2009/05/29

結論として

 これまで、新改訳聖書について、実際に様々な箇所を引用しながら、その翻訳内容について考察してきた。しかし、それらはほんの一例に過ぎない。このような作業を徹底して行えば、おそらくこの何十倍もの箇所が抽出されてくることだろう。これらから言えることは、私は決して新改訳聖書の翻訳内容、翻訳方針に同意できないということである。百歩譲っても、これは決して、独りで読むのにふさわしいものではない。
 しかし、新改訳聖書は、今も福音派、カリスマ派の多くの教会で愛用されている。そして、彼らも実に善良な主の民である。問題は、どこにあるのかと言えば、新改訳聖書刊行の歴史にあるようなのである。同刊行会のホームページにそれが載っているが、それによると、背景に宗派間の対立が色濃く存在している。対立そのものは、ある意味では必然的なものかもしれないが、問題は宗派間の会話までが遮断されてしまったことにある。これにより、新改訳聖書は、他の訳の聖書から孤立してしまい、発展が止まってしまったのである。そして、もともとの人材不足もあり、いまだに突貫工事の痕跡が随所に残されたままになっていると思えるのである。そして、さらに不幸なのは、このトランスペアレントな訳から、一般信徒が聖書の文脈を読み取ることは、非常に困難だということである。それが何を意味するかというと、福音派信徒は、実質的にデボーションができない状態にあるということである。そこで、証しもできない。彼らには(私も福音派信徒だから「私たちには」と言おうか)、聖書の言葉から、そこに記されている、例えばダビデやヨナタンの雄姿に日々啓発されて、自分の人生を生きるとか、自分の経験した困難を神の恵みと導きにより克服した証しと聖書のエピソードを対比しながら神の栄光を証しするというようなことは、到底できない芸当なのである。だから彼らは、日々聖書を読んでいても、語る言葉は、福音の箇条書きでしかないのである。これは、これまで私にとって大きな謎であったが、やっと理解できたように思う。新改訳聖書の翻訳方針により、そのようにされてしまったのである。それはちょうど、日本が敗戦によるアメリカ占領下の「Yes/No教育」により、思考が骨抜きにされてしまったようなもの。あるいは、もっと皮肉っぽく言えば、エホバの証人が新世界訳聖書(新改訳とはひらがなで一字違いである)を訳出して孤立し、その信徒が盲目にされてしまったのと似ているのである。そして、この状況は、宗派間の対立であるゆえに、容易に払拭できない。というのは、福音派、ペンテコステ派は、新改訳以外の聖書を決して手に取ろうとしないし、リベラル派にとっては、新改訳は、「そういうことを論じる気も起こらない」(リベラル神学者田川建三)ほどおろかな訳だからである。
 話は少しそれたかもしれないが、日本の聖書翻訳事業は、このように不幸な歴史を持つようなのだが、その影響は、一人一人の信徒の信仰生活とも無関係ではない。宗派対立や神学論争が反映した牧会に嫌気をさして、教会を後にした有能な信徒を何人も見てきたからである。彼らの中には、教会、教派間の移動のみならず、信仰を捨てた者さえいる。比較的最近になって、福音派とカリスマ派の対話や協働も行われるようになったようではあるが、リベラル派は、これらの人々から依然として蔑視されているように見える。しかし、信徒はそれを理解する由もない。その点、ある意味で信徒の方に可能性が残されているとも言えよう。
 私が切に望むことは、新改訳聖書刊行会が神の前に遜り、リベラル派との会話の道を自ら拓くことである。おそらく、懐の広いリベラル派は、諸手を上げてこれを歓迎するだろう。そして、日本民族の救霊における大いなる進展がもたらされることだろう。このブログでは、私の所属する福音派にとどまらず、カリスマ派、リベラル派、そして神秘主義に関わる内容までを包含しているが、上記のような願いを込めてのことなのである。

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7つの御霊

 聖書の中で「御霊」と言ったら、聖霊のことを表すに違いない。しかし新改訳では、これを様々な場所に使っている。「聖霊」という言葉を使っている場所(マタイ3:11)もあるので、「御霊」=「聖霊」との解釈でも無いようなのだが、どうも釈然としない。神が人を創造するとき、その中に吹き込まれるのは聖霊ではなく、人の霊(もちろん神様が造られたという意味では神の霊でもあろうが。創世記には、「いのちの息」という表現もある)であろう。聖霊は、人が主イエスを信じたときに与えられるものである。黙示録に至っては、「七つの御霊」という表現が非常に気になる。聖霊が七つあるとは、これはいったい、どういう神学なのだろうか。

詩篇
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(新改訳聖書)
詩篇104:30
 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます。
マタイ 3:11
 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
マタイ 3:16
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
黙示録1: 4
 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
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(新共同訳)
詩篇104:30
 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し地の面を新たにされる。
マタイ3:11
 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
マタイ3:16
 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
黙示録1:4
 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、

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2009/05/21

信仰のまねごと

 新改訳聖書刊行会は、そのホームページで『口語訳聖書以前は「なだめの供物」(ロマ三・二五)と訳していたヒラステーリオンを「あがないの供物」として、「耳ざわりのよい、なめらかな弱々しい言葉におきかえ」、「罪に対する律法の怒りをおおうなだめの血」であるべきところを、「近代化してしまっては聖書の宗教にとって台なしである』と言っている。しかし、口語訳聖書は、決して訳を近代化しようとしてそのようにしたのではなく、新約の教理に整合させ、全体を調和した体系に戻したのである。それは、聖書の文脈を考えれば明らかである。
 3:25と26において、『ご自身の義を現わすため』と繰り返し言っているのは何のためなのか。これは、明らかに新約における福音による神の義のことを言っているのである。それは、旧約時代のような、罪を犯すたびに神をなだめるための供え物を何度も何度も、そのたびに捧げていたころの話しをしているのではない。新約において、キリスト・イエスがたった一度だけ、ご自身の汚れなき御体をもって、『完全な購い』をされたことを指して言っているのであり、それ以外に考えられるはずはないのである。ここで言われている『義』とは、妬みの神、復讐の神の義ではなく、神の燃える怒りがイエス・キリストという一人の人の上に注がれて、彼を信じるすべての人が義とされたというその福音の義のことなのである。従って、その信仰の核心を正確に訳し出すためには、新改訳のような『なだめの供物』という訳はあり得ず、『罪を購う供え物』でなければならず、それ以外にはあり得ないのである。
 そこで、もはや新改訳聖書に現されている聖書翻訳は、信仰ではない。それは、信仰のまねごとなのである。旧約聖書の最初のページから、黙示録の最後のページまでが、私の見たところでは、信仰のまねごとに過ぎないと思えるのである。

ローマ人への手紙
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(新改訳)
(3:25) 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
(3:26) それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

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(新共同訳)
(3:25) 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
(3:26) このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

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めちゃくちゃな教理

 新改訳聖書の訳者たちの未熟な教理解釈は、このローマ人への手紙において著しく本領を発揮している。ここでパウロは、もちろん旧約時代における律法をもふくめた神の裁きの話しをしているのであり、律法を持っていた彼らの裁きはすでに律法によって下されたと言っているのである。そして、律法を持たない新約時代の人々の裁きも彼らの良心がすでにこれを下していると言っているのである。だから人は死んだ後、直ちに裁きに委ねられるのである。それは、決して未来のことではない。キリストもヨハネ3:18において、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(新改訳聖書)と言っている。だから裁きは、新改訳聖書がこのローマ人の手紙を訳しているように『神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれる』のではないのである。決してそうではなくて、キリスト・イエスの日には、人の目に隠されていたことが裁かれるのであり、誰の目にも明らかなことについては、律法の下にある者も、福音の恵みの下にある者も、すべてそれぞれに応じて裁かれていたことが、キリスト・イエスの日に明らかになると言っているのである。

ローマ人への手紙
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(新改訳)
(2:12) 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
(2:13) それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
(2:14) ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
(2:15) 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ――
(2:16) 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。

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(新共同訳)
(2:12) 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
(2:13) 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
(2:14) たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
(2:15) こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
(2:16) そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

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2009/05/20

福音書でも基本的には

 たぶん、これは私の推測だが、新改訳聖書は、他の訳(たぶん口語訳)を参考にして訳された。おそらく、それを反面教師のようにして訳されたのだろう。少なくとも、新改訳以前にあった口語訳に不満だった人たちがそれに反旗を翻すようにして、新改訳の翻訳に着手したのだと思う。そのとき、一定の翻訳規則を設けたのだが、完全に一から聖書を訳すのは大変な仕事なので、反面教師である口語訳を大いに参考にしたに違いない。そして、その悪いところを直して新しい聖書を作ったのだと思う。だから、以前から口語訳で良く読まれていたところほど、口語訳に近い訳になっているように見える。このことは、新共同訳についても同じであり、その点では新共同訳の方が口語訳に近いとさえ見える。しかしそれでも、新改訳は、口語訳を修正したものとの感触はぬぐえない。そして、それを反面教師のように用いて、違和感のあるところを修正したと思われる。つまり、以前から良く読まれていて、それがすんなり心に入っているところはそのままになっているように思う。そして、つまらないところを修正して、返っておかしくしてしまっているようにも見える。下に示したように、マタイ2:6を見ると、新改訳は、神の主権を強調するあまり、冷たいそっけない訳になっている。キリストは確かにやがて「支配者」になられるのだが、このときは、そうではない。そして、今に至っては、「牧者」なのである。それを、「永遠から永遠までキリストは支配者である!」とでも言いたげに新改訳は訳しているのである。これは、どうも好きになれない。4:18についても、新改訳独特の「・・・からである」調が豪語している。これはやはりいただけない。
 私は、そもそも新改訳聖書の翻訳姿勢そのものが気に入らないのだ。新改訳聖書刊行会のホームページには、この翻訳姿勢のことが書かれているが、それによると、口語訳が使途20:28を『神が御子の血であがない取られた神の教会』と訳したのが気に入らず、「『神ご自身の血』を抹殺して『御子の血』だけ他の校本から借りて来た姑息な翻訳姿勢には、人本的な小ざかしい知恵による非福音的なひよわなものがみえすいていて、鋭く批判されねばならない」と口汚く批判し、これを『神がご自身の血をもって買い取られた神の教会』と訳さなければならないと言う。つまりこれによると、三位一体の第二位格である「御子」は、神ではないと言っているのである。しかも、「神は、霊であるから・・・・」という聖書の言葉から考えても、『神がご自身の血をもって』という表現が、神を肉体を持ったグロテスクなものとしてしまうことから、ふさわしくないということが分からないのだろうか。一体彼らは、自分の言っていることが分かっているのか。本当に神学を学んできているのか。私は、憤りを抑えることができない。もし、そのように聖書を取り扱おうとするなら、「キリスト」と書かれているところ、「御子」と書かれているところ、「聖霊」と書かれているところをすべて「神」と書き換えなければならなくなるかもしれない。しかし、そんなばかな話しがどこにあるだろうか。
 私は、これらのことの中に、新改訳聖書を訳した人たちの虚栄心が轟々と渦巻いているように思える。そのような一部の神に逆らう虚栄心の塊のような心の人たちに新改訳聖書は振り回されているとしか思えないのである。というのは、新改訳聖書の中には、このカテゴリーで列挙しているように、もっともっとおかしいところがたくさんあるからである。

マタイの福音書
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(新改訳)
(2:6) 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
(4:18) イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

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(口語訳)
(2:6) 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
(4:18) イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

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(新共同訳)
(2:6) 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
(4:18) イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

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2009/05/13

神との関係

 新改訳聖書も、さすがに難しい預言書には、力のある訳者を配置しているように見える。読んでいてそれほど違和感がなくすんなりと心に入ってくる。しかし、きわどいところでは、やはり違いが気になってくるものである。それは、やはり聖書全体の整合というか、神は聖書全体を通して語りかけてくるのであり、それをそのように捉えているかどうかの違いなのではないだろうか。

預言書
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(新改訳)
イザヤ書
(54:6) 「・・・主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。」とあなたの神は仰せられる。
エレミヤ書
(1:17) さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。
エゼキエル書
(8:17) この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。
マラキ書
(3:10) 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。 ――万軍の主は仰せられる。―― わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
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(新共同訳)
イザヤ書
(54:6) 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかとあなたの神は言われる。
エレミヤ書
(1:17) あなたは腰に帯を締め立って、彼らに語れ わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな わたし自身があなたを彼らの前でおののかせることがないように。
エゼキエル書
(8:17) 彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。
(3:10) 十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。

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信仰の感動

 「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(新改訳聖書 詩篇42:1)
 一見、名訳のようにも見える。しかしよく考えてみると、「慕い」、「あえぐ」ということはよほどのことである。それは、水が枯渇して、もだえている状況であり、新改訳にはそれがまるで表現されておらず、単なる調子の良い歌となってしまっていることが分かる。というのも、谷川が流れていれば、鹿は自由なのであるから、いつでもそこへ行けるのであり、「慕いあえぐ」とは言いすぎに思えるからである。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。」(新共同訳 詩篇42:1)この方が、信仰の真髄を言い表しているように思う。
それにしても、新改訳の4節の訳は何であろうか。普通、このようには、言わないだろう。全体的にも、新改訳は、ぼやけており、切実さがなく、不真面目な感触を受ける。新共同訳は、信仰の感動を持ってこれを謳い上げている。

詩篇 第42編
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(新改訳)
(42:1) 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
(42:2) 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
(42:3) 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
(42:4) 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
(42:5) わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
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(新共同訳)
(42:2)涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。
(42:3)神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。
(42:4)昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。
(42:5)わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを。
(42:6)なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。

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2009/05/12

難解な文学作品

 私は、ヨブ記を新改訳聖書で読んでいたころは、その意味がまったく分からず、ヨブ記は奇妙な書であり、凡人には決して理解できないと思っていた。しかしこれを新共同訳で読んだら、なんとこれは、すばらしい文学作品でもあることが分かった。そして、それ以上に、それが実話であり、それがイエス・キリストの恵みを明確に啓示しており、聖書の神をすばらしく身近に感じることのできる書であることを知った。
 それにしても、新改訳の12節は、輪廻転生を言っているのではないのだとは思うのだが・・・。 まったく、何と言う狂想だろうか。

ヨブ記 第11章
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(新改訳)
(11:2) ことば数が多ければ、言い返しがないであろうか。舌の人が義とされるのだろうか。
(11:3) あなたのおしゃべりは人を黙らせる。あなたはあざけるが、だれもあなたを恥じさせる者がない。
(11:4) あなたは言う。「私の主張は純粋だ。あなたの目にも、きよい。」と。
(11:5) ああ、神がもし語りかけ、あなたに向かってくちびるを開いてくださったなら、
(11:6) 神は知恵の奥義をあなたに告げ、すぐれた知性を倍にしてくださるものを。知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。
(11:12) 無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる。
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(新共同訳)
(11:2) これだけまくし立てられては答えないわけにいくまい。口がうまければそれで正しいと認められるだろうか。
(11:3) あなたの無駄口が人々を黙らせるだろうか。嘲りの言葉を吐いて恥をかかずに済むだろうか。
(11:4) あなたは言う。「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」と。
(11:5) しかし、神があなたに対して唇を開き何と言われるか聞きたいものだ。
(11:6) 神が隠しておられるその知恵をその二重の効果をあなたに示されたならあなたの罪の一部を見逃していてくださったとあなたにも分かるだろう。
(11:12) 生まれたときには人間もろばの子のようなものだ。しかし、愚かな者も賢くなれる。

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「暗やみ」と「密雲」

 新改訳聖書は、『むしろ分かりにくいと思える表現や原意は、言い換えによってでなく、聖書全体を繰り返し読んで慣れることにより、また説教者や注解者が説き明かすことによって、理解が深められるべきであり、「ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的でない」』(、新改訳聖書刊行会HPより引用)という。
 そこで例えば「暗やみ」という言葉がどのように使われているかというと、下のように新改訳聖書では、無造作に使われており、聖書の各書簡の間の整合性を考慮していないように思われる。新共同訳では、これを言い換えによって、整合性と区別を確保しているように見える。どちらが良いのだろうか。
 私は、やはり様々な年齢層、読解力、生活状況等に置かれた読者を想定した場合には、原意を過度に尊重するよりは、むしろ適切な「言い換え」等を行うべきだと思う。そうでないと、毎朝のデボーションも一人ではできないことになってしまう。教会は、これにたいしてどのように信徒を指導すべきだろうか。新改訳聖書刊行会の指針では、信徒に一人ではデボーションをしてはいけないと言っているようなものであり、もしそれを可能にするためには、例えば「一人のときは新共同訳や口語訳を読み、教会に来るときには新改訳聖書を持ってきなさい」等と指導するしかないのではないだろうか。
 それにつけても、一番問題なのは、教会の説教において、はたして新改訳聖書刊行会が言っているようなレベルの解き明かしが行われ得るのかということである。

(新改訳)
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出エジプト記
(20:21) そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。
申命記
(5:22) これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。
列王記第一
(8:12) そのとき、ソロモンは言った。「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました。
詩篇
(18:9) 主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。
(82:5) 彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。
ヨハネの福音書
(1:5) 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった
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(新共同訳)
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出エジプト記
(20:21)民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。
(5:22)主は、山で、火と雲と密雲の中から、力強い声をもってこれらの言葉を集まったあなたたちすべてに向かって告げ、それに何も加えられなかった。更に、それを二枚の石の板の上に書いてわたしに授けられた。
列王記上
(8:12)ソロモンはそのときこう言った。「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。
詩篇
(18:10)主は天を傾けて降り密雲を足もとに従え
(82:5)彼らは知ろうとせず、理解せず闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
ヨハネの福音書
(1:5)光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

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2009/05/11

不自然な論法

 新改訳聖書において、とても気になるのは、その不自然な論法である。これは、いたるところに見受けられるので、いちいち列挙するのがいやになるほどである。ここに列挙するのは、そのほんの一部であり、「・・・からである。」に終わる一連の文章である。これらは本来、前後二つの文からなり、後の文は、前の文の説明になっているはずであるが、文脈からは、そのようには受け取れない。新改訳に対して、対応する新共同訳の節を読んでみればこれが実感されるだろう。
 これはたぶん、新改訳の翻訳規則なのだろう。文脈を読まずに、ただ半機械的に訳すことが良しとされているのだと思う。これによると、(23:21)に見られるように、「彼らがアタルヤを剣で殺したこと」自体が町が平穏になった理由となってしまい、これはいかにも不自然である。

第二歴代誌
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(新改訳)
(1:3) ソロモンおよび彼とともにいた全集団はギブオンにある高き所に行った。そこには、主のしもべモーセが荒野で造った神の会見の天幕があったからである。
(1:4) しかし、神の箱については、ダビデはこれをキルヤテ・エアリムから、ダビデがそのために定めておいた場所に運び上らせた。箱のために天幕をエルサレムに張っておいたからである。
(7:9) 彼らは第八日目にきよめの集会を開いた。七日間、祭壇の奉献を行ない、七日間、祭りを行なったからである。
(14:6) 彼はユダに防備の町々を築いた。当時数年の間、その地は平安を保ち、主が彼に安息を与えられたので、彼に戦いをいどむ者はなかったからである。
(14:14) さらに、彼らはゲラル周辺のすべての町々を攻め打った。主の恐れが彼らに臨んだからである。そこで、彼らはすべての町々をかすめ奪った。その中には多くの獲物があったからである。
(21:6) 彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである
(23:21) 一般の人々はみな喜び、この町は平穏であった。彼らはアタルヤを剣にかけて殺したからである。
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(新共同訳)
(1:3) 全会衆と共にギブオンにある聖なる高台に行った。そこには、かつて荒れ野で主の僕モーセが造った神の臨在の幕屋があった。
(1:4) ただし神の箱は、既にダビデがキルヤト・エアリムからエルサレムに幕屋を張って備えた場所に移してあった。
(7:9) 彼らは七日間、祭壇の奉献を行い、七日間、祭りを行って、八日目に聖なる集まりを開いた。
(14:6) 主が安らぎを与えられたので、その時代この地は平穏で戦争がなかった。そこで彼は、ユダに砦の町を次々と築いた。
(14:14) 彼らは家畜の群れの天幕も打ち払い、多くの羊とらくだを捕獲して、エルサレムに帰った。
(21:6) 彼はアハブの娘を妻としていたので、アハブの家が行ったように、イスラエルの王たちの道を歩み、主の目に悪とされることを行った。
(23:21)こうして、国の民は皆喜び祝った。アタルヤが剣で殺された後、町は平穏であった。

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