2009/12/14

神に知られる悟り

論述:離脱について

 この「離脱について」という題名の論述は、まさにエックハルトの思想の集大成である。しかし、その結末がこのようにある種倫理的な表現で彩られていようとは、いったい誰が想像できようか。彼は語る、「さて、思慮深い人はみな、よく聞いてほしい。あなたがたをこのような完全性へと運びゆく最も足の早い動物は、苦しみである。キリストと共に最も大きな苦しみに立つ人たちにもまして、永遠なる甘美を多く享受する人などいないからである。・・それゆえ、完全なる離脱に至ろうと願うものは、完全なる謙虚さを得ようと努めなければならないのである」と。しかしここで注目すべきことは、目的はあくまで「離脱」なのであり、苦難や謙虚さまでもがその手段と位置づけられているということである。しかし、「謙虚さ」を求めることそれ自体は、はたして謙虚さと呼べるものなのだろうか。そもそも彼は、「マリアはその謙虚さを誇った」とも言っているが、「謙虚さを誇る」ことがいかにして「謙虚さ」そのものを傷つけず、かつそれ自体がまた謙虚さでさえあるということがはたして可能なのだろうか。しかし実はここに一つの鍵があるのである。
 すなわちエックハルトにとって「謙虚さ」とは、自分の力によって築き上げる「美徳」のようなものではなく、それは実に「与えられるもの」すなわち「賜物」なのである。それゆえ、「謙虚さを得ようと努める」とは、たとえば、そのために修練するといったことではない。もっともエックハルトは修練をも勧めるのだが、それは謙虚になるためではなく、「謙虚さという賜物を神から戴くため」なのである。そして、謙虚さが神の賜物である限り、それは私の功績ではないから、それを求めることも、またそれを誇ることさえ「謙虚さ」を傷付けるものとならないばかりか、そのこと自体が返って「謙虚さ」を高めることにさえなるのである。いずれにしても、エックハルトにとって「離脱」こそが最高の目的なのであり、その他のすべてはそのための手段なのである。
 しかし「離脱」は、いかにして目的となり得るのだろうか。というのは、そもそも離脱には、それ自体の目的などないのだから。しかし「目的のないもの」自体が「目的」となってはいけないということもないだろう。いや離脱は、それ自体の目的がないゆえに、まさに真の目的となり得るのである。というのも、自分の外に目的を持つものは、それ自体が目的となることはできない。しかし、離脱の目的は、その内部にあり、いわばそれ自体が目的なのである。
 かくして、私たちは、離脱が自己の目的となることにより、まったき安らぎに到達するのである。というのも、エックハルトによれば、「神はこの不動の離脱の内に永遠の昔より立ち、今もなお立っている」からである。彼は語る、「ところで、神はこの不動の離脱の内に永遠の昔より立ち、今もなお立っていることをあなたは知らなければならない。さらに、神が天と地とを創造したとき、神の不動の離脱は、あたかも被造物ひとつ創られなかったかのように、創造に少しも関わりを持たなかったということも知っておかなければならない。・・さらに加えて次のようにさえ言いたい。神性のもとにある子が人となろうと望みそして人となり、十字架の苦しみを受けたとき、神の不動の離脱は、あたかも神が人となることさえなかったかのように、そのことに少しも関わることがなかった」と。
 しかしながら、このような表現を聞くとき、私たちはエックハルトの説く「離脱」が何か無味乾燥、無感覚なものであるように感じ、それを求めることが一種の自虐的な行為ですらあるように思えても来るのだが、実際はそうではなく、それはひとえに私たちの精神が偏見から自由になることを目指しているのである。というのは、エックハルトの場合、離脱は「内なる人」の領域のことなのだが、これに対して常に「外なる人」が並行して想定されている。この「外なる人」は、決して無感覚になることがなく、返って現実に直面し、そこから逃げることなく、ありのままの自分を持って神の前に立つのである。この「外なる人」は、常に外界に接していて、様々な影響や制圧を受けながら、それに対応して行動することにより、自己の内的な洞察を拡大し、神の前に掛け替えのない精神として成長して行くのである。そのためには、「内なる人」の開拓すなわち離脱の追求が必要なのであり、この内なる人の安定性により、外なる人が献身という最大の冒険をあえて実施する力を得るのである。
 この「外なる人」と「内なる人」の関係こそエックハルトの思想の中心としての「神と神性」の関係に他ならない。私たちは、離脱により神を突破して神性に迫ることができる。そしてそのとき、永遠から永遠まで変わることのない神の不動の離脱と御子イエスに現わされた神の愛を自分のこととして知るに至るのである。

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2009/12/10

神に知られる帰還

神と神性とについて

 「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった」とエックハルトは言う。神は、働くことなしにそれらすべてのものを造ったのである。「神は天と地とを、わたしたちが時の流れの中で、これこれが生成せよ、と言うときのように創造したわけではない。すべての被造物はすでに永遠なる言葉の内で語り出されているのであるから」とまた彼は言う。そのように、すべての被造物は永遠の昔から神の心の内にあったのである。その意味では、それらは被造物以前の万障とでもいうべきものであったのであり、その中に人の魂もまたあったのである。
 神はそれから、人の魂の内に永遠なる神のわざを顕した。そして神は、この魂の内に働くご自身の永遠なるわざにおいて、すべての被造物を愛し、また味わおうとされたのである。この永遠なるわざの中で、神は被造物の本性に働く能力を貸しわたす。そしてその本性のはじめてのわざが心というものなのである。この心により、すべての被造物は、その最高の完全性を求めて運動し、天もその実現に向かって急いでいるのである。
 ここで、私たちがもう一度思い起こすべきことは、この世界も人間の心も、神のわざであるということである。それゆえ私は、この神のわざの内ですべての被造物を見ているのである。その意味で、私の目は神の目であり、神の目は私の目、それら二つは共通の認識であり、一つの愛である。しかしここでエックハルトは唐突に語る、「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」と。そもそも神とは何であるのか。それはエックハルトによれば、私たちの魂の内に働く「神のわざ」による神性からの反映なのである。というのは、神性自体を私たちは認識することはできない、「神性のうちにあるすべてのもの、それは一であり、一について人は語ることができない」し、そもそも「神性は働くことがなく、働くべきいかなるものも持たず、神性の内にはいかなるわざもない」からである。そのように「神と神性とは、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」のである。そればかりか「内なる人と外なる人も、天と地ほどに遠く互いに隔たっている」のである。というのは、外なる人が動揺しても、内なる人は、それらとまったく関わりなく不動であることが可能だからであり、人は内的な意識を拡大することにより、そのような状態にまで到達し得るのである。
 かく神と神性、そして内なる人と外なる人とは、それぞれ互いに対応しあっているのである。そこで、神性がそれ自体完全で永遠に不動であるのに対して、私の自己がつねに可能的な自己であるがゆえに、私の認識する神もまた私にとって可能的すなわち未完成の神となっているのである。そこでもし私が、私の神を完成させようとするなら、私は、私の内的な認識を拡大する必要がある。しかし、それはまた同時に回帰の方向ともなる。すべては、永遠の昔から神の内にすでに存在したからである。そして、それらすべての被造物が私の住む世界の中で私に向かって叫んだのである、「神が有る」と。しかし、私の神認識が完全になるにつれて、私のそれらの被造物に対する認識もまた完全なものになってくる。そのようにして、私はそれらの被造物をもう一度神の元に返すことになる。それらが永遠の昔から神の内にあったそのような状態にである。そしてこの作業は、私一人で行うわざとなる。エックハルトは語る「わたしひとりがすべての被造物を、わたしの内で一となるよう、その精神的有からわたしの知性の内へと運び入れるのである。すべての被造物が神へと帰りゆくのを用意するのは、わたしだけなのである」と。
 そのようにして、被造物に対する私の認識が神の元に帰るにつれて、私自身もまた神の元に帰ることになる。というのは、もともとこの世界もすべての被造物も私という意識も存在も共に神の永遠のわざに他ならないからである。そして、その完成のときには、もはや私の神認識は不要なものとなる。なぜなら、そのとき私はもはや神の外にいるのではないからである。エックハルトは語る、「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこれ行っていたのかと、私に聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」と。

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2009/12/09

神に知られる生業

観想的生と活動的生とについて

 エックハルトは、この世界のすべてのものからの離脱を説く。それならば極端な話、人はいっそのこと生まれて来ない方が良かったのだろうか。しかし、いまだ生まれ出ないものがいかにして離脱することができるだろう。つまり、エックハルトが説くのは、離脱を経た完全生への到達であり、それ以外に道はないのである。そこで、人が人生を生き、そこで様々に悩むことにも多いに意義があることになる。彼は語る、「わたしたちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである」と。その目標は、彼によれば「時間を超えること」である。「時間を超えるとは、知性のうちで、絶え間なく神へと登りゆくことであり、しかもそれは、像による表象の区別性においてではなく、知性にかなった命あふれる真理性においてである」とエックハルトは言う。その場合、「生業」というものが重要になる。これは彼によれば、「徳のわざにおいて人が外からなすものではなく、聡明な思慮によって、内からいそしむもの」である。つまり、行いによって義とされるのではなく、人の心の中に、神に受け入れられる愛と真実が形作られ得るのである。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と書かれている通りである。
 しかしもし魂が一切の「生業」を持たずに神に近づけられるということがもしあるならば、そのとき「もし何かが手だてとしてその間に入り込むことがあるならば、この魂は悲しみにくれ、その高みに歓喜に満ちてとどまることはもうできなくなってしまうであろう」とエックハルトは言う。マルタは、主イエスの足元に座っているマリアを見て、そのような危険性を感じ取ったのだろう。さらにマルタが主イエスに対して、マリアに立って働くよう命じて下さるように求めたもう一つの理由は、マリアがその場の幸福感の内に立ちとどまったまま、先に進まなくなる可能性をも持っていたからである。かくして「生業」は、人が完全性へと至る際に必要となる。それは、人の魂が神に近づく安全な手だてであるのだが、この世界を苦労して生きるなかでのみ培われるものであり、マルタはすでにそのような状態に到達していたのである。
 さて、主イエスはマルタの名を二度呼んで「あなたは思い悩んでいる」と言われた。しかしマルタが立っていたところは、エックハルトによれば、「思い悩みの直中」ではなく、「思い悩みのかたわら」であった。霊的に鍛錬された魂も、そうでない魂も、外から見れば同じ「思い悩み」の状態にある。霊的に鍛錬されれば思い悩まなくなるということはない。また、苦痛を感じなくなるということもなく、わざから解放されることもないのである。ただ彼は、「思い悩みの直中」に立ちとどまるということはもはやない。「そのような人たちは、事物にごく近く立っているのだが、事物の中に立っているのではなく、それゆえに彼らははるか高く永遠と境を接するところに立つときに持つものと少しもかわらぬものを持っているのである」とエックハルトは語る。そしてその人の置かれたどのような状況にも妨げられることなく、永遠なる光を模範として、すべての業を秩序正しく果たしていくのである。その際、彼らの心を動かしているのは、神から与えられた「永遠の意志」である。この新しい意志が、どのような境遇の中にあっても、彼の心をして不断に神の意志に追従せしめるのである。この永遠の意志をいただくためには、人はまず、自分の意志を神の内で断念する必要がある。そして後に、自分の言葉や振る舞いを一つ一つイエス・キリストの生涯に秩序づけて同じようにしていく必要がある。するとあるとき神がその人の魂の根底にこの永遠の意志をおいてくださる。すると魂は「主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ」と語るのである。
 私たちは、これらのことをキリストに倣って人生を生きた信仰の先人たちの内に見出す。彼らは、何か偉大なことを成し遂げたゆえに称賛されるのではない。返って彼らの中には、苦難の中に人知れずその生涯を閉じた人々もいる。しかし彼らは、それらの苦難の「かたわらに立っていた」のである。そして、それらの苦難に妨げられることなく、神に感謝と賛美をささげた。それゆえに称賛に値するのである。彼らの生涯がキリストを証ししたからであり、それがこの世界に生を受け、そこを生きる意義なのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストに倣う者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2009/12/04

神に知られる刷新

像を介さぬ認識について

 私のエックハルト研究の目的をひとことで言えば、それは「信仰の刷新」である。古い利己的な自分の思いが神の前に打ち砕かれることにより、「わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い」と言われる神の思いとのギャップに気づき、その解消に向けて無条件に自分を変革すること、これが私の求める「信仰の刷新」である。そのためのインスピレーションをエックハルトは与えてくれるように思えるのだ。
 彼は言う、「あなたがたは、精神とも心とも呼ばれるあなたがたの霊において新たにされなければならない」と。しかし、彼が言うところの魂の領域としての「霊」とは、精神が「ここ」とか「今」といったすべての自然的なものから離脱した状態なのである。それがいかにして、魂のある領域たり得るのか。それは、魂の永遠性と関連するのだが、精神の成長において、意識すなわち心がどの段階にあろうとも、魂はそのすべての段階においてすでに存在しているのである。
 それでは、「霊において新たにされる」とは、いったいいかなることか。まず、「霊」というものを私たちが認識することは通常困難である。それは、私たちが見慣れたすべての自然的なものから独立しているからである。しかしそれでもそれは、ある状態、すなわち「在り方 」を持っているのであり、私たちの精神は、その存在を部分的には認識することも可能なのである。そのように「霊を見分ける賜物」を神は、ある人々に与えておられるのである。「霊において新たにされる」とは、このように一般的には未知の領域において刷新されることに他ならない。というのは、この領域において覚醒している人は、往々にして、その日常行動において、常識やときには品性を喪失したような行動を取ることがあるからである。霊的な領域が精神に与えるインパクトは、それほど強いものがあるのである。しかしまた、この霊的な領域を意識していない人においても、この領域からの影響を無視できるかと言うと、決してそのようなことはなく、自ら率先して扇動されるようなことはないにしても、実は同じように影響を受けており、しかもそれを意識していない分だけ、むしろ無防備になっているとも言えるのである。
 それゆえ私たちには、この「霊において新たにされる」ということが必要なのである。しかしそれは、霊的な領域に関する認識なしには不可能だろう。それでは、どうすればよいのか。エックハルトは言う、「あなたは、あなたの自己からすっかり離れ、神の自己に溶け入り、あなたの自己が神の自己の内で完全にひとつの自己となるようにしなければならない」と。これは、私たちが普通行っているような認識ではない。それは「認識する」というよりも、むしろ「思い込む」というほうが当たっているのかもしれない。しかも「神と共に」である。「神と共に思い込む」、それを正しく行うには、完全に自分を喪失しなければならないだろう。しかし何のために。神を偏見なく正しく愛するためである。神に対する偏見を無くすには、神の思いを自分の思いとすることが必要なのであり、その唯一の方法は、神の前に自分の理性を喪失することなのである。
 それでは、神の思いを知るために、自分の思いを喪失した私は、今度は神を愛するために、いったいどのようにしたらよいのだろうか。それは、たぶん想像が着くと思うのだが、自分の存在性を失うことなのである。というのは、エックハルトによれば「愛するかどうかは、一つになれるかどうかにかかっている」。そして、「一つになる」ことには、自己犠牲が伴うからである。つまり愛とは、その対象との合一であり、その際には自己犠牲を伴わざるを得ないのである。そして、私の愛の対象が神であるとき、そこにおける自己犠牲もまた最大級のものとなるのであり、それが純粋なものである限り、それは正に自己喪失と言えるものに他ならなくなる。そのように、私という存在は、非精神的なものにまで喪失されなくてはならないのである。というのは、神を愛するためには、私たちの知識も能力も邪念でしかなく、返ってじゃまになるからである。しかし、いったいどのように神をわたしたちは愛したらよいのであろう。エックハルトは語る、「それゆえにあなたの魂はすべての精神的なものを脱ぎすて非精神的でなくてはならないのである。あなたが神を神として、精神として、位格として、像として愛するならば、その一切は捨て去られなくてはならない。それではいったいわたしは神をどのように愛すればよいのだろうか。あなたは神を、ひとつの非神として、ひとつの非精神として、ひとつの非位格として、ひとつの非像として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で澄み切った一なるものとして愛さなくてはならないのである。そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2009/12/02

神に知られる放棄

三つの闇について

 「神の教えを受け入れようとする人は、この山の上にまで登らなければならない」とエックハルトは言う。「山の上」とは、「神の高み」であり、そこからは、「被造物の一切は必然的にすべり落ちている」。つまりそこは、この世に存在する一切の像や形象を超え出たところ、エックハルトによれば「精神の最内奥」なのである。そこにおいては、私たちが慣れ親しんできた通常の認識は、まったく役に立たない。そこにおいて私たちは、天使のようにすべてを像も写しもなしに認識する必要があるのである。それは、どのようにして可能になるのか。エックハルトによれば、そのためには、私たちの魂が一切の像を超え出ることが必要なのである。それは、慣れ親しんできたこの世界の形象に別れを告げ、自らの内に閉じこもることである。つまり、自分自身をあえて闇の中に置く必要がある。この闇とは何であろうか。彼によれば、それはまず第一に、この世界のすべてに対して目をつぶり、自らの決意で盲目となることである。それほどに、闇という解放を愛し、それに執着する必要があるのである。第二には、神を見ようとすることにより、この世界が見えなることである。それは、文字通り狂信的なことである。しかし、この信仰の情熱をあえて持たないものは、決して神を見ることはできない。第三にそれは、すべてのものから、すなわち自分の神概念からさえ完全に自由となることである。「天はいかなる光も持たない」とエックハルトは言う。そのときその人の魂は、一切の光を失い、いかなる光もない完全な闇の中に自らを置くことになる。そのとき、「光は闇の中に輝いている」との御言葉の通りに、神の真理の光が輝きい出て、私たちの認識を照らすのである。それは諸々の光を超えた一つの光であり、エックハルトによれば、そのとき魂は、神の像である神の子の内に刻印されるのだという。この刻印なしには、魂は再びこの世界に戻る力を持たない。そして、そのとき魂は、神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識するのである。

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2009/12/01

神に知られる飛翔

無である神について

 パウロは、ダマスコへ向かう途上で、天から射してきた光に照らされて地に倒れた。そのとき彼は、何も見ることができず、人々に手を引かれてダマスコに着いた。エックハルトは「パウロは、そのとき神を見たのだ」と言う。そして、そのとき彼は、逆にこの世界の物を見ることができなかった。神とこの世界、その両者を人は同時に見ることはできない。神は、この世界から身を隠している。ちょうど昼間に星を見ることができないように。だからと言って、星がないわけではなく、星はいつも光を放っている。神の光も、普段はこの世界の喧騒の中に覆い隠されているのである。しかし、ひとたび神が輝き出るときには、その光は、この世界のすべてを覆い隠す。「パウロは、かの光に包まれたことにより、神以外は何も見えなかったのである。というのも、彼の魂に属するものすべてが、神であるこの光に関わり、専念していて、それ以外には何も知覚することができなかったからである」とエックハルトは言う。
 そのように、人は神とこの世界を同時に知覚することができない。それゆえ、この世界に住む人間は、神を知覚する方法を知らないのである。そこでエックハルトがここで追求するのは、彼独自の神秘的な方法論なのである。彼は言う、「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである」と。それは、どのようにして実現するのか。再び彼によれば、その力は「思惟」の中にある。思惟は、通常様々なものを思い浮かべる想像力を行使する。それらは、その時点では所詮、想像の産物に過ぎない。しかしエックハルトは言う、「しかし知性がさらに先を求めるならば、知性はこの思惟をさらに越えて進んでいく。知性は周囲をめぐり、そして探す。知性はあちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。捜し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別な知性がある。この知性はそこではもう捜し求めることもなく、かの光に包みこまれた、その純粋で単一な有の内に立つのである。つまり、この光の内で魂の一切の力が高まったのである。もろもろの感覚は思惟の内へと飛翔するのである。これらがいかに高く、いかに測り知れないものであるかは、神と魂のほか、何ものも知ることはない」と。つまり彼によれば、「まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛翔し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛翔する」ということが起こり得るのである。そしてそこでは、かの想像力は、もはや単なる想像を生み出す力ではなく、正に霊的な現実をありのままに把握する力なのである。というのは、そこにおいては、単なる知覚というものは役に立たない。そこでは、すべてが生きて動いており、そして何ものも他のものと似てはいないので、「把握」とか「類推」といった働きは意味を成さないからである。さらにそこには、もはや「形式」とか「法則」といったものさえない。というのは、そこには時間というものがなく、したがって経過や戦略といったものも無いのだから。そこでは、すべてが思いのままに生起する。人は、それを思いのままに戦い取り、奪い取ることができる。主イエスが、「天国は、激しく攻めるものがそれを奪い取っている」と言われた通りである。しかし、そこに一つの掟がある。そこは、神の義が支配するところだからである。そこで人は、神が言われた「わたしが聖であるようにあなた方も聖でなくてはならない」という言葉の通りに文字通り自ら完全に主体的に生きるのである。

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2009/11/27

神に知られる貧しさ

三つの内なる貧しさについて

 信仰者は、常に霊的な向上を求める。それでは、究極的な霊的向上とは何だろうか。エックハルトによれば、それは「自己の神概念の突破」である。そしてそれは、単なる「神という概念」の突破ではなく、「自己の信じる神」そのものの突破なのである。というのは、私にとっての神とは、実際「私の信じる神」以外のものではないからである。同様に「あなたの信じる神」がある。そして、その二つの神が実は一つの神であるというのが「唯一の神」ということであり、また三位一体の奥義でもあるからである。同様に「私の見る世界」があり、「あなたの見る世界」がある。そしてそれは、実際は「私が住む世界」であり、「あなたが住む世界」である。それら二つの世界の間に直接のつながりはない。というのは、あなたの住む世界を私は見ることはできないから。私とあなたは、同時に同じ場所にいることができないからである。それがこの世界の構造なのであり、私がいなければ、私が住むこの世界もないのであり、同様に私の信じる神も存在しないことになる。エックハルトによれば、それがこの世界の構造なのであり、私たちはそのように神から流出し、時間の中に運び出され、空間にばらまかれているのである。そこで私がもといたところに帰ろうとするならば、どうしてもエックハルトのいう「何も意志せず」、「何も知らず」、「何も持たない」という状態になることをおいて他に方法がないのである。
 エックハルトにとって「霊的な向上」とは、また「自分自身を取り戻す」ことである。最初に創造されたときの、神の元に永遠に休らう自分をである。しかし、それはむしろ「自分を失うこと」になるのではないか。私たちには、そのように思われるのであるが。たぶんそれは、私たちがあまりにも自分の世界に住み慣れてきてしまった勢ではないだろうか。そのようにして、私たちの心は、自分の住む世界のことしか見えなくなってしまったのではないのか。そしていつしか、他の人も自分の見ているその同じ世界を共有しているかのように錯覚してしまったのではないか。しかし、実際には、人と人とは心を通じ合わせることが困難であり、同じ経験を分かち合うことも困難である。それが可能なのは、むしろこの見える世界の外においてだとは言えないだろうか。
 そこで、エックハルトの言う「突破」が必要となる。そしてそのようにして、多くの人が神の元に帰って来るとき、そこでいったい何が起こるのだろうか。そもそもそれらの人は、互いにどこか違ったところがあるのだろうか。もちろんあるに違いない。しかし、そこにおける個々の特徴は、この世界における個人差とは、まったく異なったものだろう。そこにおいては、この世界のすべてのものは、一匹の蚊から木々、人間に至るまで、そこにおいては、すべて同じ一つの原像を持つ。それらが流出している源の原像は一致するとエックハルトは言う。しかし私たちの霊的な本質は決して一致しない。それこそが個性的なものである。私たちがこの世界で競い合い、自慢し合っているのは、すべてこの世のものごとであり、無味乾燥なものである。そこで競われているのは、本質的には、多い少ないということである。今あるものは、以前あったものであり、これから来るものもまた同様である。しかし、霊的なものに同じものはない。そしてすべては、自己自身の目的を持っている。つまり自己自身がその目的なのであり、それらの目的の目的は、神なのである。
 エックハルトは語る、「この話を理解できない人がいても、そのことで心を悩まさないでいただきたい」と。彼は続けて祈る、「わたしたちが今日の話のように生きるよう、またそのことを永遠に経験するよう、神が私たちを助けてくださるように。アーメン」。

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2009/11/23

神に知られる働き

魂の内にある火花について

 「この比喩をあなたがたが正しく理解することができれば、あなたがたはわたしの考えと、これまでに説教してきたわたしの全関心の根拠とを理解するであろう」とエックハルトは言う。彼はこの比喩で、人と神との類似性について語っているのである。神は、人を御自身の似姿に創造された。神の姿とは、なんだろうか。それはエックハルトによれば、姿形よりもさらに本質的なもの、神の業であり、働きである。そして神の働きとは「生むこと」である。それゆえ、エックハルトが主張するのは、神が自身を自身の内に生むように魂もまた生むという働きを持っているということである。しかしそれは、自身の内に自身である魂を生むというのではなく、ここでもやはり自身の内に生まれるのは「神」なのである。というのは、神は魂をご自身に似せて創造されたゆえに魂も神の業を成すのであるが、神の業とは、自身の内に魂を生むのではなく、神自身を生むことだからである。と言うのも、魂は神から生まれたのではなく、神によって創造された被造物だからである。そのように、霊的な意味での「生む」という業は、いわば神の家族にのみ適用されるのであり、被造物である魂には、決して適用できないものなのである。
 ここまで前提したところで、さてエックハルトが言うところの「わたしの全関心の根拠」とは何であろうか。それは、「生む」という働きは、創造という業を通じて被造物に継承されるということである。もう少し違う表現をすれば、「創造」という業が完全なものである場合、もちろん創世記に記されているように、それは神ご自身から見て「はなはだ良かった」のであるが、その創造は、実にある種の非被造性さえをも継承するのである。もっとも、創造されたもの自身は、被造物なのであり、非被造的なものではあり得ない。しかし、それでもそれは、非被造的な存在である神と同じ「生む」という業を働くのである。それは、神が魂をご自身の姿に創造されたからなのであり、その創造が完璧なものであるかぎり、創造されたものも完璧に機能するのである。しかし、そうは言っても、被造物である人間が己の思うままに神を生むということは、あり得ないことである。「生む」という業は神の業であり、神以外のものは成し得べからざるものであるから。そこで、エックハルトの提示する比喩が問題となる。つまり、自分の目とその見ている対象の間の関係である。それらが互いに似ても似付かない別々の個体として神から創造されていても、そしてそれらが互いに離れたままで、触れ合うこともないのに、その物体を見ている目の網膜にその物体の像が映し出される。そのとき、網膜がある種の化学変化を起こし、それら二つの対象の間に明らかな関係が生じるのである。しかも、見られている対象には何の変化もなしに。それならば、神の形に創造された人間の魂とその原型としての神との間には、どれほど親密な関係が保たれ続けていることか。そこで、もし人が自分が生まれてから今までに獲得してきたすべての知識や人生の目標等を自ら放棄し、神の前に無一物のようになるなら、そこに残されるのはこの聖なる関係であり、そのとき彼の内にある神の姿、すなわち「生む」という働きが神の業として働き始めるのである。そのとき、魂は神から造られた神の像としての非被造性の中で、自ら神を生むという働きを成すのである。そして、そのような状態、すなわち、魂と神がそれぞれ被造物、創造主として、互いに完全に別々の存在でありながら、これ以上の合一はあり得ないほどの関係を維持するときに、魂は永遠の浄福の内にあるのである。
 このエックハルトの比喩が理解できない人も、次の話は理解できるのではないだろうか。つまり、私たちは上記のことを理解できるように、肉体の子孫を生むという働きを与えられているということである。それは、よく考えてみると、「生む」働きというよりも「創造」の働き、すなわち被造物を造り出す働きである。もちろん、私たちが一から十までそれを行うのではなく、私たちが行うのは、いわばそのきっかけを与えることと、その創造の場所として自分の肉体を提供することだけであるが、この超自然的な創造の働きは紛れもなく、私たちの自由に任されているのであり、私たちは自己の責任において、それを行使できるのである。このように、神の創造の働きが私たちに委ねられているのだから、「生む」という働き(エックハルトによれば、それは神を生むこと以外では有り得ない)もまた同様なのである。
 エックハルトは語る。「魂も一切の被造物もものともせずわたしは断言する、魂が神の像であるところでは、それらは魂を神からけっしてはなすことかできないであろうと。これが本当の合一であり、この内に本当の浄福がある。多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを超えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン。」

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2009/11/18

神に知られる知性

神が魂の内に子を生むということについて

 「神は、自身を自分自身から自分自身の内へと生み、そして自らを再び自らの内へと生む」とエックハルトは言う。謎に包まれた表現である。しかし、もし神が自身を生むということがあるならば、生まれたものは、御子以外にない。第二位格である御子は、生まれるということにおいて御子なのであり、それ以外は神ご自身に他ならないのである。そして、「自らを再び自らの内へと生む」とは、主イエスがマリアから生まれられたことを言っているのかもしれない。いずれにしても、聖霊の源泉は御子である。「父が子を生むとき、父がその本性において持っているものすべてを、子に与えるのである。この授けの内で聖霊が流れ出るのである」とエックハルトは言う。また彼は次のようにも言う。すなわち、「神はその子を常に生み続ける。この誕生の内ですべての事物が流れ出てくるのである」と。このように、この世界のすべては、「父が子を生む」という神の働きから発するのであり、「神はその際、すべての力を費やすほど、それほど大きな喜びをこの誕生に対して抱いているのである」。そして、そのことの目的は、「この誕生により、魂が命あるものになるため」なのである。
 人は、生まれながらには、死ぬべき存在なのであるが、この聖なる誕生の働きを知り、それが自分の内で実際に起こっていることを意識するとき、初めて命あるものとなるのである。しかしこの誕生は、エックハルトの言う「永遠の内の一なる今」におけるできごとなのである。この「一なる今」は、時間に決して触れることのない知性であり、それはつまり「信仰」と言えるかもしれない。信仰は、その人の置かれている状況と本質的には関係がなく、信仰によればすべてが可能だからである。信仰は、時間に決して触れることがない。神は、私たちの信仰の中で働かれるのである。聖書に「見えるものは、見えないものからできた」とあるのは、これらのことを言っているのである。神の偉大なご計画は、この世界においては、まず人の心に啓示され、それが実行に移され、ついに現実化するにいたる。神は同時に複数の人の心を動かして、それを実現されるのである。これは、時間の中における物理法則に沿った神の働きである。しかし一方で、自然法則に従わない場合もある。そのときには、神は特定の人の心に直接に語られる。そして、その言葉は、物理法則に優先する、つまり時間の外で働き、実現に至るのであり、これは奇跡と呼ばれ、本質的には、神がこの世界を創造したときの働きと同じなのだろう。
 主イエスは、女の死んだ息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と語りかけられた。この「息子」とは「魂」のことだとエックハルトはいう。「神は、一切を神の子の内で語る。知性の内では人は余すところなく若い。知性の力の内で働くことが多ければ多いほど、人は自分の誕生に近づくのである」と。これは、意志や働きについてではなく、信仰のことを言っているのである。そして、この信仰という知性の場において、神と魂の合一が起こるのだと彼は言う。しかしそれは、人の業によるのではなく、恩寵の内で生起しなければならない。そして、恩寵はどんな業も成すことはない。「恩寵とはむしろ神の内に魂が住み込むこと、共に住まいすることなのであり、このことに比べれば、業と言われるものは、あまりにも価値が低すぎると言わざるを得ない」と彼は言う。そして、業から解放されたこの恩寵の中で、魂は神と共に豊かに生むもの、すなわち実を結ぶものとなるのだとエックハルトは言うのである。

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2009/11/13

神に知られる誕生

神の言葉について

 「すべての被造物が神から外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづけるということはまったく不思議なことである」とエックハルトは言う。そのように私たちは、一方で神から流れ出ながら、また一方では、神の内に留まり続けているのである。それゆえ、私たちから神を見ると、神は私たちの内にありながら、同時に外にあることになる。私たちが神から流れ出るということにおいて、神は私たちの外にあるのだが、また一方で、私たちが神の内に留まり続けるということにおいて、神は私たちの内にあるのである。流れては消える時間の中に生きている私たちには、このことは理解し難い。しかしこれらは、永遠の世界の出来事なのである。そこでは、時間が過ぎ去るということはない。だから、私たちの流出、すなわち誕生が過ぎ去るということもなく、私たちは、永遠に神の子なのである。
 そこでは、神は私たちの内にあり、御言葉も私たちの内にある。しかし、それを知覚できるためには、私たちは、時間の流れから抜け出る必要がある。すなわち、「すべての事物に対して眠っている」必要があるのである。「そうすれば、あなたの内で神が働くものをあなたは知ることができる」とエックハルトは言う。神はそこで、いったい何をしているのだろうか。エックハルトによれば、神はそこで世界を創造しているのである。「過ぎ去ったものすべて、現に在るものすべて、未だ来らざるものすべて、それら一切を神は魂の最内奥で創造するのである」と。それゆえに、起こり来るすべての事柄は、神の御手の内にあり、神の配剤なのである。
 「どんな仕事にも励みなさい」(テモテ二4:2)と聖書は言う。それは、エックハルトによれば、「すべての事物の内で励みなさい」ということであり、それは、神の配剤の中では、難しいことではなく、返ってやさしいことなのだと彼は言う。「神はすべての事物の内にある」、そして「神は、あなたを神の独り子として、けっしてそれより劣ることのないものとして生むために人となったのである」。
 さて、私たちが神の独り子となるとは、どういうことなのだろうか。「御言葉を宣べ伝えなさい」とは、「これがあなたの内にあることを覚りなさい」という意味だとエックハルトは言う。預言者は、「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた」と語っている。それは、「わたしは神とそれに被造物とを聞き分けた」という意味だという。「神は、すべての事物の内にある」。もし私たちが、この世界を生きながら、すべての事物の内におられる神を認識し、その御言葉を聞き分け、その配剤に信頼し、そのようにして、すべての事物の内で神をつかむなら、聖書の中に、「眠っていても、わたしの心は目覚めていました」(雅歌5:2)と言われている言葉が私たちの内に生起し、私たちは、ちょうど神の独り子がこの世に生まれたときと同じ状態、けっしてそれより劣ることのないものとなるのだ、そのために、神は人となったのだとエックハルトは言うのである。

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