2009/02/24

第19章 世界に出て行って病人をいやせ

 この最終章で、フランシス・ハンターは、彼女に啓示された大いなる幻にもう一度言及し、さらにそれが現代において実際に起こりつつあるのを見いていると言う。それらは、彼らのミニストリーの場面に現された神の大いなる栄光の数々であり、ほとんど信じることができないほど驚くべきものである。彼女は言う、「神様はあなたに大きなステップを踏み出してもらいたいのです。それは、あなたに、悪魔を足の下に踏みつぶすすばらしい働きをしてもらいたいからです。そして、それは一人の大きなステップだけでは起こりません。それは、何百人、何千人あるいは何百万人ものクリスチャンがステップを踏み出し、病人に按手し、いやしを行うことによって実現するのです」と。
 この領域は、すなわち、フランシス・ハンターに示された幻の範囲は、ほとんどいやしを越えて、あの列王記にみるような預言者の世界のように見える。しかしハンター夫妻は、自ら公言するように、いやしを教えるために召されたのである。そこでたぶん、神は彼らの他にも、ご自身の奇跡の力を公然と世に提示する人々を起こされるだろう。これが聖霊の働きである限りは。
 「奇跡は、どのようにして起こるのか?」、それが、私がこの本を読む前に考えていたことだった。しかし、今この本を読み終えて、自分の考え方が少し、いやもしかしたら、根本的に変わったのを感じる。というのは、今の私はむしろ、「奇跡は、どのようにして、起こらなくされているのか」と考えているからである。私は、奇跡を起こらなくしているものは、人間の意識だと思う。というのは、不可解なことに、神は、この領域に踏み込むことをされないからである。それは、個人的な罪や悪習慣のようなものではなく、もしろ単純な不信仰の方である。それは、特にこの日本においては、クリスチャンの中にある、ある種の外面的な謙遜さと結びついていることが多い。いやしが起こらないと信じているのであり、それが起こること、しかも自分の手により起こると考えることを、高慢だと感じるのである。しかし、もし神があえてそれを意図しておられるとしたら。そして聖書には、まさにそのように書かれているのである。それは、悪魔が日本人に与えた悪しき思いなのである。だから、もしそのような倒錯した意識が自分も含め、日本人の心から取り除かれたなら、この日本にいやしのブームが起こるかもしれない。いやしは、起こりにくいものではなく、文字通り、起こるべくして起こるものなのである。
 私たちは、この本「病人をいやす秘訣」によって、その新しい霊的な世界の入り口に立たされているのであり、ハンター夫妻が言っているように、私たちは、神を制限しては、ならないのである。

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第18章 腕と足を伸ばす

 この章は、おそらく多くの人にとって、この本におけるもっともエキサイティングな章である。というのは、私はかつて、この章だけを読んで、その通りに行い、その結果、驚くべきいやしが起こったのである。そのとき私は、ここに書いてある通りに、その人を椅子に自然に座らせ、両足首をつかみ、私の両手の親指を相手の内側のくるぶしの上におくようにし(これは単に、短い方の足が伸びたときに、それが良く認識できるためである)、主イエスの御名で、多少短く見えた方の足に伸びるように命じただけであった。そのとき、足がごくわずかにゆっくり伸びたように見え、そしてその人から、実際に痛みが去ったのである。
 チャールズ・ハンターは言う、「自らの身体に試してみて下さい」と。そう言って彼は、今度は、腕を伸ばす方法(これも結局、命じることと、伸びたときにそれが認識しやすいようにすることなのであるが)を説明する。そしてそれは、多くの場合、その通りになるのである。ハンター夫妻は、何か新しい宇宙の法則でも発見したのだろうか。
 フランシス・ハンターによれば、こうである、「世界中の約80パーセントの人々は、背中に問題を持っており、そしてこれが世界で一番大きな病気の一つだということです」。つまり、ストレス等、様々な外的要因は、現代人の背中に集中して異変を生じさせる。そしてそれは、脊椎の不自然な湾曲を通じて、左右の足の長さの不揃いとして現れているのであるが、現代人はとても忙しく、自分の足の長さが左右同じかどうかなど、ほとんど確かめることなどしないのだろう。
 しかし、そのような症状に対し、このハンター夫妻の方法は、どうして効果を生むのだろうか。それは、私にも分からない。ただ言えることは、主イエスを信じない人には、この方法でもいやしは起こらないだろうということと、信じる人には、実際に高い確率で、それが起こるということである。つまり、ここに明らかに、いやしという一つの奇跡への入り口が存在しているのである。なぜ、神はそのようにされたのであろうか。私は、神がそれを、ハンター夫妻に掲示され、いやしの教育者へと召したのだと思う。
 いやしは、信じなければ起こらない。しかし、信じて行えば、この方法でいやしが起こるのである。それにしても、この方法のすぐれたところは、結果がリアルタイムで認識できるところにある。他の方法、たとえば背中の痛い部分に直接命じる方法等だと、背中から痛みが去るまで、いやしが起こったことが分からない。しかしこの方法だと、痛みが去るまでの脊椎や背中の筋肉の弛緩状況が、足の長さという目に見える変化となって逐次認識できるのである。それゆえ、それを見た人の信仰は、即座に強められ、それがまた新たないやしの力を生むのである。
 つまり、いやしという分野に信仰の他に、ある技術的な要素があるとすれば、それは、信仰をいかに維持するかということであろう。いやしを行おうとする人は、信仰を持っている。彼がそれを実際に行おうと決心しているのがその証拠である。しかし、彼がそれを実行に移し、それによって実際にいやしが起こるためには、そのときまで彼の信仰が継続する必要がある。つまり、彼がいやしを命じたとき、それが未だ目に見えなくても、それが実際に起こっていることを信じ続ける必要があるのである。
 ハンター夫妻の方法がそれを提供するのである。そして、今私がこのブログにこの本に関して書いているのは、まさに自分のためにほかならない。というのは、それにより私は、いやしを信じる側に明らかに立っていることを自分に認識させ、そのようにして、いやしの働きの中に自分を置くためなのである。

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2009/02/22

第17章 創造的奇跡

 創造的奇跡とは、聞き慣れない言葉であるが、ここでは、身体の失われた器官、欠損していた部位が再創造されることである。よくカリスマ派において言われることだが、神のみが無から有を生じさせることができ、それは悪魔やその他強力な霊にも不可能である。これによれば、新しい器官が与えられることは、まさに神の御業であり、それを成しておられるのは神以外ではあり得ないということになる。しかし、身体の器官の場合には、それが「再創造」であるという可能性の他に、「再生」という可能性もあることを考慮する必要があるだろう。すなわち、身体自身が持つの再生機能の刺激等によれば、悪魔にもそれに似たようなことが行えるのかもしれない。実際に、過去において、異教のカリスマ的指導者がそのようなことを行ったと聞いた記憶がある。いずれにしても、無からの創造は、神のみの成せる業であり、悪魔はその真似をするに過ぎないのである。
 「神様は真実なお方で、ご自身の力を人々に示し、生ける神様である事を信じてもらいたいのです。神様が共にいて働いて下さらなければ、奇跡は起こりません」とチャールズ・ハンターは言う。また、フランシス・ハンターも次のように言う、「ちょうど神様が物を無から呼びだしたように、私たちも同じことができます。それは神様が聖霊の力によって私たちの中に住んでおられるからです。私たちには、実際に用いることができる神様の力と、イエス様の権威がある事を信じなければなりません。私たちは父のみこころを行っており、神様を喜ばせ、神様の栄光のためにしている事を信じなければなりません」と。
 神はかつて、モーセにより創造的な奇跡を行われた。そして、それはエジプトの魔術師たちにもまねができなかった。彼らは、エジプト王パロに言った、「これは、神の指です」と。ただ神の指のみが、そのような創造的な奇跡を行うことができる。そして、モーセこそがその神の指だったのである。しかし、そのような神の人モーセも、ついに約束の地へは入ることができなかった。それは、彼があの有名なメリバの泉において、神の栄光を現すことを怠ったためであった。このことに思い至ったとき、私はあることを思い出した。それは、この書「病人をいやす秘訣」を読んで、その通りに行い、著しいいやしが現れたことがあって後、しばらくしてのことであった。そのいやされた姉妹が、教会におけるお茶の時間に、私の祈りでいやされたこと(実際は、主イエスの御名で命じたのであったが)に言及したとき、私は自分の力ではないことを言おうとして、もしかしたら、ほっておいても直ったのかもしれないなどという意味のことを言ってしまったように思う。しかしそれは、もしかしたら、あのときのモーセが犯したような罪なのかもしれないと思い当たった。それは、もしかしたら、自分がそのいやしを自分が成したように、心のどこかで思っていることなのではないのか。もし本当に神にすべての栄光を帰すのなら、いやしの御業が現れたことを、「もしかしたらそうではなかったのかも知れない」などと言ってははらない。返って、あれは本当のいやしであり、神の業であると明言しなければならない。それが、ハンター夫妻がここで言っていることなのである。
 私たちがいやしにおいて、神に用いられようと願うなら、神が成されたいやしの業を一つもおろそかにしてはならない。神は、あなたにいやしを行わせることにより、ご自身の栄光を現そうとしておられるのだから。だからあなたは、神がなされたいやしの御業を、「これは神の業である」と言って、そのことにより神の栄光を現さなければならないのである。
 私は、このことを思い巡らして、もしかしたらもう自分には、いやしを行う力は与えられないのかもしれないと思った。神は、モーセのたった一度の失敗により、彼を約束の地に入れることをされなかったのだから。そして、深く恐れた。しかしそのとき、私の心に、一つのことが思い出された。それは、1年ほど前のことであった。そして、それはあの、私が神の栄光を現さなかったことのずっと後のできごとであった。それは、私が家内の母の腰の痛みのために祈ったときのことである。彼女は、ずっと腰の痛みに苦しみ、大学病院に入院までしたがいやされなかった。私は、家内と共に実家に行ったときに、家内の母の腰に向かって、主イエスの御名で命じた。そして、次に行ったときには、もう痛みはなかったのであった。
「私たちには、実際に用いることができる神様の力と、イエス様の権威がある事を信じなければなりません。私たちは父のみこころを行っており、神様を喜ばせ、神様の栄光のためにしている事を信じなければなりません」フランシス・ハンター

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2009/02/18

第16章 信仰の賜物

 信仰は、もちろん各人の意志であり、人の側の事柄である。しかし、それにも関わらず、フランシス女史は「信仰の賜物」と言う。つまり彼女は、この領域は、神と人との共同作業だというのである。これは、神のみこころと人の意志を明確に区別するアルミニアニズムとは異なり、その融合を前提とするカルビニズムに似ている。ただし、このように言うのは、神のみこころと人の意志の「神の側における融合」を想定して言うのであって、一般的になされるように、「人の側において」このことが考察される場合には、この逆となる。つまり、カルビニズムにおいては、人の自由意志も(それはもちろん完全に自由なものであるが)神の聖定の元に融合されているのであり、一方それとは反対に、アルミニアニズムにおいては、神の意志が人間の元で「予知」として融合しているのである。そして私自身は、どちらかというと後者の立場をとる教団の中にあって、明確に前者の立場をとっている信徒である。
 まあいずれにしても、信仰には、人の領域の要素と神の領域の要素があり、それが相隣合っているようなものなのだろう。そしてたぶん、この隣合っている二つの要素の境が神により動かされることがある。そのとき、人は霊的になったり、またはその反対に肉的になったりするようなのである。
 このことは、信仰者にとって、一つの驚きであるとともに、期待を遙かに越えた喜びである。それが彼に、神の耐えざる加護と主権を明確に印象づけるものとなるからであり、神もまさにそのことを意図しておられるのである。その感覚は、信仰者の内に生きて働き給う、全能者の臨在を感じさせ、彼の心に畏敬の念を呼び起こす。そして何よりもそれは、彼の信仰を、彼の意志や感覚、存在性を遙かに越えて、現実に実質的に飛翔させるのである。
 この信仰の賜物が来るとき、信仰者は神の人となる。それは、一時的に彼を神の力の中に入れる。それは、聖書に書いてある通りに、彼が信じるものを実際に受け取るためである。
 それでは、この信仰の賜物を受けるためには、どうすれば良いのだろうか。フランシス・ハンターはこう言う、「信仰の賜物はいつも働くとは限りません。また、これは祈って与えられるようなものでもありません。それはみこころのままに神様が私たちに下さるもので、特別な時と、特別な目的のためなのです」と。もしそうだとすれば、私たちは、信仰の賜物が与えられるように祈っても無駄であり、またその必要もないということである。私たちに必要なのは、むしろいやしの働きへの神からの召しなのである。
 それでは再び、このいやしの働きへの召しは、どのようにすれば得られるのだろうか。それは、備え、また待つことである。あなたに神の時が訪れ、神がこの働きへあなたを召して下さるまで。しかし、ハンター夫妻は、何もせずに待つようにとは言わない。返って信仰のゆえに踏み出しなさいという。そして、そうしないとそれはいつまでたっても与えられないだろう。それは、あなたが神に聞くための、そして神の時を知るための訓練でもあるのであり、そのような実践を通じて、あなたの信仰とあなたのまったき従順が神の前に整えられるためなのである。

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2009/02/14

第15章 悪霊を追い出す

 「このタイトルは、大変興味深く、興奮させ、大胆で、魅力があり、行動的ですが、同時にとても危険なものです」とフランシス女史は言う。この霊の戦いの分野がいやしと異なるところは、それがある種の人格的な存在に対する積極的な攻撃のアクションを含むことだろう。しかしそれにも関わらずこの働きは、いやしと本質的には同じ働きなのである。つまり、病は根元的には悪魔から来るものであり、それに対してどのレベルの戦いが要求されているかにより、ミニストリーの内容が患部への回復命令ともなり、あるいは、その患部に棲み付くかまたはそこへ攻撃を仕掛けている霊的な存在への退去命令ともなり得るのである。
 悪魔の働きは、騙すこと、破壊すること、奪うこと、この3つであり、それらをそれぞれ啓示、刷新、恵みという神の働きに似せて行うという極悪なものであり、人はそれらに容易に騙されてしまうのである。それは、人を辱めることであり、それを通じて神ご自身に反逆することが目的なのである。それは、情状酌量の余地のないものであり、私たちは、聖霊に導かれた断固とした態度でこの悪しき人格に対応する必要がある。
 まず、悪霊と話をしてはならない。主イエスは、悪霊に話すことをお許しにならなかった。私たちが悪霊と会話するなら、その欺きに屈することになる。話をすること自体が敗北なのであり、私たちの成すべきことは、悪霊を主イエスの御名の権威によって縛り、追い出すことだけである。そして、悪しき力が去ると心と肉体にいやしがもたらされることになる。
 このように、いやしの働きは、本質的には、病を引き起こす悪霊との戦いに通じるのであり、いやしに関わる者は、これを避けて通ることはできない。そればかりではなく、主イエスに従おうとする者はみな、それを避けて通ることができない。信仰は、本質的には、空中の権を持つ存在、すなわち悪魔との戦いなのであり、それが神によって意図されたものなのである。もしそうでなければ、天地創造前にルシファーが神に反逆し、一部の天使たちが彼につき従ったときに、彼らはすべて滅ぼされていたであろう。そのとき彼らが存続を許されたのは、私たち信仰者が御国を相続する際に、彼らと戦い、主の御名と証しの言葉によって勝利を得ることがどうしても必要だからなのである。
 この奥義は、聖霊を受けた者にのみ真に啓示される。しかし、彼の心にはまた、アダム以来の罪が入り込んでいる。そのようにして、聖霊を受けた人は、自分の罪の心と聖霊の導きとの板挟みになっているのである。そして彼が、ただ聖霊にのみ聞き従うならば、彼は神の御心を行い、従順から従順へと進むことができる。しかし一方で、彼はまた、自分の内の罪の性質に働きかけるところの悪霊の誘惑に魅力を感じてしまうこともある。この誘惑は、非常に巧妙であり、それがまるで良いことのように見えることがある。しかし、それが何のためにということよりも、誰の栄光になるのかと考えてみたときに、その究極的な意図が明らかになってくる。
 これらのことが示しているのは、次のことである。つまり、神の力によるいやしというものが存在し、それが現代を生きる私たちにより実践されるということがもしあるとするなら、それは、とりもなおさず、次のことを示している。すなわち、私たちの信仰生活は、この世をつつがなく楽しく生きるためではなく、世のため人のために生きるためでもなく、また社会に貢献するためでもなく、ただ神の栄光を現すためなのであり、それはまた、空中の権を持つ人格的な悪の勢力との戦いによるのであり、そのような神話論的な表象の構造こそが霊的な現実であるということなのである。そして、さらにそのことは、私たち信仰者をして、自己の能力の向上や種々の知識の獲得、人格的な成長や品位の向上等を目指させるのではなく、返って神の前に自己を空しくして、ただ神の恵みと哀れみを願い求め、神にすべての栄光を帰すようにさせるのである。

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2009/02/11

第14章 聖霊に敏感になる

 いやしは神の御心であり、主イエスにとって喜びである。これが私たちの確信である。しかしそれにも関わらず、いやしを行う者がいやしの力を行使する最初の衝動は、聖霊を通じた神からの指示であるべきである。ここで「最初の衝動」というのは、ある人が実践するいやしの一連のプロセスにおいて、実際に彼の内部に様々な衝動がわき起こるのが常であり、その際、彼を通じて流れ出る「哀れみ」等の聖なる衝動を、それがあたかも自分から発したかのように勘違いすることもあり得るからである。
 そこで、私たちがもっとも聖霊の助けを必要とするのは、いやしに取りかかろうとするときよりも、むしろそれを行っているとき、及びその後のことにおいてである。もちろん神は、私たちの自主性を最大限に尊重されるのであり、私たちをロボットのように動かしたりはされない。しかし、私たちが自分の考えで動いたり、自分の情動や悪魔の誘惑によって動かされている場合には、神は、ご自身から発し、私たちを通じて流れ出るいやしの力を制限されることがある。神は、ご自身の名誉にかけて、また私たちへの愛による配慮において、また高い御旨とご計画において、そのことを行われるのである。
 そこで、いやしが期待通りになされなかったときには、後でそのときのことを良く思い返してみて、自分が聖霊の導きに完全に聞き従っていたかどうか反省してみる必要があるだろう。
 聖霊に従うことは、自分の心との耐えざる戦いである。いつもその場に留まって聞く姿勢が必要とされる。たとえ、自分の前に成すべきことが明白に見える状況にあっても、それを正に成そうとする瞬間に、もう一度聖霊の導きを求めるのである。それは、耐えざる緊張の連続である。使徒行伝において、弟子たちはそのようにして、聖霊の導きに従い、みことばを宣べ伝えて行ったのであった。
 そのようにして、いやしの実践を通じて、日頃聖書で学んだ真理を私たちの実生活における、それも最前線における霊的な戦いにおいて適用し、そこで啓示される神の御旨を心に刻むことにより、従順な心、神の御心に沿った生活、堅固な信仰、練達した知恵に進むことができる。
 つまり、何かいやしのための特別な秘訣があるのではない。それは、神に従う信仰の実践の一領域に過ぎないのである。その目指すところは、従順で力強い神の僕、すなわち主イエスのような神の僕となることであり、その目的は、伝道すなわち主イエスの大宣教命令の実現である。それゆえ、すべては、この文脈に沿って理解され、実践されるべきである。
 フランシス女史は言う、「神様が語って下さる事に敏感になって下さい。神様の声に聞いて下さい。いやしについて学ぶのに、これ以上大切なことはありません」と。そして、神の声を聞き分けるには、常に聖書の言葉を読む必要があると言う。聖書は、神が語られた言葉(ロゴス)であり、それにより、私たちは、神が今このときに自分に対して語る言葉(レーマ)を聞き分けるのである。

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2009/02/06

第13章 いやされなかった場合は

 知っている限りのいやしの方法を行ってもいやされない場合、どうすれば良いのだろう。しかし、確かにすべての人がいやされるのではないようであり、いやしの集会が終わった後に、一群のいやされなかった人々がいつも取り残されることになる。フランシス女史は、ためらわずに、それらの人々に、こんどは、他の人に祈ってもらうように言う。また、自ら運営している一連のいやしに関する教育においても、自ら病を負いながらの講義を余儀なくされたこともあったという。
 これらのことは、何を意味するのだろうか。いやしは、結局偶然の産物でしかないのか。それとも、どこかが間違っているのか。あるいは、まだ未熟な部分があるのか。神の心に気まぐれがあるのか。フランシス女史は、私たちの未熟さを原因として揚げる。もし私たちが、神への従順において、生前の主イエスに近づくことができれば、いやしはより確実になってくるだろうと彼女は言う。
 しかし、この本を読んで、私が気付いたもっとも注目すべき、盲点とでも言えるようなことは、「同情は、いやしの敵である」ということである。彼女自身も、「同情は脳溢血のいやしにとって一番大きな敵だ」と言っているが、それは、その他一般のいやしについても真理だと思う。特に日本人は、哀れみと同情の区別がつかない民族のようだ。しかし、これら2つは、まったく異なった概念なのである。そしてその上、ここでそれらの違いを明確化する価値さえないものである。それらは、いやしを行う人には、いっさい関係がないほどになっていなければならないのだ。その理由は、次のことである。
 まず、哀れみは、神から発するものであり、私たちからは出ないということである。私たちが他の人を哀れもうとするとき、それはすでに同情以上のものではない。なぜなら、私たちには、何の力も知恵もないからである。次に、同情は、この世との妥協である。それは、現状を認め、ある意味でそれに同意することになる。そのときあなたは、悪魔の仕業に同意しているのである。神の思い、人となられたイエスの御思いは、悪魔の仕業への義憤以外のものではなかった。同情はあなたの心にもあってはならない。主イエスは、苦しみの後に死んで葬られたラザロを前に、涙を流された。それは、ラザロの苦しみをご自身の苦しみとされたからであり、泣く者と共に泣かれたのである。私たちも主イエスのように、泣く者と共に泣くことができる。しかしそれは、断じて同情なのではない。
 あるいやしの集会で、筋萎縮症でほぼ全身麻痺の人が2人に支えられて前に出てきた。フランシス女史は、その人に向かって「主イエスをほめよ!」と言った。彼は、もう少しで信仰を失うところだったが、そのとき神の奇跡の力が彼女から流れ出たのを感じた。彼は、見た目にはいやされたような変化は何もなかったが、彼女は、「彼はそう見えないかもしれないが、いやされているのです」と冷たく言った。そして、その言葉の通り、彼は12時間以内に完全にいやされたのであった。彼女の冷たさは、彼に対してではなく、悪魔の仕業に対してであり、いやしを行う者は、このことをしっかりと心に持っていなければならない。すなわち、病は神が与えられるものではなく、それは悪魔から来るのであり、あなたは、それに対して、徹底的に毅然とした態度で臨まなければならないのである。それのみが神に栄光を帰し、完全ないやしをもたらす秘訣なのである。

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2009/02/04

第12章 病人をいやす他の方法

 これまでに説明されたいくつかのいやしの形態は、どちらかと言うと、方法論というようよりは、心構えのようなものであった。つまり、こうやればいやされるという確実な方法などはなく、ただ神がご自身の栄光を現すために私たちを通じていやしを行われるのであって、その限りにおいて、神は主権をもって自由な方法で働かれるのである。しかしそれでも私たちは、いやしを神に期待し、それを自ら能動的に行使する方法論とでも言うものに思い当たるのである。
 それは、まず、いやしが神の御心であり、そうすることが神の喜びであるという事実である。これは、神が人をご自身の形に創造され、彼らを祝福されたことに発する。そしてまた、罪に沈んでいた人の救いのために、ご自身の一人子を十字架に架けられるほどに世を愛されたことによる。それにより、私たちは、いやしが神の御心であり、喜びであることを知り、確信を持って神にいやしを願い求めることができるのである。
 さらに神は、ご自身の栄光を現されるのに、特定の人を用いられる。アブラハムを用い、モーセを用い、サムエルをダビデを、ソロモンをエリヤを、パウロを用いられた神は、今この時代においては、聖霊に満たされた信徒を用いて、ご自身の栄光を現されるのである。この確信は重要である。信仰者が出て行くとき、神がそれを見守られるだけでなく、彼の中にあって、神が働かれ、御業を行われ、そこで彼に勝利を給わり、それによりご自身の栄光を現されるのである。
 ここに一つのパターンが存在する。すなわち、信仰者が祈りの中で神の御心を知る。神は彼の心を動かして、彼は働きのために出て行く。神は、彼と共に行かれて、彼の中にあって超自然的な御業により彼を助け、彼に勝利を給わる。彼は、その勝利を神に帰し、それにより神の栄光が現される。これは、神と人の絶妙なコンビネーションであり、父と子の権威のバランスである。このバランスが崩れるとき、奇跡は起こらない。しかし、このバランスが絶妙に保たれるとき、そこに神の奇跡の御業が現れる。かくしていやしは起こるのである。
 しかし、このバランスは、寸分の誤差も許さないようなものではない。むしろそれは、かなりの許容誤差を含んでいるのである。そこで、あるときには、人の権威が多分に強調されたように見えることがある。あたかも神が人に、本来ご自身が持っておられるはずの権威を譲渡されたかのように見えることがある。また反対に、神の絶対の主権の前に、人の存在が無きに等しいかのように見えることがある。それは、また神の絶妙なる配剤なのであって、神の永遠の愛の結実でもあるのである。私たちは、これらの真理を究めることはできない。実にフランシス女史でさえ、それを完全に理解しているとは思えない。これは、ただ神だけが知っておられ、ご自身の裁量で、天地創造の昔から決めておられることなのである。

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第11章 祈りの布を用いてのいやし

 神の力が、ある1枚の布等、特定の物の中に宿ると言うのは、どこか異端的、あるいは御利益信仰的に思われるところがある。しかし、使徒行伝19:11~12には確かに、パウロが身に着けた手拭いや前掛けをはずして病人にあてると病がいやされたことが記されている。
 私たちは、このことにより、今までの観念的な信仰概念を変革する必要があるのかも知れない。それは、神が自分という1人の罪人をも救い給うたという事実を通して、自分自身をもう一度、単なる被造物と認識し、そこに現された救いの奇跡に驚嘆し、栄光をただ父なる神に帰することに通じるように思える。
 そのようにして、救いは私という一被造物の中に宿り、信仰の業は、私という一人の人間を通して働くのである。これがすなわち、インマヌエル(神ともにいます)という信仰なのであり、そのような信仰に立つ者だけが、出て行って神と共に働き、ダビデのように敵の門を勝ち取ることができるのである。
 そのような信仰から、フランシス女史のチームは、小さなポリエステルの布に手を置き、いやしが必要な人に郵便で送り出す。その布は、ときには何日間もかけて遠い国まで届き、受け取った人がそれに触れた瞬間にいやされるということが起こるのである。

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2009/02/03

第10章 とりなしの祈りによるいやし

 ここに書かれていることは、高すぎて私には容易に理解できないことのように思われる。とりなしの祈りとは、そのように高いものなのであり、私にとっては未だ未知の領域にある。「神様は遍在されるお方です。神様が同時にどこにでもいることができるとは、何とすばらしく、興味深いことでしょう」とフランシス・ハンター女史は言う。それは、神様が私たちのとりなしの祈りに応えてくださるためなのであり、私たちの祈りに対して、神様ご自身が働いてくださるのである。
 イエス様は、かつて弟子たちの足を洗い、ご自身が仕えるために来られたことを示し、私たちにも仕えることを教えられた。そのように私たちには、互いに仕え合うことが求められている。しかし、神様と親しくなった者たちは、神様との関係で、控えめに言えば、ある意味で仕え合う間柄となるのである。
 私たちは、神の栄光を現すためにこの世界で生活し、働き、神様のために様々なことを行い、神様の栄光をこの世界に現そうとする。しかし、とりなしの祈りにおいては、私たちの祈りに応えて、神様ご自身が働かれるのである。なんと畏れ多いことだろうか。しかし、そのこと自身が、再び神様の栄光のためなのである。ここにとりなしの祈りにおける一つの鍵がある。すなわち、私たちのとりなしの祈りを神様に聞いていただこうと思うなら、私たちは、ただ神様の栄光のために祈らなければならないということである。「私が病人に按手する時、やされようと、いやされまいと、私には何も失う物はないのです。なぜなら聖書は自分自身に死ぬようにと言っていますから。もし、自分自身に死んだなら、評判は気にならなくなります。」とフランシス女史は言う。そして彼女は、病人のために祈った後、「感謝します」と言う。それは、神が祈りに応えてくださったことの確信なのである。
ある日、彼女が瀕死の病人のために祈り終えたとき、神は彼女に時計を見るように印象を与えられた。彼女が時計を「11時37分です」と読み取ると、その同じ時刻に、遠く離れた病室に、イエス様が入って来られ、その病気の人はベッドから立ち上がったのであった。

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