2005/03/17

一つの研究成果

批評:論述「離脱について」

 このドキュメントをもって、このブログにおけるエックハルト研究は一応終了する。そこで最後に、私の最大の関心事の一つであったところの「エックハルトの信仰の確信」について考察しておきたい。
 神秘思想家という論証不可能な立場に身を置きながら、彼は公然と真理を説き、その保障として自分の魂を担保に差し出す。その確信はどこから来るのだろうか。
 彼以外の大宗教家も著明な神学者も、また大教会の牧師にしても、そのようなことが可能とは思えない。しかし信仰者として生きるということはどういうことだろうか。それは自分の信仰に命を賭けるということだろう。そしてそれは、自分の魂をその担保に差し出すことにほかならないのではないだろうか。というのは、もし彼(信仰者)が見当違いをしていたら、彼は永遠に滅びるかもしれないのだから。
 それでは、エックハルトの確信はどこから来るのだろう。それはまず、彼自身の神秘体験だろう。『かつてある人は、あたかも夢の内での出来事のように−それは白日夢であったが−子供を宿した女性のように無を宿したと思った。この無の内で神が生まれたのである。それは無の果実であった。神は無の内で生まれたのである。』
 次なる源泉は、聖書の記述である。彼は聖書に徹頭徹尾忠実である。たしかに聖句の引用においては、非常に自由な装飾を加除する傾向にはあるが、その精神においては、一点の曇りもないかのようである。彼は、聖書の一点一画も解釈をおろそかにすることはない。彼の解釈は常に新しく、それまで誰も試みなかったようなものでありながら、互いに矛盾していないのである。彼は、あたかもバベルの塔においてバラバラになってしまった聖書解釈の間を満たすエーテルを持っているように見える。彼の聖書解釈には、つねに彼の全神学体系と彼の魂の運命が懸っていたのだ。
 最後に彼が抱いている神への愛である。彼のように神を愛している人を知らない。それは筋金入りでガラスのように透明な愛だ。彼の場合、彼の神学の前にまずこの神への愛があるのだ。この愛なしに彼の神学は成り立たない。彼は永遠の愛をもって、彼の魂を担保に差し出しているのである。
 しかし、以上のことから、私たちも彼の神学を全面的に信じて、彼と共に自分の魂を担保に差し出すべきであろうか。それについては、私はここであえて「否」と言っておきたい。その理由はまず、私はエックハルトではないからである。仮に神がエックハルトに「おまえの魂を差し出しなさい。」と言われたのなら、エックハルトにおいてはそれが正しい行為であることは認める。しかしその同じ神が、私に対しても同じように「おまえの魂を差し出しなさい。」と言わない限り、その行為を行うべきではないと思う。これはエックハルトの神学から帰結することだと思う。私は、ただ神との関係により、すべてを行わなければならないのである。私がエックハルトに従って成すべきことは、神が私に「これをせよ。」と言うような存在になることである。それ以外にない。エックハルトは、それを願う思いを与えてくれた。その意味で、この研究は有意義だったと思う。それが、私がこの研究により得た唯一つのすばらしいことであった。

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2005/03/15

奥義の地平

批評:神と神性とについて

 エックハルトの思想の一つの目的は、三位一体の神を突破することである。そしてその目標は、彼が「神性」と言っている神秘的な神に迫ることである。
 しかし再び彼によると、魂はこの領域に理性を持ったまま入って行くことはできない。魂がこの内に入ろうとすれば、理性的なものすべてをその外に置き去りにする必要があるのである。
 しかしここで疑問なのは、そのとき魂は何を感じ、また何を理解し、何を語ることができるのかということだ。『神性のうちにあるすべてのもの、それは一であり、一について人は語ることができないからである。』と彼自身言っている。
 ここはまことにグレイゾーンであり、諸々のキリスト教宗派の教理がその奥義へと消えていく地平でもある。カルビニズムもアルミニズムもこの領域においては見分けがつかなくなる。
つまりここは、人間の自由意志と神の主権が解け合い、一つになっているところでなのである。しかしエックハルトにあっては、ここは神と人とが解け合うところともなる。つまり「私を創造した神」と「永遠の昔から神の計画の内にあった私」とが一つになるところなのである。
 しかしここに一つの危険性が存在する。それはこのようなアプローチはキリスト教の絶対性を超越する方向に進み易いと思えるからである。その結果例えば、キリスト教と仏教が融合されるというようなことが起こり得るだろう。しかしそれは聖書の言っていることとは明らかに矛盾する。聖書と矛盾するから即間違っているとは言えないかも知れないが、それを許さないようなキリスト教宗派が少なくないことも事実である。エックハルト自身は、ギリシア哲学者のプラトンを「偉大なる師」と呼んでいる。
 しかしここで私が最も恐れるのは、エックハルトの神突破が、私たちをどのようなところへ連れて行くのかということである。まずそこには、主イエスはおられない。そこでは言わば私たち自身が主イエス(つまり神の独り子)となるのだ。また父なる神も存在しない。そこでは私たちは生まれることもなく、何かを相続することもない。また聖霊も存在しない。そこでは、私たちはもはや何かを成すということはない。すべてが予め成されてしまっているからである。
 このようなところは、福音信仰が喜びを持って思い描く天の御国とはかけ離れたものである。実はそこは「静粛な闇」なのだ。「闇」これは何を表すのか。「消滅」か「退化」か、はてまた「安息」なのか。それは誰にも分からないだろう。わたしはエックハルトにもそれは分からないだろうと思う。なぜかというと彼の言葉によると、その「闇」は、永遠に認識不可能なところであり、実に神さえもそれを完全には認識できないものなのだから。それに元々エックハルトの神は、何かを認識するような神ではない。彼にとって神は、存在を認識するというようなものではなく、存在そのもの、つまり有そのものなのだ。「私は有って有るもの」と聖書の神は言っている。そしてエックハルトのアプローチは、神に帰依する魂が有そのものである神のものと完全になることにより、自らも有そのものとなるという方向性なのだ。しかし「有」そのものとなるとは、いかなることなのか。
 自ら「有」となった魂(すなわちエックハルト)は、いったい何を認識するのだろうか。いや、彼はもはや何も認識することはない。被造物が有そのものとなること、それはすなわち自ら「無」となることを意味するのだから。この矛盾、この混乱はいったい何だろう。エックハルト自身によれば「無」となることは「永遠の旅」だ。魂は無となろうと欲するのだがそれには永遠の時間が必要なのである。つまり魂は永遠に「無」とはなれないのだ。そしてこのことは再び魂は永遠に「有」を完全に取り戻すことはできないことを意味する。
 しかし再び、エックハルトが他の説教で言っているところの『彼がかつてあったし、今もあり、そしてこれからも永遠にそうありつづけるような、永遠なる有を再び取り戻す』ということは、上のような一種不完全な状態そのもののことなのかもしれない。しかしエックハルトは明らかに無限の彼方に思いを馳せることによって、自己と神を同一視している。これは、永遠の命を与えられたものにはそれが可能なのだろう。
 これがエックハルトの神秘神学の全貌だと思う。

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2005/03/11

「聖人」の存在

批評:観想的生と活動的生とについて

 カトリックではよく「聖人」という人が出てくる。名前の前に「聖」という字を付けて「聖パウロ」のように呼ぶ。これはどういうことだろうか。プロテスタントから見ると何かこう、人を神聖化してしまっているようであまり歓迎されるものではないようだ。しかしエックハルトにおいてはやはりこれが教義の重要な一部となっている。彼にとっては、人間は神から見て、ただの救いの対象ではない。神が人間を創造したとき、この世界を共に治めるための同労者として造られたのではなかったか。もしそうなら、キリストにより罪を除かれ、永遠の命に再生させられた人間は、神の同労者ではないか。そして、神の同労者は聖なる者ではないのか。これが彼の理論なのだろう。
 この説教に登場するマルタは、聖人とは呼ばれていないまでも、エックハルトにより、『しかしマルタの方はすでに完全に本質的な在り方に立っていた。』と言われている。プロテスタントの中にも、マリアよりマルタの方が優れていると見る人がいるようだが、エックハルトもマルタの徳を称えるのである。
 それでは、エックハルトが語る「聖人」とは、どんな人なのだろうか。『あなたがたは、自分が言葉によって喜びや悲しみへとゆり動かされるかぎり、まだ完全ではないと思っているのではないだろうか。けっしてそんなことはない。キリストでさえそのようないみの完全さは持ち合わせなかった。』と彼は言っている。キリストは、聖者であったが、喜んだり、悲しんだり、苦しんだりされた。このように喜怒哀楽があるのが聖者なのである。『しかし聖者であれば、何ものも彼を神からひき離すことはできないということだけはいえるのである。』
 この聖者と凡人の違いはどこからくるのであろうか。それはこの説教を読むかぎり、人生を生きる中で獲得するしかない。『生きることは最も高貴な認識を贈ってくれるのである。生きるということは歓喜や光よりもよりよく認識するものである。生きるということは、この身体で経験できるすべてのもの、ただし神は除くが、そのすべてを真に与えてくれるのである。』、『わたしたちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためだからである。』ここから信仰にも「修行」ということが想定されうるのだろうか。
 エックハルトの思想は、実に私たちの考えを超えている。それは、神秘主義的でありながら実践的である。けっして雲の上や実験室の中の物語ではない。この世界を生きるための実践神学なのだ。
 『わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン』

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2005/03/03

一個の魂のための真理

批評:像を介さぬ認識について

 エックハルトが語る神と魂の関係において、魂はある意味で徹底的に自虐的に見える。魂は神の前で殆ど常に消滅寸前の状態である。
 それはエックハルトによる、神の偉大さの究極的な表現でもあり得るだろう。しかし彼の表現は、捉えようによっては、それを神が消滅寸前と捉えてしまう人があるかも知れない。これはまことにグレイゾーンであり、どちらがどちらを飲み込んでいるのか良く分からない面が多分にある。それはむしろ、「同化」と言った方が良いようにも思える。しかしそれはそうではない。実は魂も神もいつまでも最初の状態のままなのだ。その個別性を保ったまま、魂は神の前に無一物になろうと欲しているかのようである。そして、それは一つの美学のように美しい。
 しかしいったいどれほどの魂がそのことを欲するだろうか。私の願いとしては、神を知ったすべての魂がこのことを望むことであるが。エックハルトはどうもそれを想定していないように思える。それではいったいどのくらいだろうか。1パーセント?、いやもっと少ないかもしれない。でもそれではいったい何のための真理なのか。
 エックハルトの語る真理は、究極的には、ただ一個の魂のための真理である。彼がある特定の魂について語っているとき、他の魂についてはどうでも良いのだ。彼の語る真理とはそういうものだ。そのようにして初めて彼は真理を語ることができるのである。それが神秘主義というものなのだろう。

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最良の闇

批評:三つの闇について
 この「三つの闇」とは、聖アウグスティヌスの語った三つの認識に対応している。それらは、第一に「身体と結びついたもの、第二に「精神的であるがなお肉体と結びついたもの」、第三に「精神的でかつ内的なもの」であり、この順により高いものと位置づけられている。そしてそれらはまた同時に、魂の三つの働きにも対応しているのである。
 魂はこれらの三つの領域に渡って認識を働かせる。そしてそれらの認識のうちでもっとも高いのは、第三のものであり、それは「像も写しもない認識」なのである。
 それでは、これらに対して「三つの闇」とはいかなるものか。それらは、第一に「地上的な光を失うこと」、第二に「神の光により盲目とされること」、第三に「神の光さえも失うこと」である。この「神の光を失う」とはどういうことなのか。実は「神の光」とは「神から私たちへの光」であり、それは実はそれ自体は「地上的なもの」なのである。そしてその「神から私たちへの光を失う」とは、その人が「神の内へ入ること」を意味するのである。
 『もし魂が一切の像を越え出るならば、魂は、神の子であるかの像の内に刻印されるのだ』とエックハルトは語る。この「刻印される」とはどのようなことであろうか。彼によると、魂が神の子であるこの「像」の内へと「刻印」される前に、まず「変容し」、「移され」なければならない。どこへであろうか。たぶん神の内にだろう。それではなぜ「刻印」される必要があるのだろうか。この「刻印」とは、「その一部となる」というほどの意味だと思う。『神は高みにおいて、みずからを魂の内へと「像」もなく、写しもなしに与えるのである。』
 魂自体、神の「像」である神の子にかたどってつくられた。しかし「かの高み」においては、神は自らを像も写しもなしに掲示し給う。つまり神は、その高みにおいては、御子なしにご自身を魂に掲示されるとエックハルトは言っているのである。そしてそのことは、魂自身が神の「像」となることを意味する。しかし御子は御子のままである。これが「刻印」という意味であろう。
 そしてそのとき魂に、「最良の闇」がもたらされる。これは、上で触れた第三の闇である。そのとき、魂はもはやいかなる光も目にしない。どのような光もそこにはないのである。というのは、そのときには、魂自身が父なる神そして御子と共に光を放つ存在となるのだから。
 『つまり、わたしは神の内にある小さきものから大きなものに至るまでの何もかもすべてを神の独り子の内で認識しなければならないのである』
 それにしてもエックハルトは、どの説教の中でも、決して伝統的な福音を語ることをしていない。それはなぜなのか。福音はすでにクリスチャンになった者には不用だというのか。これに対してプロテスタント教会においては、絶えず繰り返し福音が語られる。このギャップはなんだろうか。福音信仰にどこか問題があるのだろうか。そうとも言えないと思うのだが。つまり、福音の中にもクリスチャンが日々思いだして献身を新たにするのに必要な要素があるようにも思えるのだが。

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2005/03/01

たいへんに難しい問題

批評:無である神について

 エックハルトの神学は、まるで知性の中の迷路のように思える。
 『知性は周囲をめぐり、そして捜す。知性はあちらこちらと偵察しつかんだり、失ったりする。捜し求めるこの知性の上には、さらにひとつの別な知性がある。この知性はそこではもう捜し求めることもなく、かの光の内に包み込まれた、その純粋で単一な有の内に立つのである。』
 ここで問題なのは、捜し求める知性は、どのようにして、そしていつになったら「かの光の内」に入るのかということである。
 『これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛躍し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと飛躍しないかぎりは、天使といえどもこの思惟に関して何も知ることはない。』
 これらのことは「たいへんにむずかしい問題」であるとともにどう難しいのかということすら理解できない。つまり問題解決の方法論が確立していないのだ。エックハルトの思想が神学と言えないような印象を与えるのも無理からぬことだろう。そのようなアプローチ困難な部分が随所にあるのだから。
 これらが神秘主義的なエックハルトの神学の難点というか課題であろう。たぶんそれを探求する者は、私のように文字通り「あちこち探し回る」以外にはない。この世界には定石というものがないのである。エックハルトが意地悪をしているのではない。たぶん、たとえそこに一つの道を見つけ得たとしても、次にそこを通れるという保証はまったくないのだ。
 彼はその世界を次のように描写している。「それはどんなものとも似ていない。」どんなものとも似ていないとは、形すなわち概念がないものということであろう。それはたぶんもともと自分自身にも似ていないのだ。
 それゆえそこには、究極的には、いかなる方法論も存在しないということになるのだろう。

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2005/02/28

神の起源

批評:三つの内なる貧しさについて

 この説教で注目されるのは、エックハルトが神の起源にまで言及していることである。
 彼は大胆にも語る。『ここにおいて、わたしは神とすべてのものとにとらわれることなくあったのだった。しかしわたしが自由な意志決定により外へ歩み出て、わたしの被造的有を受けいれたとき、わたしはそこでひとりの神を持ったのである。なぜならば、被造物が存在する以前には、神はまだ「神」ではなく、むしろ神は、神があったところのもの、であったからである。被造物が生じ、その被造的有を受けいれたときに、神は、神自身においてではなく、被造物において、神となったのである。』
 彼の言う「神」という概念は、私たちが持っているものとかなり異なっていると見ることができないだろうか。彼には少なくとも、「神」と「神性」というまったく異なる二つの概念があるのである。しかし私たちは、そもそも神について客観的に考えることすらしないのではないか。これは、ユダヤ教の伝統でもあり、神について考察することは大いなる罪であり、彼らは「神」という言葉を口にすることさえしなかった。そして今日旧約聖書を学ぶ我々もそのような考えを多少は受け継いでいると思われる。
 しかしエックハルトは、このタブーを完全に打ち破ってしまった。彼は多分、聖ヨハネが言うところの「父の元におられた父の一人子なる神が、神を解き明かされた」ことを特別な意味に捉えるのだろう。そして主イエス・キリスト以後は、この制限がなくなったと考えるのだろう。
 それではエックハルトは、なぜあえて危険を犯してまで執拗に「神」について考え続けるのだろうか。それは一言で言えば「神」から解放されるためである。言い換えれば、人間が持っている不完全な神概念から解放されることである。そもそも人が神のことを考えないということが可能だろうか。ユダヤ人が「神」の名を口にしないとしてもそれで本当に神のことを考えないことになるのか。たぶんそれは不可能だろう。彼らには、律法と祭儀があり、それらが彼らに否応なしに神のことを考えさせたに違いない。しかしそれは見当違いの神概念であった。そして、主イエスが子なる神としてこの地上に来られて、本当の神を解き明かされたのであった。
 しかしエックハルトの神概念は非常に突飛であり、とてもついて行けるようなものではないように思える。彼にとって神とは、礼拝の対象ではなく「突破」すべきものなのである。彼は神の意志を突破し、神の業を突破し、神の存在を突破する。そして自ら神になろうとさえするのだ。
 『この突破に置いて、わたしは、すべての天使を越えた彼方へとわたしを連れてゆくひとつの飛翔を受け取る。この飛翔の内で、わたしは、神が「神」としてあるすべて、神的なわざのすべてをもってしてもわたしを満足させることができないほどの大きな豊かさを受け取るのである。なぜならば、この突破においては、わたしと神とが一であるということがわたしに与えられるからである。そこではわたしは、わたしがあったところのものであり、増えることもなくへることもない。なぜならば、そこではわたしは、一切の事物を動かす、不動の原因だからである。』
 エックハルトが目指す「神のように成ること」は、かつて悪魔が試みたような非道なことではないように思えるのだが、問題は、彼の言うようにすべてを捨て去った人が、その状態の中で彼の言うような喜びを感じることができるかということである。

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2005/02/24

ニューエイジ的な虚無

批評:魂の内にある火花について

 私が洗礼を受けたのは、改革長老主義のプロテスタント教会であった。この系統の派を、いわゆるリベラル派(自由主義神学)に含める人もいるようだ。しかし、同じ教会の姉妹が私をカリスマ派の集会につれていってくれた。それ以来、私と妻はどちらかというと聖霊派、カリスマ派的な信仰になってしまった。そのようにリベラル派といっても信徒がみな筋金入りのリベラル信仰というわけでは決してない。中には様々な信仰が入り交じって生きているものだ。教派や教団とはそのようなものだ。そこで私のようにエックハルトを研究してみようという変わり者が現れてくることにもなる。
 しかし、エックハルトを研究するのは、かなり危険なことと感じている。というのは、彼はその危険な思想に彼の魂を売り渡しているのだから。そこで、彼の思想を信じる者も、そうなる危険性を持っていると言えるだろう。
 私がカリスマ信仰に入ってから、幾度と無く病気の癒しや超自然的な体験をした。しかし、エックハルトを研究するようになってから、それが非常に弱まるのを感じている。それは無理もないだろう。エックハルトの神学は、すべを捨てることを要求するのだから。ちょうどダンテが書いたように、「ここに入る者は皆、すべての望みを捨てよ」と言っているかのようだ。しかし彼がそれを勧めるのは、彼の神学によると、また大いなる命へ入るためでもある。ここらへんがどうもグレイゾーンであり、気をつけて進まないとミイラ取りがミイラになる可能性がある。ちょうどこのブログサイトのように、研究と批評が表裏一体で進む必要がある。
 それにしても、エックハルトに漂っている独特の虚無感は、いったいなんだろう。それは、本当にかすかなもので、ほとんど感じられない程度なのだが。ちょうどビートルズのレットイットビーのように、純情でいて実はその深みは恐ろしいニューエイジのようにも思える。

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2005/02/22

冒涜の可能性

批評:神が魂の内に子を生むということについて

 私がエックハルトを読むにつれ、確信してきたことは、彼の新しく奇抜な神学は、伝統的で正当的な神学の上に初めて成り立つものに違いないということだ。しかし人がもし、伝統的な信仰なしに彼の神学のみを研究し、それを実践するようなことがあるなら、彼はきわめて危険な状態の中に身を置くことになるかもしれない。
 もっともエックハルトの言うことは、伝統的な信仰の背景なしには、決して理解できないだろうということも言える。しかし、もし誰かが単に興味本意や、知識を振りかざすこと等を目的にエックハルトの思想を吹聴するようなことがあれば、それはその人とその人の言葉を聞く人の両方にとって、きわめて危険なことになるだろう。エックハルトがその生涯の最後には異端として扱われてしまったのもそのような理由によるところがあるのかもしれない。
 というのは、神に対して親密であることは、また冒涜の可能性をも包含するからである。エックハルトの良いところは、いわばあらゆる信仰上の社交辞令なしに、神に親密に近づくことを聖書にできるだけ忠実に追求していることだと思うが、それはまた神を冒涜してしまう可能性をも含むことになる。神にいくら近づいたとしても、冒涜の可能性は決してなくならないのだ。
 かつてキルケゴールは、福音の中に包含される「躓きの可能性とその意義」について論証したが、エックハルトは今、神との親密さの中に包含される冒涜の可能性について提示しているように思える。
 しかし不可解なのは、彼の次のような言葉である。『神自身をものともせず、天使をものともせず、魂も一切の被造物もものともせずわたしは断言する。』
 このような一見神を冒涜するような言葉の意図は何であろうか。それは、神との親密性を聖書的に追求した彼の神学の究極を表現していると言えるかもしれないが、どうも品位が欠けているようにも思える。
 それにしても、彼はこのような表現をすることの危険性に対して、彼の魂を担保に差し出しているというのだから、そのような冒涜的な表現にもなにがしかの真理があるのだとも思われるのだが。

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2005/02/17

エックハルトの宇宙観

批評:神の言について

 この説教には、エックハルトの宇宙観が良く提示されている。その中心的なものと思われるのが「流出」という概念である。これは、エックハルト自身も「不思議なもの」と形容しているように、彼独特の奇妙な宇宙観である。
 それによると、私たちを含め、すべての被造物は神から流出しながら、神の内部に今もなお留まり続けている。この神から流出するものに大きく二種類ある。一方は物質的なものであり、永遠の昔から神の内に存在していた形に型どって創造されたのである。そしてもう一方は知性的(精神的、霊的)なものである。知性的なものは、さらに神について述語されるものに型どって創造されたものと、そもそも神自身に型どって創造されたものとに分けられ、魂はこのうち後者のように神自身に型どって創造されたのである。魂はまた同時に神の業でもあり、そのために神にきわめて近い被造物であり得る。しかしいくら神に近いと言っても、そこには造ったものと造られたものという歴然とした違いがあり、それがさらに魂が神の業であるということにより、かえって決定的な違いとなるように思われる。
 これに対して御子キリストは、父なる神が生んだのであり、その際に、父から流れ出た、魂を含むすべての被造物は御子に与えられる。そしてこの授けの中で、御子から聖霊が流れ出るのである。この流れ出るという動きにおいては、聖霊は被造物のようでもあるが、肝心なのは流れ出るというあり方ではなく、被造物はそのように神が造ったものであり、聖霊は永遠の昔からそのような姿で存在していたのであり、聖霊もまた神そのものなのである。
 また我々は、神の形に造られたと言うことから神に瓜二つの存在であるが、神から生まれたのではなく、創造されたのである。この被造物としての魂が、あたかも神から生まれたに等しい存在となる方法がある。それは、神が魂の内に御子を生むという方法なのである。このとき魂は、御子としての性質だけでなく、父としての性質をも受け取ることになる。というのは、そのとき魂は父なる神自身をも生む存在となるからである。しかしこれは、魂が神の像に等しいような場においてなされるのであり、それはまた同時に神の内部でもあるのである。
 このような宇宙観を理解するためには、我々の持っている「等しい」とか「生む」とかの概念は根本からの修正を迫られざるを得ない。まずもって認識すべきと思われることは、パウロが言っているように「我々もまた神の内で生きそして活動している」ことであろう。そこで問題は、そのようなある意味で完全な状態のどこに反逆というものが潜んでいるのかということである。エックハルトを読む限り、反逆の入り込む余地はないように思える。しかし現実には罪がこの世を支配し、多くの人がその奴隷になっているのをみる。ところがエックハルトはそれを十分に説明していないように思える。彼が言っているのは、被造物が時間に触れていることにより、永遠からの脱落が始まるのである。これがエックハルトにおける罪の説明と言えるかもしれない。しかしそれでは、時間が悪いものなのだろうか。エックハルトは確かに「時が満ちる」との表現により、時間から解放されることを強く勧める。しかしこの方法は、あまりに非福音的ではないだろうか。しかしそこにもやはりキリスト論の入り込む余地はある。彼によると時間から解放されることと魂の中に御子が誕生することとは同じなのだから。『時が満ちたとき御子が遣わされたのである。』
 この「御子の誕生」が伝道によりもたらされると言えないこともないが、この場合伝道は必要条件ではあっても十分条件ではない。どうもこのあたりに何か重大な問題が潜んでいるようにも思われるのだが。

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