本姿勢の曖昧さが彼の神学に対するプロテスタント諸派の分裂した姿勢を生みだしてきたのであり、さらにそれに留まらず、神学の中に迷いや困窮、そして華々しくは不信仰までも懐胎させるに至ったのである。
 そのような状況に対して、ボンヘッファーは、もう一度超越論的な方法論に戻るべきことを主張する。しかし単に元へ戻るというのではなく、それを良く理解し、神学自身の中にしっかりと基礎づけることが必要だと言うのである。そして、神学における二つの関心事を提示する。すなわち第一に、意識を超越する存在を認めること。第二に、人間の意志に対する啓示の関係において、意識の行為的性格を示すことである。前者により、神の存在可能性が確保され、後者により、その神に関わる方法が信仰の文脈で提示され得るようになる。
 いずれにしても、神学の寄って立つべきところは、神の言葉聖書なのであり、信仰の原則なのであり、さらに主イエス・キリストの大宣教命令なのである。

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2009/10/02

問題提起

Bonhoeffer 宗教改革以来歴史の中で、様々な人々が様々な神学的アプローチを展開してきた。それらを信仰の鮮鋭化のための試みと理解すれば、それらはまた、神の側から提供された福音という恵みを人間として正しく真剣に受け止めようとする努力とも捉えることができよう。その意味では、たとえ正統派信仰が忌み嫌ってきたところの自由主義神学であっても、それを一概に、人間が全能の神の全貌を理性で把握しようという野望とばかりは決めつけられないように思う。しかしそうは言っても、ここに一つの課題が認識される。それは、誤解を恐れずに極端な言い方をすれば、そもそも神は認識可能かということである。もちろんこれは、信仰にとっては元も子もない、ある意味で不遜な疑問であり、自分自身がすでに受けている救いの土台を疑うことにさえもつながりかねない。しかし、まさにこの部分が宗教改革以来、十分に確認、保証されないまま今日まで来てしまったのではないだろうか、というのがここでボンヘッファーが提起している問題なのだろう。
 確かに宗教改革により神の救いは、貧富の差によらずに与えられるところまで回復された。また、ルターの「ただ聖書のみ」との旗印により、信仰の純粋性も一応回復された。しかし、それらのことにより、返って信仰の本質は、個人の信仰姿勢にゆだねられることになったのである。実際、まさにその宗教改革においてカルバンが提示した予定論によれば、救いは必ずしも万民のものではないのである。ところがプロテスタント陣営には、「信徒には教会がある、そこに属していさえすれば、一人一人は自分の信仰の質をなんとか維持していける」との迷信が存在してきたのではないか。しかし、何らかの理由によって教会に集えない人、参加しない人についてはどうなるのか。もしかしたら、そのような状況は、プロテスタント版の免罪符とも言えるような状況ではないのだろうか。その証拠に、世の人々は、今日のキリスト教会が提供する救いを安っぽい、価値のないものと感じているのではないのか。そして、それは一面においては、当たっているのではないか。すなわち、今日の教会に集うキリスト者の多くが、福音の価値を自分の心の平安の理由を説明する以上のものとしては把握していないのではないのか。「みことばのみ」という、ルターが掲げた純粋信仰の巨大な旗のはためきが、返って現代の荒野を進む信仰者の目の前に垂れ下がる目隠しとなってしまっているのではないのか。
 そのような突飛な考えにも、現代のキリスト教界の状態を見る中で、何がしかの真理が含まれている可能性があるとするなら、ここにやはり、何かが成されなければならないだろう。神を知るとはどういうことか。福音に応答するとはどういうことか。宣教の真の動機とはなにか。教会は何のために存在するのか。24才の若きボン・ヘッファーの心を燃え上がらせた問題は、今に至ってもまだ解決してはいない。しかし、彼はここで少なくとも重要な問題提起をした。この書が学術論文であったということにより、それがそれほど多くの人に読まれるに至らなかったということはあるかもしれないが、それでもこの書は、今日のキリスト教会が必要としている示唆を含んでいるように思われる。それらは、キルケゴールが生涯をかけて追求していたものであり、ブルトマンが鮮鋭化を試みたものでもある。バルトが意図したが成し得なかったもの、エックハルトが想起し、カリスマ信仰が意図せずに実践し、その中を生きたものでさえあるのかもしれない。そして最後に、それは何よりも、主イエス・キリストがその御使いを遣わして、「あなたがたは、熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そう」と言われたことなのである。

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