2009/04/06

第18章 最後の実際的な洞察

 ビル・サブリツキーは、この卓越した書を書き終えるに際して、彼が実践の中で身につけてきた洞察を箇条書きにまとめている。それを最後に列挙しておこう。しかし、それは、とても洞察と言えるようなものではなく、単なるメモ、走り書きである。これが、この卓越した聖霊の器が永い年月を経て学び、身につけたことのすべてなのである。すなわち、すべては私たちの側にあるのではなく、神の側にあるのであり、私たちが神から盗み取ってこの世界に蓄積できるようなものは、何もないのである。

1. 疲れているときには奉仕をしないこと。もちろん、時には避けられないこともあります。疲れている時は攻撃されやすく、主の声を聞くのが難しくなるということが分かりました。
2. 謙遜でありなさい。悪魔はあなたに、他の人よりもあなたのほうがすばらしいと思わせたいのです。あなたを高慢にさせたいのです。この高慢こそ彼が堕落した原因だったのです。あなたが奉仕をしているその人は、あなたが謙遜かどうかが霊においてすぐに分かります。
3. いつでも愛に根ざして行動して下さい。もしあなたが神様の愛で行動しているなら、聖霊はあなたを通して働くことができ、あなたが奉仕しているその人は、あなたの働きに確信を持つでしょう。その人はあなたが裁いていないことを知り、あなたを通して神様が自分になしていることを受け入れることができます。
4. あなたに対する神様の呼びかけにいつも心を開いて下さい。神様はしばしば御自身のメッセージを語るのに、一番弱い器に油を注いで用いる時があります。
5. 神様は私達を建て上げ、霊感を与え、御自身の御国を拡張するためにキリストの身体なる教会に賜物を与えたいと願っておられることを覚えて下さい。聖霊の賜物を働かせるのを決して恐れてはいけません。なぜなら、これは聖霊が御自身の臨在を現すことができる基本的な方法だからです。その時私達の中に不信者がやって来たら、「これは本当に神様からのものです。」と言うことができるでしょう。

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第17章 グループの中で学ぶ

 ビル・サブリツキーは、人々を聖霊の賜物へと訓練するとき、一連の説明の後に、彼らを5、6人の小さなグループに分け、一人一人に何か神様に関すること、たとえば「神様は私を愛している」というようなことを語ってもらうことを勧めるという。そして次に、彼らが神様の代わりに話していることを心の中で描きながら、たとえば「私の民よ、私はあなたがたと共にいる」というようなこと話すように勧める。この簡単な練習をすることにより、預言の賜物で働くようにと人々を励ますことができると彼は言う。
 私が最初にカリスマのオープンミーティングに出席するようになったころの印象は、そこで現される現象が本物なのだろうか、それとも作りごとなのだろうかという疑問であった。今から考えると、そこには確かに、本物もまた偽物もあったのだろう。そこには、そのようにして神の賜物を学び始めたばかりの人も、また依然として神の賜物を真に理解せず、自分の思いを語っていた人もいたのだろう。
 しかし、見逃してはならないのは、神の真の臨在もまた確かにそこにあるということである。そのような場所は、いわば真の信仰と偽りの信仰、練達と未熟、善意と悪意の混在し得る環境なのである。そして、神はそのような状況に甘んじておられるのであるが、また神ご自身は、どのような悪意や偽りによっても欺かれたり侮られたりすることはないのである。
 つまり、この世界には、種も仕掛けも無いのである。あるのは、ただ神との関係である。あなたが主イエスに自分自身を捧げ、一日中彼を待ち望み、どのような時にも、その御旨の実行を最優先にするなら、聖霊はあなたを助け、神の賜物があなたに与えられ、それをもってあなたは、大いなる働きを成すことができる。しかし、あなたの中に何か野心や偽る心が見い出されるなら、神はあなたに与えられた賜物を取り去ることはしないかも知れないが、あなたの悪い行いの結果は、あなたの上に帰するということである。そのように、この世界に入るためには、一度でも、主イエスとの一対一の人格的な関係になるほどまでに、自分自身を神の恵みと臨在の中に埋没させることが必要なのである。そして、そこでいただいた賜物は、それ以後、いつもあなたと共にあることになるのだが、それを正しく使うためには、そのたび毎に、神の油注ぎが必要なのである。
 この世界への入り口は、常に大きく開かれている。本来、そこへ入ることはたやすい。それを妨げているのは、その人自身の神から離れようとする心なのである。あの有名なカリスマ伝道者ベニー・ヒンは、若い頃どもりであったため、友達ができず、家族からも蔑まれていた。また、キャサリン・クールマンも若い頃、七面鳥の小屋に寝泊まりしていた。そのような環境の中で、彼らは神との親密な関係を築いたのであった。私たちも、神と親密になろうとするなら、彼らのように、神と2人でいる時間を多くとる必要がある。もしそれが可能になったなら、私たちにすばらしいことが起こる。他の方法はない。あのチョー・ヨンギ師もそう言っている。そして、彼自身それを絶えず実践することにより、神の力を身につけている人なのだ。

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2009/04/03

第16章 集会を指導する

 「集会を指導する」などと言うと、私たち平信徒には、関係ないことのように思えるが、実はこの著書「聖霊の賜物を受ける」の著者であるビル・サブリツキーも平信徒であるところの信徒伝道者である。その彼に、集会を指導する権威を与えておられるのはキリストである。そして、聖書には、「平信徒が集会を指導してはならない」とは書かれていない。私たちは、このことに虚栄心や差し出がましい心からではなく、ただ主イエスへの従順の心から対処する必要がある。すなわち、もし主イエスが聖霊によって、あなたに「これこれの権威を授けるから、それをしなさい」と言われたなら、「主よ、私は平信徒ですからそれはできません」と答えるのではなく、「はい主よ、あなたが助けてくださるなら、私は喜んでそれをしましょう」と答えるべきである。
 それにはまず、主イエスと親密な関係に入らなければならない。あなた自身の思いと主イエスから来る思いをはっきりと区別することができるために。そのときあなたは、羊飼いの声を聞き分ける1匹の羊となる。羊は、決して賢いものではない。彼自身は、むしろ役に立たない愚か者である。それが羊の持つ性質である。彼は、この世に賢く対応するのではなく、ただみことばに自らを埋没する。みことばの中に沈み込みながら、彼を立ち上がらせてくれる力が上から注がれるのを待ち続けるのである。往々にして、私たちは、狼に蹴散らされるだらしない羊しか思い浮かべることをしない。しかし、キリストの声を聞き分ける羊には、そのようなことはない。キリストもご自身を小羊になぞらえておられる。神にあっては、従順こそが大いなる力であり、それに達するには、まず聞くということが成される必要がある。そしてその後彼に、上からの油が注がれる。その油が彼の内に聖なる意志を生成する。それは、神が彼の内に生み出される彼の意志である。ちょうど神が彼を創造されたように。そして、この聖なる意志だけがあなたに集会を指導させることができるのである。
 この聖なる意志をいただくためにあなたが成すべきことは、まず神を待ち望むこと、そして神の言葉がきたらそれを聞くこと、最後にその言葉の通りに寸分違わずに自分の心を変革することである。そのようにして、あなたは神の御業に役立つ主イエスの僕となるのである。

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2009/04/01

第15章 異言の解き明かし

 「私たちは互いに愛に根ざして、どのクリスチャンを通してでも、神様は近くにいる人々にすばらしい信仰と希望のメッセージを語りたいと願っていることを知らなければなりません」とビル・サブリツキーは言う。そこで神様は、語る人と解釈する人を分けられたのかもしれない。そうすれば、語るのは誰でも語ることができる。そして、その解釈も、神がみ心のままに、供えある人に与えられるのであり、そのようにして、神は集会をご自身の臨在に溢れたところにしたいと願っておられるのである。それは、私たちを主イエス・キリストにおける恵みによってご自身の子とされたところの永遠の愛によるのである。
 これは、私には殆ど信じられないほどすばらしいことである。しかし、もしそれが真理だとしたら、そのような大きな恵みを私たちは、教会の集会において、余すところなく受け取ることに力を注ぐべきではないだろうか。
 それにしても、それはどのように行われるのか。ビル・サブリツキーによれば、こうである。すなわち、「異言のメッセージが語られた後、解き明かしのためにしばらくの時間が必要です。ここに集会の指導者には、賢く解き明かしを扱う大きな責任があります。しばしば神様は集会に出席している人に説き明かしを与えられていますが、その人がそれを語る為には、少しのきっかけが必要です」と。これは、高度な霊的コミュニケーションであり、その管理を神は、集会の指導者に委ねておられるのである。そしてこの霊的コミュニケーションの場にいる者は、そこにおいて展開される大いなるドラマの中で、霊的な感覚を養われ、神の愛を実感し、また、個人的な祈りや信仰生活におけるその実践により、神を深く体験し、また自らがキリストの僕であることを力強く証しするのである。

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第14章 異言

 私が初めて異言が語られるのをを聞いたのは、友達の引っ越しを手伝いに行った場所で偶然入った教会でであった。その教会は、明らかにペンテコステ派であり、集中祈祷の時間があり、あちこちから耳慣れない言葉が聞こえていた。それから後、カリスマの超教派団体に加わるようになって、異言を聞く機会も比較的日常的になってきたが、それでも、異言の解き明かしを聞いたことは数えるほどしかない。たぶん、それを日常的に教会活動に導入している教会は、非常に少ないのではないだろうか。
 しかし、ビル・サブリツキーは、「異言でメッセージが語られた場合、解き明かしを伴うことが大切です。そうでないと、混乱が起きます」と言う。この異言が語られるということと、それが解き明かされるということの間には、大きな違いがある。というのは、解き明かされるということは、その異言が公的であることを示しており、それゆえそれは、神が教会の為にある人の異言を通して語っておられるのである。しからば、それが預言ではなくて異言という形態をとる意義はどこにあるのか。
 異言が預言と異なる面は、まずそれが人には理解できない言葉であることが挙げられる。それは、異言である限りにおいて、聖霊が語らせたもの以外ではあり得ない。そして、神は異言を異言のまま、すなわち、それを語る人には理解できないままにしておこうとされるのである。そこで、それを解き明かすのもまた聖霊であり、聖霊は、一人に異言を、もう一人にその解き明かしを与えられるのである。仮に、異言を語ったその人がまた解き明かしをも与えられたとしても、それは同時ではない。それにより、それを聞く者たちは、まさにその場に主が臨在して、語っておられるという確信を持つことになる。
 異言が預言と異なるもう一つの点は、それが神に向けて語られるところである。しかし、教会の中で語られる異言は、会衆に向けて語られるのであり、それゆえに通訳が必要となるのである。しかし、それは文字通りの通訳ではなく、解き明かしであり、解釈なのである。
 それでは、どのようにしたら会衆のための異言を語ることができるのか。まず、聖霊のバプテスマを主イエスから求める必要がある。聖書によれば、神は求める者に聖霊を下さらないはずがないから、やがてそれが与えられる。それは、あなたがカリスマ的な集会に出席する機会を与えられることかも知れないし、また私のように自分の部屋の中で静かに受けることかもしれない。いずれにしても、そのようにして、あなたは神に向かって異言を語るようになる。そして、そのあとは、ビル・サブリツキーは言う次のことに従えばよい。すなわち、「もし主があなたに霊によって働くようにと願っていると信じているならば、だれにも聞かれないように霊によって静かに祈るようにとお勧めします。すると機会がやがてやって来て、それが神様からのものだと分かりますから、異言でメッセージを語ればよいのです。ここでも、あなたがこの賜物を成長させるために助けてくれる小さな、愛に満たされたグループの中で始めるのが良いでしょう。最初はつまりながら異言でいくつかの音節だけかもしれませんが、しかし、それが始まりです。この分野において大きな成果を見たいならば、霊の賜物を用いるように励ますことは絶対に必要です。周りの人々の愛と配慮が、信仰と愛の花を美しく咲かせます。」

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2009/03/27

第13章 霊を見分ける賜物

 「霊を見分ける力は、人を攻撃したり、ある状況に関係している霊について、神様からの考え、思いの中に来る印象、幻、聖霊の直接の聞こえる声である」とビル・サブリツキーは説明する。この力は、神から与えられる秘密兵器であり、私たちの敵である悪魔の要塞を打ち砕く力をもつ。悪魔の武器は、人をだまし、それによって人を縛り、傷つけ、神の恵みから離れさせることだからであり、この力は、そのような悪魔のたくらみを見破り、それを根底から破壊することができるのである。この「見破る」とか「見分ける」ということが重要な訳は、人が悪魔に騙されている限り、その人の意志が曲げられており、彼自身の意志によって神の御心から離れているからであり、それが彼の意志である限りにおいて、聖霊は、彼に更生を強いることをなされないからである。
 それゆえに、神は私たちにこの務めを託され、霊を見分ける力を与えておられるのである。そのために神は、この力を賜物として私たちに与えられ、それは、諸霊に反応して私たちの心の中に、ある落ち着かない感覚を引き起こす。それは、悪霊特有のものであり、それと共に神は、それらの霊に関する知識と対決方法をも示されるのである。
 この賜物を用いるためには、一つのことが要求される。それは、身と心を清く保つことである。それは、ある意味で悪霊との接触を伴うからである。あなたの心が神の前に十分清くないと、正しく霊を見分けることができないばかりか、悪霊の欺きに屈してしまう危険性がある。
 しかし、ひとたびこの賜物が働き始めるや、悪の要塞は、危機的な様相を帯びてくる。それまでは、歴史を通じてその領域を徐々に拡大し、神を知らない人々に脅威を及ぼし、往々にして、それに立ち向かう信仰者たちの抵抗にも屈せず、返って報復を加え、その団結に大きな打撃さえ与えてきた悪の要塞の基礎が、いま揺らぎ始めるのである。
 それは、見破る力による。悪しき霊の戦術は、人を騙すことにより、そこに破壊的な状況を作り出すことだからである。しかしその力は、非常に不自然な均衡を保っている。それは、偽りによって作り上げたもの、すなわち架空、お伽話だからである。そこに神の真理の光が差し込むとき、その化けの皮が剥がれ落ちるのである。そのようにして、私たちは、この賜物により、悪魔の欺きにより受けた傷を修復し、すべてを取り戻すことができるのである。私もかつてこのことを経験した。それは、すでにこのブログにも記したが、悪魔は私の長男に攻撃を仕掛け、受験の前に手術をさせることにより、私たちを不幸に陥れようとしたのだが、神が賜物を与えられ、私たちは悪魔の手から救い出されたのであった。

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2009/03/26

第12章 預言

 「主はいつも言葉を与えたいと願っておられます」とビル・サブリツキーは言う。そして、その目的は、教会の徳を高めるためであり、そのことを神は、私たちの口から出る言葉によって実現されるのである。
 信仰者は、毎聖日のメッセージや日々のデボーションのときに触れる聖書の言葉により、人生における具体的な指針を与えられる。しかし、預言においては、教会に属する特定の兄弟姉妹の口に神が授けられる具体的な言葉が特定の兄弟姉妹の人生(時には特定のグループや教会全体)に対して、慰めと励ましを与えるのである。
 それでは、どのようにすれば預言ができるのだろうか。ビル・サブリツキーによれば、「私たちが心と思いを神様に開けば、預言の賜物を用いることができる」のであり、「すべての聖霊に満たされた信者は、預言の賜物を持つべき」ということである。それゆえ、預言する者は、信仰の確信を持って、「とにかく始めることが大切」であり、「思いの中に言葉が来れば、それを話してください。短い言葉かもしれませんが、信仰を持って踏み出して話して下さい。全部のメッセージをもらうまで待たないでください。あなたに語られたと信じたことを話し、そして止めて下さい。それ以上言うことはないかも知れませんし、また、他の人が預言の残りを加えるかも知れません」と彼は言う。そしてまた、語られた預言は、第三者により吟味されることが必要なのである。それには、そのようなことが実践されているグループに加わるということが必要であり、霊的な事柄の習得は、そのような現場における実践を通してしか与えられないのである。
 それでは、オーソドックスな信仰の教会に属する私のような信徒は、どうすればよいのか。それに関して、私はこう考える。一言で言うと、オーソドックスな範囲で、最大限にカリスマチックなことを行うのである。そういうと、教会の中で何か異端児的な存在になることを推奨しているように思うかも知れないが、決してそんなつもりはない。むしろそれは、教会からは歓迎されるはずだからである。しかし、それはあくまでカリスマ的であり、中途半端なものではない。その方法を次に述べよう。
 まず、私たちは、自分の信仰をもう一度問い直す必要がある。自分の所属する教会の信仰がカリスマ信仰と相対立するということをである。実際、カリスマ的でない信仰などというものは、ほとんど存在しない。私たちは、キリストの受肉と復活を信じているのだから。たとえ千歩譲って、キリストの受肉と復活さえ文字通りに信じていない教派があったとしても、そのような教派においても、それを文字通りに信じることを告白する人を慈しむことはあれ、邪険に扱うことはしないであろう。そこで私たちは、教会において公衆の面前で、み言葉により預言することができるのである。それは、なんとカリスマ的なことだろうか。聖書のみ言葉には、頑なな人の心をさえ改心させる力があるのだから、まして癒しや奇跡を行う力がないであろうか。だから、私たちは神に、兄弟姉妹を力づけ、励まし、癒し、立ち上がらせることのできるみ言葉を与えてくださいと願い求めるべきである。そして、そのみ言葉が与えられることと、それが天の神から来たことの確信と、それを語ることのできる機会が与えられること、そして、そのみ言葉により奇跡が起こることを願い求めよう。そうすればそれがかなえられるに違いない。
 実際これで、カリスマ的な行動としては、十分過ぎるほどであるが、さらに少しインパクトを与えたいと思う方は、次のようにすることもできる。すなわち、聖書のみ言葉にこだわらない自由な預言の言葉を神に願い求め、そして、それを語るのである。ただし、語るときには、その言葉に関連する聖書のみ言葉を最初に語り、次にその与えられた預言の言葉を、自分の願いとして、祈りの中で語るのである。そうすれば、それを止めさせようとする人はいないだろう。そして、兄弟姉妹は、あなたのことを少し幼稚な信仰を持った人のように見るかもしれないが、それ以上には見ないに違いない。しかし、その言葉が成就するとき、彼らに真実が啓示されることになる。それと共に、神の大いなる愛が教会に注がれることだろう。しかし、さらにインパクトを求める人は、少し危険性はあるが、あえて次のようにすることもできるかもしれない。つまり、語る前にこのように言うことである。「神が、このように言っておられるように感じます」と。それから自分に与えられた預言の言葉を語れば、それが強制ではなく、あなたの感触であることになり、さらにあなたにとっては、それが真実の告白となるだろう。

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2009/03/25

第11章 奇跡

 奇跡を行う賜物について、ビル・サブリツキーは、ここでは、実にあっさりと書いている。「神様は時間や状況に制限されていません。自然の世界とは反対に、霊の世界においては、もし私たちが心から信じ、その世界で働くならば奇跡は私たちの手の届く範囲にあるのです。」彼は、奇跡を大したことではないとは思っていない。しかし、「もし私たちが神様と正しい関係を保ち、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うようにとの命令に従っていれば、私たちを通して神様の恵みが働く、強い基礎を持っていると信じています」と彼は言う。奇跡は、神を信じ、その命令を守る者たちにとっては、もはや不可能なことでないばかりか、むしろすでに日常的なことなのである。
 神様は、高い目的を持っておられ、私たちの人生は、そのために捧げ尽くされねばならない、と考える人がいる。そしてそれは、ある意味では真理である。しかし、その場合の難点は、その神の高い目的が彼に隠されていることである。しかし、ビル・サブリツキーは、その高い神の目的が、私たちを癒し、あらゆる意味で祝福することだと言う。もしそうなら、私たちの人生は180度違ったものになるだろう。そのとき、私たちの人生の不可解は霧のように消え失せ、太陽の光が降り注ぎ、私たちの顔を照らし、輝かすであろう。たとえそれが、オーソドックスなパラダイムにおいて真理ではなくとも関係ない。というのは、ビル・サブリツキーにとってこの世界は、そういう構造をしているのである。そしてそれは、それゆえ奇妙なことに、実は私たちにとっても、また真理となり得ることなのである。もし私たちがそのことを信じる決心をし、みことばによりその中に生きることを日々追求するなら、それが私たちの人生に発現し、私たちの現実となるのであり、そしてそのときこそ奇跡が日常的となるのである。

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第10章 いやしの賜物

 いやしは、一つの奇跡であり、自然法則を超越したものである。しかし聖書には、いやしが日常的に起こるかのように記されている。そして、今日でも実際にいやしを行う人々がいる。しかしそのような人たちも、祈ってもいやされないとき、往々にして、「なぜだか分かりません、とにかく他の方法でやってみましょう。それでもだめなら、誰か他の人に祈ってもらって下さい。あるいは、医者にかかることが神の御心かも知れません」と言うことが多い。
 しかし、ビル・サブリツキーは言う、「私が祈った全ての人や按手した全ての人には、すぐにいやしが始まると信じています。いやしがその前に始まっていなければ、その時から始まります。例外はありません。病人に手を置き、いやしを信じることは聖書的ないやしの方法です。そして私はいやしはすぐに始まると信じています」と。彼にとって、いやしに例外はない。もし祈ってもいやされない人がいれば、それは、その人が何か問題を持っているのであり、彼は、それを霊的な目で究明することにとりかかり、その結果、ついにいやしが起こるのである。つまり、ビル・サブリツキーにとっては、いやしはそれ自体、単独の目的として存在するのではない。むしろ、すべては、悪の勢力を、キリストの十字架の勝利によって打ち砕き、神の栄光を現すためなのである。彼は言う、「いやしのために祈る時、私は聖霊が私に力を下さるのを感じるまで主を待ち望みます。これは普通は油注ぎの前に静め、全ての思いを神様に集中します。心から信じ、神様の約束を思い出し、すべての苦い心、赦さない心、拒絶感、恐れを捨てるように勧めた後、その人に神様の霊が働いてくださることを信じることができます。すぐに身体にいやしが現れなくても、病人は神様が触れて下さったことを信じ、いやしのために神様を賛美し始めなければなりません」と。
 これは、もう単に信じるというよりも、「ばかになる」レベルではないだろうか。神のために自分を愚か者にすることこそが、彼ビル・サブリツキーにとっての信仰の業なのである。ナナフシという昆虫がいる。この虫は、自分に催眠術をかけるという。すると、彼の体の色が変わり始める。ちょうど彼が留まっている枝の色に変色し、彼はまさに一本の枝に変身するのである。ちょうどそのように、ビル・サブリツキーが自分に催眠術をかけ、自らをその中に埋没させ、彼にとって、みことば以外にはこの世界に存在しないほど、神の言葉が現実となるに至り、そこにすばらしいことが起こり始めるのである。天から彼の上に聖霊の力が下り、彼の感覚がそれを感じ、そこに神の奇跡の力が働き、ついに病がいやされるに至るのである。

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2009/03/12

第9章 信仰の賜物

 聖書には、「信じる人には、次のようなしるしが伴う」と書かれている。
 信じることは、易しく、そして同時に難しい。しかし、もし信じることができたら、聖書に書かれているたくさんの約束は、その人のものになる。神は、信じる者に、その信仰を通して恵みを与えられるからである。
 信じるということは、一つの神秘である。そもそもそれには、いかなる理由もないし、またどんな保証もない。それは、いわば純粋な意志である。信じることの責任や報いは、完全にその人自身にかかっている。そして、ここにいくつかの難点がある。
 まず、信仰は制御し難いものである。自分では信じたくても、様々な苦難や恐れが襲って来て、その人を信仰から引き離そうとするからである。しかし、まさにその困難の中でこそ信仰は養われるのであり、その場において、その人の信仰が試されるのである。その意味で信仰は、いつも真剣勝負である。しかし、ビル・サブリツキーは言う。「信仰は賜物です。それは神のみことばを完全に信じることによって与えられます。そのように信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。それは規則正しくみことばを読み、それを完全に信じることを通して成長します」と。
 神は、私たちに難しいことを要求されているのではない。信仰は、私たちにとっては、ひとつの驚異であり、またそれが試されるたびに、ひとつの脅威であるのだが、神にあっては、信仰は、地道な日々の繰り返しにより、養われ、着実に成長して行くものなのである。そのために神は、みことばを私たちに与えられたのであり、それに日々親しみ、神の御旨を追い求める者の信仰の成長について、神は責任を持っていて下さるのである。私たちはもう一度、自分に与えられている神の恵みを確認し、それに対する自らの姿勢を各自問い直す必要があるだろう。
 すなわち、難しいことはなにもない。日々聖書を読み、祈り、神を賛美し、信仰を告白し続けるなら、天の父は、私たちの信仰を着実に成長させて下さると共に、私たちに特別な信仰が必要なときにも、速やかに天から信仰の賜物を下してくださるのである。

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