2009/09/02

神に仕える啓示

論述:離脱について
 この論述においてエックハルトは、それまでの彼の生涯を通した信仰的探求の結論として、「わたしの知性がなし得る限り、認識し得るかぎり、あらゆる書物を徹底的に探求した結果、わたしがそこにみつけたのは、純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐということに他ならなかった」と言っている。そして彼の探求の目的は、「神が被造物を創造する以前、人と神との間にいかなる区別もなかったとき、神の内にあるその自分自身の原像と最も近くなるためにはどんな徳によればよいのかを捜し求める」ことだったのである。つまり、彼が求めていたのは、原罪のない状態の自分であり、福音の恵みを越えたところにあるものである。それは、ある意味で「聖め」とか「聖化」とか言われていることに近い。それは、福音を前提にしてはいるが、しかしそこに留まるものではない。それは、キリストによって救われた後の延長上ことであり、もはや罪の赦しや悔い改めに留まっているのではなく、そこからさらに進んで、キリストとの日常的な関係を追求するものである。
 しかし、キリストとの生きた関係は、罪の中に生きていながら実現できることではない。神は、「私が聖いようにあなたがたも聖くあらねばならない」と言われるからである。そこで、救い主キリストを愛し、その僕となることを願う者は、彼のために自分の持ち物をすべてあきらめ、自分の罪をかなぐり捨てて彼に従うのであり、そのような人は、すでに福音の恵みを越えているのである。主イエスは、「私はあなたがたをもはや僕とは呼ばず、友と呼ぶ」と言われた。このとき主イエスは、旧約聖書しか持っておられなかった。そこで、主イエスの友とされ、アダム以来の罪から解放された者に、旧約聖書は、それが主イエスに対するのと同じ新しい意味を持つのである。主イエスがモーセの律法を完成されたからである。それは、聖書を書き換えることによってではなく、それを私たちの心に書き付けることによったのである。この「律法を心に書き付ける」とは、どのようなことであろうか。それは、もはや私たちの心で律法の要求を判断しないようになることであり、そのようにして律法から解放され、私たちの心が自ら喜んで、律法の命じるところを行うようになることである。
 そのためには、「自分を捨て、十字架を負って私に従ってきなさい」とのキリストの招きに従い、この世におけるすべての望みを捨て、残りの生涯を完全に主に献げる必要がある。これがエックハルトの言う「離脱」ということであり、それは消極的なものではなく、返って積極的なものであり、その中にこそ私たちが手にすることのできるあらゆる可能性が潜んでいるのである。というのは、キリストも信仰の偉人たちも、父なる神ご自身も、この同じ「離脱」を保有し、その中に生きていたし、また今も生きているからである。
『こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか』へブル12:1
 このように、エックハルトの言う「離脱」とは、私たちが追及しているオーソドックスな信仰の延長上にあるものであり、信仰抜きの離脱ということは想定されていない。つまり、キリストにより救われ、信仰的な向上を目指して努力してきた者が、この世界における究極的な献身を願って、この世における可能性を自ら放棄することにより、ひと粒の麦として地に落ち、そこから聖霊の力により復活し、自由に神に仕える神の子とされるのである。エックハルトは、それらをあくまで知性により追及する。「捨て去る」ことを意志するということは、知性の領域にあることだからである。しかし、「捨て去った者」、「捨て去ることをあえて成した者」は、知性の領域を超え出て、高次の知性の領域に入るのである。捨て去ることは、時間から解放されることであり、それは永遠の世界、霊的な世界への入口である。彼にはもはや、物事の前後や優先順位、戦略や企ては意味を持たなくなる。それらはこの世のものであり、彼はすでに永遠の世界、時間を超越した世界における神のご計画に参与しているのである。彼の五感を含む低次の知性は、依然としてこの世界に活き、そこで悩み、考え、活動しているのだが、彼の目覚めた高次の知性は、神の永遠の計画を常に彼の低次の知性に教え続けるのである。しかしそれは、彼に内にあってさえ、超自然的な作用、すなわち啓示により行われる。キリストが世を徹して祈られたのは、このことによるのである。彼の内には、神の永遠の計画が啓示されていたが、それは彼の中においてさえ神秘に包まれたものであり、祈りの中で啓示されるものであったのである。しかし、その啓示は、キリストをして全生涯を神のために献げつくさしめ、それにより神の御計画であった全人類の救いが成就したのである。私たちは、このキリストの中にあった啓示、エックハルトの言う「離脱」により、私たちに永遠に与えられるこの啓示を追求する必要がある。それは現代においては、またベニー・ヒンが「キリストの主権の啓示」として追及しているものでもあり、ホーリネスが「聖め」と呼ぶものでもあり、メソジストが「全き聖め」と呼ぶものでもあると思う。それは、キリストの真の僕になることを願い求める者たちが切に求め続けているものなのである。

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2009/08/28

神に仕える真理

神と神性とについて
 「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった」とエックハルトは言う。「神は働くべきいかなるものも持たず、神の内にはどんなわざもなかった」と。神は、言葉により一瞬で宇宙を創造することのできる方である。たとえ天地創造に6日間かかろうとも、その際に神は何も働く必要がなかったのである。
 しかし、そのような神が人を創造したとき、「そのとき神は魂の内で神のわざと等しきわざを表した。・・・魂も神のわざにほかならない」とまた彼は言う。つまり、エックハルトによれば、魂は物質的には被造物であるが、そこに「神のわざ」すなわち非被造的な要素が存在し、全体を構成しているのであり、それ抜きでは魂とはなり得ないのである。
 魂は何のために創造されたのか。エックハルトが彼の他の説教の中で言っていることによれば、「魂の本性および本性的完全さとは、魂がみずからの内でひとつの知性的世界に、つまり神が一切の事物の原像を造りいれたあの知性的世界になること」である。
 魂は、神の内に、神の似姿として創造された。そして、神の内から外へと生まれ出てきたのであり、今も生まれ出つつあるのである。これらのことは、人間における妊娠と出産になぞらえることができよう。そして、その目的は、生まれ出る者、すなわち魂が、様々なことを体験しながら成長し、父と同じ身丈にまで成長することである。なぜ、親は子を生むのか。それが親の性質だからである。エックハルトは言う、「すべての被造物は、生むことと、父と同じになることを願って行為している」と。
 それゆえ、魂が父なる神を認識するのは、生まれ出ることを通じて、つまり父から流出し、孤立しようとすることを通じてなのである。「孤立しようとすること」と言ったのは、生まれること、すなわち流出は永遠のできごとであり、それが過ぎ去るということもまたないからである。
 私たちは、これらのことを自分の知性で完全に認識することはできない。私たちの意識は時間の中で、この流出を通じて、永遠からの脱落として生起するものだからである。しかし、もし私たちの意識が、すべての時間から自由になり、そのようにして自らの流出が、すなわち誕生が、神の前に永遠のできごとへと回復されるなら、私たちは、父から生まれ出た、あの原初の純粋性へと回帰することを得、「その意志は、その本来の自由なあり方にたち帰り、自由となり、そしてその瞬間、一切の失われた時間が再びとりもどされる」とエックハルトは言う。そのとき私は、いままでの神との関係を超克することになるだろう。そのとき、私はもはや神の元から流出し、離れていく運命的な呪縛から解かれ、真に自由な存在となるだろう。しかし、そうなった私は、一つのものを失うことになる。それは、被造物としての私が認識していたところの神であり、それはまた私の周りの全被造物が認識していたところの神でもあるのである。
 エックハルトは語る、「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。このように帰り来たったとき、神は消えるのである」と。

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2009/08/26

神に仕える生

観想的生と活動的生について
 「私たちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである」とエックハルトは言う。これが、私たちが生まれた目的であり、人生における様々な状況を理解する鍵なのである。
 さて、聖書はこの「知性的な活動」について、主イエスを家に迎えた2人の女性を通じて語っている。その内の一人マリアは、主の足元に座って、御言葉に聞き入っていた。彼女は、そのときの自分の状態に相応しく、主イエスから何かを受け取ることに専念していたのである。しかしマルタは、主イエスをもてなそうとして、忙しく立ち働いていた。そのとき、エックハルトによると、三つのものが彼女を主への奉仕に駆り立てていたのである。まず円熟した年齢と、極限にまで鍛え抜かれた魂の根底、そして、愛の命ずる最高のものを目指して、外的な仕事を手ぎわよくさばくことを知る賢明さ、最後に愛する客の高い品位であった。
 もしあなたの生活が、早朝の御言葉の学び、瞑想と祈りであるなら、あなたはあのときのマリアと同じである。しかし、もしあなたが、主から名前を二度続けて呼んでいただけるほどに、主の親しい友となりたいと願うなら、あなたはマルタのようにならなければならないとエックハルトは言う。マルタ、それは受けることを卒業した女性である。受けるための知性的活動ではなく、仕えるための知性的活動を生きる人である。マルタには、主の足元に座っている暇は与えられていなかった。しかしエックハルトは言う、「このような人たちは、事物にごく近く立っているが、しかしそれゆえに彼らははるか遠く永遠と境を接するところに立つときに持つものと少しもかわらぬものを持っているのである」と。つまり、日常の仕事に専念していたマルタは、そのことに少しも煩わされることなく、あたかも何の仕事もせずに主イエスの足元に座っていたマリアのように、いや彼女よりもさらに主に近いところにいたということである。どうしたら、そのようになれるのだろうか。それには、人の感性が訓練され、それが知性的な活動へと高められ、さらに彼の意志がキリスト・イエスを模範とすることにより、次第に清められていく必要がある。すると、「神は魂の根底にもう一つの意志を置く。それは聖霊の愛による掟をともなう『永遠なる意志』である。すると魂は、『主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ』と語るのである。そして、魂がこのような仕方で、先に述べたことを満たし、それを神が気に入ると、愛する父は魂の内に永遠なる言葉を語るのである」とエックハルトは言う。そのような段階に到達するのは、いつのことなのか。それは、誰にも分からない。それは、神の主権に関わることなのである。しかし、またそれは、まず私たちの側の努力によって始まるのである。
 あるところまで行けば、苦痛や困難、我慢等がなくなるというのではない。私たちは、修練により無感覚になるのではない。ある意味では、返って私たちの感覚が開かれるために、この世の困難に対して敏感になる面さえある。「わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである」というキリストの嘆きがそれを語っている。「その巨大な苦痛は、キリストの本性の高貴さと、キリストにおける神性と人性との聖なる合一に起因したのである」とエックハルトは言う。
 しかし、そのようにして永遠に至る道を歩もうと努力する者に、神はそのための手だてを備えられる。「この道の外を、すべての被造物が取り囲み、手立てをそこにつくり上げるのである。しかしこの道にあるものは、父なる神の内へと、神の言葉の光によって導かれ、両者より発する聖霊の愛によって包まれているのである」とエックハルトは言う。そのようにして、主の足元に座って、教えを聞く者、すなわちマリア、すなわちあなたは、この世界の内で努力して生きることを通して、神の御心にかなう麗しい精神へと成長するのである。
 エックハルトは語る、「それゆえ、マリアが主の足元に座って主の言葉を聞いていたときは、まだ彼女が学んでいたときであった。ようやく学校に入って、彼女が生きることを学びだしたときだったからである。のちに彼女が学び終わり、キリストが昇天し、彼女が聖霊を受けたとき、はじめて彼女は奉仕の生活を開始し、海の彼方にまでも旅をし、説教をし、教え、使徒たちに仕える女、洗濯する女となったのである。」と。

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2009/08/21

神に仕える刷新

像を介さぬ認識について
 「あなたがたは、精神とも心とも呼ばれるあなたがたの霊において新たにされなければならない」と使徒パウロは言う。しかし、人がたえず新たにされ続けている間は、まだ本当に新たになったとは言えない。もうそれ以上新たになることがなくなったときに、本当に新たになったと言えるのである。 精神が新たになるとは、どういうことであろうか。それは、精神に固有の働きであるところの「愛」と「認識」が刷新され、それ以上新しくなろうとは思わなくなること、それ以上新しくなる必要がなくなることなのである。
 精神に固有な2つの働きのうち、「認識」とは、神と自分とこの世界に対する認識のことであるが、人は神を文字どおりに認識することはできない。神は、私たち人間のすべての認識を超えているからである。そこでこの認識は、私たちの心の中の高次の知性において実現されるものである。一方自分に対する認識とは、自分の意識がより高次の自己に対して開かれて行くことであり、その程度に応じて彼の認識も、段々と像と写しに依存しない形態になっていくのである。また、この世界に対する認識とは、この世界の事物を正しく認識することであり、自分の意志や欲望にとらわれることなく、神の御心にそってすべての事物を認識するのである。そのためには、彼の認識が天的な光に照らされている必要がある。そのような認識は、ちょうど神の独り子がこの世界の事物を認識するときの認識なのであり、そのような認識に達するためには、私たちの意識が低次の知性から、像も写しも伴わない高次の知性における思惟の内へと飛翔する必要があるのである。
 精神に固有なもう一つの働きである「愛」は、究極的には神に対する愛のことであり、そこからこの世界と自分への愛が派生してくるのである。しかし神に関しては、この世界の事物とは異なり、魂の低次の知性が把握できない対象であるだけに、神の独り子の内にあってさえ把握することはできないのである。というのは、御子が肉体をとられた間は、彼は神を把握されていたのではなく、信仰により神に従っておられたのである。そのような神を私たちは、どのように愛すれば良いのであろうか。それは、文字通り高次の知性における精神活動によるのである。それは、非精神的なものであり、私たちが日常経験する感覚や感情を超えたところのものである。それは、私たちの神への愛が像や写しに依存しないものとなるためである。エックハルトは語る、「あなたは神を非精神的な仕方で愛さなくてはならない。つまりあなたの魂が非精神的になり、一切の精神性を脱ぎすてるほどに非精神的な仕方で愛さなくてはならない。なぜならば、あなたの魂が精神的であるかぎり、魂は像を持つからである。魂が像を持つ限り、魂は媒介を持つ。魂が媒介を持つかぎり、魂は一性も単純性も持つことはない。魂が単純性を持たなければ、魂は神をいまだ正しく愛したことにはならないのである。なぜならば正しく愛するかどうかはひとつになるかどうかにかかっているからである。それゆえにあなたの魂はすべての精神的なものを脱ぎすて非精神的でなくてはならないのである」と。
 非精神的とはどういうことか。それは、自己喪失的ということである。この世における精神的なことがらの核心には、不可解にも非精神的な自己喪失がある。恋愛、友情、戦い、信仰、それらが核心に入り、そのクライマックスに達するとき、そこにあるのは、美しい自己喪失である。それは、何を意味しているのか。それは、私たちは自分を持ったまま、つまり自分個人としてそれらを真に獲得することはできない、すなわちそれらを自己固有の所有物とすることはできないということである。もし仮に、それができたとしても、それは正しいことではなく、それにより、私は孤立と分裂の中に自らを置かざるを得なくなる。私が究極的に自己を実現し、御子を通じて神からすべてのものを相続する方法は、自らを喪失し、無となること以外にない。私たちが獲得しようとするもの、すなわち私たちの愛の対象が神ご自身である場合にはなおさらである。しかしそれは、「無と成り果てる」ことではなく、「永遠に無と成り続ける」ことであり、それこそが私たちが神の御前に永遠の存在とされることなのである。エックハルトは語る、「あなたは神を、ひとつの非神として、ひとつの非精神として、ひとつの非位格として、ひとつの非像として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄みきった一なるものとして愛さなくてはならないのである。そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン」。

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2009/08/19

神に仕える認識

三つの闇について
 「光は暗闇の中で輝いている」とヨハネの福音書にある。かつて光である御子イエスが来られたころのイスラエルは、ローマ占領下のまさに闇の状態であった。今日においても、人々は往々にして、闇のような苦難の中で主イエスに出会う。つまり闇とは、この世界の慣れ親しんだものたちを包み隠し、それらから私たちの目を引き離し、光の父へと向かわせるものである。
 これらのことに関してエックハルトは、3つの闇というものを提示する。第1の闇は、上述のような人生の苦難のことであり、それによりこの世のすべてのものが色あせ、光を失うのである。そして第2の闇とは、天からの光に照らされた者が、そのすばらしさのゆえに、その人に対してこの世界のすべてのものが価値を失うのである。さらに第3の闇とは、救われた魂が神からの清めに与るとき、もはやそれまで彼が神に対して抱いていた旧い思いや知識が一掃され、輝きを失い、新しい天の知識に満たされることである。このように、光と闇は対照であり、また対であって、闇は新しい、より高い光への契機なのである。
 エックハルトは語る、「『主は山に登った』(マタイ5:1)とあるが、これは、神がその本性の高みと甘美さとを告知していることを語るものである。この高みからは被造物の一切は必然的にすべり落ちている。人間が神の『像』であるかぎり、この高みにあっては人間は神および自分自身以外の何ものについても知ることはない」と。ここに「闇」というものの新しい意味が提示されている。それは、すべてのものを越え出るということである。ちょうど大気圏を越え出るとそこには大宇宙の闇があるように、この世界の一切を越え出たとき、私たちの魂が入って行く領域すなわち天は、それ自身においては輝きもせず、冷たくも、暖かくもない。そのように魂もまたこの闇の中では一切の光を失うのである。そこはまた、像も写しもない世界である。像と写しは、光によりもたらされるものだからである。それゆえ、そこではすべてのものは、光を介さず直接的に認識される。
 私たちの主は、群衆をあとにして山に登り、そこで口を開き、神の国について教えられた。私たちが神を認識しようとするなら、すなわち神の教えを受けようと思うなら、この山の上に登らなければならない。魂は、すべての像を放棄して、主の教えを聞くためにこの山の高みにやって来たのである。それは、そこにおいて、この世界の事物の真の認識の仕方を獲得するためである。エックハルトは語る、「魂は神の子であるこの『像』の内へと変容し、写され、刻印されなければならない。もし魂が一切の像を越え出るならば、魂は、神の子であるかの像の内に刻印されるのだ」と。魂が神の子であるかの像の内へと写され、刻印されるとき、魂は、すべての事物を神の独り子の内で認識するようになる。しかしそれは、あくまで像と写しを介した認識である。魂は像と写しなしに自らを認識することはないからである。しかしその認識は、神の独り子が事物を認識するまさにその形態そのものなのである。そしてそれゆえに、そのときまた魂は、神から子と聖霊とが発出するということ、そして魂自身が神の一人子であるということを神の内で受け取るのである。

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2009/08/12

神に仕える視点

無である神について
 私たちは、この地上で生き、活動している。そこは、天からは隔てられた場所である。「神を見た者は、まだ一人もいない」と使徒ヨハネは語った。私たちは、どのようにして、この見えない神に仕えることができるのだろうか。しかしエックハルトは、「パウロは神を見た」という。それは、どういう意味なのだろうか。
 エックハルトによれば、パウロが神を見たのは、天から射してきたまばゆい光の中でのできごとであった。彼は地に倒れ、彼の目には何も見えなかった。エックハルトは言う、「もし彼の目が、何物かを見たとしたなら、それはもうすでに神ではあり得ない」と。それでは、神を見るとはどういうことなのだろうか。それは、「肉体の目ではなく、心の目で見る」ということなのである。そしてエックハルトによれば、人が心の目で神を見ることができるためには、まずその人の目が完全に盲目な状態、つまり何も見えない状態になる必要があるのである。しかし、どうしたらそのようになるのか。エックハルトは語る、「パウロはかの光に包まれたことにより、神以外は何も見えなかったのである。というのも、彼の魂に属するものすべてが、神であるこの光にかかわり、専念していて、それ以外には何も知覚することができなかったからである。そしてこのことは私たちにとって良き教えとなる。なぜならば、私たちが神に気をかけているときは、外からはほとんど煩わされないで済むことになるからである」と。つまりそれは、一種不随意的に起こる。そして、一旦起こってしまえば、後は私たちの努力ではないのである。
 それでは再び、それはどのようにして起こるのか。それは、強いて言えば、私たちの努力と神の哀れみの両方の結果なのである。パウロは、キリスト者を迫害するほど神に熱心であったが、神の哀れみにより、神を見ることを通して、キリストの使徒と変えられたのであった。それは、まさに神からの一方的な恵みであり、パウロ自身はそれを期待してはいなかったのである。しかしエックハルトは、このことに関して、さらに積極的な言葉を語る。すなわち、それは私たちの努力によってもまた引き起こされると。「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである。このように必ずなるのである」と。そして、そうなるために彼が提示する方法は、「魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄する」ことであり、そうするならば、「そこで魂は無の内に神を見出す」のである。しかしこの「魂が一なるものの内に入り来る」とは、いかなることであろうか。一なるものと言えば、神であるのだが、残念ながら我々は直接神を見ることはできない。そこで、神秘主義者エックハルトの方法論に従わざるを得ない。彼は語る、「知性は周囲をめぐり、そして捜す。知性はあちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。探し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別な知性がある。この知性はそこではもう探し求めることもなく、かの光の内に包みこまれた、その純粋で単一な有の内に立つのである。つまり、この光の内で魂の一切の力が高まったのである。」と。
 彼が言う「一なるもの」とは、この「単一な有」のことであり、それはまた、パウロを包み込んだ「天からの光」と同じ光に常に包み込まれているものなのである。そして、魂の内にある高次の知性、ものごとを捜し求める欲望や野心からもはや解放されたこの新しい知性は、かの光に包まれた単一なる有の内に常にあるものなのであり、信仰者の意識が彼の通常の知性からこの高次の知性の内へと飛躍するとき、彼の知性は神を見ることになるのである。しかしそのとき、彼の諸々の感覚は思惟の内へと飛翔しているのであり、彼の目はもはやこの世界のものを見てはいないのである。
 そのように人は、この世界のものと神とを同時に見ることはできないのであり、この世界のどのようなものも、神を知るための妨げでこそあれ、まして助けとはならないのである。そして、さらに神を心の目で見る場合においても、この世界のものを見るようにして見る、すなわち、感覚的にとらえようとしたり、理解しようとしたり、また、知ろうとしたりするならば、それは神を知るための正しい方法ではないのである。それでは、私たちは神をどのような姿勢で求めるべきなのか。それは、エックハルトによれば、「あり方も尺度も全くない認識」ということであり、人間の認識は、そこまで到達することが可能ということである。それは、その認識の基礎が自分の魂の内にあるからである。神が人をご自身の姿に創造されたゆえに。生まれたからこれまでに、自分の中に築かれてきたものすべてが自らの努力で取り除けられるなら、それが起こるのである。彼は語る、「それゆえに、花嫁は愛の書(雅歌)の内で、『わたしがもう少しだけ先に進むと、そこにわたしはわたしの魂の愛する人を見つけたのだった』(雅歌3:4)と語るのである。魂が超えていった少しだけのものとは一切の被造物のことである」と。

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2009/08/04

神に仕える本質

三つの内なる貧しさについて
 エックハルトと仏教の関係が云々されることがある。それは私の見たところでは、仏教の「無」の概念との共通性についてであるようだ。そして、いまここで取り上げている説教は、特にその色合いが濃いように思える。
 それにしても人は、どうして仏教的な「無」の概念に引かれるのだろか。しかもそれは、日本人だけでなく、欧米人においてもその傾向が見られるようなのだ。それは私には、宗教的な制圧概念への反動のように思える。特にキリスト教の神の持つ制圧概念は、とても強いように思う。イスラエル民族は、彼らの長い歴史を通してそれに耐えてきた。キリスト教の神は、「妬む神」であり、また「義の神」でもある。私たちは、キリスト教の中にいる限り、この神の制圧から逃れることはできない。しかしこの制圧は、キリスト教に限定されたものではなく、カルト宗教はもちろん、イスラム教や神道のような伝統的な宗教にもそれはある。しかしなぜ仏教にはないのか。それは、それがまさに「無」、神不在の宗教だからだ。それゆえにまた救いもない。そこにあるのは、仏と解脱、涅槃なのである。そして、この辺がエックハルトと共感するように見えるのだろう。
 これまで述べたことから自然に推測され得ることは、「宗教的制圧の原因は、神の存在にある」ということである。そして、このことに気づいてしまった者は、神との関係を再構築することを考えざるを得なくなる。しかしそれは、人間関係の再構築のようにイーブンなものではなく、変わるのは、あくまで人間の方なのである。
 エックハルトは、この神との関係の再構築を3つの形態で示す。まず最初は、人が「神のために何も意志しない」ことである。人が神に従うのは、絶対の服従からであるべきであり、そこにはもはや、彼の判断や意志が入り込む余地はないのである。そのとき彼は一見神の奴隷の様でもあるが、それにより彼の意志は、神の制圧からは完全に解放されているのである。
 第2には、人が「神のために何も知ろうとしない」ことである。もし彼が何かを知ることがあるなら、それは神から与えられたものであり、彼が捜し当てたものではないのである。なぜなら人は、良いもの以外を知ってはならないのであり、良いものはすべて光の父から下ってくるからである。そのような人は、一見井の中の蛙の様でもあるが、彼は自分に必要なことをすべて知っているし、知るべきでないことからは、完全に守られているのであり、その知るべきでないことを知ってしまうことがいかに大きな損失でしかないかということをまさに彼は知っているのである。
 第3に、人が「神のために何も持とうとしない」ことである。もし彼が何かを持っているとしても、それは神のためではあり得ない。なぜなら、神は全能であり、人から何かを借りる必要などないからであり、また人が何かを神に提供するならば、それは神の邪魔をすることになるからである。そのような人は、一見貧乏の様でもあるが、彼に必要なものをすべて持っているのである。
 このように、「神のために何も意志せず」、「神のために何も知ろうとせず」、「神のために何も持とうとしない」人こそが主イエスが言われた幸いな人だとエックハルトは言うのである。そのような人は、もしそれが彼の意志でなかったならば、世界一不自由な人であろう。しかし、もしそれが彼の意志ならば、世界一自由な人である。というのは、彼にはもはや神の制圧を感じることがないからである。彼が神に従うのは、彼の心であれこれ考えた理由や作りだした方法ではない。彼は、理由なしに神に従うのであり、彼が神に従う理由は、神の存在ではないのである。それでは、何がその理由なのか。それは「彼の存在」、もっと正確に言えば「神から造られた彼自身の存在」である。というのは、神がいかに壮大な意志と計画を持っていたとしても、重要なのは、そのような知識よりも、彼自身が神からどのような役割を与えられているかということだからである。つまり、人が神に造られた彼本来の人生を歩もうと意志するとき、彼は神について知る必要はないのである。それでは、彼は何を知る必要があるのか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」(ローマ10:8)とある通り、私たちは今この手にそれを握っており、これを学び、これを行うことこそが私たちの成すべきことなのである。

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2009/07/29

神に仕える必然

魂の内にある火花について
 この説教の中でエックハルトが語っている「魂の火花」とは、いったい何だろうか。彼によれば、それは紛れもなく魂の内にあるのだが、それは被造物ではなく、一つの力であり、一つの働きである。人は、神により神ご自身の形に創造された。しかし、神ご自身は肉体を持っておられない。そこで、「人が神の形に造られた」とは、それが物質としての肉体を持つと共に、物質とは異なる天的な要素、すなわち魂を持つということである。魂は、どのように天的なのであろうか。それは、それが滅びゆく肉体のような物質ではなく、エックハルトによれば、「神は被造物の本性に働く能力を貸しわたす。そしてその本性のはじめてのわざが心というものなのである」。つまり魂とは、神から貸しわたされた神の業なのである。神は、人を塵から形造り、ご自身の働かれる業と同じ業、すなわち命の息をそこに吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。それは、無からの創造ではなく、神ご自身の内へ神ご自身と同じものを造りこむこと、すなわち生み出すことである。生むとは、自分の内に自分と同じものを造り、それを外へ生みだすことである。妊娠と出産は、それを地上的に表している。しかし、「生む」ということは永遠の業であり、終わりのない業、永遠に続く業であり、生むものは永遠に父であり、生まれるものは永遠に子である。そして、「生む」という業も永遠であり、生み終わることはないのである。そこで、生まれるものは、永遠に生むものの内に留まったままであり、同時に外へと流れ出続けているのであり、これが永遠における生むということであり、それが魂なのであり、そのすべてを認識する高次の意識とでも言うべきものが「魂の火花」なのである。
 どのようにしてそれはすべてを認識するのであろうか。それは、まさに生むという働きが自分の内にあり、それが神の働きでもあるということからである。それは、肉体を持った魂の中で営まれる働きではあるが、本質的には、神の働きと同じ働きなのである。それは、神が人をご自身の形に創造され、そこにご自身の業を吹きこまれたからであり、その結果、人もまた生むものとなったからである。そして神は、この人の生むという業を完全なものにするために、ご自身の独り子を人から生まれさせ、その方により、人類の罪を贖い、その方を信じる者の心にご自身が生まれることを約束されたのである。この神が人となったということにより、人の中に営まれる「生む」という業が完全なものとなるのである。そのような贖われた魂が認識するのは、どのようなものであろうか。それは、自分と神との完全なる合一であり、一致であり、統合である。そして、その結果そこに一つの静けさが存在するようになる。それは、同等性による静けさである。すべては、この認識により、永遠の平安を獲得する。魂の持つ高次の意識がそれを認識するのである。そして、それは、自分自身なのであり、これ以上の静けさは存在しない。
 エックハルトは語る、「そしてここ、だれも住まいするもののないこの最内奥においてはじめて、この光は満ち足りるのである。その内では、この光は、それ自身の内にあるよりもさらにいっそう内的である。というのもこの根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純な静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受けとられるのである。わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理がわたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

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2009/07/28

神に仕える浄福

神が魂の内に子を生むということについて
 聖書に、一人息子に死なれた寡婦の話が載っている。その息子の葬りの行列に主イエスが近寄り、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と語りかけられると、その死んだ息子は生き返った。この寡婦とは魂のことであり、また息子とは、知性のことであるとエックハルトは言う。世では、一般に知性的な生き方が尊重され、キリスト教会においても、知性的な信仰がもてはやされることが多い。しかし、知性的に生きることが必ずしも信仰的とは限らない。そればかりか、ときとしてそのような生き方が、自分の欲望追求の手段となることさえある。人の思い図ることは、生まれつき悪いからである。そのとき彼は、自分の心に悪しき思いや計画を育んでいることになる。それは一見、彼の外にある何物かであり、彼自身はそれとは独立しているように思えるかもしれない。しかし、それは実は彼自身でもあるのであり、彼の悪しき形態における自己実現なのである。そういう意味からも、彼は自分の内に悪しき自分自身を生んでいるのである。否、彼は自分の内へ何か有益なものを生んでいるのではなく、実は自分の外へ向かって自分を生み出そうとしているのである。しかしその終局は、息子の死、すなわち彼の知性の堕落であり、彼はついに自分の知性を捨て、放縦に身を任せるに至るのである。結局世の追及するものは、知性的な生き方などではなく、その先にあるのは、むしろ往々にして官能的な欲情の追及でさえあるのだ。つまり彼は、以前は神に造られた魂として、自分の内に神の形を生むべく備えられていたのだが、今や彼の野心が彼をして、本来の成長の方向性から逸らせ、自らの悪しき心をもって、その成果としての工作物を彼の外へ向けて顕示しようと思い立つに到ったのである。これは、まさにルシファーが行ったこと同じであり、彼自身は、自分の知性を鮮鋭化し、発展させようとしたのだが、それを自分の栄光のために行ったため、返ってそれを失ってしまったのである。
 しかしもう一つ、全然別の知性の失い方がある。それは、神のために自分の知性を軽んじることであり、この世の追及する一切のものから目を転じて、見えない天的な清さに身を投じることである。それは知性的には、自ら不妊の女となることであり、主イエスが言われた、「私のために父、母、兄弟、財産を捨てるものは・・・」という招きへの応答である。そしてその結果は、主イエスが言われた通りに、その人が捨てたものの百倍を受けることになる。すなわち、彼は神のために彼の知性の向上を断念したのだが、そのことにより、今度は彼の高次の知性が覚醒を始め、彼の魂が神を目指して、遙かな高みへと舞い立つのである。彼の内部は、神の御子の生誕の場所となり、常に淨福な場所となる。彼の知性は、神と共に豊かに生み始める。聖書は語る、「生む能力のある女の子供らよりも、不妊の女の子供らの数の方がはるかに多い」(イザヤ54:1)と。またエックハルトは言う、「魂は自分自身を自分自身の内で生み、つぎに自分を自身の外へと生み、そして再び自分を自分自身の内に生む」と。
 このように、神に造られた最初の浄福の内に留まる魂は、彼自身の作り出す惨めな可能性に対しては閉ざされるが、彼に神から与えられている本来の可能性に対しては大きく開かれることになる。そこにこそ、彼が捜し求めていた一切以上のものがあるのである。その場合、彼はいったい何を新たに獲得したのだろうか。それが実は、何もないのである。この領域には、人が新たに獲得できるものはなにもない。彼が浄福を得るためにできる唯一のことは、彼自身であり続けることであり、それ以上を求めることは彼にふさわしくない。そして、彼が彼自身であり続けるときにこそ、彼は神に一番近いのである。なぜなら、彼は神に彼として造られたと共に、彼自身神の似像であるからである。エックハルトは語る「多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意志の内にもなく、それら二つを越えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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2009/07/24

神に仕える方向性

神の言について
 聖書によれば、この世界は神の言葉により創造された。神の言葉は、神から流れ出、同時に神の内に留まり続けている。そして、エックハルトによれば、すべての被造物も神から流れ出ながら、同時に神の内に留まり続けているという。それは、それらが神の言葉により創造されたからであり、またそれは、永遠の世界における出来事なのである。つまり、この世界の目に見えるものは、霊的な目に見えない世界から出てきたのであり、そこは永遠の世界なのである。それゆえそこでは、すべてが現在であり、物事が過ぎ去ることもない。そこでは、永遠に御子が誕生し続け、この誕生が終わることはない。神は父として御子を生み続け、万物は創造され続け、12人の長老たちは、神の御座の前に彼らの王冠を投げ出し続ける。そのような世界は、いったいどこにあるのだろうか。壮大な銀河の果てだろうか。しかしエックハルトによれば、それは私たちの魂の最内奥にあるのである。このようなことから、私たちがこの世界において完全性を追求する方向性は、2通りあることになる。すなわち、すべての被造物から遠ざかり、自分の内に堅く閉じこもることと、もう一つは、すべての被造物の中に神を見い出すことである。
 自分の内にしっかりと閉じこもるのは、ただ神のみに目を向け、心を開くためである。それは、永遠の世界における経験であリ、それにはこの世においては永遠の時が必要となる。つまりエックハルトが言うように、「人がしっかりと眠りについていて、百年間も眠っているならば、その人は被造物についても時間についても、像についても知ることはない。そしてそのときに、あなたの内で神が働くものをあなたは知ることができるのである」。
 そして、この世界において完全性を追求するもう一つの方向は、「すべての事物の内で神を捉える」ということであるが、それは、手当たり次第に物事を探求し、その中に神を探せということではなく、文字どおり「すべての事物の内で」ということである。つまり、「すべての事物の内に同時に神を見い出す」ということである。それは、神がすべての事物の内に同時に存在されるお方だからであり、等しさそのものであるからであり、そのような認識を通して、神の心をつかむことである。エックハルトは語る、「わたしは昨日あるところですわっていたが、そのとき、天にましますわれらの父よ(パーターノステル)の中に載っているひとつの言葉を話して聞かせた。それは、『あなたの意志があらわれますように』というものであった。しかし、『意志があなたのものとなりますように』という方がもっと良いであろう。つまり、わたしの意志が神の意志になるように、わたしが神になるようにということがパーターノステルの意味するものである」と。
 「すべての事物の内で励みなさい」という言葉のもう一つの意味は、「すべての事物の内であなたに有益なものを生み出しなさい」という意味である。つまり、すべての事物の中で神を見出すと共に、あなた自身も有益なことをしなさい、すなわち、「神を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」ということである。すなわち、聖書に書かれていることを文字通り、全力を尽くして実行しなさいということなのである。私たちに必要なものは、すべて与えられている。それは、聖書の中にすべて記されているのであり、その聖書は、いまあなたの手の中にあるのである。この聖書には、永遠の世界のことと、この時間の中の世界のことが書かれており、それが見事に調和しており、この永遠の言葉は、今も父の内から流れ出ながら、父の内に永遠に留まっているのである。そして、この聖書を読んでそれを実行する私たちも、御子と共に父の内に留まり、そこから流れ出て、この世界に遣わされているのである。

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