2009/06/05

論述 離脱について

 この「離脱」という言葉からは、なにか逃避的なもの、消極的なものを連想するかもしれないが、エックハルトが言う離脱の概念は、そのようなものではなく、むしろきわめて積極的なものである。と言うのは、キリスト教的な価値観では、最高の積極性とは愛であり、自分を捨てること以上に積極的なことはないからである。そして、その究極のものが離脱というものなのである。しかし、そうは言っても、私たちの内に、それを文字通りに受け取ることへの警戒のようなものがあることも否めない。それは、離脱の動機に関することである。
 それでは、離脱の動機はなんだろうか。実は、それが何もないのである。なぜなら、それが離脱というものの定義であり、もしそれに理由や動機があるなら、それは離脱とは呼べないのである。それでは、人はどのようにして離脱しようと意志することができるのか。というのは、一般的には人は、自分が意志しないものを実行することはできないからである。しかし一方で、無意識の内にそれを実行しているということも確かに有りはする。しかし問題は離脱が、その定義によれば、最高の積極性であることである。そのように積極的であるものを、人はいかにして無意識に実行できるのであろうか。そこで、人の意識から見て、一つの具体的な積極行動であると共に、それを実行することがそのまま、無意識に離脱の実現となるような行為が必要となる。これが「謙虚さの追求」なのである。
 イエスの母マリアは、主の前で自分の謙虚さを誇ったが、彼女の追求していたものこそ、それに他ならなかった。そして彼女は、そのようにして、離脱の最高の段階に達していたとエックハルトは言うのである。しかし、そのように離脱の高い段階に達している人も、この世界においては、外見上は、むしろ他の人と比べて目立つところはなく、むしろ小さい存在のように見られることが多い。というのは、この世界は、肉体的な強さや、論理的な思考力ばかりに着目するからである。しかし、離脱は外へ出ていく何ものも持たないので、その兆候を外から観察することは不可能なのである。それゆえ、マリアはその内に高度な離脱を懐胎していながら、小さな村の一人の貧しい処女であったのであり、また、キリストでさえ、その姿に見るべき面影はなかったのである。
 しかしそのように、この世界の目から見ると取り柄のないような離脱も、神の目から見るとダイヤモンドのような輝きを発すると共に、神に用いられることにおいては、他に並ぶものがないほどに卓越したものなのである。それゆえ、神はマリアに、主の母という最重要な務めを与えられたし、主イエスを通しては、人類の罪の購いを成し遂げられたのであった。また神の人モーセも、その離脱ゆえにこの地上でもっとも謙遜な者と記され、大いなる奇跡とかつてない偉業をなしとげたのであった。
 そこで、エックハルトの言う離脱を追求しようと決意する者は、この謙虚さを身につける必要がある。「そうすれば、神性の近くにまで至ることとなる」とエックハルトは語る。これこそ信仰の真髄であり、この世界において、私たちが到達することのできる最高の状態なのである。そこで私たちは、真実な神の子とされるために、これを追求して自分の生涯を走り通さなければならないのである。エックハルトは語る、「走るとはすべての被造物を放棄して、非被造的本質へと合一することにほかならないとディオニシウスは語っている。魂がそこまで到りつくと、魂はその名を失い、神は魂をみずからの内へと引き入れ、魂はそれ自身において無となる。それはちょうど、太陽が朝焼けをみずからの内へと引き寄せ、朝焼けそれ自身は無になるようなものである。人をそこまで導くのは純粋な離脱をおいてほかにない。このことに関しても次のようなアウグスティヌスの言葉を引くことができる。『一切の事物が魂にとって無となるところ、そこに魂は神的本性へと通じる秘められた入口を持つのである。』この入口が、地上では純粋な離脱にほかならないのである。離脱がその高みに達するとき、それは認識から認識なきものに、愛から愛なきものに、光から闇になるのである」と。

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2009/06/03

説教22 神と神性とについて

 エックハルトはこの説教で、今まで言ったことのなかったことを言う。「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった。神は働くべきいかなるものも持たず、神の内にはどんなわざもなかった」と。彼がここで言っている「神」とは、「神性」のことである。彼によると、神は働き、神性は働くことがない。その働かれる神が、「わたしたちは、わたしたちに似せて、ひとつの似像を創造しよう」と語り、ご自身の業として魂を創造したとエックハルトは言う。その意味で、パウロが言うように、私たちは、まさに神の内に生き活動しているのである。しかし、魂が神の元から迷い出て、自分の意識に支配されてる限り、この宇宙の構造には気が付かないのである。つまり、自分が神の業であるということにである。しかも、エックハルトによれば、私たちが「神」と呼んでいる実体は、「神」と「神性」に分けられ、「神」は働き、「神性」は働くことがない。これによれば、魂が「神の業」、すなわち「働き」であることから、魂も神(神性ではなく)と見られることである。それゆえ、聖書は、「神はご自身の形に人を創造された」というのであり、主イエスも「あなたがたは神々だ」と言われるのである。そのように、すべての被造物は、神(神性)の光を反映する鏡なのであり、私たちが思い浮かべ、信仰することができるところの神もこの「働かれる神」すなわち鏡なのである。そして「神性」については、「それは一なるものであり、それを私たちは、思い描くことができない」のである。
 しかしエックハルトによれば、神が私たちに与えられた高次の知性は、この神性の領域にまで至ることができる。そこからキリストは、出てこられたのであり、私たちをそこへ再び連れ帰られるのである。しかしそれがすべての人に快いものかどうかはまた別問題である。エックハルトは語る、「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。・・・この説教を理解した人がいれば、その人にこの説教をわたしは喜んで捧げたい。しかしたとえここに聞く者がだれひとりとしていなかったとしても、わたしは今日の説教をこの献金箱に向かってでもしたにちがいない。『これから家にもどり慣れたところで、いつものパンをかじり、神に仕えりゃいい』と言うあわれな人も多くいることであろう。わたしは永遠なる真理にかけて言うが、このような人たちはいつまでも迷いつづけなければならず、心の貧しさを手に入れることもなく、新たな天地のもとで神に従いゆく人たちが勝ち取り獲得するものをけっして手に入れることもないであろう。アーメン」。

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説教21 観想的生と活動的生とについて

 ルカによる福音書の10章にあの有名なマルタとマリアの物語が載っている。エックハルトは、この二人を用いて観想的生と活動的生について説明している。すなわち、観想的生に生きる人は、マリアのように主イエスの足元でその教えに聞き入る。それに対し、活動的生に生きる人は、マルタのように主イエスにふさわしくもてなそうとして立ち働くのである。
 「マリアは良い方を選んだのだ」との主イエスの言葉により、一般的には、マリアの所有する観想的生を高く評価する風潮がある。しかしエックハルトは、活動的生に生きるマルタを賞賛する。というのも、エックハルトが追求するのは、この世界の中で、汗と喜びにまみれて生きる者の信仰の完成だからである。私たちは、最高の信仰に到達するために、この世界から出て行く必要はない。いままでと同様にこの世界で家族や仲間と共に一生懸命に生きながら、信仰を追求すればよい。しかもそれは、この世界との妥協でも、また信仰の土着化でもなく、それこそが真の信仰追求への道なのである。というのは、信仰の偉人たちも、そして主イエス・キリストも、この世界の中で、神に従う人生を一生懸命に生きたからである。そして、そこで神の栄光を現した。その際、彼らは世の人々のように思い悩み、苦しみながら神の御名を呼んだ。彼らは、そして主キリストも、喜びや悲しみに対して無感覚ではなかった。彼らは、彼らに与えられた喜びを心から喜び、与えられた苦しみを苦しみ抜いたのであった。しかし、エックハルトは言う、「それは、愛するマルタおよびすべての神の友たちが『思い悩みの中』ではなく、『思い悩みのかたわら』に立っているということであった。その場合、時間の内における働きは、何らかの仕方で神の内へと没入している場合と同様に高貴なものとなるのである」と。
 ああもし私たちに、このエックハルトが言っていることの意味が分かったなら、私たちの人生の悩み苦しみは、跡形も無く消え去るであろう。そのとき、まさに彼の言うように、「そこでは内面の葛藤も喜びに変じ、人が大きな努力を支払って獲得しなければならないようなことも、その人には心の喜びとなり、そうすればそれは実り豊かなものとなるのである」。このことを理解するために、エックハルトは、「すべての被造物が手立てとなる」という。私たちが永遠の浄福に到達するために、すべての被造物は神によってそこに置かれているのである。そして、もう一つ別の手立てがある。それは自分の中にあり、まさにこのような手立てから自由となり、神に向かって羽ばたくことである。「なぜならば、わたしたちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためだからである」。
 そして、知性がそれを理解したなら、そこへ到達するのは、今度は多分に人の意志が役割を演じるのである。エックハルトは、「感性的な意志」と「知性的な意志」が神の御旨に沿ったものになることの他に、第三の意志の存在に言及する。「これらすべてが満たされると、神は魂の根底にさらにもう一つの意志を置く。それは聖霊の愛による掟をともなう『永遠の意志』である。すると魂は、『主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ』と語るのである。魂がこのよう仕方で、先に述べたことを満たし、それを神が気に入ると、愛する父は魂の内に父の永遠なる言を語るのである」。これは、魂と父なる神との関係であり、法則や方法論ではない。強い意志により、父なる神のそば近くに不動に留まる者に対して、父の方からのアプローチが来るのである。わたしたちは、この段階にまで進まなければならない、すなわちエックハルトの言う「徳の修練」である。それは、一般に言われるような異教的で浅薄なものではない。「使徒たちは聖霊を受けとったあとで、はじめて徳行を働き始めたのだった。それゆえ、マリアが主の足もとに坐って主の言葉を聞いていたときは、まだ彼女が学んでいたときであった。ようやく学校に入って、彼女が生きることを学びだしたときだったからである。のちに彼女が学び終わり、キリストが昇天し、彼女が聖霊を受けたとき、はじめて彼女は奉仕の生活を開始し、海の彼方にまでも旅をし、説教をし、教え、使徒たちに仕える女、洗濯する女となったのである。・・・わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2009/06/01

説教20 像を介さぬ認識について

 パウロは、ガラテヤ人への手紙の4章で、神を知ることよりも神に知られることを強調している。しかし神秘主義は、あくまで神を知ろうと努力するのであり、そのようにして、自ら神のようになろうとするのである。しかし、それは決して、かつてのルシファーのように神と張り合うためではなく、神の約束に従い、キリストに似たものとされ、神を心底から愛するようになるためなのである。
 神秘主義者エックハルトは、「いったいどのように神をわたしたちは愛したらよいのだろう」と問い、私たちに、神を像や写しなしに認識することを求める。というのは、目に見えない神を愛するのは、お菓子や趣味を愛することとは違うにしても、私たちは、ある対象を愛するときに、その対象を味わう必要があるのであり、それが不可能なままに愛するというのは、実質的には、内容のない空っぽの愛と変わらないからである。それを実現するため、すなわち見えない神を見せるために主イエスは来られたのだが、それでも私たちが主イエスを通して見、愛する愛の対象は、父なる神であり、主イエスはあくまで方向性に過ぎないのである。というのは、主イエスはすでにこの世を去って天に帰り、父の右に座しておられるからである。そこで問題は、私たちが地上におられたころの主イエスを聖書で読み、そのようにして心の目で神を見た後で、神をどう把握するかにある。
 エックハルトは、聖パウロの言葉を彼独特の解釈で引いて言う、「あなたがたは、精神とも心とも呼ばれるあなたがたの霊において新たにされなければならない」と。というのは、神が常に新たなお方だからだ。従って、彼が言うこの「新たにされる」ということは、ある状態になるというような単純なことを意味しているのではない。むしろ「常に新たであり続ける」ということであり、そのような状態への移行のことを言っているのである。そのためには、精神を構成する6つの諸力すべてが変革される必要がある。すなわち、「悟性」、「憤り」、「欲求」、「保持能力」、「理性」、「意志」の6つの力がそれぞれ、「照明」、「平安」、「満ちたり」、「保有」、「認識」、「愛」という金の指輪をはめられなければならないと彼は言うのである。そして人が、これらの自由かつ豊かな精神の実りを保有した上で、エックハルトはその人に対して驚くべき言葉を語る。すなわち、「あなたは神を非精神的な仕方で愛さなくてはならない。つまりあなたの魂が非精神的になり、一切の精神性を脱ぎすてるほどに非精神的な仕方で愛さなくてはならない」と。
 その理由は、あなたが自ら保有する、そのすばらしい精神で神を愛するとき、神はあなたの恋人と化してしまうからである。というのは、神はそれほどにすばらしく、あなたを魅了する愛の対象だからである。ああしかし、それは神を本当に愛することではなく、究極的には、あなた自身を愛することになるとエックハルトは言う。そして、神を愛するためには、そういうあなた自身を捨てなければならないと言うのである。ああ、それでは私の精神とは何なのか。神は、なぜ私に精神を下さり、神を愛する愛をくださったのか。なんとそれは、その愛を捨てるためなのである。キリストが神のために命を捨てられたように、私たちが神のために捨てることのできる究極的なものとは、精神的な愛、人間的な愛なのである。そして、そこに一つの愛が残される。それは、どんなことにも変わらない、限りなく透明かつ純粋な愛である。「愛はいつまでも変わることがない」とパウロは言う。この愛こそ、キリストが十字架上で「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた後にも、キリストの心にあった父への確かな愛、けっして変わることのない愛なのである。しかし世の愛、人間的な愛は過ぎ去る。しかし、エックハルトが言うところの非精神的な愛というものがもしあるなら、それは、まさに聖書が言っているように、いつまでも変わることがないである。しかし、それには、私たちは自分を捨てなければならない。私たちは、神からいただいたすべてを捨て、非精神的にならなければならないとエックハルトは言うのである。しかしそれには、無限の時間が必要である。私たちの抱く人間的、精神的な神への愛を捨てるということは、私たち自身を捨てることを意味する。それには、無限の時間が必要なのである。それは、父が私たちを永遠の愛の対象として造られたからである。エックハルトは語る、「あなたは神を、ひとつの非神として、ひとつの非精神として、ひとつの非位格として、ひとつの非像として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄みきった一なるものとして愛さなくてはならないのである。そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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2009/05/27

説教19 三つの闇について

 主イエスは、弟子たちに教えるために高い山に登られた。今日においては、高く昇るものと言えばロケットである。それは、垂直に打ち上げられ、高く高く上り、ついに大気圏外にまで達する。するとそこにあるのは「闇」である。もちろんそこにも、太陽の光が燦々と降り注いでいる。しかしそこにあるのは闇なのである。というのは、近くには照らされるべきものがないからである。それゆえに、大気圏外にまで上った人を包むものは「闇」なのである。
 精神の世界においてもこれと同じことが起こる。世俗から目を転じて、神の高みにまで思いを馳せる人を包むものは「闇」なのである。というのも、そこには、神とその人以外にはいないからである。神の光に照らされるべきものが他に存在しないのである。それでは、すべての被造物はどこにあるのだろうか。それらは、神とあなたの内に刻印されているのである。しかしエックハルトは、さらに「最良の闇」があると言う。その闇の内には、魂を照らす光さえも存在しない。「そのように魂もまたこの闇の中では一切の光を失うのである。魂は、熱とか色とか名づけられるような一切を超え出るのである」と。
 いったい誰がこのような闇に耐えることができるのだろうか。それは、この世界のすべての被造物と自分自身とに完全に失望した人である。その人は、もはやどのような被造物をも求めないゆえに、それらを照らす光もまた必要ないのである。そしてまた彼は、自分自身をも求めることがないゆえに、自分を照らす光もまた無いのである。つまりある意味で私は、そこにはいないのである。それでは、どこにいるのか。私はそこでは、神の独り子の内に刻印されているのである。そして、そこですべての被造物を認識する。神の独り子の内において。神が御子のために創造され、御子すなわち長子を通して私が神から相続したものとして認識するのである。私はそこから、すなわち神の独り子の内に刻印されている状態から、時間の中に落ち、天使を通過して、この地上に降り来たったのであり、すべての被造物もまたそうなのである。

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2009/05/26

説教18 無である神について

 「神は、無である」とエックハルトは言う。それゆえ私たちは、神については何一つ語ることができない。しかしこの説教は、14頁にもおよぶ長いものである。ここでエックハルトは、「無である神」について語っているのである。どのようにしてであろうか。それは、「神とは、こういうものではない」という伝統的な否定的論法によってである。「神は、被造物ではない」、それゆえ「被造物の中に神を捜し求めても無駄である」、そしてまた「被造的な意識の延長として神に到達することもできない」。しかし彼によれば、「もろもろの感覚が高次の思惟の内へと飛翔する」ことによってそれが起こり得る。そして彼は言う、「これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突進し、飛躍し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しないかぎりは、天使といえどもこの思惟に関して何も知ることはない」と。パウロの場合には、彼がダマスコへの途上で、天からやってきた強い光を浴びたとき、この飛翔が起こったのであった。この飛翔を起こすもの、それは今日においては、奇跡的な、ある感動的な経験であり得る。しかし、その体験自体が神なのではない。それは、「飛翔を誘発するもの」なのである。
 パウロがこの飛翔を経験したとき、彼は、すべての被造物をもはや何の価値もないもの、すなわち「無」として見たのであった。そしてそのとき、彼は神を見たのである、すなわち「無」として。神は「無」である。もちろん神ご自身は「無」ではないが、私たちは神をひとつの「無」として見る以外にはない。被造物と神との接点がないゆえに、すなわち「無」なのである。しかし、私たちがもし、神の内で神を把握するならば、それは無ではない。それに必要なのが飛翔なのである。そして、そのようにして、とにかく私たちが神を見るとき、私たちはまた、被造物を「無」として見ることになるのである。そして、自分自身については、それを「無」としてではなく「無に等しい或るもの」として見る。神を見ている自分自身が存在することが疑い得ないからである。しかし、それ以外のもの、すなわち、神と自分以外のものは、もはや存在しないも同然である。それは、あなたが神を愛し、神もあなたを愛しているゆえに、他のすべては、もうどうでも良いのである。そして、実はそれがこの世界の構造でもあるのである。というのは、結局は、この世界のすべての被造物は、そのようにして神の元に帰り、あなたと神以外には存在しないも同然になるからである。そして、そのあなた自身もまさに神から流出しながらも神の内に留まり続けている神の業なのであり、そのようにして、最後にあなたも神の元へ帰ることになるのである。それが可能となったのは、まず御子が父の元からあなたのところへ歩み出て来られたからである。それは、彼があなたによってあなたの内に見いだされるためであり、そのようにして、あなたが御子からすべての被造物を相続し、もと出てきたところへ帰るためなのである。

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2009/05/23

説教17 三つの内なる貧しさについて

 プロテスタントのクリスチャンは、聖書をいろいろに解釈するのが特に好きなようだ。例えば、マタイの福音書台5章3節の『心の貧しい人々は、幸いである』を読むと、この『心の貧しい』とは、こういう意味だとか考えるのが好きなのである。エックハルトもここで、何人かの師による解釈を載せている。例えば、『神がかつて創造したすべてのものにも満足しない人、その人こそ貧しき人である』という解釈がある。しかし、聖書を知っている人ほど、聖書を文字通りに受け取るものである。というのは、聖書を読めば読むほど、変わるのは私たちの方で、神の言葉は永遠に変わらないからである。私たちが聖書をあれこれ解釈しているうちは、私たちはその真の意味を分かっていないのだ。聖書のすべての言葉を文字通りに受け取ることができるまでに私たちが根底から変えられるとき、その人は初めて聖書の言葉を理解したのである。
 そこでエックハルトは、もっと単刀直入に答える、すなわち『何も意思せず、何も知らず、何も持たない人、そのような人こそが貧しき人である』と。そしてそれは、文字通り「何も意思せず、何も知らず、何も持たない人」なのであり、つまり「神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない」ということなのである。なぜならば、例え最愛の神の意思であっても、この世界を生きながらそれを満たそうとすれば、自分の心の中に葛藤が起こらざるを得ない。また、自分が神の栄光のために生きているということを知るということは、そうでない自分をもまた知っているということである。さらに、神のための或る場所を自分の中に持つということは、そうでない場所も持っていることを意味するからである。それゆえに、これらのことは最良のものではないとエックハルトは言うのである。そして、それらに対して、最良のものとは、すなわち『神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない』という生き方だと言うのである。
 しかし、仮にそのような人がいたとしたら、その人は、まったく文字通り『神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない』のであるから、生ける屍同然であり、何の役にも立たず、天国もまた彼のものではないのではないか。しかし、エックハルトは、主イエスは、彼に天国を与えると言うのである。なぜなら、主イエスは、『心の貧しい人々は、幸いである』と語られたからであり、それを文字通り理解すれば、「何も意思せず、何も知らず、何も持たない人」なのであり、さらにそれを文字通りに理解すれば、「神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない」ということになるからである。
 それでは再び、いかにしてエックハルトが言う『心の貧しさ』が真の貧しさなのだろうか。その鍵は、最初に述べたように、そのように私たちの方が変わる必要があるということである。聖書の言葉の解釈が変わるのではなく、私たちの方が変わるのである。そして、それが本当の聖書の読み方なのである。しかし、そのように変わることのできないものが私たちの内に存在する。私たちは、神の意思を満たしたいと思う。しかしその理由を突き詰めて行くと、「天国へ行きたいから」とか、「良い人になりたいから」とか「神に栄光を帰したいから」とかいろいろとなる。しかし、神はあなたに何かしてもらわなければならないお方なのだろうか。神があなたに望まれることは、あなたが神の元へ帰ることである。それが、放蕩息子の父、すなわち天の父の望まれるたった一つのことである。そして、あなたがそのことを成したなら、もうあなたには、何も新たには成すことはない。あなたには、父の子としての永遠の昔からの仕事があるのであり、それをあなたは意思して行う必要はない。それは、もはやあなたの仕事なのである。また、あなたはその仕事を父のためにしていることを知る必要もない。あなたは、ただただその仕事をすれば良いのである。また、あなたはその仕事のために場所を用意する必要もない、あなたの仕事場は、すでに用意されているからである。

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2009/05/22

説教16 魂の内にある火花について

 キリスト教は、人の魂が創造された後に堕落した結果、今は死ぬべき運命にあると主張する。しかし同時にまた、その死ぬべき魂を神が御子の血によって購い、再び永遠の命を与えると宣言する。このような驚くべき教えは、他のどこにも存在しない。しかし、それが実際にどのように実施されているのかということについては、私たち凡人の知る由もなく、私たちは日常それを考えることさえしない。それはあたかも、私たちの意識の到底届かない、遙か彼方で行われているようであり、私たちは、伝道においても、ただただ聖書の記述をオウム返しのように語り伝えるのみである。
 しかし、本当にそうであろうか。救いの御業は、私たちから遙かに離れたところで行われたのか。そうではなかった。それは、まさに私たちの目の前で行われたのであり、私たちはその証人なのである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」とヨハネの手紙第一にあるように、それは実は、私たちにとって身近なものなのであり、私たちはそれをつかまなければ、私たちの内の主の恵みが現実的なものとなることもまた期待できないのである。というのは、ある人の内で恵みの御業が漠然としている間は、その人に天国が約束されてはいるが、彼がこの現実世界の中で神のために何かの働きをするということができないからである。それは、彼の信仰が、現実世界に焦点を結んでいないからである。
 しかし、そういうことはあっても、神の御業自体は天的なものであり、その中には、この世の概念では決して理解できない要素があるのではないか。「近づくこともできない光の中に住まわれ・・・」(Ⅰテモテ6:16)と言われているように、この世界に住む私たちが行う福音理解には限界があるのではないか。実は、それがエックハルトがここで言っていることなのである。
 そこで彼は、持ち前の神秘主義を用いて、この世界と天の間のギャップを越えようとするのである。その意味で、彼の神秘主義は、机上の空論ではなく、臨床に基づく応用可能なものなのである。しからば、どのようにしてそれを越えるのか。自分の中にある神的なものを持ってして超えるのである。それはいったい何かと言えば、彼が良く引き合いに出すように、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)とあるように、自分の内にある、神に造られた神的なものすなわち、「神の形」なのである。自分の心の目(すなわち知性)、これは神により、神の形に造られた目であり、それは神の目の働きをするのである。そして、私の心の目と心の耳の類似性よりも私の心の目と神の目の働きの類似性の方が大きいと彼は言う。それゆえ私が、自分の心の目について思い巡らし、それを働かせるとき、それは神の業ともなり得るのであり、その中に深い真理、彼によれば三位一体の真理が宿っている。すなわち、「キリストが人と成った」ということの真の意味が。キリストは、いかにして人となることができたのか。それは、人が神の形に造られていたからであり、それは、実にキリストが人と成られるためだったのである。そして、それだけでなく、キリストは、今もあなたという神に造られた器を通して、人と成られるのである。もちろん2000年前に来られたキリストとあなたとの間には違いがあるのだが、それはアダムとあなたの間の違いと変わらない。アダムもあなたも人であるのと同じように、キリストもあなたも神の子なのである。
 そこで、そこには、新たなるものは何もないし、新たに創造されるもの、新たに知るべきもの、新たに成されるべきものは何もないのである。エックハルトは言う、「というのもこの根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純な静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受け取られるのである。わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理がわたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

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2009/05/20

説教15 神が魂の内に子を生むということについて

 聖書には、何人かの寡婦が象徴的に登場する。ここでエックハルトが取り上げているのは、夫に死に別れ、息子にも先立たれた一人の女性である。そしてエックハルトはそれらの寡婦は、人の魂を象徴していると言う。
 「夫が死んだので、息子もまた死んだのである」。つまり、彼女(魂)が知性(夫)の中で生きなかったからこそ、息子もまた死んだのであった。また、サマリアの女が知性の内で生きなかったからこそ、彼女に生ける水(聖霊)が与えられなかったのである。さて、寡婦に共通しているのは、生む能力が死んでいるということである。そこで、実りもまた無いのである。しかし、神を所有する魂は、各瞬間ごとに生み続ける。彼女は、父なる神と同じ場において、神と共に豊かに生むものとなる。すなわちエックハルトが言うところの「魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生む」ということが起こるのである。そこでは魂は神の似像である。しかし、魂が神と共に生むとは、いったい何を生むのであろうか。それは、まず神がその一人子を魂の最内奥に生む。そして、それによって次に、魂が神を自らの内に生むのである。それは、もちろん先に言ったように、「魂が神と同じ姿であるものの内で」なされることなのであるが、いずれにしても、この誕生の中ですべての被造物が流れ出てくるのである。神はそれらをすべて御子のために創造するのであり、私たちは御子と共に、すべての被造物を相続するのである。
 主イエスは「若者よ」と呼びかけられた。エックハルトは、「人は知性の中では余すところなく若い」と言う。人は、知性的に生きるときに自分の根元に迫ることができる。しかしこの「知性」とは、私たちが通常思い浮かべるところの知性ではなく、この世界にはないものを認識するところの高次の知性である。それは神的愛、すなわち福音の真理の偉大さ以上に高貴であり、それらをも包含するところの神的真理以外の何ものによっても満たされることがなく、その場において神と魂との本当の合一が起こるとエックハルトは言う。すなわち、魂が神の像であるような場で魂が生きるときに、魂もまた神と共に生むのであり、そこに本当の合一があり、浄福もまたそこにあるのであるが、知性が浄福を受け取るのでも、意志が浄福によって満たされるのでもない。
 エックハルトは言う、「浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは、魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちがそのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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2009/05/13

説教14 神の言葉について

 「すべての被造物が外へと流れ出ながら、しかも神の内にとどまりつづけるということはまったく不思議なことである」とエックハルトは言う。「神が与えたもの、そして神が与えることを堅く約束したもの、それはまことに不思議なものであり、理解しがたいものであり、信じがたいものである。」
 しかし、エックハルトによれば、実はこの形態、すなわち、「外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづける」という形態こそが、すべての被造物に共通なものなのである。そしてこの世界は、実はそのような構造をしているのであり、神はまさにそのようにして、すべての被造物の内にあるのである。つまり、神がすべての被造物の内にあるということは、すなわち、すべての被造物が神から流れ出ながら、同時に神の内にとどまりつづけているということなのであり、もっと端的に言えば、私たちが神の「外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづける」とき、私たちは神が私たちの内におられることを認識するのである。そしてそれはまた、神が永遠の世界において私たちを生むこと、すなわち永遠に生み続けることなのであり、エックハルトが言っているこの「生む」とは永遠の世界におけることなのである。それゆえそれは一瞬の出来事でありながら、それが永遠に続くのである。そのようにして、神はこの世界のいっさいがっさいをこの永遠の今において、再創造するのである。
 そして、私たちが神から流れ出るとき、それが神の御子、すなわち神ご自身と同じ形態だということを私たちが認識するとき、私たちと御子の間に何の区別もないこともまた明らかになるのであり、そのようにして、私たちは神の子とされるのである。そして私たちは、神の命令を守るときにもまた、この形態に従うのである。つまり、エックハルトが言うように「神はあなたの愛の原則であり、基礎でなくてはならない。あなたの愛の最初の目標は純粋に(あなたの内におられる)神へと向けられていなければならない。そしてそのあとで、自分自身に向けると同じように、自分自身に向けるよりけっして劣ることなく、あなたの隣へと向けられていなければならないのである」のである。それゆえ、私たちにとって浄福とは、すべてを神にお返しすることに他ならない。つまり、すべての被造物が神から流れ出るその形態に、私たちの認識を戻す(あるいは思いを馳せる)ということである。そして、私たち自身も神から流れ出るものであることを認識することは、「すべての事物の内で励む」ということを意味する。つまり、エックハルトが言うように「覆いのない純粋な単一な有以外のどこかに基礎付けられているとき、そこにおいてあなたの努力を試みよということである。それはちょうど、あなたは頭をもたげて昂然としなさいというようなものである」。つまり、この世において、私たちは、地道に聖書のみことばによって神に仕えるということである。

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