2009/12/25

ネヘミヤの熱心

ネヘミヤ記 第13章

 エルサレムの城壁の修復が完了し、すべてが昔の姿に戻ったように見えた。そして、それはその通りだった。彼らの罪に傾き易い性質もかつてのままだったのである。果たして、ネヘミヤが所用でバビロンに戻っていた間に、彼らは異民族と混血を始め、神殿における祭儀も行われなくなってしまった。そしてそれは、彼らが苦労して勝ち取ってきたものを一瞬にして失うことだったのである。しかし、彼らはそれに気づかなかった。罪の誘惑は、絶えず繰り返しやってくる。そして、そのたくさんの誘惑の内のたった一つにでも心を引かれるならば、そこから崩壊が始まるのである。そのようにして、ほんの些細なことから、罪は人々の間に広がり始め、やがて聖なる都エルサレムを内部から蝕み、せっかく多くの努力を払って回復した神の恵みを次第に打ち消し、効力のないものにしようとするのである。
 それは、一見するとイスラエル民族の、すなわち人間の弱さに根差したものであるように見える。しかしそこに、その背後に、一つの人格が存在することを見逃してはならない。4節には、「これに先立って、トビヤに縁のある祭司エルヤシブは、神殿の祭司室を任されていたが、かつて人々が穀物の献げ物と香と祭具、またレビ人と詠唱者と門衛のための、規定による十分の一の穀物と新しいぶどう酒、更に祭司のための礼物を納めることになっていたその大きな祭司室をトビヤのために流用した」と書かれている。トビヤはそこで何をしていたのであろうか。しかし、その結果、「レビ人に与えられるはずのものが与えられず、勤めに就いていたレビ人と詠唱者が、それぞれ自分の耕地に逃げ帰っている」のをネヘミヤは発見するのである。また、「ユダで、人々が安息日に酒ぶねでぶどうを踏み、穀物の束をろばに追わせて運んでいる」のを彼は見た。さらには、「ティルス人もそこに住み着き、魚をはじめあらゆる種類の商品を持込み、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた」のであった。
 私たちの日常においても、往々にして罪は犯される。しかし、その背後に一つの人格が存在する。それは、アダムの時以来、私たちに戦いを挑み、常に私たちを罪の中に埋没させ、私たちに与えられている神の恵みを無きものにしようと日夜働いているのである。それは、あのトビヤのように、神の陣営の中に存在することもある。しかし、神の陣営には、神の霊を持つ人、あのネヘミヤのような人がいる。そして、絶えず改革を行うのである。彼は、決して強い人間ではない。しかし、神を愛し、忠実に仕え、いつも教会を見張り、神に指示されたことを忠実に行い、そして神に祈るのである、「わたしの神よ、わたしを御心に留め、お恵みください」と。

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城壁の奉献

ネヘミヤ記 第12章

 エズラの改革が神の民の回復のための働きであったのに対して、ネヘミヤの改革は、城壁すなわち街の回復のための働きであった。街すなわち社会が神のものへと回復する前に、まず人々の心が神へと回復される必要があった。しかし、回復が人々の実生活にまで及ぶためには、壊れた城壁が修復され、それにより外敵から守られ、その内に生活の基盤が築き直される必要があったのである。エルサレムという街は、そういう意味で、神が人と共に住まいされる街であった。そしてそれはそのまま、今日における私たちの信仰生活を表しているのである。
 人が主イエスの救いを受け入れると、自分の罪が自覚され、神への献身の思いが与えられる。彼は毎日聖書を読み、祈り、神を賛美するように努める。そのようにして、彼の心に祭壇、すなわち神殿が築かれるのである。しかしそれだけでは彼の信仰は、生活に根ざしたものになっていない。それゆえ、日常の様々なできごとに遭遇するとき、彼は心を惑わせたり、対応に苦慮したりせざるを得ない。しかし、朝起きたら一番に神を賛美するということが彼の日課の一つとなるなら、彼はその一日の始まりに大いなる力を受けて出ていくことになる。同様に、通勤のバスや電車の中における過ごし方や、家族との接し方、職場における態度、自分に与えられている仕事の意味等々についても、一つ一つ神との関係で整理し、位置づけていくことにより、生活に信仰的な秩序が生まれ、それら日常的なことのすべてが彼を煩わせるものではなく、むしろ彼の信仰を立て上げ、麗しい喜びと神への深い献身の基となるのである。これが、彼の城壁すなわち街が回復されることなのである。そのようにして、私たちの存在すべてが神のものとなり、すべてが最高のもの、感謝と賛美に満ちあふれるものとなるのである。そうなるために私たちは造られたのである。
 ネヘミヤは、城壁の奉献に際して、イスラエルの主だった人々を二つの楽隊に分け、一隊を右から、もう一隊を左から城壁の上を、賛美を歌いながら行進させた。それはまったく、そうするのが自然なことだった。彼らの生活の場所すべてがそのように賛美と感謝に満ちあふれたものとなったからである。彼らは、歌いながら城壁の上を行進しているときにそれを実感したのであった。イスラエルの神が哀れみと恵みに富み、すべての人の賛美と礼拝を受けるにふさわしいお方であることを。

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2009/07/03

真のエルサレム

ネヘミヤ記 第11章
 イスラエルの民たちは、かつてそれぞれに、自分の町々に斯業の土地を与えられていたので、捕囚の地から帰還した後は、その自分たちの場所に住んだ。しかし、ネヘミヤたちにより復興された聖なる都エルサレムには、民の十分の一が自分たちの土地から移り住むことになった。しかしこの街にかつて住んでいたのは、どのような人々だったのか。それは、例えばダビデの時代には、彼の側近や高官、貴族たち、そして名高い勇士たちであった。それがこの捕囚後の都再建においては、民はくじを引き、「勇士」ではなく「有志」がこの聖なる都に住んだのである。これは何と象徴的なことであろうか。神は、城壁の中のに住み、神殿を守り、常に喜んで神を礼拝しようとする者たちを喜ばれたのであり、「民は(も)、進んでエルサレムに住むすべての人々を祝福した」(ネヘミヤ11:2)のであった。そして、この聖なる都エルサレムには、王がいなかった。神殿にその御名を置かれる神ご自身が彼らの王なのである。
 それにしても、これらのことはどのようにして生起したのか。それは、バビロン捕囚による王制の崩壊からペルシャ王クロスによる神殿再建命令まで、すべて全能の神ご自身の御計画と実施によるのである。かつてアブラハムを通して選び分かたれたイスラエルの民がエジプトの支配下で奴隷として殖え広がったのは、遊牧民であった彼らが一つの民族を形成するために必要なことであった。そうでなければ彼らは、一つの民族にまとまることはできなかった。そして、そのイスラエル民族が聖なる民とされるためには、神に選ばれた人モーセによって、その奴隷生活から導き出され、荒野で神から直接訓練を受ける必要があった。そして、彼らに真の王イエス・キリストが与えられるためには、まず彼らがサウルを始めとする歴代の諸王の下で王に従うことを学ばなければならなかった。そして、彼らの心が天地を作られた真の神を礼拝する神殿となるためには、まずダビデにより賛美の幕屋が張られ、それがソロモンによって壮大な神殿として完成され、それがバビロン捕囚によりひとたび破壊された後に、エゼキエルに新しい神殿の幻が与えられ、エズラにより神殿が再建され、ネヘミヤにより町と城壁が再建されなければならなかった。そしてついに、主イエス・キリストが天から来られ、神殿から商人たちを追い出し、ご自身の心の神殿で神を礼拝し、ご自身を生ける聖なる供え物として神に献げられた。そして、最後にキリストの復活から50日目に聖霊が天から教会に下ったのであり、これらすべては、人の計画や努力ではなく、すべて神の超自然的な介入によったのである。
 そのような意味でこの都は、かつての王制時代と比べて、人間的には見る影もないかもしれないが、実は着実に完成に近付いているのである。そこには王もおらず、人間的には力もなく、自主防衛組織により運営され、一見確固たる基盤を持たないように見えるのだが、それは天的には、それだけ完成に近付いているのである。というのは、すべての完成は、ヨハネの黙示録に啓示されている、小羊の花嫁としての聖なる都エルサレムだからである。そこには実に神殿さえもない。「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」(ヨハネの黙示録21:22)
 私たちは、これらのことを良く心に留める必要がある。私たちの人生は、どこに向かっており、私たちは今どこにいるのかということを。今の生活がそれほど裕福なものでなくても、またときには毎日のやりくりに苦慮するような状況にあっても、さらに社会における地位も低く、返って名もない者と見なされ、このネヘミヤ記にあるように、周りの民族から蔑まれ、ただ自分たちの中だけで独善的に神を礼拝しているようなことがあったとしても、それは、後退なのではなく、むしろ前進なのである。もし、そのようなあなたの心の内に、エゼキエルが描き啓示した聖なる神殿が建てられつつあるのなら。

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2009/06/15

服従の誓約

ネヘミヤ記 第10章
 イスラエルの民は、神である主の前にモーセの律法の厳守に関する誓約書を新たに作成し、高官、レビ人、祭司が捺印をした。それには、主に民の生活における義務について書かれていた。
 律法は、生活のすべてを覆うものである。そこにはもちろん、祭儀についても多く規定されている。しかし最後には、それは人々の生活の細々としたことを規定するようになる。その体系のすべては、祭儀から私生活に到るまで、互いに密接に関連していて切り離すことができない。それらはそれ自体、全体として調和しており、非の打ちどころがなく、完成されたものである。それに対して、私たち一人一人は、時間と空間の中に互いに分け隔てられているのである。従って、一人の人が律法の全体を理解して、どのようなときにもそれらすべてを考慮しながら、個々の行動を決定するということは不可能である。そこで、まず私たち一人一人が、自分の立場の範囲で律法を遵守することと併せて、互いに影響し合う部分においては、コミュニケーションを活発にして、律法の目的や精神を伝え合いながら互いに考え合うことにより、互いの立場の接触部分で運用の有機的な接合を確保する必要がある。それにより、律法運用の全体が神のみ旨にかなうものとなるのである。そして、それは原理上は十分可能なのである。ただし、もし時間が存在しなければである。しかし現実には、流れゆく時間の中で、互いの整合を、全体として同時に確保することは不可能であることが分かる。すると、そのタイムラグにより、人の心の中の罪が活動を始める機会が生じるのである。そしてその結果、あちらを立てればこちらが立たずという状態になってくるのである。それを解決するためには、どうしても、時間を超越すること、すなわちこの世界に死ぬということが必要となる。もし彼らに、律法と共にそのような能力が与えられていたなら、彼らは、文字通り全身全霊をもって神に仕えることができたに違いない。その意味で、彼らには完全な律法が与えられていたのである。しかし、時間の中で生きる彼らは、実際には、それを実行する力を持っていなかったのである。というのは、それは主イエス・キリストの十字架と復活による勝利によって、初めて与えられたのだからである。この偉業の中で、まず大いなる愛が現された。そして、それを自分の身に受けた私たちは、自分に死ぬこと、つまり時間を超越する力を与えられるのである。そしてさらに、主イエスの名によって一人一人に与えられる聖霊は、時間から自由にされた私たちが、神を第一に、私生活の細々としたことに対して、律法に則ってどのように対処すべきかを教え導いてくれるのである。これらにより、私たちは、時間という呪いから解放されると共に、その中で神に喜ばれる生活をする思い、すなわち神の子の心を与えられ、律法を達成することができるのである。
 しかしこのときのイスラエルは、まだ異国の支配下にあったのであり、律法の精神さえ教えられていなかった。エズラが朗読した律法を初めて聞く者さえ多かったのではないだろうか。そこで、彼らにできることは、ここに記されているような範囲のことだったのだろう。すなわち彼らは、民族の血筋の純粋性を保つこと、すなわち他の民族と婚姻しないことを誓った。また、年毎、収穫毎の供え物を忠実に行うことを約束したのだった。

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2009/06/11

永遠の関係

ネヘミヤ記 第9章
 祝いの時が終わり、その月の24日にイスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。それは、永い永い懺悔の時であった。喜びと懺悔、それらはいかにして調和するのか。彼らは、1日の内6時間を律法の書を朗読して過ごし、6時間を彼らの神の前に罪を告白し、ひれ伏していた。
 レビ人たちは、台の上に立って賛美し、彼らの神が行われた、アブラハムにおけるくすしき選び、大いなる出エジプトにおける奇跡、荒野におけるマナの恵み、約束の地の強奪における助け、士師たちによる裁き、預言者による諭し等々を一つ一つ思い出し、神の栄光を誉め称えた。また、彼らは同時に、荒野における彼らの不従順、諸王たちへの不忠実、預言者たちへの虐待等々の彼らの罪を言い表し、神の前にひれ伏して、その身に土をかぶった。この世の人にとって、このような懺悔の行為は、敗北と屈辱でしかない。しかし、選ばれた民イスラエルにとっては、それは、同時に大いなる喜びの時なのである。これは、世の人には決して理解できないことである。それは、民の不従順よっても、数知れぬ裏切りによっても、彼らの神の真実と誠実は、変わることがなかったからである。彼らが彼らの神の前にひざまづき、懺悔し、土をかぶることは、彼らの神の愛をその全身で味わうことに他ならない。彼らが神の前に自分の罪を告白し、ひれ伏すことは、彼らと神との深い、永遠に変わらない愛の関係を告白し、それを確かなものとすることに他ならないのである。なぜなら、彼らは選ばれた民だからである。
 彼らは、自分が告白している罪のすべてを自ら犯したのではない。また、彼らが賛美している神の奇跡の多くは、彼らの先祖が体験し、それが代々口づてに伝えられてきたものである。しかし彼らは、あたかもそれを自分自身で見たように告白した。罪についても同様である。彼らは、自分たちが犯したのでもない、彼らの先祖たちが犯した罪を自分の罪として告白したのであった。なぜなら、彼らは、選ばれた民イスラエルだからである。
 ああ、私たちも彼らの信仰に連なろうとするのなら、彼らのように、信仰の先陣たちが見た神の栄光をさながら自分が見たかのように信じ、証ししなければならない。また、信仰の先陣たちが犯した罪を自分の犯した罪として、神の前に告白し、悔い改めなければならない。そのようにして、私たちは、神に選ばれた民となるのである。そのようにして、私たちは、真に主イエス・キリストの弟子となるのである。なぜなら、それは、私たちと私たちの神との切ることのできない関係、永遠の愛の関係を証しすることだからである。そしてそのとき、私たちは、神とはどういうお方かを本当に知るのである。

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2009/06/10

律法を聞く者

ネヘミヤ記 第8章
 町の城壁の門に扉が付き、その中に住む人の登録が始まったことは、民の心に何がしかの影響力を持っていたのだろう。なぜなら、彼らは主の民、選民なのだから。選民とは、特殊な民である。彼らの心の奥深くには、神の律法が書き記されており、彼らは、どのような世界の果てに連れ去られようと、どのような異民族の奴隷とされようとも、また、その状態のまま、何百年が過ぎようとも、何代世代が変わろうとも、彼らの心に書き記された神の御名は、決して消えることがない。それはついに、彼らの心に芽を吹き、彼らをして選ばれた特殊な民、選民に回帰させるのである。
 かくして、イスラエルの人々は自分たちの町に住んでいたが、第七の月になったとき、民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。そして彼らは、祭司エズラに、主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めたのであった。祭司エズラが律法を会衆の前に持ってきてそれを朗読すると、民は皆、その律法の書に耳を傾けた。総督ネヘミヤと祭司エズラが民に、いま読み上げた律法の意味を説明すると、彼らはそれを理解した。彼らは、律法の言葉を聞いて泣いていた。しかし、ネヘミヤとエズラがこの聖なる日に嘆いたり泣いたりしてはならないと民を諭すと、民はそれを理解した。彼らは、彼らが律法を聞く者であることを理解したのであった。
 使徒パウロは、ローマ人への手紙2:13でこう言っている、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。しかしつづけて、ローマ3:1~2では、こう言っている、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」と。つまり、彼らが選民であり、律法は彼らに与えられたものであり、そのことが彼らの祝福でであることを彼らは理解したのであった。イスラエルは、昔から数えきれないほど神に背き、神を裏切ってきた。しかし、神は彼らを捨てられなかった。それは、彼らが律法を守る民ではなく、律法を授かった民、律法を聞く民であるからなのである。そして、そのことを認識したとき、彼らは、神が彼らを永遠の愛で愛しておられることを理解したのであった。
 そして二日目に、すべての民の長老たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法に記されている通りに、仮庵の祭りを行った。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。それは、まことに大きな喜びの祝いであった。

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自分たちの町

ネヘミヤ記 第7章
 敵の妨害にも関わらず、ついに城壁は完成した。ネヘミヤは、門に頑丈な扉を付けさせ、誠実で誰よりも神を畏れるハナンヤという人にエルサレムの行政を託した。都の門は、太陽が十分に昇ってから開かれ、守備隊が任務についている、まだ明るい内に閉じられた。町は広かったがその中に住む民は少数で、まだ家もほとんど建っていなかった。
 町には人が住んで初めて町と言える。ネヘミヤがペルシアから荒れすたれたユダヤへ帰って来たのは、そこに人々があふれ、その中心に天地を造られた神の神殿がある、真の町を建設するためだったのである。彼は、心を動かされて、貴族と役人と民を集め、家系に従って、エルサレムの住民として登録させようとした。そのとき彼は、かつて神殿を再建するために帰還した人々の名簿を発見したのであった。それらの人々は、どこへ行ってしまったのか。実は彼らは、エルサレムから離れた自分たちの町に住んでいたのであった。そして、ネヘミヤがかつてペルシアで伝え聞いた、捕囚を免れてユダヤに残り恥辱を受けていた民の声は、また彼らの叫びでもあったのである。せっかくペルシア王キュロスの好意により、生まれ故郷のユダヤに神を礼拝するための神殿を再建しておきながら、自分たち自身は、そこで礼拝することもなく、神を知らない異教徒のような生活に甘んじてきたのであった。ああ何ということだろう。彼らを恥辱の直中へと投げ込んだのは、実に彼ら自身だったのである。彼らは、生まれ故郷へ戻ってきた自分たちの真の目的を理解せず、神殿の再建を終えると、それを祭司たちに任せて、自分たちは、さっさと古い人間的、この世的な生活へと戻って行ってしまったのである。彼らを恥辱に引き渡したのは、彼らの敵ではなく、彼らの不信仰な生活だったのである。
 今日においても、もし私たちの生活が社会や家庭の中で、恥辱にまみれたものであるなら、その理由はただ一つ、私たちの生活が神の神殿から遠く離れたところで営まれているからなのである。一週間の内6日間は、この世の人々となんら変わりない生活をし、ただ日曜日だけ教会に詣でて、賛美歌を歌い、口先だけの祈りをし、午後にはさっさと家に帰り、買い物をし、テレビを見、寝床の中ではもう月曜日の会社での仕事の心配をするような生活が常であるなら、私たちが恥辱の中にいるのも無理はない。ネヘミヤ記に書かれているような状況が現在において再現されているだけのことである。しかし、あのときはペルシア王キュロスの心を神が動かされて神殿再建という恵みが訪れたのであったが、今日の私たちの教会生活は、神の一人子の尊い血により勝ち取られたものである。そのことを私たちは、もう一度肝に銘じ、生活のただなかに神殿を築く必要があるのではないだろうか。

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2009/02/04

この世の誘惑

ネヘミヤ記 第6章
 城壁再建の工事が完成に近づき、そこに崩れたところが一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけだということを妨害者たちが聞いたとき、彼らはネヘミヤに使者を送り、彼を誘い出して危害を加えようと企んだ。ネヘミヤはそれを断り、彼らの誘惑に乗ることはしなかった。神に従う者、神の事業に携わる者は、この世の誘惑に乗ってはならない。それはまず、対等の接触を要求してくる。しかし、元々神の国とこの世界の間に対等の接触などないのである。もしあるとすれば、それはただ神からの一方的な接近なのであり、それはただ一度、イエス・ キリストにおいて実現したのであった。そこで、神に導かれた事業がいかに順調に行っていても、世からの誘惑には、極力注意する必要がある。それはあり得るようなものではない。
 しかし、ネヘミヤの心には、この妨害者たちとの対立が望ましいものとは写っていなかっただろう。戦いは、いつの日にもここちよいものではない。できればそれを避けて通りたい、忘れていたいと誰しも思う。工事を行う民たちの心は、緊張を続けてきた。いつまでこの切迫した状態は続くのか。できれば、この今の優勢な状態のときに彼らと和解できれば、今後において有利な展開になるのではないか。そう思われたかも知れない。しかしそのような道はない。神の事業に世と妥協できる部分はない。ネヘミヤは、彼らの誘惑に屈しなかった。
 そして、果たしてその判断が正しかったことが明らかになる。妨害者たちは、預言者たちをも買収して、ネヘミヤを騙し、脅迫しようとしたのであった。彼らは、ユダの貴族たちや成り上がり者たち、世の生活に魅力を感じる者たちを誘惑して契約を結び、彼らから情報を得ると共に、すきがあればネヘミヤたちを誘惑し攻撃を加えようとしていたのであった。

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2009/01/23

天国の香り

ネヘミヤ記 第5章
 貴族たちは、エルサレムの城壁の再建に加わろうとしなかった。彼らは、公共の利益よりも、個人的な幸福を求めていたのである。しかし、再建工事に携わっていた者の中にも、富んだ者と貧しい者があった。そして、そのときの農作物の不作も手伝って、貧しい者たちの生活は、厳しさを増して行った。彼らは、そのような状況の中でも、自分たちの町を建て直すことに力を注いでいたのである。しかし、飢饉は激しく、彼らは食物を買うお金がなくなり、家財を売ったり、身売りをしたりせざるを得ないまでになり、そのことをネヘミヤに訴えた。ネヘミヤは心を痛め、他人が自分から借りている負債をすべて帳消しにする決意をし、人々にもそれを薦めた。すると彼らは、このネヘミヤの行為に心を動かされ、自分たちも同様にすることを神に誓った。これにより、城壁の再建は順調に進んでいった。
 神の民は、ときとしてその天国の性質をこの世界に映し出すときがある。それは、もはやこの世の経済や社会の原理に捉われない。そこに現れ出でたものは、永遠の世界の雛形なのである。使徒行伝の時代にも、そのような天国の性質がこの世界に現れ出でたことがあった。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と記されている。そして、それは、この世の矛盾や不完全さを克服し、解決し、新しい可能性をそこに実現する。神の国は、この世のものではない。それは、無限の世界、永遠の世界からこの世界に下りてきた現実なのである。しかし、それはこの地上においては、長くは続かない。この世の諸々の物や、私たちの心は、それに長くは耐えられない。それゆえ、それはやがて消えていく。そのようにして、それは再び天に戻っていく。しかし、それはあるとき、明らかにこの世界に実現していたのであり、麗しい天国の香りなのである。

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2009/01/22

心の城壁

ネヘミヤ記 第4章
 城壁の再建が進むにつれ、反対者たちの攻撃もエスカレートしてきた。彼らは、ユダの人々を混乱に陥れようと、皆で共謀してエルサレムに攻め上ってきた。この攻撃により、民の心は乱れ、彼らは言った、「もっこを担ぐ力は弱り、土くれの山はまだ大きい。城壁の再建など、私たちにはできません」と。一方、反対者たちの近くに住む者たちは、このことのゆえに、幾多の非難と攻撃にさらされていた。そこで彼らは、敵の攻撃に備えて、一方の手で作業し、もう一方の手に常に投げ槍を握っていた。
 現代を生きる私たちの信仰生活にも、ときとしてこれと同じような困難が伴う。それは、社会的な責任と目まぐるしい生活のリズムである。それらの圧迫は、まず私たちの生活からプライベートな時間を奪い、ついに信仰生活にまで攻め上って来て、それを脅かそうとする。休日出勤や家庭への仕事の持ち帰り、新聞記事やテレビ番組の選択やものの考え方に至るまで、会社の影響を受ける可能性は否定できない。そこで私たちは、どうしても片手に投げ槍を持って、身に降る火の粉を払いながら歩まざるを得なくなる。そして、聖日礼拝のゆえに休日出勤を断ると、他の人の仕事が増えるといやみを言われることにもなる。
 そのようなとき、私たちはクリスチャンとして、「証しにならない」などと不安を漏らし、世の人に良く見られようと、信仰生活を自ら制限されたものに作り替えてしまうことがある。しかし、実はそこから彼の信仰生活の崩壊が始まるのである。もしネヘミヤがあのとき、工事の手をゆるめていたら、すべてが水泡に帰していたことだろう。ネヘミヤは、決して譲らなかった。敵からそしられようが、同胞が悲鳴を上げようが、彼は動じなかった。彼が見ていたのはただ一人、天の神なのであり、その栄光以外に彼が追求するものはなかったのである。そして、私たちにもあってはならないのである。そのようにして、初めて城壁は完成するのであり、今日それは、私たちの心の中に築かれるのである。

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