2009/01/16

最後に残されたこと

エズラ記 第10章
 民の犯した罪を知ったエズラは、ただ呆然と座り込むだけで、成すすべもなかった。屈辱的な70年間の捕囚生活の後に、神の一方的な赦しと恵みに始まり、多くの人々の血と汗により、幾多の妨害と困難を乗り越えて、やっと整えられたすべてのものが、いまや意味のないものになり果ててしまったのである。
 エズラは、神殿の前で祈り、涙ながらに罪を告白し、ただただ身を伏せていた。するとそこへ、イスラエル人が1人、2人と集まり出し、男、女、子供からなる非常に大きな会衆ができた。彼らも激しく泣いていた。エラムの一族のエヒエルの子シェカンヤは言った、「わたしたちは神に背き、この地の民の中から、異民族の嫁を迎え入れました。しかしながら、今でもまだイスラエルには希望があります。」モーセの律法には、このような場合における罪の購いが規定されており、それに従って罪の購いをすることを彼は提案したのであった。この提案により、すべてのイスラエル人がエルサレムに集められた。その日は、朝から冷たい雨が降り注いでいた。民たちは、そとに立ちながら、寒さと罪の呵責に震えていた。それはおそらく、神の備えられた悔い改めの時だったのだと思う。エズラは立ち上がり、民たちに言った、「あなたたちは、神に背いた。異民族の嫁を迎え入れて、イスラエルに新たな罪科を加えた。今、先祖の神なる主の前で罪を告白し、主の御旨を行い、この地の民からも、異民族の嫁からも離れなさい。」すると会衆は、こぞって大声で答えた。「必ずお言葉通りに致します」と。
 神が民の心を動かされたのか、それとも、これもまた、まさに彼らが神の民たる所以なのか。とにかく、民たちは、イスラエルの神なる主のもとへ帰ってきた。そして、それこそが、神殿が再建され、モーセの律法が行われるようになった後に、最後に残された、どうしてもそうならなければならない、ただひとつのことだったのである。

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2009/01/15

本当の敵

エズラ記 第9章
 断食祈祷により道中の安全を神に求めたエズラたちの祈りが聞かれ、彼らは護衛なしに、無事にエルサレムに着くことができた。そして、彼らが王の命令書を地方総督とユーフラテス西方の長官たちに渡したので、イスラエルの民と神殿は、彼らの支援を受けることはできた。
 そして、しばらく経ったころ、民の長の何人かがエズラの元に来て言った、「イスラエルの民も祭司もレビ人も、この地の住民から離れようとしません。・・・彼らは、自分のためにも息子たちのためにも、この地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と混じり合うようになりました」と。
 「この世の友となってはいけない」と主イエスは言われた。それは、異教的なものに心を許すことであり、精神的に、この世の価値観と入り交じることである。そのようにして、心がこの世のものに憧れるようになり、その結果として、ついに身体や生活、文化のすべてがこの世に汚染されることになるのである。
 イスラエルを誘惑したのは、誰だったのか。それは、彼らの神殿建築を妨害した敵たちではなかった。それは実は、彼らを支援した長官たちとその指示によって好意を示してくれた、この地の民たちだったのである。
 それゆえ、私たち信仰者の本当の敵は、職場の同僚であり、友であり、近所の人たちであり、また家族たちなのである。これらを捨てなくては、私の友となることはできないと主イエスは言われたのだった。それは、信仰の純潔を要求されたのである。

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2009/01/14

勇士の行動

エズラ記 第8章
 アルタクセルクセス王はエズラに、イスラエルの神の律法とペルシャの律法の両方に従うように民を治めることを命じた。しかしそれには、少しばかり無理があった。例えば、神殿に仕える者たちは、モーセの律法では、捧げ物を受ける方であり、納めることはなかった。そこで、アルタクセルクセス王は、彼ら神殿に使える者たちを納税の義務から解放する政策をとった。もちろん、征服者と非征服者という関係においては、ペルシャの律法は、モーセの律法の上にあるのだが、このような信仰上のことに関しては、モーセの律法が優先したのである。それは、アルタクセルクセス王が言ったように、「イスラエルの神の怒りが、ペルシャ王とその子孫の国に下らないため」なのであった。
 エズラは、彼と共にエルサレムに上って行こうとする家長とその一族たちを集めた。それは、アルタクセルクセス王がこう言ったからである。すなわち、「わが国にいるイスラエルの人々、祭司、レビ人で、イスラエルに行くことを望む者はだれでも、あなたと共に行ってよい」と。これは、エズラにとっては、たぶんありがた迷惑であったろう。いったいだれが、この重要な任務を負っているときに、希望する者を誰でも連れて行くであろうか。彼はきっと、自分の望むような、有能で従順な者たちだけを連れて行きたかったことだろう。しかし、王の命令は、「望む者は誰でも」であった。あるいは、エズラが王に特別にお願いすれば、王の命令をその運用において、柔軟に変更することも可能だったのかもしれない。しかしエズラは、そんなやぼなことはしなかった。そうすることは、アルタクセルクセス王の威厳に傷をつけることになるからである。それよりもむしろ彼は、「わが神なる主の御手の加護によって勇気を得、イスラエルの中でわたしと共に上って行こうとする頭たちを集めた」のであった。これが神の勇士の行動である。私たちは、ともすると社会の中で、機嫌の悪い、お高くとまったクリスチャンでありがちである。それは、自分の立場を過度に防衛するためでもあるのだが、良く考えてみると、それが不信仰から出ていることがあるかも知れない。しかし私たちは、「神なる主の御手の加護によって勇気を得」、人々に寛大になることができる。そしてそれがときに、エズラのように、神により世に勝つこととなるのである。
 エズラは、彼と共に上って行こうとする者たちを、アハワ川のほとりに集め、3日間の野営をした。彼は、この野営により、彼らを観察し、神が彼らを整えてくださることを期待したのだろう。そして、それらの集団の中に、レビ人がいないことを知り、信頼できる指導者たちをカシフヤというところに遣わして、レビ人を派遣してくれるように要請した。果たして、慈しみ深い神の御手が彼らを助けて、シェレブヤという有能な人物を、その子らと兄弟18人と共に連れてくることができた。そのようにして、他からもレビ人が集められ、すべてが整えられたのであった。

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神の主権

エズラ記 第7章
 神殿が完成した後、エズラがバビロンから上ってきた。エズラは、モーセの律法に詳しい書記官であり、アルタクセルクセス王は彼に、王自身と顧問官からのイスラエルの神への捧げ物と神殿における祭儀のために必要な物を買うための金銀を託し、さらに彼宛に親書を送り、他の7人の顧問官と共にエズラに、神の律法に従ったユダとエルサレムの事情調査等の使命を託した。つまり、いまやエルサレムの神殿建設とそこにおける祭儀の施行、モーセの律法の履行は、ペルシャ帝国の国策になっていたのである。そしてそれは、宮廷の書記官エズラの功績なのである。彼がペルシャで権力を握ったからこそ、アルタクセルクセス王が彼と彼が属する民族に好意を示したのである。しかし、もう一つ大きなことがある。そして本当は、こちらが本物なのであるが、アルタクセルクセス王の心を捉えたのは、天地の創造主なる神だったのである。その力は、圧倒的に王を威嚇した。そして、その力が流れ出る場所が書記官エズラだったのである。神の力は、ある人を通して働く。神は、この世界に直接ご自身を現すことはされない。神を見てなお生きている人はいないから。しかし神は、人を通して、ご自身を世に現すことがお出来になるのである。しかしそのとき、その人を通して現れ出でるのは、神の主権なのである。そして、この主権が人の心を捉えるのである。それは、まず驚異である。神の知恵がその人と共にあることが実証されるからである。そして次に、力である。その人を支えているのが神であることが明らかになる。最後にそれは、愛である。神の愛がその人を通じて流れ出るのである。この愛と知恵と力、これらの融合したものが神の主権であり、人はそれを知るために生まれるのである。
 しかし私たちは、往々にして伝道において愛しか働かせない。しかしそれでは、エズラがアルタクセルクセス王の心を動かしたような力にはならない。神の主権は、愛と知恵と力であり、これらを分離することはできないからである。主権から分離した愛は、弱さの愛である。生前のキリストがそれを持っておられた。(「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」第二コリント13:4)しかし復活のキリストは、主権を持っておられるのである。(「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」ローマ1:4)
 そこで私たちは、この神の主権によって伝道に進むべきである。なぜなら、私たちは、神の軍隊であり、一人一人は、主イエスの僕だからである。そして、それこそが「神共にいます」(インマヌエル)ということなのである。

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2009/01/09

勝利か敗北か

エズラ記 第6章
 総督タテナイとシェタル・ゼボナイが当時のペルシャ王ダレイオスに送った手紙により、過去の記録が調査され、キュロス王が神殿の再建を命じた詳細資料の存在が明らかになった。そこでダレイオス王は、総督タテナイとシェタル・ゼボナイに対して、神殿建築に対する妨害を直ちにやめ、返ってその成就のために協力することを書面で命じた。しかも、その経費を国費をもって負担すると共に、イスラエルの神に捧げる犠牲の動物等をも提供することが言い添えられた。
 そこで、妨害者であった総督タテナイとシェタル・ゼボナイは、ダレイオス王の言いつけ通りに、イスラエル人を支援したので、神殿はダレイオス王の第6年のアダルの月の23日に完成した。
 イスラエル人は、大いなる喜びをもって、神に犠牲を捧げ、神殿を奉献し、モーセの書に記された通りに、祭司とレビ人がエルサレムにおける神への奉仕のための任務に就いた。こうして彼らは、第1の月の14日に過越祭を行った。そして、すでに身を清めていた祭司とレビ人の助けにより、過腰の子羊をほふり、その食事に与った。
 ここで、もう一度確認しておこう。神殿再建の工事が20年間も遅れた原因は、何だったのか。それは、ひとえにイスラエルの民の怠慢だったのである。というのは、20年経って、状況がどう変わったのかというと、実は何も変わったものはないからである。日常的には、時と共に状況は悪化する。つまり、イスラエルの民が工事を中断したために、神殿の再建は好ましいことではないということが既成事実となり、ますますその状況から脱却しにくくなって行ってしまったのである。
 もし彼らが、最初に妨害を受けたときに、この神殿建築がキュロス王の指示であることを公に示すことができていたなら。そのことは、全国に布告されていたのだから。しかし、イスラエル人の関心は、実は別のところにあったのだった。たぶん彼らは、自分たちの故郷へ帰って来られたことを喜び、そのことだけでもう頭が一杯だったのだろう。そして、その喜びを捧げものや礼拝として表現したが、それは実は自分たちのためだったのである。私たちも日常生活のなかで、神を賛美し礼拝するが、往々にしてそれが実は自分たちの幸福のためでもあることが多い。つまり、神のためになることと自分たちのためになることが、一致することが理想なのであり、そのことを最優先に求めることが美徳とされているのである。しかし、よく考えてみると、そういう人は、実は自分の幸福追求のついでに神のことを行っているにすぎないことが分かってきたりする。そこで、はっきりさせておきたいことは、神のことと人のこととは、両立しないということである。というのは、これは慈善好意ではなくて、戦いなのだから。戦いにおいては、どちらが正しということはない。どちらかが勝ち、どちらかが負けるのであり、宣教とは、そういうものなのである。

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2009/01/08

神の言葉

エズラ記 第5章
 神殿建築の再開について預言したハガイとゼカリヤの言葉により、指導者ゼルバベルと祭司イェシュアは力づけられて神殿建築を再開した。この場合の預言とは、やがて起こることを予め言い当てるのではなく、「このようにせよ」との神の命令をしかるべき人に伝えることであった。そこには、まず叱責の言葉があった。しかしその後で主は、「神殿を建てよ。わたしはそれを喜び、栄光を受ける」と言われた。それは、信仰者にとっての最大の励ましの言葉である。
 しかし、間違ってはいけないのだが、この神の命令を実行することは、世に背くことである。神は、私たちがなるほどと思うような良いことばかりは命令されない。かえって、良くないように思えることを命令されるのである。そして、このことはまさに、その良くないと思われることだったのである。
 果たして、総督タテナイとシェタル・ゼボナイが異議を申し立てにやって来た。彼らは言った、「この神殿を建てよと誰がお前たちに命令したのか」。私たちは、教会をこの世の人の命令により建てるのではない。天の神の命によって建てるのである。私たちがこの世に媚びへつらわず、ただ神にのみ従うとき、神ご自身が私たちを助けてくださるのである。「しかし、神の目がユダの長老たちの上に注がれていたので、彼らは建築を妨げることができなかった」。
 そこで妨害者たちは、再度ぺルシアの王に手紙を送ることにした。その手紙の中には、かつてキュロス王がイスラエルの民にそのような、神殿を再建せよとの命令を本当に出したのかどうか調べて欲しい旨が書かれており、それが彼らの墓穴となった。良く考えてみれば、彼らは一度アルタクセルクセス王から手紙で、神殿の再建を阻止する旨の指示をもらっていたのであり、再度ペルシアの王に問い合わせする必要などなかった。しかし、なぜかそのようになってしまった。神の目がイスラエルの上に注がれていたので、彼らは歯向かうことができなかったのである。
 人の立てる戦略は、神の前では空しい。それは、実は穴だらけなのである。人の意識は、一見連続しているように思える。しかし、人は人生の三分の一は寝ているのであり、また、起きているときでさえ、彼は一度に一つのことしか考えられない。しかし、私たちの生活には、たくさんのことが連続して起こってくるのであり、それに対処するために、私たちの意識は細切れに分断されてしまい、ほとんど脈絡のないものになってしまうのである。その破片を拾い集めて、つなぎ合わせ、一つの体系にできるのは、神をおいて他にいない。神殿の建築を中断して、自分たちの家を建て、日常の思い煩いに没頭していたときのイスラエル民族の意識も、神殿の再建が始まったときにあわてて阻止しようとした先住民たちの意識も、そのような一種朦朧とした中にあったのであり、そこに預言者を通して、神の言葉が突き刺さり、そこに確かな道を造ったのである。それゆえ、私たちは、絶えず祈らなければならない。祈りがなければ、何事も脈絡のないものになってしまうのである。

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挫折の理由

エズラ記 第4章
 先住民たちは、帰還したイスラエルの民がその地に神殿を建てていることを知り、自分たちにもその建設を手伝わせてほしいと言ってきた。しかし、それは偽りであり、実は彼らはその建築を妨害するつもりだったのである。彼らは、明らかに敵意を抱いてそのことを企てたのであり、それは彼らが、イスラエル人たちがしたことを、まさに自分たちへの宣戦布告と受け取ったからであった。
 私たちもときおり、そのような妨害を受けることがある。そして、私たちは、そのときになってから、それをなにか思いがけないことのように受け取って、戸惑うことがある。しかし、実は、それは最初から起っていたことなのであり、あるときにそれが外に現れ出たにすぎないのである。そのように私たちは、世の敵なのである。
 その地の住民は、自分たちの嘘がばれたのを悟ると、今度はペルシャの王に、イスラエルの民のしていることを悪く訴えたのであった。その企ては効を奏し、ペルシャの王は、イスラエルの民の神殿建設を中止させる命令を出した。そして、そのときから神殿の建築は、約20年間も中止させられてしまうのである。
 しかし、この20年という長きに渡る工事の中断は、いったいどういう意味を持っているのだろうか。それは、いったいだれのせいなのだろうか。また、どこに問題があったのだろうか。それは、預言者ハガイの書に書かれているように、彼らが神よりもこの世の権力に聞き従ったからだ。この世が否と言ったとき、彼らはいともやすやすとその声に聞き従い、神殿建築を中止してしまったのだった。そのとき彼らは、神に聞くこともしなかったのだろう。そして彼らは、今度は神殿ではなく、それぞれ自分たちの家を建て、そこに安らかに住み続けたのであった。しかし神は、そのような彼らに対して、預言者ハガイによって語りかけられた、「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」と。それは、神殿建築の再開を命令したものであった。
 私たちも今日の伝道において、「訪問伝道はエホバの証人だと思われるからやめよう」とか、「公園でビラを配るのは、変な人だと思われるからやめよう」とか言って、結局安穏とした生活に甘んじていることがある。しかし、そのような私たちに対して、神は語られるだろう、「今、お前たちは、私の教会がこんなに閑散としているのに、自分たちは習い事や楽しいサークル、学校、会社等に通っていてよいのか」と。それらは、実は、自分たちの楽しみや生活費のためには労力を使うが、神のためには何一つ成そうとしないことなのである。それゆえ、今日の教会は、何十年もの間、建設がストップした状態なのである。

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宣戦布告

エズラ記 第3章
 彼らは、70年ぶりに自分たちの土地に帰ってきた。しかし、そこにはすでによそ者が住み着いていた。つまり、その地にあっては、むしろ彼ら自身がよそ者になっていたのである。そこで彼らは、その地に住み着いていた民に恐れを抱きながらも、定められた場所に祭壇を築き、そこで神に焼き尽くす捧げ物を捧げた。このことが何を意味するのかをよく考える必要がある。それは、異教の神々に対する宣戦布告なのであり、それはそのまま、その地に住む異教の民に対する宣戦布告なのである。
 私たちは、この日本で伝道している。毎週の礼拝を守り、ときどき伝道集会等を行う。そしてそれは、人々に罪の赦しの福音を告げ知らせる愛の行為だと思っている。しかし、それを受け取る側から見た場合には、実は私たちはよそ者であり、私たちは、まさにこのときのイスラエルの民のように、彼らに向かって宣戦布告をしているのである。というのは、私たちの捧げる礼拝は、イスラエルの神の祭壇であり、焼き尽くす捧げ物は、私たち自身であるからである。そのように完成された祭儀により、私たちは、この地の神々とそこに住む人々を心底から怒らせているのである。
 祭壇を築き、犠牲を捧げ終わった彼らは、次に神殿の基礎を築いた。それは、まさにこの地を支配するための侵略の開始なのであり、彼らの目的は、この地から先住民を追い出し、この約束の地を独占することなのである。しかし、このとき彼らは、おそらくそのことを明確に意識してはいなかっただろう。しかし、遅かれ早かれ、そのようになるのであり、彼らの神が彼らが先住民との共存を決して許さないのである。それは、ヨシュア記における、あの最初の約束の地奪還から変わっていないのである。
 現代の教会時代を生きる私たちの状況も、またこれと変わってはいない。主イエスは、「すべての国民を弟子とし」と言われたのであり、土着の宗教との混合を決して許されないのである。つまり、私たちの目的は、すべての人を改心させて、偽物の神々を捨てさせることであり、それは、愛の行為というよりもむしろ、血みどろの戦いというべきものなのである。このことを意識せずに伝道はできない。伝道とは、侵略である。それが唯一の神を信じる私たちの唯一の方向性なのである。なぜなら、ここからそれる者は、結局は信仰からそれ、罪を憎み、全世界の人を哀れみ愛するところのキリストの愛からそれる者となるのだから。

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2009/01/06

神の民

エズラ記 第2章
 エズラ記におけるイスラエル民族のエルサレム帰還の契機は2度ある。1度目は、神殿の再建のために上って来たシェシュバツァルの一行であり、その中に指導者ゼルバベルや祭司イェシュア等がいた。そして2度目は、神殿の再建後にこの書の著者エズラの一行が上って来たときであり、このときに建物としての神殿に祭儀と律法が施行され、命が吹き込まれたのだった。
 それにしても、「10年一昔」とか「住めば都」とよく言われるが、バビロン捕囚から70年以上も経過し、もはや住み慣れてしまった土地を離れ、そこで生まれた子供たちをも引き連れて、遙かな廃れた土地へ、彼らはまたしても帰って来たのであった。ここに揚げられているおびただしい数の人また人。その光景はさながらに、家畜の大群のようであったろう。
 なぜ彼らは帰って来たのか。何もないところへ。その理由はただ一つ。彼らの神の祝福を得るためであった。その祝福とは、まず、異教の民の支配からの解放である。かつては、彼らの神が彼らを守っていてくださっていた。しかし、かつて彼らがそこから迷い出たために、神も彼らを捨てられた。しかし、いままたその力強い御腕の加護の元に戻る日がきたのである。そして次に、神の契約に与るためである。そして、そのもっとも具体的なものが、いま彼らが帰ってきたところの約束の地なのである。
 しかし、彼らがそこへ帰るということのもっとも強い理由、すなわち本当の理由はむしろ、彼らが神の民であるということである。「神の民」、それは聖なる民である。その所以は、罪を犯さないということにではなく、決して神を忘れないということにある。この大移動の機動力となった人たちは、みな実はイスラエルの神の神殿を見たことのない人たちだった。なにせ70年も経っていたのだから。そのような彼らが、ある日突然に、何かに取り付かれたように、遙かな土地に恋い焦がれて、そちらへ向かって歩き始める。そのようなことが、まともに考えられるだろうか。ああそれは、決してあり得ないことだ。もし、彼らが神の民でなかったとしたら。彼らの体の中には、神の味と言おうか、何と言ったら良いだろうか。とにかく、神の匂いというか汗というか、体液というべきだろうか、それくらい神と親密な何かが染み付いていたのである。そして、それゆえに、彼らは異境の地で、異境の文化に染まりながらも、先祖の神を決して忘れることがなかった。それゆえ、神も彼らを忘れたことがなかったのであり、70年後に彼らを異境の地から導き出し、そしてご自身の与えられた約束の地に連れ帰られるのである。
 ああしかし、私たち現代に生きる者は、どうであろうか。旧約聖書を一度も読んだことのない人が、イエス・キリストの福音を初めて行った伝道集会で受け入れる。十字架の意味も、罪の意味も、救いの必要性もそれまで聞いたことの無かった人が、天の神を仰いで、信じますと告白する。それは、いったい何であろうか。おおそれは、神が私たちの内に住まわせたご自身の霊に違いない。私たちもまた神の似姿に造られたのであり、私たちの内には、創造主なる神を慕い求める霊が住んでいるのである。その意味で、私たちもまた神の民なのであり、そのことが現代における宣教の原動力なのである。

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2009/01/03

第二の出エジプト

エズラ記 第1章
 バビロン捕囚から70年が経過したとき、神はエレミヤを通して約束されたことを成就するために、ペルシア王キュロスの心を動かされた。キュロス王は、国中に文書で布告し、主の民に属する者は誰でも、ユダのエルサレムにイスラエルの神の神殿を建設するために、上って行くことを許可した。そして、キュロスの命令により、周囲の人々は皆、あらゆる随意の捧げ者のほかに、銀と金の器、家財、家畜、高価な贈り物をもって彼らを支援した。またキュロス王は、ネブカドネツアルがエルサレムの主の神殿から出させて、自分の神々の宮に納めたすべての祭具類を取り出させ、ユダの首長シェシュバツァルに託し、シェシュバツァルは、それをエルサレムに携え上った。
 これはまるで、かつての出エジプトのときのようだ。かつてエジプトで奴隷となっていたイスラエル民族を神の人モーセが導き出したとき、エジプトの王パロは、「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい」と言って彼らを送り出した。イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。
 神の救いの業は、いつもただ神により始められる。それが始まるとき、人の側で成すことはなにもない。そこには実に、祈りさえもない。神がこの地上に、ご自身の栄光を現されるために、そのことを行われるのである。そして、何もない荒野に、純金のケルビムと契約の箱を納めた至聖所が顕現し、色鮮やかな幕屋が張られる。人には、その価値さえ分からない。ああ彼らが、その栄光の輝きの片鱗だけでも心の目で見ることができたなら、彼らは自分たちの神を偶像と取り替えたりはしなかっただろう。ああしかし、それらは、文字となって記された。それは、神ご自身である。何ゆえに。おおそれは、今日を生きる私たちのためなのである。彼らはみな死んでしまった。しかし、聖書は残った。そして、その中に神の栄光が今も輝き続けており、それは、再び燦然とこの世界に輝き出ようとしているのである。
 リバイバル、後の雨、それらは必ず来る。それが、もうすぐ来ようとしている。神は、その日のために、このエズラ記、ネヘミヤ記を記された。今これを読む者たちは、その心に一つの衝動を与えられる。そう、急ぐことを。神がご自身の神殿を再建せよと言われている。その神殿は、まず私たちの心に建てられなければならない。そこに神が住まいされ、私たちを通してこの世界に神の栄光が輝き出でる。それは、幾度となく中止させられてきたが、やがてそれが成就するときがくるのだ。

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